1914–1918
第一次世界大戦
塹壕戦、総動員、帝国、革命
1914年夏に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパの大国間戦争であると同時に、植民地帝国によってすでに世界規模で結ばれていた政治・経済・軍事ネットワーク全体を巻き込んだ戦争でした。西部戦線では塹壕線が北海からスイス国境近くまで延び、フランス、ベルギー、ドイツの兵士が巨大な火力と消耗戦に直面しました。しかし戦争は西部戦線だけで起きたわけではありません。東ヨーロッパ、バルカン、コーカサス、オスマン帝国領、中東、アフリカ、中国山東半島、太平洋、海上航路がすべて戦争空間になりました。
戦争の規模を支えたのは、19世紀に形成された徴兵制度、鉄道、電信、工業生産、金融、植民地ネットワークでした。国家は兵士だけでなく、工場労働者、農民、女性、植民地住民、船員、鉄道員、科学者、医師、看護師まで動員しました。武器と弾薬の生産、食料配給、価格統制、プロパガンダ、検閲、戦時国債などを通じて、戦争は前線と銃後の境界を大きく変えました。
同時に、第一次世界大戦は「技術が戦争を決めた」という単純な物語でもありません。機関銃、重砲、毒ガス、航空機、潜水艦、戦車など新しい兵器が登場しましたが、各軍はそれらをどう組み合わせ、補給し、指揮するかを戦争中に学びました。1914年の戦い方と1918年の戦い方は同じではありません。1914–1918 Onlineが指摘するように、塹壕戦の静止した外観の裏側では、砲兵、通信、歩兵、航空、戦車を組み合わせる戦術が急速に変化していました。
戦争はまた、帝国の内部にある民族・宗教・植民地関係を極限まで緊張させました。オスマン帝国では1915年からアルメニア人に対する大量殺害と強制移送が行われ、現在、広くジェノサイドとして認識されています。ロシア帝国では軍事的敗北、食料不足、政治危機が1917年革命へつながり、ボリシェヴィキ政権は1918年3月にブレスト=リトフスク条約を結んで戦争から離脱しました。オーストリア=ハンガリー、ドイツ、オスマン帝国も1918年に崩壊へ向かいます。
アメリカは1917年4月にドイツへ宣戦し、1918年には大量の米軍兵士が西部戦線へ到着しました。ドイツはロシア離脱によって東部戦線の兵力を西へ移し、1918年春に大攻勢を行いましたが、決定的勝利を得られませんでした。8月以降、イギリス、フランス、アメリカ、ベルギーなどの連合軍が連続攻勢を行い、ドイツ軍を後退させます。ブルガリア、オスマン帝国、オーストリア=ハンガリーが相次いで戦争から脱落し、ドイツでは革命が起こり、11月11日に休戦協定が発効しました。
休戦は戦闘を止めましたが、戦争が生んだ問題を終わらせたわけではありません。数百万の死者、負傷者、捕虜、難民、孤児、破壊された地域、国家債務、革命、民族紛争が残されました。さらに1918年にはインフルエンザ・パンデミックが世界的に拡大しました。戦争が流行そのものを生み出したわけではありませんが、大量の兵士と民間人の移動や密集は感染拡大を促す条件となりました。
CONTENTS
- なぜ「世界大戦」になったのか
- 連合国と中央同盟国
- 1914年 西部戦線
- マルヌ会戦と短期戦構想の崩壊
- 「海への競争」と塹壕線
- 塹壕は一本の溝ではなかった
- 戦場を支配した砲兵
- 機関銃と防御側の優位
- 東部戦線 — 広大な機動戦
- タンネンベルク
- セルビア戦線
- オスマン帝国参戦
- コーカサス戦線
- 1915年 ガリポリ戦役
- ANZACと帝国軍
- メソポタミア戦線
- シナイ・パレスチナ戦線
- アラブ反乱と帝国外交
- 1915–1916年 アルメニア人ジェノサイド
- 強制移送と大量死
- アフリカの戦場
- 植民地から動員された兵士
- インド軍と世界戦争
- 兵士だけではない植民地動員
- 日本の参戦
- 青島攻略と太平洋のドイツ領
- 1915年 対華二十一か条要求
- 日本海軍と連合国の海上戦
- イギリスの海上封鎖
- ドイツ潜水艦戦
- ルシタニア号
- 1916年 ユトランド沖海戦
- 毒ガスの大規模使用
- 航空機が変えた偵察と戦闘
- 戦車の登場
- 1916年 ヴェルダン
- 1916年 ソンム
- 消耗戦とは何だったのか
- 総動員される社会
- 軍需工場と女性労働
- 食料・配給・封鎖
- 宣伝と検閲
- 戦費と戦時国債
- 捕虜と赤十字国際委員会
- 1917年という転換点
- 無制限潜水艦作戦の再開
- ツィンメルマン電報
- 1917年 アメリカ参戦
- ロシア二月革命
- 十月革命とボリシェヴィキ
- 1918年 ブレスト=リトフスク条約
- 1918年 ドイツ春季攻勢
- 増大するアメリカ軍
- 連合国の百日攻勢
- 中央同盟国の崩壊
- ドイツ革命
- 1918年11月11日 休戦
- 犠牲者数をどう考えるか
- 1918年インフルエンザと戦争
- 休戦で終わらなかった戦争
- 1914–1918年に何が変わったのか
- 1914–1918年の主な出来事
- 次の時代へ — 戦後秩序と革命
- 参考資料・出典
なぜ「世界大戦」になったのか
1914年7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦した時点では、戦争はまだバルカンの二国間戦争でした。しかしロシアの動員、ドイツの対露・対仏宣戦、ベルギー侵攻、イギリス参戦によって、数日のうちにヨーロッパ主要大国の戦争へ変わりました。
さらにイギリス、フランス、ロシア、ドイツは植民地・海外領土を持ち、日本は日英同盟を結んでいました。海軍基地、商船、植民地軍、通信ケーブル、金融市場が世界中へ広がっていたため、大国の参戦はそのまま海外領土を戦争へ引き込みました。
「世界大戦」となった理由は、戦場が多かったからだけではありません。インドの兵士がフランスで戦い、西アフリカの兵士がヨーロッパへ送られ、中国人労働者が連合軍の後方作業に従事し、オーストラリア・ニュージーランド兵がガリポリへ上陸し、日本軍が青島を攻撃しました。帝国が持つ人・資源・交通網そのものが戦争を世界化しました。
連合国と中央同盟国
戦争開始時の主要な対立は、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリーに対し、フランス、ロシア、イギリス、セルビアなどが戦う構図でした。1914年秋にはオスマン帝国がドイツ・オーストリア側へ加わり、1915年にはブルガリアも参戦しました。この陣営は中央同盟国と呼ばれます。
一方、連合国側には1914年8月に日本が加わり、1915年にはイタリア、1916年にはルーマニア、1917年にはアメリカなどが参戦しました。
参戦国の分類は固定ではありません。イタリアは戦前の三国同盟国でしたが1914年に中立を選び、翌年にオーストリア=ハンガリーへ宣戦しました。戦争の陣営は、戦前の同盟だけで機械的に決まったわけではありません。
1914年 西部戦線
ドイツ軍はロシアとの二正面戦争を想定し、西側でフランスを早期に破った後に東へ兵力を移すことを重視しました。そのためルクセンブルクと中立国ベルギーを通過してフランス北部へ進撃しました。
ベルギー軍の抵抗とイギリス遠征軍・フランス軍の戦闘によって進撃は遅れましたが、ドイツ軍はパリ近郊まで迫ります。
1914年8月の戦争は、後に象徴となる静止した塹壕戦ではなく、各軍が大規模に移動する極めて流動的な戦役でした。
マルヌ会戦と短期戦構想の崩壊
9月初旬、フランス・イギリス軍はマルヌ川周辺で反撃し、ドイツ軍はエーヌ川方面へ後退しました。第一次マルヌ会戦によって、ドイツが開戦直後にフランスを決定的に破る構想は実現しませんでした。
しかし連合軍側もドイツ軍をフランスから追い出すことはできませんでした。双方は相手の北側面を回り込もうとして部隊を北へ移し、戦線は次第に英仏海峡へ延びました。
ここから「短期決戦」ではなく、巨大な兵力と産業力を継続的に投入する長期戦へ移っていきます。
「海への競争」と塹壕線
1914年秋、ドイツ軍と連合軍は互いの側面を回り込もうとして北へ戦線を延ばしました。この一連の作戦は後に「海への競争」と呼ばれますが、海そのものを目標に競走したわけではありません。
10月から11月の第一次イーペル会戦を経て、双方が防御陣地を連続させると、北海からスイス国境近くまで長大な戦線が形成されました。
1914–1918 Onlineは、ここから西部戦線が固定化した一方、その内部では火力・補給・戦術をめぐる継続的な変化が起きていたことを強調しています。
塹壕は一本の溝ではなかった
塹壕戦のイメージとして一本の泥だらけの溝が思い浮かびますが、実際の防御陣地は前線塹壕、支援塹壕、予備陣地、通信壕、地下壕、機関銃陣地、砲兵観測所などを組み合わせた複雑なシステムでした。
前線と敵陣の間には「無人地帯」があり、鉄条網、砲弾穴、破壊された村落が広がりました。攻撃側は砲撃後に歩兵を前進させましたが、守備側の機関銃や残存砲兵が機能すれば甚大な損害を受けました。
戦争後半にはドイツ軍が縦深防御を発達させるなど、塹壕の構造自体も変化していきました。
戦場を支配した砲兵
第一次世界大戦の死傷者を生んだ中心的兵器の一つは砲兵でした。砲撃は敵歩兵を殺傷するだけでなく、鉄条網、塹壕、通信線、補給路、砲兵陣地を破壊し、攻撃準備にも防御にも不可欠でした。
戦争初期には各国とも予想を超える砲弾消費によって弾薬不足に陥りました。その後、軍需産業の拡大と国家統制によって砲弾生産が急増します。
1918年には航空偵察、測音、閃光観測、精密な射撃計算などを用いて、長時間の予備砲撃をせずに敵砲兵を攻撃する方法も発達しました。戦術は戦争中に大きく変化しました。
機関銃と防御側の優位
機関銃は短時間に大量の弾丸を発射でき、開けた地形を前進する歩兵に大きな損害を与えました。しかし機関銃だけが塹壕戦を作ったわけではありません。
鉄条網、速射砲、重砲、ライフル、掩体、通信、鉄道による予備兵力輸送が組み合わさることで、防御側は突破された地点へ新しい兵を送り、戦線を再構築できました。
1914–1918 Onlineが説明するように、問題は単に「攻撃兵器が弱かった」ことではなく、巨大な徴兵軍を補充できる国家同士が工業化された火力の下で戦ったため、一度の戦闘で戦略的決着をつけにくかったことでした。
東部戦線 — 広大な機動戦
東部戦線は西部戦線よりはるかに長く、バルト海から黒海方面まで広大でした。そのため西部のように戦線全体が連続した塹壕で固定されることはありませんでした。
ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの軍隊はポーランド、ガリツィア、バルト地域などで大規模に移動し、都市と領土が何度も占領・再占領されました。
戦場の移動は民間人に巨大な影響を与えました。占領、強制移住、難民化、徴発、民族集団への疑念が広がり、数百万規模の住民移動が起きました。
タンネンベルク
1914年8月、ロシア軍はドイツ領東プロイセンへ侵攻しました。ドイツ第8軍はロシア第2軍を包囲し、タンネンベルクの戦いで大きな勝利を得ました。
ヒンデンブルクとルーデンドルフはこの勝利によって国内で英雄化され、後にドイツ軍最高指導部の中心人物となります。
しかしタンネンベルクの勝利でロシアが戦争から脱落したわけではありません。ロシア軍はオーストリア=ハンガリー領ガリツィアでは大きく前進し、東部戦線の戦争はさらに三年以上続きました。
セルビア戦線
戦争の直接的な発端となったセルビアに対し、オーストリア=ハンガリー軍は1914年に複数回侵攻しました。しかしセルビア軍はツェル、コルバラなどで反撃し、最初の侵攻を退けました。
1915年秋、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍が再侵攻し、ブルガリアが中央同盟国側で参戦するとセルビアは挟撃されました。セルビア政府と軍はアルバニア山岳地帯を通ってアドリア海へ撤退し、多数の兵士・民間人が死亡しました。
セルビア戦争は1914年の局地戦争から始まりながら、バルカン全体の戦争へ拡大していきました。
オスマン帝国参戦
オスマン帝国政府は1914年8月にドイツと秘密同盟を結び、10月末にはオスマン艦隊がロシア黒海沿岸を攻撃しました。11月、ロシア、イギリス、フランスとの戦争状態に入ります。
オスマン参戦によって、コーカサス、ダーダネルス、メソポタミア、シナイ、パレスチナ、アラビアなど新しい戦線が開かれました。
また黒海から地中海へ通じる海峡が中央同盟国側の支配下にあることで、連合国がロシアへ海上輸送を行うことが難しくなりました。これがガリポリ作戦の重要な背景となります。
コーカサス戦線
オスマン帝国とロシア帝国はコーカサスで戦いました。1914年末から1915年初頭、オスマン第3軍はサルカムシュ方面でロシア軍を攻撃しましたが、寒さ、補給不足、戦闘によって壊滅的損害を受けました。
この軍事的敗北の後、統一進歩委員会政権はアルメニア人をロシアと協力する潜在的な「内敵」として扱う政策を強化しました。
実際にはオスマン軍で忠実に従軍したアルメニア人も多く、ロシア側へ協力した武装集団の存在を帝国内のアルメニア人全体の反逆とみなすことはできません。
1915年 ガリポリ戦役
連合国はダーダネルス海峡を突破し、オスマン帝国の首都コンスタンティノープルへ圧力をかけ、ロシアへの海上連絡路を確保しようとしました。1915年3月18日、英仏艦隊は海峡突破を試みましたが、機雷と沿岸砲台によって複数の艦艇を失い撤退しました。
4月25日からイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランドなどの部隊がガリポリ半島へ上陸しました。しかしオスマン軍の抵抗を突破できず、戦場は塹壕戦となりました。
連合軍は1915年末から1916年初頭に撤退しました。ガリポリは連合国側の失敗である一方、オスマン側ではムスタファ・ケマルらの軍事的評価を高め、後のトルコ共和国の国家記憶にも重要な位置を占めます。
ANZACと帝国軍
ガリポリにはオーストラリア・ニュージーランド軍団、ANZACが参加しました。両地域はイギリス帝国の自治領であり、独自の国家意識を形成しつつ帝国軍事体系の一部として戦争へ参加しました。
ANZAC上陸は後にオーストラリアとニュージーランドの国民的記憶の中心となりますが、戦場にはイギリス、フランス、インド、ニューファンドランドなど多様な部隊もいました。
オスマン側にもアナトリア各地やアラブ地域などから兵士が動員されていました。ガリポリを一国対一国の戦争として見ることはできません。
メソポタミア戦線
イギリスはペルシア湾の石油施設とインドへの航路を守るため、英領インド軍を中心とする部隊をオスマン領メソポタミアへ送りました。1914年にバスラを占領し、その後バグダード方面へ進撃します。
しかし1915–16年にはクートでイギリス・インド軍部隊が包囲され、1916年4月に降伏しました。
再編後のイギリス軍は1917年3月にバグダードを占領します。メソポタミア戦線は、インド帝国の兵力と資源が中東戦争を支えた代表的な例でした。
シナイ・パレスチナ戦線
オスマン軍はスエズ運河を脅かすためシナイ半島方面へ攻撃しましたが、運河を奪取することはできませんでした。イギリス帝国軍は反攻し、シナイからパレスチナへ進みました。
1917年、イギリス軍はガザ方面の戦闘を経てエルサレムを占領し、1918年にはメギドの戦いでオスマン軍を大きく破りました。
この戦線でもイギリス本国兵だけでなく、オーストラリア、ニュージーランド、インドなど帝国各地の兵士が参加しました。
アラブ反乱と帝国外交
1916年、メッカのシャリーフ・フサインを中心にオスマン帝国へ対するアラブ反乱が始まりました。イギリスは反乱を支援し、ヒジャーズ鉄道への攻撃などを通じてオスマン軍を拘束しました。
一方、イギリスとフランスは1916年のサイクス=ピコ協定でオスマン帝国領の将来的な勢力圏分割を秘密裏に検討していました。1917年にはイギリス政府がバルフォア宣言を出し、パレスチナにおける「ユダヤ人の民族的郷土」設立支持を表明します。
戦時中の中東外交には、アラブ側への約束、英仏間の勢力圏構想、シオニズムへの支持が重なり、戦後の委任統治と領土問題へ複雑な遺産を残しました。
1915–1916年 アルメニア人ジェノサイド
第一次世界大戦中、オスマン帝国の統一進歩委員会政権は帝国内のアルメニア人に対して大規模な拘束、強制移送、殺害を実施しました。アメリカ・ホロコースト記念博物館は、1915年春から1916年秋にかけて行われたアルメニア人の物理的破壊をジェノサイドとして説明しています。
1915年4月24日、コンスタンティノープルで約240人のアルメニア人指導者が逮捕・追放されました。この日が現在、ジェノサイド開始の象徴的日付として記憶されています。
オスマン政府はロシア軍との戦争を背景に、アルメニア人全体を安全保障上の脅威として扱いました。しかし前線から遠い地域を含む帝国各地へ強制移送は拡大し、軍事上の限定的避難措置を超える破壊政策となりました。
強制移送と大量死
アルメニア人住民はシリア砂漠方面などへ移送され、移送中や収容地で殺害、飢餓、渇き、病気、暴力によって大量に死亡しました。男性が集団殺害され、女性や子どもが強制移送される事例も多くありました。
アメリカ・ホロコースト記念博物館は、当時オスマン帝国内に約150万人いたアルメニア人のうち、少なくとも66万4千人、最大で120万人ほどが死亡したとする推計を示しています。
犠牲者数には研究上の幅がありますが、国家主導の大量殺害と強制移送によってオスマン帝国内のアルメニア人社会が破壊されたことは明確です。戦争は国家が「内敵」と分類した住民へ極端な暴力を行う環境を生みました。
アフリカの戦場
ドイツはトーゴ、カメルーン、ドイツ領南西アフリカ、ドイツ領東アフリカに植民地を持っていました。戦争が始まると、イギリス、フランス、ベルギー、南アフリカなどの軍隊がこれらの植民地を攻撃しました。
トーゴや南西アフリカでは比較的早くドイツ支配が崩れましたが、東アフリカではパウル・フォン・レットウ=フォルベック指揮下のドイツ植民地軍が長期間戦闘を続けました。
この戦争では兵士以上に大量のアフリカ人運搬人が軍需物資輸送へ動員され、病気、飢餓、過労による犠牲も大きくなりました。アフリカ戦線は「ヨーロッパ人植民地軍同士の周辺戦争」ではなく、現地社会に大規模な負担を強いた戦争でした。
植民地から動員された兵士
イギリスとフランスは植民地・自治領から大量の兵士を動員しました。フランスは北・西アフリカ、マダガスカル、インドシナなどから兵士と労働者を送り、イギリス帝国ではインド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、西インド諸島などが戦争へ参加しました。
植民地兵の動員は「帝国への忠誠」だけでは説明できません。給与、土地、身分上昇、地方権力との関係、徴募圧力、徴兵など参加理由は地域によって異なりました。
戦争後、海外従軍経験を持つ人々が帝国支配への見方を変えた地域もありました。ヨーロッパ人同士が大量に殺し合う現場を経験したことは、「ヨーロッパ文明の優越」という植民地主義の言説にも矛盾を突きつけました。
インド軍と世界戦争
イギリス領インドからは大規模な軍が動員されました。Imperial War Museumsの教育資料では、1914–18年に約140万人がインドから第一次世界大戦に従軍したとされています。
インド軍はフランス・ベルギーの西部戦線だけでなく、メソポタミア、東アフリカ、エジプト、ガリポリなど各地で戦いました。
インドは兵士だけでなく、食料、馬、資金、医療要員、運搬労働者などを提供しました。第一次世界大戦の連合国戦争遂行を考えるとき、イギリス本国の人口・産業だけを見ることはできません。
兵士だけではない植民地動員
前線を維持するには弾薬、食料、道路建設、港湾荷役、塹壕整備が必要でした。そのため植民地から多数の非戦闘労働者も動員されました。
中国からも連合国の労働部隊として多数の労働者がヨーロッパへ渡り、物資輸送、修理、埋葬、戦場跡処理などに従事しました。
「誰が銃を持ったか」だけで戦争参加を測ると、巨大な兵站体系を支えた人々が歴史から消えてしまいます。
日本の参戦
1914年8月、日英同盟を結んでいた日本は、東アジアからドイツ海軍勢力を排除することを理由にドイツへ最後通牒を出し、8月23日に宣戦しました。
国立公文書館の年表は1914年8月の対独宣戦を記録し、外務省外交史料館には「日独開戦一件」「膠州湾租借地及山東鉄道占領一件」など当時の外交文書が保存されています。
日本の主戦場はヨーロッパではなく、中国山東半島と太平洋でした。第一次世界大戦は日本に、欧州列強が本国戦争に集中している間に東アジア・太平洋で権益を拡大する機会を与えました。
青島攻略と太平洋のドイツ領
日本軍はイギリス部隊とともにドイツ租借地青島を包囲し、1914年11月にドイツ守備隊を降伏させました。青島で捕虜となった4,500人を超えるドイツ人兵士らは日本各地の収容所へ送られました。
同時に日本海軍は赤道以北のドイツ領ミクロネシア諸島を占領しました。
戦争終結後、日本は旧ドイツ領南洋諸島を国際連盟の委任統治領として管理し、山東権益の継承問題は1919年のパリ講和会議で中国の強い反発を招くことになります。
1915年 対華二十一か条要求
1915年1月18日、日本政府は中華民国の袁世凱政権へいわゆる「二十一か条要求」を提示しました。
国立公文書館によれば、要求には山東省における旧ドイツ権益の日本による継承、南満洲・東部内蒙古における権益期限延長、漢冶萍公司に関する要求などが含まれ、第五号には日本人顧問の雇用など中国政府の内政へ深く関与する項目もありました。
日本は最終段階で第五号の多くを外した最後通牒を出し、中国政府は1915年5月に受諾しました。ヨーロッパで大戦が続く中、日本は中国への政治・経済的影響力を強めようとしました。
日本海軍と連合国の海上戦
日本海軍は東アジアだけで活動したわけではありません。戦争後半には連合国の要請を受けて地中海へ第二特務艦隊を派遣し、船団護衛や対潜水艦任務に従事しました。
外務省外交史料館には、1915年時点ですでに「日本軍欧洲派遣」に関する交渉文書が残っており、連合国が日本の軍事力をより広い戦場で利用しようとしていたことが分かります。
日本陸軍の欧州大規模派遣は実現しませんでしたが、日本海軍は帝国間海上戦争の一部を担いました。
イギリスの海上封鎖
イギリス海軍は北海と大西洋の海上優位を利用し、ドイツと中央同盟国への物資流入を制限しました。封鎖対象は兵器だけでなく、戦争が長期化するにつれて食料・工業原料へ広がりました。
ドイツは中立国を経由する輸入も制約され、国内の食料不足と生活水準低下が深刻化しました。1916–17年の冬はカブなど代替食料への依存から「カブラの冬」として記憶されています。
海上封鎖は戦場で兵士を直接攻撃する方法ではありませんが、国家経済と民間人口へ継続的な圧力をかける戦争手段でした。
ドイツ潜水艦戦
ドイツはイギリスの海上封鎖に対抗してUボートによる通商破壊を拡大しました。潜水艦は水上艦のように商船を停止させ、乗員を安全に退避させてから沈める「拿捕規則」を実行すると、自らの位置と脆弱性を晒すという問題がありました。
そのためドイツは警告なしで商船を攻撃する潜水艦戦へ傾きます。しかし中立国の船舶と民間人を巻き込むことで、特にアメリカとの関係を悪化させました。
潜水艦戦は軍事的効果と外交的コストの間でドイツ政府が何度も方針を変更した政策でした。
ルシタニア号
1915年5月、イギリス客船ルシタニア号がアイルランド沖でドイツ潜水艦に撃沈され、多数の民間人が死亡しました。犠牲者にはアメリカ人も含まれていました。
事件はアメリカ世論に大きな衝撃を与えましたが、アメリカがただちに参戦したわけではありません。ウィルソン政権はドイツへ抗議し、ドイツ側は一時的に潜水艦作戦を制限しました。
アメリカ参戦は約二年後の1917年であり、その直接的背景には無制限潜水艦作戦の再開とツィンメルマン電報などがありました。
1916年 ユトランド沖海戦
1916年5月末から6月初め、イギリス大艦隊とドイツ大洋艦隊は北海のユトランド沖で交戦しました。第一次世界大戦最大の主力艦隊同士の海戦です。
イギリス側はドイツより多くの艦艇・人員を失いましたが、ドイツ艦隊もイギリス海軍の北海支配を崩すことはできず、その後大洋艦隊の大規模出撃は限定的になりました。
海上戦の戦略的中心は、主力艦決戦から封鎖と潜水艦による通商破壊へさらに移っていきました。
毒ガスの大規模使用
毒物の使用を制限する国際的合意が存在していたにもかかわらず、第一次世界大戦では化学兵器が大規模に使われました。化学兵器禁止機関OPCWによれば、1915年4月22日、ベルギーのイーペル周辺で初の大規模な塩素ガス攻撃が行われました。
その後、ドイツだけでなく連合国側も化学兵器を使用し、ホスゲン、マスタードガスなどさらに危険な化学剤が導入されました。防毒マスクなど防護技術も急速に発達しました。
OPCWは、戦争を通じて約12万4,200トンの化学剤が使用され、約9万人が死亡し、100万人近くが失明や負傷などの被害を受けたとしています。
航空機が変えた偵察と戦闘
1914年の航空機はまだ新しい軍事技術でしたが、まず偵察で大きな役割を果たしました。上空から敵部隊や砲兵陣地を確認し、写真を撮影し、砲撃の着弾修正を行う能力は戦場の情報収集を変えました。
敵偵察機を排除するため戦闘機が発達し、機銃をプロペラ越しに発射する同期装置などが導入されました。さらに爆撃機や飛行船による都市・鉄道・工場への攻撃も行われました。
航空戦はまだ第二次世界大戦ほどの破壊力を持ちませんでしたが、空域が新しい戦場となった点で大きな転換でした。
戦車の登場
鉄条網と機関銃陣地を突破する手段の一つとして、イギリスは装甲車両を開発し、1916年9月のソンム戦で戦車を初めて大規模戦場へ投入しました。
初期戦車は遅く、機械故障も多く、単独で戦争を変える兵器ではありませんでした。
しかし1917–18年には歩兵、砲兵、航空と連携して使用する方法が改善され、固定防御を突破する複合戦術の一部となっていきました。
1916年 ヴェルダン
1916年2月、ドイツ軍はフランス北東部のヴェルダン要塞地域を攻撃しました。戦闘は年末まで続き、双方が大量の兵力と砲弾を投入しました。
ヴェルダンは領土獲得だけでなく、相手軍へ持続的損害を与える消耗戦の象徴となりました。フランス側では「彼らを通すな」という防衛の記憶と結びつき、国民的象徴となります。
しかし「ドイツ軍が最初からフランス軍を出血死させることだけを唯一の目的としていた」とする理解については史料解釈上議論があります。戦略目的と後世の説明を区別する必要があります。
1916年 ソンム
1916年7月1日、イギリス・フランス軍はソンム川流域で大規模攻勢を開始しました。イギリス軍は初日だけで約2万人が死亡し、さらに約3万7千人が負傷しました。アメリカ・ホロコースト記念博物館の第一次世界大戦年表も、この日をイギリス軍史上最も死者の多い一日として紹介しています。
戦闘は11月まで続き、両軍が甚大な損害を受けながら前線の移動は限定的でした。
一方、ソンムを「無意味な一斉突撃」だけでまとめると、その後の砲兵連携、歩兵戦術、航空偵察、戦車投入など戦術変化を見落とします。1916年は大量損害と軍事学習が同時に進んだ年でした。
消耗戦とは何だったのか
消耗戦とは、単に「兵士を大量に犠牲にする戦争」という意味ではありません。敵の人的資源、砲弾、工業生産、鉄道、食料、資金を継続的に減らし、自国より先に戦争継続能力を失わせる戦略です。
巨大な徴兵軍と工業国家が戦う第一次世界大戦では、一度の戦場勝利だけで国家全体を降伏させることが困難でした。
そのため前線の戦闘だけでなく、海上封鎖、工場生産、国家財政、食料供給、同盟国支援が軍事戦略の一部になりました。戦場と国民経済の距離が縮まります。
総動員される社会
各国政府は数百万の兵士を軍へ送りながら、同時に軍需工場、鉄道、鉱山、農業を維持する必要がありました。労働力不足を補うため、女性、植民地労働者、捕虜などが新たな仕事へ投入されました。
政府は原料配分、工場生産、賃金、労働時間、食料、輸送に以前より深く介入しました。イギリスでは軍需省が設置され、ドイツでも戦時経済統制が拡大しました。
「総力戦」という言葉は後世の概念でもあり、1914–18年のすべての国が社会の全資源を完全に国家管理したわけではありません。それでも、国家が民間経済と日常生活へ介入する規模は戦前より格段に拡大しました。
軍需工場と女性労働
男性が大量に徴兵されると、女性が軍需工場、交通、郵便、農業、事務など従来男性中心だった職種へ進出しました。イギリスでは砲弾・爆薬工場で働く女性が戦時労働の象徴となりました。
しかし女性が戦争によって初めて働き始めたわけではありません。1914–1918 Onlineが指摘するように、多くの女性は戦前から繊維、家事労働、農業などで賃金労働をしており、戦争によって職種と賃金、社会的可視性が変化しました。
軍需工場は危険でもあり、爆発事故やTNTなど化学物質への曝露による健康被害がありました。戦後、多くの女性が男性復員者へ職を返すことを求められましたが、戦時経験は女性の政治・労働権をめぐる議論にも影響しました。
食料・配給・封鎖
長期戦では兵士へ食料を供給するだけでなく、都市住民と工場労働者を養うことも国家安全保障になりました。ドイツとオーストリア=ハンガリーでは海上封鎖、農業労働力不足、輸送混乱によって食料供給が悪化しました。
イギリスも潜水艦戦によって輸入食料を脅かされ、配給制度や生産拡大を進めました。
民間人の栄養不足と疾病は戦闘とは別の経路で戦争犠牲を拡大しました。前線と銃後の区別は、砲弾が飛んでくるかどうかだけでは測れません。
宣伝と検閲
各国政府は新聞、ポスター、映画、写真、演説を通じて兵士募集、戦時国債購入、節約、敵国批判を促しました。同時に軍事情報や士気を損なうと判断された報道は検閲されました。
敵軍による残虐行為の報道には事実に基づくものもあれば、誇張や確認困難な情報もありました。戦争中の情報環境では、報道、政府宣伝、噂を区別することが難しくなりました。
写真や映画は「戦争をそのまま見せる」媒体ではなく、撮影許可、検閲、編集によって選択された戦争像を作りました。
戦費と戦時国債
第一次世界大戦の費用は平時の国家予算をはるかに超えました。各国は増税だけでなく大量の国債を発行し、国内外から資金を調達しました。
市民が戦時国債を買うことは金融行為であると同時に、愛国的行為として宣伝されました。
長期戦によって国家債務は増大し、ヨーロッパ諸国はアメリカ金融市場への依存を強めました。戦後の賠償・戦債問題は、この戦時金融から直接つながります。
捕虜と赤十字国際委員会
大規模戦争は膨大な捕虜と民間抑留者を生みました。赤十字国際委員会の第一次世界大戦アーカイブは、戦争中に軍人・民間人を合わせ約1,000万人が捕らえられ収容所へ送られたとしています。
ICRCは1914年8月に国際捕虜情報局を設け、各国から届く捕虜名簿と家族からの問い合わせを照合しました。戦争終結までに数百万件のカードが作られました。
工業化された大量戦争は、敵兵を殺傷する能力だけでなく、数百万の捕虜を記録し、収容し、家族と連絡させる国際的人道制度も急速に拡大させました。
1917年という転換点
1917年には、戦争を終わらせる力とさらに拡大する力が同時に現れました。ロシアでは革命によって帝政が崩壊し、最終的に戦争から離脱する方向へ進みました。一方、アメリカは連合国側で参戦し、巨大な人的・経済的資源を戦争へ投入し始めました。
西部戦線ではフランス軍のニヴェル攻勢失敗後に大規模な反抗・抗命が発生し、イギリス軍もパッシェンデールなどで大きな損害を受けました。
各国で戦争疲労、ストライキ、食料不足、政治的反対が強まりました。「あと一年続けられるか」という国家の持久力そのものが問われる段階でした。
無制限潜水艦作戦の再開
ドイツ軍指導部は1917年2月から無制限潜水艦作戦を再開しました。中立国を含む商船を警告なしに攻撃し、イギリスへの輸送を短期間で崩壊させれば、アメリカが本格参戦する前に戦争を終えられると期待しました。
当初、連合国商船の損失は急増しました。しかし船団方式の導入、対潜水艦対策、造船拡大によって損害率は低下しました。
軍事的にはイギリスへ大きな圧力を与えましたが、外交的にはアメリカ参戦を促す重要な要因になりました。
ツィンメルマン電報
1917年1月、ドイツ外務長官アルトゥール・ツィンメルマンは、アメリカとドイツが戦争になった場合、メキシコへ同盟を提案する秘密電報を送りました。
アメリカ国務省の原文史料によれば、ドイツはメキシコに対して共同戦争と財政支援を提案し、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの「回復」を支援する趣旨を伝えていました。
イギリス情報機関が電報を傍受・解読し、その内容がアメリカで公表されると、対独世論をさらに悪化させました。
1917年 アメリカ参戦
1917年4月2日、ウッドロウ・ウィルソン大統領は議会へ対独宣戦を求めました。議会は4月6日にドイツとの戦争状態を宣言しました。
議会図書館によれば、ウィルソンはドイツの無制限潜水艦攻撃を非難するとともに、戦争を民主的秩序を守る戦いとして説明しました。
アメリカ参戦の理由を「民主主義のため」だけに限定することはできません。海上通商、国際法、金融・経済関係、安全保障、ツィンメルマン電報など複数の要因が重なっていました。
ロシア二月革命
ロシアでは戦争による膨大な損失、物価上昇、食料供給混乱、政府への不信が深刻化しました。1917年3月、当時ロシアで使用されていた旧暦では2月、ペトログラードでストライキとデモが拡大し、兵士の一部も反乱側へ加わりました。
皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ王朝の帝政は崩壊しました。臨時政府が成立する一方、労働者・兵士の代表からなるソヴィエトも強い政治力を持ちました。
臨時政府は戦争を継続しましたが、それが国内支持をさらに失う要因になります。
十月革命とボリシェヴィキ
1917年11月、旧暦10月、ボリシェヴィキはペトログラードで臨時政府を打倒しました。レーニンらは「平和、土地、パン」を掲げ、戦争からの離脱を重要政策としました。
新政府は中央同盟国と休戦し、ブレスト=リトフスクで講和交渉を開始しました。
革命は戦争の外で起きた国内事件ではありません。戦争による国家機能の負担、兵士の大量動員、食料危機、政治的不信が革命を可能にした条件の一部でした。同時に革命によって東部戦線そのものが消滅することになります。
1918年 ブレスト=リトフスク条約
1918年3月3日、ソヴィエト・ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国とブレスト=リトフスク条約を締結しました。アメリカ国務省が保存する条約本文でも、戦争状態の終結と、旧ロシア帝国西部の広大な地域がロシア主権から外れることが定められています。
ロシアはポーランド、バルト地域、ウクライナなどへの支配を大きく失いました。条件は極めて厳しく、ボリシェヴィキ内部でも強い反対がありました。
ドイツにとっては東部戦線の兵力を西部へ移せる機会となり、1918年春の大攻勢へつながりました。
1918年 ドイツ春季攻勢
アメリカ軍が大量に到着する前に西部戦線で決着をつけるため、ドイツ軍は1918年3月から一連の大攻勢を開始しました。浸透戦術、短時間で集中した砲撃、突撃部隊などを組み合わせ、連合軍戦線を大きく押し戻しました。
3月21日に始まったミヒャエル作戦では、1914年以来最大級の前進を達成しました。
しかし前進するほど補給線が延び、疲弊した歩兵は決定的な鉄道拠点や連合軍主力を破壊できませんでした。ドイツ軍は大きな損害を受け、精鋭兵力を消耗しました。
増大するアメリカ軍
アメリカは1917年参戦時にはヨーロッパ大国ほど大きな常備陸軍を持っていませんでした。しかし徴兵制度と大規模な訓練・輸送体制を整え、1918年には毎月大量の兵士がフランスへ到着しました。
サン=ミエル、ムーズ=アルゴンヌなどではアメリカ遠征軍が独自の大規模作戦を行いました。
軍事的効果だけでなく、「これからさらに数百万のアメリカ兵が到着し得る」という将来の兵力差がドイツ側の戦略判断へ大きな圧力を与えました。
連合国の百日攻勢
1918年7月、ドイツ軍最後の大規模攻撃が第二次マルヌ会戦で止められると、連合軍は反攻へ転じました。8月8日のアミアンの戦いから、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカなどの軍が連続的な攻勢を行いました。
1914–1918 Onlineは、8月から11月までの「百日攻勢」がドイツ軍の抵抗を破り、ドイツ政府に休戦を求めさせた最終的な西部戦線作戦だったと整理しています。
砲兵、歩兵、戦車、航空機の連携、より柔軟な目標設定、補給能力が改善され、1916年型の長期間同一地点へ兵力を投入する攻勢とは異なる戦い方が用いられました。
中央同盟国の崩壊
1918年秋、中央同盟国は連鎖的に崩れました。9月末、ブルガリアが休戦し、バルカン戦線が開きました。10月末にはオスマン帝国がムドロス休戦協定を結びました。
オーストリア=ハンガリーではチェコ、南スラヴ、ハンガリーなど各地域で帝国から離脱する政治運動が急速に進み、11月初めに休戦しました。
ドイツは最大の同盟国を失い、自国軍も後退し、国内では食料不足と戦争疲労が限界に達しました。
ドイツ革命
1918年10月末、ドイツ海軍指導部が最後の大規模艦隊出撃を計画すると、水兵の反抗が始まりました。キールでの水兵反乱は各都市へ広がり、労働者・兵士評議会が形成されました。
11月9日、皇帝ヴィルヘルム2世の退位が発表され、ベルリンでは共和国が宣言されました。
ドイツ帝国は軍事的に国土全体を占領されて崩壊したのではありません。前線の敗退、同盟国崩壊、海上封鎖、国内政治革命が重なり、帝政が戦争継続能力を失いました。
1918年11月11日 休戦
ドイツ代表団はフランス北部コンピエーニュ近郊で連合国側と休戦条件を交渉し、1918年11月11日午前11時に休戦が発効しました。
議会図書館は、この休戦によって第一次世界大戦の主要戦闘が終結したと説明しています。同時に、ドイツ本土が全面占領されていたわけではなく、なお大規模な軍が存在していたことも指摘しています。
休戦は平和条約ではありません。国境、賠償、植民地、戦争責任、民族自決などの問題は1919年のパリ講和会議へ持ち越されました。
犠牲者数をどう考えるか
第一次世界大戦の犠牲者数には、統計の取り方によって幅があります。軍人の戦死、戦傷死、病死、捕虜中死亡、民間人の直接死、飢餓・疾病による過剰死亡をどこまで含めるかで数字が変わるためです。
議会図書館は、世界全体で約1,000万人の兵士が死亡し、約2,000万人が負傷したという概算を示しています。さらに数百万人の民間人が戦闘、占領、飢餓、疾病などで死亡しました。
したがって「第一次世界大戦で何人死んだか」を単一の厳密な数字として示すより、対象範囲を明確にして推計を扱う必要があります。
1918年インフルエンザと戦争
1918年には世界的なインフルエンザ・パンデミックが拡大しました。議会図書館は、第一次世界大戦がパンデミックそのものを生み出したわけではないとしつつ、軍営や塹壕での密集、大西洋を越える兵士と人々の大規模移動が感染拡大を促した可能性を指摘しています。
流行は軍隊だけでなく民間社会にも広がり、病院、工場、輸送、行政を圧迫しました。
戦争末期の社会では、戦傷、栄養不足、難民化、感染症が重なりました。1918年の終戦を、単純に「平和な日常への復帰」として考えることはできません。
休戦で終わらなかった戦争
1918年11月11日に西部戦線の主要戦闘は終わりましたが、東ヨーロッパ、ロシア、バルト、ウクライナ、ポーランド、フィンランド、オスマン帝国旧領などでは戦争と革命が続きました。
ロシアでは内戦が拡大し、日本、アメリカ、イギリス、フランスなども軍事介入しました。日本政府は1918年8月にシベリア出兵を宣言しています。
中東ではオスマン帝国崩壊後の国境と委任統治をめぐる争いが続きました。中央ヨーロッパではハプスブルク帝国崩壊によって新国家が生まれましたが、民族分布と国境を完全に一致させることはできませんでした。
第一次世界大戦を1914年8月から1918年11月までの「四年間」で閉じることは便利ですが、暴力と国家再編の連続性を見るなら、その余波は1920年代初頭まで続きます。
1914–1918年に何が変わったのか
1914年のヨーロッパ各国は、19世紀に形成された徴兵軍、鉄道、工業、植民地帝国を使って戦争へ入りました。開戦時には短期間で軍事的決着を得られる期待もありましたが、マルヌ会戦後の西部戦線では巨大な兵力と火力が互いを拘束し、塹壕戦と消耗戦が長期化しました。
戦争中、各軍は戦い方を変えました。砲兵と航空偵察の連携、毒ガス、潜水艦、戦車、浸透戦術、通信、兵站などが発達しました。1918年の百日攻勢は、1914年と同じ軍隊が同じ方法で戦った結果ではなく、四年間の軍事的学習と工業生産の蓄積を背景にしています。
社会も変化しました。数千万の兵士が動員され、女性と植民地住民が軍需・農業・輸送へ投入され、政府は食料、工業、金融、報道へ介入しました。インド、アフリカ、カリブ海、オセアニア、中国、日本などの人々が戦争へ直接組み込まれたことで、「ヨーロッパ戦争」は世界帝国の戦争となりました。
同時に戦争は極端な国家暴力を生みました。オスマン帝国ではアルメニア人ジェノサイドが行われ、東欧各地で住民追放と占領暴力が起きました。民間社会も封鎖、食料不足、徴発、空襲、疾病にさらされました。
1917年にはアメリカが参戦する一方、ロシア帝国が革命で崩壊しました。1918年にはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国という大帝国が敗北・崩壊し、戦前のヨーロッパ政治地図そのものが失われました。1914年に「帝国を守るため」に始まった戦争が、複数の帝国を消滅させたのです。
11月11日の休戦は戦場の砲撃を止めましたが、どの国家がどの領土を持つのか、植民地を誰が支配するのか、敗戦国にどこまで責任を負わせるのか、民族自決を誰に適用するのかという問題は残りました。第一次世界大戦の次の歴史は、戦争を終わらせる「平和」をどう作るかという争いから始まります。
1914–1918年の主な出来事
- 1914年7月28日 — オーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦。
- 1914年8月1日 — ドイツがロシアへ宣戦。
- 1914年8月3日 — ドイツがフランスへ宣戦。
- 1914年8月4日 — ドイツ軍がベルギーへ侵入し、イギリスがドイツへ宣戦。
- 1914年8月 — タンネンベルクの戦い。
- 1914年8月23日 — 日本がドイツへ宣戦。
- 1914年9月 — 第一次マルヌ会戦。ドイツ軍のパリ方面への進撃が止まる。
- 1914年秋 — 西部戦線で長大な塹壕線が形成される。
- 1914年10–11月 — オスマン帝国が中央同盟国側で参戦。
- 1914年11月 — 日本・イギリス軍が青島を占領。
- 1915年1月18日 — 日本が中国へ対華二十一か条要求を提示。
- 1915年3月18日 — 英仏艦隊のダーダネルス突破作戦が失敗。
- 1915年4月22日 — イーペルで塩素ガスの大規模攻撃。
- 1915年4月24日 — オスマン当局がコンスタンティノープルでアルメニア人指導者を一斉拘束。
- 1915年4月25日 — ガリポリ半島への連合軍上陸開始。
- 1915年5月 — ルシタニア号撃沈。
- 1915年 — イタリアが連合国側でオーストリア=ハンガリーへ参戦。
- 1915–1916年 — オスマン帝国でアルメニア人に対する大量殺害・強制移送。
- 1916年2–12月 — ヴェルダンの戦い。
- 1916年4月 — クートでイギリス・インド軍がオスマン軍へ降伏。
- 1916年5月31日–6月1日 — ユトランド沖海戦。
- 1916年6月 — アラブ反乱開始。
- 1916年7–11月 — ソンムの戦い。
- 1916年9月 — ソンムで戦車が実戦投入される。
- 1917年2月 — ドイツが無制限潜水艦作戦を再開。
- 1917年3月 — ロシア二月革命。ニコライ2世退位。
- 1917年4月6日 — アメリカがドイツへ宣戦。
- 1917年3月 — イギリス軍がバグダードを占領。
- 1917年11月 — ロシア十月革命でボリシェヴィキ政権成立。
- 1917年12月 — イギリス軍がエルサレムを占領。
- 1918年3月3日 — ブレスト=リトフスク条約。ソヴィエト・ロシアが中央同盟国と講和。
- 1918年3月21日 — ドイツ春季攻勢開始。
- 1918年夏 — アメリカ軍の西部戦線での本格参加が拡大。
- 1918年8月8日 — アミアンの戦い。連合国百日攻勢の始まり。
- 1918年8月 — 日本がシベリア出兵を宣言。
- 1918年9月 — ブルガリアが休戦。
- 1918年10月 — オスマン帝国がムドロス休戦協定を締結。
- 1918年11月初旬 — オーストリア=ハンガリーが休戦し、帝国解体が進む。
- 1918年11月9日 — ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世退位。共和国宣言。
- 1918年11月11日 — ドイツと連合国の休戦協定が発効し、西部戦線の主要戦闘が停止。
次の時代へ — 戦後秩序と革命
1918年11月に砲撃が止まっても、「戦後世界」はまだ存在していませんでした。ロシアでは内戦が続き、旧オーストリア=ハンガリー領では新国家と国境をめぐる争いが起き、オスマン帝国旧領の処理も決まっていませんでした。
1919年1月、パリ講和会議が始まります。ウィルソンの「民族自決」という言葉が大きな期待を集める一方、それは植民地世界へ平等に適用されたわけではありません。ドイツにはヴェルサイユ条約が課され、国際連盟が設立され、旧ドイツ植民地とオスマン領の一部は委任統治という新しい形で列強の管理下に置かれます。
日本は戦勝国としてパリ講和会議へ参加し、旧ドイツの山東権益と南洋諸島をめぐる要求を行いました。中国では山東問題への反発が1919年の五・四運動へつながり、朝鮮では同年三・一独立運動が広がります。ヨーロッパの「平和会議」はアジアの政治運動にも直接影響しました。
次の記事では、1917–1923|革命と戦後秩序 — ロシア革命、ヴェルサイユ、民族自決、国際連盟として、戦争が終わった後の国家再編を世界規模で追います。
参考資料・出典
本ページは、Freie Universität Berlinを中心とするInternational Encyclopedia of the First World War(1914–1918 Online)、Imperial War Museums、United States Holocaust Memorial Museum、Library of Congress、U.S. Department of State Office of the Historian、International Committee of the Red Cross、Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons、国立公文書館、国立国会図書館、外務省外交史料館などの資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。第一次世界大戦を西部戦線だけに限定せず、東部・オスマン・中東・アフリカ・東アジア・海上戦を含む世界戦争として扱い、植民地兵と非戦闘労働者の動員も記述しています。アルメニア人ジェノサイドについてはUS Holocaust Memorial Museumの現在の研究整理に基づき、犠牲者数は推計幅を示しています。化学兵器についてはOPCW、捕虜についてはICRCの歴史資料を参照し、犠牲者数を必要以上に単一の確定値として扱わないようにしています。
- 1914–1918 Online — Warfare 1914–1918
- 1914–1918 Online — Hundred Days Offensive
- Imperial War Museums — The Gallipoli Campaign, April 1915–January 1916
- Imperial War Museums — Understanding the British Indian Army in 1914
- United States Holocaust Memorial Museum — The Armenian Genocide (1915–16): In Depth
- United States Holocaust Memorial Museum — World War I and the Armenian Genocide
- Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons — History of Chemical Weapons
- International Committee of the Red Cross — Prisoners of the First World War
- Library of Congress — Wilson Before Congress, April 1917
- U.S. Department of State — Zimmermann Telegram, 1917
- U.S. Department of State — Treaty of Brest-Litovsk, 1918
- Library of Congress — American Experiences of World War I: Over There / Armistice
- Library of Congress — Influenza Pandemic and World War I
- 外務省外交史料館 — 日本外交文書 大正3年(1914年)第3冊
- 国立国会図書館 — 青島攻略とドイツ人俘虜
- 国立公文書館 — 1915年 対華21か条要求
- 外務省外交史料館 — 日本外交文書 大正4年(1915年)第3冊上巻
- 国立国会図書館 — 史料にみる日本の近代 年表
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY