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World History

1871

パリ・コミューン

戦争、革命、都市自治、鎮圧

1871年3月18日、フランス政府がパリ国民衛兵の大砲を回収しようとしたことをきっかけに、パリで大規模な蜂起が起こりました。政府と正規軍の中心はヴェルサイユへ移り、パリでは国民衛兵中央委員会が市政を掌握します。3月26日の選挙を経て、28日に「パリ・コミューン」が正式に宣言されました。

コミューンが存続したのはわずか約二か月です。その間、パリはヴェルサイユ政府との内戦状態にありながら、家賃、労働、教育、宗教、行政、軍事、自治など多くの問題について制度変更を試みました。政治的にはジャコバン、ブランキスト、プルードン主義者、国際労働者協会の活動家、独立した共和主義者などが混在し、統一した思想を持つ政府ではありませんでした。

5月21日、ヴェルサイユ軍が市内へ入り、28日まで激しい市街戦が続きました。「血の週間」と呼ばれるこの期間に多数のコミューン支持者が死亡し、政府軍側や人質にも犠牲者が出ました。死者数については歴史家の推計に幅があり、フランス国民議会の歴史資料もコミューン側の死者を約1万から3万人という幅で紹介しています。鎮圧後には大量逮捕、軍法会議、投獄、ニューカレドニアへの流刑が続き、1879–80年の恩赦まで多くの亡命者・流刑者が帰国できませんでした。

パリ・コミューンは短命でしたが、その後の社会主義、労働運動、自治論、革命論に巨大な象徴的意味を持つようになります。同時に、写真、新聞、ポスター、風刺画、合成写真によって事件のイメージが大量に流通した点でも重要です。1871年は、政治的革命が都市空間とマスメディアの中で可視化され、その記憶までが争われた時代でした。

CONTENTS

  1. 普仏戦争の敗北から始まる
  2. パリ包囲と「徹底抗戦」
  3. 第二帝政崩壊と第三共和政
  4. 1871年1月の休戦
  5. 2月総選挙と保守的な国民議会
  6. パリと地方の政治的距離
  7. 国民衛兵という武装市民組織
  8. モンマルトルの大砲
  9. 1871年3月18日
  10. ルコントとトマ将軍の殺害
  11. 政府はヴェルサイユへ
  12. 国民衛兵中央委員会
  13. 3月26日の選挙
  14. 3月28日 コミューン宣言
  15. 一つの思想による政府ではなかった
  16. 「コミューン」という自治構想
  17. 4月19日「フランス人民への宣言」
  18. 家賃と債務
  19. 労働政策
  20. パン職人の夜間労働禁止
  21. 放棄された工場と労働者協同組合
  22. 政教分離
  23. 教育の世俗化
  24. 女性は選挙権を持たなかった
  25. それでも女性は政治主体だった
  26. 「パリ防衛と負傷者救護のための女性同盟」
  27. ルイーズ・ミシェル
  28. 外国出身者と国際主義
  29. ギュスターヴ・クールベと芸術家連盟
  30. ヴァンドーム広場の記念柱
  31. 新聞とポスターの政治
  32. ヴェルサイユとの内戦
  33. 4月3日の攻勢失敗
  34. 人質令
  35. 公安委員会をめぐる分裂
  36. 政治改革と軍事危機の同時進行
  37. 5月21日 ヴェルサイユ軍がパリへ入る
  38. バリケードの市街戦
  39. 都市の火災と建造物の破壊
  40. 人質の殺害
  41. 「血の週間」
  42. 死者数をどう扱うか
  43. ペール・ラシェーズと最後の戦闘
  44. 軍事鎮圧後の司法的弾圧
  45. ニューカレドニアへの流刑
  46. 1879–1880年の恩赦
  47. 写真に残されたコミューン
  48. ブルーノ・ブラックエとバリケード
  49. 合成写真と政治宣伝
  50. 「廃墟のパリ」という商品
  51. 革命の記憶は誰のものか
  52. 国際的な革命の象徴へ
  53. コミューンを一つの言葉で定義しない
  54. 1871年の72日間に何が変わったのか
  55. 1870–1880年の主な出来事
  56. 次の時代へ — 明治維新と近代国家形成
  57. 参考資料・出典

普仏戦争の敗北から始まる

パリ・コミューンを理解するには、1871年3月18日だけを見るのではなく、前年の普仏戦争から始める必要があります。1870年7月、ナポレオン3世のフランス第二帝政はプロイセンへ宣戦しました。しかし戦争はフランス側に不利に進み、9月2日のセダンの戦いでナポレオン3世自身が捕虜となります。

9月4日、パリでは第二帝政が崩壊し、共和政が宣言されました。国防政府は戦争継続を掲げますが、ドイツ軍は9月19日からパリを包囲しました。

つまりパリの住民は、帝政崩壊、共和国成立、外国軍による包囲、食料不足、砲撃、軍事的敗北を数か月のうちに経験しました。コミューンは平時に突然発生した市政改革ではなく、国家崩壊と戦争の中から生まれました。

パリ包囲と「徹底抗戦」

1870年秋から1871年冬にかけて、パリの生活条件は悪化しました。食料と燃料が不足し、寒さと軍事的孤立が住民を苦しめます。

同時にパリでは、政府が十分に戦っていないという批判が急進共和派や国民衛兵の間で強まりました。1870年10月31日と1871年1月22日には政府に対する蜂起・抗議が起きています。

この経験は重要です。1871年3月の蜂起以前から、パリには「共和国を守るためには政府そのものに圧力をかける必要がある」という政治的文化が形成されていました。

第二帝政崩壊と第三共和政

1870年9月4日に宣言された共和国は、後に第三共和政と呼ばれる政治体制へつながります。しかし誕生時点では、その制度も社会的基盤も確定していませんでした。

共和政を強く支持するパリの急進派に対し、地方には王党派や保守派も多く存在しました。普仏戦争の敗北後に行われた1871年2月の国民議会選挙では、早期講和を支持する王党派・保守派が多数を占めます。

そのため1871年春のフランスには、「共和国」と一言で呼べない複数の政治構想が存在していました。パリの急進共和主義者が想像する共和国と、国民議会多数派が作ろうとする秩序は大きく異なっていました。

1871年1月の休戦

1871年1月28日、国防政府はドイツ側と休戦協定を結びました。パリでは包囲戦を耐えた国民衛兵や急進派の多くが、この決定を敗北の受容とみなしました。

休戦協定は、最終的な講和条件を決める国民議会を選出することを定めていました。その選挙によって成立した議会が、ドイツとの講和と国内秩序の再建を進めます。

パリの一部住民にとって問題だったのは、外国軍への敗北だけではありません。自分たちが守ろうとしてきた共和国そのものが、王党派優勢の議会によって変質するのではないかという不安がありました。

2月総選挙と保守的な国民議会

1871年2月8日に国民議会選挙が行われました。全国では講和を求める保守派と王党派が大きな勢力を得ます。一方パリでは、より急進的な共和派・社会主義者への支持が強くありました。

国民議会はボルドーで開かれ、アドルフ・ティエールを「フランス共和国行政権の長」に選びました。やがて議会と政府はヴェルサイユへ移ります。

この政治地理は、コミューンを理解する重要な背景です。パリだけが「フランス全体」を代表していたわけではなく、国民議会にも全国選挙による正統性がありました。反対に、パリの急進派は、保守的多数派が共和国と首都の自治を脅かしていると考えました。二つの正統性が衝突していきます。

パリと地方の政治的距離

パリ・コミューンは後に世界革命の象徴となりましたが、1871年当時のフランス全体が同じ政治方向へ進んでいたわけではありません。地方では早期講和と秩序回復を求める有権者が多く、パリの革命的政治とは距離がありました。

リヨン、マルセイユ、サンテティエンヌなど他都市でも短期間のコミューン運動が起きましたが、パリほど長くは存続しませんでした。

したがってパリ・コミューンを「フランス国民全体の革命政府」とみなすことはできません。むしろ、首都の自治と急進共和主義を掲げる都市運動が、全国政府と武力衝突したことに特徴があります。

国民衛兵という武装市民組織

パリでは包囲戦中、国民衛兵が大規模に拡大していました。市民が武装し、自分たちの地区を守る組織です。正規軍とは異なり、部隊の一部では士官を選挙で選ぶなど、政治的・自治的性格を持っていました。

1871年春には国民衛兵の各部隊を束ねる中央委員会が強い影響力を持ちます。国民衛兵はコミューンの軍事的基盤であると同時に、地区社会の政治組織でもありました。

政府から見れば、首都に政府の統制外で大砲を保有する大規模な武装組織が存在することは重大な安全保障問題でした。一方国民衛兵側は、その武器を包囲戦で自分たちが購入・防衛したものと考え、政府による回収を共和国への攻撃と受け止めました。

モンマルトルの大砲

休戦後、国民衛兵が保有していた多数の大砲がモンマルトルやベルヴィルなどの高地に集められていました。パリ市の歴史資料によれば、シャンゼリゼ付近から移された227門の大砲がこうした地区に置かれていました。

ティエール政府はパリの武装解除を決め、3月17日から18日にかけて正規軍をモンマルトルなどへ送り、大砲を回収しようとしました。

軍事的には武器回収作戦でしたが、政治的には「誰がパリを支配するのか」を問う行動になりました。

1871年3月18日

3月18日早朝、政府軍はモンマルトルの大砲を確保しました。しかし運搬に必要な馬などの準備が遅れ、周囲に住民と国民衛兵が集まります。

兵士の一部は群衆への発砲命令に従わず、住民側と fraternisation、つまり fraternization と呼ばれる形で行動を共にしました。政府側の作戦は崩れ、パリ各地で国民衛兵が主要施設を掌握していきます。

この蜂起を単純な中央司令部による計画的クーデタとみなすのは適切ではありません。政府の大砲回収作戦、住民の抵抗、兵士の命令拒否が連鎖して、急速に政治権力の空白が生まれました。

ルコントとトマ将軍の殺害

3月18日、政府軍のクロード・ルコント将軍と、元国民衛兵司令官クレマン=トマ将軍がモンマルトルで殺害されました。

ルコントは群衆への射撃を命じたとされ、兵士の反発を受けて拘束されました。トマは1848年六月蜂起の鎮圧に関わった人物として急進派から強い敵意を持たれていました。

二人の殺害は、蜂起の最初の日から政治対立が暴力へ転化したことを示します。一方で、コミューンの全指導者がこの殺害を計画したわけではなく、事件を組織全体の統一的政策として扱うことにも注意が必要です。

政府はヴェルサイユへ

蜂起が広がるとティエールはパリから撤退し、政府機関と軍をヴェルサイユへ集中させました。多数の官僚や保守的住民も首都を離れます。

パリ市の資料では、約10万人がティエールに続いて首都を離れたとされています。これによって、パリとヴェルサイユは地理的にも政治的にも分離しました。

以後、パリ側は自らの自治政府を作り、ヴェルサイユ側は国家政府として首都奪還の準備を進めることになります。

国民衛兵中央委員会

3月18日から選挙までの間、パリの実権を握ったのは国民衛兵中央委員会でした。委員会は市庁舎を占拠しましたが、自らを恒久政府として固定するのではなく、市民による選挙を実施すると宣言しました。

この選択はコミューンの政治的正統性にとって重要でした。武装蜂起によって政権を掌握した後、選挙を通じて新しい市政権力へ移行しようとしたからです。

同時に、この数日の猶予がヴェルサイユ政府に軍の再編時間を与えたという軍事的批判も後に生まれました。コミューンの歴史では、民主的正統性と軍事的緊急性が繰り返し衝突します。

3月26日の選挙

1871年3月26日、パリでコミューン評議会の選挙が行われました。パリ市の資料では、登録有権者約48万5千人に対して投票者は約23万人でした。戦争と政治対立で多数の住民が首都を離れていたことも投票率に影響しました。

投票権を持ったのは男性でした。女性は政治活動に大規模に参加しましたが、この選挙では選挙権も被選挙権も持ちませんでした。

選出された人物にはジャコバン、ブランキスト、国際労働者協会の活動家、プルードン主義者、急進共和派、独立派など多様な立場がありました。穏健派の一部はその後辞任し、評議会内部では多数派と少数派の対立も生まれます。

3月28日 コミューン宣言

3月28日、市庁舎前で新しい評議会の成立が公に祝われ、「コミューン」が宣言されました。

名称はフランス革命期のパリ・コミューンを想起させる一方、1871年の参加者にとっては都市自治という意味も持っていました。中央集権的な国家ではなく、自治するコミューンが連合する共和国を構想する人々もいました。

この日から5月28日の軍事的崩壊までが、一般にパリ・コミューンの統治期間として扱われます。

一つの思想による政府ではなかった

パリ・コミューンを「マルクス主義政府」「無政府主義政府」「ジャコバン革命政府」のどれか一つとして分類すると実態を失います。

評議会には1848年革命やフランス革命の伝統を重視するジャコバン・ブランキスト系の人物、労働者の協同組合や自治を重視するプルードン主義者、第一インターナショナルの活動家、急進共和派などがいました。

そのため、中央集権的な革命政府を強めるのか、地区や労働組織の自治を重視するのか、軍事防衛を最優先するのか、社会改革を進めるのかについて対立がありました。

「コミューン」という自治構想

コミューンの政治思想の中心の一つは、パリが自らの行政を大きく決定する自治権でした。これは単なる市役所改革ではなく、中央集権的なフランス国家の構造への批判と結びつきました。

自治はパリだけの特権として構想されたわけではありません。各都市・地域が自治し、それらが連合する共和国を想定する文章も存在します。

その意味で、コミューンは国家権力を首都が奪取して全国を統治する革命と、地方自治を拡大する連邦主義的構想との間に複数の方向性を持っていました。

4月19日「フランス人民への宣言」

4月19日、コミューンは「フランス人民への宣言」を発表し、自らの政治構想を示しました。

そこでは共和国を唯一可能な政府形態としながら、コミューンの自治、地方行政、司法、教育などについて地域が大きな権限を持つ構想が示されました。

これはコミューンを単なる非常時の反乱政府ではなく、フランス共和国の制度そのものを再編しようとする政治実験として理解する重要な文書です。

家賃と債務

コミューンが最初に取り組んだ問題の一つは、包囲戦で疲弊した住民の生活でした。3月29日、1870年秋以降の一定期間の家賃支払いを免除する措置が決定されます。

債務の支払いについても猶予措置がとられました。パリ市の歴史資料は、こうした政策を、包囲と失業によって生活基盤を失った庶民を救済する緊急措置として位置づけています。

コミューンの社会政策は抽象的な革命理論だけでなく、家賃、借金、仕事、食料といった戦時都市の日常問題から始まっていました。

労働政策

コミューンには労働者出身の評議員や第一インターナショナルの活動家が参加し、労働条件を行政が規制する試みが行われました。

雇用主による罰金・給与天引きの禁止、職業紹介制度の見直し、公的契約における労働条件への介入などが検討・実施されました。

現代の労働法体系とは比較できないほど短期間の試みでしたが、「雇用契約は私人間の自由な契約だから行政は介入しない」という考え方から離れ、労働者の生活条件を公共問題として扱った点に特徴があります。

パン職人の夜間労働禁止

4月20日、コミューンはパン職人の夜間労働を禁止する布告を出しました。パリ市の歴史資料では、これを当時の社会政策の象徴的措置の一つとして紹介しています。

パンは都市生活に不可欠であり、製造は深夜から早朝に行われることが一般的でした。夜間労働禁止は労働者の生活時間に行政が介入する政策でした。

一方で、実際の施行方法や事業者との調整には困難もあり、コミューンの政策がすべて短期間に定着したわけではありません。

放棄された工場と労働者協同組合

戦争と政変の中で、多くの経営者がパリを離れ、操業停止した工場や作業場が生まれました。コミューンは、こうした放棄事業所を調査し、労働者組織による再稼働を検討しました。

この政策は、後に「労働者自主管理」の先駆として強調されることがあります。ただし、コミューンが存続した時間は短く、全面的な社会化や生産手段の一括国有化が実現したわけではありません。

重要なのは、所有者不在の企業を単に閉鎖したままにするのではなく、労働者自身が生産を再組織できないかという発想が行政課題として現れたことです。

政教分離

4月2日、コミューンは教会と国家の分離を布告し、宗教団体への国家予算支出を停止する方針を示しました。

フランスではカトリック教会が教育や社会制度で大きな役割を持ち、革命派・共和派の反教権主義と長く対立していました。コミューンの政教分離政策は、この19世紀フランスの政治対立の中に位置づける必要があります。

1905年のフランス政教分離法をそのまま1871年に遡らせることはできませんが、パリ市とパリ公文書館の資料は、コミューンの政策が後の共和政における世俗化を考える重要な先例となったことを指摘しています。

教育の世俗化

教育委員会ではエドゥアール・ヴァイヤンらが、宗教から独立した公教育の整備を進めました。各区でも学校の世俗化、無料教育、女子教育、職業教育などが議論されます。

ただし72日間の統治で、パリ全体に完成した統一教育制度が構築されたわけではありません。戦闘が激化する中で、構想段階や一部地区での実施に終わった政策も多くありました。

それでも、教育を教会の慈善・宗教教育から切り離し、市民社会の公共制度として再編しようとした点は、後の第三共和政の教育政策と比較される重要な特徴です。

女性は選挙権を持たなかった

コミューンは社会改革を掲げましたが、女性参政権を実現した政府ではありません。3月26日の選挙で女性は投票できず、コミューン評議会の議員にもなれませんでした。

この点は、後世の革命的イメージと実際の制度を区別するために重要です。コミューン内部にも19世紀社会のジェンダー秩序は残っていました。

しかし制度上の排除が、女性が政治活動から排除されていたことを意味するわけではありません。むしろコミューン期には女性の政治的・社会的活動が非常に可視化されました。

それでも女性は政治主体だった

女性たちは3月18日のモンマルトルで大砲回収に抵抗し、看護、救護、食料供給、政治クラブ、新聞、職場組織、バリケード防衛など多様な活動に参加しました。

アンドレ・レオ、ポール・ミンク、アンナ・ジャクラール、ルイーズ・ミシェル、ナタリー・ルメル、エリザベート・ドミトリエフらはそれぞれ異なる立場から政治活動を行いました。

女性を「男性革命家を支えた補助者」とだけみなすと、労働、教育、男女関係、政治参加について女性自身が要求を形成した点を見落とします。

「パリ防衛と負傷者救護のための女性同盟」

1871年4月11日、エリザベート・ドミトリエフとナタリー・ルメルらは「パリ防衛と負傷者救護のための女性同盟」を組織しました。

カルナヴァレ博物館の資料によれば、女性同盟は救護だけでなく、女性労働者の仕事の組織化、職業別組織、協同的生産の構築にも関与しました。現存するポスターには、女性労働者を職種別に組織し、生産協同組合へ結びつけようとする構想が記されています。

これはコミューンにおける女性運動が慈善活動だけでなく、労働組織と社会変革の構想を持っていたことを示します。

ルイーズ・ミシェル

教師ルイーズ・ミシェルは18区の監視委員会などで活動し、コミューンを代表する人物の一人となりました。3月18日のモンマルトルにも参加し、その後は看護や政治活動だけでなく武装闘争にも関与しました。

コミューン敗北後、彼女は拘束され、裁判で厳しい処罰を求める姿勢を示しました。死刑ではなくニューカレドニアへの流刑となり、1873年から1880年まで同地で生活しました。

後年ミシェルは無政府主義運動の重要人物となりますが、1871年時点の彼女を後の政治思想だけで説明することには注意が必要です。

外国出身者と国際主義

コミューンにはフランス国外で生まれた活動家も参加しました。ハンガリー出身のレオ・フランケルは労働委員会を担い、ロシア出身のエリザベート・ドミトリエフやアンナ・ジャクラール、ポーランド系の軍人ヤロスワフ・ドンブロフスキらも重要な役割を持ちました。

国家間戦争の直後に生まれた政治体でありながら、コミューンは「共和国への奉仕」を国籍より重視する国際主義的側面を持っていました。

この特徴は、第一インターナショナルを通じてヨーロッパ各国の労働運動がすでに越境的なネットワークを形成していた時代背景とも結びつきます。

ギュスターヴ・クールベと芸術家連盟

画家ギュスターヴ・クールベもコミューンに参加し、評議員に選出されました。彼は美術館、記念物、美術教育などを政治権力や官僚から一定程度独立させ、芸術家自身が運営する構想に関わりました。

4月には「芸術家連盟」が組織され、芸術家による公共美術制度の自治が議論されます。コミューンにおいて文化政策は周辺的な装飾ではなく、「誰が公共文化を管理するのか」という自治問題の一部でした。

ただしクールベをヴァンドーム広場の記念柱破壊の単独責任者とするのは正確ではありません。彼は以前から柱の移設を提案していましたが、コミューンによる撤去決定と実際の倒壊は集団的な政治過程の中で起きました。

ヴァンドーム広場の記念柱

ヴァンドーム広場の記念柱は、ナポレオン1世の軍事的勝利を記念する帝国的モニュメントでした。コミューンはこれを軍国主義と帝国主義の象徴とみなし、撤去を決定しました。

1871年5月16日、柱は広場で倒されました。その場面は写真にも記録されています。

コミューン敗北後、柱は再建され、クールベは再建費用の負担を求められました。彼は最終的にスイスへ亡命し、1877年に死去します。政治革命が美術家の社会的位置と公共記念物の意味を直接変えた象徴的な事件です。

新聞とポスターの政治

コミューン期のパリでは、多数の新聞、政治ポスター、布告が発行されました。『ル・クリ・デュ・プープル』『ラ・ソシアル』『ル・ペール・デュシェーヌ』など、立場の異なる急進派新聞が街頭政治を形成しました。

国立図書館は、この時期を「報道にとって例外的な時期」と表現し、新聞がコミューンの社会改革と市民生活を記録する重要資料になっていることを紹介しています。

印刷されたポスターは命令、選挙、行政、労働組織、軍事情報を住民へ直接知らせる媒体でした。政治が議会の内部だけでなく、街路の壁面と新聞売場で可視化されていました。

ヴェルサイユとの内戦

3月末の選挙後も、ヴェルサイユ政府がコミューンを承認することはありませんでした。政府は正規軍を再編し、パリ奪還の準備を進めました。

ドイツとの休戦条件によって捕虜となっていたフランス兵の一部が帰還し、ヴェルサイユ軍の兵力は増強されます。

4月初めからパリ西部で本格的な戦闘が始まりました。コミューンは市政改革を行う政府であると同時に、包囲下で戦う軍事政権でもありました。

4月3日の攻勢失敗

4月3日、コミューン側はヴェルサイユへ向けて攻勢を試みました。しかし部隊の統制や準備が不十分で、政府軍の反撃を受けて失敗します。

複数の指導者が死亡または捕虜となり、コミューン軍は以後、基本的にパリ防衛へ追い込まれました。

この失敗は、国民衛兵を基礎とする政治的・自治的軍事組織と、再編された正規軍との能力差を明らかにしました。

人質令

ヴェルサイユ側による捕虜処刑への対抗措置として、コミューンは4月に「人質令」を制定しました。ヴェルサイユ政府への協力者と判断された人物を拘束し、コミューン側捕虜の処刑への報復に利用できるとする制度でした。

実際には多くの人質がすぐに処刑されたわけではありません。しかしコミューン末期の混乱の中で、パリ大司教ジョルジュ・ダルボワら人質が殺害されます。

この問題は、コミューンを後世に理想化する際にも無視できません。政府軍による大規模な弾圧と、コミューン側による人質殺害は規模も文脈も異なりますが、双方の暴力を具体的に区別して記述する必要があります。

公安委員会をめぐる分裂

ヴェルサイユ軍の圧力が強まる中、コミューン評議会ではより集中した非常権力を設けるべきかが争点となりました。

5月1日、フランス革命期の制度を想起させる「公安委員会」が設置されます。ジャコバン・ブランキスト系の多数派は強力な中央指導を必要と考えました。

これに対し少数派は、権力集中がコミューンの民主的・自治的原則に反すると批判しました。外部の軍事危機が深まるほど、内部では「革命を守るために権力を集中すべきか」という古典的な問題が現れます。

政治改革と軍事危機の同時進行

コミューンの政策を評価する際には、制度改革が通常の行政環境で行われたわけではないことが重要です。発足からほぼ全期間、パリ西部では砲撃と戦闘が続いていました。

労働政策、教育、政教分離、協同組合構想を進める一方で、軍隊を組織し、砲兵を配置し、食料・弾薬を確保しなければなりませんでした。

そのため、多くの政策は布告や計画として存在しても、実施期間が短く、地域差も大きくありました。「コミューンが実現した制度」と「コミューンが提案した制度」を区別する必要があります。

5月21日 ヴェルサイユ軍がパリへ入る

1871年5月21日、ヴェルサイユ軍はパリ西部から市内へ進入しました。ここから28日までの一週間が「血の週間」と呼ばれます。

政府軍は西部から東部へ進み、コミューン側は各地区にバリケードを構築して抵抗しました。しかし統一された防衛線を維持することはできず、地区ごとに戦闘が分断されていきます。

市街戦は軍事的敗北だけでなく、大量の即決処刑、火災、人質殺害、建築物破壊を伴いました。

バリケードの市街戦

パリのバリケードは1789年以来、革命の象徴となっていました。1871年にも街路の石材、車両、家具などを利用した多数のバリケードが築かれました。

しかしオスマン改造後の広い大通りは軍隊と砲兵の移動を可能にし、政府軍は組織的に各地区を制圧していきました。

最後まで強い抵抗が続いたのはベルヴィル、メニルモンタン、ペール・ラシェーズ周辺など東部の労働者地区でした。都市の社会地理と軍事地理が重なっています。

都市の火災と建造物の破壊

血の週間にはチュイルリー宮殿、市庁舎、会計検査院、財務省など複数の公共建築が焼失・損傷しました。コミューン側が戦略的・象徴的理由から放火した建物がある一方、砲撃や市街戦による火災もありました。

とくにチュイルリー宮殿の焼失は、旧王政・帝政の象徴が破壊された出来事として強い印象を残しました。市庁舎の火災ではパリの歴史資料や戸籍の多くも失われました。

戦後、廃墟は大量に写真撮影されました。「燃えるパリ」は反コミューン側の宣伝に利用され、革命を破壊と同一視する視覚的記憶の中心となります。

人質の殺害

ヴェルサイユ軍による市内制圧と即決処刑が進む中、コミューン側でも人質殺害が起こりました。5月24日にはパリ大司教ダルボワを含む複数の人質がロケット刑務所で処刑されました。

その後も人質や聖職者などが殺害されています。

これらは戦争末期の報復暴力として記録する必要があります。同時に、後の反コミューン宣伝では人質殺害が繰り返し視覚化され、コミューン全体を犯罪的集団として表象する材料にもなりました。

「血の週間」

5月21日から28日まで、ヴェルサイユ軍はパリを西から東へ制圧しました。捕らえられたコミューン兵や市民の即決処刑が各地で行われました。

戦闘は墓地、広場、街路、住宅地へ広がり、最後の主要な抵抗地域は東部へ追い詰められます。

パリ公文書館は、この一週間を政府軍約12万人と数千人規模の連邦兵が衝突し、両陣営による殺害と多数の建物破壊を伴った出来事として説明しています。

死者数をどう扱うか

血の週間の死者数は、現在でも単一の確定数字にまとめるべきではありません。当時の記録は不完全で、即決処刑、戦闘死、埋葬記録などの扱いによって推計が大きく異なります。

フランス国民議会の歴史資料は、コミューン側の死者について歴史家の推計が約1万から3万人の範囲にあるとしています。パリ市の150周年資料では約2万人という数字が紹介されています。

したがって本記事では「約2万人が確定して死亡した」と断定せず、政府軍による非常に大規模な殺害が行われたことと、その正確な規模には研究上の幅があることを分けて記述します。

ペール・ラシェーズと最後の戦闘

5月27日から28日にかけて、東部パリのペール・ラシェーズ墓地周辺でも激しい戦闘が行われました。

パリ市の資料では、墓地内で捕らえられた約200人の連邦兵が壁際で銃殺されたとされています。後にこの場所は「連邦兵の壁」としてコミューン追悼の中心になります。

28日、ベルヴィルやフォンテーヌ=オ=ロワ通り周辺の最後のバリケードが制圧され、パリ・コミューンの組織的な軍事抵抗は終わりました。

軍事鎮圧後の司法的弾圧

血の週間が終わった後も弾圧は続きました。大量の逮捕者がヴェルサイユなどへ送られ、軍法会議で審理されます。

フランス国民議会の歴史資料は、死刑、投獄、流刑を含む数万件規模の処分が問題となったことを記録しています。

さらに、逮捕を逃れたコミューン参加者はイギリス、ベルギー、スイスなどへ亡命しました。パリの政治・労働運動に関わっていた多数の人々が都市から一時的に排除されたことになります。

ニューカレドニアへの流刑

有罪判決を受けたコミューン参加者の一部は、フランス植民地ニューカレドニアへ流刑となりました。ルイーズ・ミシェルもその一人です。

ここにはフランス国内の革命史と植民地史が接続する重要な点があります。共和国政府は国内の政治犯を太平洋の植民地へ送り、帝国の空間を刑罰制度として利用しました。

流刑地では1878年に先住民カナクによる大規模な反乱が起こり、コミューン流刑者たちの反応も一様ではありませんでした。ヨーロッパの革命運動と植民地支配への態度が必ずしも同じ解放思想へ結びつかなかったことも重要です。

1879–1880年の恩赦

1870年代末、第三共和政の政治基盤が安定してくると、コミューン参加者への恩赦が進みました。1879年に部分的恩赦、1880年に一般恩赦が実施され、多くの流刑者・亡命者が帰国します。

ルイーズ・ミシェルらもフランスへ戻りました。

恩赦はコミューンを政治的に肯定したことを意味しません。むしろ共和政が、内戦の直接的な処罰段階を終え、国家の統合を進める過程として位置づけることができます。

写真に残されたコミューン

1871年のパリでは写真がすでに都市文化と報道の重要な媒体になっていました。クリミア戦争やアメリカ南北戦争と同様、写真は戦争と政治的暴力を後世へ伝える方法を変えました。

コミューンでは、バリケード、国民衛兵、ヴァンドーム広場の記念柱、破壊された建物、逮捕者などが撮影されました。

同時に、当時の撮影技術では激しい戦闘そのものを瞬間的に記録することは難しく、写真の多くは静止した人物、準備段階、戦闘後の廃墟でした。写真が「その瞬間のすべて」を写したわけではありません。

ブルーノ・ブラックエとバリケード

写真家ブルーノ・ブラックエは、コミューンの活動期間中にバリケードや国民衛兵を撮影した数少ない写真家の一人です。

メトロポリタン美術館は、ブラックエがコミューン活動中の蜂起参加者とバリケード、さらにヴァンドーム広場の記念柱撤去を撮影したことから、フランスにおける初期のフォトジャーナリズムの重要人物として紹介しています。

彼の写真には「革命家」を抽象的な群衆ではなく、都市空間の中に実際に立つ人々として見る力があります。

合成写真と政治宣伝

一方、エルネスト=ウジェーヌ・アペールはコミューン敗北後、「コミューンの犯罪」と題した一連の写真作品を制作しました。

メトロポリタン美術館によれば、これらは実際の出来事をその場で撮影した写真ではありません。俳優による再現写真、背景、コミューン参加者の肖像写真を切り貼りした合成画像でした。

しかし写真という媒体の現実らしさによって、観客には事件の証拠のように見える可能性がありました。政治宣伝が「写真だから真実である」という信頼を利用し始めていたことを示す重要な事例です。

「廃墟のパリ」という商品

コミューン鎮圧後、焼けたチュイルリー宮殿、市庁舎、財務省、破壊された住宅や道路の写真が大量に制作・販売されました。

アルフォンス・リエベールら写真家は廃墟を体系的に撮影し、アルバムやステレオ写真、名刺判写真として流通させました。メトロポリタン美術館は、廃墟写真に大きな需要があり、高級アルバムから安価な写真まで異なる市場向けの商品が作られたと説明しています。

都市の破壊は政治的記録であると同時に、見る対象、収集する商品になりました。写真市場はコミューンの記憶形成そのものに参加していました。

革命の記憶は誰のものか

コミューン敗北後、政府側では「秩序に対する犯罪」「都市を焼いた反乱」として記憶され、コミューン支持者側では労働者自治と社会革命の試みとして記憶されました。

同じ出来事について、バリケード、火災、人質、処刑、女性参加者など、どの場面を強調するかによって物語は大きく変わりました。

女性参加者を放火犯「ペトロルーズ」として描くイメージも、戦後の反コミューン言説の中で増幅されました。カルナヴァレ博物館の資料は、女性囚人を使ったアペールの合成写真が、こうしたイメージ形成に関わったことを示しています。

国際的な革命の象徴へ

コミューンはフランス国内で敗北しましたが、そのニュースと政治的意味はすぐに国外へ広がりました。第一インターナショナルではカール・マルクスが『フランスの内乱』を執筆し、コミューンを労働者階級の政治権力という観点から論じました。

その後、社会主義者、共産主義者、無政府主義者、労働運動は、それぞれ異なる仕方でコミューンを参照します。ロシア革命後には、ボリシェヴィキもコミューンの経験を革命国家の先例・失敗例として研究しました。

ただし後世の思想家がコミューンに与えた意味と、1871年の参加者全員が実際に共有していた政治目標を同一視すべきではありません。コミューンの「世界史的意味」の多くは、敗北後の記憶と解釈の中でも形成されました。

コミューンを一つの言葉で定義しない

パリ・コミューンは「労働者革命」「都市自治」「社会主義革命」「共和派の蜂起」「内戦」「民衆自治」など、さまざまな言葉で説明されてきました。

それぞれには根拠がありますが、一つだけを選ぶと他の側面を失います。労働者の参加は重要でしたが、評議員は労働者だけではありません。社会主義的政策は存在しましたが、全面的な社会主義経済が実現したわけではありません。自治を掲げましたが、戦時には公安委員会という権力集中も導入しました。

また、政府軍による大規模な殺害を記録することと、コミューン側の人質殺害や政治的強制を無視しないことは両立します。両者を同じ規模の暴力として均等化する必要はありませんが、史実として区別して扱う必要があります。

1871年の72日間に何が変わったのか

コミューンは、普仏戦争で敗北したフランス国家の危機から生まれました。包囲戦を経験したパリの国民衛兵と住民は、休戦、保守的な国民議会、政府の武装解除政策を共和国と都市自治への脅威と受け取りました。3月18日の大砲回収失敗から政府が撤退し、3月26日の選挙を経て独自の市政権力が成立します。

その統治では、家賃免除、債務猶予、労働条件規制、放棄工場の協同組合化構想、政教分離、教育の世俗化など、多数の政策が短期間に提案・実施されました。女性は正式な参政権から排除されながらも、政治クラブ、労働組織、新聞、救護、軍事防衛に参加しました。

一方でパリとヴェルサイユの対立は内戦となり、コミューンは社会改革を進めながら同時に軍事防衛を行わなければなりませんでした。内部でも自治と権力集中をめぐる対立が起き、人質令など非常措置も採用されました。

5月21日から28日の血の週間でヴェルサイユ軍はパリを奪還し、コミューンを軍事的に破壊しました。その後の大量逮捕、軍法会議、流刑によって運動の人的基盤も大きく失われます。しかし1879–80年の恩赦以後、コミューン参加者が帰国し、その経験は労働運動、社会主義、無政府主義、共和主義の歴史の中で再解釈され続けました。

パリ・コミューンの世界史的な重要性は、「72日間で理想社会を完成させた」ことではありません。戦争によって国家の統治が崩れた都市で、市民が行政・労働・教育・文化・軍事を別の形で組み立てようとし、それが国家の圧倒的な軍事力によって破壊されたこと、そしてその短い経験が後世の政治運動に長く問いを残したことにあります。

1870–1880年の主な出来事

  • 1870年7月 — 普仏戦争が始まる。
  • 1870年9月2日 — セダンでナポレオン3世が降伏。
  • 1870年9月4日 — パリで共和国が宣言され、国防政府が成立。
  • 1870年9月19日 — ドイツ軍によるパリ包囲が本格化。
  • 1870年10月31日 — パリで急進共和派による蜂起。
  • 1871年1月22日 — パリで再び政府への抗議・蜂起。
  • 1871年1月28日 — フランス政府とドイツ側が休戦。
  • 1871年2月8日 — 国民議会選挙。保守派・王党派が多数を占める。
  • 1871年2月26日 — フランスとドイツが予備講和条約を締結。
  • 1871年3月18日 — 政府軍による大砲回収が失敗。パリで蜂起が広がり、政府はヴェルサイユへ撤退。
  • 1871年3月26日 — コミューン評議会選挙。
  • 1871年3月28日 — パリ・コミューンを正式に宣言。
  • 1871年3月29日 — 包囲期の家賃負担を軽減する措置を決定。
  • 1871年4月2日 — 政教分離を布告。
  • 1871年4月3日 — コミューン軍のヴェルサイユ方面への攻勢が失敗。
  • 1871年4月 — 人質令を制定。
  • 1871年4月11日 — 女性同盟が組織される。
  • 1871年4月16日 — 放棄された作業場を労働者組織により再開するための調査を決定。
  • 1871年4月19日 — 「フランス人民への宣言」を発表。
  • 1871年4月20日 — パン職人の夜間労働禁止。
  • 1871年5月1日 — 公安委員会設置。
  • 1871年5月16日 — ヴァンドーム広場の記念柱を撤去。
  • 1871年5月21日 — ヴェルサイユ軍がパリ市内へ進入。「血の週間」が始まる。
  • 1871年5月24日 — パリ大司教ダルボワら人質が殺害される。
  • 1871年5月28日 — 東部パリの最後の主要抵抗が鎮圧され、コミューンが崩壊。
  • 1871年以後 — 軍法会議、投獄、流刑、亡命が続く。
  • 1873年 — ルイーズ・ミシェルら流刑者がニューカレドニアへ送られる。
  • 1879年 — コミューン参加者への部分的恩赦。
  • 1880年 — 一般恩赦が成立し、多くの亡命者・流刑者が帰国。

次の時代へ — 明治維新と近代国家形成

ここまでのWORLD HISTORYでは、1848年革命、クリミア戦争、インド大反乱、イタリア統一、アメリカ南北戦争、ドイツ統一、パリ・コミューンと、19世紀半ばのヨーロッパ・大西洋世界を中心に追ってきました。しかし同じ時期、東アジアでも国家秩序が大きく変化していました。

日本では1850年代の開国後、徳川幕府の政治的権威が揺らぎ、1867–68年の政変と戊辰戦争を経て明治政府が成立します。その後、廃藩置県、徴兵制、地租改正、学制などを通じて、分権的な領主支配から中央集権的な近代国家への再編が急速に進みました。

次の記事では、1868–1877|明治維新 — 幕府の終焉、中央集権、近代国家形成として、維新を単純な「日本の近代化の始まり」や「無血の王政復古」としてではなく、内戦、旧身分秩序の解体、徴兵と税制、士族反乱、欧米列強との不平等条約という問題を含む国家再編として扱います。

参考資料・出典

本ページは、フランス国民議会、フランス国立図書館、パリ市、パリ公文書館、カルナヴァレ博物館、オルセー美術館、メトロポリタン美術館の資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。コミューンを一つの政治思想の実現として単純化せず、普仏戦争とパリ包囲、都市自治、国民衛兵、社会政策、女性の活動、内部対立、ヴェルサイユ政府との内戦を重ねて記述しています。また「血の週間」の犠牲者数には研究上の幅があるため単一数字を確定値として扱わず、フランス国民議会などが示す推計幅を踏まえています。写真についても、現場記録と後から制作された合成・宣伝写真を区別しています。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY