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Philosophy

1967

言葉には一つの決まった意味があるのか

デリダと脱構築

1967年のパリでは、大学の講義室と出版社を舞台に、言語や文化の研究方法が活発に論じられていました。フランスはシャルル・ド・ゴール大統領のもとで第五共和政を続け、国民議会が法律を審議し、政府が政策を進めていました。戦後の高等教育の拡大によって、若い世代が哲学や文学を学ぶ機会も増えていました。フランスで育った新しい人文学の議論は、大西洋を越えてアメリカの大学にも広がり始めています。

当時の哲学者や文学研究者は、人間が何かを理解するとはどういうことかを、言葉の仕組みから問い直していました。小説を読む人は、その意味を作者の心に探せばよいのでしょうか。ある言葉を別の言葉で説明するとき、どこまで進めば疑問の余地のない意味に行き着くのでしょうか。こうした問題は、文学の読み方にとどまらず、知識がどのように成立するかという哲学の根本へつながります。

当時フランスで活動していた哲学者ジャック・デリダ(1930–2004)は、1967年に『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』を相次いで刊行しました。彼は、言葉の意味が他の語との差異や、過去から受け継がれる表現との関係で成立していることに注目します。その考えは、哲学書の一見安定した概念を、その内部から読み直す「脱構築」へ発展しました。

例えば「自由」とは何かを考えるとき、私たちは「拘束」「選択」「責任」といった別の語を使います。その語をさらに説明し始めれば、別の言葉との関係が現れます。言葉の意味は、一つの語の奥に固定された答えとして存在するのでしょうか。デリダが先行する哲学者たちの文章をどのように読み直したのかをたどると、意味を理解できることと、意味がひとつに定まり続けることの違いが見えてきます。

CONTENTS

  1. 1967年のフランスで、言葉への関心が高まった理由
  2. ジャック・デリダはどのような哲学者だったのか
  3. 言葉の意味はどこで決まるのか
  4. ソシュールの言語学が示した「差異」
  5. 構造主義からどのように問いが変わったのか
  6. 1966年のジョンズ・ホプキンズ大学で何が起きたのか
  7. 「脱構築」とはどのような読み方なのか
  8. なぜ西洋哲学は声を特別視してきたのか
  9. 『グラマトロジーについて』が問い直したもの
  10. ルソーの文章に現れる「補足」の問題
  11. レヴィ=ストロースの「書くことの授業」を読む
  12. 「痕跡」は言葉の中で何を意味するのか
  13. 「差延」は何を表す言葉なのか
  14. 意味の違いと時間の遅れはどうつながるのか
  15. 「原エクリチュール」は単なる文字のことなのか
  16. フッサールの現象学と「声と現象」
  17. 私たちは自分の声を完全に理解しているのか
  18. 「現前」の哲学をなぜ問い直すのか
  19. ニーチェとハイデガーから受け継いだ問い
  20. 『エクリチュールと差異』では何が論じられたのか
  21. 対立する二つの言葉から何が見えるのか
  22. 脱構築の読解はどのように進むのか
  23. 読む人の自由にはどんな根拠が必要なのか
  24. バルトとデリダはどこで重なり、どこが違うのか
  25. 脱構築はどのように世界へ広まったのか
  26. 脱構築をめぐってどのような批判があったのか
  27. 脱構築は後年どのような問いへ広がったのか
  28. 言葉の意味は、どこまで決めることができるのか
  29. 略年表|デリダと脱構築の形成
  30. まとめ|言葉の意味と脱構築
  31. 参考資料・出典

1967年のフランスで、言葉への関心が高まった理由

高等師範学校と哲学の訓練

パリの高等師範学校は、大学教員や研究者になる人材を育てる教育機関の一つでした。厳しい選抜を経て入学した学生は、古代から近代までの著作を読み、論述や討論を通して哲学の議論を学びました。デリダも1952年にこの学校へ入り、先行する学説を原文に沿って読み解く訓練を受けています。

伝統的な哲学教育では、著名な哲学者が使う概念の意味を、先行著作や注釈と照らして理解することが重んじられました。その細かな読解を足場として、なぜ哲学書が特定の概念を中心に置くのかを問う研究も生まれます。デリダの仕事は、そのような教育と研究の場で鍛えた方法を、学問の前提そのものへ向けたものでした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

哲学と文学が交わった研究環境

1950年代末から1960年代のフランスでは、人間の自由や経験を考える実存主義、意識の働きを詳しく調べる現象学、言語や文化を関係の体系から分析する構造主義が活発に論じられました。大学の講義だけでなく、出版社の新刊や雑誌の批評も議論の場となりました。

ある小説を作家の心情として読むか、言葉の配置や社会の慣習から読むかによって、見えてくる問題は変わります。思想家たちは文学を哲学の外に置かず、文章を読む経験そのものから、意味とは何かという問題を問い始めていました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

「同じ言葉」はなぜ同じ意味で読めるのか

同じ新聞の見出しでも、読む人の立場や直前の出来事によって受け取り方が変わります。発行者の説明と、読者が見出しから連想する事柄がずれることもあります。それでも人々は、言語を共有しているからこそ議論を続けられます。

1967年にジャック・デリダが取り上げたのは、こうした言語による理解の根拠でした。意味が共有できることと、意味をいつでも一つに決定できることは、同じ条件によって成り立つのでしょうか。この疑問を哲学史の長い議論へ結びつけたのが、脱構築と呼ばれる思考です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

ジャック・デリダはどのような哲学者だったのか

アルジェリアで育った経験

ジャック・デリダ(1930–2004)は、当時フランスの統治下にあったアルジェリアのアルジェ近郊で、ユダヤ系の家庭に生まれました。第二次世界大戦期には、ヴィシー政権による反ユダヤ政策の影響で学校教育を中断させられた経験を持ちます。公的な制度が人々を分類し、排除する現実に接した少年時代でした。

その後デリダはパリへ移り、フランスの哲学教育の中心的な機関の一つである高等師範学校で学びました。生い立ちだけから思想のすべてを説明することはできません。彼が後年、言語や制度が作り出す境界に深い関心を向けた背景には、複数の文化と政治制度を生きた経験がありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

フッサールとハイデガーを読み直す

デリダはドイツの哲学者エトムント・フッサール(1859–1938)の現象学を綿密に研究しました。現象学は、物事が意識にどのように現れ、意味を持つかを探究します。デリダは1950年代にフッサールを研究し、1962年には『幾何学の起源』を仏訳して長い序論を付けました。

同時に彼は、存在の意味や西洋哲学の歴史を問い直したマルティン・ハイデガー(1889–1976)を読みました。先行者の著作を単に否定するのではなく、その議論が成立するために必要な条件を内側から探る姿勢が、後の脱構築の仕事につながります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール)

1967年に三冊の著作を刊行した

1967年、デリダは『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』の三冊を刊行しました。前二者は言語と意識の関係を異なる角度から検討し、第三の本には1960年代に発表した哲学・文学・人類学への批評が収められています。

三冊に共通するのは、言葉や意識の背後に、最初から完全な意味が存在していると考えたときに生じる難問です。デリダは先行する哲学の文章を詳しく読み、そこで中心とされたものが、周辺とされたものによって支えられている過程を明らかにしようとしました。(参照:フランス国立図書館|『グラマトロジーについて』1967年初版書誌/フランス国立図書館|『声と現象』1967年版書誌/フランス国立図書館|『エクリチュールと差異』1967年版書誌)

言葉の意味はどこで決まるのか

辞書を引いたあとに残る疑問

例えば「自由」という語の意味を辞書で調べると、拘束や制約に対する説明が見つかります。そこで「拘束」や「制約」を調べれば、さらに別の言葉による説明に進みます。私たちは言葉を理解するとき、言葉から完全に離れた意味の塊を直接取り出しているのでしょうか。

デリダは、意味を知るために使われる別の語との関係に注目しました。ある語が意味を持つのは、その語が他の語とどう区別され、どの場面で使用されるかによります。哲学的な問いは、言葉の定義を増やすことよりも、定義が可能になる仕組みを説明することにあります。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

同じ語が状況によって変わる

友人が「もういい」と言うとき、その言葉は十分だという了承にも、会話をやめたいという拒絶にもなります。声の調子、直前の会話、互いの関係が理解に関わります。文字で届いた場合には、読み手が別の場面を想像するかもしれません。

意味が文脈で変わるという事実から、すべての解釈が等しく成り立つという結論は出ません。前後の発言や社会で共有される言語の慣習は、読み方を支える材料です。デリダの探究は、共有される規則と、それによって予想外の理解も生じる可能性を同時に考えるところから始まります。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード大学公開資料|デリダ「署名・出来事・コンテクスト」)

「本当の意味」を確定する条件

ある発言の意味について意見が分かれたとき、本人に尋ねる、文章の前後を読む、似た使い方を探す、といった方法があります。これらは実際に理解を深める手段です。発言した人の説明さえも、別の言葉で語られ、聞き手によって理解されます。

デリダは、意味を保証する最後の地点を設けるという哲学の願いを問い直しました。言葉による説明を続けるかぎり、その説明にも文脈と解釈が関わります。ここから、語同士の「差異」と、意味が成立する時間の問題が広がります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

ソシュールの言語学が示した「差異」

意味を言葉同士の関係から考える

スイス出身の言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857–1913)は、近代言語学の形成に大きな役割を果たしました。没後の1916年に教え子らが編んだ『一般言語学講義』では、言語を個々の名称の寄せ集めとして扱うより、記号相互の関係から理解する方法が示されます。

「犬」という語は「猫」「狼」「犬小屋」など他の語と区別され、使われる体系の中で働きます。ソシュールにとって、記号の価値は周囲との差異に関係しています。デリダはこの洞察を受け継ぎ、ある意味がほかの意味との関係によって成立するという点を深く掘り下げました。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次)

能記と所記の関係

ソシュールは言語記号を、音のイメージを表す能記と、概念を表す所記との結びつきとして捉えました。同じ対象を日本語とフランス語で異なる音によって呼ぶことからも、語音と概念との結びつきには社会的な約束が働くとわかります。

この関係は、物にぴったり貼られた自然の札として言葉を考える方法とは異なります。デリダはさらに、記号の中で「意味される側」を純粋な内容として取り出せるのかを問います。ある所記を説明し始めれば、私たちはふたたび別の記号を使うからです。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次)

言語体系の分析から残る問題

ソシュールの研究は、実際の発話の一回ごとの違いを越え、社会に共有される言語の体系を明らかにしようとしました。デリダは、差異によって成立する体系の内側に、同じ意味を完全に保存し続ける中心があるのかと問いかけます。

ソシュール自身の議論とデリダによる読み直しを区別しておくことが大切です。後の研究では、デリダがソシュールをどこまで公正に読んでいたかも検討されてきました。両者の関係は、影響を受け継ぎながら前提を問い直す哲学的な対話です。(参照:エディンバラ大学出版局|デリダのソシュール解釈を再検討する研究/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

構造主義からどのように問いが変わったのか

文化の背後にある関係を調べる

20世紀半ばの構造主義は、言語だけでなく神話、親族関係、物語を、要素同士の関係から考えようとしました。フランスで活動した人類学者クロード・レヴィ=ストロース(1908–2009)は、親族関係や神話の分析を通して、表面の違いの背後にある分類と組み合わせの仕組みを探りました。

個々の物語に共通する規則を考える発想は、言語学の差異の研究とつながります。デリダはこの成果を読み込みながら、構造を説明する研究者自身が何を中心に据え、何を周辺へ追いやっているのかという問題を加えました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献)

構造の「中心」は何をしているのか

時計を考えると、歯車が互いに働くには位置関係と回転の規則が必要です。構造を考えるときも、要素の組み合わせを一定の仕組みに保つ条件を求めることがあります。西洋哲学では、その条件を「起源」「真理」「本質」といった中心へ求めてきました。

デリダは、中心が構造を安定させる役割を持ちながら、それ自身は構造内の自由な置き換えから守られているとされる点に注目しました。中心をあらかじめ定めることで、何を説明でき、何を見落とすのか。ここに構造主義を内側から考え直す問いが生まれます。(参照:デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

中心が揺らぐと「遊戯」が見える

物語の登場人物の役割を一つの規則で説明できるときでも、別の作品では役割が逆転することがあります。要素は関係の中で位置を変え、同じ説明の枠に収まらないことがあります。デリダは、中心によって完全に閉じられた構造という考えを揺さぶりました。

彼がいう「遊戯」は、無秩序に言葉を並べる遊びという意味ではありません。関係の体系の中で、要素の位置が動き、互いを置き換える可能性を指しています。構造という考え方を捨てずに、その固定化を支える条件を調べたのです。(参照:デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

1966年のジョンズ・ホプキンズ大学で何が起きたのか

大西洋を越えた学術会議

1966年10月、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で、人文科学と言語をめぐる国際的な研究集会が開かれました。文学研究や人類学、哲学の研究者が集まり、フランスで広まった構造主義の考え方を紹介し、討論する場が設けられました。

デリダは10月21日に「人文科学の言説における構造、記号、遊戯」という講演を行いました。構造主義の成果を認めながら、安定した中心を前提に構造を考えることの難しさを論じたのです。1967年の『エクリチュールと差異』には、この講演をもとにした論文が収められます。(参照:ジョンズ・ホプキンズ大学図書館|1966年シンポジウム原記録/デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献)

レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」

デリダはこの講演で、レヴィ=ストロースの議論にある「ブリコラージュ」、手元の材料や道具を利用して何かを作る行為に注目しました。古くからある言葉や概念を使って新しい理論を作る研究者も、ある意味では手元の道具で考えています。

既存の概念を批判するとき、その批判はすでにある言語で表明されます。誰も歴史の外に立ち、完全に新しい言葉だけで思考を始められるわけではありません。デリダの講演は、自分が用いる概念の来歴を忘れずに研究する必要を示しました。(参照:デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献/ジョンズ・ホプキンズ大学図書館|1966年シンポジウム原記録)

講演記録と後の論文を区別する

大学図書館が公開した研究会の録音と文字起こしからは、発表された内容だけでなく、その場で交わされた質疑にも近づけます。1970年刊の会議記録や1967年の論文集に収められた文章は、当日の出来事をそれぞれ異なる形で伝えています。

ジョンズ・ホプキンズ大学図書館の2023年の説明によると、1967年刊のフランス語論文には会場での質疑が収録されていません。会議の反応を語るときには、当日の議論と出版物の本文を区別することが必要です。思想史の重要な転機は、講演一回の逸話だけでは捉えきれません。(参照:ジョンズ・ホプキンズ大学図書館|1966年シンポジウム原記録/デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献)

「脱構築」とはどのような読み方なのか

文章の結論を急がず前提を読む

「脱構築」という言葉を聞くと、理論や建物を壊すことを思い浮かべるかもしれません。デリダが実践したのは、哲学書や文学作品を細部まで読み、そこで示された主張を成立させる前提や、説明の途中に現れる緊張を探る仕事でした。

例えば、ある文章が「自然なもの」と「後から付け加えられたもの」を厳密に分けようとしているとします。その説明を追うと、自然な状態を保つために、後から加えられたはずのものが最初から必要になっている場合があります。デリダはこうした関係を、本文が用いる言葉から明らかにしようとしました。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

主張を支える区別を見つける

西洋哲学の文章には、真理と誤り、音声と文字、現前と不在、自然と文化など、多くの対になる言葉があります。対立している二つの語のうち、一方が本来的で優れ、他方が二次的だと考えられることがあります。

脱構築では、最初にその序列が本文のどこで作られているのかを確かめます。次に、低く位置づけられた側が、実際には高く置かれた側を成立させる条件になっていないかを調べます。文章の内側で証拠を示す読解だからこそ、哲学上の反論として意味を持ちます。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

単純な逆転で終わらない理由

声を重視する哲学への反論として「文字の方が優れている」と宣言すれば、優劣の順番を逆にしたことになります。デリダが探るのは、そもそも声と文字を完全に分離し、どちらかだけを独立した起源とみなせるかという問題です。

ある区別を支える条件が両側にまたがるとき、序列を逆転させるだけでは説明が足りません。脱構築は、対立そのものがどのように成り立ち、なぜ安定しきらないかを読む実践でした。見慣れた概念の関係を組み替える点に独自性があります。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次)

なぜ西洋哲学は声を特別視してきたのか

目の前の会話に感じる確かさ

目の前で誰かが「帰ります」と言えば、聞き手は声の調子や表情から意図を読み取れます。疑問があれば、その場で聞き返すこともできます。会話には、言葉を発する人がその場にいるという強い感覚があります。

手紙や印刷物は、書いた人がそこにいないまま読まれます。多くの思想家は、この違いから音声を意味の生きた現れと捉え、文字を音声を記録する補助的な方法として位置づけてきました。デリダは、そうした序列がどんな理解を可能にし、何を見落としているかを問います。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

音声を起源とする説明の歴史

古代ギリシア以来、哲学には思考と語られた言葉を近いものとみなす伝統があります。文字は、その言葉を外へ残す印として説明されることがありました。デリダは『グラマトロジーについて』で、音声の優位という考えが言語学や哲学に繰り返し現れることを検討しました。

音声が持つ豊かな表情や対話の即時性を認めながら、その即時性だけで意味の確実さを保証できるかを問うのが重要です。聞き違いは会話でも起こり、同じ語が場面によって別の働きをします。音声も社会に共有された記号の仕組みに依存しています。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

書いた人が不在でも文字は読まれる

友人が書いたメモを翌日に読めるのは、書き手がその場にいなくても文字が働くからです。そこに使われた単語は、書き手と読み手が共有する言語の習慣に支えられています。この仕組みは文字の特徴をよく示します。

デリダは、同じ言葉を別の場面でも理解できるという反復可能性が、実際には音声の発言にも備わっている点を重視しました。日常会話の言葉も、話した人だけが使える特別な記号ではありません。声と文字の間に想定される絶対的な境界がここで揺らぎます。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード大学公開資料|デリダ「署名・出来事・コンテクスト」)

『グラマトロジーについて』が問い直したもの

書物の第一部と第二部

1967年刊の『グラマトロジーについて』は、まず書記、言語学、形而上学をめぐる理論的な問題を整理し、続く部分でジャン=ジャック・ルソーやレヴィ=ストロースの文章を詳しく読みます。出版社の公開する目次には「文字以前のエクリチュール」と「自然、文化、エクリチュール」という二つの大きな区分があります。

前半の概念を、後半の具体的な文章によって試す構成です。デリダ自身も序文で、従来の思想史の方法と厳密な読解との両方を意識していることを述べています。抽象的な言語論と、過去の著作者が実際に書いた言葉を行き来するのが、この本の特色です。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/ジョンズ・ホプキンズ大学出版局|『グラマトロジーについて』英語版の構成)

「グラマトロジー」という名称

グラマトロジーは、文字や書記を考察する学問を意味する語です。デリダの著作名は、書記の歴史や分類を研究する可能性を念頭に置きつつ、その学問自体がどんな概念の枠組みに依存するかも問います。

文字は音声をそのまま写したものだと考えるなら、文字を研究する学問は二次的な役割を与えられます。デリダは、言語の仕組みを文字から考えることによって、意味と表現の関係全体を見直そうとしました。書記は哲学の周辺的な話題から、意味の起源を問う入口へ移ります。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

「本」と「書くこと」の緊張

一冊の本には表紙、目次、本文、結論があり、読者は閉じたまとまりとして受け取ります。その本の一文が別の本を引用し、ある語が以前の思想を受け継いでいるなら、言葉の働きは一冊の内側で終わりません。

デリダは、作品をまとまりとして読む制度と、書かれたものが別の文章へ広がっていく働きを同時に問題にしました。著作は歴史の中で引用され、訳され、異なる批評へ結びつきます。ひとつの意味の閉じた容器として本を考えるとき、すでに他の言葉との関係が働いているのです。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

ルソーの文章に現れる「補足」の問題

ルソーは言語をどのように考えたか

18世紀のジュネーヴに生まれ、フランス語で思想を展開したジャン=ジャック・ルソー(1712–1778)は、人間の社会、教育、政治、言語の起源を論じた哲学者です。彼は『言語起源論』などで声や感情の働きを重視し、文字が話し言葉との関係を変えていく問題を考えました。

デリダは、ルソーが声や自然を出発点に据えながら、それを支えるために補助とされたものへ繰り返し頼っている点を読み取ります。ルソーの著作の細部から、原初の状態と後から加わったものを分ける難しさを調べたのです。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

補足は足すことでも補うことでもある

「補足資料」という言葉には、すでにある説明を豊かにする追加の情報という意味があります。同時に、元の説明だけでは足りなかった部分を埋めるものでもあります。追加なのか、不足を補うものなのかという二つの働きが、一つの語に含まれています。

デリダはフランス語の「シュプレマン(supplément)」に注目し、ルソーの文章で補足が「追加」と「代替」の両方の役割を担うことを追いました。自然で完全だとされた起源が、なぜ補足を必要とするのでしょうか。言葉そのものの複数の働きから、思想の前提が問い直されます。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

自然な起源が補足を必要とするとき

話し言葉はすでに意味を完全に伝える方法であり、文字はそれを保存する後からの手段だと仮定してみましょう。文字が意味を長く伝え、話者の不在を補うなら、話し言葉だけでは伝達が届く時間や場所に限りがあったことが見えてきます。

デリダが示すのは、補足が加えられる前の完全な起源という説明が、補足によって初めて維持されているという緊張です。文字を単純に優位へ置き換えるより、声と文字の成立が互いを必要とする仕組みを考えます。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/ジョンズ・ホプキンズ大学出版局|『グラマトロジーについて』英語版の構成)

レヴィ=ストロースの「書くことの授業」を読む

人類学者が記した調査の場面

20世紀のフランスの人類学者レヴィ=ストロースは、ブラジルでの調査経験を『悲しき熱帯』にまとめました。その中には「書くことの授業」と呼ばれる出来事が登場します。文字を使う社会と、異なる伝達方法を持つ人々の接触をめぐる記述です。

デリダは1967年の『グラマトロジーについて』で、この章を丹念に読み、文字の有無を社会の純粋さや支配の出現と結びつける説明を検討しました。人類学の調査記録を読むことが、言語と政治をめぐる哲学的な問いにつながります。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

「文字を持たない社会」という分類

記録を残す方法には、アルファベットや漢字のような表記体系に加え、身振り、結び目、図像、儀礼などさまざまな形があります。ある社会の伝達方法を、欧州的な文字の有無だけで単純に順位づけると、その社会で実際に働く記号の複雑さが見えにくくなります。

デリダは、文字を狭く定義してから「書記を持たない人々」と呼ぶ分類を問い直しました。ここでは現実の民族集団の歴史や言語の多様性についての研究と、デリダによる文章の解釈を分けて理解する必要があります。脱構築は、人類学の対象となった人々を概念のための例に置き換えることも批判の対象にします。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

支配の歴史と記号の問題

レヴィ=ストロースの叙述には、文字の利用と人々の支配の問題が関わります。デリダは、書記そのものを暴力の突然の起源とする説明に疑問を示し、名前を付けて区別し、分類する行為にも権力が関わる点を考えました。

この議論は、植民地支配が生み出した具体的な暴力の歴史を消すものではありません。どの記号を高度とみなし、どの社会を「文字以前」と呼ぶのかという研究者側の分類を問い、知識を作る側の立場も検討する方向へつながります。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

「痕跡」は言葉の中で何を意味するのか

現在の語に残る別の語との関係

「明るい」という語を理解するとき、私たちは「暗い」「薄暗い」「まぶしい」などの語との違いも利用しています。その場に「暗い」と書かれていなくても、意味を区別するための関係は働いています。

デリダがいう「痕跡」は、単純に過去の出来事が残した物理的な跡を指すだけの言葉ではありません。ある記号の意味に、その場には現れていない他の記号との差異が関わっていることを考える概念です。意味は目の前にある一語だけで自足していないという問題がここにあります。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

痕跡は何かの破片なのか

砂浜の足跡は、歩いた人が立ち去った後にも残っています。これは「痕跡」をイメージする身近な例です。デリダの議論がさらに問うのは、そこに現れている語の意味が、もともと一つの完全な意味の破片だと考えられるのかということです。

彼にとって痕跡は、完成した意味から脱落した残り物という説明を超えます。他の語との区別や反復が最初から意味を可能にしている以上、意味の成立そのものに痕跡の関係が含まれます。ある語が語として理解できるための条件を、痕跡という語で考えたのです。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

記号が反復されるから意味が伝わる

手帳に書いた約束は、翌日も読み返せます。昨日の状況と今日の状況が違っていても、同じ印が再び理解の材料になります。何かが繰り返し読めるためには、形の一定の安定が必要です。

同時に、新しい文脈で読むことで別の関係が生まれます。デリダは、この反復可能性と差異を、意味が成り立つ同じ条件の中に見ました。記号が使えることと、その使われ方があらかじめ完全には限定できないことを同時に考えます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード大学公開資料|デリダ「署名・出来事・コンテクスト」)

「差延」は何を表す言葉なのか

フランス語の綴りにある一文字の違い

デリダはフランス語で「差異」を表す différence と、独自の綴り différance を使い分けました。二つは音声上ほぼ区別できず、文字を見ると綴りの違いが現れます。声が意味を直接透明に伝えるという考えに、綴りだけが示す差異を差し込む仕掛けです。

この造語が指すのは、もの同士が異なっているという静的な差異に加え、意味が別の記号との関係へ送り出され、決定が時間の中で延ばされる働きです。見た目の言葉遊びは、文字と音声の関係を自分自身の表現によって問い直す試みでもあります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

意味が別の語へ移っていく

「正義」の意味を説明するために「公正」という語を使えば、今度は公正さの意味を問うことができます。説明を続けると、意味は別の語との関係へ移っていきます。ここで「意味が遅れる」と言うのは、単に辞書の調べ方が遅いということではありません。

デリダの差延は、区別によって意味が現れることと、意味の完全な現前がいつも別の関係へ開かれていることを結びつけます。私たちは実際の場面で説明を理解し、判断できます。その理解を可能にする言語の働きが、一つの最終的な定義へ収まりきらないということです。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

1967年の著作と1968年の講演

差延の発想は1967年の著作群にも関わります。デリダが「差延」を表題に掲げ、フランス哲学会で講演したのは1968年1月27日です。学会の記録には、講演の後に複数の哲学者が討論へ参加したことも記されています。

用語が広まった後の説明を、1967年の三冊にそのまま書き戻すと思想の成立順序が不明瞭になります。1967年のテクストに現れる問題を踏まえ、1968年の講演で綴りと概念の関係が詳しく提示されたという順序で理解できます。(参照:フランス哲学会|1968年1月27日「差延」講演の記録/カリフォルニア大学アーバイン校図書館|デリダ著作・差延講演書誌)

意味の違いと時間の遅れはどうつながるのか

次の一文で前の一文の意味が変わる

物語の冒頭に「彼は帰ってこなかった」と書かれているとします。読者は死亡、失踪、別離などを想像するでしょう。数ページ後に「翌朝、約束どおり現れた」と続けば、最初の一文の受け取り方は変わります。

この例では意味が文脈を通じて成立し、読む時間の経過によって理解が組み替わります。差延を身近に考えるには、関係の違いと、読む前後の時間を一緒に見るとよいでしょう。デリダの議論は、こうした経験を言語一般の条件へ問い直します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

現在の意識だけで完結するか

私たちは「今この瞬間に言葉の意味がわかった」と感じることがあります。そのときに理解した言葉は、以前覚えた語や、これから続く話の予測と結びついています。現在の理解の中に過去と将来への関係が働いています。

デリダは、意味が現在に完全な姿で現れるという考えを、時間の構造から検討しました。意味がわかる経験そのものを否定するのではありません。その経験を成り立たせる記憶と予期が、意味をひとつの純粋な現在に閉じ込めにくくしているのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール)

決定できる場面と開かれた可能性

交通標識の「止まれ」を見た運転者は、その意味を理解して停止できます。社会の規則に支えられた判断は実際に機能しています。規則の説明をさらに進めると、「停止とはどの程度の速さか」「どこが交差点の直前か」など、新しい条件を考えることがあります。

判断が可能であることと、どんな状況でも新たな問いが生じないことは別です。差延は、決定した意味を無効にする合図というより、決定がどんな関係と条件によって成り立つのかを忘れずに考える視点です。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

「原エクリチュール」は単なる文字のことなのか

紙とインク以前の問題

デリダが使う「エクリチュール」は、日常の意味では書くことや文字を指します。彼はさらに、痕跡、差異、反復によって記号が働く条件を考えるために、この語を広い意味へ押し広げました。「原エクリチュール」と呼ばれる発想です。

原エクリチュールは、世界の初めに文字が発明されたという歴史上の仮説ではありません。発話にも記録にも共通する、記号が別の場面で意味を持ちうる条件を考える概念です。印刷技術の歴史と、意味の哲学を区別すると、この言葉の役割が見えてきます。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次)

声にも繰り返しの構造がある

誰かの声で聞いた「ありがとう」は、別の人が同じ語を使っても理解できます。声色や話す速さが変わっても、聞き手は社会の中で学んだ語の形を手がかりにします。発話は一回の出来事ですが、言葉は繰り返し使えるという性質を持っています。

原エクリチュールの議論では、この反復可能な差異の体系が重視されます。声が生きた意味で文字が死んだ写しだという序列を越え、両方を可能にする条件を考えるのです。これは音声学や書記学の具体的な区分を消す主張とは異なります。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

外側と内側という区別も問いになる

文字が、内側にある思考を外へ写す手段だと考えると、まず完全な思考が心にあり、その後に表現が加わることになります。実際には、考えを文章にする途中で新しい言い方を発見し、初めの意図が変わることもあります。

デリダの問いは、思考の内側と表現の外側を完全に切り離せるかという問題へ及びます。言葉を選ぶ作業が思考を形づくることから、意味が生まれる過程と表現の働きを切り離さずに考える道が開かれます。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

フッサールの現象学と「声と現象」

フッサールが求めた意味の確実さ

19世紀末から20世紀前半にドイツで活動したフッサールは、意識が何かを意味する仕組みを、経験の現れ方から考えようとしました。『論理学研究』(1900–01年)では、意味の表現と、何かの存在を知らせる徴候との関係を詳しく論じています。

例えば「窓が開いている」という文は、窓の状態についての意味を伝えます。窓の隙間から入る風は、その状態を知らせる徴候になるでしょう。フッサールが検討したのは、こうした言葉による意味の表現と、何かを知らせるしるしの関係です。デリダはその区別を原著に沿って読み直しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

「表現」と「指標」を分けられるか

フッサールが論じた表現と指標の区別では、何かを伝える言葉の意味と、別のものの存在を知らせる働きを分けて考えます。デリダは、表現が純粋な意味だけから成立していると考えると、なぜ同じ言葉が異なる状況で使えるのかを説明しにくくなると指摘しました。

誰もいない部屋で自分に向かって「ここにある」とつぶやくときにも、その語は自分だけの秘密の印ではありません。他者と共有する言語の形式に依存します。意味が成立するために、記号としての働きをどこまで取り除けるのかという問いが生じます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール)

1967年の『声と現象』が扱う焦点

『声と現象』は、1967年にフランス大学出版局から刊行され、フッサールの記号論に関する研究として位置づけられています。デリダは、意味する意識が自分の声を聞くという経験に注目し、その経験を純粋な自己への接近と考えることの難しさを分析しました。

この本は『グラマトロジーについて』と同じ年に公刊されました。前者では現象学の理論に集中し、後者では言語学とルソーの文章を広く扱います。異なるテクストを読みながら、意味が完全に現在の意識へ一致するという前提を検討する点で両者は結びついています。(参照:フランス国立図書館|『声と現象』1967年版書誌/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

私たちは自分の声を完全に理解しているのか

自分に話すときの不思議さ

声に出さず頭の中で「明日は早く起きよう」と考えると、自分の意味がそのまま自分に伝わっているように感じられます。他人に誤解される心配もなく、話し手と聞き手が一人の人間に重なります。

デリダは、このように自分が自分に語る経験を、意味の透明さを保証する特権的な場とみなせるかを問いました。自分の言葉も以前に覚えた語から成り、別の時にも使えるものです。思考のただ中でも、繰り返しと時間の関係が働いています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

現在の声には時間が入り込む

一つの文を話し終えるには時間が必要です。文の終わりを理解するときには、すでに発せられた語を記憶し、次の語を予期しています。現在の経験の中に、過ぎたものとこれから来るものが入り込んでいるのです。

現象学はこうした時間の経験を詳しく調べてきました。デリダは、自己意識が自分に完全に重なるという考えが、この時間的な隔たりによって揺らぐと考えました。ここでも、現在に現れる意味を可能にするものが、現在の外との関係である点が重要です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール)

現象学の内部から生まれた批判

デリダの議論は、外から現象学を誤りと断定する方法ではありません。フッサールの意味論と時間論を詳しく読むことで、現象学が求める純粋な経験の内部に、記号と差異の働きがどのように入り込むかを示そうとしました。

後の研究には、デリダがフッサールの表現概念を過度に一面化しているとする批判もあります。どのテクストのどの概念をどう読んだかが争点であり、思想の優劣を簡単に決められる論争ではありません。脱構築そのものも、原典の読解として検証され続けています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール)

「現前」の哲学をなぜ問い直すのか

目の前にあることと確かなこと

自分の前の机に一冊の本があれば、表紙や厚さをすぐに確かめられます。離れた場所にある本については、写真や説明文を頼りに理解します。目の前に対象があることは、経験に一種の確かさを与えます。

デリダが問題にした「現前の形而上学」とは、目の前に直接現れているものを意味や真理の最も確かな基礎とし、不在や媒介を二次的なものに置く思想上の傾向です。彼はその区別がどのような仕組みで支えられるのかを歴史的な哲学書から調べました。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

現前を支える記憶と予期

本を開いて読むとき、目に入るのは一度に限られた数行です。内容を理解するには、前に読んだ箇所を記憶し、次のページへの期待を持ちます。作品が現在の経験として成り立つために、現在にない部分が働いています。

この身近な例から、意味は一瞬の完全な現れだけで説明できるのかという問いを考えられます。デリダは現前という概念を廃止するより、現前が不在や差異との関係によって可能になっていることを示そうとしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード哲学百科事典|エトムント・フッサール)

真理を求める営みはどう変わるか

証拠に基づいて真偽を判断する仕事は、科学や歴史研究でも不可欠です。デリダの批判は、そうした判断を無意味にするために行われたわけではありません。哲学が、意味を保証する最終的な起源をどこに置くかを問い続けました。

真理を論じるとき、自分の判断を支える言語や前提を同時に調べる必要があります。発言が「直接そのまま伝わる」ことを出発点にせず、そこに介在する記号、歴史、時間を見えるようにするのが、この批判の要点です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

ニーチェとハイデガーから受け継いだ問い

ニーチェによる真理と言葉への疑問

19世紀後半のドイツで活動したフリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)は、道徳の価値や真理の捉え方が歴史の中でどう作られたかを考えた哲学者です。比喩や解釈への関心も、後の哲学者たちに強い影響を与えました。

デリダは、真理が一つの透明な言葉でただ示されるという考えを、ニーチェの問題意識と結びつけました。哲学の文章に使われる比喩や表現を、その主張と切り離さずに読む態度もここから理解できます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

ハイデガーの哲学史への問い

ハイデガーは1927年の『存在と時間』などで、哲学が長い歴史の中で当然としてきた存在理解を問い直しました。古典的な概念がどのように受け継がれたのかを遡り、哲学の伝統を読み直す方法を展開しています。

デリダの「脱構築」は、こうしたハイデガーの思想史を問い直す仕事と深くつながります。受け継いだ概念を使わずに過去の哲学を批判することは難しく、古い概念の内部から新しい問題を引き出すという方法が生まれました。両者の思想は同一ではなく、デリダはハイデガーの議論にも問いを向けています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

過去の哲学を読む方法の変化

哲学史を学ぶとき、プラトンは何を主張し、デカルトが何を変えたかを整理することがあります。デリダはそれに加え、それぞれの概念が何を当然の前提とし、どの表現を低く扱ったかを考えました。

思想を年代順に並べる研究と、ある概念の内部に潜む緊張を読む研究は、互いに関係します。脱構築は、過去の哲学を古い間違いとして退けるのでなく、現在の私たちの思考に残る条件として読み続ける姿勢を示しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

『エクリチュールと差異』では何が論じられたのか

複数の批評を収めた1967年の論集

『エクリチュールと差異』は1967年にスイユ社から刊行された論文集です。1960年代前半からの論考が集められ、哲学者や作家への精密な読解が並びます。『グラマトロジーについて』と並行して読むと、デリダの問題意識が言語学だけに限られていなかったことがわかります。

この論集にはフーコー、レヴィナスへの批評のほか、精神分析や演劇、文学表現をめぐる文章も収められています。個々の論争は異なる歴史的事情を持ちながら、ある概念の周囲へ追いやられたものが中心の説明を揺さぶるという方法で結びついています。(参照:フランス国立図書館|『エクリチュールと差異』1967年版書誌/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

フーコーと狂気をめぐる論争

フランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926–1984)は、1961年の『狂気の歴史』で、社会が狂気をどのように分類し、扱ってきたかを歴史的に調べました。デリダは1963年の論考で、フーコーによるデカルト解釈に異議を唱えました。

争点の一つは、理性の言葉で狂気の歴史を記述するとき、理性の外側をどこまで語れるかという問題です。この論争は、社会制度についての歴史研究と、哲学書の文章を解釈する仕事が接する場所で起きました。両者の異論は後年にも続きます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/フランス国立図書館|『エクリチュールと差異』1967年版書誌)

レヴィナスの「他者」との出会い

フランスで活動した哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906–1995)は、人間が他者と出会うときの倫理的な責任を重視しました。デリダは1964年の「暴力と形而上学」でその思想を詳しく論じ、他者を理解するための言語そのものが哲学の伝統に属している点を問題にします。

他者の異質さを尊重しようとするとき、私たちは自分の言語でその人について語ります。理解することと、理解の枠へ相手を押し込めてしまう危険はどう関わるのでしょうか。デリダはレヴィナスに共感しながら、他者を語る言葉の条件を検討したのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/フランス国立図書館|『エクリチュールと差異』1967年版書誌)

対立する二つの言葉から何が見えるのか

近親婚の禁止が示す自然と文化の問題

レヴィ=ストロースは、近親婚の禁止が広く人間社会に見られることに注目しました。ある社会で誰と結婚できるかという規則は文化的に定められます。その禁止が広く見られるという点では、人間に共通する条件にも見えます。自然と文化を区別する理論は、ここで難問に出会います。

デリダは1966年の講演で、この問題を構造主義の重要な緊張として取り上げました。規則である以上文化の側に置かれ、普遍性を持つと考えれば自然の側にも関わります。その両方の性質を持つ事例を、もとの二分法でどう説明するのか。脱構築は、概念の境界が揺らぐ具体的な場面から始まります。(参照:デリダ「構造・記号・遊戯」|1966年講演の掲載文献/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

中心と周辺をどう考えるか

ある物語で主人公だけに注目すると、脇役の登場する場面が単なる背景のように感じられます。けれども脇役が主人公の決断を引き起こしているなら、その人物の働きを周辺的なものとして済ませることはできません。

これは脱構築を考えるための現代的な類比です。実際のデリダは哲学書の概念を精査し、周辺とされた項目が中心の成立条件になっている箇所を探ります。単に目立たない対象を褒めることとは異なる、論証の関係を調べる仕事です。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

「内」と「外」の関係が揺らぐ

学校の校則が、校内での行動だけを決めるものだと考えてみましょう。登下校や制服の着用など、学校の外での生活まで規定する場合があります。内側の規則は、その外側との境界をどう定めるかを通して機能しています。

デリダの文章では、外側に置かれたものが内側を支えるという構造が繰り返し分析されます。境界をなくせば問題が終わるのではなく、境界を定める過程でどんな排除と依存が生まれたかを読まなければなりません。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

脱構築の読解はどのように進むのか

第一歩は原文に書かれた主張を正確につかむ

ある文章が「話し言葉は自然で、文字は後から加えた記号だ」と述べているなら、まずその区別がどこで、どの理由によって示されるのかを確かめます。自分の好みを先に持ち込んで、文章が言っていない主張を帰してはいけません。

デリダの読解は原文の語の選択、引用、反復、言い換えを詳しく調べるところから始まります。表面の結論だけを抜き出すより、論証がどの順序で組み立てられ、何を必要としているかを知ることが重要です。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次)

第二歩は文章の内部の緊張を見つける

先の文章が別の箇所で、「言葉は人が不在でも意味を保存できる」と説明しているとします。すると、意味の成立に人の現前が不可欠だという主張と、記号が人の不在でも働くという説明との関係を問えます。

矛盾らしい部分を見つけただけで、思想全体が崩れたと宣言するわけではありません。二つの記述がどんな文脈で現れ、どこまで同じ問題について語っているかを照合します。読解によって区別そのものの働きを明らかにすることが必要です。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

第三歩は概念の関係を組み替える

声と文字を対立させてきた文章を読んだ結果、両方に反復可能な記号の働きがあるとわかったなら、もとの序列を維持する理由を考え直せます。そこで新しい概念や問いが必要になる場合があります。

脱構築は、批判対象の外側から別の完成した体系を宣言するより、文章の内側で変化を起こす方法です。読者も根拠となる原文へ戻り、解釈がどこまで支えられているかを検証できます。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

読む人の自由にはどんな根拠が必要なのか

解釈が異なるとき何を比較するか

同じ詩を二人が読み、ある人は希望、別の人は失望を感じたとします。感想にはそれぞれの経験が関わります。解釈を作品の分析として示すなら、どの語の反復、どの行の配置、どの比喩がそう読める根拠になるのかを説明する必要があります。

デリダの読解も、本文の具体的な言葉を離れて勝手に意味を加えるものではありません。語の使われた歴史や議論の順序を追う細かな仕事に依拠します。多様な解釈の可能性と、どんな読解も証拠によって評価されるという条件は両立します。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

著者の説明はどんな資料になるか

哲学者本人が自作の狙いをインタビューで述べているなら、それは成立事情を知る貴重な記録です。ほかの著作や草稿と比較することで、考えがどう変化したかも調べられます。

その発言もある時点の言葉として読み取られ、過去に書かれた文章と照合されます。著者の説明を資料として尊重することと、それを最終的な解釈の裁判官として扱うことは区別できます。脱構築は、説明する権威がどこにあるかという問題を開きました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/スタンフォード大学公開資料|デリダ「署名・出来事・コンテクスト」)

言葉が変化しても討論はできる

ある法令の語句について異なる解釈が出れば、前後の条文、制定時の資料、裁判例などを調べます。どの解釈が妥当かを議論する仕事は、言語が歴史や文脈を持つからこそ必要になります。

こうした現代的な例は、デリダの特定の法解釈ではありません。意味を一度決めたら永遠に検討不要とする代わりに、その判断がどの条件で成立したかを示せることが大切です。読み直す可能性は議論の放棄ではなく、議論の継続を支えます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

バルトとデリダはどこで重なり、どこが違うのか

作者の意図をめぐる問い

同じ1967年、フランスの批評家ロラン・バルト(1915–1980)は論考「作者の死」を英語で初めて発表しました。彼は作品の意味を作者の生涯や意図へ集約する批評を問い直し、文章を作る多様な文化の声と読者の働きに目を向けました。

デリダも意味の確かな出発点を一人の意識へ置く考えに疑問を向けました。二人の議論が重なるのは、意味を発信者の内面から一方向に流れるものと理解する方法への批判です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

バルトのテクスト論と脱構築の焦点

バルトは文学作品を読む営みの中で、作者を最終的な権威としない可能性を考えました。デリダはさらに、現前、言語記号、時間、形而上学の概念を、哲学書の読解から問い直します。

似た言葉で紹介されることがあっても、二人がまったく同じ理論を述べたわけではありません。バルトの文学批評とデリダの哲学史への介入には重なりと違いがあります。1960年代のフランスには、複数の思想家がそれぞれの資料と方法で意味の問題を考えた歴史がありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

読者にとっての問い

小説を読んで「作者が何を言いたかったか」を考えることには価値があります。同時に、作者の説明から外れる比喩や、作品が異なる時代にどう読まれたかも調べられます。

バルトとデリダをあわせて読むと、作品の意味を一つの源泉から取り出す考え方に疑問が生まれます。読む人が自由に意味を発明するかどうかという単純な二択を越え、言語と文脈がどのように解釈を可能にするかを考えることができます。(参照:インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

脱構築はどのように世界へ広まったのか

英語圏での翻訳と大学での議論

1966年のアメリカでの講演の後、デリダの著作は英語圏でも読まれるようになりました。『グラマトロジーについて』のガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクによる英訳は1976年に刊行され、フランス語の哲学を英語で学ぶ研究者の重要な出発点になりました。

翻訳は単なる文章の移し替えにとどまりません。語の選び方や注釈を通じて、新しい読者が議論へ参加する条件を作ります。デリダの意味論を広めた翻訳そのものが、言葉が別の文脈で理解されることを示す歴史的な出来事でした。(参照:ジョンズ・ホプキンズ大学出版局|『グラマトロジーについて』英語版の構成/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

文学理論とイェール大学での受容

1970年代以降のアメリカでは、イェール大学の研究者たちが文学作品の比喩や修辞を精密に読む方法を発展させました。ポール・ド・マン(1919–1983)やJ・ヒリス・ミラー(1928–2021)らは、デリダと関わりながら、文章の働きを問い直す批評を広めました。

後に「イェール学派」と呼ばれた人々の間でも、読み方や関心は一様ではありません。文学作品の細部に現れる意味のずれを考える実践が、哲学の専門領域を越えて展開したことが重要です。(参照:イェール大学公開講義|脱構築の理解と批評史/シカゴ大学出版局|グレゴリー・ジョーンズ=カッツ『脱構築』研究)

スピヴァクが広げた批判の対象

インド出身でアメリカで活動する文学研究者ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(1942年生)は、デリダの主要著作の翻訳と批評を通じて、言語、植民地主義、女性の表象をめぐる問題を検討してきました。

西洋の哲学概念を読み直す仕事は、誰が知識を作り、誰の声が記録されるのかという政治的な問題にもつながります。デリダの思想が別の地域や学問で使われるとき、原著の文脈と、後継者が取り組んだ問題を区別してたどることが必要です。(参照:シカゴ大学出版局|脱構築とフェミニズムの受容史/ジョンズ・ホプキンズ大学出版局|『グラマトロジーについて』英語版の構成)

脱構築をめぐってどのような批判があったのか

ソシュールをどこまで正確に読んだか

デリダの議論では、ソシュールが音声を優位に置いているという批判が重要な役割を持ちます。後の研究者は、ソシュールの原著が音声と文字をどのように区別し、どんな場合に記号の意味を論じているかを再検討してきました。

イギリスで研究するラッセル・デイライトは2011年の研究書『もしデリダがソシュールを読み違えていたら』で、デリダがソシュールの言語的価値の理論をどう扱ったかを検討しました。脱構築が示した問題の大きさと、個別の原典をどこまで公正に読んだかという判断は分けて考えられます。思想の評価には、批判対象の言葉を正確に確かめることが必要です。(参照:エディンバラ大学出版局|デリダのソシュール解釈を再検討する研究/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

ジョン・サールとの言語哲学の論争

アメリカの哲学者ジョン・サール(1932–2025)は、発話が約束や命令などの行為になる仕組みを研究し、イギリスの哲学者J・L・オースティン(1911–1960)の言語行為論を発展させました。デリダは1971年の講演をもとに1972年に公刊した「署名・出来事・コンテクスト」で、発話や記号が別の場面で反復される条件を論じました。

サールは1977年、デリダのオースティン解釈を批判しました。二人の論争は、話者の意図、約束を成立させる慣習、引用によって発言が別の文脈に移る可能性などをめぐって続きました。相手の議論を何と理解するか自体が争点になった、解釈と論証の難しさを示す事例です。(参照:フォーダム大学出版局|1977年のデリダとサールの論争研究/スタンフォード大学公開資料|デリダ「署名・出来事・コンテクスト」)

難解さと読解の責任

デリダの文章は、一つの語に複数の意味を響かせ、引用と注釈を重ねて進みます。そのため、説明が難解で評価の基準を共有しにくいという批判が繰り返されてきました。

論争を検討するには、どの著作の何を批判しているのかを確かめ、議論を単なる好悪から区別する必要があります。脱構築の実践が説得力を持つかどうかは、原文の具体的な根拠、対立する解釈への応答、新たに明らかにした問題によって判断されます。(参照:イェール大学公開講義|脱構築をめぐる批判と研究史/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

脱構築は後年どのような問いへ広がったのか

責任と他者の問題

デリダは1970年代以降も、文学や哲学の文章を読み続けました。後年には正義、歓待、贈与、約束、責任など、他者との関係をめぐる問いを深めていきます。これは初期の言語の分析から突然切り離された活動ではありません。

例えば他者を迎え入れるとき、条件を設けることは秩序を守る助けになります。同時に、その条件によって迎え入れられない人も生まれます。デリダは、こうした概念の内側で両立を求められる要求を検討しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

哲学の文章が社会制度を考える材料になる

ある規則が誰を対象にし、誰を対象の外へ置いているのかを読むことは、法や教育などの制度の仕組みを知る手がかりになります。デリダの後期の仕事では、正義と法律の関係、条件付きの歓待と無条件の歓待をめぐる問題が論じられました。

概念の境界を問い直すことは、すぐに制度の具体的な解決策を与えることとは異なります。どんな価値の衝突があり、決定の際に何が取り残されるかを明確にすることで、政治と倫理の議論に新しい問いが加えられました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

芸術と建築への接点

脱構築の影響は文学だけでなく、美術批評や建築理論にも広がりました。言葉や形の中心を固定せず、要素の関係を組み替える発想が、作品を読むための視点として用いられてきました。

個々の建築家や美術家がデリダを実際に読んで制作に用いたか、後の批評が作品を脱構築として解釈したかは、それぞれ資料で確かめる必要があります。哲学上の概念と造形上の技法を同じものとするより、影響の経路を具体的にたどることが重要です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

言葉の意味は、どこまで決めることができるのか

日常の理解は差異によって成り立つ

「約束」「希望」「責任」といった語は、私たちが日常の中で使い、他者と理解を共有している言葉です。使うときには、似た語との差異、これまでの経験、相手との関係を手がかりにしています。そのため、意味はいつも一語の内部だけで完成しているわけではありません。

デリダが1967年に示したのは、この関係を言語と思想の成立条件として考える方法でした。意味を共有することは実際に可能です。共有された意味が何によって支えられ、どの条件で別の理解へ開かれるのかを問い続けることが、哲学の仕事になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

意味を決めるという行為にも歴史がある

法律の用語や専門分野の定義は、人々が議論し、合意や規則を通じて定めてきたものです。その定義を使う際にも、新たな事例に出会うことで解釈が必要になることがあります。言葉を定める行為そのものが、歴史と制度の中で行われています。

脱構築は、定義の働きを弱めることだけを目的としません。定義を成り立たせる概念の区別、その優劣、境界の外に置かれたものを検討し、現在の判断がどのような前提に依存しているかを問うのです。(参照:ミニュイ社|デリダ『グラマトロジーについて』原著・目次/スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ)

タイトルの問いへのデリダの答え

「言葉には一つの決まった意味があるのか」という問いに、デリダは、意味は他の語との差異、過去から受け継いだ記号、使用される文脈、反復される時間の中で成立すると答える方向を示しました。一つの場面で意味を判断することと、意味を永遠に閉じることは異なる営みです。

デリダの思考は、意味の多様さを宣言して終わりません。なぜ同じ言葉を互いに理解できるのか、なぜ新しい場面では別の読みが可能になるのかを、言語の働きそのものから考えました。意味を決めるために使う言葉も歴史的な関係の中にあるという発見が、脱構築の問いを今へつないでいます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャック・デリダ/インターネット哲学百科事典|ジャック・デリダと脱構築)

略年表|デリダと脱構築の形成

  • 1712年|ジャン=ジャック・ルソーがジュネーヴに生まれる
  • 1762年|ルソー『エミール』刊行。教育と言語の問題を論じる
  • 1844年|フリードリヒ・ニーチェが生まれる
  • 1857年|フェルディナン・ド・ソシュール生誕
  • 1859年|エトムント・フッサール生誕
  • 1900–1901年|フッサール『論理学研究』刊行
  • 1913年|ソシュール死去
  • 1916年|ソシュール『一般言語学講義』が教え子らの編集により刊行される
  • 1927年|ハイデガー『存在と時間』刊行
  • 1930年|ジャック・デリダがフランス統治下のアルジェリアで生まれる
  • 1940–1942年|ヴィシー政権の反ユダヤ政策がデリダの学校教育にも影響する
  • 1949年|デリダがパリへ移り、高等師範学校の入学準備を始める
  • 1952年|デリダが高等師範学校に入学する
  • 1955年|レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』刊行
  • 1961年|フーコー『狂気の歴史』刊行
  • 1962年|デリダによるフッサール『幾何学の起源』フランス語訳と序論が刊行される
  • 1962年|アルジェリアがフランスから独立する
  • 1963年|デリダ「コギトと狂気の歴史」発表
  • 1964年|デリダ「暴力と形而上学」発表
  • 1965–1966年|『グラマトロジーについて』に関わる論考が雑誌に発表される
  • 1966年10月21日|デリダがジョンズ・ホプキンズ大学で「構造・記号・遊戯」を講演する
  • 1967年|『グラマトロジーについて』がミニュイ社から刊行される
  • 1967年|『声と現象』がフランス大学出版局から刊行される
  • 1967年|『エクリチュールと差異』がスイユ社から刊行される
  • 1968年1月27日|デリダがフランス哲学会で「差延」を講演する
  • 1972年|『哲学の余白』などの著作で言語と哲学の研究を続ける
  • 1976年|スピヴァク訳『グラマトロジーについて』英語版刊行
  • 1977年|デリダとサールの言語行為論をめぐる論争が英語圏で展開する
  • 2004年|デリダ死去

まとめ|言葉の意味と脱構築

1967年、デリダは『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』を通じて、意味はどのように成立するのかという問いを、哲学書の言葉そのものから掘り下げました。ソシュールの差異の考え、フッサールの意識と記号の区別、ルソーの声と文字の関係を詳しく読み、それぞれの議論が中心に置いたものと、周辺へ追いやったものの依存関係を示そうとしました。

話し言葉は生きた意味で文字はその写しだという説明は、繰り返し使える記号の働きを考えると揺らぎます。ルソーの「補足」は、完成しているはずの起源を支える追加のものを必要とし、差延は、言葉の区別と意味が時間の中で開かれる働きを結びつけます。脱構築は、こうした関係を原著の言い回しや論証から確かめ、概念の序列を問い直す読解として展開しました。

言葉には、ある文脈で判断し共有できる意味があります。その理解は、ほかの言葉との差異、歴史の中での使われ方、読む時間、記号の反復可能性によって成り立っています。だからこそ意味は新しい文脈で検討し直せます。「言葉の意味は一つに決まるのか」という問いへのデリダの答えは、意味を支える関係そのものを読み、決定と読み直しの双方に責任を持つことへ向かっています。

参考資料・出典