Art Library
World History

1989–2001

冷戦後とグローバル化

ソ連崩壊、湾岸戦争、EU、インターネット、アジア通貨危機

1989年11月にベルリンの壁が開き、東欧の共産党政権が次々と崩壊したとき、多くの人々は第二次世界大戦後の長い東西対立が終わろうとしていると感じました。1990年にはドイツが統一され、1991年にはワルシャワ条約機構が解体し、12月にはソ連そのものが消滅しました。アメリカは唯一の超大国として残り、自由民主主義と市場経済が世界規模で拡大するという期待が強まりました。

しかし1990年代は、単純な「冷戦後の平和な時代」ではありませんでした。1990年8月にイラクがクウェートへ侵攻し、翌年アメリカを中心とする多国籍軍が湾岸戦争を行いました。ユーゴスラヴィア解体ではクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、コソボで激しい戦争が起き、民族浄化と大量難民が生まれました。1994年のルワンダでは、ツチを中心とする人々と虐殺に反対したフツなど100万人を超える人々が短期間に殺害されました。冷戦が終わっても、国家崩壊、民族主義、ジェノサイド、地域戦争は消えませんでした。

同時に経済の国境は急速に低くなりました。1986年に始まったGATTウルグアイ・ラウンドは1994年に妥結し、1995年に世界貿易機関WTOが発足しました。欧州では1993年に単一市場が成立し、マーストリヒト条約によって欧州連合EUが発足しました。1999年には11カ国でユーロが通貨として導入されました。アジア太平洋でもAPECが拡大し、企業は生産拠点と部品調達を国境を越えて配置するようになりました。

この変化をさらに加速させたのがデジタル通信です。1989年、CERNのティム・バーナーズ=リーはWorld Wide Webを考案しました。CERNは1993年にWebソフトウェアをパブリックドメインへ公開し、その後ブラウザ、パソコン、通信インフラの普及によってWebは研究機関の情報共有システムから一般社会の情報基盤へ変化しました。電子メール、検索、オンライン商取引、ニュース配信などが1990年代後半に急速に広がり、「グローバル化」は金融と貿易だけでなく情報の流通速度によっても進みました。

しかし資本移動の自由化は新しい危機も生みました。1997年7月、タイがバーツの固定的な為替制度を維持できなくなると通貨危機が始まり、インドネシア、韓国などへ広がりました。IMFはタイ、インドネシア、韓国へ大規模な金融支援を実施しました。短期外貨債務、金融機関の脆弱性、急速な信用拡大、固定的為替制度、突然の資本流出が相互に作用した危機でした。高成長を続けてきた「東アジアの奇跡」が、一瞬で金融不安へ転じうることが示されました。

日本ではその危機以前から別の問題が進行していました。1980年代後半の資産価格バブルが1990年代初頭に崩れ、土地・株式価格の下落と不良債権が企業と金融機関のバランスシートを傷つけました。日本銀行の後年の整理では、1990年代の成長率は大きく低下し、1997–98年には大手金融機関の破綻を伴う金融危機が発生しました。日本は高度成長とバブルの時代から、低成長・金融再編・デフレ圧力の時代へ入ります。

冷戦後には民主化と人権の前進もありました。南アフリカでは1990年にネルソン・マンデラが釈放され、アフリカ民族会議ANCなどの禁止が解除されました。長い交渉の末、1994年4月に初の非人種的普通選挙が実施され、マンデラが大統領となりました。北アイルランドでは1998年のベルファスト合意、いわゆる聖金曜日協定によって、ユニオニストとナショナリストが権力を共有する制度が作られました。

一方、国際社会が人道危機へどう介入するかは難しい問題となりました。ソマリアでは国連とアメリカが飢餓・内戦への人道支援を目的に軍事介入しましたが、1993年のモガディシュでの戦闘は介入への慎重論を強めました。その翌年、ルワンダ虐殺に対して国際社会は十分な軍事的対応を行えませんでした。ボスニアでは国連「安全地域」とされたスレブレニツァで1995年にジェノサイドが発生しました。冷戦後の国際秩序は「主権を尊重すること」と「大規模な人権侵害を止めること」の間で新しい矛盾を抱えました。

1990年代末にはグローバル化そのものへの反発も可視化されました。1999年のWTOシアトル閣僚会議では、労働、環境、農業、途上国、企業権力などをめぐる多数の団体が抗議し、会議は街頭衝突と加盟国間の交渉対立の中で新ラウンド開始に合意できませんでした。「市場開放は誰に利益をもたらすのか」「世界経済のルールは誰が決めるのか」という問いが、グローバル化の中心的政治問題となりました。

そして2001年9月11日、アルカイダのメンバー19人がアメリカ国内線4機をハイジャックし、ニューヨークの世界貿易センター、ワシントン近郊の国防総省などを攻撃しました。2,977人が死亡しました。この攻撃は、冷戦後の約十年間を支配していた「市場・情報・国境の開放」を中心とする世界認識を大きく変え、安全保障、テロ対策、アフガニスタン、イラクを中心とする次の時代へ世界を移していきます。

CONTENTS

  1. 1989年の後 — 冷戦はどう終わったのか
  2. 1990年 ドイツ統一
  3. イラクのクウェート侵攻
  4. 1991年 湾岸戦争
  5. 「新世界秩序」と国連
  6. 1991年 ソ連崩壊
  7. 8月クーデタ未遂
  8. 独立国家共同体と15共和国
  9. 旧ソ連の核兵器をどう管理するか
  10. ロシアの市場経済移行
  11. インフレーション、民営化、格差
  12. ユーゴスラヴィア解体
  13. ボスニア戦争
  14. 1995年 スレブレニツァ
  15. デイトン和平
  16. ソマリアと人道的介入
  17. 1994年 ルワンダのジェノサイド
  18. ICTYとICTR
  19. 南アフリカ — アパルトヘイト終結
  20. 1994年 非人種的普通選挙
  21. マーストリヒト条約とEU
  22. 1993年 欧州単一市場
  23. 1999年 ユーロ導入
  24. APECとアジア太平洋
  25. ウルグアイ・ラウンドとWTO
  26. 「グローバル化」とは何だったのか
  27. World Wide Webの誕生
  28. 1993年 Webの公開
  29. インターネットと新しい経済
  30. 日本 — バブル崩壊
  31. 「失われた10年」
  32. 1997–1998年 日本の金融危機
  33. 1993年 オスロ合意
  34. ルワンダと国際社会の失敗
  35. 1997年 香港返還
  36. 「一国二制度」
  37. 1997年 アジア通貨危機
  38. タイ・バーツから始まった危機
  39. 韓国とインドネシア
  40. IMF支援とその論争
  41. 1997年 京都議定書
  42. 1998年 ベルファスト合意
  43. 1998–1999年 コソボ紛争
  44. NATO空爆
  45. 1999年 シアトルWTO抗議
  46. 2001年 中国のWTO加盟
  47. 2001年9月11日
  48. 1989–2001年に何が変わったのか
  49. 1989–2001年の主な出来事
  50. 次の時代へ — 対テロ戦争と金融危機
  51. 参考資料・出典

1989年の後 — 冷戦はどう終わったのか

1989年の東欧革命によってソ連型共産党政権が相次いで崩れましたが、ソ連そのものはまだ存在していました。冷戦終結は一日の出来事ではなく、複数の段階を経た過程です。

1989年12月のマルタ会談ではアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとゴルバチョフが急速に変化する東欧と軍備管理を協議しました。翌年にはドイツ統一問題が冷戦後ヨーロッパの中心課題となりました。

そして1991年にはワルシャワ条約機構が解体し、ソ連も消滅しました。1945年以来の東西軍事・政治対立を支えてきた制度が二年間でほぼ崩壊しました。

1990年 ドイツ統一

東ドイツでは1989年の壁開放後、共産党支配が急速に崩れ、1990年3月に自由選挙が実施されました。統一を早期に進める勢力が勝利しました。

統一には東西ドイツだけでなく、第二次世界大戦後のドイツに特別な権利を持っていたアメリカ、ソ連、イギリス、フランスとの合意が必要でした。「2プラス4」交渉によって国境、安全保障、外国軍、主権問題が処理されました。

1990年10月3日、東ドイツの諸州がドイツ連邦共和国へ加入する形で統一が実現しました。統一ドイツはNATO加盟国として残りました。ソ連がこれを受け入れたことは冷戦秩序の大きな転換でした。

イラクのクウェート侵攻

1990年8月2日、サダム・フセイン政権のイラク軍約10万人がクウェートへ侵攻し、短期間で全土を占領しました。

背景にはイラン・イラク戦争後の巨額債務、石油価格、クウェートとの領土・油田問題などがありました。しかしこれらの対立は、主権国家を軍事侵攻して併合する行為を正当化するものではありません。

国連安全保障理事会は侵攻を非難し、経済制裁を実施しました。米ソ冷戦が終わりつつあった時期だったため、安全保障理事会で大国間協調が成立しやすい状況でもありました。

1991年 湾岸戦争

国連安保理はイラクが1991年1月15日までにクウェートから撤退しない場合、加盟国が「必要なすべての手段」を使用することを認めました。

1月17日、アメリカを中心とする多国籍軍は大規模航空作戦を開始しました。2月24日に地上戦が始まり、約100時間でイラク軍はクウェートから追い出されました。2月28日に戦闘は停止しました。

多国籍軍には欧米諸国だけでなく、サウジアラビア、エジプト、シリアなどアラブ諸国も参加しました。ソ連もイラクの旧友好国でありながら侵攻を支持しませんでした。

「新世界秩序」と国連

湾岸戦争は、冷戦後に国連安全保障理事会を中心とする集団安全保障がより有効に働く可能性を示したように見えました。

しかし国連承認を伴う大国間協調が、その後すべての紛争で再現されたわけではありません。ソマリア、ルワンダ、ボスニア、コソボでは「どこまで介入すべきか」「誰が武力行使を決めるのか」をめぐる対立が続きました。

1990年代の国際秩序は、冷戦時代より国連の行動余地が広がった一方、その能力と正統性の限界も繰り返し試された時代でした。

1991年 ソ連崩壊

ゴルバチョフの改革は言論・政治参加を広げましたが、経済混乱と各共和国の民族・国家主権要求も強めました。バルト三国をはじめ複数共和国で独立運動が拡大しました。

ロシア共和国ではボリス・エリツィンが政治的影響力を高め、1991年6月にはロシア大統領選挙で選出されました。

ソ連共産党、連邦政府、共和国政府の権限関係そのものが急速に不安定化しました。

8月クーデタ未遂

1991年8月、ゴルバチョフの新連邦条約に反対する党・軍・治安機関の保守派幹部が「国家非常事態委員会」を作り、ゴルバチョフをクリミアで事実上拘束して権力掌握を試みました。

モスクワではエリツィンがロシア議会庁舎前で抵抗を呼びかけ、市民が集まりました。軍の全面的支持を得られなかったクーデタは数日で失敗しました。

失敗はゴルバチョフよりエリツィンの政治的立場を強め、共産党とソ連中央政府の権威を決定的に弱めました。

独立国家共同体と15共和国

8月クーデタ後、ウクライナなど複数共和国が独立を宣言しました。12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの指導者は独立国家共同体CIS設立を合意し、ソ連が国家として存在しなくなったことを事実上確認しました。

12月25日、ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、クレムリンからソ連国旗が降ろされました。翌26日、ソ連最高会議共和国会議もソ連消滅を確認しました。

旧ソ連を構成していた15共和国は独立国家となりました。ただし政治・経済・軍事・民族問題は独立と同時に解決されたわけではありません。

旧ソ連の核兵器をどう管理するか

ソ連崩壊時、核兵器はロシアだけでなくウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンにも配備されていました。冷戦終結は核兵器管理という新しい安全保障問題を生みました。

アメリカ議会は1991年にナン=ルーガー協力的脅威削減計画を作り、旧ソ連地域の核・化学・生物兵器の安全確保と廃棄を支援しました。

その後、非ロシア共和国に残った戦略核兵器はロシアへ移送され、各国は核不拡散条約へ非核兵器国として参加する方向へ進みました。

ロシアの市場経済移行

ソ連崩壊後、ロシア政府は国家統制価格の自由化、国営企業の民営化、貿易自由化などを急速に進めました。社会主義計画経済から市場経済へ短期間で制度転換しようとする試みでした。

価格自由化によって長年抑えられていた価格が急上昇し、貯蓄の実質価値が大きく低下しました。生産も急落し、多くの企業が旧ソ連時代の供給・販売ネットワークを失いました。

改革の速度と方法をめぐっては当時から激しい議論がありました。市場制度を素早く作る必要があるという考えと、社会保障・法制度・企業統治を整えながら段階的に進めるべきだという考えが対立しました。

インフレーション、民営化、格差

民営化によって巨大な国営企業の所有構造は変わりましたが、法制度や金融市場が未成熟な中で資産が少数の実業家へ集中する過程も生まれました。後に「オリガルヒ」と呼ばれる巨大企業家層が政治・メディアへ強い影響力を持つようになります。

1998年にはロシア政府が国内債務支払いの一部停止とルーブル切下げを実施し、金融危機となりました。アジア通貨危機後の世界的資本市場不安と、ロシア自身の財政問題が重なりました。

1990年代ロシアを「市場化に成功した」あるいは「市場化がすべてを破壊した」と単純に評価するより、政治制度、資産所有、国家財政、社会保障が同時に再編された極めて不安定な移行期として見る必要があります。

ユーゴスラヴィア解体

ユーゴスラヴィアでは1980年のチトー死後、経済危機と共和国間対立、民族主義が強まりました。冷戦終結によって連邦を維持してきた国際的条件も変化しました。

1991年、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言し、連邦軍と武力衝突が始まりました。スロヴェニアでの戦闘は短期間でしたが、クロアチアではセルビア人住民地域をめぐり長期戦となりました。

1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナでも独立と領土支配をめぐる戦争が始まりました。

ボスニア戦争

ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはボシュニャク、セルビア人、クロアチア人などが混住していました。戦争では複数勢力が領土支配を求め、包囲、収容所、住民追放、虐殺などが起こりました。

「民族浄化」という言葉は、特定地域から他民族住民を暴力・恐怖・強制移動によって排除し、民族的に均質な領域を作る政策を表す言葉として広く知られるようになりました。

国連は制裁、平和維持部隊、飛行禁止区域、安全地域などを設定しましたが、民間人保護には大きな限界がありました。

1995年 スレブレニツァ

ボスニア東部のスレブレニツァは国連によって「安全地域」に指定され、オランダ国連部隊が駐留していました。

1995年7月、ラトコ・ムラディッチ率いるボスニア・セルビア軍が地域を制圧しました。その後、最大約8,000人のボシュニャク男性・少年が殺害または行方不明となり、約3万人の女性、子ども、高齢者が強制移送されました。

旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所ICTYと国際司法裁判所ICJは、この大量殺害をジェノサイドと認定しています。犯罪責任は民族集団全体ではなく、具体的行為を行った個人に帰属するという点も国際裁判で確認されました。

デイトン和平

1995年夏から秋にかけて、NATO空爆、クロアチア・ボスニア政府側の軍事攻勢、アメリカ外交などによって戦場と交渉条件が変化しました。

11月、アメリカ・オハイオ州デイトンでボスニア、クロアチア、セルビアの指導者が和平枠組みに合意し、12月にパリで正式署名しました。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナは一つの国として維持されましたが、ボシュニャク・クロアチア人主体の連邦とセルビア人主体のスルプスカ共和国という二つの構成体を持つ複雑な制度となりました。

ソマリアと人道的介入

1991年にシアド・バーレ政権が崩壊したソマリアでは、武装勢力間の戦闘と干ばつによって深刻な飢餓が発生しました。人道援助物資も武装勢力によって妨害・略奪されました。

1992年、国連安全保障理事会は人道支援を保護するため部隊派遣を拡大し、アメリカも「リストア・ホープ作戦」で大規模部隊を送りました。

1993年には任務が武装解除・国家再建へ広がる中、モガディシュで米軍と武装勢力が激しく衝突し米兵にも多数の死傷者が出ました。その経験は、その後のアメリカ政府がアフリカの内戦へ地上軍を投入することへの慎重姿勢に影響しました。

1994年 ルワンダのジェノサイド

1994年4月6日、ルワンダとブルンジの大統領を乗せた航空機が撃墜されると、ルワンダ政府軍・大統領警護隊・民兵などによる計画的な殺害が急速に始まりました。

標的の中心はツチ住民で、虐殺に反対する穏健派フツなども殺害されました。国連の現在の公式説明では、約100日間で100万人を超える人々が殺害されたとされています。

道路検問、住民名簿、行政組織、民兵、ラジオ放送などが殺害の組織化と扇動に利用されました。ジェノサイドは無秩序な「部族間憎悪の爆発」ではなく、政治・軍事組織が住民を動員して実行した大量犯罪でした。

ICTYとICTR

1993年、国連安全保障理事会は旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所ICTYを設置しました。翌1994年にはルワンダ国際刑事裁判所ICTRを設置しました。

ニュルンベルク・東京裁判以来、国際社会が特定紛争の戦争犯罪・人道に対する罪・ジェノサイドを裁く臨時国際刑事裁判所を設置した重要な出来事でした。

両裁判所の判例と経験は、1998年採択のローマ規程と後の国際刑事裁判所ICC設立にも影響しました。

南アフリカ — アパルトヘイト終結

1980年代の国内抵抗、国際制裁、経済問題、冷戦緩和によって南アフリカの白人少数支配を維持する条件は弱まりました。

1990年2月、F・W・デクラーク大統領はANCなどの禁止を解除し、政治犯釈放を進めました。2月11日、ネルソン・マンデラは27年間の収監を経て釈放されました。

その後の交渉は暴力を伴いながら進みました。ANCと政府だけでなく、インカタ自由党など複数勢力が政治秩序をめぐって競合しました。

1994年 非人種的普通選挙

1994年4月26–29日、南アフリカで初めて人種にかかわらず成人が参加できる国政選挙が行われました。

ANCが勝利し、5月10日にネルソン・マンデラを大統領とする非人種的民主政府が発足しました。国連は6月に南アフリカ代表団の資格を承認し、長く国連議題となっていたアパルトヘイト問題を正式に取り下げました。

制度的アパルトヘイトの終結は、所得・土地・教育・居住などの人種格差がただちに解消されたことを意味しません。民主化後の南アフリカは政治的平等と社会経済的不平等を同時に抱えることになります。

マーストリヒト条約とEU

1992年2月7日、欧州共同体12カ国はマーストリヒト条約、正式には欧州連合条約へ署名しました。条約は1993年11月1日に発効し、「欧州連合EU」が正式に成立しました。

条約は従来の経済共同体に加え、共通外交・安全保障政策、司法・内務協力を制度化し、EU市民権を導入しました。

また経済通貨同盟と単一通貨導入への具体的条件を設定しました。ヨーロッパ統合は貿易共同体から政治・通貨統合へ新しい段階に入りました。

1993年 欧州単一市場

1993年1月1日、欧州単一市場が本格的に開始されました。人、商品、サービス、資本の「四つの自由な移動」を実現することが目標でした。

国境を完全に消滅させたわけではありませんが、製品規格、職業資格、資本移動、企業活動など多数の制度障壁が調整されました。

1995年にはオーストリア、フィンランド、スウェーデンがEUへ加盟し、統合は北欧にも拡大しました。

1999年 ユーロ導入

1999年1月1日、11カ国が為替レートを不可逆的に固定し、ユーロを共通通貨として導入しました。欧州中央銀行ECBがユーロ圏の単一金融政策を担うようになりました。

当初ユーロは銀行決済、金融市場、会計上の通貨であり、紙幣・硬貨は各国通貨のままでした。ユーロ紙幣・硬貨の流通は2002年からです。

複数の主権国家が金融政策を共通機関へ移すことは歴史的に大規模な制度実験でした。

APECとアジア太平洋

1989年、オーストラリア、ブルネイ、カナダ、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、ニュージーランド、フィリピン、シンガポール、タイ、アメリカの12経済がキャンベラに集まり、APECを設立しました。

1991年には中国、香港、チャイニーズ・タイペイが参加し、その後メキシコ、チリ、ロシア、ベトナムなども加わりました。

APECはEUのような超国家制度ではなく、拘束力の弱い合意と自主的協力を特徴としました。東アジア・北米・オセアニアを一つの経済圏として捉える考え方が1990年代に強まりました。

ウルグアイ・ラウンドとWTO

1986年に始まったGATTウルグアイ・ラウンドには最終的に123カ国が参加しました。工業製品関税だけでなく、農業、サービス、知的財産権など新しい分野を多国間貿易制度へ取り込みました。

1994年4月、モロッコのマラケシュで最終文書が署名され、1995年1月1日に世界貿易機関WTOが発足しました。

WTOは協定を管理するだけでなく、加盟国間の貿易紛争を処理するより強力な紛争解決制度を持ちました。世界経済のルールが、それまで以上に国際機関へ制度化されました。

「グローバル化」とは何だったのか

1990年代には「グローバリゼーション」という言葉が急速に一般化しました。貿易自由化、国際資本移動、企業の海外直接投資、通信技術、物流改善によって、商品・資金・情報が国境を越える規模と速度が高まりました。

企業は一つの製品を一国だけで作るのではなく、設計、部品、組立、販売を複数国へ分散させる国際生産ネットワークを拡大しました。

一方、グローバル化はすべての国・地域・社会集団へ同じ利益をもたらしたわけではありません。産業移転、労働条件、環境、金融危機、所得格差などをめぐる批判も強まりました。

World Wide Webの誕生

1989年、CERNで働いていたイギリス人科学者ティム・バーナーズ=リーは、世界各地の研究機関に分散した情報をハイパーテキストで結びつける仕組みを提案しました。これがWorld Wide Webの出発点となりました。

1990年には最初のWebサーバーとブラウザが開発され、世界最初のWebサイトもCERNで公開されました。

インターネット自体はWeb以前から存在していました。Webの革新は、ネットワーク上の文書をURL、HTTP、HTMLなどによって相互接続し、一般利用者が比較的容易に閲覧・移動できる仕組みを作ったことでした。

1993年 Webの公開

1993年4月30日、CERNはWorld Wide Webソフトウェアをパブリックドメインへ公開しました。後にオープンライセンス版も提供されました。

CERNによれば、この決定はWebが世界規模で普及する上で重要でした。一企業が基本技術を独占せず、研究機関、企業、個人が自由にWebサーバーとブラウザを開発できたからです。

同じ時期、画像を扱えるブラウザの登場とパソコン通信環境の改善によって、Webは研究者以外にも急速に広がりました。

インターネットと新しい経済

1990年代後半には検索サービス、電子商取引、オンライン広告、インターネット接続企業が急増しました。企業評価では現在の利益より「将来のネットワーク規模」が重視され、多数のインターネット企業へ投資資金が流入しました。

アメリカのNASDAQ市場は1990年代後半に急上昇しましたが、2000年春から大幅に下落し、多数の新興IT企業が消滅しました。いわゆる「ドットコム・バブル」の崩壊です。

しかし企業評価のバブルが崩れても、インターネットそのものは消えませんでした。通信・検索・電子商取引・ソフトウェアの基盤は2000年代以降さらに社会へ浸透しました。

日本 — バブル崩壊

1989年末に日経平均株価が最高値を付けた後、株価は1990年から急落しました。土地価格も1990年代初頭に下落へ転じました。

不動産・株式価格上昇を前提に貸し出していた金融機関には大量の不良債権が残り、企業も過剰債務、過剰設備、過剰雇用の調整を迫られました。

バブル崩壊は単なる株価下落ではなく、銀行・企業のバランスシートを通じて長期間実体経済へ影響する問題となりました。

「失われた10年」

日本銀行の後年の検証では、1990年代の日本の実質GDP成長率は平均で約1.5%となり、1980年代から大幅に低下しました。

政府は公共投資など複数回の景気対策を実施し、日本銀行も1991年以降政策金利を段階的に引き下げました。1995年には短期金利は事実上ゼロに近い水準まで低下しました。

それでも企業の債務削減、銀行の不良債権問題、資産価格下落が長く需要を抑えました。「失われた10年」は一つの政策失敗だけでなく、巨大な資産価格バブル後の金融・企業・人口・産業構造調整が重なった時期でした。

1997–1998年 日本の金融危機

1997年から98年には山一證券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行など大手金融機関が相次いで破綻・経営危機に入りました。

日本銀行は、金融機関の不良債権と自己資本問題が金融仲介機能を低下させ、企業への信用供給を圧迫したと後年整理しています。

1998年には消費者物価上昇率もマイナス圏へ入り、デフレーションが長期的問題となりました。世界がIT・金融グローバル化の成長を語る一方、日本はバブル後処理に苦しんでいました。

1993年 オスロ合意

第一次インティファーダと1991年マドリード会議後、イスラエルとPLOの代表はノルウェーで秘密交渉を行いました。

1993年9月、イスラエル政府とPLOは相互承認を行い、ワシントンで「暫定自治に関する原則宣言」、いわゆるオスロ合意へ署名しました。

パレスチナ暫定自治政府を作り、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部で段階的自治を進め、最終地位問題を後の交渉に委ねる枠組みでした。エルサレム、難民、入植地、国境など最も困難な問題を先送りしたことが、後の和平停滞の大きな要素となりました。

ルワンダと国際社会の失敗

ルワンダには和平合意監視のため国連支援団UNAMIRが派遣されていました。しかしジェノサイド開始後、主要国は追加部隊派遣に消極的で、4月21日に国連安保理は部隊を約2,165人から270人へ削減しました。

その後任務は再拡大されましたが、必要な部隊・装備の展開には時間がかかりました。7月にはルワンダ愛国戦線RPFが主要地域を制圧し、ジェノサイド政権は崩壊しました。

国連自身の後の検証も、加盟国の政治的意思不足によってジェノサイドへの対応が失敗したことを認めています。この経験は後の「保護する責任」論など、人道危機と国家主権をめぐる議論に影響しました。

1997年 香港返還

イギリスと中国は1984年の中英共同声明で、1997年7月1日に中国が香港に対する主権行使を再開することで合意していました。

1997年7月1日、香港特別行政区が成立し、150年以上に及んだイギリス統治は終了しました。

返還は冷戦後の中国の国際的・経済的存在感が高まる中で起こりました。同時に、資本主義的国際金融都市を中国の主権下でどのように維持するかという歴史的実験でもありました。

「一国二制度」

香港基本法は1990年に中国全国人民代表大会で採択され、1997年7月1日に施行されました。

基本法は「一国二制度」の下で、中国本土の社会主義制度を香港で実施せず、従来の資本主義制度と生活様式を50年間変更しないという枠組みを定めました。香港特別行政区には外交・防衛を除いて高度な自治を認めるとされました。

この制度が長期的にどのように運用されるかは、その後の中国・香港関係の中心問題となります。

1997年 アジア通貨危機

1990年代前半、東南アジア・韓国などには大量の海外資金が流入し、不動産・株式・企業投資を支えました。多くの企業・金融機関は外貨、とくにドルで短期資金を借りていました。

しかし金融機関監督の弱さ、過剰投資、資産価格上昇、短期外貨債務、固定的為替制度などが脆弱性を作りました。

投資家が一斉に資金を引き揚げ始めると、通貨下落が外貨債務の国内通貨換算額を増やし、企業・銀行の財務をさらに悪化させる循環が生まれました。

タイ・バーツから始まった危機

1997年7月2日、タイ政府はバーツを事実上のドル連動制度から変動相場へ移行させました。バーツは急落し、危機はマレーシア、インドネシア、フィリピン、韓国などへ波及しました。

IMFは7月をアジア通貨危機の始まりと位置づけています。

「タイ経済の問題がそのまま他国へ移った」のではなく、各国に異なる脆弱性がありましたが、国際投資家が地域全体を同じリスクカテゴリーとして評価したことで資金流出が連鎖しました。

韓国とインドネシア

韓国では財閥企業の高い債務比率と金融機関の短期外貨借入が危機を深め、外貨準備が急減しました。1997年末、IMFを中心とする大型支援プログラムが合意されました。

インドネシアではルピアが急落し、金融機関・企業の外貨債務問題が深刻化しました。経済は1998年に急激に縮小し、物価上昇と失業・貧困が拡大しました。

経済危機は政治にも影響し、32年間続いたスハルト政権は1998年5月に退陣しました。金融危機が権威主義体制の政治危機と結びついた例です。

IMF支援とその論争

タイ、インドネシア、韓国はIMF支援を受け、金融機関整理、金利政策、財政政策、企業統治改革などを実施しました。

IMF自身の後年の検証は、金融・企業部門の弱さ、短期債務と資本流出が危機を深めたとする一方、危機初期の政策設計についても多くの議論が生じたことを認めています。

批判者は、景気が急速に落ち込む中で財政・金融引き締めを求めたことが不況を悪化させたと主張しました。IMF側も状況変化に応じ一部政策を修正しました。アジア通貨危機は、国際資本移動の自由化と各国金融制度の安定をどう両立させるかという問題を世界的議題にしました。

1997年 京都議定書

1992年の地球サミットで国連気候変動枠組条約が採択され、気候変動を国際協力によって扱う制度が作られました。しかし条約自体は先進国に具体的な法的排出削減目標を設定していませんでした。

1997年12月11日、京都で開催されたCOP3で京都議定書が採択されました。先進国と市場経済移行国に温室効果ガス排出を削減・制限する個別目標を設定しました。

議定書が実際に発効するのは2005年ですが、気候変動が環境科学の問題から国際経済・外交・エネルギー政策の中心テーマへ移った重要な節目でした。

1998年 ベルファスト合意

北アイルランドでは1960年代末以来、英国残留を望むユニオニスト/ロイヤリストと、アイルランド統一を望むナショナリスト/リパブリカンの対立を背景に、準軍事組織と治安部隊を含む長期的暴力が続きました。

1998年4月10日、イギリス政府、アイルランド政府、北アイルランド主要政党の多くがベルファスト合意、通称聖金曜日協定へ合意しました。

北アイルランドの帰属は住民多数の同意によって決める「同意原則」を確認し、ユニオニストとナショナリストが共同統治する議会・行政府、南北協力機関などを設ける枠組みを作りました。和平はその後も危機を経験しましたが、長期紛争を政治制度へ移す大きな転換でした。

1998–1999年 コソボ紛争

セルビア共和国の自治州コソボではアルバニア系住民が多数を占めていました。1989年以後ベオグラード政府が自治権を縮小し、1990年代にはアルバニア系住民による並行的教育・政治制度が作られました。

その後コソボ解放軍KLAによる武装闘争と、ユーゴスラヴィア・セルビア治安部隊による大規模作戦が激化し、多数の民間人が避難しました。

国際交渉は停戦に至らず、1999年にNATOが軍事介入へ進みました。

NATO空爆

1999年3月24日、NATOはユーゴスラヴィア連邦共和国に対して航空作戦「アライド・フォース」を開始しました。空爆は78日間続きました。

NATOはコソボでの人道的危機を止めることを介入理由としました。一方、この軍事行動には国連安全保障理事会による明示的な武力行使承認がなく、国際法上・政治上の正統性をめぐる議論が生じました。

6月にユーゴスラヴィア軍・治安部隊はコソボから撤退し、国連安保理決議1244の下で国際行政とNATO主導部隊が展開しました。

1999年 シアトルWTO抗議

1999年11月30日から12月3日まで、WTO第3回閣僚会議がアメリカのシアトルで開かれました。新しい多角的貿易交渉を開始することが主要課題でした。

会場周辺には労働組合、環境団体、人権団体、途上国支援団体、農業団体など多数の抗議者が集まりました。一部では警察との衝突や器物破壊も起きました。

会議は街頭抗議だけが理由で失敗したわけではありません。先進国と途上国、アメリカとEUなど加盟国間でも農業、労働、制度運営をめぐる深い対立があり、新ラウンド開始に合意できませんでした。グローバル化への政治的異議が世界的に可視化された象徴的事件となりました。

2001年 中国のWTO加盟

改革開放を進めた中国は、貿易・投資制度を国際ルールへ接続するため長期にわたりGATT/WTO加盟交渉を続けました。

2001年12月、中国はWTOの143番目の加盟国となりました。

中国の加盟は巨大な人口・生産力を持つ経済を世界貿易制度へ深く組み込む出来事でした。外国企業の中国生産拡大、中国の輸出増加、国際サプライチェーンの再編は2000年代にさらに加速します。

2001年9月11日

2001年9月11日、アルカイダに属する19人がアメリカ東海岸から出発した旅客機4機をハイジャックしました。

2機はニューヨークの世界貿易センターツインタワーへ突入し、1機はワシントン近郊の国防総省へ突入しました。4機目では乗客・乗員がハイジャック犯へ抵抗し、機体はペンシルヴェニア州に墜落しました。

9・11記念博物館によれば、攻撃で2,977人が死亡しました。攻撃は国境を越えた民間航空・金融・通信ネットワークを利用したテロであり、1990年代の「開かれた世界」を象徴するインフラそのものが攻撃手段・標的になった点でも転換的でした。

1989–2001年に何が変わったのか

1989年の東欧革命直後には、冷戦が終われば国際政治の主要な対立も縮小すると期待されました。実際、ドイツ統一、ソ連崩壊、南アフリカ民主化、北アイルランド和平など、それまで長期化していた政治問題が大きく変化しました。

しかし冷戦終結は戦争の終結ではありませんでした。湾岸戦争、旧ユーゴスラヴィア戦争、ルワンダ虐殺、ソマリア、コソボなどでは、国家間戦争とは異なる内戦・国家崩壊・民族的暴力が国際安全保障の中心へ入りました。国連平和維持、人道的介入、国際刑事裁判という制度が試されました。

経済ではWTO、EU単一市場、ユーロ、APEC、国際金融市場が国境を越えた経済活動を拡大しました。World Wide Webは情報流通の速度とコストを劇的に変えました。企業と個人が国境を越えて情報・商品・資本へ接続できる範囲は、1989年と2001年では大きく異なっていました。

一方、アジア通貨危機は資本が高速で流入することと、高速で流出することが表裏一体であることを示しました。市場統合は成長機会だけでなく金融危機を世界へ伝播させる経路にもなりました。1998年ロシア危機や、その後の国際金融市場の動揺もこの相互依存を示しています。

日本はこの時期、世界的グローバル化の主要な資本・技術供給国でありながら、国内ではバブル崩壊と金融危機に苦しみました。1980年代に「日本型経営」が世界の成功モデルとして語られた状態から、1990年代にはデフレと不良債権処理が国際的研究対象になるほど評価が反転しました。

中国は1989年天安門事件後も改革開放を継続し、1990年代に沿海部を中心とする輸出・外国投資主導の成長を加速させました。1997年の香港返還と2001年のWTO加盟は、中国が世界経済へさらに深く組み込まれていく二つの象徴的出来事でした。

ヨーロッパでは東西分断が解消される一方、EUが政治・経済統合を深めました。1999年のユーロ導入は、冷戦後ヨーロッパが国家間競争だけでなく超国家的統合によって秩序を作ろうとしたことを象徴しています。

1990年代の世界は「グローバル化の勝利」で一直線に進んだわけでもありません。シアトルWTO抗議は、貿易自由化、企業活動、環境、労働、格差をめぐる対立を可視化しました。市場の国際化が進むほど、それを規制する民主的ルールをどこで誰が作るのかが問われました。

そして2001年9月11日、冷戦後秩序の中心課題は大きく変化します。国家間の核戦争を管理することから、国際テロ組織、失敗国家、情報ネットワーク、越境金融、宗教・政治過激主義をどう扱うかへ、安全保障の焦点が移っていきました。

したがって1989–2001年は「冷戦後」という一つの完成した時代ではありません。冷戦秩序が崩れた後に、グローバル市場、デジタルネットワーク、地域統合、人道介入、中国の台頭という新しい構造が形成され、その矛盾が2001年以後の世界へ引き継がれていく移行期でした。

1989–2001年の主な出来事

  • 1989年 — APEC設立。CERNでWorld Wide Web構想が提案される。
  • 1990年2月11日 — ネルソン・マンデラ釈放。
  • 1990年8月2日 — イラク軍がクウェートへ侵攻。
  • 1990年10月3日 — ドイツ統一。
  • 1991年1–2月 — 湾岸戦争。多国籍軍がイラク軍をクウェートから排除。
  • 1991年 — スロヴェニア、クロアチアなどの独立をめぐりユーゴスラヴィア解体戦争が始まる。
  • 1991年8月 — ソ連保守派のクーデタ未遂。
  • 1991年12月25日 — ゴルバチョフがソ連大統領を辞任。
  • 1991年12月26日 — ソ連消滅が正式に確認される。
  • 1992年2月7日 — マーストリヒト条約署名。
  • 1992年 — ボスニア戦争開始。
  • 1992年12月 — アメリカ主導の部隊がソマリアへ展開。
  • 1993年 — 欧州単一市場開始。EU条約発効。
  • 1993年4月30日 — CERNがWebソフトウェアをパブリックドメインへ公開。
  • 1993年9月 — イスラエルとPLOがオスロ合意へ署名。
  • 1994年4月 — ルワンダでツチに対するジェノサイド開始。
  • 1994年4月26–29日 — 南アフリカ初の非人種的普通選挙。
  • 1994年 — GATTウルグアイ・ラウンド最終合意。
  • 1995年1月1日 — 世界貿易機関WTO発足。
  • 1995年7月 — スレブレニツァでジェノサイド。
  • 1995年12月 — ボスニア和平を定めるデイトン合意が正式署名。
  • 1997年7月1日 — 香港特別行政区成立、中国が香港への主権行使を再開。
  • 1997年7月2日 — タイがバーツを変動相場へ移行、アジア通貨危機が本格化。
  • 1997年12月11日 — 京都議定書採択。
  • 1997–1998年 — 日本で大手金融機関破綻が相次ぎ金融危機が深刻化。
  • 1998年5月 — インドネシアのスハルト大統領退陣。
  • 1998年4月10日 — 北アイルランドでベルファスト/聖金曜日協定。
  • 1998年 — ロシア金融危機。
  • 1999年1月1日 — 11カ国でユーロ導入。
  • 1999年3–6月 — NATOがユーゴスラヴィアへコソボ空爆作戦。
  • 1999年11–12月 — WTOシアトル閣僚会議と大規模抗議。
  • 2000年 — インターネット企業を中心とした株式市場バブルが調整局面へ。
  • 2001年9月11日 — アルカイダによるアメリカ同時多発テロ。
  • 2001年12月 — 中国がWTOへ加盟。

次の時代へ — 対テロ戦争と金融危機

2001年9月11日の攻撃後、アメリカはアルカイダとそれを保護するタリバン政権を対象としてアフガニスタンで軍事作戦を開始しました。「対テロ戦争」がアメリカ外交・安全保障政策の中心となります。

2003年にはアメリカとイギリスを中心とする有志連合がイラクへ侵攻し、サダム・フセイン政権を倒しました。しかし大量破壊兵器は発見されず、占領後の反乱と宗派対立が長期化します。

一方、世界経済では中国のWTO加盟を背景に国際サプライチェーンがさらに拡大し、住宅・金融市場では新しい信用膨張が進みました。その帰結が2007–08年の世界金融危機です。

欧州ではEUの東方拡大が進み、旧社会主義国がEU・NATOへ参加していきます。中東ではアフガニスタン・イラク戦争とパレスチナ問題が並行し、国際テロと国家間戦争の境界も複雑になります。

日本では小泉純一郎政権が不良債権処理・構造改革を進める一方、少子高齢化と長期低成長がより明確な社会課題となります。

次の記事では、2001–2008|9・11後の世界 — 対テロ戦争、アフガニスタン、イラク、中国台頭、世界金融危機として、冷戦後グローバル化が安全保障戦争と金融危機によってどのように変質したのかを扱います。

参考資料・出典

本ページは、U.S. Department of State Office of the Historian、United Nations、European Union、European Central Bank、World Trade Organization、International Monetary Fund、CERN、Bank of Japan、Hong Kong SAR Government、UNFCCC、NATO、英国政府・北アイルランド議会、National September 11 Memorial & Museumなどの資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。冷戦終結は1989年の壁開放だけで完結した出来事とはせず、ドイツ統一、ワルシャワ条約機構解体、1991年ソ連崩壊までの過程として扱いました。1990年代の「グローバル化」も自由貿易だけではなく、金融自由化、欧州統合、Web、国際サプライチェーンと、それへの反発・金融危機の双方を含めています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY