1994–2000
アメリカ|政治再編と文化をめぐる対立
中間選挙、福祉改革、中絶、LGBTQ、宗教と政治
1990年代のアメリカ合衆国は、冷戦が終わった後の国のあり方を模索していました。第二次世界大戦後、アメリカはソビエト連邦と軍事・政治・経済の面で対立してきましたが、1991年にソ連が解体すると、対外的には従来の大きな対立相手が姿を消しました。国内では、医療費の負担、政府の財政赤字、犯罪への不安、貧困家庭への支援など、日常生活に近い問題が政治の中心となっていました。
1993年に大統領へ就任したビル・クリントンは民主党の政治家でした。当初は法律をつくる連邦議会の上院・下院でも民主党が多数を占めていましたが、1994年の中間選挙で共和党が両院の多数派を獲得します。中間選挙とは大統領の任期の途中に行われる議会選挙です。アメリカでは大統領が政策を進める際にも議会での法案・予算の成立が必要なため、この選挙によって政治の進め方が大きく変わりました。
共和党は政府の支出や税負担を減らし、福祉の受給条件を厳しくすることなどを求めました。クリントン大統領も財政赤字の削減を掲げていましたが、高齢者の医療、低所得者への医療支援、教育の予算をどこまで削るかでは議会と対立しました。1995年には予算措置が期限までに成立せず、連邦政府機関の一部が閉鎖される事態になります。反発と交渉の結果、翌1996年には従来の公的扶助制度を大きく変える法律が成立しました。
同じ時期、人工妊娠中絶や同性カップルの権利についても、国がどこまで法律で規制し、どのような権利を守るべきかが争われました。宗教団体、裁判所、議会、州政府、当事者の社会運動は、それぞれ異なる方法で政治に働きかけました。こうして、政府の役割をめぐる対立と、家族・宗教・個人の権利をめぐる対立が重なっていきます。1994年の選挙から2000年までに、政治の仕組みと人々の価値観をめぐる議論がどう展開したのかをたどります。
CONTENTS
1994年の中間選挙と共和党の躍進
冷戦後の国内政策をめぐる不満は、1994年11月の議会選挙で大きな政治的変化として現れました。争点となったのは、連邦政府が税金を何に使い、医療や福祉をどこまで支えるべきかという問題でした。
クリントン政権の出発と医療改革の行き詰まり
クリントン大統領は1993年に就任し、経済の立て直し、財政赤字の縮小、医療保険制度の改革を進めようとしました。当時のアメリカには、雇用主を通じた民間保険や高齢者向けの公的保険などがありましたが、十分な医療保険に入れない人も多数いました。政権は医療保障を広げる仕組みを提案したものの、費用や企業負担、政府の介入に関する反対が強く、1994年には包括的な改革案が成立に至りませんでした。
政府が医療をどこまで担うべきかという対立は、保険の負担を心配する家計や企業にも関係していました。大統領の政策を実現するには、民主党内を含む議員の賛成をまとめる必要があります。改革の行き詰まりは、政府の役割を見直すべきだと主張する共和党に選挙で訴える材料を与えました。(参照:米国下院史料室 | 第104議会の記録/Teaching American History | 共和党「アメリカとの契約」原文)
「アメリカとの契約」と議会多数派の交代
共和党の下院議員ニュート・ギングリッチらは1994年9月、「アメリカとの契約」と呼ばれる政策文書を発表しました。減税、議会運営の改革、犯罪対策、福祉改革などをまとめ、選挙で勝てばこれらの法案を下院で審議すると有権者に約束したのです。地域ごとに異なる候補者の主張を全国的な政策目標で結びつける狙いがありました。
11月の選挙後、下院は共和党230議席、民主党204議席、無所属1議席となり、上院でも共和党が多数派になりました。民主党が約40年間維持してきた下院の多数派が交代し、翌1995年にはギングリッチが下院議長に就任します。この勝利には医療改革をめぐる反発、税制・財政への不満、南部を中心に進んだ長期的な政党支持の変化などが重なっていました。(参照:米国下院史料室 | 議会の政党別議席/Teaching American History | 共和党「アメリカとの契約」原文)
大統領と議会が異なる政策を掲げると何が起こるのか
アメリカの連邦政府では、大統領が行政を担い、議会が法律と予算を審議・可決します。大統領には議会を通過した法案への拒否権があり、議会が拒否権を覆すには両院で原則3分の2の賛成が必要です。共和党が議会の多数派になっても、民主党の大統領を無視して政策を実行できるわけではありません。
共和党議会は福祉費や医療費の抑制、税負担の軽減などを求め、クリントン政権は財政規律を重視しながら教育や医療への支援を守ろうとしました。政策の方向が部分的に重なる場合でも、具体的な削減額や対象となる制度で意見が分かれました。こうした大統領と議会の関係が、翌年の予算対立を激しくしたのです。(参照:クリントン政権公文書 | 1995年の暫定予算への拒否権/米国下院史料室 | 第104議会の記録)
予算をめぐる対立と政府機関の閉鎖
共和党が議会の主導権を得ると、政策の違いは連邦政府を実際に動かすための予算をめぐって表面化しました。
医療・教育の予算をめぐる衝突
共和党指導部は、将来の財政赤字を抑えるため、社会保障や医療関係の支出を削る案を進めました。特に議論になったのが、高齢者向け医療保険のメディケアと、低所得者などを対象とする医療扶助のメディケイドです。これらは単なる予算項目ではなく、多くの人が医療サービスを受けるための制度でした。
クリントン大統領も均衡財政を目標としていましたが、医療や教育を大幅に削れば高齢者、低所得世帯、子どもたちへの影響が大きいと主張しました。共和党側は連邦支出の膨張を抑える必要性を強調します。両者の対立は「財政赤字を減らすべきか」よりも「何を削り、負担を誰が引き受けるか」という具体的な選択に集中していました。(参照:クリントン政権公文書 | 1995年の暫定予算への拒否権/クリントン政権公文書 | 1995年11月の予算合意)
1995〜1996年に二度起きた政府機関閉鎖
連邦政府の機関が仕事を続けるには、議会が資金を認める予算法などが必要です。通常予算の成立が遅れた場合は、短期間だけ支出を認める「暫定予算」を用います。1995年秋、大統領と共和党議会は暫定予算の条件でも合意できず、11月14〜19日と12月16日〜翌1996年1月6日に、政府機関の一部が業務を停止しました。
閉鎖中には政府職員の一時帰休が発生し、国立公園や一部の行政手続などにも影響が出ました。こうした事態が起きたのは、議会多数派の共和党が財政計画を変えようとし、大統領が政策上の理由で譲れない条件を示したためです。政府の資金供給をめぐる仕組みそのものが、政党間の交渉を左右する力になりました。(参照:米国下院史料室 | 政府機関閉鎖の記録/クリントン政権公文書 | 1995年11月の予算合意)
対立の後も続いた政策交渉
政府機関の業務を再開させるため、両者は暫定的な予算措置を重ね、当面の行政運営を確保しました。クリントン政権と共和党議会の意見の違いが一度に解消したわけではありません。財政赤字の縮小は共通の目標として残り、具体的な制度改正をめぐる交渉が続きました。
このような交渉のなかで、双方の政治家が大きな変更を求めていたのが福祉制度でした。税金で困窮家庭を支援する制度を残しながら、給付の条件や州政府の役割をどのように変えるかが、次の争点になっていきます。(参照:クリントン政権公文書 | 1995年11月の予算合意/米国議会調査局 | TANF制度の立法史)
犯罪対策と1996年の福祉改革
政府の役割をめぐる論争は、予算編成だけに限られませんでした。治安維持と生活困窮者への支援という二つの分野でも、連邦政府の制度が変化しました。
1994年犯罪対策法が進めた警察・刑事政策
1990年代初めのアメリカでは、暴力犯罪への不安が政治的に大きな問題でした。クリントン大統領が1994年9月13日に署名した大規模な犯罪対策法には、地域警察活動への連邦支援、刑務所整備への支出、銃器規制、女性への暴力対策など多くの政策が盛り込まれました。治安の回復を求める声は共和党にも民主党にも広がっていました。
この法律はさまざまな政策をまとめたもので、後年には刑務所への収容拡大や厳罰化との関係が批判的に検討されました。犯罪の減少を法律一つの成果と見なすことはできず、当時の経済・地域社会・警察活動など複数の条件を考える必要があります。1994年の法律は、両党が治安対策の強化を掲げていた時代の政策判断を表しています。(参照:米国大統領文書集 | 1994年犯罪対策法の署名演説)
生活困窮家庭への扶助はどのように変わったのか
1996年までの中心的な現金扶助制度は、扶養する子どものいる低所得家庭を支える「要扶養児童家庭扶助」(AFDC)でした。連邦法の要件を満たす家庭への給付を基本としていましたが、長期にわたる受給、働きながらの子育て、州による制度運営をどう考えるかが政治的な争点になっていました。
クリントンは大統領選挙の段階から福祉改革を公約に掲げており、共和党も1994年の選挙で制度の変更を訴えました。1995年に議会が可決した改革案には大統領が拒否権を行使しましたが、1996年に修正された法案には署名しました。8月22日成立の「個人責任・就労機会調整法」はAFDCを廃止し、「困窮家庭一時扶助」(TANF)へ置き換えました。(参照:米国議会調査局 | TANF制度の立法史/米国政府刊行物 | 1996年福祉改革法署名声明)
就労要件と給付期間を設けた新制度
新しいTANFでは、連邦政府が州へ一定額の補助金を渡し、州が現金扶助や就労支援などの制度を運営する仕組みが中心となりました。援助を受ける成人には就労活動への参加が求められ、連邦資金による給付には原則として生涯60か月という期間の上限が設けられました。州には制度を設計する裁量が広がり、地域によって給付条件や支援の内容に違いが生まれました。
改革を支持する人々は、働く機会を増やし、福祉への長期依存を減らせると考えました。批判する人々は、低賃金の仕事しか見つからない家庭、子育てと仕事を両立する親、景気が悪化したときに支援を必要とする子どもへの影響を問題にしました。争点は受給者の生活だけにとどまらず、困った人を国と州と本人の誰がどのように支えるかという制度の設計にありました。(参照:米国議会調査局 | TANF制度の立法史/米国政府刊行物 | 1996年福祉改革法署名声明)
1996年の大統領選挙と続く議会多数派の分裂
福祉改革法が成立した年の11月には、大統領選挙も行われました。クリントンは共和党のボブ・ドールを破って再選され、2期目の政権を担います。大統領選挙では民主党が勝利しましたが、連邦議会では共和党が両院の多数派を保ちました。
大統領を選ぶ選挙と議員を選ぶ選挙は別々に行われるため、有権者が一つの政党へすべての政治権限を与える仕組みにはなっていません。クリントンの再選後も、予算や法律を成立させるには共和党議会との交渉が必要でした。1994年に生まれた政治的な権力関係は、1996年の選挙を経ても続いたのです。(参照:米国大統領研究資料 | 1996年大統領選挙の結果/米国下院史料室 | 議会の政党別議席)
宗教団体が政治に与えた影響
税や福祉をめぐる政策と並んで、宗教的な価値観を持つ有権者の組織化が進みました。特に注目されたのが、キリスト教の信仰を重視しながら、中絶や学校での祈り、同性関係などの政策にも積極的に発言する人々でした。
白人福音派が共和党の支持基盤を強める
「福音派」は、聖書と個人の信仰経験を重視するプロテスタント系の幅広い人々を指します。アメリカのキリスト教にはさまざまな教派があり、宗派名と政治的立場が必ず一致するわけではありません。1996年のピュー・リサーチ・センターの調査では、白人福音派プロテスタントの共和党支持が1980年代から高まり、登録有権者に占める割合も1987年の19%から24%へ増えていました。
同じ調査では、白人福音派に中絶の制限や同性婚への反対を支持する傾向が強く見られました。こうした有権者の一部は候補者への投票に加え、地域の政党組織や選挙運動にも参加しました。宗教を重視する人々の政治的な意見は、共和党の政策議論にも反映されるようになりました。(参照:ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査)
キリスト教連合の活動と選挙への参加
宗教放送で知られたパット・ロバートソンは1988年の共和党大統領候補指名争いに参加し、そこで形成された支持者のネットワークは、1989年に設立されたキリスト教連合(クリスチャン・コアリション)の基盤になりました。ラルフ・リードはその運営を担い、投票の呼びかけ、政策に関する配布資料、有権者への働きかけなどを進めました。
キリスト教連合の特徴は、全国的な宗教集会だけに頼らず、地域社会の人々を継続的な選挙活動へつなげようとしたことです。後の連邦選挙委員会による訴訟では、1994年の郵送物や候補者と連携した有権者向け資料などの活動が争点になりました。宗教的な関心が政治参加へ結びつく仕組みを考えるうえで、組織の実際の活動が重要になります。(参照:米国連邦選挙委員会 | キリスト教連合の政治活動に関する訴訟/ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査)
カトリック・主流派プロテスタント・黒人教会の違い
カトリック教会の公式教説は中絶に反対し、生命の尊重を重視してきました。宗教組織の教えと信徒一人ひとりの政治的意見には差があります。1996年の調査では、自らを改革志向と考える白人カトリックの73%が中絶を認める立場だったのに対し、伝統志向の白人カトリックでは43%でした。メソジスト派、長老派、ルーテル派などが多い主流派プロテスタントでも、福音派と意見の違いが見られました。
黒人教会では、公民権運動以来の人種差別への反対や貧困対策と、結婚・中絶をめぐる比較的保守的な考え方が同時に存在していました。キリスト教徒の政治姿勢を理解するには、教会の教え、信徒の経験、人種差別の歴史、社会政策への関心を区別して見る必要があります。(参照:ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査/米国カトリック司教協議会 | 生命・正義・平和についての教会文書)
説教で取り上げられた政治と福祉の問題
1996年のピュー調査では、礼拝に通う回答者の60%が、聖職者から中絶について話を聞いたと答えました。学校での祈り、同性愛に関する法律、貧困、医療なども教会で語られていました。黒人キリスト教徒の62%が医療制度改革について聖職者の話を聞いたと答えたのに対し、白人キリスト教徒では19%でした。どの問題を重視するかは、宗教集団の歴史的な経験と関係していました。
宗教的信念を中絶や同性婚への意見の最も大きな理由に挙げる人がいる反面、生活困窮者への支援を増やすべきだと考える人もいました。教会の社会参加は、候補者を支持する動きと、貧困や医療をめぐる地域の活動の双方に現れました。宗教団体を一つの政治的立場で括るよりも、具体的な争点と行動を見た方が、その影響が分かります。(参照:ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査)
人工妊娠中絶をめぐる宗教・法律・司法の争い
中絶をめぐる議論では、胎児の生命をどのように守るべきか、妊娠を続けるかを決める個人の自由を国家がどこまで制限できるかが争われました。宗教的な意見の対立は、具体的な法律や最高裁判所の判断と結びついていきました。
1992年ケイシー判決がつくった規制の基準
連邦最高裁判所は1973年のロー対ウェイド判決で、妊娠中絶を選択する権利を憲法上保護されるものと判断しました。その後も各州で規制のあり方をめぐる裁判が続き、1992年のケイシー判決は、この権利の中心部分を維持しました。
同時に最高裁は、胎児が子宮の外で生存できる段階に至る前の中絶について、州が規制を行うときの「過度な負担」という基準を示しました。女性の選択に実質的な障害を与える州法は憲法に反すると判断する考え方です。1990年代の議会や州政府は、この当時の憲法判断を前提に中絶規制の範囲を争いました。(参照:米国最高裁判決 | 1992年ケイシー事件)
カトリック教会と南部バプテスト連盟の主張
カトリック教会は胎児の生命を守ることを重視し、アメリカの司教団は1998年の文書『生命の福音を生きる』で、中絶と安楽死を人間の生命と尊厳に対する重大な問題として位置づけました。カトリックの社会教説には、貧困者への支援、戦争と平和、死刑などの課題も含まれています。
プロテスタントの大きな宗派連合である南部バプテスト連盟は、1996年に特定の中絶手技を禁止する法案への支持を決議しました。背景には生命を神から与えられたものと理解する考え方があります。宗教的な理由から中絶の合法性を認める人々もおり、信徒の政策意見が教会の公式見解と一致するとは限りません。こうした差は同時代の世論調査にも表れていました。(参照:米国カトリック司教協議会 | 『生命の福音を生きる』/南部バプテスト連盟 | 1996年の中絶規制に関する決議/ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査)
医療施設への抗議と1994年のFACE法
1990年代初めには、中絶を提供する医療施設の前で抗議活動が行われ、一部では入口の封鎖、医療従事者への脅迫、暴力事件が発生しました。患者と職員が安全に医療施設へ出入りできるかという問題は、信念の表明や集会の自由と、他人の身体や安全を守る法の関係を問うものになりました。
1994年5月に成立した「医療施設への立ち入りの自由に関する法律」(FACE法)は、暴力、暴力の脅し、物理的な妨害によって生殖医療を受ける人や提供する人を故意に妨げる行為を規制しました。宗教施設で礼拝する人への同種の妨害も対象としています。法律は、抗議の意見そのものと、暴力・脅迫・物理的な妨害を区別する仕組みでした。(参照:米国司法省 | 医療施設への立ち入り妨害を規制する法律)
中絶手技を禁じる法案と大統領の拒否権
1990年代半ば、共和党が主導する議会では、反対派が「部分出産中絶」と呼んだ特定の中絶手技を禁じる法案が審議されました。この名称は中絶反対運動で使われた政治的な表現であり、議論の対象には医学的な手技の定義も含まれていました。法案の支持者は胎児の保護を求め、反対者は女性の健康にかかわる例外が十分に用意されていないと主張しました。
クリントン大統領は1996年4月10日と1997年10月10日に、それぞれ関連法案へ拒否権を行使しました。深刻な健康被害を避けるために医師が必要と判断する場合への例外を求めたためです。南部バプテスト連盟などは拒否権を批判しました。政治家、宗教団体、医療関係者が、同じ法律の文言をめぐって異なる理由から行動していたことが分かります。(参照:米国大統領文書集 | 1997年中絶規制法案への拒否権/南部バプテスト連盟 | 1996年の中絶規制に関する決議)
2000年ステンバーグ判決で争われた女性の健康
ネブラスカ州は特定の中絶手技を刑罰で禁じる法律を定めました。これに対し医師が提訴し、2000年6月28日に連邦最高裁判所は違憲と判断しました。争点は、禁止する手技の法的な定義が広く、より一般的に使われる別の手技にも及びうること、女性の健康を守る十分な例外がないことでした。
最高裁はケイシー判決の当時の基準を用い、規制が中絶を選ぶ人に実質的な障害を生むと判断しました。裁判官の間では医療上のリスクや州の規制権限について意見が分かれました。この判決は、政治的・宗教的な主張が、実際の法律の定義や医療の証拠を通じて憲法判断へつながる過程を示しています。(参照:米国最高裁判決 | 2000年ステンバーグ事件)
性的指向をめぐる差別と結婚の法的な扱い
1990年代には、同性愛者などの人々が働く場所や住まいで差別を受けずに暮らす権利と、同性カップルの結婚を国や州が認めるかという問題が、異なる法律上の争点として現れました。
コロラド州の住民投票から最高裁判決へ
アメリカでは州政府と地方自治体が、住居や雇用などの差別を防ぐ条例を制定します。コロラド州ではデンバーやボルダーなどの都市が性的指向による差別を禁じる仕組みを整えていました。これに反発した人々の支持を受け、1992年の州民投票で、性的指向を理由とする保護を州や地方自治体が設けることを広く妨げる州憲法修正第2条が可決されました。
この条項が実施されれば、同性愛者などは通常の政治手続きを通じて差別禁止の保護を求めることが難しくなります。訴訟を受けた連邦最高裁判所は1996年5月20日、ローマー対エバンズ判決で条項を違憲としました。憲法修正第14条の平等保護条項に反すると判断したのです。特定の人々を幅広い法的保護から外すことが、憲法の平等原則に照らして問題とされました。(参照:米国最高裁判決 | 1996年ローマー事件)
ハワイ州の訴訟と1996年婚姻防衛法
1990年代半ばには、ハワイ州で同性カップルの婚姻に関する訴訟が進みました。アメリカでは結婚の成立要件を州が定めるため、ある州が同性婚を認めた場合、別の州や連邦政府も同じ婚姻を認めるのかという問題が生じます。結婚の扱いは税金、年金、移民制度などにも関係するため、議論は各州の制度を越えて広がりました。
1996年9月21日に成立した婚姻防衛法(DOMA)は、他州に同性婚を承認する義務を課さないという規定を置き、連邦法上の婚姻を男女間の結合として定義しました。民主党のクリントン大統領もこの法律に署名しています。共和党主導の議会と大統領が、同性婚の法的承認について同じ方向の政策を選んだ事例でした。(参照:米国議会 | 1996年婚姻防衛法/米国大統領文書集 | 婚姻防衛法の署名声明)
同じ日に採決された二つの法案が示す違い
クリントン大統領は同性婚の政府による承認には反対していましたが、性的指向を理由に雇用で差別することを禁じる法案には賛成していました。つまり、結婚制度の定義と、働く人が不利益な扱いを受けない権利は、当時の政策議論で別々の問題として扱われていました。
1996年9月10日、上院は婚姻防衛法を賛成85・反対14で可決しました。同じ日の約1時間後、性的指向による雇用差別を禁止する法案(ENDA)は賛成49・反対50で否決されます。結婚の承認には否定的でも雇用差別の禁止には賛成する議員がおり、法案の目的によって賛成する範囲が異なっていました。(参照:米国上院 | 1996年婚姻防衛法の採決/米国上院 | 1996年雇用差別禁止法案の採決/米国大統領文書集 | 婚姻防衛法の署名声明)
同性関係をめぐる宗教的な意見の広がり
同性婚への反対を掲げた宗教保守団体は、結婚を男女間の結合とする聖書理解や家族観を重視しました。南部バプテスト連盟も1996年、同性婚の法制化に反対する決議を採択しました。これに対して、同性愛者を受け入れる教会や信徒の間では、聖書の読み方や信仰と差別禁止の関係が議論されていました。
1996年のピュー調査では、白人福音派の同性婚反対が強く、主流派プロテスタント、カトリック内部の改革志向と伝統志向の間にも意見の違いがありました。宗教上の婚姻の考え方、州が定める民事上の婚姻制度、働く人を守る差別禁止制度は、それぞれ異なる仕組みです。その違いをめぐって、議会と裁判所と宗教団体の主張が交錯しました。(参照:南部バプテスト連盟 | 1996年の同性婚に関する決議/ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査)
家族・宗教・権利をめぐる「文化戦争」
アメリカでは、家族のあり方、中絶、学校での祈り、性的指向などをめぐる争いを「文化戦争」と呼ぶことがあります。文化の好みの違いよりも、どの価値観を法律や公的な制度に反映させるかという政治的な対立を表した言葉です。
同じ有権者が争点ごとに異なる判断をする理由
ある人は胎児の生命を守るため中絶規制を支持しながら、貧困家庭への政府の支援拡大を求めることがあります。別の人は同性婚の法的承認には慎重でも、同性愛者への雇用差別は禁止すべきだと考える場合があります。1996年の世論調査と議会の採決では、こうした問題ごとの違いが実際に見られました。
対立を理解するには、宗教的な信念、政府の財政、個人の自由、平等な法的保護など、何を重視して判断したのかを具体的に考える必要があります。議会の票が一つの問題では大差になり、別の問題では接戦になったのも、政策ごとに支持が組み替わったからです。(参照:ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査/米国上院 | 1996年雇用差別禁止法案の採決)
教会の発言と政党政治の距離
宗教団体は、説教や声明、選挙に関する配布資料を通じて人々の政治参加を促しました。同時に、教会が信仰上の立場を表明することと、特定の候補者の選挙活動を法的に支援することは区別され、政治資金や選挙法をめぐる訴訟も起きています。キリスト教連合に関する連邦選挙委員会の訴訟は、そうした問題の具体例です。
1990年代の政治対立は、大統領と議会の交渉だけで決まっていたのではありません。地方の教会、州の住民投票、裁判所、全米の社会運動がそれぞれ異なる制度を通じて関与しました。政治への参加経路が複数あることが、アメリカで同じ争点をめぐる論争が長く続いた理由の一つでした。(参照:米国連邦選挙委員会 | キリスト教連合の政治活動に関する訴訟/ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査)
クリントン大統領の弾劾と政治的な道徳論争
1990年代の終わりには、クリントン大統領の行為をめぐる調査と弾劾が政治の中心に浮上しました。大統領の私生活をめぐる報道が注目を集めましたが、議会で問われたのは宣誓した証言や司法手続に関する責任でした。
弾劾論議のさなかに行われた1998年中間選挙
ルインスキーをめぐる問題が政治的な争点となっていた1998年11月、再び連邦議会の中間選挙が行われました。共和党は上下両院の多数派を保ちましたが、下院では民主党が議席を増やし、共和党との差を縮めました。共和党の議会指導部も、この選挙結果を受けて変化していきます。
この結果から、有権者が大統領の行為をどう評価したかを一つの結論にまとめることはできません。議員選挙では地元の候補者や経済政策なども判断材料になります。議会が大統領の責任を問う一連の過程は、選挙での支持と憲法上の弾劾手続という別々の仕組みを通じて進みました。(参照:列国議会同盟 | 1998年米国下院選挙の結果/米国下院史料室 | クリントン大統領の弾劾)
下院が偽証と司法妨害を理由に弾劾する
クリントン大統領とホワイトハウスの元実習生モニカ・ルインスキーとの関係をめぐって、独立検察官による捜査が進みました。問題となったのは、大統領が宣誓のもとで虚偽の説明をしたか、証拠や証言への働きかけによって司法手続きを妨げたかという点です。個人的な行動への道徳的評価と、憲法上の弾劾の理由は区別して考える必要があります。
1998年12月19日、共和党が多数を占める下院は偽証と司法妨害の二つの条項で大統領を弾劾しました。「弾劾」とは、下院が公職者の責任を問うために訴追する手続です。これだけで大統領が解任されるわけではなく、次に上院で裁判が開かれます。(参照:米国下院史料室 | クリントン大統領の弾劾)
上院で無罪となり職務を続ける
1999年、上院では最高裁長官を議長として弾劾裁判が行われました。大統領を有罪として罷免するには、上院の出席議員の3分の2以上の賛成が必要です。2月12日の採決では、偽証に関する条項が有罪45・無罪55、司法妨害に関する条項が有罪50・無罪50となり、どちらも有罪に必要な票数へ届きませんでした。
クリントン大統領は無罪となり、任期を続けました。共和党内には公職者の品位や法的責任を厳しく問う声があり、民主党側などには罷免に値するかを慎重に判断すべきだという意見がありました。弾劾をめぐる議論は、私生活上の道徳と公職者の法的責任を、政治がどのように扱うかという問題を表面化させました。(参照:米国上院 | 1999年の弾劾裁判採決/米国上院史料室 | 歴代の弾劾裁判)
まとめ
1994年の中間選挙は、民主党の大統領と共和党が多数派の議会が政策を決める時代の始まりでした。医療や教育の支出をめぐる対立は政府機関の閉鎖へ発展し、福祉改革では就労と給付期間に条件を設ける新しい仕組みが成立しました。対立も合意も、議会と大統領がそれぞれに権限を持つ政治制度のなかで生まれています。
中絶や同性カップルの権利をめぐる議論では、宗教団体の主張、州の政策、連邦議会の立法、最高裁の憲法判断が重なりました。中絶の規制をめぐる判決、コロラド州の差別禁止をめぐる判決、婚姻防衛法と雇用差別禁止法案の異なる採決結果は、同じ時代のアメリカでも、何を国が守り何を規制するかについて、問題ごとに合意の範囲が違っていたことを伝えています。(参照:ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査/米国最高裁判決 | 1996年ローマー事件/米国上院 | 1996年雇用差別禁止法案の採決)
主な出来事
- 1994年5月 — 医療施設への暴力・脅迫・物理的妨害を規制するFACE法が成立。
- 1994年9月 — 大規模な犯罪対策法が成立。共和党が「アメリカとの契約」を発表。
- 1994年11月 — 中間選挙で共和党が上下両院の多数派となり、民主党の大統領との関係が変化。
- 1995年1月 — ニュート・ギングリッチが下院議長に就任。
- 1995年11月 — 予算対立により連邦政府機関の一部が最初の閉鎖。
- 1995年12月〜1996年1月 — 再び政府機関の一部が閉鎖。
- 1996年4月10日 — クリントン大統領が特定の中絶手技を禁止する連邦法案に拒否権。
- 1996年5月20日 — 最高裁のローマー対エバンズ判決がコロラド州憲法修正第2条を違憲と判断。
- 1996年8月22日 — 福祉改革法が成立。AFDCからTANFへの転換が決まる。
- 1996年9月10日 — 上院が婚姻防衛法案を85対14で可決。同日、雇用差別禁止法案は49対50で否決。
- 1996年9月21日 — 婚姻防衛法が成立。
- 1996年11月 — クリントン大統領が再選。共和党は議会の多数派を維持。
- 1997年10月10日 — クリントン大統領が中絶手技を規制する新たな法案へ再び拒否権。
- 1998年 — 米国カトリック司教協議会が『生命の福音を生きる』を公表。
- 1998年11月 — 中間選挙で民主党が下院議席を増やし、共和党が多数派を維持。
- 1998年12月19日 — 下院がクリントン大統領を偽証と司法妨害の条項で弾劾。
- 1999年2月12日 — 上院の弾劾裁判で両条項とも無罪となる。
- 2000年6月28日 — 最高裁がステンバーグ対カーハート判決でネブラスカ州の中絶規制を違憲と判断。
参考資料・出典
- 米国下院史料室 | 議会の政党別議席
- 米国下院史料室 | 第104議会の記録
- Teaching American History | 共和党「アメリカとの契約」原文
- クリントン政権公文書 | 1995年の暫定予算への拒否権
- クリントン政権公文書 | 1995年11月の予算合意
- 米国下院史料室 | 政府機関閉鎖の記録
- 米国大統領文書集 | 1994年犯罪対策法の署名演説
- 米国政府刊行物 | 1996年福祉改革法署名声明
- 米国議会調査局 | TANF制度の立法史
- ピュー・リサーチ・センター | 1996年の宗教と政治に関する調査
- 米国連邦選挙委員会 | キリスト教連合の政治活動に関する訴訟
- 米国カトリック司教協議会 | 『生命の福音を生きる』
- 米国カトリック司教協議会 | 生命・正義・平和についての教会文書
- 南部バプテスト連盟 | 1996年の中絶規制に関する決議
- 南部バプテスト連盟 | 1996年の同性婚に関する決議
- 米国最高裁判決 | 1992年ケイシー事件
- 米国司法省 | 医療施設への立ち入り妨害を規制する法律
- 米国大統領文書集 | 1997年中絶規制法案への拒否権
- 米国最高裁判決 | 2000年ステンバーグ事件
- 米国最高裁判決 | 1996年ローマー事件
- 米国議会 | 1996年婚姻防衛法
- 米国大統領文書集 | 婚姻防衛法の署名声明
- 米国上院 | 1996年婚姻防衛法の採決
- 米国上院 | 1996年雇用差別禁止法案の採決
- 米国下院史料室 | クリントン大統領の弾劾
- 米国上院 | 1999年の弾劾裁判採決
- 米国上院史料室 | 歴代の弾劾裁判
- 米国大統領研究資料 | 1996年大統領選挙の結果
- 列国議会同盟 | 1998年米国下院選挙の結果