Art Library
World History

1882–1914

アメリカ|移民国家と都市社会

エリス島、中国人排斥、南・東欧移民、長屋住宅、ニューヨーク・シカゴ

19世紀末から第一次世界大戦直前までのアメリカは、世界史上でも最大規模の人口移動を経験した国の一つだった。大西洋を渡ってヨーロッパから到着する人々、太平洋岸へ渡る中国・日本などアジアからの移民、さらに国内農村からニューヨーク、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ピッツバーグなどへ移動する人々が、工業都市の人口を急速に押し上げた。Library of Congressによれば、1900年から1915年だけで1,500万人を超える移民がアメリカへ到着した。これは、その前の40年間に到着した移民数にほぼ匹敵する規模だった。

この人口移動は、アメリカ社会を単に「人数の多い国」にしたのではない。都市の言語、宗教、食文化、労働市場、住宅、学校、新聞、政治を変えた。1910年のニューヨークでは、住民の約4分の3が移民一世または移民の子どもだった。街区ごとにイタリア語、イディッシュ語、ポーランド語、ドイツ語などが聞こえ、教会、シナゴーグ、新聞社、食料品店、劇場、相互扶助団体が移民社会を支えた。アメリカの大都市は、この時代に本格的な多民族社会へ変貌した。

しかし、移民の大量流入を「自由の国が世界から人々を歓迎した物語」だけとして描くことはできない。1882年には中国人労働者の入国を禁じる中国人排斥法が成立した。1891年には連邦政府が移民審査を直接担う制度が整えられ、健康状態、犯罪歴、生活扶助を受ける可能性などを理由に入国を拒否する仕組みが拡大した。1907〜1908年には日本人労働者の渡航を抑える日米紳士協約が成立した。つまり、大量移民の時代は同時に「誰を入国させ、誰を排除するのか」を国家が制度的に決める時代でもあった。

ニューヨーク港のエリス島は、その矛盾を象徴する場所である。1892年に連邦移民審査場が開設され、1954年までに約1,200万人がここで審査を受けた。大多数は数時間の審査を経て入国したが、病気や経済状態、家族関係などを理由に詳しい審査や収容を受ける人々もいた。エリス島は「アメリカへの入口」であると同時に、国家が身体と身元を分類し、入国資格を判断する場所だった。

その近くには1886年に完成した自由の女神像が立っていた。フランスから贈られたこの像は本来、自由と共和国の理念を象徴する記念碑だったが、大量移民の時代を通じて「移民を迎えるアメリカ」という意味が強く付け加えられていった。エマ・ラザラスが1883年に書いた詩「新しい巨像」は1903年に像の台座へ掲げられ、自由の女神を「追放された人々の母」として表現した。この歓迎の象徴と、実際に強化されていた移民排除政策が同じ港に存在したことは、この時代のアメリカを理解するうえで重要である。

都市に到着した移民の多くは、すぐに豊かな生活へ移れたわけではない。工場、建設、港湾、食肉加工、鉱山、縫製、家事労働などで低賃金の仕事に就き、過密な長屋住宅に暮らした。Library of Congressによれば、20世紀初頭のニューヨークでは人口の半数以上が長屋住宅に暮らしていた。換気や採光、上下水道が不十分な住宅では結核など感染症の危険が高かった。

こうした都市問題に対し、改革者は写真、統計、調査、社会事業を用いて改善を求めた。デンマーク出身の移民だったジェイコブ・リースは、ニューヨークの貧困地区を写真で記録し、1890年の『もう一つの半分はいかに暮らしているか』で過密住宅を可視化した。シカゴでは1889年、ジェーン・アダムズとエレン・ゲイツ・スターがハル・ハウスを設立し、移民地区で保育、教育、語学、職業訓練、文化活動などを行った。都市改革は「貧しい人を救う」慈善だけではなく、急速な工業都市そのものをどのように統治するかという問題になった。

また移民は労働運動の重要な担い手でもあった。ニューヨークの縫製産業では、ユダヤ系・イタリア系を中心とする若い女性労働者が長時間労働、低賃金、危険な工場環境へ抗議した。1909年にはクララ・レムリックの演説をきっかけに数万人規模のストライキが起こり、1911年にはトライアングル・シャツウェイスト工場火災で146人が死亡した。多くが若い移民女性だった。火災は建築・消防・労働安全の改革を強く促した。

この時代には「アメリカ人になること」の意味も激しく議論された。移民自身は英語を学び、市民権を取得し、選挙へ参加しながら、故郷の言語、宗教、食文化、新聞、家族関係を維持した。一方、改革者や企業の中には移民へ英語・衛生・生活習慣を教える「アメリカ化」を進める動きがあった。支援と同化圧力はしばしば同じ制度の中に存在した。

そして排外主義は、ヨーロッパ系とアジア系で同じ形を取らなかった。中国人排斥法は特定の民族集団の労働者に対する連邦レベルの入国禁止を制度化した。日本人移民については、1906年のサンフランシスコ学校分離問題を背景に、アメリカ政府と日本政府が交渉し、日本政府が労働者への旅券発給を制限する日米紳士協約が成立した。移民政策は国内の労働・人種問題であると同時に、外交問題でもあった。

1914年までにアメリカの大都市は、工業、移民、公共交通、新聞、広告、写真、娯楽が密集する空間になっていた。そこでは大量の人口が新しい機会を得る一方、住宅、労働、安全、衛生、人種、国籍をめぐる境界線が作られた。第一次世界大戦が始まると、こうした多民族社会は「誰がアメリカへ忠誠を持つのか」という新しい圧力にさらされる。1882〜1914年の移民史は、その後の戦時同化政策、1920年代の移民制限、都市大衆文化を理解するための重要な前史である。

CONTENTS

  1. なぜ1882年から始めるのか
  2. 大量移民の時代
  3. 北・西ヨーロッパ中心から南・東ヨーロッパへ
  4. なぜ人々はアメリカへ向かったのか
  5. 蒸気船と大西洋移動
  6. 1891年 — 移民管理が連邦政府へ
  7. 1892年 — エリス島移民審査場
  8. 入国審査 — 身体と身元を調べる
  9. 入国できない可能性がある人々
  10. 自由の女神と「移民を迎えるアメリカ」
  11. エマ・ラザラス「新しい巨像」
  12. 1882年中国人排斥法
  13. 中国系社会と西海岸
  14. 排斥法はどのように運用されたのか
  15. 日本人移民の増加
  16. 1906年サンフランシスコ学校分離問題
  17. 日米紳士協約
  18. ニューヨーク — 移民都市の形成
  19. シカゴ — 工業都市と多民族社会
  20. 移民街 — 言語、宗教、商店、新聞
  21. 長屋住宅と過密
  22. ジェイコブ・リース — 写真で都市貧困を見せる
  23. 1901年ニューヨーク長屋住宅法
  24. 政治マシーンと移民
  25. 帰化と選挙参加
  26. セツルメント運動
  27. ハル・ハウス — シカゴの移民地区で
  28. 女性と都市改革
  29. 縫製産業と移民女性労働者
  30. 1909年「2万人の蜂起」
  31. 1911年トライアングル工場火災
  32. 火災から労働安全改革へ
  33. 宗教の多様化
  34. 移民新聞と多言語都市
  35. 「アメリカ化」と同化
  36. 排外主義 — 誰を「本当のアメリカ人」とするのか
  37. 移民を選別する国家
  38. ディリンガム委員会と移民分類
  39. 写真・広告・街路 — 都市を見る文化
  40. 1914年 — 多民族社会が戦争前夜を迎える
  41. この時代を理解するための8つの視点
  42. この時代に何が変わったのか
  43. 主な出来事

なぜ1882年から始めるのか

アメリカへの大規模移民は1882年以前から続いていた。1840年代以後にはアイルランド系、ドイツ系移民が大量に到着し、19世紀半ばには中国人労働者も西海岸の鉱山・鉄道建設へ参加した。それでも1882年を一つの区切りとする理由は、この年に連邦政府が中国人排斥法を成立させ、特定の民族的労働者集団の入国を大規模に禁止する方向へ踏み出したためである。

National Archivesは中国人排斥法を「アメリカへの移民を制限した最初の重要な法律」と位置づけている。アメリカは移民によって成長する一方、誰でも自由に入れる国ではなくなり始めた。

この後、移民審査は州から連邦政府へ移され、健康状態、犯罪歴、政治思想、経済状態などを基準に入国者を選別する制度が拡張していく。1882〜1914年は、「大量移民」と「移民管理国家」の形成が同時に進む時期である。

大量移民の時代

19世紀後半から20世紀初頭、アメリカの工業化は大量の労働力を必要とした。鉄鋼、炭鉱、食肉加工、建設、港湾、鉄道、縫製などの産業が都市と工業地域に集中し、ヨーロッパ各地から労働者が流入した。

Library of Congressによれば、1870年から1900年までに約1,200万人がアメリカへ移住し、さらに1900年から1915年には1,500万人を超える移民が到着した。後者はそれ以前の40年間の総数にほぼ匹敵する。

この規模は人口構成を根本から変えた。New York、Chicago、Bostonなどでは外国生まれ人口と移民二世が都市住民の大きな割合を占め、地域によっては英語が家庭の主要言語ではない人々が多数派となった。

北・西ヨーロッパ中心から南・東ヨーロッパへ

19世紀中頃までの主要な移民にはアイルランド、ドイツ、イギリス、スカンディナヴィアなど北・西ヨーロッパ出身者が多かった。ところが19世紀末から20世紀初頭になると、イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、ポーランド地域、バルカン地域など南・東ヨーロッパ出身者の比率が大きく増加した。

当時のアメリカ社会では、この変化を「旧移民」と「新移民」という言葉で区別することがあった。しかしこの区別自体に価値判断が含まれていた。英語圏・プロテスタント系の北西ヨーロッパ出身者を「同化しやすい」とし、カトリック、ユダヤ教、東方正教会などを信仰する南東ヨーロッパ出身者を「異質」とみなす議論が増えた。

後の移民制限論は単に人数が増えたことだけでなく、「どの地域から来た人々を望ましい移民と考えるか」という民族・宗教の序列化と結びついていく。

なぜ人々はアメリカへ向かったのか

移住理由は一つではない。農村人口増加と土地不足、低賃金、失業、軍役、宗教的迫害、政治的不安、ユダヤ人へのポグロムなど、出身地ごとに異なる圧力が存在した。一方、アメリカ側には工場労働、建設、鉱山、農業などの仕事があり、先に渡った親族・知人から情報や渡航費が送られることもあった。

多くの移民は「永久にアメリカ人になる」と最初から決めていたわけではない。特に南ヨーロッパからの男性労働者には、数年間働いて貯金し、故郷へ戻ることを想定する人々もいた。実際に帰国した移民も少なくない。

したがって移民史は「ヨーロッパを捨ててアメリカへ移住した」という一方向の物語ではない。人、金、手紙、新聞、家族が大西洋を往復する越境的な社会が形成されていた。

蒸気船と大西洋移動

19世紀後半には大型蒸気船の発達によって大西洋横断の時間と費用が低下し、人の移動が以前より容易になった。船会社はヨーロッパ各地で乗客を募集し、大量の移民を定期航路でアメリカへ運んだ。

貧しい移民の多くは船の下層に設けられた安価な区画で渡航した。混雑、換気不足、衛生問題は深刻だったが、帆船時代と比べれば航海時間は短縮された。

移民政策は港だけで始まるのではない。船会社は入国拒否者を自費で送り返す責任を負うようになったため、出航地で乗客を事前に確認する動機を持った。国家の入国規制が海運企業の運営にも組み込まれた。

1891年 — 移民管理が連邦政府へ

19世紀の大部分、移民の受け入れは州政府や港湾都市が大きな役割を担っていた。しかし移民数が増え、州ごとの制度では対応が難しくなると、連邦政府が管理を強めた。

1891年移民法によって、連邦政府は入国者の検査、入国許可、入国拒否を直接担当するようになった。現在のU.S. Citizenship and Immigration Servicesの歴史資料によれば、この法律は財務省内に移民行政機関を設け、主要港に連邦移民検査官を配置した。

同時に入国を拒否できる対象も拡張された。伝染性疾患、一定の犯罪歴、生活扶助を受ける可能性が高いと判断された人などが審査対象となった。移民は労働力として歓迎されながら、「国家にとって負担になるかもしれない人」を入口で排除する仕組みが制度化されていった。

1892年 — エリス島移民審査場

ニューヨーク港では1855年から1890年までマンハッタン南端のキャッスル・ガーデンが移民受け入れ施設として使われていた。連邦政府が移民管理を担うようになると、新しい審査場としてエリス島が選ばれた。

1892年1月1日、エリス島の移民審査場が正式に開業した。National Park Serviceによれば最初に審査を受けたのはアイルランド出身の17歳のアニー・ムーアだった。同年度末までに40万人を超える移民が新施設で審査された。

1897年に木造施設が火災で焼失したため、移民審査は一時マンハッタンへ移された。1900年には耐火構造の新しい本館が開館し、その後病院、隔離施設、厨房、洗濯施設などが増設された。

入国審査 — 身体と身元を調べる

エリス島に到着した三等船客などは、医療検査と法律上の審査を受けた。医師は歩き方、目、皮膚、身体状態を短時間で観察し、詳しい検査が必要な人を選び出した。

審査官は船会社が作成した乗客名簿をもとに氏名、出生地、職業、所持金、最終目的地、アメリカにいる親族、犯罪歴などを質問した。大多数の移民は数時間で手続きを終えたが、疑問がある場合は特別審査へ送られた。

National Park Serviceは、1892年から1924年までエリス島がアメリカ最大の移民審査場として機能し、そこでの通常の審査は多くの場合3〜7時間程度だったとしている。

入国できない可能性がある人々

エリス島は単なる歓迎施設ではなく、入国拒否を判断する場所でもあった。伝染病の疑いがある人は病院へ送られ、家族の一部だけが収容される場合もあった。経済的に自立できないと判断された人、犯罪歴など法的問題がある人は特別審査を受けた。

入国拒否となった場合、原則として移民を運んできた船会社が帰国費用を負担した。そのため船会社はヨーロッパ出発地でも乗客の健康・書類を確認するようになった。

「門が開いていた時代」という印象とは異なり、19世紀末にはすでに移民の身体、経済状態、家族関係を国家が評価する制度が存在していた。1920年代の国別割当制度は、この既存の審査国家をさらに強化することになる。

自由の女神と「移民を迎えるアメリカ」

1886年10月28日にニューヨーク港で除幕された自由の女神像は、フランスからアメリカへの贈り物として建設され、正式名称は「世界を照らす自由」である。当初の構想は共和政、自由、米仏関係を象徴するもので、移民専用の記念碑ではなかった。

しかし大量移民の時代、船でニューヨーク港へ入る人々が像を目にするようになると、その意味は変化した。National Park Serviceによれば、1886年から1924年までに約1,400万人の移民がニューヨークを通じて入国し、自由の女神は彼らにとって到着と新しい生活を象徴する存在となった。

国家が移民を厳しく選別する一方で、自由の女神は「アメリカは迫害や貧困から逃れてきた人々を迎える国」という強力な自己像を形成した。この象徴と政策のずれは、その後のアメリカ移民史でも繰り返し現れる。

エマ・ラザラス「新しい巨像」

ユダヤ系アメリカ人詩人エマ・ラザラスは、自由の女神像の台座建設資金を集める催しのため、1883年に詩「新しい巨像」を書いた。彼女はユダヤ系難民支援にも関わっており、詩では自由の女神を征服者ではなく、追放され困窮した人々を受け入れる存在として描いた。

この詩は当初から自由の女神の中心的説明文だったわけではない。National Park Serviceによれば、ラザラスの死後しばらく忘れられ、1903年に友人ジョージナ・スカイラーらの働きかけによって詩文が銅板に刻まれ、台座内部へ設置された。

その後、自由の女神と移民を結びつける象徴として広く知られるようになる。つまり現在当然のように見える「自由の女神=移民歓迎」という意味も、この大量移民期に歴史的に形成されたものだった。

1882年中国人排斥法

中国人労働者は19世紀半ばからCaliforniaの鉱山、農業、都市サービス、大陸横断鉄道建設などで重要な労働力となった。しかし経済不況や労働競争が激しくなると、中国人労働者は「賃金を下げる外国人」として攻撃されるようになった。

1882年5月6日、Chester A. Arthur大統領が中国人排斥法に署名した。National Archivesによれば、この法律は中国人労働者の移民を10年間原則禁止し、アメリカ史上初めて特定の民族的労働者集団を入国禁止の対象とする重要な連邦法となった。

外交官、商人、学生など一部には例外があったが、実際の審査では中国系渡航者全体に厳格な身元確認が課された。法律はその後延長され、1904年には恒久化された。

中国系社会と西海岸

中国系移民はCaliforniaだけでなく、西部各地の鉄道、鉱山、農業、洗濯業、料理店、製造業などで働いた。San Franciscoなどでは中国系住民がChinatownを形成し、商店、寺院、会館、新聞、家族・出身地団体を作った。

一方、1880年代には西部各地で反中国人暴力が起こり、中国人住民を町から追放する事件も発生した。労働団体の一部も中国人排斥を支持した。

移民史では「移民対生粋のアメリカ人」という単純な境界だけでなく、移民集団同士、労働組合、企業、地方政治が異なる立場を取ったことを見る必要がある。

排斥法はどのように運用されたのか

中国人排斥法の特徴は、単に新規労働者を止めるだけでなく、「この人は本当に入国資格を持つのか」を証明する負担を中国系住民へ強く課したことだった。National Archivesは、商人、学生、宗教者など法律上の例外対象者であっても、身元、家族関係、出生地を細かく尋問されたと説明している。

中国系アメリカ人市民も、海外から帰国する際に市民権を疑われる場合があった。移民規制が特定の人種集団に対する身分証明制度を発達させたのである。

後のアメリカ移民行政で用いられる書類審査、入国拒否、収容、国外退去といった制度の一部は、この時代に具体的な行政技術として発達した。

日本人移民の増加

19世紀末から日本人労働者もHawaiiやアメリカ西海岸へ渡るようになった。Hawaiiの砂糖農園で働いた後、Californiaなどアメリカ本土へ移動する人々もいた。農業、漁業、鉄道、家事労働、小規模商業などに従事した。

日清・日露戦争後、日本が国際的な国家として存在感を高める一方、西海岸では日本人移民への反発が強まった。土地、賃金、学校、人種をめぐる問題が新聞や地方政治で取り上げられた。

中国人排斥法と同じ形で日本人を一方的に排除すれば、日本政府との外交関係を悪化させる可能性があった。この点が日米紳士協約という異なる規制方法につながる。

1906年サンフランシスコ学校分離問題

1906年、San Francisco教育委員会は日本人と中国人などアジア系児童を特定の学校へ分離する措置を進めた。米国務省の外交史資料によれば、日本政府は1894年の日米条約に反する差別として強く抗議した。

Theodore Roosevelt政権は、日本との外交関係を損なうことを懸念し、地方教育委員会の政策を連邦外交の問題として扱った。大統領はSan Francisco側と交渉し、学校分離の撤回を求めた。

この事件は、アメリカ国内の地方人種政策が国際外交へ直接影響することを示した。移民は国内社会問題であると同時に、太平洋地域の国際関係の問題になった。

日米紳士協約

1907年末から1908年にかけて、アメリカ政府と日本政府は一連の外交文書交換によって、後に「日米紳士協約」と呼ばれる了解を形成した。正式な一つの条約文書ではなく、複数の行政的取り決めの総称である。

米国務省の外交史資料によれば、アメリカ側はSan Franciscoの学校分離を撤回させる方向へ働きかけ、日本政府はアメリカ本土へ向かう労働者への旅券発給を自主的に制限した。すでにアメリカに住む人の家族などには一定の例外が認められた。

中国人排斥法のようにアメリカ議会が日本人を名指しで禁止する形を避け、日本政府自身が渡航を抑えることで外交上の体面を保とうとした点が特徴だった。

それでも西海岸の反日感情が消えたわけではない。1913年にはCaliforniaで、帰化資格を持たない外国人の土地所有を制限する州法が成立し、日本人移民をめぐる問題は第一次世界大戦後まで続く。

ニューヨーク — 移民都市の形成

ニューヨークはアメリカ最大の移民受け入れ港であり、工業・商業・金融の中心でもあった。到着した移民の多くは鉄道で他地域へ移動したが、膨大な人数が市内へ定住した。

Library of Congressによれば、1910年のNew York Cityでは住民の約4分の3が外国生まれ、または移民の子どもだった。Lower East Sideではユダヤ系、イタリア系、東欧系など多数の移民が狭い地域に集中した。

街路には露店、商店、劇場、新聞、宗教施設、政治集会が集まり、移民地区は単なる貧困空間ではなく、文化・商業・政治の濃密な地域社会となった。

シカゴ — 工業都市と多民族社会

Chicagoも鉄道、食肉加工、機械、建設を中心に急成長した移民都市だった。ドイツ系、アイルランド系、チェコ系、ポーランド系、イタリア系、東欧ユダヤ系など、多数の移民社会が形成された。

都市の工場地帯と労働者地区は近接し、大気汚染、衛生問題、長時間労働、住宅過密が社会問題となった。一方で移民団体、労働組合、社会主義運動、音楽・劇場文化も発達した。

1886年Haymarket事件や1889年のHull House設立は、Chicagoが工業化による社会対立と改革運動の双方の中心地だったことを示す。

移民街 — 言語、宗教、商店、新聞

移民は都市へ到着すると、同じ出身地や言語の住民が多い地区へ住むことが多かった。仕事情報、住宅、信用、育児、宗教行事を共有できるためである。

「Little Italy」「Jewish Lower East Side」などの名称で知られる地域には、食料品店、パン屋、肉屋、仕立屋、礼拝施設、学校、劇場、新聞社が集まった。同郷者による相互扶助団体は病気、葬儀、失業時に支援した。

こうした地区は同化を妨げる閉鎖空間ではない。移民がアメリカ社会へ入る際の中間的な基盤として機能した。英語を学び、仕事を変え、次世代が公立学校へ通う一方、家庭では出身地の言語や宗教を維持することができた。

長屋住宅と過密

急速な人口増加に住宅供給が追いつかず、ニューヨークなどでは長屋住宅が密集した。Library of Congressによれば、20世紀初頭にはニューヨーク人口の半数以上が長屋住宅に住み、移民の多くもそこに暮らしていた。

奥行きの深い建物に多数の部屋を詰め込み、窓のない部屋、共同便所、不十分な換気や採光が珍しくなかった。結核、チフスなど感染症の拡大に適した環境となり、火災時の避難も困難だった。

家賃負担を減らすため一部屋に複数世帯が住む場合もあり、縫製などの内職が住居内で行われることもあった。住宅と職場の境界が曖昧な生活だった。

ジェイコブ・リース — 写真で都市貧困を見せる

デンマーク出身の移民ジェイコブ・リースは警察担当記者としてNew Yorkの貧困地区を取材した。1880年代後半から、当時新しかった閃光撮影を利用し、暗い長屋の室内、宿泊所、路地、児童労働などを撮影した。

1890年の著書『もう一つの半分はいかに暮らしているか』では文章、図版、写真を組み合わせ、中間層読者へ都市貧困を直接見せた。Library of Congressは、リースが写真を言葉の証拠として用い、住宅、教育、貧困改革を求めた社会改革者だったと説明している。

ただしリース自身の記述には、移民集団を性格類型として描く当時の偏見も含まれていた。彼の写真は都市問題を可視化した重要な資料であると同時に、「改革者が貧しい移民をどのように見たのか」を示す資料でもある。

1901年ニューヨーク長屋住宅法

長屋住宅問題への調査と改革運動を受け、New York Stateは1901年に新しいTenement House Lawを成立させた。New York Cityの公的資料によれば、この法律は新築長屋に外部に面した窓、屋内便所、適切な換気、火災安全設備などを求めた。

既存建物についても改修と行政検査を強化し、専門部署が執行を担当した。都市の住宅を地主と借家人の完全な私的契約に任せず、健康・安全の観点から行政が規制する考えが強まった。

これは進歩主義時代に広がる「専門家による都市管理」の一例である。人口密集社会では、一つの建物の不衛生や火災危険が住民だけでなく周囲全体へ影響するという認識が政策を変えた。

政治マシーンと移民

大量移民都市では、Tammany Hallに代表される政治マシーンが強い影響力を持った。地区の政治活動家は新住民へ仕事、食料、法的援助、住宅情報、帰化手続きなどを仲介し、その代わり選挙で支持を求めた。

改革者はこれを賄賂、官職配分、公共契約の腐敗として批判した。しかし移民側から見れば、英語能力が十分でなく公的福祉制度も乏しい社会で、実際に困った時に助けてくれる地域組織でもあった。

都市政治を理解するには、政治マシーンを単なる犯罪組織としてではなく、十分な行政サービスが整っていない都市で社会保障と政治参加を仲介した制度としても見る必要がある。

帰化と選挙参加

ヨーロッパ出身の多くの男性移民は、一定の居住要件を満たせば帰化してアメリカ市民となる道を持っていた。市民権を得れば投票でき、都市政治で移民票が大きな意味を持つようになった。

政党は移民街へ積極的に入り、母語による選挙活動も行った。移民は「政治を知らない外部者」ではなく、都市選挙を左右する有権者へ変わっていった。

しかしこの帰化への道は人種的に平等ではなかった。中国人は排斥法制と帰化資格制限に直面し、日本人を含むアジア系移民の多くも当時の帰化法のもとで市民権取得から排除された。移民の「アメリカ人になる可能性」自体が人種によって異なっていた。

セツルメント運動

19世紀末、都市改革者は移民・労働者地区へ居住し、教育、保育、医療、文化活動、法律相談などを提供するセツルメントを設立した。この運動はイギリスのToynbee Hallなどから影響を受けた。

セツルメントは慈善施設であると同時に、都市社会の調査機関でもあった。住民の賃金、住宅、疾病、児童労働などを調査し、地方・州政府へ改革を求めた。

女性が専門的社会活動へ進出する重要な場でもあり、後の社会福祉、労働行政、公衆衛生へ人材を送り出した。

ハル・ハウス — シカゴの移民地区で

1889年、Jane AddamsとEllen Gates StarrはChicago西部の移民地区にHull Houseを設立した。National Park Serviceによれば、保育、語学、料理、絵画、音楽、運動、化学、数学など多様な講座・サービスを提供した。

Hull House周辺にはイタリア系、ギリシャ系、ユダヤ系、ポーランド系など多様な住民がおり、施設は地域住民が集う文化的・教育的拠点となった。

一方、セツルメント運動には中間層改革者が移民の生活を「改善」しようとする上からの視線も存在した。重要なのは、支援と同化、調査と統制がしばしば同じ活動の中に含まれていたことである。

女性と都市改革

女性には全国的選挙権がまだなかったが、都市改革、労働改革、教育、公衆衛生、住宅問題で大きな役割を持った。セツルメント、女性クラブ、消費者団体、労働組合を通じて政策へ影響した。

Jane Addams、Florence Kelley、Lillian Waldなどは、移民地区での実地活動と社会調査を結びつけた。児童労働、最低賃金、労働時間、安全規制の議論は、こうした活動から州立法へ移っていった。

この経験は女性参政権運動ともつながる。「税、教育、労働、衛生を改善する活動を担っている女性が、なぜ政治的投票権を持たないのか」という主張を強めた。

縫製産業と移民女性労働者

New Yorkの衣料・縫製産業では、東欧ユダヤ系やイタリア系を中心に多数の移民女性が働いた。小規模工場や下請け作業場では長時間労働、低賃金、出来高払い、危険な設備が問題となった。

若い女性にとって工場労働は搾取的である一方、家族外で現金収入を得て、仲間や労働組合と接触し、都市生活へ参加する機会でもあった。家庭内の世代関係や女性の自立にも影響した。

衣料産業は大量消費社会を支える産業でありながら、その華やかな商品が低賃金の移民労働によって作られているという矛盾を抱えていた。

1909年「2万人の蜂起」

1909年11月、New YorkのCooper Unionで開かれた衣料労働者集会で、若い移民女性労働者Clara Lemlichが総ストライキを提案した。Library of Congressによれば、彼女自身も以前のストライキ活動で暴行を受けていた。

翌日以降、shirtwaist工場の女性労働者を中心に大規模なストライキが広がった。「2万人の蜂起」と呼ばれるこの争議には最大3万人ほどが参加し、350を超える工場へ影響したとされる。

ストライキの結果、多くの企業で週労働時間短縮、有給休日、作業道具費用の負担軽減など一定の改善が得られた。すべての企業が組合を認めたわけではないが、移民女性が都市労働運動の主体として全国的に知られる契機となった。

1911年トライアングル工場火災

1911年3月25日、New YorkのAsch Building上層階にあったTriangle Shirtwaist Factoryで火災が発生した。Library of Congressによれば146人の労働者が死亡し、その多くは若い移民女性だった。

火災時、一部の出口は閉鎖・施錠され、避難経路は十分ではなかった。建物の外部非常階段も崩壊し、逃げ場を失った労働者が高層階から飛び降りる光景が市街地で目撃された。

死者の多さだけでなく、事故が人通りの多い都市中心部で、多くの市民の目前で起きたことが衝撃を強めた。工場の安全問題が抽象的統計ではなく、具体的な身体と死として可視化された。

火災から労働安全改革へ

Triangle fire後、New York州は工場調査委員会を設置し、火災安全、避難路、労働時間、衛生などを調査した。Library of Congressの労働史資料では、その調査をもとに多数の労働・安全法が整備されたとしている。

後にFranklin D. Roosevelt政権で労働長官となるFrances Perkinsも火災を目撃し、その後労働安全政策へ深く関わった。National Park Serviceは、彼女が目の前で多数の労働者が死亡するのを見た経験が、その後の労働行政への志向を強めたと紹介している。

移民女性の工場事故は、都市安全、行政検査、企業責任という問題へ広がった。後のNew Deal労働政策へつながる人材と制度経験の一部も、この進歩主義時代に形成された。

宗教の多様化

南・東ヨーロッパ移民の増加はアメリカの宗教地図も変えた。イタリア系・ポーランド系などのカトリック、ロシア帝国・東欧からのユダヤ系、ギリシャ系・東欧系の正教会信徒が都市に大きな共同体を形成した。

教会やシナゴーグは宗教施設であるだけでなく、移民の相互扶助、教育、慈善、結婚、葬儀、政治情報を支える社会組織だった。

一方、プロテスタント中心のアメリカ像を持つ人々には、この宗教多様性が「社会の一体性を脅かす」と見える場合があった。反カトリック、反ユダヤ感情は移民排斥論と結びつくことがあった。

移民新聞と多言語都市

移民社会には母語新聞が多数発行された。求人、住宅、船便、故郷の政治、アメリカ選挙、労働争議、文化記事を提供し、到着したばかりの移民にとって重要な情報源となった。

新聞は出身地の文化を維持するだけでなく、アメリカ政治への参加を促した。市民権取得、投票先、労働組合、学校政策を母語で議論できたからである。

多言語新聞の存在は、英語化する以前にも移民が公共問題へ参加できることを意味した。一方、第一次世界大戦期には外国語新聞が「忠誠」を疑われる対象になることもある。

「アメリカ化」と同化

大量移民に対して、学校、企業、慈善団体、自治体は英語教育、市民教育、衛生指導などを進めた。これらは新移民が職場・行政・選挙へ参加するのを助ける側面を持った。

しかし「アメリカ化」は、移民の母語、宗教、生活習慣を劣ったものとして捨てさせる同化圧力になる場合もあった。「良いアメリカ人になるには何を手放すべきか」という価値判断が含まれていたためである。

移民自身は必ずしも「故郷かアメリカか」の二者択一で生きていたわけではない。英語を学び投票へ参加しながら、家庭では母語を話し、宗教・食文化を維持する複合的な生活が一般的だった。

排外主義 — 誰を「本当のアメリカ人」とするのか

移民が増えると、出生地がアメリカである人々の利益や文化を優先する排外主義も強まった。移民は低賃金労働、犯罪、政治腐敗、宗教対立、急進思想の原因として語られることがあった。

こうした議論には経済的不安と文化的不安が混在した。実際に低賃金労働市場で競争が存在する場合もあったが、その問題が特定民族全体の性質へ置き換えられると、人種・宗教偏見へ変わった。

19世紀末の中国人排斥、20世紀初頭の南・東欧移民への不信、日本人移民をめぐる反発は対象と論理が同一ではない。しかし「誰が同化可能で、誰が望ましい移民なのか」を国家が選別しようとする流れでつながっている。

移民を選別する国家

1891年以後、連邦政府は移民行政の対象を段階的に広げた。1903年には一定の政治的急進主義者を排除対象へ加える法律が成立し、1907年には入国拒否の対象や入国時の人頭税が拡大された。

この時点では1920年代のような国別人数割当はまだ存在しなかった。そのためヨーロッパから大量移民が続いたが、「移民は自由に入る」のではなく、法律で定められた資格に照らして連邦職員が審査する制度はすでに確立していた。

1917年には識字試験が導入され、さらに1921年・1924年には国別割当制度へ進む。この意味で1882〜1914年は、開放的移民社会から制限的移民制度へ突然切り替わる前段階ではなく、制限制度そのものが形成されていた時期である。

ディリンガム委員会と移民分類

1907年、Congressは移民問題を大規模に調査する委員会を設置し、William P. Dillingham上院議員が委員長を務めた。委員会は数年間にわたって移民の職業、賃金、住宅、犯罪、教育、民族構成などを調べ、大量の報告書を1911年にまとめた。

調査は膨大な統計資料を残した一方、当時広く影響力を持っていた人種的・民族的分類の考えを取り込み、南・東ヨーロッパからの「新移民」を北・西ヨーロッパ移民より望ましくないとみなす議論を強めた。

重要なのは、移民制限が感情的な偏見だけでなく、「科学的調査」「統計」「専門家報告」という形式でも正当化されるようになったことである。20世紀の国家は、人口を数え、分類し、その分類を政策へ変える能力を強めていた。

写真・広告・街路 — 都市を見る文化

移民都市の形成は視覚文化も変えた。街路には看板、商品広告、新聞、劇場ポスターが溢れ、百貨店のショーウィンドウや電気照明が都市の夜景を変えた。写真技術の発達によって、都市の貧困、労働、群衆、事故も画像として大量に記録されるようになった。

Jacob Riisの写真は、カメラを社会改革の証拠として使う代表例である。Triangle fireや1909年の女性ストライキも新聞写真によって全国へ伝えられた。

ART LIBRARYの観点では、この変化は重要である。20世紀のアメリカ美術・写真・広告・映画が成立する前に、都市そのものが大量の画像を生産し、見る人々を作る環境へ変わっていたからである。

1914年 — 多民族社会が戦争前夜を迎える

1914年にヨーロッパで第一次世界大戦が始まった時、アメリカにはドイツ系、アイルランド系、イタリア系、東欧系、ユダヤ系など巨大な移民社会が存在していた。戦争に対する立場は出身地や政治思想によって異なった。

当初アメリカ政府は中立を宣言したが、1917年の参戦後、外国生まれ住民と外国語文化への「忠誠」要求が急速に強まる。特にドイツ系アメリカ人は強い圧力を受けることになる。

したがって第一次世界大戦期の「100%アメリカニズム」は突然現れたものではない。1882〜1914年に大量移民と排外主義、帰化と同化、移民行政が同時に形成されたことが、その前提となっていた。

この時代を理解するための8つの視点

第一に、アメリカを単純な「移民を歓迎した国」としない。 数千万人規模の移民を受け入れながら、中国人排斥、健康・経済状態による入国拒否、日本人労働者の渡航制限も同時に進んだ。受容と排除は同じ時代に存在した。

第二に、エリス島をすべての移民の入口と考えない。 エリス島はニューヨーク港の主要な連邦移民審査場だったが、移民はBoston、Baltimore、Philadelphia、New Orleans、San Franciscoなど他の港や陸上国境からも入国した。特にアジア系移民の歴史をエリス島だけで代表させることはできない。

第三に、「新移民」という当時の分類を客観的事実として受け取らない。 南・東ヨーロッパ移民を文化的・人種的に劣るとみなす価値判断が含まれており、後の移民制限政策を正当化する言葉として使われた。

第四に、移民街を貧困の象徴だけにしない。 過密住宅や低賃金は重大な問題だったが、移民街には教会、新聞、商店、劇場、労働組合、相互扶助組織があり、生活と政治参加を支える強い共同体でもあった。

第五に、改革運動を純粋な善意だけで描かない。 Jacob RiisやHull Houseは住宅・教育・労働改革に重要な役割を果たしたが、改革者が移民文化を「直すべきもの」と見る同化主義的視線を持つこともあった。支援と社会統制はしばしば隣り合っていた。

第六に、移民女性を家族の付随物として扱わない。 縫製工場、家事労働、商業、労働組合で女性自身が賃金を得て政治的行動を起こした。1909年ストライキやTriangle fire後の改革では若い移民女性が中心的主体だった。

第七に、移民政策を国内問題だけで考えない。 日米紳士協約が示すように、移民規制は外交関係、国家の威信、条約と結びついた。国内で特定民族をどう扱うかが国際政治へ影響した。

第八に、移民の「同化」を一方向の文化消失としない。 移民とその子どもは英語、市民権、学校、労働市場へ参加しながら、宗教、食文化、音楽、言語をアメリカ社会へ持ち込んだ。アメリカ文化も移民によって変えられたのであり、「移民だけがアメリカへ変わった」のではない。

この時代に何が変わったのか

第一に、アメリカの大都市が多民族・多言語社会へ変わった。New YorkやChicagoでは外国生まれ人口とその子どもが都市文化の中心的な部分となり、食、宗教、新聞、音楽、政治を変えた。

第二に、移民管理が地方から連邦国家の業務へ移った。1891年移民法とエリス島は、国家が入国者を直接審査し、受け入れ・拒否を決める行政制度の象徴となった。

第三に、移民受容と移民排除が同時に制度化された。中国人排斥法、日米紳士協約、健康・経済状態による入国審査は、アメリカが「誰を将来の市民候補として受け入れるのか」を選別する国家へ変わったことを示す。

第四に、都市住宅と公衆衛生が公共政策の課題になった。長屋住宅改革、建築規制、行政検査は、住宅を完全な私的市場に任せず、国家が健康・安全基準を設定する方向への転換だった。

第五に、写真と調査報道が社会改革の道具となった。Jacob Riisのような改革者は画像を「目に見えない社会問題」を可視化する証拠として使い、20世紀の社会写真・報道写真へつながる方法を発達させた。

第六に、移民女性が都市労働運動の重要な主体となった。1909年大ストライキと1911年Triangle fire後の改革は、女性・移民・労働問題が一つの政治課題へ結びつく契機となった。

第七に、都市改革の専門化が進んだ。セツルメント、統計調査、住宅検査、工場調査を通じ、社会問題を専門家が調査し行政制度で改善する進歩主義的統治が形成された。

第八に、「アメリカ人とは誰か」という問いが国家規模の問題になった。移民の大量流入によって市民権、帰化、英語、宗教、人種、忠誠が政治化され、第一次世界大戦と1920年代の移民制限へつながる土台が作られた。

1882年から1914年のアメリカでは、何百万人もの人々が港から都市へ入り、工場、街路、長屋、学校、新聞、教会、投票所を通じて新しい社会を作った。同時に国家は、その移動を記録し、検査し、分類し、拒否する力を強めた。自由の女神とエリス島、中国人排斥法と日米紳士協約、Hull Houseと長屋、女性労働者のストライキは、別々の話ではない。それらは「巨大な移民国家がどのように成立し、その内部にどのような境界線を引いたのか」という同じ歴史の異なる側面である。

主な出来事

  • 1882年5月6日 — 中国人排斥法成立。中国人労働者の移民を原則10年間禁止。
  • 1885年 — 外国人契約労働を制限する連邦法が成立。
  • 1886年10月28日 — ニューヨーク港で自由の女神像が除幕。
  • 1889年 — Jane AddamsとEllen Gates StarrがChicagoでHull Houseを設立。
  • 1890年 — Jacob Riisが『How the Other Half Lives』を刊行。
  • 1891年 — Immigration Act of 1891成立。連邦政府が移民の入国審査を直接管理する制度を確立。
  • 1892年1月1日 — Ellis Islandの連邦移民審査場が開業。
  • 1892年 — 中国人排斥法がGeary Actによって延長・強化される。
  • 1897年6月 — Ellis Islandの木造施設が火災で焼失。
  • 1900年12月17日 — Ellis Islandの新しい耐火構造の本館が開館。
  • 1901年 — New YorkでTenement House Law成立。採光・換気・衛生・火災安全規制を強化。
  • 1903年 — Emma Lazarusの詩「The New Colossus」の銘板が自由の女神像台座内部へ設置。
  • 1903年 — 移民法が改正され、一定の政治的急進主義者などが入国拒否対象へ。
  • 1904年 — 中国人排斥法制が恒久化。
  • 1906年 — San Francisco教育委員会が日本人児童などの学校分離を進め、日米外交問題となる。
  • 1907年 — Immigration Act of 1907成立。移民審査と排除対象をさらに拡張。
  • 1907–1908年 — 日米紳士協約。日本政府がアメリカ本土へ向かう労働者への旅券発給を制限。
  • 1907年 — Congressが移民問題を調査するDillingham Commissionを設置。
  • 1909年11月 — New Yorkで移民女性労働者を中心とする大規模shirtwaist strike、「Uprising of the 20,000」が始まる。
  • 1910年 — New York City住民の約4分の3が移民一世または移民の子どもとなる。
  • 1911年 — Dillingham Commissionが大規模な移民調査報告を発表。
  • 1911年3月25日 — Triangle Shirtwaist Factory fire。146人が死亡し、多くが若い移民女性だった。
  • 1911年以後 — New York州で工場安全・労働条件をめぐる法改革が進む。
  • 1913年 — California Alien Land Law成立。帰化資格を持たない外国人の土地所有を制限し、日本人移民へ大きな影響。
  • 1914年 — ヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、アメリカの多民族社会は戦争と忠誠をめぐる新しい圧力に直面する。

次の記事へ

移民と都市化が進んだ同じ時期、企業集中、都市貧困、食品安全、労働条件、政治腐敗を改革しようとする進歩主義運動が全国へ広がった。次は1890–1914|アメリカ|進歩主義時代 — 都市改革、労働、調査報道、女性運動、反トラスト、自然保護へ進むことで、今回の移民都市が生み出した問題に政府と市民社会がどのように対応したのかを整理できる。

参考資料・出典

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY