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Philosophy

1908–1912

【美術と哲学】抽象絵画は何を表そうとしたのか

ヴォリンガー、カンディンスキーと精神性

20世紀初頭のドイツ帝国では、工業化によって都市人口が増え、鉄道や工場、新聞、百貨店が人々の生活を変えていました。ベルリンでは皇帝や富裕な産業家が伝統的な絵画を支え、芸術家たちは新しい社会の姿や表現方法を探ります。南部のミュンヘンも美術学校、画廊、出版社が集まる都市でした。1892年には既存の展覧会運営をめぐる対立から「ミュンヘン分離派」が成立し、1900年代には絵画の新しい形を求める作家たちが複数の団体を組織していました。

その美術界では長年、絵画の巧みさは人物や風景を本物らしく表す技術と結びついていました。19世紀後半の印象派やポスト印象派は、光や色彩、画面の構成に独自の価値を認め、象徴主義の作家たちは夢や宗教的な感覚も描きました。1900年前後には「目に見える形を正確に描くこと」と「画面そのものの色や形が感情を動かすこと」の関係が、画家たちの切実な問題になります。実際に風景を見ながら描いても、なぜ同じ色を使わなければならないのでしょうか。

この転換期に、ドイツの美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガー(1881–1965)は、1907年の博士論文を1908年に『抽象と感情移入』として出版しました。自然の姿へ共感することから生まれる美しさに加え、安定した幾何学的な形を求める「抽象への衝動」を論じます。抽象的な模様や古代の装飾を、写実に到達する前の未熟な表現として片づける美術史観を問い直したのです。

同じころ、モスクワ出身の画家ワシリー・カンディンスキー(1866–1944)はミュンヘンを拠点に、色彩と形態の関係を探っていました。1911年末に刊行された『芸術における精神的なものについて』は、音楽のように色や形によって人間の内面へ働きかける絵画の可能性を論じています。現実の物に似ていることと、絵画として何かを表していること。その二つは、どのような関係にあるのでしょうか。1908年から1912年に生まれた理論と作品をたどると、抽象絵画が何を求めて成立していったかが見えてきます。

CONTENTS

  1. 絵画を評価する制度が変わり始めたミュンヘン
  2. 抽象絵画とは何が変わることなのか
  3. 19世紀末の絵画は何を変えたのか
  4. ヴォリンガーはどのような研究者だったのか
  5. 「感情移入」は美しさをどう説明したか
  6. リーグルの「芸術意志」が開いた考え方
  7. ヴォリンガーが唱えた「抽象への衝動」
  8. 結晶と幾何学的秩序が求められる理由
  9. 世界への不安という仮説
  10. 古代エジプトと装飾芸術の再評価
  11. 1911年『ゴシックの形式問題』へ
  12. ヴォリンガーの理論の力と限界
  13. カンディンスキーはなぜ画家へ転じたか
  14. ミュンヘンの国際的な制作仲間
  15. 1908年ムルナウで色彩が変わる
  16. 1909年の風景画で輪郭と色が独立する
  17. 1908–1909年《青い山》から何が見えるか
  18. 1909年新芸術家協会という発表の場
  19. 写実から離れる過程にも物語が残る
  20. 1911年のコンサートが絵画になった
  21. 音楽はなぜ抽象絵画のモデルとなったか
  22. 『芸術における精神的なものについて』の成立
  23. 物質主義への批判と「精神的なもの」
  24. 「内的必然性」は何を意味するか
  25. 色彩は人にどのように働くのか
  26. 線と形に固有の表現力がある
  27. 印象・即興・コンポジションの違い
  28. 1911年《コンポジションV》と対立
  29. 青騎士の展覧会と精神性をめぐる議論
  30. 1912年の年鑑は何を並べたか
  31. 1912年《即興26》と抽象の広がり
  32. ヴォリンガーとカンディンスキーをどう読み比べるか
  33. 抽象を生んだ複数の場所と作家
  34. 「最初の抽象絵画」という物語はどこから来たか
  35. 抽象絵画が表そうとしたもの
  36. 略年表|抽象絵画と美術理論の形成
  37. まとめ|抽象絵画は何を表そうとしたのか
  38. 参考資料・出典

絵画を評価する制度が変わり始めたミュンヘン

美術家協会が展覧会を運営する

19世紀のミュンヘンでは、美術アカデミーで学んだ画家たちが作品を制作し、美術家協会が大規模な展覧会を企画しました。出品作品の選定や展示の仕方は、どのような絵が人々の目に届くかを左右しました。作家にとって発表の場は、評価や収入に結びつく具体的な制度でした。

肖像画や歴史画、風景画が高く評価される美術界で、若い作家たちは新しい画風を示す機会を求めます。絵画の考え方が変わるには、制作の実験を見せる展覧会や、その試みを説明する言葉も必要でした。(参照:レンバッハハウス美術館|19世紀末のミュンヘン美術界/ミュンヘン美術アカデミー|大学と美術団体の沿革)

1892年の分離派が示した選択

ミュンヘン分離派は1892年、従来の美術家協会の展示方針に対する反発から成立しました。新しい表現を求める作家たちは、別の組織を作って作品を発表する方法を選びます。展覧会をどの集団が決めるかという問題は、絵画の革新と深く結びついていました。

1909年にカンディンスキーらが新芸術家協会を作るときにも、こうした発表の場を自分たちで組織する文化が背景にありました。描き方の変化は、作品を見せる仕組みの変化と並行して進みます。(参照:レンバッハハウス美術館|19世紀末のミュンヘン美術界/ミュンヘン美術アカデミー|大学と美術団体の沿革)

芸術家、出版社、画廊が議論を広める

画家の考え方は、絵の前で交わされる会話だけで広がるものではありません。美術雑誌の批評、展覧会の案内、図版入りの書籍によって、別の都市の読者も新しい作品や主張に触れられました。1900年代のミュンヘンは、そうした出版と美術活動が交わる場所でした。

ヴォリンガーの論文が書籍として流通し、カンディンスキーが自分の絵画論を出版することにも、この時代の制度が関わっています。見るべき絵が変わるとともに、絵をどう理解するかという言葉も広がっていきました。(参照:レンバッハハウス美術館|19世紀末のミュンヘン美術界/ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

抽象絵画とは何が変わることなのか

形を省略することと形を組み立てること

風景画で木の葉を細かく描く代わりに、樹冠を大きな緑の塊にまとめることがあります。さらに線や色面の配置を優先すれば、木だとすぐにはわからない絵にもなります。この変化の中で、自然の姿をどの程度残し、画面の色や形をどの程度自由に扱うかが問題になります。

抽象化は、細部を減らすことから始められます。20世紀初頭の抽象絵画は、さらに線、色、面の関係そのものを表現の中心へ置く可能性を開きました。見る人は描かれた物の名前とともに、画面の力や動きも経験するようになります。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成/MoMA|『抽象の発明 1910–1925』研究図録)

何が描かれているかわからない絵を前にして

輪郭のはっきりしない色のまとまりを見たとき、私たちは「何の絵だろう」と考えます。形が動いているように感じたり、明るさや重さの違いを受け取ったりすることもあります。対象の名前を見つける以外にも、絵を見る経験にはさまざまな側面があります。

カンディンスキーは、色と形による内面的な作用を絵画の目的として考えました。何を描いたかという問いに加えて、どのような視覚の響きを作り、その響きによって人に何を感じさせようとしたかを考える必要が生まれます。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

古い幾何学模様も抽象と呼べるのか

建築の装飾や織物には、三角形や曲線の反復を使った模様が古くから見られます。花や人の姿を再現することを目的としなくても、形の秩序によって美しさを生み出せます。ヴォリンガーが注目したのは、このような抽象的な造形を求める理由でした。

一枚の絵から具体的な物が消えていく歴史と、古くからある幾何学的な装飾の歴史は、同じ道筋には収まりません。ヴォリンガーとカンディンスキーを並べて読むと、抽象という語が異なる問いを担っていたことがわかります。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|『抽象の発明 1910–1925』研究図録)

19世紀末の絵画は何を変えたのか

印象派が光と色の見え方を探った

19世紀後半のフランスでは、クロード・モネ(1840–1926)らの印象派が、屋外で変わる光や色を捉えようとしました。描かれた風景にはまだ場所や物があり、筆触や色の並び方が強い存在感を持ちます。絵の見方は、題材の説明から画面の働きへ広がっていきました。

絵具をどう置くと光が感じられるか、画面の表面はどのような役割を持つか。こうした問題が、後の画家たちに色彩を自立した表現要素として扱う道を開きます。(参照:MoMA|『抽象の発明 1910–1925』研究図録/グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料)

ポスト印象派と象徴主義の別々の道

ポール・セザンヌ(1839–1906)は、風景や静物を色面の関係として組み立てる仕事を続けました。象徴主義の作家たちは、神話や夢、宗教的な感覚を扱い、目に見える物の背後にある意味へ関心を向けました。新しい絵画には複数の方向がありました。

自然の形をどのように組み立て直すかという問題と、目に見えない感覚をどう表すかという問題は、抽象絵画が成立するころにも交わります。カンディンスキーは色彩の構成を実験すると同時に、精神性や世界の変化を語るようになりました。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

写実を唯一の物差しとする考えが揺らぐ

写真が普及し、印象派や象徴主義、さまざまな装飾芸術が並ぶ時代には、絵が現実と似ていることだけで価値を測る説明が難しくなります。自然の形を正確に表す仕事と、独自の構成で経験を表す仕事が、異なる目的を持つことが見えてきました。

ヴォリンガーはこの問題を美術史の評価基準から考えます。カンディンスキーは画家の制作方法として考えます。出発点の違う二人は、絵画の価値を何に求めるかという問題に、それぞれの答えを探りました。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

ヴォリンガーはどのような研究者だったのか

1881年生まれの若い美術史家

ヴィルヘルム・ヴォリンガー(1881–1965)はドイツのアーヘンで生まれ、20世紀初めに複数の大学で美術史などを学びました。古典古代やルネサンスの作品を高く評価する美術史の枠組みを学ぶ中で、別の時代や地域の装飾をどう理解するかという問題に関心を寄せます。

彼が取り上げたのは、作品を作る人やそれを見る人が、どのような心のあり方から形を求めるのかという問いでした。様式の違いを技術の巧拙だけで説明することに疑問を持ち、芸術を求める人間の心理から考えようとします。(参照:ドイツ伝記資料|ヴィルヘルム・ヴォリンガー/ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭)

1907年の博士論文から1908年の出版へ

ヴォリンガーは1907年、ベルン大学へ『抽象と感情移入――様式心理学への寄与』を博士論文として提出しました。翌1908年にはミュンヘンの出版社パイパーから書籍として刊行されます。二つの年は、研究の提出と広い読者に届く出版という別の出来事を指します。

書籍になったことで、美術史の専門家だけでなく、新しい表現を考える画家や批評家にも議論が届きました。ヴォリンガーの考えは、美術史の対象と価値判断をめぐる問題として受け止められていきます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/ヴォリンガー『抽象と感情移入』1908年書誌)

自然に似ていることを評価基準から問い直す

ある古代の石造彫刻が人物の身体を単純な形で示しているとします。近代ヨーロッパの写実的な人体彫刻と比べれば、解剖学的な細部は少ないでしょう。それを制作技術の不足だと判断する前に、作り手が何を美しい形として求めていたかを考えられます。

ヴォリンガーは、こうした問いを美術史の研究方法へ持ち込みました。作品がどのような形の秩序を求めているかを調べることによって、時代や地域の違う造形を新しい目で考えようとしたのです。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|抽象美術とヴォリンガーの1908年の理論(展覧会図録))

「感情移入」は美しさをどう説明したか

他人への共感とは少し異なる美学の用語

19世紀末のドイツ語圏では、作品の形に自分の身体の動きや感情を感じ取ることを「感情移入」と呼んで研究しました。美学での意味は、人の悲しみに同情するという日常の使い方より広く、線や曲面の見え方にも関わります。

例えば建物の柱を見て、上へ伸びる力や支える緊張を感じることがあります。柱が実際に心を持っているという説明ではなく、見る人が形を自分の感覚と結びつけて経験するという考え方です。(参照:学術論文|美学的感情移入の研究史/美学原著|テオドール・リップス『美学』1903年)

リップスが考えた見る人の働き

哲学者・心理学者テオドール・リップス(1851–1914)はミュンヘンで活動し、1903年の『美学』などで感情移入を詳しく論じました。形を見て感じる運動や力は、見る人自身の活動感覚と関わると考えます。

ヴォリンガーは著作の冒頭でリップスの理論を明確に参照しています。自然界に似た有機的な形を心地よく感じることを説明する方法として認め、そこからさらに美術史全体を考える問題へ進みます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/学術論文|美学的感情移入の研究史/美学原著|テオドール・リップス『美学』1903年)

曲線の美しさだけで美術史を語れるか

植物のつるのように伸びる曲線を見て、生命の動きを感じるかもしれません。古代の幾何学的な文様や、鋭い角を繰り返す装飾に魅力を感じる場合は、どのように説明できるでしょうか。曲線へ自分の生命感覚を重ねる説明には、届きにくい作品があります。

ヴォリンガーは、感情移入の理論がよく説明できる作品群を認めたうえで、抽象的な秩序そのものを求める別の心理的な方向を考えました。この問いが『抽象と感情移入』の核になります。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/アウクスブルク大学公開資料|ヴォリンガー『抽象と感情移入』原文)

リーグルの「芸術意志」が開いた考え方

時代ごとに求める形が異なる

オーストリアの美術史家アロイス・リーグル(1858–1905)は、古代末期や装飾芸術の研究から、時代ごとに独自の造形上の目標があると考えました。1901年の『後期ローマの美術工芸』では、古典古代から変化した表現を、当時の造形を求める力に即して研究します。

その力を説明する「芸術意志」という概念は、作品を特定の理想像にどれほど近づけたかだけで評価する方法を問い直しました。ヴォリンガーも、この美術史上の問題を受け継いでいます。(参照:美術史資料|リーグル『後期ローマの美術工芸』と芸術意志/アウクスブルク大学公開資料|ヴォリンガー『抽象と感情移入』原文)

なぜ古代末期の作品が問題となったのか

古典古代の彫刻は、均整の取れた人体や自然な姿勢の表現で高く評価されてきました。古代末期の作品には、正面性が強く、装飾的な秩序を重んじる造形もあります。その変化を「上手な時代から下手な時代への移行」として説明すれば、作り手の異なる目標を見落とします。

リーグルの研究は、作品の形が時代の目的に沿って生み出されることを考えるための材料を示しました。ヴォリンガーは、さらに人間がなぜ特定の形を求めるかという心理の問題を加えます。(参照:美術史資料|リーグル『後期ローマの美術工芸』と芸術意志/エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論)

芸術意志と抽象への衝動をつなぐ

幾何学的な文様や硬い輪郭を繰り返し使う文化を考えるとき、作者がどんな形を作りたかったのかという問いが生まれます。そこでは、技術が十分にあっても別の形を選ぶ理由を説明する必要があります。

ヴォリンガーは美術様式の差を、人が世界をどう感じ、それに応じてどのような造形を求めるかという問題へ結びつけました。リーグルの芸術意志とヴォリンガーの抽象への衝動は、作品の価値をその時代の目標から考える点で関係しています。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/美術史資料|リーグル『後期ローマの美術工芸』と芸術意志)

ヴォリンガーが唱えた「抽象への衝動」

世界への向き合い方から様式を説明する

ヴォリンガーは著作の冒頭で、人が芸術を求めるときの態度には異なる方向があると考えました。一つは自然界の形に自分の生命感覚を重ねる「感情移入への衝動」です。もう一つは、自然界の偶然や移り変わりから離れ、安定した形を求める「抽象への衝動」です。

この二つは、作家が手を動かすときの技法の名前ではありません。人間が外の世界をどのように感じ、その世界に対してどんな秩序を欲するかを説明するための概念です。絵画や装飾の形の違いを、人間の精神のあり方と結びつけようとしました。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/アウクスブルク大学公開資料|ヴォリンガー『抽象と感情移入』原文)

自然の形に親しみを感じる場合

伸びる枝や波打つ線を見て、しなやかな生命の運動を感じる場合があります。自分の身体感覚が目の前の形と重なると、形の変化を楽しむ経験が生まれます。ヴォリンガーは、このような関係に感情移入の美学がよく当てはまると考えました。

自然に対して親しみを持ち、その変化を肯定的に受け取ることが、造形の選択にも表れるという説明です。彼は、芸術史のすべてをこの経験で説明することの難しさから、別の原理を探ります。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/学術論文|美学的感情移入の研究史)

自然から離れた形を求める場合

規則的な反復や幾何学的な輪郭は、植物や動物の姿から距離を取った秩序を作れます。直線で囲まれた形は、風に揺れる木々の姿とは異なる安定感を持ちます。ヴォリンガーが「抽象への衝動」と呼んだのは、そのような安定した造形へ向かう欲求でした。

彼の議論で重要なのは、形がどれだけ自然に似ているかを測る前に、その形がなぜ必要とされたのかを問うことです。抽象的な装飾を独自の美的な選択として理解するために、抽象という語が使われています。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論)

結晶と幾何学的秩序が求められる理由

結晶の形に見いだされた安定

ヴォリンガーは有機的な生命の形と、結晶のような無機的な形を対比しました。結晶の面や角は一定の幾何学的な関係を示し、枝葉の成長とは別の秩序を感じさせます。自然界の絶え間ない変化から距離を取りたいという心の動きを、この形に結びつけます。

ここでの「結晶」は、鉱物学の研究対象であるとともに、変わり続ける世界から独立した形の比喩でもあります。作品に幾何学的な秩序があることを、人間の求める安心感や確かさへ結びつける議論です。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論)

繰り返される文様は何を変えるか

連続する三角形や直交する線の装飾では、一つの模様が規則的に続きます。見る人は、その反復から全体を予想できます。模様が続くことで、個々の物の姿を描くときとは異なる視覚のまとまりが生まれます。

ヴォリンガーは、この反復に自然界の偶然から独立した確かさを読みました。幾何学的な文様には、人や物の姿を再現する能力とは別の意味があると考えたのです。(参照:アウクスブルク大学公開資料|ヴォリンガー『抽象と感情移入』原文/エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論)

無機的な形への関心は冷たさだけを意味するか

石や結晶に似た構造は、整然として見えることがあります。鋭い角や対称形が強い緊張を生み出す場合もあります。ヴォリンガーの抽象論では、こうした形を求める人間の動機を、生命的な曲線を好む場合と異なるものとして扱います。

抽象的な形が人に与える印象は、色や大きさ、配置によっても変わります。ヴォリンガーの二つの衝動は歴史を読むための仮説であり、個々の作品を見る際には実際の視覚的な働きも確かめる必要があります。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|抽象美術とヴォリンガーの1908年の理論(展覧会図録))

世界への不安という仮説

世界との関係が様式を左右するという考え

ヴォリンガーは、外の世界を理解しきれないものとして感じるとき、人はそこから離れた確かな造形を求めると論じました。自然の移り変わりに不安を感じるという説明が、抽象への衝動の心理的な根拠になります。

人が世界と調和していると感じる場合には、生命的な形に自分を重ねる感情移入が強くなるという見方です。この対照から、なぜ同じ人間が異なる時代や場所で違う形を好んできたかを説明しようとしました。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/アウクスブルク大学公開資料|ヴォリンガー『抽象と感情移入』原文)

不安という語をどのように理解するか

この「不安」は、ある特定の作者が怖い体験をしたという伝記的な説明とは違います。世界の不確かさを前に、変わらない秩序を求めるという広い心理の仮説です。ヴォリンガーは個人の気分から離れ、文化の造形を説明する概念として用いました。

実際の歴史では、宗教、権力、技術、交易、制作素材などが形の選択に影響します。不安という一つの心理であらゆる装飾を説明できるかは、後の研究から検討される問題です。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論)

抽象化が心を落ち着かせるという説明

目の前の風景は天候や季節によって変わります。その風景を幾何学的な図形へ整理すれば、変化から一定の形を取り出すことができます。ヴォリンガーは、変わりやすい現象から安定した関係を取り出したいという志向に注目しました。

抽象的な形を選ぶことには、作り手が求める世界との関係を造形へ置き換える積極的な意味があります。自然の姿から離れた幾何学的な秩序を、ヴォリンガーは人間の精神的な欲求に即して考えました。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|抽象美術とヴォリンガーの1908年の理論(展覧会図録))

古代エジプトと装飾芸術の再評価

正面性と規則に従う造形

古代エジプトの人物表現には、顔を横向きにしながら胴体を正面から示すような、一定の規則に基づく姿が見られます。自然の一瞬の見え方より、人物を明確に示す造形上の秩序が重んじられました。ヴォリンガーはこのような表現を、感情移入とは異なる造形を求める態度と関係づけます。

こうした表現には、宗教的な役割、王権、制作の慣習も関わっています。ヴォリンガーの心理的な説明を読むときには、実際の作品がどんな場所で、誰のために作られたのかという歴史も合わせて考えられます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/アウクスブルク大学公開資料|ヴォリンガー『抽象と感情移入』原文)

模様を絵画史の中心へ戻す

長い間、美術史の教科書では、自然に似た人物像や遠近法を高度な成果として説明することが多くありました。ヴォリンガーは、織物や建築装飾に見られる幾何学的な形にも独自の美的な意味を認めます。

装飾をどのように評価するかは、絵画を芸術の中心に置く見方にも影響します。抽象的な造形が古くから存在したことを考えると、1900年代の画家による試みも、自然の再現以外の価値を探る長い歴史の中で位置づけられます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/美術史資料|リーグル『後期ローマの美術工芸』と芸術意志)

現代の美術史から読む際の注意点

ヴォリンガーの本は、ヨーロッパを中心に形成された20世紀初頭の美術史の言葉で書かれています。異なる文化を「世界への不安」の程度や精神の型で分類する考え方には、各文化の歴史を単純化する危うさもあります。

現在は、作品の用途や製作技術、地域ごとの社会関係などを具体的に調べられます。ヴォリンガーの功績は写実中心の評価を問い直した点にあり、その説明の限界まで含めて読むことで、美術史の研究方法の変化が見えてきます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/ドイツ伝記資料|ヴィルヘルム・ヴォリンガー)

1911年『ゴシックの形式問題』へ

ゴシック美術にも関心を広げる

ヴォリンガーは1911年に『ゴシックの形式問題』を刊行し、中世ヨーロッパのゴシック美術を独自の造形として理解しようとしました。高く伸びる建築の線や複雑な装飾を、古典的な均整美とは別の仕方で考えます。

ゴシック様式が持つ張り詰めた動勢を、ヴォリンガーは人間の精神的な志向と結びつけました。古典古代の美を唯一の理想とする歴史観から離れる取り組みが続いていました。(参照:ドイツ伝記資料|ヴィルヘルム・ヴォリンガー/MoMA|抽象美術とヴォリンガーの1908年の理論(展覧会図録))

異なる時代の造形を同じ基準で測らない

ゴシック大聖堂の柱や尖頭アーチと、古典古代の神殿の柱を比べると、空間の感じ方が大きく異なります。どちらも建築上の条件を満たしながら、異なる方向の表現を追求しています。

ヴォリンガーの関心は、こうした違いを各時代の造形への欲求として解釈することでした。美術を連続した技術進歩の記録として見る歴史観を変える仕事にもなります。(参照:ドイツ伝記資料|ヴィルヘルム・ヴォリンガー/ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭)

抽象絵画との関係をどう位置づけるか

1911年のゴシック論は、中世の作品を研究するために書かれました。その年、カンディンスキーの絵画も、自然の輪郭を離れた線や色彩へ進んでいます。二つの探求が同じ時代に進んだことは、共通の関心を考える手がかりになります。

ゴシック建築とカンディンスキーの絵画は、制作の目的も媒体も異なります。両者をつなぐ際には、後世の読者による理論上の比較と、当時の作家間で記録された交流を区別する必要があります。(参照:ドイツ伝記資料|ヴィルヘルム・ヴォリンガー/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑)

ヴォリンガーの理論の力と限界

見慣れた美の基準を問い直した力

彫刻の人物が実際の人体と似ていなくても、形の配置や反復が強い印象を残すことがあります。ヴォリンガーはその特徴を制作能力の不足として扱わず、どのような造形の目的から生まれたかを考えました。

この視点は、古代や中世の美術だけでなく、近代ヨーロッパ以外の作品を美術史へ位置づける際にも新しい問いを生みました。形式に独自の価値があると認めたことが重要でした。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|抽象美術とヴォリンガーの1908年の理論(展覧会図録))

作品を一つの心理で説明する難しさ

ある文様が対称形を持つ理由には、素材の性質や職人の道具、儀礼の用途などが関係します。作り手が実際に何を意図したのかを知るには、その文化の記録や現存する作品を丁寧に調べる必要があります。

ヴォリンガーの壮大な心理的仮説は、問いを開く力を持つと同時に、個々の作品の具体的な条件を省略する危険もあります。現在の読者は、説明がどこまで実証されているかを検討できます。(参照:エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論/美術史資料|リーグル『後期ローマの美術工芸』と芸術意志)

画家のための制作マニュアルではなかった

『抽象と感情移入』の主題は、美術の様式をどう理解するかという研究です。ヴォリンガーは、古代から中世に及ぶ造形の違いを、人間の精神的な欲求から説明することを目指しました。

カンディンスキーの仕事と並べる意味は、同じ「抽象」という語が、美術史の評価と絵画制作の目的という別々の場面で重要になったことを理解する点にあります。ここから画家自身の歩みへ目を移します。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

カンディンスキーはなぜ画家へ転じたか

モスクワで法学と経済学を学んだ

ワシリー・カンディンスキー(1866–1944)はモスクワで育ち、大学で法学や経済学を学びました。1890年代半ばに研究者として歩む道を離れ、絵画を学ぶことを決意します。芸術について理論的に考える姿勢は、画家になってからの著作にも表れます。

後年のカンディンスキーは、色を見たときの強い印象や音楽との結びつきを、自身の芸術観を語る際に重視しました。彼が抽象絵画へ向かった道は、大学の研究から新しい専門へ転じた経験とも重なります。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

1896年にミュンヘンへ移る

カンディンスキーは1896年にミュンヘンへ移り、絵画の勉強を始めました。伝統的な画家の教育を受けながら、ヨーロッパ各地の美術動向にも触れます。ミュンヘンは、アカデミーと革新的な展覧会が共存する環境でした。

彼の初期作品には、民話のような場面や騎馬の人物、街の風景が登場します。後に色彩と形態が大きく変わっても、騎手や宗教的な場面などの主題は、抽象へ近づく作品の中に形を変えて残りました。(参照:ミュンヘン美術アカデミー|大学と美術団体の沿革/グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成)

表現の根拠を探すために書く

画家は、何を描くかだけでなく、なぜその色や線を選ぶのかも考えます。カンディンスキーは自分の制作と並行して、芸術が社会で果たす役割や、色彩が人間の内面へ働きかける可能性を文章で探りました。

彼の絵画論は作品を後から解説するための簡単な説明書ではなく、表現の意味を考えながら制作を進める試みでもありました。芸術家が自分の方法を言葉にするという行為も、この時代の前衛芸術の重要な特徴です。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

ミュンヘンの国際的な制作仲間

ガブリエレ・ミュンターとの共同の探求

ガブリエレ・ミュンター(1877–1962)はドイツの画家で、カンディンスキーと活動を共にし、ミュンヘンやムルナウで風景画を制作しました。単純化された輪郭や鮮やかな色彩は、彼女自身の作品にも見られます。

ムルナウの風景を描く実験をカンディンスキー一人の発見として語ると、同じ土地で制作した画家たちの交流が見えにくくなります。ミュンターの仕事も、近代絵画の展開を考える大切な手がかりです。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

ヤウレンスキーとヴェレフキンがいた環境

アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー(1864–1941)とマリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860–1938)は、ロシア帝国に生まれ、ミュンヘンの美術界で活動した画家です。彼らも色彩や人物表現の新しい可能性を探り、カンディンスキーらと交流しました。

異なる地域で教育を受けた画家たちが一つの都市へ集まることで、美術の考え方も混ざり合いました。1908年前後のムルナウで行われた実験は、こうした国際的な交流を背景としています。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

互いに絵を見せ合うことの意味

同じ景色を描いても、ミュンターは輪郭をはっきり見せ、カンディンスキーは色の塊を大胆に重ねることがあります。仲間の作品を見ながら、どこまで風景を単純化できるかをそれぞれ試していました。

描き方の変化を一人の天才の突然のひらめきとして捉えるより、仲間、旅、展覧会を通じた実験としてたどると、色彩の自立が具体的な制作の中で進んだことがわかります。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―家並み》1908年/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

1908年ムルナウで色彩が変わる

ミュンヘン南方の町での制作

ミュンヘンの南にあるムルナウは、山々や教会、家並みが見える町です。1908年、カンディンスキーはミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンとともにこの地域を訪れ、風景画を制作しました。農村や山を描く経験が、都市で学んだ絵画の方法を試し直す機会になります。

この旅で重要だったのは、見慣れた風景を描きながら、色彩の使い方を大きく変えていったことです。建物や木の細部が省略され、形のかたまりとその境界が画面を作るようになります。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―家並み》1908年/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

《ムルナウ―家並み》の絵具と支持体

カンディンスキーの1908年の《ムルナウ―家並み》は、板紙に油彩で描かれています。画面には町の建物が見え、個々の部分ははっきりした色面へまとめられています。壁や屋根を一つずつ細密に写すことより、風景の全体を色彩によって構成することへ関心が移ります。

小さな支持体へ素早く描く経験も、形式上の実験を支えました。実際の家々という対象がありながら、絵の力は色と形の関係からも生まれています。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―家並み》1908年/グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成)

風景が見えることと色彩が働くこと

屋根や壁を実際より強い色で描くと、見る人はそこに家を認めながら、色の違い自体を強く意識します。風景の輪郭を知っているからこそ、いつもと違う色彩の働きにも気づきます。

この段階のカンディンスキーは、具象と抽象の間を試していました。絵の対象を残す方法の中に、色彩が現実の外観から自由になっていく変化を観察できます。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―家並み》1908年/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

1909年の風景画で輪郭と色が独立する

《ムルナウ―城と教会》

1909年の《ムルナウ―城と教会》では、町の建物や教会の形が色面によって整理されています。レンバッハハウス美術館が所蔵する作品は板紙への油彩で、建物と周囲の地形の境界が明確な色の違いで示されます。

建物が何であるかを知ることと、色面の配置の強さを感じることが同時に起こります。カンディンスキーは、絵の対象を消す前に、対象を作る輪郭や色の役割を変えていきました。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―城と教会》1909年/グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成)

《ムルナウ―小道と家々》の斜めの動き

同じ1909年の《ムルナウ―小道と家々》では、道や建物が斜めに配置され、鮮やかな色のまとまりが視線を導きます。見る人は道をたどって奥へ進むと同時に、画面の各部分が作る動きにも注意を向けます。

遠近法が示す空間の奥行きと、絵の表面の色彩が作る力は、同じ画面で交わっています。抽象絵画へ向かう実験は、具体的な風景の観察から進んでいました。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―小道と家々》1909年/レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―城と教会》1909年)

色が写実的な役割から広がる

青い屋根、緑の道、強い黄色の空というような色彩の組み合わせは、対象を見分ける助けになるとともに、見る人の感情や注意を動かします。カンディンスキーは、色を物に付随する性質として使う方法から、画面を作る主役として扱う方法へ進みました。

後に書かれた絵画論を初期作品へそのまま当てはめる必要はありません。1909年の作品自体を見ると、輪郭の単純化と色面の独立が、段階を経て現れていることを確かめられます。(参照:レンバッハハウス美術館|《ムルナウ―城と教会》1909年/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

1908–1909年《青い山》から何が見えるか

山と騎手が見える絵

1908年から1909年にかけて描かれた《青い山》では、強い色彩の山や木々の間に騎手の姿が見られます。遠くの山を見たときの実際の色と、画面を支配する青には違いがあります。風景の空間と象徴的な題材が、色彩の構成の中で結びついています。

騎手の主題は、その後の作品や「青騎士」という名称にも関係します。色彩の自立が進んでも、カンディンスキーの関心には物語や精神的な意味が残っていました。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑)

絵を近づいて見ると何が起きるか

画面全体を離れて見れば、山や騎手を見つけられます。近づいて見れば、色のかたまりや線の重なりが強く目に入ります。鑑賞する距離によって、何が描かれているかと、どのように描かれているかの比重が変わります。

こうした経験は、抽象化を一度の決断として説明する難しさを示しています。絵は具体的なモチーフを保ちながら、色彩そのものが経験される場になっていきました。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

青という色が象徴へ変わる

カンディンスキーにとって青は、後の色彩論の中で奥行きや精神的な方向と結びつく重要な色になります。《青い山》を見ると、その青が山の形を示すとともに、画面全体に独特の静けさや広がりを与えることがわかります。

実際の作品の印象は、周囲の色や形との関係から生まれます。後年の理論が示す青の意味を、画面のあらゆる部分へ機械的に当てはめるより、作品の具体的な構成から考えることができます。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

1909年新芸術家協会という発表の場

ミュンヘン新芸術家協会の成立

カンディンスキーらは1909年、ミュンヘン新芸術家協会を設立しました。画家たちがまとまって展覧会を開き、新しい表現を公に示すための組織です。カンディンスキーは協会の初代会長を務めました。

仲間とともに発表の場を組織したことで、ムルナウなどで進んだ色彩の実験は、ミュンヘンの観客へ届けられるようになります。同時に、どこまで新しい絵画を受け入れるかという違いも、集団の中で表面化します。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

展覧会では作品を選ぶ基準が必要になる

協会が展覧会を開くには、誰の作品をどのように並べるかを決める必要があります。大きな色面や歪んだ輪郭を持つ絵が、どのような価値を持つと説明できるかが問題になります。

それぞれの作家は新しい美術への関心を共有していても、抽象化をどこまで進めるかについて意見が一致するとは限りません。1909年に生まれた協会は、数年後の青騎士の成立を考える重要な前段階です。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|19世紀末のミュンヘン美術界)

作品と文章による発信が並行する

作品を展示すると、観客は見慣れない形や色彩に向き合います。新聞や雑誌の批評では、新しい絵がどんな意味を持つかが議論されます。カンディンスキーはこの環境の中で、制作の方向を言葉によって説明する仕事も進めました。

『芸術における精神的なものについて』の刊行は、画家の個人的な日記を公表することとは異なります。絵画の新しい可能性を読者へ提案する、公開された議論の一部だったのです。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

写実から離れる過程にも物語が残る

騎手と宗教的な場面の変形

カンディンスキーは、騎手や宗教的な場面を初期から描き続けました。形が大胆に変わっても、色の塊や線の中に人物や馬、山、舟のようなものを見つけられる作品があります。

描かれた内容は、外観の模写から離れても、物語や象徴として画面に残る場合があります。カンディンスキーは抽象化を進めながら、色彩の構成とともに物語や精神的な意味を探り続けていました。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成/レンバッハハウス美術館|《諸聖人の日I》1911年)

1911年《諸聖人の日I》の痕跡

1911年の《諸聖人の日I》には、宗教的な主題に関わる形や人物の痕跡が、激しい線と色彩の中に組み込まれています。具体的な姿を一目で判別しにくい部分も、伝統的な図像や題名と関係しています。

作品の精神性は、単純に抽象的な形の多さだけで決まるものではありません。具体的な宗教的題材と、色彩が見る人に与える強い感覚が、同じ絵の中で関わっています。(参照:レンバッハハウス美術館|《諸聖人の日I》1911年/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

画面の中から題材が消える過程

あるモチーフが小さくなり、輪郭が分かれ、色面へ溶け込むと、見る人はそれを一つの物として理解しにくくなります。その代わりに、画面の全体が作る運動や緊張が強く感じられる場合があります。

カンディンスキーの作品には、この移り変わりが段階的に見られます。何年何月に具象が終わったと線を引くより、どの作品で題材と構成の関係がどう変わったかを見るほうが、制作の実態に近づけます。(参照:MoMA|カンディンスキー「コンポジション」連作展の研究資料/グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成)

1911年のコンサートが絵画になった

シェーンベルクの演奏に触れる

1911年1月2日、カンディンスキーはミュンヘンで作曲家アルノルト・シェーンベルク(1874–1951)の音楽に触れました。フランツ・マルク(1880–1916)らもこの演奏会を聴き、カンディンスキーは強い刺激を受けます。

シェーンベルクは従来の調性から離れる実験を進めていた作曲家です。音楽における規則や響きの変化は、絵画で色と形をどう組み立てるかを考えるカンディンスキーに響きました。この段階の作品を後年の十二音技法と同一視せず、当時の音楽的な試みとして考えることが大切です。(参照:レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑)

《印象III(コンサート)》の黄色と黒

1911年の《印象III(コンサート)》には、大きな黄色の領域と黒い形が広がります。黒い形は演奏会場のグランドピアノと関係づけられ、その周りに人々を思わせる形が並びます。音楽を聞いた場面を、鮮やかな色の関係へ組み立て直した作品です。

レンバッハハウス美術館が所蔵するこの油彩画は、横長の画面に視線を引きつける黄色を使っています。鑑賞者はピアノという題材を理解するとともに、音の印象に対応するような色面の広がりも経験します。(参照:レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

聞く経験を色へ移すという実験

音楽を聞くとき、音の強弱や重なり、突然の変化が感覚を動かします。《印象III》では、そうした時間の中の経験を、一枚の画面へ移しているように見えます。黄色の広がりは、音を描いた印としてだけでなく、鑑賞者が画面から直接受け取る視覚の経験にもなります。

カンディンスキーとシェーンベルクは、その後、手紙を通じても交流しました。音楽と絵画は表現の手段が異なるからこそ、互いの可能性を考える刺激になったのです。(参照:レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑)

音楽はなぜ抽象絵画のモデルとなったか

音楽が人の気分を変える

短い旋律を聴いて、明るく感じたり緊張したりすることがあります。その曲が特定の風景や人物を描写しているとは限りません。音の高さや強弱、速さ、和音の関係そのものが、聞く人の感情を動かします。

カンディンスキーは、絵画の色彩や形態にも、こうした内面的な働きがあると考えました。音楽の例は、自然の形に似せることから絵画を自由にするための重要な手がかりでした。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/ポンピドゥー・センター|抽象と音楽、クプカの研究)

絵画に固有のリズムを考える

画面の左側に大きな赤い形があり、右側に小さな青い形がいくつもあるとします。形の大きさや間隔から、視線の動きや繰り返しのリズムが生まれます。音楽の旋律と直接同じではなくても、構成によって経験が変わる点で比べられます。

カンディンスキーは、色や形が単独で持つ作用と、組み合わせたときに生じる作用を考えました。表現すべき内容が具体的な物の姿から離れるほど、構成の役割が大きくなります。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料)

音と色を結びつけることの意味

カンディンスキーは絵画の色を楽器の音にたとえました。ある色がほかの色と並ぶことで、単独の場合とは異なる響きが生まれるという考え方です。色を鍵盤、目を打鍵するもの、人間の心を音を受けるものにたとえる箇所もあります。

この比喩は、特定の色と音階がすべての人に決まった対応を持つという科学的な証明ではありません。画家が色彩の働きを考え、読者へ伝えるための表現として読むと、その意図が見えてきます。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/ポンピドゥー・センター|抽象と音楽、クプカの研究)

『芸術における精神的なものについて』の成立

1911年末に刊行された1912年表記の本

カンディンスキーの『芸術における精神的なものについて』は、ミュンヘンの出版社パイパーから1911年末に刊行され、表題紙には1912年と記されました。書名に付けられる年と実際に店頭へ出た時期を区別すると、この著作が青騎士の成立とほぼ同時期に発表されたことがわかります。

本は短期間に版を重ね、画家の考えが多くの読者へ届くきっかけとなりました。作品を展示することと理論を出版することが、同じ時期の活動として進んでいました。(参照:MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本/グッゲンハイム美術館|『芸術における精神的なものについて』書誌)

書籍の図版と文字が果たした役割

初版本には、カンディンスキーの木版画や図版が含まれています。読者は文章で「精神的なもの」について考え、図版を通じて線や形の実際の働きにも触れられました。

展覧会場へ行けない人も、書籍を通じて新しい美術の考え方を知ることができます。抽象絵画の成立には、作品の制作と並んで、美術についての言葉と図版を流通させる仕組みが関わっていました。(参照:MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本/MoMA|『芸術における精神的なものについて』の木版画)

理論を読んでから作品を見るとき

カンディンスキーは、色彩や形態が内面へ及ぼす作用を詳しく論じています。その文章を読んで《印象III》を見ると、黄色と黒の関係に以前とは違う注意を向けられます。

同時に、作品の意味を本の文章にすべて置き換えることはできません。実際の絵では、色の面積、重なり、隣り合う形の違いが複雑に働きます。著作と作品を往復することで、理論が描ききれない経験にも気づきます。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年)

物質主義への批判と「精神的なもの」

芸術に何を求めるべきかという問い

20世紀初頭のヨーロッパでは、科学技術と産業が生活を変え、人々は便利な物を次々に手に入れるようになりました。カンディンスキーは著作で、物質的な豊かさだけに価値を置く文化が、人間の精神的な成長を妨げると考えます。

彼にとって芸術は、目を楽しませる装飾として消費される以上の役割を持ちました。人間の内面に働きかけ、新しい感覚や理解へ向かわせる力があると信じたのです。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

精神の三角形という比喩

カンディンスキーは芸術と精神の発展を、頂点が上へ向かう三角形にたとえます。新しい表現に最初に気づく人は少数でも、時がたつにつれて、その考えが広く理解されるようになるという見取り図です。

この比喩には、芸術家が既存の好みに従うだけでなく、まだ理解されていない可能性を探るべきだという使命感が現れています。画家自身の活動と新しい時代の文化を重ねる視点です。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料)

神智学への関心と当時の思想文化

カンディンスキーの著作には、ヘレナ・ブラヴァツキー(1831–1891)の名前や神智学への言及が登場します。神智学は、19世紀後半に宗教や精神世界の知恵を統合的に考えようとした思想運動です。彼は、目に見える物の背後にある精神的な現実への関心を、当時の広い思想文化から受け取っていました。

「精神的」という語は、ここで特定の教会の教義だけを指していません。芸術に触れることで人間の内面が動き、変化するという期待と結びついています。著作には宗教、音楽、色彩心理が交わる時代の空気が反映されています。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリントの制作と精神主義)

「内的必然性」は何を意味するか

作品の形を選ぶ根拠

カンディンスキーが繰り返し使った重要な概念は「内的必然性」です。画家が色や形を選ぶとき、既存の流行や外見の模倣だけを基準にせず、表現しようとする内面的な必要から決めるという考え方です。

青い色面を大きく描くか、小さな赤い点を置くか。画面上の選択は、それぞれ作品が生み出そうとする響きに関係します。内的必然性は、その選択を支える原理として説明されます。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

個人・時代・芸術そのものという三つの要素

カンディンスキーは内的必然性を説明する際に、作家の個性、作家が生きる時代の特徴、時代を超えて芸術に関わる要素という三つの面を挙げました。一人の作家の表現にも、個人的な経験と歴史的な条件が重なっています。

この三つの関係は、時代の流行を拒んで孤立することを求める説明とは異なります。自分の時代を生きながら、同時に長く響く芸術の可能性を考えるという大きな理想が示されています。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料)

自由に描くことにも判断が伴う

対象の見た目から自由になると、画家は色彩や形態を選ぶ余地を広げられます。その自由には、なぜその構成にしたのかを自分の表現に照らして判断する仕事が伴います。

カンディンスキーにとって、抽象的な形が作品の深さを持つには、内面的な必要に応えていることが大切でした。その基準が、作品の価値を考える中心に置かれました。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

色彩は人にどのように働くのか

黄色と青の異なる方向

カンディンスキーの色彩論では、黄色は外へ広がり、見る人へ近づくような動きと結びつけられます。青には奥へ退き、深さを感じさせる方向が与えられます。色彩を、物の表面を説明する情報だけでなく、動きを生み出す力として考えました。

黄色と青を対比する説明は、彼の絵画論の中でもよく知られています。作品を見る際には、色の大きさや周囲との組み合わせが印象を変えることにも注意できます。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年)

赤、白、黒が持つ響き

カンディンスキーは赤に内側から発する強い力を認め、白と黒にもそれぞれ異なる静けさや緊張を見いだしました。白や黒も単なる背景ではなく、画面の感覚を決める要素になります。

色彩が持つ効果は、同じ色でも明るさや濃さ、隣り合う色によって変わります。彼の文章は、こうした差を音楽や運動の比喩も交えて言語化しようとする試みでした。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料)

色の意味は誰にでも同じなのか

青を落ち着く色と感じる人もいれば、冷たく感じる人もいます。文化や過去の経験、画面の中の色の組み合わせによっても受け取り方は変わります。カンディンスキーの色彩論を読むときには、彼の芸術上の解釈と一般的な心理法則を区別して考えられます。

彼が追究したのは、色が感覚に働きかける可能性を、絵画制作の中で真剣に探ることでした。鑑賞者も実際の作品を見て、理論に書かれた通りの経験になるかを自分で確かめられます。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年)

線と形に固有の表現力がある

尖った形と丸い形の違い

三角形は角が外へ向かう方向を示し、円は閉じた輪郭を持ちます。同じ色を塗っても、どの形に置くかによって視覚的な働きは変わります。カンディンスキーは色と形の関係を調べ、形そのものにも内面的な響きがあると考えました。

絵画を構成する最小限の要素へ関心を向けると、何の物を描いているかという判断より先に、形が与える力を考えられます。この視点は後の抽象絵画の研究にもつながります。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|『芸術における精神的なものについて』の木版画)

色と形を組み合わせると何が生まれるか

小さな黄色の三角形と大きな青い円を並べれば、色の違いと形の違いが同時に働きます。同じ青い円をいくつも反復すれば、全体のまとまりやリズムも変わります。

カンディンスキーは、個々の色や形の性質を考えるとともに、それらが一つの画面でどう関係するかを重視しました。意味は一つの要素に閉じず、構成の全体から立ち上がります。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/グッゲンハイム美術館|カンディンスキー教育資料)

模様と絵画を分ける「内的必然性」

鮮やかな色を無計画に並べれば、見た目に楽しい模様を作れるかもしれません。カンディンスキーは、内面的な必要を欠く抽象的な色や形の使用が、表面的な装飾にとどまる危険を論じました。

彼が求めたのは、色と形が作品の内容に深く関係する構成です。この考え方は、抽象絵画に対する「何でも自由に描けばよい」という理解を問い直すための手がかりになります。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

印象・即興・コンポジションの違い

「印象」は外の世界から受け取る経験

カンディンスキーは作品の題名に「印象」を用いました。この語は、自然や出来事など外の世界から受け取る経験を出発点とする作品と関係します。1911年の《印象III(コンサート)》は、音楽を聴くという具体的な体験と結びつく例です。

その体験が絵になったとき、会場の姿を細密に描く必要はなくなります。視覚の構成は、外の世界から受けた感覚を別の媒体で表す方法になります。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年)

「即興」は内面から生じる表現

「即興」という題名の作品では、カンディンスキーは内面から生まれる衝動を強調しました。筆の動きや色彩のぶつかり合いが、作品の重要な特徴となります。題名が示すのは、具体的な物よりも画家の内面的な経験を中心に置く姿勢です。

実際の即興作品にも、舟や人物、風景を思わせる形が残る場合があります。題名の分類は作品の考え方を知る助けになりますが、それぞれの画面に含まれるモチーフまで消すものではありません。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|《即興26(ボートを漕ぐ)》1912年)

「コンポジション」は時間をかけた構成

「コンポジション」と名づけられた作品では、画面全体の関係を慎重に組み立てる仕事が重視されました。カンディンスキーは大きな作品のために素描や習作を作り、線や色の配置を検討しています。

即興的な動きと、時間をかけた構成の検討は、同じ画家の制作に併存していました。抽象的な絵を描くことが、計画や試行錯誤を必要とする制作であったとわかります。(参照:MoMA|カンディンスキー「コンポジション」連作展の研究資料/MoMA|カンディンスキー「コンポジション」研究図録)

1911年《コンポジションV》と対立

大きな作品をめぐる出品問題

1911年12月、カンディンスキーの《コンポジションV》の出品をめぐって、ミュンヘン新芸術家協会の内部で対立が表面化しました。作品は協会の展覧会への出品を拒まれ、カンディンスキー、マルクらが別の発表の場へ進むきっかけになります。

新しい美術を目指していた集団にも、それぞれが受け入れられる表現の範囲がありました。この出来事は、絵画の革新が作品の中だけで完結せず、展示する制度と結びついていたことを示します。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/MoMA|カンディンスキー「コンポジション」連作展の研究資料)

作品には終末論的な図像が残る

《コンポジションV》には、宗教的な終末や再生に関係する図像が読み取られてきました。色と線が複雑に重なる中に、騎手や人物、動きのある場面の痕跡があります。

抽象化が進んだ時期のカンディンスキーでも、目に見えないものを表すために宗教的な物語が手がかりになりました。色彩の自立と象徴的な内容が並行して深まっていきます。(参照:MoMA|カンディンスキー「コンポジション」連作展の研究資料/レンバッハハウス美術館|《諸聖人の日I》1911年)

新しい展覧会へ向かう決断

《コンポジションV》をめぐる対立後、カンディンスキーとマルクは青騎士の展覧会を組織しました。作品を選ぶ基準が合わなかったことが、新しい展示の試みを生み出します。

絵画のあり方をめぐる議論は、誰が作品を展示できるかという具体的な判断へつながります。抽象絵画の成立史を考える際には、美術家団体の対立と新しい発表の場にも目を向ける必要があります。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

青騎士の展覧会と精神性をめぐる議論

1911年12月の最初の展覧会

1911年12月、青騎士の最初の展覧会がミュンヘンのタンハウザー画廊で開かれました。カンディンスキーとマルクが中心となり、ミュンターらの作品も並びます。シェーンベルクが描いた絵画も出品され、表現の領域を横断する企画になりました。

新しい団体を単に「抽象絵画だけを描く画家の集まり」と考えると、この展覧会の特徴が見えにくくなります。参加者の絵画はそれぞれ異なり、芸術の新しい精神的な意味を探る関心でつながっていました。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

マルクとカンディンスキーの共同編集

フランツ・マルクは動物を重要な題材とし、強い色彩で生命や自然への思いを表した画家です。カンディンスキーの絵と並べると、抽象に近づく方法にも違いが見えてきます。

二人は新しい美術に関する展覧会と出版の企画を進めました。画家たちは一つの制作方法へ統一されることより、従来の美術の基準を越えて、作品の可能性を広げようとしていました。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

1912年の第2回展と多様な作品

青騎士の第2回展覧会は1912年に開かれ、素描や版画など紙の上の作品を中心とする展示となりました。新しい美術の舞台は油彩画から紙作品へも広がり、印刷や複製による作品の流通も意味を持つようになっていました。

展覧会と出版の活動が重なり、ミュンヘンで生まれた議論は国境を越えて伝わります。青騎士は、作家ごとの違いを抱えながら新しい美術を紹介する活動として理解できます。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

1912年の年鑑は何を並べたか

『青騎士年鑑』の出版

カンディンスキーとマルクが編集した『青騎士年鑑』は、1912年5月に刊行されました。絵画の図版とともに音楽の議論や多様な時代・地域の造形を掲載し、読者へ新しい美術の見取り図を示します。

年鑑は、異なる作品を一冊に並べることで、それまで分けて語られがちだった表現の間に関係を見いだそうとしました。新しい芸術を考える編集行為でもありました。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

子どもの絵や民衆の表現へも目を向ける

年鑑では、専門の美術学校で訓練された画家の作品とともに、子どもの絵や民間の造形、ヨーロッパ外の作品にも関心が向けられます。制作の仕方や背景が異なる表現から、新しい美術の可能性を考えようとしました。

この選び方には、写実の熟練を作品の価値の中心に据える美術観を変えたいという考えが現れています。同時代の画家がほかの文化をどう理解していたかについては、当時の偏りも含めて検討する必要があります。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|青騎士の作品と作家の研究)

「精神的なもの」を共有する方法

絵画、音楽、民衆の表現を並べると、それぞれの作品が持つ感情の働きや象徴的な意味を、媒体を越えて比べられます。青騎士の編集者たちは、このような比較によって芸術の役割を広く捉えようとしました。

本に載せられた作品は、作り手の目的も時代も同じではありません。年鑑は、それらを同じ時代に読める形へまとめ、芸術について考える新しい場を作ったといえます。(参照:レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

1912年《即興26》と抽象の広がり

《即興26(ボートを漕ぐ)》の画面

1912年の《即興26(ボートを漕ぐ)》には、激しく交差する線や鮮やかな色が見られます。題名は舟を漕ぐ動作を示し、画面の中にも舟や人の姿につながる要素を探せます。

レンバッハハウス美術館所蔵のこの油彩画は、動作や感覚を、視覚的な構成へ置き換える試みを示しています。色彩の配置を感じながら、題名と画面の関係を自分で確かめられる作品です。(参照:レンバッハハウス美術館|《即興26(ボートを漕ぐ)》1912年/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

《即興28(第2版)》の複雑な構成

グッゲンハイム美術館が所蔵する1912年の《即興28(第2版)》でも、多くの線と色彩が重なります。画面には、当時のカンディンスキーが関心を持っていた終末と再生をめぐる象徴的な形が読み取られてきました。

具体的な題材を知ることで見え方が変わると同時に、画面の動きは題材の説明に収まりきりません。抽象化が進んだ作品の複雑さは、この二つの経験が重なるところにあります。(参照:グッゲンハイム美術館|カンディンスキー《即興28(第2版)》1912年/グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成)

形の関係へ鑑賞の重心が移る

絵の中で何が起きているかを尋ねる代わりに、太い線がどの方向へ動き、色の面がどこでぶつかるかを見ると、作品の別の側面が現れます。線や色が互いに関係し、画面全体の調子を作っています。

カンディンスキーが「精神的なもの」を探ったことは、観念だけを語ることに終わりません。画面上の色、形、線の選択という具体的な制作に深く関わっていました。(参照:レンバッハハウス美術館|《即興26(ボートを漕ぐ)》1912年/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

ヴォリンガーとカンディンスキーをどう読み比べるか

美術史家の問いと画家の問い

ヴォリンガーは、なぜある時代や文化で幾何学的な造形が求められたのかを、美術史の問題として考えました。カンディンスキーは、画家がこれからどんな色と形を使い、見る人の内面へ働きかけられるかを考えました。

同じ抽象という語を使っていても、一人は過去の美術を理解する理論を、もう一人は現在進行中の制作を支える理論を発展させています。目的の違いを知ることで、それぞれの思想の特徴が明確になります。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文)

両者が共有した時代の問題意識

20世紀初頭の美術界では、作品の価値を自然の再現だけで測る考え方が変わっていました。古代の文様を美術として評価することと、風景を色と形へ変えることは別の仕事です。それでも、形が自然に似ること以外にどんな意味を持つかという問題は共通しています。

二人の著作を並べると、抽象が技術の不足を示す語から、積極的な価値を持つ語へ変わっていく時代の広がりが見えてきます。(参照:MoMA|抽象美術とヴォリンガーの1908年の理論(展覧会図録)/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本)

直接的な影響関係は資料から検討する

ヴォリンガーの本は1908年に公刊され、カンディンスキーの著作は1911年末に刊行されました。この前後関係から、両者の考えが似て見えることはあります。どの文章を誰が実際に読んだかを知るには、手紙や蔵書、当時の証言などが必要です。

今回の資料から確実に確認できるのは、それぞれの著作と作品、そして同時代の美術界の状況です。二人の関係は、共通する問題意識を持つ別々の研究と制作として読み比べられます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑)

抽象を生んだ複数の場所と作家

ヒルマ・アフ・クリントの1906年からの仕事

スウェーデンの画家ヒルマ・アフ・クリント(1862–1944)は、1906年から具象的な描写を大きく離れた作品を制作しました。1906年から1915年にかけての「神殿のための絵画」には、円や渦巻き、文字のような記号、鮮やかな色彩が現れます。

彼女も精神世界への関心を持っていました。制作の社会的な場や、作品が当時どの程度公開されたかはカンディンスキーと異なります。抽象への試みは、一つの都市の一人の画家だけで進んだ歴史ではありません。(参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリントの抽象絵画/グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリントの制作と精神主義)

クプカと1912年の《二色のフーガ》

チェコ出身でパリを拠点に活動したフランティシェク・クプカ(1871–1957)は、1912年のサロン・ドートンヌに《アモルファ――二色のフーガ》を出品しました。題名に音楽用語を含むこの作品は、色の曲線と形態の関係を中心に構成されています。

クプカも音楽と視覚の関係を考え、具象的な題材から距離を取る独自の道を歩みました。カンディンスキーと同じころ、別の芸術環境で抽象的な絵画が公に示されていたことが重要です。(参照:MoMA|クプカ《アモルファ 二色のフーガ》1912年/ポンピドゥー・センター|抽象と音楽、クプカの研究)

地域ごとに異なる抽象の目的

アフ・クリントの記号的な作品、クプカの色彩の構成、カンディンスキーの音楽と精神性をめぐる試みを比べると、抽象へ向かう理由に違いが見えます。作品の形式が近く見えても、それぞれの思考や公開の状況は異なります。

抽象絵画を理解するには、誰が最初かという競争から一歩進み、何を求めて形を変えたのか、どのような制度で作品を発表したのかを考えられます。(参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリントの抽象絵画/MoMA|クプカ《アモルファ 二色のフーガ》1912年/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑)

「最初の抽象絵画」という物語はどこから来たか

「1910年の最初の抽象水彩画」の問題

カンディンスキーの一枚の水彩画は、長く「1910年の最初の抽象水彩画」として紹介されてきました。ところが、その制作年代については後の研究で疑問が提示され、ポンピドゥー・センターは1913年の作品として位置づけています。

作品に書かれた年号や後年の解説だけから、制作の歴史を確定することの難しさが表れています。1910年にすべてが始まったという説明よりも、複数の作品と資料を照らし合わせる方法が重要です。(参照:ポンピドゥー・センター|「最初の抽象水彩画」の制作年代に関する研究/MoMA|『抽象の発明 1910–1925』研究図録)

何を「抽象」の成立と呼ぶか

人物や風景が少し残る絵と、対象をまったく特定できない絵では、抽象の程度が異なります。制作した年を重視するか、公の展覧会に出た年を重視するかによっても、歴史の見取り図は変わります。

この問題は、制作日を競うより、抽象絵画という概念をどのように定義しているかを明らかにする必要があることを示しています。カンディンスキー自身の作品も、実験が重なりながら変化しました。(参照:ポンピドゥー・センター|「最初の抽象水彩画」の制作年代に関する研究/グッゲンハイム美術館|カンディンスキーの初期抽象作品の形成)

美術史の物語を更新する資料

美術館に残る習作や手紙、展覧会の出品記録を調べれば、作品が作られ、公開され、評価された順序をより細かく理解できます。アフ・クリントの作品の再評価も、美術史の見方を広げました。

抽象絵画の歴史は、発明者を一人に決めて終わるものではありません。ヴォリンガーの著作、カンディンスキーの作品、ほかの地域の画家たちの探求を照らし合わせることで、多様な起点が見えてきます。(参照:グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリントの抽象絵画/ポンピドゥー・センター|「最初の抽象水彩画」の制作年代に関する研究/MoMA|『抽象の発明 1910–1925』研究図録)

抽象絵画が表そうとしたもの

目に見えないものを画面で考える

カンディンスキーは、音楽から受ける感覚や内面的な緊張、精神的な変化を、色彩と形態の働きとして表そうとしました。彼の作品を見ると、身近な題材が少しずつ形を変え、色と線の関係が独自の力を持つ過程がわかります。

抽象絵画で何が表されているかを考えるときには、画家が言葉で説明した意図と、実際の画面が鑑賞者に与える経験の両方が手がかりになります。(参照:カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|《即興26(ボートを漕ぐ)》1912年)

ヴォリンガーが教える別の見方

ヴォリンガーの研究からは、古い幾何学的な装飾にも、人間が世界との関係を考えながら形を求めてきた歴史があることがわかります。自然の姿を忠実に再現する以外の造形の価値を考えるための視点です。

現代から読むと、その心理的な説明には検討すべき限界も見られます。意義は、美術の評価を一つの基準から解き放ち、形を選ぶ理由を問う視点を開いたことにあります。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/エセックス大学研究機関|結晶形態とヴォリンガーの美術理論)

作品を前にして問い続けること

色のかたまりを前にして、私たちは何かの姿を探し、次に色同士の関係や線の動きを感じます。見る人の経験は、画面の中の具体的な物と、形そのものの働きの間を行き来します。

1908年から1912年の理論と作品が教えるのは、絵画が何を表せるかという問いの広さです。世界をどのように理解し、どのような形を必要とするのか。その探求の中から抽象絵画の多くの道が生まれました。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/MoMA|クプカ《アモルファ 二色のフーガ》1912年)

略年表|抽象絵画と美術理論の形成

  • 1851年|美学・心理学者テオドール・リップスが生まれる。のちに感情移入の美学を論じる
  • 1858年|美術史家アロイス・リーグルが生まれる
  • 1860年|画家マリアンネ・フォン・ヴェレフキンが生まれる
  • 1862年|画家ヒルマ・アフ・クリントがスウェーデンで生まれる
  • 1864年|画家アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーが生まれる
  • 1866年|画家ワシリー・カンディンスキーがモスクワで生まれる
  • 1871年|画家フランティシェク・クプカが生まれる
  • 1874年|作曲家アルノルト・シェーンベルクが生まれる
  • 1877年|画家ガブリエレ・ミュンターが生まれる
  • 1880年|画家フランツ・マルクが生まれる
  • 1881年|美術史家ヴィルヘルム・ヴォリンガーがドイツのアーヘンで生まれる
  • 1892年|ミュンヘン分離派が成立し、展覧会の運営と美術表現をめぐる対立が顕在化する
  • 1896年|カンディンスキーが研究者の道から画家へ転じ、ミュンヘンで絵画の勉強を始める
  • 1901年|リーグル『後期ローマの美術工芸』刊行
  • 1903年|リップス『美学』の刊行が始まり、感情移入の議論が体系的に示される
  • 1906年|アフ・クリントが「神殿のための絵画」の制作を始める
  • 1907年|ヴォリンガーがベルン大学へ『抽象と感情移入』を博士論文として提出する
  • 1908年|ヴォリンガー『抽象と感情移入』がミュンヘンのパイパー社から書籍として刊行される
  • 1908年|カンディンスキー、ミュンター、ヤウレンスキー、ヴェレフキンらがムルナウで風景画の新しい表現を試す
  • 1908–1909年|カンディンスキー《青い山》が制作される
  • 1909年|ミュンヘン新芸術家協会が成立し、カンディンスキーが初代会長となる
  • 1909年|カンディンスキー《ムルナウ―城と教会》《ムルナウ―小道と家々》などを制作する
  • 1911年1月2日|カンディンスキーらがミュンヘンでシェーンベルクの音楽を聴く。後に《印象III(コンサート)》が制作される
  • 1911年|ヴォリンガー『ゴシックの形式問題』刊行
  • 1911年|カンディンスキーが《諸聖人の日I》《コンポジションV》を制作する
  • 1911年12月|《コンポジションV》の出品をめぐる対立を経て、ミュンヘンのタンハウザー画廊で青騎士の最初の展覧会が開かれる
  • 1911年末|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』刊行。表題紙の刊行年は1912年
  • 1912年|青騎士が紙作品を中心とした第2回展覧会を開催する
  • 1912年5月|カンディンスキーとマルク編集の『青騎士年鑑』が刊行される
  • 1912年|カンディンスキーが《即興26(ボートを漕ぐ)》《即興28(第2版)》などを制作する
  • 1912年|クプカがパリのサロン・ドートンヌに《アモルファ――二色のフーガ》を出品する
  • 1913年頃|「最初の抽象水彩画」として知られたカンディンスキーの作品を、ポンピドゥー・センターはこの時期の制作と位置づける
  • 1914年|第一次世界大戦が始まり、ミュンヘンで活動した国際的な画家たちの関係と生活も大きく変わる

略年表はベルン大学に提出されたヴォリンガーの論文、1908年の書籍、カンディンスキーの作品と初版本の記録、青騎士の展覧会史を照合して作成しました。1911年末の刊行と1912年の表題紙、作品制作年と公開年を区別しています。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/MoMA|カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』初版本/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/レンバッハハウス美術館|《印象III(コンサート)》1911年)

まとめ|抽象絵画は何を表そうとしたのか

1900年代のドイツ語圏では、美術アカデミーや展覧会の制度が変化し、画家や美術史家は絵画の価値を新しく考え始めました。印象派、ポスト印象派、象徴主義が色彩や形態、内面的な意味を探り、ミュンヘンでは新しい絵を発表する団体が生まれました。その環境の中で、「抽象」という語は、美術史の研究と画家の制作という異なる場面で重要になります。

ヴィルヘルム・ヴォリンガーは1907年の博士論文を1908年に『抽象と感情移入』として刊行し、人間が自然の生命的な形に親しみを感じる「感情移入への衝動」と、安定した幾何学的な秩序を求める「抽象への衝動」を論じました。古代や中世、装飾芸術の造形を、写実に近づく過程として測る美術史の基準を問い直したことに意義があります。彼が文化の造形を世界への不安という心理から説明した点には、現在の研究から検討すべき限界も残ります。

ワシリー・カンディンスキーは、1908年から1909年のムルナウでの制作を通じて、風景を強い色面と輪郭へ組み立て直しました。1911年のシェーンベルクの演奏を受けた《印象III(コンサート)》では、音楽から受ける経験が色彩の構成へ移されています。1911年末刊行の『芸術における精神的なものについて』は、色と形が人間の内面へ働きかける可能性と、表現を支える「内的必然性」を論じました。

青騎士の展覧会と1912年の年鑑は、絵画、音楽、多様な時代や文化の造形を結びつけ、新しい芸術を考える場を作りました。同じころ、スウェーデンのヒルマ・アフ・クリントやパリのフランティシェク・クプカも、それぞれ異なる考えから抽象的な作品を制作しています。抽象絵画が何を表そうとしたかという問いは、複数の答えへ開かれています。色彩と形態によって内面的な経験や世界との関係を探ろうとした道を、作品と当時の言葉の双方からたどることができます。(参照:ヴッパータール大学|ヴォリンガー『抽象と感情移入』1907年初版冒頭/カンディンスキー『芸術における精神的なものについて』翻訳本文/レンバッハハウス美術館|青騎士の結成・展覧会・年鑑/グッゲンハイム美術館|ヒルマ・アフ・クリントの抽象絵画/MoMA|クプカ《アモルファ 二色のフーガ》1912年)

参考資料・出典

ヴォリンガーについては『抽象と感情移入』の原文と研究資料を確認し、カンディンスキーについては『芸術における精神的なものについて』の本文、MoMAの初版本記録、レンバッハハウス美術館とグッゲンハイム美術館の所蔵作品情報を照合しました。1911年の青騎士と1912年の年鑑についてはレンバッハハウス美術館の研究を参照しました。「最初の抽象水彩画」の年代についてはポンピドゥー・センターの見解を明示しています。各小節の末尾に参照リンクを付しています。資料確認:2026年10月20日。