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World History

1861–1865

アメリカ南北戦争

奴隷制、連邦、解放、内戦

1861年4月、サウスカロライナ州チャールストン港のサムター要塞に南部連合軍が砲撃を開始し、アメリカ合衆国は四年間にわたる内戦へ入りました。1865年春までに、戦場はヴァージニアからミシシッピ川流域、テネシー、ジョージア、大西洋岸へ広がり、軍人だけでなく、奴隷として拘束されていた人々、農民、工場労働者、女性、子ども、都市住民の生活を大きく変えました。

この戦争はしばしば「北部と南部の対立」「連邦政府と州権の対立」と説明されます。しかし、なぜ南部諸州が連邦から離脱したのかを考えると、奴隷制を中心から外すことはできません。1860年から61年に離脱した州の宣言や当時の南部連合指導者の発言は、奴隷制の維持、とくに奴隷制を新たな準州へ拡大できるかどうかを政治危機の中心に置いていました。

一方、戦争が始まった時点で、合衆国政府の公式目的はただちに全国の奴隷制を廃止することではありませんでした。エイブラハム・リンカーン政権はまず連邦の維持を掲げます。しかし、奴隷として拘束されていた人々自身が合衆国軍の前線へ逃れ、労働力を南部連合から奪い、自らの自由を現実のものにし始めました。議会の立法、軍事政策、1863年の奴隷解放宣言、黒人兵の大規模な参戦が重なり、戦争の意味は「連邦を元に戻すこと」から「奴隷制のない連邦をつくること」へ変化していきます。

CONTENTS

  1. 南北戦争の原因をどう考えるか
  2. 奴隷制を西部へ拡大するのか
  3. 1860年大統領選挙
  4. 南部諸州の連邦離脱
  5. アメリカ連合国の成立
  6. 1861年4月 サムター要塞
  7. さらに4州が南部連合へ
  8. 境界州という存在
  9. 二つの社会と戦争資源
  10. 海上封鎖と国際関係
  11. トレント号事件
  12. 南部連合は国際承認を得られなかった
  13. 第一次ブルランの戦い
  14. 奴隷自身が戦争を自由への機会に変える
  15. 「コントラバンド」という軍事政策
  16. 西部戦線とミシシッピ川
  17. 1862年 シャイロー
  18. 1862年 アンティータム
  19. 予備奴隷解放宣言
  20. 1863年 奴隷解放宣言
  21. 奴隷解放宣言ができたこと、できなかったこと
  22. 黒人兵の参戦
  23. 兵役と市民権
  24. 写真が戦争を見る方法を変える
  25. アンティータムの死者の写真
  26. 写真は中立な記録ではない
  27. 1863年 ヴィックスバーグ
  28. 1863年 ゲティスバーグ
  29. 1863年7月という転換
  30. ゲティスバーグ演説
  31. 徴兵と国内の反発
  32. 女性と戦時社会
  33. 鉄道、蒸気船、工業力
  34. 1864年 戦争がさらに社会へ入り込む
  35. グラントとヴァージニア戦線
  36. ピーターズバーグ包囲
  37. アトランタ攻略
  38. シャーマンの海への進軍
  39. 「総力戦」と呼べるのか
  40. 1864年の選挙と戦争継続
  41. 1865年 リッチモンドとピーターズバーグ陥落
  42. 1865年4月9日 アポマトックス
  43. 戦争は一日の降伏で終わったわけではない
  44. リンカーン暗殺
  45. 憲法修正第13条
  46. 戦争と奴隷制廃止の関係
  47. 終戦後に残された問題
  48. 1861–1865年に何が変わったのか
  49. 1860–1865年の主な出来事
  50. 次の時代へ — ドイツ統一
  51. 参考資料・出典

南北戦争の原因をどう考えるか

南北戦争の原因については、州の権限、経済構造、政党政治、地域的アイデンティティなど複数の要素が語られてきました。しかし、これらを奴隷制と切り離して並列に置くと、1860–61年の政治危機が何をめぐって起きたのかが見えにくくなります。

アメリカ国立公園局は、南部諸州の離脱文書や当時の政治家の発言をもとに、離脱を引き起こした中心的問題が奴隷制、とりわけその将来に対する不安だったと整理しています。ミシシッピ州の離脱宣言は奴隷制と州の経済的利益を明示的に結びつけ、南部連合副大統領アレクサンダー・スティーヴンズも1861年の演説で新政府と人種的不平等、奴隷制との関係を明確にしました。

「州権」が無関係だったわけではありません。しかし、どの権利をめぐって州と連邦が衝突したのかを問う必要があります。逃亡奴隷の扱い、新領土で奴隷制を認めるかどうか、連邦政府が奴隷制度へ介入できるかどうかという具体的問題の中心には奴隷制がありました。

奴隷制を西部へ拡大するのか

19世紀前半、アメリカ合衆国は西方へ領土を拡大しました。そのたびに、新しい州や準州で奴隷制を認めるかどうかが連邦政治の大問題となります。

奴隷制の拡大は単なる道徳論争ではありませんでした。上院における自由州と奴隷州の政治的均衡、農業経済、土地所有、人種秩序、将来の連邦政府の方向を左右する問題でした。

1854年のカンザス=ネブラスカ法、カンザスでの暴力的衝突、1857年のドレッド・スコット判決、1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃などを経て、妥協によって奴隷制問題を先送りする余地は急速に狭まっていきます。

1860年大統領選挙

1860年の大統領選挙では、民主党が奴隷制をめぐって北部と南部に分裂し、共和党はエイブラハム・リンカーンを候補に選びました。共和党の中心政策は、奴隷制が存在する州でただちに廃止することではなく、新しい準州への拡大を阻止することでした。

リンカーンは北部州で支持を集めて当選しましたが、深南部では選挙人票を得ませんでした。南部の奴隷所有層の多くは、奴隷制の西方拡大を阻止する政権が成立すれば、長期的には制度そのものが政治的に包囲されると考えました。

大統領選挙の結果が直接戦争を開始したわけではありません。しかし選挙によって、奴隷制を拡大しないという政策を掲げる政党が、南部の支持なしに大統領職を獲得できることが示されました。この変化が離脱運動を加速させました。

南部諸州の連邦離脱

1860年12月20日、サウスカロライナ州が最初に連邦からの離脱を宣言しました。その後、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスが続きます。

離脱を選んだ州政府は、それぞれ異なる文章と政治過程を持っていましたが、奴隷制への脅威を共通して重要視しました。国立公園局の資料が示す通り、深南部7州はリンカーン就任前にすでに連邦を離脱しています。

この段階では、ヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーなど上部南部の州はまだ連邦内に残っていました。戦争の開始が、これらの州の選択を変えることになります。

アメリカ連合国の成立

1861年2月、離脱した7州はアラバマ州モンゴメリーで新政府を組織し、アメリカ連合国を成立させました。ジェファーソン・デイヴィスが大統領となります。

南部連合憲法は合衆国憲法と似た制度を持ちながら、奴隷財産への保護をより明示的に規定しました。新政府は自らを独立国家として国際承認させることを目指しましたが、合衆国政府は離脱を法的に認めず、南部連合を反乱勢力として扱いました。

ここから戦争には二つの異なる国家像が存在します。南部連合は独立を達成すれば目的を達成できる一方、合衆国側は広大な地域を軍事的に再統合しなければ勝利できませんでした。

1861年4月 サムター要塞

サウスカロライナ州が離脱した後も、チャールストン港のサムター要塞には合衆国軍が残っていました。リンカーン政権は要塞へ食料などを補給する方針を決めます。

1861年4月12日午前4時30分、南部連合軍が砲撃を開始しました。国立公園局の記録によれば、要塞司令官ロバート・アンダーソンは降伏要求を拒否し、その後砲撃が始まりました。4月14日に要塞は降伏します。

サムター要塞への攻撃によって、離脱問題は政治的・法的な対立から軍事戦争へ変わりました。リンカーンは反乱鎮圧のため7万5千人の志願兵を募集します。

さらに4州が南部連合へ

リンカーンが各州へ兵員提供を求めると、ヴァージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーは連邦側の軍事行動に参加することを拒み、南部連合へ加わりました。

これにより南部連合は11州となり、首都もモンゴメリーからヴァージニア州リッチモンドへ移されます。ヴァージニアには人口、産業、軍事的人材が集中しており、以後東部戦線の中心となりました。

同時に、この選択は南部全体が一枚岩だったわけではないことも示します。離脱州内部にも合衆国支持者がおり、山岳部など地域によって政治的立場は異なりました。

境界州という存在

奴隷制を認めながら合衆国に残った州もありました。デラウェア、メリーランド、ケンタッキー、ミズーリなどの「境界州」です。

これらの州は軍事・交通上重要でした。とくにメリーランドが南部連合へ加われば首都ワシントンは南部連合領に囲まれることになり、ケンタッキーはオハイオ川と西部戦線の要地でした。

境界州の存在は、「奴隷州=南部連合、自由州=合衆国」という単純な図式が成立しないことを示します。また、後の奴隷解放宣言が反乱地域を対象とし、境界州を除外した背景にも、こうした政治・軍事条件がありました。

二つの社会と戦争資源

合衆国側は人口、工業生産、鉄道、金融、海軍力などで大きな優位を持っていました。一方、南部連合は広大な領土を防御し、合衆国側が戦争を継続する政治的意思を失うまで持ちこたえれば独立を達成できる可能性がありました。

南部経済は綿花輸出と奴隷労働に大きく依存していました。戦争によって港湾が封鎖され、輸送網が破壊され、奴隷として拘束されていた人々が農園や都市から離脱すると、その経済構造自体が軍事的圧力を受けます。

したがって南北戦争は、兵士同士の戦闘だけでなく、交通、工業、農業、金融、労働力をどれだけ維持できるかという社会全体の資源動員を伴いました。

海上封鎖と国際関係

1861年4月、リンカーンは南部連合沿岸の海上封鎖を宣言しました。大西洋岸からメキシコ湾まで広い海岸線を実際に封鎖するには時間がかかりましたが、合衆国海軍は艦隊を拡大し、南部の貿易を圧迫していきます。

綿花をイギリスやフランスへ輸出し、武器や工業製品を輸入する南部連合にとって、海上交通は重要でした。封鎖突破船による貿易は続きましたが、戦争が長期化するほど経済的制約は強くなります。

封鎖には外交上の意味もありました。イギリスやフランスは南部連合を独立国家として承認しませんでしたが、交戦団体として扱い、中立を宣言しました。合衆国政府にとって、ヨーロッパ列強が南部連合を正式に国家承認することを防ぐのは重要な戦争目的でした。

トレント号事件

1861年11月、合衆国海軍士官チャールズ・ウィルクスはイギリス郵便船トレント号を停止させ、南部連合の外交使節ジェームズ・メイソンとジョン・スライデルを拘束しました。二人はイギリスとフランスで南部連合の承認を得ようとしていました。

イギリス政府は中立国船舶への介入に強く抗議し、軍事的緊張が高まりました。アメリカ国務省歴史局によれば、イギリスはカナダへ部隊を送り、大西洋方面の海軍力も強化しました。

リンカーン政権は二正面で戦う危険を避け、12月に二人を釈放しました。南北戦争が北米内部だけで完結した出来事ではなく、大西洋世界の外交と国際法に深く関係していたことを示す事件です。

南部連合は国際承認を得られなかった

南部連合政府は、綿花輸出の重要性とヨーロッパ諸国の経済的利益を利用し、イギリスやフランスから正式な外交承認を得ようとしました。しかし戦争中、外国政府が南部連合を独立国家として正式承認することはありませんでした。

国務省歴史局は、合衆国外交の重要な成果の一つとして、南部連合がいずれの外国政府からも外交承認を得られなかったことを挙げています。軍事的な戦況、合衆国外交、ヨーロッパの反奴隷制世論、列強自身の国際問題など複数の要因が関係しました。

1863年以降、合衆国側の戦争目的に奴隷解放が明確に組み込まれると、奴隷制を維持する南部連合を外交的に支持することは、ヨーロッパ政府にとってさらに難しい政治問題となりました。

第一次ブルランの戦い

1861年7月21日、ワシントン近郊のヴァージニア州で第一次ブルランの戦いが起こりました。南部側では第一次マナサスの戦いと呼ばれます。

戦争初期には短期間で決着すると期待する人もいましたが、合衆国軍は敗北してワシントン方向へ退却しました。双方にとって、戦争が一度の大戦闘では終わらない可能性が明確になります。

以後、両政府は大量の兵員を長期間維持する軍隊を組織し、戦争はより大規模な国家動員へ進みます。

奴隷自身が戦争を自由への機会に変える

戦争開始直後から、奴隷として拘束されていた人々は合衆国軍の占領地域へ逃れ始めました。スミソニアン国立アメリカ歴史博物館は、戦争の初期から数万人のアフリカ系アメリカ人が南部連合地域を離れ、合衆国軍の前線へ移動したことを「自己解放」の重要な過程として紹介しています。

これは政府が上から自由を与えるより前に始まっていました。奴隷となっていた人々は農園を離れ、南部連合の労働力を減らし、合衆国軍へ情報や労働力を提供し、家族の自由を求めました。

彼らの移動によって軍隊は「逃亡奴隷を所有者へ返すのか」という問題に直面します。戦争が奴隷制度へ介入しないまま進むことは、現実には次第に不可能になりました。

「コントラバンド」という軍事政策

1861年5月、ヴァージニア州フォート・モンローへ逃れてきたシェパード・マロリー、フランク・ベイカー、ジェームズ・タウンゼンドの3人について、合衆国軍のベンジャミン・バトラー将軍は南部連合へ返還しない判断をしました。

南部連合が奴隷労働を軍事施設建設などに使用していたことから、バトラーは彼らを敵の「コントラバンド」、つまり戦争遂行に使われる財産として扱う理屈を用いました。この法的整理は、人間を財産とする奴隷制度を否定する言葉ではありませんでしたが、実際には逃亡者を所有者へ返さない軍事政策を可能にしました。

各地の合衆国軍陣地周辺には「コントラバンド・キャンプ」が形成され、避難してきた人々の生活、労働、教育、軍務をどう扱うかが大きな行政問題となります。

西部戦線とミシシッピ川

南北戦争の記憶はヴァージニアの東部戦線へ集中しがちですが、戦争の結果を考えるうえでテネシー、ミシシッピ川、メキシコ湾岸をめぐる西部戦線は極めて重要でした。

合衆国側は河川と鉄道を利用して南部連合領へ侵入し、ミシシッピ川を掌握することで南部連合を東西に分断しようとしました。河川砲艦、蒸気船、鉄道輸送は広大な内陸部で大軍を動かすうえで重要な役割を果たします。

ユリシーズ・S・グラントは1862年にテネシー川・カンバーランド川沿いの要塞を攻略し、その後の西部戦線で急速に重要性を高めました。

1862年 シャイロー

1862年4月6–7日、テネシー州南西部のシャイローで大規模な戦闘が行われました。南部連合軍はグラント軍を奇襲し、一時は大きく押し込みましたが、合衆国軍の増援到着によって翌日には後退します。

シャイローは、戦争が長期化すれば双方に非常に大きな人的損害をもたらすことを示しました。1861年の短期決戦への期待はさらに後退します。

また合衆国軍はテネシー川流域で南下を続け、南部連合の鉄道と河川交通へ圧力をかけることができるようになりました。

1862年 アンティータム

1862年9月、ロバート・E・リー率いる南部連合の北ヴァージニア軍はメリーランドへ侵攻しました。9月17日、アンティータム川周辺でジョージ・B・マクレラン率いるポトマック軍と衝突します。

国立公園局によれば、この一日の戦闘で2万3千人を超える死傷者・行方不明者が出ました。リー軍はヴァージニアへ戻り、北部への侵攻は止められます。

軍事的には一方的な壊滅ではありませんでしたが、リンカーンにとっては政治的に重要な機会となりました。戦闘から5日後、彼は予備奴隷解放宣言を発表します。

予備奴隷解放宣言

1862年9月22日、リンカーンは予備奴隷解放宣言を発表しました。1863年1月1日の時点で合衆国に対する反乱を続けている州や地域において、奴隷として拘束されている人々を自由とする方針を示します。

宣言は南部連合に対して、連邦へ復帰すれば奴隷制度への即時の軍事的介入を避けられる期限を示す意味も持っていました。同時に、戦争の公式な方向を大きく変える予告でもありました。

「連邦を再建するための戦争」と「奴隷制度を破壊する戦争」が、政府の政策として明確に結びつき始めます。

1863年 奴隷解放宣言

1863年1月1日、奴隷解放宣言が発効しました。宣言は、合衆国に対して反乱状態にあると指定された地域の奴隷を自由とすることを表明しました。

国立公文書館は、宣言によって戦争が連邦維持だけでなく自由をめぐる戦争へ変化し、さらに黒人男性を合衆国軍・海軍へ受け入れる政策が明確になったことを重要視しています。

ただし解放は文書が発効した瞬間に南部全域で現実化したわけではありません。反乱地域の多くでは合衆国政府が実効支配していなかったため、自由の実現は軍隊の進撃、奴隷自身の逃亡、地域ごとの占領に依存しました。

奴隷解放宣言ができたこと、できなかったこと

奴隷解放宣言は全国の奴隷制を直接廃止した法律ではありませんでした。メリーランド、ケンタッキー、ミズーリなど合衆国側に残った奴隷州は対象外で、すでに合衆国軍の支配下にあった南部の一部地域も除外されました。

リンカーンは大統領の戦争遂行権限を根拠に、反乱地域の労働力と社会構造へ軍事的に介入しました。そのため、戦争終了後も全国的な奴隷制廃止を確実にするには憲法上の措置が必要でした。

それでも宣言は、合衆国軍が進軍した地域で奴隷制を解体する公式政策をつくり、黒人兵の大規模な動員を可能にしました。奴隷制度の破壊を戦争の結果と切り離せなくした点で決定的でした。

黒人兵の参戦

奴隷解放宣言後、合衆国政府は黒人部隊の編成を本格化させました。1863年5月、陸軍省は一般命令第143号によって合衆国有色人部隊を制度化します。

国立公文書館は、戦争終了までに約20万人の黒人兵士・水兵が合衆国側で戦ったとしています。スミソニアン国立アメリカ歴史博物館では、陸軍だけで18万6千人を超えるアフリカ系アメリカ人が軍務についたと紹介しています。

彼らは歩兵、砲兵、守備、労働、輸送など広い任務を担い、戦争後半の合衆国軍にとって重要な兵力となりました。元奴隷だった兵士にとって、軍務は自分と家族の自由を守る行為でもありました。

兵役と市民権

黒人兵は合衆国の制服を着て戦いましたが、同じ待遇を受けたわけではありませんでした。給与格差、昇進制限、人種差別が存在し、多くの士官職は白人に限定されました。

それでも軍務は、「国家のために武器を取った人間に市民権を認めるべきではないか」という戦後政治へ直接つながります。フレデリック・ダグラスは黒人兵の軍務を、市民権要求と結びつけて訴えました。

南北戦争中に奴隷制廃止と兵役が結びついたことで、戦後の憲法修正第14条、第15条をめぐる議論へ至る新しい政治課題が生まれました。

写真が戦争を見る方法を変える

クリミア戦争に続き、アメリカ南北戦争でも写真は戦争の視覚的記録を大きく変えました。マシュー・ブレイディの組織、アレクサンダー・ガードナー、ティモシー・H・オサリヴァン、ジョージ・N・バーナードなど、多数の写真家が軍人、要塞、鉄道、野営地、都市、戦場跡を撮影しました。

アメリカ議会図書館には南北戦争関連のガラス乾板と写真が大規模に保存されており、主要な東部戦線だけでなく、海軍、沿岸作戦、西部戦線、アフリカ系アメリカ人、軍事施設など幅広い対象が記録されています。

当時の湿板写真では長い露光と現像設備が必要だったため、実際の激しい戦闘を瞬間的に撮影することは困難でした。そのため写真家が記録したのは、戦闘前後の人物や風景、そして戦闘が終わった後の死者でした。

アンティータムの死者の写真

1862年のアンティータム戦後、アレクサンダー・ガードナーとジェームズ・ギブソンは戦場に残された兵士の遺体を撮影しました。マシュー・ブレイディのニューヨークのギャラリーでは、その写真が同年に展示されます。

議会図書館は、この展示によって多くの都市住民が戦争による死の現実を写真で目にしたと説明しています。それまで新聞挿絵や英雄的な歴史画を通じて戦争を想像していた観客にとって、戦場の遺体が写真として提示される経験は新しいものでした。

写真は戦争を美化するイメージだけでなく、戦争が身体に何をするのかを記録する媒体になりました。

写真は中立な記録ではない

一方で、南北戦争写真を「カメラがそのまま真実を保存したもの」と理解することもできません。撮影技術の制約、写真家が移動できる場所、撮影対象の選択、キャプション、写真の販売方法によって、観客が見る戦争像は構成されました。

アレクサンダー・ガードナーが1865–66年に刊行した『Photographic Sketch Book of the War』は、写真と文章を組み合わせて戦争を物語化した写真集でした。議会図書館は、この作品を写真史上の重要な写真エッセイの先駆的事例として紹介しています。

戦争写真は「何が起きたか」を保存すると同時に、「戦争をどのように記憶するか」を形づくる媒体でもありました。

1863年 ヴィックスバーグ

ミシシッピ州ヴィックスバーグは、ミシシッピ川を見下ろす高地に築かれた南部連合の重要拠点でした。ここを合衆国側が掌握すれば、ミシシッピ川の交通を支配し、南部連合を東西に分断できます。

グラントは複数の作戦失敗の後、1863年春にヴィックスバーグ南方でミシシッピ川を渡り、内陸へ進撃して南部連合軍を市内へ追い込みました。5月の正面攻撃が失敗すると包囲戦へ切り替えます。

国立公園局によれば、47日間の包囲後、ジョン・C・ペンバートン将軍は1863年7月4日にヴィックスバーグと軍を降伏させました。続いてポート・ハドソンも降伏し、合衆国側はミシシッピ川を事実上掌握します。

ヴィックスバーグ周辺では奴隷となっていた人々が合衆国軍の支配地域へ大量に移動しました。戦場の支配権が変わることは、その地域の奴隷制が現実に崩れることでもありました。

1863年 ゲティスバーグ

同じ1863年7月1–3日、ペンシルヴェニア州ゲティスバーグで、リー率いる北ヴァージニア軍とジョージ・G・ミード率いるポトマック軍が戦いました。

1日目、合衆国軍は町の北西から押し戻されましたが、町南側の高地へ防御線を構築しました。2日目、南部連合軍は両翼を攻撃しましたが突破できず、3日目には後に「ピケットの突撃」と呼ばれる大規模攻撃が合衆国軍中央部へ行われ、撃退されました。

リーはヴァージニアへ撤退し、北部への大規模侵攻は失敗しました。国立公園局はゲティスバーグを、北ヴァージニア軍の北部侵攻を阻止した重要な戦闘として位置づけています。

1863年7月という転換

ヴィックスバーグの降伏は7月4日、ゲティスバーグの戦闘終了は7月3日でした。二つの重要な戦場でほぼ同時に合衆国側が戦略的成果を得たため、1863年7月は戦争の大きな転換点として語られます。

ただし、この時点で南部連合が即座に崩壊したわけではありません。その後さらに二年近く大規模な戦闘が続き、1864年には合衆国側も非常に大きな損害を受けます。

重要なのは、南部連合がミシシッピ川を失い、リーの北部侵攻も失敗したことで、独立達成の軍事的選択肢が狭まったことです。

ゲティスバーグ演説

1863年11月19日、リンカーンはゲティスバーグの国立墓地奉献式で短い演説を行いました。彼は1776年の独立宣言に立ち返り、戦争を単に既存の連邦を保存するだけでなく、自由と政治的平等の理念を持続させられるかという問題として提示しました。

これは1863年の奴隷解放宣言後に起こった戦争目的の変化と重なります。戦争を「以前の状態への復帰」とするだけではなく、奴隷制を破壊した新しい連邦を構想する言葉が強くなりました。

ただし、演説で語られた平等が戦争終結後ただちに社会制度として実現したわけではありません。戦後の復興期は、その理念をどこまで政治的・法的に具体化するかをめぐる新たな対立の始まりでした。

徴兵と国内の反発

戦争が長期化すると、南北両政府は志願兵だけでは兵力を維持できなくなりました。南部連合は1862年に徴兵制度を導入し、合衆国側でも1863年に連邦徴兵法が成立しました。

徴兵は「誰が戦争の負担を負うのか」という社会的対立を引き起こしました。代替者を雇ったり一定額を支払って徴兵を回避したりできる制度は、貧困層に不公平だと批判されました。

1863年7月にはニューヨーク市で徴兵反対暴動が起こり、暴力は黒人住民への人種攻撃にも拡大しました。奴隷解放と徴兵が結びつけられ、白人労働者の不安と人種差別が爆発した出来事でした。

女性と戦時社会

南北戦争では、多数の女性が看護、救援物資の組織、病院運営、通信、執筆などに参加しました。国立公園局は、数千人規模の女性が看護活動に従事したと推定しています。

クララ・バートンは物資を集めて前線へ運び、アンティータムなどで負傷兵を支援しました。戦争は男性が軍隊へ動員されたことで家庭や農場、商店、行政の労働配置も変えました。

一方、女性の政治的権利が同時に拡大したわけではありません。戦時の社会参加が新しい役割を可視化しても、参政権を含む制度的平等はその後長い政治運動を必要としました。

鉄道、蒸気船、工業力

南北戦争では鉄道、蒸気船、電信、工業生産が大軍の運用に不可欠でした。兵士、馬、砲弾、食料を遠距離へ大量輸送できる鉄道網は、戦線の維持そのものを左右しました。

合衆国側はより大規模な工業力と交通網を持ち、戦争が長期化するほどその差を利用できました。国立公園局の経済史資料は、1864年の合衆国軍が鉄道と改良された蒸気船を利用しながら、大量の兵員と物資を継続投入できた一方、南部経済では輸送・製造基盤の喪失が深刻化したと説明しています。

戦争は近代的な技術だけで決まったわけではありませんが、国家が経済資源を軍事力へ変換する能力の差が長期戦では大きく作用しました。

1864年 戦争がさらに社会へ入り込む

1864年、グラントは合衆国軍全体の総司令官となり、東部ではリー軍へ継続的な圧力をかけました。同時にウィリアム・T・シャーマンはジョージア州へ進撃します。

この段階では、敵軍を戦場で破るだけでなく、鉄道、工場、倉庫、農業生産など、南部連合が軍隊を維持する基盤そのものを破壊する作戦が強まります。

民間社会と軍事目標の境界が以前より曖昧になり、戦争は住民の移動、食料供給、都市、インフラへ直接的な打撃を与えるようになりました。

グラントとヴァージニア戦線

1864年春、グラントはポトマック軍と行動し、リーの北ヴァージニア軍に対して連続攻勢を開始しました。荒野の戦い、スポットシルヴェニア、コールドハーバーなどで大きな損害を出しながらも、従来のように敗戦後ワシントン方面へ大きく撤退せず、南へ移動し続けます。

目的は一度の決戦でリー軍を壊滅させることだけではなく、南部連合が補充しにくい兵力と物資を継続的に消耗させることでした。

合衆国側にも甚大な損害が生じましたが、人口・工業・輸送面での差によって、長期的な消耗戦は南部連合側により厳しく作用しました。

ピーターズバーグ包囲

1864年6月、グラント軍はリッチモンド南方の交通拠点ピーターズバーグへ到達しました。初期攻撃で都市を攻略できず、その後約9か月にわたる包囲戦へ入ります。

ピーターズバーグには複数の鉄道が集中し、南部連合首都リッチモンドへ物資を供給していました。合衆国軍は塹壕線を徐々に西へ伸ばし、鉄道路線を切断していきます。

長大な塹壕、砲撃、鉄道補給を伴うピーターズバーグ戦線は、後の第一次世界大戦を連想させることがあります。ただし兵器、軍事組織、作戦環境は異なり、単純に20世紀型塹壕戦の先取りとするより、19世紀の野戦と要塞戦が変化していた一例と見る方が適切です。

アトランタ攻略

西部ではシャーマン軍が1864年春からジョージア州を南下し、南部連合の重要な鉄道・工業拠点アトランタを目指しました。ジョゼフ・E・ジョンストン、後にジョン・ベル・フッドが率いる南部連合軍と戦いながら進撃します。

1864年9月、南部連合軍がアトランタから撤退し、合衆国軍が都市を占領しました。アトランタの陥落は軍事・物流上重要であると同時に、戦争継続をめぐる北部の政治状況にも影響しました。

その後シャーマンはアトランタを軍事拠点として整理し、11月から海岸のサヴァナへ向かう新たな作戦を開始します。

シャーマンの海への進軍

1864年11–12月、シャーマン軍はアトランタからサヴァナまでジョージア州を横断しました。軍は鉄道、倉庫、工場、農産物など南部連合の戦争遂行能力に関係する資源を広範に破壊・接収しました。

国立公園局は、シャーマンの作戦がジョージアの産業、農業、交通インフラに大規模な損害を与え、すでに弱体化していた南部経済へ大きな圧力を加えたと説明しています。

12月、シャーマンはサヴァナを占領しました。その後軍は1865年にカロライナ方面へ北上し、南部連合の残る交通・生産基盤へ圧力をかけます。

「総力戦」と呼べるのか

南北戦争、とくに1864–65年の作戦は「総力戦」と呼ばれることがあります。確かに国家が大量の兵員・工業・金融・交通を動員し、軍隊が敵の経済基盤と民間資産へ広く攻撃を加えた点では、戦争と社会の境界が大きく縮まりました。

一方、20世紀の二つの世界大戦と同じ意味で「総力戦」と呼ぶと違いも見えにくくなります。南北戦争では都市住民全体の意図的な殲滅を政策化したわけではなく、軍事目標と民間財産の扱いにも地域・指揮官・時期による差がありました。

したがってここでは、「総力戦だった」と固定的に定義するより、戦争後半に軍事目標が敵軍そのものから交通・生産・労働・士気へ広がったことを具体的に見る方が重要です。

1864年の選挙と戦争継続

戦争中の1864年にもアメリカ合衆国では大統領選挙が行われました。リンカーンは再選を目指し、元ポトマック軍司令官ジョージ・B・マクレランが対立候補となりました。

1864年夏には合衆国軍の損害が大きく、戦争終結の見通しも不透明でした。しかしアトランタ攻略など戦況の変化を経て、11月の選挙でリンカーンが再選されます。

南部連合にとって、合衆国の選挙で戦争継続への政治的支持が維持されたことは重要でした。南部連合が期待した「北部世論が戦争継続を拒否し、独立を認める」という可能性が縮小したからです。

1865年 リッチモンドとピーターズバーグ陥落

1865年春、合衆国軍はピーターズバーグ周辺の南部連合補給線をさらに遮断しました。4月2日、リー軍はピーターズバーグとリッチモンドから撤退します。

南部連合政府も首都リッチモンドを放棄しました。合衆国軍が都市へ入ると、周辺で奴隷として拘束されていた人々にとって軍事占領は解放の現実化でもありました。

リー軍は西へ移動し、補給を受けながら南方の他の南部連合軍と合流しようとしましたが、グラント軍が進路を遮断します。

1865年4月9日 アポマトックス

1865年4月9日、ヴァージニア州アポマトックス・コートハウスで、リーは北ヴァージニア軍をグラントへ降伏させました。

降伏条件では、将兵は武器を置いた後に自宅へ戻ることが認められました。国立公園局が保存する文書には、グラントの条件とリーの受諾書が残っています。

北ヴァージニア軍は南部連合最大級の軍隊であり、その降伏は戦争の実質的な終結を示す象徴的事件となりました。ただし、南部連合の他の軍隊はまだ各地に残っていました。

戦争は一日の降伏で終わったわけではない

アポマトックスの降伏後も、ノースカロライナ、アラバマ、ミシシッピ、テキサスなどでは南部連合部隊の降伏が順次続きました。戦争全体が4月9日に法的・軍事的に一斉終了したわけではありません。

また、奴隷制の崩壊も地域によって時間差がありました。合衆国軍がそれまで到達していなかった地域では、戦争末期から終戦後に自由の情報が届きます。

アポマトックスは「戦争が終わった日」というより、南部連合が組織的な大戦争を継続できなくなった決定的な転換点として捉える方が正確です。

リンカーン暗殺

アポマトックスから5日後の1865年4月14日、リンカーンはワシントンのフォード劇場で俳優ジョン・ウィルクス・ブースに撃たれ、翌15日に死亡しました。

副大統領アンドリュー・ジョンソンが大統領に就任します。奴隷制を廃止した後、南部諸州をどの条件で連邦へ復帰させるのか、解放された約400万人の黒人の市民権と政治的権利をどう保障するのかという巨大な問題を、新政権と議会が引き継ぐことになりました。

戦争の軍事的勝利と、戦後社会の再建は別の問題でした。ここから「復興期」と呼ばれる新しい政治闘争が始まります。

憲法修正第13条

奴隷解放宣言は反乱地域を対象とする戦時措置だったため、全国で奴隷制度を恒久的に廃止するには憲法改正が必要でした。

憲法修正第13条は1864年4月8日に上院を通過し、1865年1月31日に下院を通過しました。その後、州による批准が進み、1865年12月6日に必要な4分の3へ達します。

国立公文書館によれば、この修正によって、犯罪への刑罰としての場合を例外として、合衆国またはその管轄下で奴隷制と強制労働が禁止されました。

ここで初めて、奴隷制廃止は大統領の戦争権限ではなく、合衆国憲法そのものへ組み込まれました。

戦争と奴隷制廃止の関係

南北戦争による奴隷制廃止を、一人の政治家が「奴隷を解放した」という単純な物語にすることはできません。奴隷となっていた人々自身の逃亡と抵抗、黒人・白人の奴隷制廃止運動、軍の現場判断、議会立法、リンカーン政権の政策転換、黒人兵の軍務、合衆国軍の軍事勝利が重なりました。

スミソニアン国立アメリカ歴史博物館が強調するように、黒人自身による「自己解放」は政府の正式な奴隷解放政策に先行しました。合衆国軍が南部へ進むたび、奴隷制の支配領域そのものが縮小していきました。

最終的に憲法修正第13条が全国的な法的廃止を実現しましたが、自由になったことが土地、収入、教育、身体的安全、参政権の平等を自動的に保証したわけではありません。

終戦後に残された問題

1865年の戦争終結によって南部連合は消滅し、奴隷制度は憲法上廃止されました。しかし、どのような条件で南部諸州を連邦へ戻すか、解放民の権利を誰が保障するか、旧南部連合指導者をどう扱うかという問題は未解決でした。

1865年3月には解放民局が設置され、食料、医療、教育、労働契約などをめぐる支援が始まりました。その一方、南部諸州では黒人の自由を制限する法律や暴力が生まれます。

南北戦争は奴隷制を終わらせましたが、人種的平等を完成させたわけではありません。1865年以後の復興期は、戦争で破壊された制度の代わりに、誰が市民であり、どの政府がその権利を守るのかをめぐる新しい争いとなります。

1861–1865年に何が変わったのか

1861年、南部11州は合衆国から離脱し、独立国家として存続するために戦いました。合衆国政府は連邦を維持するために戦争を開始し、人口、工業力、鉄道、海軍などの資源を長期的に動員していきます。

しかし戦争の性格を最も深く変えたのは奴隷制でした。奴隷となっていた人々自身が合衆国軍の前線へ移動し、南部連合の労働力を弱めました。1862年のアンティータム後に予備奴隷解放宣言が出され、1863年1月に正式な宣言が発効します。約20万人の黒人兵士・水兵が合衆国側で軍務につき、自由を守る主体として戦争へ参加しました。

1863年夏にはヴィックスバーグとゲティスバーグで合衆国側が重要な成果を得ましたが、戦争はなお二年続きました。1864年以降、グラントはリー軍を継続的に消耗させ、シャーマン軍は南部連合の交通・産業・農業基盤へ大きな打撃を与えます。1865年4月、リーがアポマトックスで降伏し、主要な南部連合軍も順次降伏しました。

そして1865年12月、憲法修正第13条の批准によって奴隷制度は全国的に廃止されました。四年間の戦争によって、合衆国は「奴隷制を認める州と認めない州が共存する連邦」から、少なくとも憲法上は奴隷制度を禁止する国家へ変わりました。同時に、連邦政府と州の関係、市民権、人種、労働、国家権力をめぐる新しい問題が始まりました。

1860–1865年の主な出来事

  • 1860年11月6日 — エイブラハム・リンカーンが大統領選挙に勝利。
  • 1860年12月20日 — サウスカロライナ州が連邦離脱を宣言。
  • 1861年2月 — 離脱した7州がアメリカ連合国を組織。ジェファーソン・デイヴィスが大統領となる。
  • 1861年4月12日 — 南部連合軍がサムター要塞への砲撃を開始。
  • 1861年4–6月 — ヴァージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナが南部連合へ加わる。
  • 1861年5月 — フォート・モンローで逃亡奴隷を南部側へ返還しない「コントラバンド」政策が始まる。
  • 1861年7月21日 — 第一次ブルラン/第一次マナサスの戦い。
  • 1861年11月8日 — トレント号事件。合衆国とイギリスの外交危機が発生。
  • 1862年4月6–7日 — シャイローの戦い。
  • 1862年9月17日 — アンティータムの戦い。
  • 1862年9月22日 — リンカーンが予備奴隷解放宣言を発表。
  • 1863年1月1日 — 奴隷解放宣言が発効。
  • 1863年5月22日 — 合衆国有色人部隊の編成を制度化する一般命令第143号。
  • 1863年7月1–3日 — ゲティスバーグの戦い。
  • 1863年7月4日 — ヴィックスバーグがグラントへ降伏。
  • 1863年11月19日 — リンカーンがゲティスバーグ演説。
  • 1864年3月 — グラントが合衆国陸軍総司令官となる。
  • 1864年9月 — 合衆国軍がアトランタを占領。
  • 1864年11月8日 — リンカーンが大統領に再選。
  • 1864年11–12月 — シャーマン軍がアトランタからサヴァナへ進軍。
  • 1865年1月31日 — 連邦議会下院が憲法修正第13条を可決。
  • 1865年3月3日 — 解放民局設置法が成立。
  • 1865年4月2–3日 — リー軍と南部連合政府がピーターズバーグ、リッチモンドを放棄。
  • 1865年4月9日 — リーが北ヴァージニア軍をグラントへ降伏。
  • 1865年4月14–15日 — リンカーンが暗殺され、アンドリュー・ジョンソンが大統領に就任。
  • 1865年春 — 南部連合の他の主要軍も順次降伏。
  • 1865年12月6日 — 憲法修正第13条の批准が成立し、奴隷制を全国的に廃止。

次の時代へ — ドイツ統一

アメリカで内戦が続いていた同じ1860年代、ヨーロッパではプロイセンを中心とするドイツ国家形成が急速に進みました。1848年のフランクフルト国民議会が議会と憲法による統一に失敗した後、1860年代には外交、軍制改革、戦争という別の方法で統一問題が動きます。

次の記事では、1864–1871|ドイツ統一 — ビスマルク、三つの戦争、ドイツ帝国成立として、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題、普墺戦争、北ドイツ連邦、普仏戦争、1871年ヴェルサイユでの帝国成立までを追います。1848年の「下からの統一」と、1860年代のプロイセン国家による統一がどのように異なったのかも扱います。

参考資料・出典

本ページは、アメリカ国立公園局、国立公文書館、議会図書館、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館、アメリカ国務省歴史局、連邦議会上院の資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。南北戦争の原因については、離脱文書と同時代の政治的発言を踏まえ、奴隷制とその拡大を中心に置いています。一方、戦争開始時の合衆国政府の目的と、1862–63年以降の奴隷解放政策を同一視せず、奴隷自身による自己解放、軍事政策、立法、黒人兵の参戦を通じて戦争目的が変化した過程として整理しています。また「総力戦」という言葉は20世紀の戦争と同一視せず、軍事攻撃が交通・工業・農業・民間資産へ拡大した具体的変化を説明するために限定的に扱っています。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY