1300–1400
黒死病と14世紀の危機
疫病、百年戦争、元朝崩壊、社会再編
14世紀はしばしば「危機の世紀」と呼ばれます。ヨーロッパでは1315年以後の大飢饉、1337年からの百年戦争、1347年以後の黒死病が重なり、人口・農業・労働・王権・宗教制度に大きな変化が起きました。しかし世界史として見るなら、「14世紀の危機」をヨーロッパだけに限定することはできません。
中央ユーラシアでは13世紀に巨大化したモンゴル帝国が複数のハン国へ分裂し、イルハン朝は1330年代に解体へ向かいました。中国では元朝が洪水、飢饉、財政問題、反乱に直面し、1368年に朱元璋が明朝を成立させました。朝鮮半島でも元朝の後退が高麗政治を揺らし、1392年に朝鮮王朝が成立します。日本では1333年に鎌倉幕府が崩壊し、南北朝の内乱を経て足利政権が定着しました。
西アジアではマムルーク朝がエジプト・シリアを支配し、アナトリアではオスマン勢力が小規模な辺境君侯国からバルカンへ進出する政治勢力へ成長しました。中央アジアでは1370年にティムールがサマルカンドを中心に権力を握り、イラン、イラク、コーカサス、南アジアへ征服を広げました。
南アジアではデリー・スルタン朝のトゥグルク朝が北インドを支配する一方、1336年頃には南部でヴィジャヤナガル王国が成立し、1347年にはデカンでバフマニー朝が成立しました。東南アジアではマジャパヒトがジャワを中心に繁栄し、1351年にアユタヤ、1353年にラーンサーン王国が成立しました。
アフリカではマリ帝国がマンサ・ムーサの時代にサハラ交易とイスラーム世界の双方で強い存在感を示しました。1324年のメッカ巡礼はカイロの金市場に影響を与えたと伝えられ、その富は1375年のカタルーニャ地図にも描かれました。南部アフリカではGreat Zimbabweが14世紀に最盛期を迎え、金と象牙をインド洋交易へつなぐ内陸の政治・経済中心となりました。
アメリカ大陸でも大きな変化が起きていました。1325年頃、メシカ人はメキシコ盆地の湖上にテノチティトランを築きました。この段階ではまだ後世のアステカ帝国ではなく、強国アスカポツァルコに従属する一都市国家でした。アンデス北海岸ではチムー王国がチャン・チャンを中心に拡大し、灌漑農業、工芸生産、海上資源を組織していました。
そしてこの一世紀を世界規模で結びつける最も重大な出来事が黒死病です。2022年に発表された古代DNA研究は、現在のキルギス・イシク湖周辺で1338–39年に起きた「疫病」による死者からYersinia pestisを検出し、その菌株が黒死病期に拡大した大きな系統分岐の基部に位置することを示しました。研究者は中央アジアを黒死病系統の起源地域として強く支持しています。
ただし「モンゴル軍が中国からペストをヨーロッパへ運んだ」と一本道で説明することは、現在の証拠からはできません。13世紀のモンゴル征服時に中東へペストが拡散したという説には再検討があり、1258年バグダード征服時の史料がペスト流行を裏づけるとは限らないことも指摘されています。確実なのは、14世紀半ばまでに中央ユーラシア、黒海、地中海を結ぶ人・物の移動網が存在し、1347年には黒海方面から地中海港湾へペストが到達し、その後ヨーロッパ、中東、北アフリカへ急速に拡大したことです。
黒死病は人々を同じように襲ったわけでも、その後の社会を同じ方向へ変えたわけでもありません。人口減少によって労働力の希少性が高まり、賃金・移動・土地利用が変化した地域がある一方、支配層が労働規制を強化する地域もありました。イングランドでは賃金抑制政策や戦費調達の人頭税への不満が1381年の大反乱の背景となりました。エジプトでは農村人口減少が灌漑維持と農業生産を長期的に弱めたとする研究があります。
したがって14世紀を「中世の終わり」と一言でまとめるのも適切ではありません。ある制度が崩壊する一方で、明朝、朝鮮王朝、オスマン国家、ティムール政権、ヴィジャヤナガル、アユタヤ、マリ、Great Zimbabwe、メシカのテノチティトランなど、次世紀を形づくる政治・都市秩序が同時に形成されていました。危機と形成は同時に進んでいました。
CONTENTS
- 14世紀を「危機の世紀」と呼べるか
- 気候変動と食料供給
- 1315–1322年 ヨーロッパ大飢饉
- 1309年 アヴィニョン教皇庁
- 百年戦争の開始
- 1346年 クレシーの戦い
- 1356年 ポワティエの戦い
- 長期戦争と社会
- 黒死病の起源をどう考えるか
- 1338–1339年 イシク湖周辺
- 黒海から地中海へ
- 1347–1353年 黒死病
- 人口減少の規模
- 中東・北アフリカの黒死病
- 労働力不足と社会変化
- イングランドの労働規制
- 1381年 イングランド農民反乱
- 疫病とユダヤ人迫害
- 1378年 教会大分裂
- イタリア都市社会
- イルハン朝の解体
- ジョチ・ウルスの変化
- 1370年 ティムールの台頭
- ティムールの征服
- サマルカンドと強制移住
- オスマン勢力の成長
- 1326年 ブルサ
- バルカンへの進出
- 1389年 コソヴォの戦い
- マムルーク朝エジプト
- 元朝の危機
- 1351年 紅巾の乱
- 朱元璋の台頭
- 1368年 明朝成立
- 元の遺産と明
- 高麗末期
- 1392年 朝鮮王朝成立
- 日本 — 鎌倉幕府の終焉
- 1333年 建武の新政
- 南北朝の内乱
- 足利政権
- 1392年 南北朝合一
- デリー・スルタン朝とトゥグルク朝
- ダウラターバード遷都政策
- 1336年頃 ヴィジャヤナガル
- 1347年 バフマニー朝
- イブン・バットゥータ
- マジャパヒト
- 1351年 アユタヤ
- 1353年 ラーンサーン
- アンコールの変化
- マリ帝国
- 1324年 マンサ・ムーサの巡礼
- ティンブクトゥ
- キルワとスワヒリ海岸
- エチオピアとソロモン朝
- Great Zimbabweの最盛期
- アフリカ内陸とインド洋
- 1325年頃 テノチティトラン
- メキシコ盆地の都市国家
- チムー王国
- インカ帝国拡大の前夜
- 危機と接続は矛盾しない
- 1300–1400年に何が変わったのか
- 1300–1400年の主な出来事
- 次の時代へ — 海域世界と15世紀の再編
- 参考資料・出典
14世紀を「危機の世紀」と呼べるか
ヨーロッパ史では14世紀を、人口増加が止まり、飢饉、疫病、戦争、教会分裂が続いた「危機」の時代として説明することがあります。
この見方には十分な根拠があります。1315年以後の凶作、1347年以後の黒死病、英仏戦争、農村反乱などが数十年間に集中したからです。
ただし世界全体では、同じ世紀に新しい王朝と都市も数多く成立しました。「危機」は衰退だけではなく、人口・土地・権力・交易の再配置を生んだ過程として見る必要があります。
気候変動と食料供給
13世紀末から14世紀にかけて、北半球の各地では気候条件の変動が目立つようになりました。北西ヨーロッパでは1310年代に低温と多雨が重なり、穀物収量を大きく落としました。中国でも元代には寒冷年や洪水・旱魃・飢饉の記録が繰り返し現れます。ただし、後世「小氷期」と総称される長期的な寒冷傾向には地域差があり、1300年に世界全体で一斉に気候が切り替わったわけではありません。
したがって「小氷期が始まったから14世紀の危機が起きた」という単一因果では説明できません。気象の衝撃がどれほど深刻な飢饉になるかは、人口密度、土地利用、穀物備蓄、輸送、市場、徴税、戦争、家畜病、社会的格差などによって変わりました。自然現象そのものと、社会がそれを災害として経験する仕組みを分けて考える必要があります。
近年のケンブリッジ大学系の研究でも、1315–17年の大飢饉は豪雨による短期的な気候ショックだけでなく、人口圧力と制度・社会条件が重なった危機として論じられています。14世紀初頭は、環境変動が既存の社会的脆弱性を増幅した時期でした。
1315–1322年 ヨーロッパ大飢饉
1315年から北ヨーロッパでは連続的な豪雨と低温によって穀物収穫が悪化しました。1316年にも不作が続き、食料価格上昇と家畜問題が重なりました。
イングランドでは1319年以後に大規模な牛疫も発生し、食肉・乳製品だけでなく農耕の牽引力と肥料供給にも影響しました。
ケンブリッジ大学の研究では、1315–22年の飢饉がイングランド人口のおよそ1割前後、研究によってはそれ以上の死亡と関係した可能性が示されています。ただし地域差が大きく、単一の死亡率をヨーロッパ全域へ適用することはできません。
1309年 アヴィニョン教皇庁
1309年、教皇クレメンス5世は教皇庁をローマではなくアヴィニョンへ置きました。その後1377年まで教皇たちは主としてアヴィニョンに居住しました。
背景にはイタリアの政治的不安定、教皇庁とフランス王権の関係などがありました。アヴィニョンは教皇行政、金融、外交、芸術の国際都市へ成長しました。
一方、教皇が長期間ローマを離れたことは教会権威をめぐる批判を強め、後の教会大分裂へつながる制度的不安定の一要素となりました。
百年戦争の開始
1328年、フランス王シャルル4世が男子後継者を残さず死去すると、ヴァロワ家のフィリップ6世が王位を継承しました。イングランド王エドワード3世も母方を通じてフランス王家の血統を持ち、王位請求を主張しました。
1337年頃から両王国の対立は大規模な軍事紛争へ発展しました。後世「百年戦争」と呼ばれますが、1337年から1453年まで一貫して戦闘が続いたわけではなく、休戦・和平と再開を繰り返す一連の戦争でした。
王位継承だけでなく、イングランド王がフランス国内に持つ領地、フランドルの毛織物経済、海上交通など複数の利害が絡んでいました。
1346年 クレシーの戦い
1346年8月26日、エドワード3世軍は北フランスのクレシーでフィリップ6世軍を破りました。
Royal Armouriesはこの戦いを百年戦争最初の主要な陸戦の一つとし、英軍・ウェールズ軍の長弓兵がフランス側の騎兵とジェノヴァ人弩兵に大きな損害を与えたと説明しています。
ただし「長弓が騎士を時代遅れにした」という単純な技術決定論ではありません。地形、防御陣形、指揮統制、戦場到着の混乱など複数条件が結果に影響しました。
1356年 ポワティエの戦い
1356年9月19日、黒太子エドワード率いる英軍はポワティエ近郊でフランス王ジャン2世軍を破り、ジャン2世自身を捕虜にしました。
国王捕虜はフランス政治と財政に大きな衝撃を与えました。身代金、統治、戦費負担が社会へ波及しました。
1360年のブレティニー条約でエドワード3世はフランス南西部など広い領地を獲得しましたが、戦争は後に再開します。
長期戦争と社会
百年戦争の影響は会戦だけではありません。略奪遠征、包囲、傭兵団、税負担が農村・都市を継続的に圧迫しました。
休戦期には雇用を失った武装集団が各地を略奪することもありました。戦争は王国間外交だけでなく、徴税、貨幣、兵士雇用、地方自治、農業生産を変化させました。
黒死病による人口減少と戦争による財政需要が重なったことで、14世紀後半の西ヨーロッパでは労働と課税をめぐる社会対立が強まります。
黒死病の起源をどう考えるか
黒死病を引き起こした病原体がペスト菌Yersinia pestisであることは、古代DNA研究によって強く確認されています。
長年、その14世紀パンデミック系統がどこで生まれたかは議論され、中国、中央アジア、黒海周辺など複数説がありました。
2022年にNatureへ発表された研究は、現在のキルギスにあるイシク湖付近の墓地から1338年に死亡した人々のペスト菌DNAを復元し、黒死病期に大きく分岐した菌系統の祖先に非常に近い位置へ置きました。現時点では中央アジア起源を強く支持する重要な証拠です。
1338–1339年 イシク湖周辺
イシク湖近くのカラ・ジガチなどの墓地では、1338–39年の墓碑に「疫病」による死亡を示す記録が集中していました。
研究チームは複数遺体からYersinia pestis DNAを検出しました。さらに現代の天山山脈周辺に存在するペスト菌自然宿主集団との系統関係も、地域的起源を支持しました。
ただし、この発見だけで1338年から1347年までの具体的な移動経路がすべて判明したわけではありません。
黒海から地中海へ
1340年代半ば、黒海北岸と地中海を結ぶ交易路にペストが現れました。
従来、1346年のカッファ包囲でモンゴル軍が感染死体を城内へ投げ込んだことがヨーロッパ流行の直接原因だったという物語が広く語られてきました。しかしその具体的経路や唯一性には議論があります。
現在確実に言えるのは、黒海方面から船舶交易を通じて1347年に地中海諸港へ感染が到達し、その後急速に広がったことです。交易網が感染症拡大の経路になりました。
1347–1353年 黒死病
1347年にはシチリア、マルセイユ、アレクサンドリアなどへ流行が到達し、1348年にはイタリア、フランス、イングランド、エジプト、シリアなど広範な地域へ拡大しました。
1350年頃までに北欧・東欧にも到達し、地域によっては1352–53年まで大流行が続きました。
ペストはその後消えず、ヨーロッパ・中東などで数世紀にわたり再流行を繰り返します。この1340年代の第一波は「第二次ペスト・パンデミック」の開始と位置づけられています。
一方で、14世紀半ばの同じパンデミックが南アジア、島嶼部東南アジア、サハラ以南アフリカにヨーロッパやエジプトと同じ規模で到達したと断定できる史料はありません。広域交易が存在したことと、すべての地域が同じ感染史を共有したことは別問題です。世界史として黒死病を扱う際には、感染が確認・強く推定できる地域と、証拠が乏しい地域を区別する必要があります。
人口減少の規模
中世人口を正確に数える統計は存在しないため、黒死病による死亡率には幅があります。
ケンブリッジ大学の研究では1348–49年のケンブリッジで人口の40~60%が死亡した可能性が示されています。別の研究ではイギリス全体でも約半数が死亡したと推定されています。
ヨーロッパ全域の数字を一つに固定するより、地域によって3分の1、半数、場合によってはそれ以上という非常に大きな人口減少が起きたと理解する方が適切です。
中東・北アフリカの黒死病
黒死病はヨーロッパだけの災害ではありません。1347–48年にはアレクサンドリア、カイロ、ダマスカス、チュニスなどにも広がりました。
マムルーク朝エジプトでは同時代・後世の年代記が大量死を記録しています。具体的な日別死者数は年代記的誇張を含む可能性があるため慎重に扱う必要がありますが、農村人口の減少と灌漑網維持の困難が長期的な農業問題へつながったという研究があります。
1348–49年にはメッカにも流行が到達した記録があります。巡礼、商業、海上交通が宗教圏を越えて疫病を運ぶ経路にもなりました。
労働力不足と社会変化
大規模人口減少後、多くの地域で耕作者・職人・奉公人が不足しました。
土地所有者にとっては従来の賃金と地代を維持することが難しくなり、生存した労働者にはより良い賃金・土地条件を交渉できる場合が生まれました。
ただし結果は地域によって異なります。農民の自由が拡大した地域もあれば、領主や国家が移動制限・賃金規制を強めた地域もありました。
イングランドの労働規制
イングランド王権は黒死病後の賃金上昇を抑えるため、1349年の労働者条例と1351年の労働者法などを導入しました。
労働者にペスト以前の水準に近い賃金で働くことを求め、雇用契約を拒否したりより高い賃金を要求したりする行為を制限しようとしました。
法律が完全に賃金上昇を止めたわけではありません。むしろ国家が人口減少による労働市場の変化をどれほど重大視したかを示します。
1381年 イングランド農民反乱
1370年代末からイングランド政府は百年戦争費用を賄うため複数回の人頭税を課しました。
国立公文書館によれば、1381年の徴税強化が大きな反発を引き起こしました。ただし原因は税だけではありません。黒死病後の労働規制、領主負担、地方官僚への不満などが重なっていました。
ケント、エセックスなどから反乱者がロンドンへ進み、ワット・タイラーや説教者ジョン・ボールが著名な指導者となりました。農民だけでなく職人、都市住民、元兵士なども参加しました。リチャード2世政府は一時要求を受け入れる姿勢を示しましたが、タイラー殺害後に反乱を鎮圧し、約束された特許状を撤回しました。
疫病とユダヤ人迫害
黒死病期にはヨーロッパ各地でユダヤ人が井戸へ毒を入れたという根拠のない噂が広がり、共同体への迫害・殺害・追放が起こりました。
感染症の原因が理解されていなかった社会で、既存の宗教的偏見、債務関係、社会的不安が少数派への暴力へ転化しました。
疫病史を病原体だけの歴史として扱うと、恐怖がどのように社会的排除や集団暴力へ結びついたかを見落とします。
1378年 教会大分裂
1377年に教皇グレゴリウス11世は教皇庁をアヴィニョンからローマへ戻しましたが、翌年死去しました。
1378年、ウルバヌス6世がローマで選出された後、反対派枢機卿は選挙の正当性を否定し、クレメンス7世を別の教皇として選びました。ローマとアヴィニョンに競合する教皇が存在する「教会大分裂」が始まりました。
各王国も政治関係に応じて支持教皇を選び、西方教会の普遍的権威は大きく傷つきました。分裂が解決するのは15世紀のコンスタンツ公会議です。
イタリア都市社会
14世紀のイタリア半島には統一国家はなく、フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ミラノ、教皇領、ナポリ王国などが競合していました。
銀行、毛織物、地中海交易によって大きな富を蓄積した都市がある一方、黒死病と政治抗争の被害も受けました。
フィレンツェでは1378年に下層毛織物労働者を中心とするチョンピの反乱が起きました。14世紀後半の都市社会では商業繁栄と社会格差が同時に存在していました。
イルハン朝の解体
イラン・イラクを支配したイルハン朝は、ガザン以後イスラーム王朝として統治していました。
1335年にアブー・サイードが後継者を残さず死去すると、王族・軍人・地方勢力が争い、統一政権は急速に解体しました。
その後イラン・イラクではジャライル朝、ムザッファル朝など複数政権が並立します。モンゴル帝国の政治的統一が後退しても、元代に形成された工芸・写本・交易上の東西交流は継続しました。
ジョチ・ウルスの変化
ルーシと黒海北方の草原を支配したジョチ・ウルスは14世紀前半、ウズベク・ハンの時代に強い政治力を持ちました。
イスラームが支配層の宗教として定着し、ヴォルガ下流の都市や黒海交易は繁栄しました。ジェノヴァなどイタリア商人も黒海港湾で活動しました。
しかし14世紀後半には王位継承争いが激化し、ルーシ諸侯との関係も変化します。1380年にはモスクワ大公ドミトリー率いる軍がクリコヴォでママイ軍を破りましたが、ジョチ・ウルス支配が直ちに終わったわけではありません。
1370年 ティムールの台頭
中央アジアではチャガタイ・ウルスの政治分裂の中からティムールが台頭しました。
1370年、ティムールはトランスオクシアナの支配者となり、サマルカンドを首都としました。チンギス・ハンの男系子孫ではなかったため、チンギス家の王族を名目的ハーンとして立て、自身は軍事的実権を握りました。
彼の政治秩序はモンゴル帝国の伝統と、中央アジアのテュルク・ペルシア文化を組み合わせたものでした。
ティムールの征服
1380年代以後、ティムールはホラーサーン、イラン、コーカサス、イラクへ遠征し、ジョチ・ウルスとも戦いました。
1398年には北インドへ侵攻してデリーを占領・略奪しました。1400年以後のシリア、アナトリア遠征は次の記事の年代にもまたがります。
メトロポリタン美術館は、1370年から約35年間でティムールが中央アジア、イラン、イラク、南ロシア、インドの一部まで支配・征服したと整理しています。
サマルカンドと強制移住
ティムールは征服地の職人、建築家、学者をサマルカンドへ移住させました。
その結果サマルカンドでは巨大建築と宮廷文化が発展しましたが、この文化的集中には強制移住と戦争捕虜の労働が含まれていました。
モンゴル時代と同様、広域文化交流を語るとき、その移動が自由な交易・旅行だけでなく征服権力によって作られたことを区別する必要があります。
オスマン勢力の成長
アナトリア北西部では13世紀末からオスマン家の小規模な君侯国が形成されました。
ビザンツ帝国辺境という位置を利用し、トルコ系戦士だけでなく多様な在地集団を取り込みながら領域を拡大しました。
14世紀後半までにオスマン政権はアナトリアの一地方勢力から、バルカンと東地中海の主要軍事国家へ変化します。
1326年 ブルサ
1326年、オスマン軍はビザンツ側の都市ブルサを占領しました。
ブルサは初期オスマン国家の主要政治・経済中心となり、モスク、市場、宗教・慈善施設が建設されました。
都市征服によってオスマン支配者は農村戦士集団を率いるだけでなく、都市税収・商業・行政を管理する国家へ変化していきました。
バルカンへの進出
1354年頃、オスマン勢力はガリポリを足場としてバルカン半島へ恒常的に進出しました。
ビザンツ内部の内戦、セルビア・ブルガリア諸勢力の対立を利用しながら、トラキアとバルカン各地へ勢力を伸ばしました。
エディルネが重要拠点となり、オスマン国家の政治重心はアナトリアとヨーロッパの双方へまたがるようになります。
1389年 コソヴォの戦い
1389年、オスマン軍とセルビアを中心とするバルカン連合軍がコソヴォで戦いました。
オスマン君主ムラト1世とセルビア公ラザルの双方が死亡しました。後世のセルビア民族史・オスマン史では大きな象徴性を持つ戦いですが、一戦でセルビア全域が即座にオスマン領となったわけではありません。
バルカンでのオスマン覇権は数十年間の戦争、朝貢、婚姻、従属関係を通じて段階的に拡大しました。
マムルーク朝エジプト
マムルーク朝は13世紀のモンゴル進出を阻止した後、14世紀にもエジプト・シリアの主要国家として存続しました。
カイロは紅海・地中海交易を結ぶ商業都市で、香辛料、織物、工芸品、巡礼交通が集中しました。
しかし1348年以後のペスト再流行は人口・農業・軍事制度に大きな負担を与えました。それでもマムルーク国家とカイロの都市文化は崩壊せず、15世紀へ続きます。
元朝の危機
14世紀前半の元朝は広大な中国を支配していましたが、王位継承争い、財政難、自然災害、地方行政の混乱に直面しました。
黄河の氾濫と治水工事、重い徴税、飢饉などが民衆負担を強めました。
黒死病と同系統のペストが中国でどの程度人口減少へ寄与したかについては史料・疫学上の議論があり、ヨーロッパと同じ数字を単純に当てはめることはできません。
1351年 紅巾の乱
1351年、大規模治水工事と社会不安を背景に黄河流域で紅巾軍と総称される反乱が始まりました。
反乱勢力は一つの統一組織ではなく、宗教的救済思想、地方武装勢力、反元感情などを持つ複数集団でした。
元政府は反乱を完全に抑えられず、地方軍閥が独自軍事力を持つようになりました。その混乱の中から朱元璋が勢力を拡大します。
朱元璋の台頭
朱元璋は貧しい農民出身で、若年期に飢饉と家族の死を経験した後、寺院生活を経て紅巾軍系の反乱勢力へ参加しました。
南京を拠点に長江下流の富裕地域を支配し、陳友諒、張士誠などの競争勢力を破りました。
反乱軍の一指導者から独自の王朝創設者へ変化し、元朝から中国統治を奪う中心人物となりました。
1368年 明朝成立
1368年、朱元璋は南京で皇帝に即位し、国号を明としました。洪武帝です。
同年、明軍は大都を占領し、元朝皇帝はモンゴル高原へ退きました。元王朝の中国支配は終わりましたが、モンゴル政権自体は北方で存続しました。
メトロポリタン美術館は1368年を元から明への王朝転換として位置づけています。
元の遺産と明
明朝は元を倒して成立しましたが、元代の制度や国際交易の遺産をすべて捨てたわけではありません。
青花磁器などでは元代に西アジアとの交易を通じ発展したコバルト装飾が明初にも継承されました。メトロポリタン美術館は明の装飾工芸が元の中国地域伝統と外国影響の混合を受け継いだと説明しています。
王朝交代を「外国支配から純粋な中国文化への復帰」と単純化すると、13〜14世紀に形成されたユーラシア交流の蓄積を見落とします。
高麗末期
高麗王朝は13世紀後半から元朝との婚姻・政治関係に深く組み込まれていました。
14世紀半ばに元の支配力が低下すると、高麗内部では元との関係を見直す動きが強まりました。恭愍王期には元の影響力を削減する政策も進められました。
一方、紅巾軍の侵入、倭寇、王権と有力家門の対立などが続き、政治秩序は不安定化しました。
1392年 朝鮮王朝成立
1388年、高麗政府は明が主張した北東境界問題に対抗して遼東への軍事遠征を命じました。
遠征軍指揮官の李成桂は鴨緑江の威化島で軍を引き返し、首都へ戻って実権を掌握しました。
1392年、李成桂は高麗最後の王を退位させ、朝鮮王朝を成立させました。新王朝は明との関係を重視し、仏教中心の高麗エリート秩序から朱子学を国家理念とする方向へ政治・社会制度を再編していきます。
日本 — 鎌倉幕府の終焉
日本では元寇後も鎌倉幕府が存続しましたが、御家人の経済問題、北条得宗家への権力集中、朝廷内部の皇位継承問題などが重なっていました。
後醍醐天皇は幕府打倒を企て、1331年に一度敗れて隠岐へ流されましたが、反幕府勢力は各地で活動を続けました。
1333年、足利高氏と新田義貞らが幕府側から離反し、鎌倉幕府は滅亡しました。
1333年 建武の新政
後醍醐天皇は幕府崩壊後、天皇を中心とする政治秩序を再建しようとしました。これが建武の新政です。
しかし土地恩賞、武士の要求、既存貴族・寺社の権利を調整することは困難でした。
有力武士の足利尊氏は後醍醐政権と対立し、1336年には京都で別の天皇を立てました。
南北朝の内乱
後醍醐天皇は吉野へ移り、自らを正統な天皇とする南朝を成立させました。京都には足利側が支える北朝がありました。
1336年から1392年まで、日本には競合する二つの朝廷が存在しました。武士も一枚岩ではなく、地域・土地紛争・主従関係に応じて陣営を変えることがありました。
南北朝内乱は全国の地方武士を政治へ動員し、守護勢力の成長を促しました。
足利政権
足利尊氏は1338年に征夷大将軍へ任命され、京都を拠点とする武家政権を形成しました。
鎌倉幕府と異なり、足利幕府は京都の朝廷・寺社・都市社会とより直接的に関係しながら政治を行いました。
一方、全国支配は守護大名との協力に依存し、将軍の権力が常に絶対的だったわけではありません。
1392年 南北朝合一
足利義満の時代、1392年に南朝と北朝の合一が成立しました。
南朝側の天皇が京都へ戻り、皇位継承を交互に行うという約束が示されましたが、実際には北朝系統がその後の皇統となりました。
南北朝合一は14世紀内乱の大きな区切りでしたが、地方武士間の競争が消えたわけではありません。
デリー・スルタン朝とトゥグルク朝
北インドでは1320年からトゥグルク朝がデリー・スルタン朝を支配しました。
ムハンマド・ビン・トゥグルクは広大な領域を統治し、軍事・税制・通貨・首都政策で大胆な実験を行いました。
その政策は強力な中央集権を目指した一方、実施上の混乱と反乱も生みました。
ダウラターバード遷都政策
1320年代後半、ムハンマド・ビン・トゥグルクはデリーからデカンのデーヴァギリへ政治中心を移そうとし、同地をダウラターバードと改称しました。
メトロポリタン美術館は1327年頃に首都移転が行われ、まもなくデリーへ戻ったと整理しています。
この政策はデカン支配を強化する意図を持ちましたが、大規模な人口移動と行政負担を伴い、後世には失敗政策の象徴として語られました。
1336年頃 ヴィジャヤナガル
14世紀前半、南インドにヴィジャヤナガル王国が成立しました。
首都ヴィジャヤナガル、現在のハンピは寺院、宮殿、市場、灌漑施設を持つ巨大都市へ発展しました。メトロポリタン美術館は1343年頃までに都市が整備され、ドラヴィダ寺院建築とイスラーム建築要素が非宗教建築で組み合わされたことを指摘しています。
王国はデカンと南インドの政治秩序を15〜16世紀にわたり大きく規定します。
1347年 バフマニー朝
1347年、デカンのムスリム有力者がデリーのトゥグルク朝に反乱し、バフマニー朝を成立させました。
これによってデカンではヴィジャヤナガルとバフマニー朝という二つの強大な政治勢力が競合する構造が生まれました。
同時にペルシア語圏からの移住者、デカン在地のムスリム、ヒンドゥー系諸勢力、商人・職人が接触し、後のデカン文化の基盤が形成されます。
イブン・バットゥータ
モロッコのタンジール出身のイブン・バットゥータは1325年に巡礼へ出発し、その後約30年間に北アフリカ、エジプト、アラビア、東アフリカ、中央アジア、インド、東南アジア、中国などを旅したと記録されています。
1330年代にはデリーで法官として仕え、ムハンマド・ビン・トゥグルクの使節として中国方面へ向かいました。
旅行記の細部には研究上の検討が必要ですが、イスラーム法学、巡礼、商業、王朝外交によって14世紀の広域移動が可能だったことを示す重要な史料です。
マジャパヒト
ジャワでは1293年に成立したマジャパヒト王国が14世紀に大きな勢力となりました。
とくにハヤム・ウルク王と宰相ガジャ・マダの時代、ジャワを中心に島嶼東南アジアの広範な港湾・諸国と政治・交易関係を持ちました。
後世の史料が示す「支配領域」を近代国家の直接統治地図として読むことには注意が必要です。朝貢、婚姻、港湾支配、軍事遠征など複数の関係が重なっていました。
1351年 アユタヤ
1351年頃、チャオプラヤ川流域にアユタヤ王国が成立しました。
UNESCOはアユタヤを、1350年頃に建設されたシャム王国の第2の首都とし、14世紀から18世紀まで東南アジア有数の都市・外交・交易中心へ成長したと説明しています。
海と内陸を結ぶ複数河川に囲まれた立地は、農業、交通、防御、海外交易に有利でした。
1353年 ラーンサーン
現在のラオスを中心とする地域では1353年にファー・グムがラーンサーン王国を成立させました。
上座部仏教、メコン川交易、周辺タイ系・クメール系政治勢力との関係が国家形成に影響しました。
14世紀東南アジアでは、アンコールだけでなくアユタヤ、ラーンサーン、マジャパヒトなど新しい地域秩序が並立し始めました。
アンコールの変化
アンコール王朝は14世紀にも存在していましたが、政治・宗教環境は変化していました。
大陸部東南アジアでは上座部仏教の影響が拡大し、タイ系諸王国が成長しました。アンコールの王権中心型巨大寺院建設は以前ほど続かなくなります。
アンコール衰退を単一の「アユタヤ侵攻」だけで説明する研究は現在では慎重で、政治競争、水管理、交易経路、宗教変化など複数要因が検討されています。
マリ帝国
西アフリカのマリ帝国は13世紀に成立し、14世紀前半に領域と交易上の影響力を拡大しました。
ニジェール川流域と西アフリカ金産地を結び、サハラを越えて北アフリカ・地中海世界へ金が移動しました。
メトロポリタン美術館は、マンサ・ムーサ時代のマリの影響がセネガル・ガンビアからガオ、南部ニジェールの森林サバンナ地域まで及んだと説明しています。
1324年 マンサ・ムーサの巡礼
マンサ・ムーサは1324年に大規模な随行団とともにメッカ巡礼へ出発しました。
カイロで大量の金を贈与・使用したことが金価格に影響したという記録があり、西アフリカの金供給力を地中海世界へ強く印象づけました。
1375年のカタルーニャ地図には、マリの支配者が金を持つ姿で描かれています。これはマリ側の自己表現ではなく、ヨーロッパ側が西アフリカを「金の王国」と認識していたことを示す史料です。
ティンブクトゥ
ティンブクトゥはサハラ南縁とニジェール川地域を結ぶ交易地として成長しました。
UNESCOによれば、ジンガレイベル・モスクの初期建設はマンサ・ムーサがメッカ巡礼から帰還した時期と結びつけられています。サンコーレ・モスクも14世紀に建設されました。
ティンブクトゥが学術都市として最盛期を迎えるのは15〜16世紀ですが、その基盤はマリ時代に形成されていました。
キルワとスワヒリ海岸
東アフリカ沿岸では、キルワ、モンバサ、マリンディなどのスワヒリ都市が、アフリカ内陸とインド洋を結ぶ独自の都市社会として繁栄していました。スワヒリ語を基盤とする住民社会はイスラームを受容しながらも、単なる「アラブ商人の植民地」ではなく、アフリカ在地社会の政治・文化と海域交易が結びついて形成されたものでした。
UNESCOによればキルワ・キシワニは13〜14世紀に繁栄の頂点へ達し、1331–32年に訪れたイブン・バットゥータもその都市景観を高く評価しました。キルワの商人は金、象牙などを内陸から集め、アラビア、ペルシア湾、インド、中国方面から銀、装身具、陶磁器、香料などを受け入れました。キルワでは11〜14世紀に独自貨幣も鋳造され、14世紀初頭にはフスニ・クブワと呼ばれる大規模な宮殿複合体が建設されました。
この海域経済では、アフリカ内陸と沿岸を分離して考えることはできません。南部アフリカの金産地、Great Zimbabweを含む内陸政治圏、モザンビーク沿岸のソファラ、そしてキルワなどの港市が複数段階の交易で結ばれていました。中国陶磁器やペルシア製品がアフリカ内陸で発見されることは、14世紀のインド洋がアジア側だけの交易世界ではなかったことを示します。
エチオピアとソロモン朝
アフリカ北東部のエチオピア高原では、1270年に成立したソロモン朝が14世紀に国家基盤を強化しました。王朝は自らを古代アクスム王国と聖書のソロモン王・シバの女王の系譜へ結びつけ、その王権理念は14世紀に成立した『ケブラ・ナガスト(王たちの栄光)』にも体系化されました。この系譜は近代的な意味で検証できる血統史ではなく、王朝の正統性を支える政治的・宗教的伝承として重要です。
アムダ・セヨン1世の治世にはソロモン朝の支配域が大きく拡大し、高原部のキリスト教諸地域と東部・低地のムスリム諸侯国とのあいだで戦争と朝貢関係が展開しました。これは「キリスト教国対イスラーム世界」という単純な二分ではなく、地方勢力、交易路、朝貢、王権拡大が絡む政治過程でした。紅海とアデン湾に近いエチオピアは、ナイル流域、アラビア半島、インド洋に接続する一方、高原内部には独自の修道院文化と王権秩序が発達していました。
エチオピア正教会の修道院、写本制作、典礼文化もソロモン朝初期に発展しました。14世紀のエチオピアを、後のヨーロッパとの外交や「プレスター・ジョン」伝説の前段階としてだけ見るべきではありません。東アフリカ高原に成立したキリスト教王国が、周辺のイスラーム諸国や紅海交易圏と相互作用しながら独自の国家形成を進めていた時代です。
Great Zimbabweの最盛期
南部アフリカのGreat Zimbabweは11世紀から15世紀に建設・居住されました。
UNESCOはGreat Enclosureを14世紀の建造とし、メトロポリタン美術館の近年の解説では14世紀の最盛期に都市人口が1万人を超えたと推定しています。
支配層は牧畜、農業、金・銅加工、象牙、織物と、インド洋沿岸へつながる交易を通じて富を蓄積しました。
アフリカ内陸とインド洋
Great Zimbabweで見つかるガラスビーズ、中国・ペルシア系の輸入陶磁器、キルワの貨幣は、南部アフリカ内陸と東アフリカ沿岸が複数の中継地を介して結ばれていたことを示します。しかしGreat Zimbabweの国家形成を外部交易だけから説明するのも不十分です。農業、牧畜、金属加工、家畜所有、宗教的権威、石造建築を組織する内陸社会そのものが存在し、その一部の富が海岸交易と接続していました。
同様にキルワなどのスワヒリ都市も、海外商人が一方的に作った港ではありません。沿岸のアフリカ人社会が都市、モスク、貨幣、商人組織を発達させ、季節風航海を利用してアラビア、ペルシア湾、インド、西インド洋の諸港と関係を築きました。海域交易は各地域の自律的な政治・生産社会を結ぶ接点でした。
アフリカを「サハラ以南の孤立世界」と見ることは14世紀には成立しません。西ではマリとサハラ交易、東ではスワヒリ都市と紅海・インド洋、南ではGreat Zimbabweを中心とする内陸ネットワーク、北東ではエチオピア高原の王国が、それぞれ異なる政治原理と文化を持ちながら広域交流へ参加していました。
1325年頃 テノチティトラン
メシカ人は長い移動の後、1325年頃にテスココ湖の島へ定住し、テノチティトランを建設したと伝えられています。
メトロポリタン美術館の年代記では、初期の都市にウィツィロポチトリと雨神トラロックを祀る聖域が築かれたとされています。
この時点でメシカはメキシコ盆地の支配者ではなく、後にアスカポツァルコのテパネカ勢力へ従属する地域勢力でした。
メキシコ盆地の都市国家
14世紀のメキシコ盆地にはアスカポツァルコ、テスココ、クルワカン、テノチティトランなど複数の都市国家が存在しました。
1370年代にはテソソモク治下のアスカポツァルコが最大勢力となり、テノチティトランもその影響下に置かれました。
後の1428年三国同盟成立以前のメシカ史を「アステカ帝国」として描くと、14世紀の多極的政治秩序を見落とします。
チムー王国
ペルー北海岸ではチムー王国がチャン・チャンを中心に発展していました。
灌漑農業、海洋資源、織物、金属加工を組織し、複数河川谷へ政治的影響を広げました。
メトロポリタン美術館は1150–1450年をチムー王国の主要時期とし、14世紀を沿岸社会の高度な工芸・富蓄積の時代として位置づけています。
インカ帝国拡大の前夜
アンデス高地のクスコ周辺にはインカ系集団が存在していましたが、14世紀にはまだ後の巨大帝国は成立していませんでした。
メトロポリタン美術館の年代区分では「Early Inca cultures」が1000–1438年頃に位置づけられ、本格的な領土拡大は15世紀半ばから始まります。
14世紀アンデスを「インカ時代」と一括すると、チムー、チンチャ、ワンカなど独立した地域社会の重要性を消してしまいます。
危機と接続は矛盾しない
14世紀には交易路が発達していたからこそ、疫病も広がりやすくなりました。接続は繁栄だけを生むものではありません。
黒海・地中海交易、サハラ交易、インド洋航路、元・モンゴル時代のユーラシア交通網は、人、商品、宗教、技術を動かすと同時に、病原体や軍隊も移動させました。
また危機によって交易網が完全に崩壊したわけでもありません。マムルーク朝、ヴェネツィア、ジェノヴァ、マリ、スワヒリ都市、南宋・元・明、中国沿岸港湾などは大きな政治変動の中でも交易を継続しました。
1300–1400年に何が変わったのか
14世紀の最も巨大な変化は人口でした。黒死病とその後の再流行はヨーロッパ、中東、北アフリカの社会から非常に多くの人口を奪いました。地域によっては労働力不足が賃金、土地、農業経営、社会階層を変化させました。
しかし黒死病だけで14世紀を説明することもできません。その流行前からヨーロッパには1315年以後の食料危機があり、1337年には百年戦争が始まっていました。疫病はすでに不安定だった社会へ重なりました。
ユーラシアではモンゴル帝国の統一的秩序が後退しました。イルハン朝は解体し、ジョチ・ウルスは内紛へ向かい、中国では元が明に交代しました。しかしモンゴル時代に形成された交易・技術・美術・行政の越境的交流は消えず、後継国家に受け継がれました。
東アジアでは1368年の明、1392年の朝鮮という二つの新王朝が成立しました。日本でも鎌倉幕府が崩壊し、南北朝内乱を経て足利政権が京都に定着しました。13世紀のモンゴル圧力を受けた東アジア政治秩序が、14世紀末には新しい形へ再構成されていました。
西アジア・地中海ではマムルーク朝が維持される一方、オスマン勢力がバルカンへ進出し、中央アジアではティムールが巨大な征服帝国を作り始めました。15世紀のコンスタンティノープル征服やティムール朝文化につながる力が、この世紀に形成されています。
南アジアではデリーの統一支配が揺らぎ、ヴィジャヤナガルとバフマニー朝という南部・デカンの大国家が成立しました。東南アジアではマジャパヒト、アユタヤ、ラーンサーンなど新しい政治中心が現れました。
アフリカではマリ帝国の金とイスラーム世界との関係が国際的に可視化され、スワヒリ海岸のキルワはインド洋交易の主要港として繁栄し、Great Zimbabweは内陸の政治・生産中心として成長しました。エチオピア高原ではソロモン朝が国家秩序を強化しました。これらを「外部世界との交易相手」という一つの枠にまとめることはできず、それぞれが独自の国家・都市・宗教・生産の歴史を持っていました。
アメリカ大陸ではテノチティトランが成立し、メキシコ盆地では複数都市国家が競合し、アンデスではチムー王国が拡大しました。これらの変化はヨーロッパの飢饉・百年戦争・黒死病と直接連動していません。14世紀を世界史として見るとは、一つの危機が世界全体を同じ方向へ動かしたと考えることではなく、相互接続していた地域と、独自の政治変動を進めていた地域を同じ時間軸上に置くことです。
したがって1300–1400年は、世界が一斉に衰退した一世紀ではありません。人口崩壊、戦争、王朝解体がある一方、新しい国家、都市、交易中心が形成されました。「危機」と「再編」は同じ歴史過程の異なる側面でした。
1300–1400年の主な出来事
- 1309年 — 教皇庁がアヴィニョンに置かれる。
- 1315–1322年頃 — 北ヨーロッパで大飢饉。1315–17年に連続凶作が深刻化。
- 1320年 — デリー・スルタン朝でトゥグルク朝成立。
- 1324–1325年 — マリのマンサ・ムーサがメッカ巡礼。
- 1325年頃 — メシカ人がテノチティトランを建設。
- 1326年 — オスマン勢力がブルサを占領。
- 1327年頃 — ムハンマド・ビン・トゥグルクがダウラターバードへの首都移転を進める。
- 14世紀前半 — エチオピアのソロモン朝がアムダ・セヨン1世期に支配域を拡大。
- 1331–1332年 — イブン・バットゥータがキルワを訪れ、繁栄するスワヒリ都市を記録。
- 1333年 — 日本で鎌倉幕府滅亡。建武の新政へ。
- 1335年 — イルハン朝の統一支配が崩壊へ。
- 1336年 — 日本で南北朝時代が始まる。南インドでヴィジャヤナガル王国成立期。
- 1337年 — 英仏百年戦争が始まる。
- 1338–1339年 — イシク湖周辺でペスト菌による流行。後の黒死病系統に近い菌株が確認されている。
- 1346年 — クレシーの戦い。
- 1347年 — 黒死病が黒海方面から地中海港湾へ到達。デカンでバフマニー朝成立。
- 1348–1353年頃 — 黒死病がヨーロッパ、中東、北アフリカへ広く拡大。
- 1351年 — 中国で紅巾の乱が本格化。アユタヤ王国成立期。
- 1353年 — ラーンサーン王国成立。
- 1354年頃 — オスマン勢力がガリポリを拠点にバルカンへ進出。
- 1356年 — ポワティエの戦い。フランス王ジャン2世が捕虜となる。
- 1360年 — ブレティニー条約。
- 1368年 — 朱元璋が明朝を成立。元朝皇帝が大都から北方へ退く。
- 1370年 — ティムールがトランスオクシアナの実権を掌握。
- 1375年 — カタルーニャ地図にマンサ・ムーサが描かれる。
- 1378年 — 西方教会で教会大分裂が始まる。フィレンツェでチョンピの反乱。
- 1380年 — クリコヴォの戦い。
- 1381年 — イングランド農民反乱。
- 1388年 — 李成桂が威化島回軍を行い、高麗政権の実権を掌握。
- 1389年 — コソヴォの戦い。
- 1392年 — 朝鮮王朝成立。日本で南北朝合一。
- 1398年 — ティムール軍が北インドへ侵攻しデリーを占領・略奪。
- 14世紀 — Great Zimbabweが最盛期を迎え、インド洋交易と結びつく南部アフリカの主要政治・経済中心となる。
次の時代へ — 海域世界と15世紀の再編
1400年頃、14世紀の危機によって崩れた秩序の後から、新しい政治勢力が明確に姿を現していました。
中国では明朝が中央集権を進め、15世紀初頭には永楽帝の下で北京遷都と鄭和艦隊の遠征が行われます。朝鮮では新王朝が朱子学的国家制度を整え、日本では足利義満の時代に明との勘合貿易が始まります。
西方ではティムールが1402年にアンカラでオスマン軍を破り、オスマン国家は一時的危機へ入ります。しかし15世紀半ばには再統合を果たし、1453年にコンスタンティノープルを征服します。
西ヨーロッパでは百年戦争が続きますが、15世紀半ばには英軍がフランス領の大半を失います。イベリア半島ではポルトガルが大西洋・アフリカ沿岸への航海を進め、海上交易の地理が大きく変わっていきます。
西アフリカではマリの勢力が弱まり、ソンガイが成長します。東アフリカ・インド洋ではスワヒリ都市、アラブ、インド、東南アジア、中国を結ぶ海域交易が続きます。アメリカ大陸ではメシカが1428年以後三国同盟を形成し、アンデスでは1438年頃からインカが本格的な領土拡大へ進みます。
次の記事では、1400–1500|海域世界と新しい帝国 — 明、鄭和、オスマン、ソンガイ、アステカ、インカとして、黒死病後の世界から15世紀の海洋・帝国再編へ移る過程を追います。
参考資料・出典
本ページは、Max Planck Institute for Evolutionary Anthropology、University of Cambridge、The National Archives、Royal Armouries、The Metropolitan Museum of Art、UNESCO World Heritage Centreなどの研究機関・公的資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。黒死病については、古代DNAが示す中央アジア起源の有力な証拠と、黒海から地中海へ至る感染拡大を区別し、13世紀モンゴル征服が直接ペストを中東へ運んだと断定していません。人口死亡率についても地域差と史料上の不確実性があるため単一数字で世界全体を表していません。
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- Max Planck Institute for Evolutionary Anthropology — Origins of the Black Death Identified
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資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY