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Philosophy

1964

【美術と哲学】スーパーの商品と美術館の作品は何が違うのか

ウォーホルとダントー

1964年のニューヨークでは、スーパーマーケットの棚に缶詰や洗剤が並び、テレビでは商品の色や形を強調した広告が繰り返し流れていました。大量生産された商品には共通の包装があり、どの店でも同じ名前と図柄によって買う人に見分けてもらえます。こうした消費生活が広がる都市には、画廊や美術館、批評家、コレクターが集まり、新しい美術を発表し、評価する仕組みも発達していました。

アメリカ社会は変化のさなかにありました。1964年7月には公民権法が成立し、法律はホテルや飲食店などの公共的な場での人種隔離を禁じ、雇用上の差別を禁止しました。公共空間を誰が利用できるのかをめぐる争いが続く同じ年、ニューヨークの美術界では、美術の領域にどのような物が入るのかが新たに問い直されていました。社会制度の改革と美術の議論は別々の経緯を持ちながら、当時の都市の複雑な現実を形づくっていました。

アンディ・ウォーホル(1928–1987)は、商業デザインの仕事を経て、美術の題材に缶詰、広告、映画スターの写真などを選ぶようになったアメリカの美術家です。1964年、彼はスーパーで見慣れた「ブリロ」という洗剤の輸送用段ボール箱を、木製の箱に絵の具とシルクスクリーンで再現して画廊に積み上げました。倉庫とよく似た光景を前にして、観客は、ここに並ぶ箱をどのように見ればよいのか考えることになりました。

この展示に強く刺激されたのが、ニューヨークで活動する哲学者アーサー・C・ダントー(1924–2013)です。商品と芸術作品がほとんど同じ姿をしているとき、何が二つを分けるのでしょうか。木と段ボールの材料差、画廊という展示場所、作者の名前、美術史の知識のうち、どれが必要なのでしょうか。ダントーは1964年の論文「アートワールド」で、この素朴な疑問を、芸術そのものの成り立ちを考える哲学の問題へ発展させました。

CONTENTS

  1. 1964年のニューヨークでは芸術と商品がどう出会ったのか
  2. 絵画には何が求められていたのか
  3. ウォーホルはなぜ商品を描くようになったのか
  4. ポップアートは何を美術に持ち込んだのか
  5. デュシャンの《泉》は何を先取りしていたのか
  6. ラウシェンバーグの《ベッド》は何を変えたのか
  7. ジャスパー・ジョーンズの《旗》は何を示したのか
  8. 1964年のステイブル画廊には何が並んだのか
  9. 《ブリロ・ボックス》はどのように作られたのか
  10. 商品と作品はどこまで似ているのか
  11. アーサー・ダントーはなぜこの問題を考えたのか
  12. 「アートワールド」とはどういう考え方なのか
  13. 「芸術の模倣」という説明はなぜ不十分になったのか
  14. 外見から見分けられない二つの作品とは
  15. ダントーのいう「芸術的同定」とは何か
  16. 「ただの物」と思う鑑賞者は何を見落とすのか
  17. 美術史を知ることがなぜ必要なのか
  18. 《ブリロ・ボックス》は何を意味する作品なのか
  19. 美術館へ運べば商品は芸術になるのか
  20. ダントーとジョージ・ディッキーは同じことを考えたのか
  21. そっくりな二つの物を比べる方法にはどんな批判があるのか
  22. ダントーの考えはその後どのように変わったのか
  23. 同じ作品を何個も制作すると何が変わるのか
  24. 作品の値段は芸術としての価値を決めるのか
  25. 後世の美術でも同じ問いが続くのか
  26. スーパーの商品と美術館の作品は何が違うのか
  27. 略年表|ウォーホルと芸術の定義をめぐる歴史
  28. まとめ|スーパーの商品と美術館の作品は何が違うのか
  29. 参考資料・出典

1964年のニューヨークでは芸術と商品がどう出会ったのか

日常の買い物を形づくる包装と広告

商品が棚に整然と並ぶスーパーマーケットでは、客は一つひとつの中身を開けずに、外側のブランド名、色、図柄で品物を選びます。食料品や洗剤の箱は、運びやすく積みやすい形をもち、印刷された面が離れた場所からでも商品を区別する手がかりになっていました。実物を思い出すだけで、どの店にもありそうな光景が浮かぶのは、同じ包装が大量に流通しているためです。

広告と陳列の仕事には、文字を読みやすくし、商品の特徴を短時間で伝える造形上の工夫があります。1960年代のポップアートは、その視覚文化を素材に選びました。ウォーホルにとって、ありふれた箱のデザインは、美術とは別の世界に閉じた図柄ではなく、人々が毎日目にしている強い視覚的な形式だったのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|アンディ・ウォーホルとポップアート)

画廊で作品が「見られるもの」になる仕組み

マンハッタンの画廊では、作家が制作した作品を選んで展示し、批評家や観客が訪れ、購入を考える人が画商と交渉しました。画廊は商品を販売する場所でもありながら、ここで提示されたものを絵画や彫刻として論じるための場でした。展示の仕方、作品の題名、作家の過去の活動が、鑑賞者の見方に関わります。

1964年のウォーホル展を訪れた観客が、売り場と似た箱の山を見て戸惑ったのは、この二つの場所で求められる行動が違うからです。スーパーでは箱に入った品物を買うために手を伸ばし、画廊では箱を眺めて作品として語り、値段を尋ねます。似た外観の物が異なる場に置かれる経験が、芸術の意味を考える入口となりました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

美術の議論が広がる1964年の社会

当時のアメリカは、人種差別をめぐる激しい対立と制度改革の時期でもありました。1964年7月2日にはリンドン・ジョンソン大統領が公民権法に署名し、ホテル、飲食店、劇場などの利用に関する差別の禁止や、学校と雇用に関する規定が整備されました。誰が公共の場へ入れるのかという問題は、法と社会運動の具体的な争点でした。

同じ時期の美術界でも、若い作家の活動が画廊、雑誌、美術館を通して可視化されていました。芸術の境界をめぐる議論を、社会全体の変化から直接説明し尽くすことはできません。それぞれの制度がどのように人々の行動と評価に関わるのかを知ると、画廊で箱を見るという小さな事件が当時の文化の中で起こったこともわかります。(参照:米国国立公文書館|1964年公民権法)

絵画には何が求められていたのか

抽象表現主義が築いた戦後ニューヨークの美術

第二次世界大戦後のニューヨークでは、ジャクソン・ポロック(1912–1956)やウィレム・デ・クーニング(1904–1997)らが、筆致や絵の具の動き、画面そのものの構成を重視する抽象絵画を発展させました。大きなキャンバスに向き合う作家の身体的な働きと、完成した画面の独自性が、美術批評の主要な話題になります。

この流れを評価した批評家の一人が、アメリカのクレメント・グリーンバーグ(1909–1994)です。彼は絵画の平面性や、絵画という媒体に固有の条件を考えました。美術が何であるかを問う議論は、ウォーホル以前から進められており、1960年代には複数の答えが競い合っていました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|1950年以降の美術とグリーンバーグの批評)

画面の構造から美術を考えることの意味

キャンバスの平らな表面にどんな絵の具を置けば絵画になるのか。抽象絵画に注目した批評は、対象の再現よりも、表面、色彩、形の関係から作品を理解しようとしました。人物や風景を正確に描く技術だけで美術の価値を決める考え方とは、評価の基準が変わっています。

ウォーホルの箱は、こうした絵画中心の議論に別の角度から入ってきました。平面の画面を構成する代わりに、すでに町に存在する包装の外観を立体物として繰り返したからです。その登場によって、絵画の性質だけでなく、商品と作品を分ける説明の仕方が哲学上の焦点となりました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

ポップアートが与えた別の視覚経験

1960年代前半、アメリカのポップアートでは、ロイ・リキテンスタイン(1923–1997)が漫画のコマを大きな絵画へ変え、ウォーホルが缶詰のラベルや著名人の写真を用いました。漫画、広告、映画、新聞といった大量に複製される像が、美術館で見る大きな画面へ入ってきたのです。

ダントーの原論文もリキテンスタインに言及し、漫画の画像が巨大な絵画になるとき、作品の大きさそのものが意味をもつと論じています。印刷された漫画のコマと、その像を拡大した絵画を写真で比べるだけでは、作品の規模と、それを見る身体の経験を十分に比べられません。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

ウォーホルはなぜ商品を描くようになったのか

商業イラストレーターから画廊の作家へ

ウォーホルはピッツバーグに生まれ、ニューヨークで商業イラストレーターとして成功した後、1960年代初めに商品や大衆文化を題材とする絵画を発表しました。百貨店の広告や印刷物を扱う仕事の経験を通して、商品の外観を人々に強く印象づける図柄や反復の方法を知っていました。彼はその経験を、美術作品をつくる際にも活用しています。

消費生活を扱う作家が必ず消費社会を批判するとは限りません。ウォーホルの作品には、商品に向けられた親しみ、反復のユーモア、広告と美術の境界への好奇心が重なっています。作家が何を考えていたかを探るには、作品の形と、当時の展示の状況をともに確かめる必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|アンディ・ウォーホルとポップアート)

1962年のスープ缶が開いた道

1962年7月、ウォーホルはロサンゼルスのフェラス画廊で《キャンベル・スープ缶》を発表しました。ニューヨーク近代美術館が所蔵する一連の作品は、各50.8×40.6センチメートルのキャンバス32枚からなり、当時販売されていたスープの種類に対応するラベルを描いています。画面は整えられ、店の棚に並ぶ商品を見るように鑑賞できました。

32枚は現在の印刷物をそのまま貼り込んだ作品として誤解されることがあります。所蔵館の解説によれば、缶の形と文字は投影機を利用して輪郭を取り、塗り分けや一部の模様を手作業で仕上げています。機械的な統一感を、手による絵画で実現したところに制作の工夫がありました。(参照:ニューヨーク近代美術館|《キャンベル・スープ缶》(1962))

缶の「肖像画」が問いかけたこと

一枚のスープ缶の絵を見れば、描かれたのが食品の容器であるとすぐにわかります。それを32枚並べると、普段は店頭で通り過ぎる図柄が、繰り返し見る対象へ変わります。同じ形を見せることで、商品の違いと均一さが同時に表れるのです。ウォーホルはこれらの缶を「肖像画」と呼ぶこともありました。

身近な物を描く絵には長い歴史があります。スープ缶の絵が興味深いのは、産業が生み出した均質な外観を変えずに、大きな美術館の絵画として鑑賞できるようにした点です。見る人は、なぜこの図柄を繰り返し描くことが絵画として成立するのか考え始めます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《キャンベル・スープ缶》(1962))

ポップアートは何を美術に持ち込んだのか

反復される図柄に注目する

広告の写真やブランドの文字は、雑誌、駅、店先などさまざまな場所へ繰り返し現れます。ポップアートの美術家たちは、すでに世間で見られている図柄を画面に取り込み、その反復の強さを作品として示しました。ウォーホルの初期絵画にも、一本の線で作家の個性を示す発想とは違う選択が現れています。

同じ図柄を何枚も見せると、鑑賞者はどこに違いがあるのかを探します。色のわずかな変化、印刷のずれ、ラベルに書かれた文字へと注意が移り、見慣れた画像を観察する速度が変わります。反復は装飾であると同時に、普段の見方を調べる制作方法にもなりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|アンディ・ウォーホルとポップアート)

商品画像と商品の用途の分離

実際の缶詰は食品を保存し、輸送するための容器です。スープ缶の絵は、それを食べるために開けることができません。用途に注目すると両者は区別できます。それでも絵の中の商品の名前が読み取れるため、見る人の頭には食べ物を買う経験が自然に浮かんできます。

1964年の箱の彫刻は、ここからもう一段進みます。画面に描かれた容器は、実物の形をした立体へ変わり、スーパーの輸送用箱とほぼ同じ大きさで存在します。用途や外観を比較することが、商品の像を描いた絵画以上に難しくなっていったのです。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

鑑賞者は商品にどう反応するのか

スーパーで箱を見かけたとき、人は中の商品や値札へ注意を向けます。画廊で同じ図柄を見ると、普通なら見逃していた線の太さや色の組み合わせに目が留まります。店と画廊で、物を見る目的も、近づき方も、そこへ使う時間も変わります。

この違いを手がかりにすると、ポップアートを単純な広告の模倣としてまとめることの難しさがわかります。作品が観客に何を見せ、何を考えさせるのかは、その場所での経験と作家の選択によって形成されます。ダントーが考えたのは、その変化をどう哲学的に説明できるかという問題でした。(参照:ノートルダム大学哲学書評|ダントーの美術哲学と1964年の転機)

デュシャンの《泉》は何を先取りしていたのか

1917年、既製品を展覧会へ持ち込む

フランス生まれでニューヨークでも活動したマルセル・デュシャン(1887–1968)は、1917年に《泉》という題名の作品を、ニューヨークの独立美術家協会の展覧会へ提出しました。作品に用いたのは購入した男性用小便器で、「R. Mutt 1917」という署名がありました。協会は審査を行わない方針を掲げていましたが、この作品は主催者たちによって展示を拒まれています。

絵具や彫刻用の石からつくった作品と違い、《泉》は既存の物を選ぶ行為を中心に据えました。何かを制作する技術と、その物を作品として示す行為との関係が、公開の論争を通して問われました。ウォーホルに先立つ約半世紀の時点で、生活用品を芸術の領域へ持ち込む可能性が示されていたのです。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャン《泉》の論争)

選び、名付け、置き直すという制作

1917年に雑誌『ザ・ブラインド・マン』へ掲載された文章は、既製品を選び、新しい題名と見方を与えることによって別の思考が生まれると主張しました。デュシャンの方法は、作家自身の手作業による加工に美術の成立条件を限定する見方を揺さぶります。選択と提示の行為も、作品の構成に加わったからです。

《泉》の当初の実物は失われ、現在よく目にするものには後年のレプリカがあります。フィラデルフィア美術館には1950年に認められた別版があり、1917年の提出品と同じものとして扱うのは不正確です。作品の考え方がどのように後年の芸術家へ届いたかも、再制作の歴史を含めてたどることができます。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の所蔵記録)

既製品とウォーホルの複製の違い

デュシャンの《泉》は既製の小便器を選んで提出する試みでした。ウォーホルの《ブリロ・ボックス》では、段ボール箱の外観を新しい木箱へ写す作業が行われます。既製品の提示と、既製品そっくりの物をあらためて制作する方法では、手順が異なります。

この違いがダントーの問題をいっそう鋭くしました。もし作家の手で作られたことが芸術の根拠なら、デュシャンの選択をどう説明できるでしょうか。素材や作業量ではなく、何を作品として示すかという考えが、歴史の中で積み重なっていたことに注意が向きます。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

ラウシェンバーグの《ベッド》は何を変えたのか

生活用品と絵具が組み合わさる

アメリカの美術家ロバート・ラウシェンバーグ(1925–2008)は、1950年代に絵画と実用品を一つの画面へ組み込む作品を制作しました。1955年の《ベッド》では、使われていた枕、キルト、シーツに鉛筆や油絵具を加え、木製の支持材に取り付けて壁に掛けました。作品の大きさは約191×80×20センチメートルで、人の身体を思わせる規模です。

寝具は日常の生活で身体を支える物ですが、ここでは壁から観客へ向かって現れます。枕のふくらみ、布地の模様、絵具の飛沫が同じ作品に含まれ、平面絵画と立体物の境界が変わります。ラウシェンバーグはこのような制作をコンバインと呼び、絵画と生活をつなげる道を探りました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ラウシェンバーグ《ベッド》(1955))

ダントーが論文に登場させた実例

ダントーは1964年の「アートワールド」で《ベッド》を例に、観客がそれを普通の寝具と思い込んだとしたら何が起こるかを考えました。絵具で汚れているだけのベッドと思えば、作品として見るときの判断を逃してしまいます。寝具と絵具の組み合わせそのものが、作者の考えた造形の単位になっているからです。

実際の美術館の所蔵資料を読むと、絵具と鉛筆、キルトと枕がどのように使われたかがわかります。物の構造を観察することは、美術史の知識と切り離されません。ダントーはこの作品を、生活用品が芸術として現れるときの理解の仕方を考える材料にしました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

寝具を見ているのか、作品を見ているのか

例えば使い古した布団に絵具が付いていたら、それを洗うべき汚れとして見ることがあります。《ベッド》では、絵具の跡を作品を形づくる部分として受け止めることで、見える物の意味が変わります。観客は、なぜそこに絵具があるのか、なぜ布団が壁にあるのかを考え始めます。

この例の面白さは、同じ布や顔料でも、周囲の関係によって異なる説明が成り立つことです。絵具の物理的な色を確認するだけでなく、その線や飛沫を作品の中でどう理解するかが、芸術を認識する問いに含まれます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ラウシェンバーグ《ベッド》(1955))

ジャスパー・ジョーンズの《旗》は何を示したのか

国旗の図柄をそのまま描く

アメリカの画家ジャスパー・ジョーンズ(1930年生まれ)は、1950年代から旗、数字、標的、地図など、誰もが形を知っている題材を繰り返し用いました。《旗》(1954–55年)は、布を木板に貼り、新聞紙の断片と蝋を混ぜた絵具などによってアメリカ国旗の図柄を構成した作品です。ニューヨーク近代美術館の記録は縦107.3センチ、横153.8センチとしています。

国旗という記号は、絵画の前から社会で共有される意味を持ちます。ジョーンズはその形を描くことで、何を描くかより、どのように物質として作るかを注意深く見せました。見慣れた形と近づいて初めて見える厚い表面が、同時に経験されます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジョーンズ《旗》(1954–55))

絵なのか、国旗そのものなのか

遠くから眺めると《旗》は国旗です。近づけば、新聞紙と蝋の層、色を重ねた表面が現れます。旗を模した画像なのか、実際に旗として扱える物なのかという問いは、見える形が同じでも物の性質が異なることを示します。ジョーンズの作品は、この境界で鑑賞者の認識を動かしました。

ダントーの原論文はジョーンズの国旗や標的を取り上げ、描かれた記号と物そのものの関係を考察しています。1964年の議論はウォーホル一人を説明するために生まれたのではなく、数年間にわたりニューヨークで現れていた多様な作品を哲学的に整理する試みでもありました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

物の見た目だけで決まらない意味

同じ形の国旗が街の建物に掲げられ、新聞に印刷され、美術館の展示室にあるとき、それぞれの物に向ける問いは異なります。国旗として使われる旗には公共的な役割があり、印刷物の図柄は情報を伝え、ジョーンズの絵画は制作の過程と記号の関係を見せます。

素材や使い方にも違いがあるため、完全に同一の物を比べる例ではありません。大切なのは、わかりきった形を前にしても、その物を何として見るのかという解釈が求められる点です。この問いが、ウォーホルの箱をめぐる議論へつながります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジョーンズ《旗》(1954–55))

1964年のステイブル画廊には何が並んだのか

ウォーホルの箱が画廊を埋める

1964年4月、ニューヨークのステイブル画廊で、ウォーホルは複数のブランドの包装を再現した木箱をまとめて展示しました。ブリロの洗剤だけでなく、ケロッグのシリアル、ハインツのケチャップ、モッツのジュースなどの箱を模した作品が、壁際や床に積み上げられます。画廊の中は、作品を一つずつ離して飾る展示室よりも、商品を保管する倉庫を思わせる空間となりました。

アンディ・ウォーホル美術館は、この展示が1964年にステイブル画廊で行われ、箱が大量に並べられていたことを説明しています。作品の一個だけを写真で見ると伝わりにくいのは、同じものが集まり、空間に密度を作ったときの経験です。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|1964年ステイブル画廊の展示記録)

《ブリロ・ボックス》の図柄が持つ迫力

白地に赤と青の大きな文字が入り、「Brillo」というブランド名が反復されます。洗剤用の金属たわしを宣伝する箱には、用途を伝える短い文字と目立つ配色が使われ、日用品の輸送容器であっても、遠くから見分けられるよう設計されています。ウォーホルの箱はこの外観を作品の表面に写しました。

一個の箱なら商品棚の一部のようです。何十個も積むと、赤と青の文字の繰り返しが壁の模様のように広がり、展示空間そのものの印象が変わります。観客は何を売っている場所なのか戸惑うと同時に、その整然とした反復を見つめることになります。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

展覧会が哲学者を動かした

ニューヨークの哲学者ダントーは、この展示で《ブリロ・ボックス》に出会い、見た目がほとんど同じ物の一方だけを芸術作品と呼ぶ理由を考えました。彼は1964年10月に「アートワールド」を発表し、ウォーホルの箱を理論の中心的な事例として論じています。展示と論文が同年に生まれた点に、この問いの切実さがあります。

ダントーが実際に見た展示の箱と、今日の美術館に残る作品は、個体の来歴を区別して考える必要があります。哲学上の問いは、ある特定の箱の所有履歴だけに依存しません。商品と似た外観を持つ立体物が、美術の歴史の中で作品として理解されることの説明を求めているからです。(参照:ノートルダム大学哲学書評|ダントーの美術哲学と1964年の転機)

《ブリロ・ボックス》はどのように作られたのか

段ボールを木箱へ写し替える

《ブリロ・ボックス》の表面は、輸送用の段ボール箱を思わせます。実際の作品には木製の箱が使われ、表面に塗料とシルクスクリーン印刷が施されました。プリンストン大学美術館が所蔵する1964年の作品は、約43.4×43.6×35.8センチメートルで、材質は木材に合成樹脂絵具とスクリーン印刷と記録されています。

外観を商品に近づけるため、作者は元の図柄を新しい支持体へ移しています。この工程は、工場出荷の段ボール箱をそのまま画廊へ置くこととは異なります。材料と制作方法を確かめると、箱の類似と作家の操作がどのように共存しているかがわかります。(参照:プリンストン大学美術館|《ブリロ・ボックス》(1964))

印刷技法と助手たちの役割

ウォーホルは箱を作るために木工職人を雇い、スタジオの協力者と塗装やシルクスクリーン印刷を進めました。アンディ・ウォーホル美術館は、ジェラード・マランガやビリー・リニッチらが制作を補助したことを紹介しています。大量にそろった箱は、作家一人が同じ形を彫り続けた結果ではなく、分業を含む制作工程から生まれています。

シルクスクリーンは、版を利用して図柄を何度も転写できる技法です。商品包装の印刷工程を思わせる均一な表面と、美術家の選択による配置が同時に現れます。作者の手仕事を特別視する美術の価値観も、これによって問い直されました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

個体ごとの寸法と版の違い

《ブリロ・ボックス》という名称で知られる作品には、箱の種類やサイズが異なるものが含まれます。プリンストン大学美術館の1964年作と、ホイットニー美術館が所蔵する1964年頃の作品とでは、寸法も図柄も一致しません。ホイットニー所蔵作の記録は33.3×40.6×29.2センチメートルで、黄色地の箱が掲載されています。

さらにオバーリン大学アレン記念美術館の《ブリロ・ボックス》(1970)は、1964年の企画を拡大して再制作した別時期の作品です。後年の版を1964年の展示そのものと取り違えると、制作史も展示史も不正確になります。著名な作品ほど、一つの名称のもとにある複数の個体を区別して見る必要があります。(参照:オバーリン大学アレン記念美術館|《ブリロ・ボックス》(1970)と制作史)

商品と作品はどこまで似ているのか

目で見える一致と材料の相違

スーパーに置かれたブリロの箱を写真で見て、ウォーホルの作品の写真と並べると、二つはほとんど同じ外観に見えます。実物に触れれば、薄い段ボールと木材では硬さや重さが違うことがわかります。この事実を知ると、商品と作品を材料の違いで分類したくなるかもしれません。

ダントーは1964年の論文で、もしメーカーが木の箱で商品を出荷しても芸術にはならず、ウォーホルが段ボールで作品を作っても芸術として理解しうる、と考えました。材料差は現実の作品を調べる際に大切ですが、それだけでは芸術の成立条件を説明しきれないという論証です。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

二つが完全に似ていると想像してみる

ここで、形も大きさも色も、重さや触り心地までも一致する二つの箱を想像してみます。一つは工場から販売店へ運ばれる商品用の箱で、もう一つは美術家によって作品として提示された箱です。外から確認できる性質を同じに設定すると、どこを見れば二つの違いがわかるでしょうか。

この思考実験は、実際のウォーホルの木箱と段ボール箱が物理的にまったく同じだったという主張とは区別できます。ダントーの問いは、見た目から分類する方法にどこまで頼れるかを試しています。二つが視覚的に区別できなくても、美術史の中で異なる働きを持つ可能性が浮かび上がります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

何を条件として芸術と呼ぶのか

作品と商品を見分けるために、作者が著名であるか、値段が高いか、展示室に置かれているかを尋ねることができます。どれも判断の材料にはなります。けれども、無名の作者による芸術はあり、美術市場で評価されていない芸術もあります。値段の高さを定義にすると、販売されていない作品を説明できなくなります。

ダントーが目指したのは、個々の鑑賞者の好みを尋ねることから一歩進み、何によって作品が芸術として成立するのかを説明することでした。外見上区別できない物を並べる方法は、簡単な分類の根拠を一つずつ吟味させる哲学の考え方です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

アーサー・ダントーはなぜこの問題を考えたのか

哲学者であり、美術にも関わった人物

アーサー・C・ダントー(1924–2013)はアメリカの哲学者で、コロンビア大学に長く勤め、行為や歴史、知識の哲学を研究しました。若い頃には版画なども制作し、哲学の仕事と美術への関心をともに持っていました。美術批評家として広く活動するのは後年で、1984年から『ザ・ネーション』誌の美術批評を担当するようになります。

1964年の彼は、作品を評価する専業批評家として、好き嫌いを論じていたわけではありません。芸術とはどのような種類のものか、その概念がなぜ歴史の中で変わりうるのかを考える哲学者として、ウォーホルの展示に反応したのです。(参照:ノートルダム大学哲学書評|ダントーの美術哲学と1964年の転機)

現代美術が哲学の答えを求めた理由

多くの物に共通する特徴を探し、そこから何と呼べるかを考えることは、哲学の基本的な営みの一つです。生き物を分類するときは身体の構造や働きを調べます。美術を分類するときも、長く絵具、画面、造形技術などの特徴が注目されてきました。

ウォーホルが示したのは、ありふれた箱とほとんど変わらない外観の作品です。作品を見ればすぐに「これは美術だ」と判断できるという前提が揺らぎました。ダントーは、美術の新しい実例が現れると、それまでの説明そのものが再検討を求められると考えています。美術の歴史は、哲学の概念を検証する現実の材料にもなったのです。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

1964年の論文が発表された経緯

ダントーの「アートワールド」は、1964年10月15日付『ザ・ジャーナル・オブ・フィロソフィー』第61巻第19号の571–584頁に掲載されました。これは美術雑誌の記事ではなく、哲学の専門誌に発表された論考です。原論文には同年12月のアメリカ哲学会の討論会で発表する予定であることも記されています。

刊行された文章では、模倣としての芸術という古い理論から始め、当時の前衛美術を検討し、ウォーホルの箱へ至ります。展示で生まれた疑問を、過去の芸術理論と比較することで、何が新しい問題なのかを明確にする構成です。(参照:The Journal of Philosophy|1964年10月15日号の目次)

「アートワールド」とはどういう考え方なのか

理論と美術史を通して作品が見えてくる

ダントーが1964年の論文で「アートワールド」と呼んだのは、作品を美術として理解できるようにする理論と美術史の知識のまとまりです。美術館や画廊の建物そのものを意味する言葉として考えると、その主張は狭くなります。どのような表現がこれまで行われ、何を作品として示そうとしたのかという背景が、人々の見方に加わるのです。

例えば、スープ缶を一枚描いた作品を眺めるとき、過去の静物画とウォーホルの反復を知っていれば、その缶がなぜ美術の題材となったかを考えられます。目は同じ形と色を見ていても、美術史の中でどの問いが示されているかまで理解することで、鑑賞の内容が広がります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

「美術界の偉い人が決める」という理解との差

展覧会の主催者や美術館の学芸員は、作品を選んで展示する役割を担います。そうした人々の判断は美術制度に実際の影響を与えます。ダントーの1964年の議論は、権威ある人が許可するだけでどんな物も芸術になる、という単純な仕組みを示したものとして読むと核心から離れます。

彼は、作品を見分ける目の働きの背後に、どんな理論や歴史が必要かを問いました。過去の表現を理解しているからこそ、その延長に現れた新しい物を作品として認識できる場面があります。制度の承認と、作品を理解するための知的な条件を区別することが重要です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

箱を見ることが歴史を知ることになる

1917年のデュシャンは既製品を選び、1955年のラウシェンバーグは布団と絵具を重ね、1954–55年のジョーンズは国旗を厚い絵の具の表面へ変えました。こうした作品を知っている観客にとって、1964年のウォーホルの箱は、商品を美術へ持ち込む実験の続きとして見えます。

ダントーは、芸術作品が成立しうる条件には歴史の変化が関わると考えました。ある時代の作家が当然に使える方法も、その方法が知られる前の時代には同じ意味を持たなかったかもしれません。美術史が作品の鑑賞を支えるという考えは、過去を学ぶことの意味も変えました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

「芸術の模倣」という説明はなぜ不十分になったのか

物の姿を再現することから始まる議論

ダントーの論文は、古代ギリシアのソクラテスにさかのぼり、芸術を模倣として考える見方から始まります。人や風景の姿を写し取ることが絵画の中心だとすれば、そっくり描かれた絵がなぜ芸術と呼ばれるのかを一見説明できそうです。鏡に映った顔も姿を正確に再現しますから、模倣という特徴だけを根拠にすると、鏡像を芸術と区別する理由が必要になります。

古代の議論にはさまざまな立場があり、模倣の意味も一つではありません。ダントーは概念を検討するために模倣説を取り出し、何を芸術として認めるかという規則の働きを調べています。現実を似せることの価値と、芸術の成立条件とを分けて考えるのが目的です。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

印象派以後の絵画が示した変化

19世紀末から20世紀初めの画家は、対象を正確に再現する以外の方法で絵画を発展させました。セザンヌやゴッホの画面では、色や輪郭の変形が作品の構造を生みます。ダントーは、このような作品の登場に対応するため、従来の芸術理論を改める必要が生まれたと説明しました。

この論法で重要なのは、作品への好みが変わったという記述だけではありません。それまで芸術を判定するために使われた条件が、実際の作品群にうまく当てはまらなくなったとき、概念のほうを再検討する必要があるということです。美術の歴史を、理論が試される過程として見る視点が表れています。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

新しい表現には新しい説明が必要になる

抽象絵画を前にして、何に似ているかだけを尋ねれば、画面で起きていることを十分に理解できません。平らな画面の色、形の配置、作品の制作方法に目を向けると、別の理由でそれを絵画として評価できることがわかります。ダントーはこのような理論の転換を、芸術の成立する範囲が変わる出来事として考えました。

1964年のポップアートでは、商品と似すぎていることが新しい問題になります。模倣から離れた表現を芸術とする説明が生まれた後、再び実物とよく似た作品が登場したからです。芸術はどのような見た目を持つべきかという決まりを、もう一度根本から調べる必要がありました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

外見から見分けられない二つの作品とは

黒い一本線が表す二つの世界

ダントーは「アートワールド」で、科学図書館の壁を飾るために依頼された二つの絵を想像します。どちらも白い地に一本の黒い水平線が引かれ、外見は区別できません。片方はニュートンの第一法則を、もう片方は第三法則を表すという設定です。同じ直線でも、作者の説明に従えば、何として理解するかが変わります。

第三法則を表す絵では、線は互いに作用する二つの塊の境目として読まれます。第一法則を表す絵では、線は外力を受けない粒子が空間を進む道筋として読まれます。物理的に等しい線が、作品の中では異なる世界の構造を示しているのです。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

線が境界線にも進路にもなる

絵の中央に線がある場合、その線を上と下の領域を分ける境目だと考えることができます。別の考え方では、線が一つの大きな空間を貫き、画面の外まで続いていると捉えられます。この二つの理解では、絵の端、余白、線の役割がすべて違って見えてきます。

作者の意図を知ることは、見えたものに勝手な意味を付けることと同じでしょうか。ダントーは、作品内の部分を何として捉えるかによって、全体の構造についての判断が変わると説明しました。視覚的な特徴だけで決まらない解釈の働きが、ここで具体的に表れます。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

同じ形が同じ作品とは限らない理由

二枚の線の絵を並べれば、物体としての大きさと色の違いを探すことはできません。制作された理由や、その線が作品内で担う役割を考えると、鑑賞者は別々の解釈へ進みます。ダントーはこの思考実験を通じて、作品としての同一性を、外から数えられる形や色だけで決められるかを検討しました。

この仕組みはウォーホルの箱とも響き合います。スーパーの輸送箱と作品は同じ図柄であっても、美術史を踏まえると異なる解釈が生じるからです。見た目の類似に隠れた違いを、作品の意味へ結びつけることが哲学の課題になります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

ダントーのいう「芸術的同定」とは何か

「これはイカロスだ」という言葉の使い方

ダントーは、絵画のある白い点を指して「これはイカロスだ」と言う場面を考えました。古代ギリシア神話の人物イカロスを描いた絵を見ると、画面上の白い点を空を飛ぶ人物として理解することがあります。その白い点が本物の人間という意味ではありません。鑑賞者は画面の部分を、作品が表す世界の中で特定のものとして受け取っています。

この「〜である」という特別な用法を、ダントーは芸術的同定と呼びました。絵具の斑点と神話の人物の関係を理解することが、ただ白い点を見つける行為とは違うという説明です。作品を何として見るかは、鑑賞の一部になっています。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

絵の部分を作品として読む

たとえば赤い色面を見て、それを夕焼けとして読むことも、ただの赤い絵具の広がりとして読むこともあります。ここで変わるのは網膜に届く赤い光そのものより、色面をどう捉えるかです。ダントーの議論では、こうした読みによって絵の別の部分の働きまで変化します。

この仕組みを物語や演劇に広げると理解しやすくなります。舞台の俳優は現実の本人でありながら、劇の中では王や使者として行動します。作品を見ることにも、物理的な対象と作品内での役割を重ねる理解が関わるのです。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

芸術作品を理解するための条件

ダントーは、芸術的同定を使って作品の部分や性質を指し示せることを、芸術作品の成立を考える際に重要視しました。箱の表面を商品そのものとして眺める場合と、商品を模した表面を持つ作品として見る場合では、そこで考える意味が異なります。

この考えは、作品の内容を完全に一つの解釈へ決める仕組みではありません。作品を認識するために、見える部分をどう理解するかという段階が必要だと示しています。箱の外観を繰り返すことがなぜ芸術の行為になるのかを説明するため、ダントーは芸術的同定の働きを詳しく考えました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

「ただの物」と思う鑑賞者は何を見落とすのか

テスタデューラという架空の人物

ダントーは1964年の論文で、テスタデューラという架空の人物を登場させます。この人物は美術の事情に詳しくなく、ラウシェンバーグの《ベッド》を見て、使い古した寝具が汚れていると思います。クレス・オルデンバーグ(1929–2022)の不思議な形のベッドも、家具としてうまく作れていないと判断します。オルデンバーグはニューヨークで日用品を大きく変形させる彫刻などを制作した美術家です。

テスタデューラの見た目についての指摘は、すべて的外れというわけではありません。実際にベッドの形をした物があるからです。問題は、汚れや変形を作品の構成として読み取るところまで進んでいない点にあります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

同じ物を見ても説明が違う

《ベッド》の表面には布があり、絵具が付いています。それを汚れだと判断する人は、掃除すればよいと考えるかもしれません。作品として鑑賞する人は、絵具が布の上に広がることで何が生まれたのかを考えます。双方が見ている色と形は重なりますが、何について説明しているかが異なります。

美術の知識があれば、必ず作品を高く評価するという結論にはなりません。作品として見たうえで、成功していないと感じることもできます。ダントーの議論は、作品と判断することと、その作品を優れていると評価することを、まず分ける必要を示しています。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

鑑賞にはどのような学習が必要なのか

写真を見るとき、撮影された物の形を認識するだけでなく、どのような構図や視点が選ばれたかを考えることがあります。絵画や彫刻でも、制作方法と先行作品を知ることで、同じ対象について新しい理解が生まれます。美術史の学習は、名前や年代を覚える作業に加えて、何を作品の構成として見るかを考える経験でもあります。

テスタデューラの例は、その学習によって認識がどう変わるかを説明しています。ここで問われるのは、専門知識がなければ芸術に近づけないという資格の問題ではありません。目の前にある物の意味を考えるために、どのような説明や比較が役立つのかという問題です。(参照:ウォーリック大学|ダントーの美術哲学研究(学位論文))

美術史を知ることがなぜ必要なのか

ウォーホルの箱は五十年前にも作れたのか

ダントーは1964年の論文で、ウォーホルの箱のような作品は、約五十年前には同じ仕方で芸術になりえなかったと論じました。ここで彼が強調したのは、木箱を作る技術の有無ではありません。作品として理解されるために必要な芸術の理論と、先行する表現の歴史がまだ十分に整っていなかったという考えです。

1917年の《泉》から1960年代のポップアートまで、日常の物を作品にする方法は少しずつ広がりました。その蓄積によって、商品とそっくりの箱を芸術作品と呼ぶ問いが成り立つようになりました。ダントーにとって、美術の可能性は歴史の中で変化してきたのです。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

作品の外側にある知識の役割

作品の説明札を読む前と読んだ後で、同じ絵の意味が変わって感じられることがあります。描かれた形を知ることに加え、いつ制作されたか、作家が何を参照したか、同時代の人々が何を問題にしたかがわかるからです。こうした知識は、目で見える色と形を消すものではありません。どこに目を向けるかを豊かにします。

ダントーが芸術理論を重視したのは、理論が鑑賞の可能性を生むと考えたためです。作品を自分で見る経験に、歴史を知る経験が重なることで、作者の選択を異なる角度から考えられるようになります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

美術史は一つの進歩の物語なのか

美術史の中では、新しい様式が広がっても、以前の方法が消えるわけではありません。1964年には抽象絵画も具象絵画も制作され、ウォーホルの箱のような作品も現れました。同じ時代に異なる考え方が存在するため、何が芸術として可能かを一つの流行で説明することはできません。

ダントーは理論の変化を重視しながら、芸術作品が認められる条件の歴史的な差に注目しました。後に展開する美術史の「終わり」という議論も、すべての作家が制作をやめるという意味からは遠く、様式を一つに決める歴史の説明が力を失っていくという意味を持ちます。(参照:ノートルダム大学哲学書評|ダントーの美術哲学と1964年の転機)

《ブリロ・ボックス》は何を意味する作品なのか

商品と同じ形を選んだ理由

スーパーの箱を彫刻に近づけるために、ウォーホルは外観を大きく変えることを選びませんでした。よく知られたブランド名を残し、同じ図柄を繰り返して配置したことに、この作品の具体的な特徴があります。その選択によって、鑑賞者は「美術らしい姿」の手がかりを探しにくくなります。

一つの意味だけを作品へ押し付けることも慎重であるべきです。消費生活への批判、商品の視覚的な魅力への関心、広告と美術の関係など、複数の読みが可能です。どの解釈であっても、作品の材料、図柄、展示方法、制作年代に即して理由を示す必要があります。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

包装デザインを作った人は誰なのか

ブリロの商品のパッケージには、ウォーホルの作品が生まれる前から商業デザインの仕事が含まれていました。赤と青の文字を目立たせ、洗剤の特徴を知らせる構成は、販売のためにつくられた造形です。デザインの仕事も視覚的な工夫を伴いますから、商品の外観に美しさや独創性があることだけで、二つの箱の分類を済ませることはできません。

ウォーホルが新しく行ったのは、既存の包装の姿を選び、彫刻として再制作し、画廊の空間にまとめて提示することでした。この制作行為は、元の商業デザインの存在を前提にしています。美術とデザインの関係を考えるときにも、誰がどの段階で何を制作したのかを区別することが大切です。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

物の用途と作品の主題の違い

商品の輸送箱は、一定数の洗剤をまとめて届ける用途を持ちます。ウォーホルの箱の中身は、洗剤の販売を目的としていません。画廊で反復されるその外観は、商品を何度も見る日常の経験や、美術が扱う題材の範囲について考えるきっかけになります。

用途が異なることは、重要な事実です。さらにダントーは、用途の違いがあると知っただけで芸術の意味が全部説明できるかを問いました。作品として提示された理由と、美術史の中でどのように理解されるかまで考えて、ようやく作品と商品の関係が豊かになります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

美術館へ運べば商品は芸術になるのか

展示する場所がもたらす変化

同じ箱がスーパーから美術館へ運ばれたら、観客の行動は変わります。売り場では買い物のために箱へ近づき、美術館ではそこに何が示されているのかを考えるでしょう。展示台や作品解説も、箱を注意深く観察するよう促します。場所の変化には確かに力があります。

その作用を確かめるには、何を誰がどんな意図で置いたのかを調べる必要があります。倉庫から誤って運ばれた箱と、作家の作品として設置された箱が見た目で区別できない場合、場所だけに頼った説明では成り立つ理由を示しきれません。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

学芸員や画商が担う役割

美術館の学芸員は収蔵品を調査し、展示の順序や解説を組み立てます。画商は作品を紹介し、作家を支え、コレクターとの関係をつくります。こうした専門家や制度の仕事は、美術を公共的な経験として成立させる条件の一部です。作品の来歴や材料を記録することも、後に研究ができるようにする働きを持っています。

ダントーが「アートワールド」と呼んだものは、そうした現実の関係と接点を持ちつつ、主として芸術理論と美術史の理解に関わる考え方でした。展覧会の運営という仕組みと、作品が芸術として理解される哲学上の条件は、分けて考えると見通しがよくなります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

展示の権威を疑うことも可能になる

美術館へ展示されたものについて、なぜ作品と認められたのかと尋ねることは、鑑賞者に開かれた問いです。作品の成立条件を考えることは、美術館が下した判断をすべて正しいと認めることを意味しません。収蔵や展示の判断にも、歴史的な偏りや見落としがありえます。

ダントーの問題を真剣に受け止めるなら、作品を取り囲む説明自体も検討の対象になります。作家は何を提示したのか、どのような先行作品があるのか、解釈の根拠は何か。こうした問いを持つことで、鑑賞者は作品を受け身で眺めるところから考察へ進みます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

ダントーとジョージ・ディッキーは同じことを考えたのか

制度説が芸術を説明しようとしたこと

アメリカの哲学者ジョージ・ディッキー(1926–2020)は、1969年の論文「芸術を定義する」、1974年の著作『芸術と美的なもの』などで、芸術制度に注目する定義を発展させました。彼は作家、観客、提示の場などから成る美術の制度的な関係を考え、芸術作品がそこで鑑賞される候補として位置づけられることを重視しました。

ダントーの1964年の「アートワールド」は、この議論へ影響を与えた先行例として位置づけられます。どちらも芸術の特徴を外観だけから説明することに疑問を持ちました。制度を構成する人々の役割を前面に出すか、理論や歴史に支えられた解釈を前面に出すかで、考察の焦点が異なります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の制度説とその論争)

「認定されたから芸術」という説明の難しさ

例えば美術館で展示された作品が芸術だと考えると、なぜ美術館がそれを作品として扱ったのかという理由が必要になります。美術館が選んだから芸術であり、芸術を選ぶ機関が美術館であると説明を循環させれば、具体的な判断の根拠が見えなくなります。

哲学では、このような説明の循環が問題となります。ディッキーの制度説には、制度をどのように区別するか、制度の外で作られた芸術をどう扱うかなどの批判が向けられました。芸術の歴史的な多様性を認めながら、判断の理由を説明するという課題が残るのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

芸術の定義を一つに定められるのか

哲学者たちは、芸術のすべてに当てはまる共通の性質を探してきました。作品が美しいこと、作者が感情を表現すること、鑑賞される制度があることなどは、それぞれ芸術の重要な側面を説明します。どの条件を中心に置くかによって、受け入れられる作品の範囲も変わります。

スタンフォード哲学百科事典は、芸術の定義について、美的な性質を重視する立場、歴史や制度を重視する立場、双方を組み合わせる立場などを整理しています。ウォーホルの箱は、この論争で現実の作品を検証する試金石として扱われ続けています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

そっくりな二つの物を比べる方法にはどんな批判があるのか

見た目の比較は何を説明できるか

ダントーの議論は、外見が区別できない二つの物を置き、そのうちの一方だけが作品であるとき、どんな性質が違いを生むかと問います。この方法には、色や形の判断へ頼るだけでは作品の意味を説明しきれないことを示す強さがあります。

研究者ジョン・M・ヴァレンタインは、視覚的に区別できない二つの物を比べる議論の前提を批判的に検討しました。作品を認識するための視覚的な性質が、特定の状況では重要な役割を持つことも考えられるからです。哲学上の思考実験がどこまでを示し、どこから追加の説明を求めるのかが、研究の争点になっています。(参照:フロリダ哲学評論|外見上見分けられない作品をめぐる論証への批判)

材質と制作の過程は捨ててよいのか

芸術作品を調べるとき、材料と制作過程はしばしば意味の重要な部分を担います。木箱へ印刷されたウォーホルの図柄と、工場で印刷された段ボールの外観はよく似ています。その違いを丁寧に観察すれば、制作方法や使われた場所について新しい知識が得られます。

ダントーの問いは、材質の観察を不要にするためのものではありません。材質が作品と商品の分類を決定する唯一の条件になれるかを検討しました。作品の具体的な姿を調べる美術史研究と、芸術の成立条件を問う哲学は、同じ例を別々の角度から扱えます。(参照:プリンストン大学美術館|《ブリロ・ボックス》(1964))

版画史から読み直す《ブリロ・ボックス》

ブラジルの研究者ジュリア・ヴィディレは2012年の論文で、ウォーホルの《ブリロ・ボックス》を版画や図像の複製の歴史から読み直しました。印刷の技法は長い間、イメージを多くの人へ届ける役割を担ってきました。商品の包装を模した箱にも、繰り返し像を生む技術と、その社会的な働きが含まれています。

この研究は、作品が哲学的な思考実験の材料であると同時に、具体的な印刷文化の中で作られた物であることを思い出させます。目に見える類似を考える問いと、複製技術の歴史を調べる仕事の両方によって、作品への理解が深まります。(参照:サンパウロ大学学術誌ARS|《ブリロ・ボックス》の版画史的解釈(2012))

ダントーの考えはその後どのように変わったのか

1981年『ありふれたものの変容』へ

ダントーは1981年の著作『ありふれたものの変容』で、見た目が区別できない物と作品の関係をさらに詳しく論じました。作品が何について語り、その意味をどのように具体的な物へ表しているかという問題が中心になります。1964年の疑問は、長年にわたる芸術哲学の研究へと育ちました。

ダントーにとって、芸術の説明は、物の表面に特別な美しさがあるかを調べるだけで済むものではありません。どのような意味が表現され、その意味が材料や構成によってどのように現れているかを考えることが重要になりました。(参照:美学会|松久勝利「The Artworld:芸術の立脚点をめぐって」(1994))

「芸術の終わり」という言葉の射程

ダントーは1980年代以降、芸術史の「終わり」という主題を論じました。その意味は、作家たちが作品をつくれなくなるということから遠く、芸術史の進むべき様式を一つに決める物語が成り立たなくなるという考えです。抽象絵画、写実絵画、既製品を用いた作品など、多様な方法が並行して生まれる状況を説明しようとしました。

この考えはウォーホルの箱を、どんな見た目も芸術としてありうることを示す歴史的な出来事として読む議論につながります。何を制作すべきかという様式の規則が弱まるなかで、なぜその物が作品なのかという問いはむしろ具体的な作品ごとに深まっていきました。(参照:ノートルダム大学哲学書評|ダントーの美術哲学と1964年の転機)

2013年に示された「意味の具現」という定義

2013年の著作『芸術とは何か』では、ダントーは作品を意味が具体的な姿を得たものとして捉える議論をさらに展開しました。著作を紹介するイェール大学出版局の説明は、意味とその具現、そして鑑賞者による解釈の関係を重要な論点として挙げています。作品が何かについて語り、その意味が形や材料を通して現れるという考えです。

この後年の定義を、1964年の「アートワールド」へそのまま書き戻すと、思想の発展の順序が見えにくくなります。最初は商品と作品の違いを生む理論的な条件が問題となり、その後、意味と作品の身体的な形との関係が掘り下げられました。(参照:イェール大学出版局|ダントー『芸術とは何か』(2013))

同じ作品を何個も制作すると何が変わるのか

複数の箱と「唯一の作品」という考え

絵画を一点ものと考える習慣からすると、同じ図柄の箱を数多く作ることには不思議さがあります。ウォーホルは《ブリロ・ボックス》を大量に制作し、画廊の壁や床へ積み上げました。観客は一つの箱だけを眺めることも、同じ箱がつくる空間全体を見ることもできます。複数の個体と展示全体の関係は、作品の経験を形づくります。

美術では版画や鋳造彫刻など、以前から複数の個体を制作する方法がありました。ウォーホルの箱は、包装の図柄を繰り返すことによって、工業製品の均質さと美術の制作を重ねました。同じ形式が増えるほど、各個体の違いと反復がもたらす印象を考える必要が生じます。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

初期作と後年の再制作を区別する

作品を調べるには、いつ作られ、どの展覧会に出されたのかを確認します。1964年のステイブル画廊を埋めた箱と、1969年や1970年に作られた別サイズの作品を、すべて一回の展示の現物と考えることはできません。所蔵美術館では制作年、材質、寸法、来歴が個別に記録されています。

オバーリン大学の所蔵記録は、1970年の作品を1964年の企画の拡大再制作として説明しています。ウォーホルの作品の複数性を考えるとき、同じモチーフであることと、同じ個体であることは異なります。その区別が、芸術作品の真正性を考える材料になります。(参照:オバーリン大学アレン記念美術館|《ブリロ・ボックス》(1970)と制作史)

箱の物理的な来歴を調べる意義

作品が展示会場から美術館へ移るときには、購入や寄贈の記録が残ります。プリンストン大学美術館の《ブリロ・ボックス》は、1993年にウォーホル財団から購入された来歴が記録されています。来歴は作品の個体を確認する資料であり、後年の再制作との区別にも役立ちます。

哲学の思考実験は二つの箱の外観が一致する場合を考えます。実際の美術史研究は、その箱がどのような材料で作られ、誰の手を経てきたかを詳しく調べます。作品をめぐる問いを十分に考えるには、この二つの方法を併せて使うことができます。(参照:プリンストン大学美術館|《ブリロ・ボックス》(1964))

作品の値段は芸術としての価値を決めるのか

画廊の箱が商品の箱より高価になるとき

ダントーの原論文には、ウォーホルの箱が日用品の箱よりはるかに高い価格で扱われたという記述があります。価格差は、美術市場に作品を売買する仕組みが存在することを示します。けれども、二つの箱の値段が異なるという事実から、芸術作品として成立する理由がすべて導かれるわけではありません。

たとえば古い商品の箱が希少品として高額で取引されても、それだけでウォーホルの作品と同じ意味になるとは限りません。市場での価格は需給や来歴などに左右され、美術の分類には作家の制作と作品の文脈が関わります。美術の価値を問うときには、価格と芸術の成立を分けて考える必要があります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

良い作品かどうかは別の問いになる

ダントーは、ウォーホルの箱が芸術作品であることと、優れた芸術作品であることを分けて考えました。ある作品を芸術の例として認められても、その内容や完成度への評価が一様になるわけではありません。好みが分かれる作品も、芸術の成り立ちを考える重要な例になりえます。

例えば、反復が面白いと思う人も、単調だと感じる人もいるでしょう。鑑賞の感想を語ることは大切です。同時に、なぜその物を作品として扱えるのかを説明する論理は、好みの違いを超えて検討できます。作品を理解する段階と批評する段階を区別することで、議論の焦点が明確になります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

市場での成功と芸術史での位置

1964年のステイブル画廊で、ウォーホルの箱は大きな話題となりました。アンディ・ウォーホル美術館の解説では、箱の販売成績はよくなかったことも記されています。展示が注目されたことと、市場でどれほど売れたかは、同じ尺度では測れません。

その後、《ブリロ・ボックス》は美術史と哲学の文献で繰り返し検討されるようになります。売り上げだけからは予測できない議論が、作品とともに長く残りました。美術家、批評家、哲学者、観客が一つの作品へ異なる問いを向けることで、作品の歴史は形づくられています。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|ブリロの箱は芸術か)

後世の美術でも同じ問いが続くのか

既製品を使う表現の広がり

20世紀後半には、日常の物を展示すること、写真や印刷物を借用すること、大量生産の形式を用いることなどが、美術の中で広く試みられました。こうした制作では、材料の選択、展示の仕方、作者が示そうとする意味が、それぞれ作品を理解する条件になります。

ウォーホルの箱が残した問いは、美術家がどの材料を使ってよいかという許可の問題にとどまりません。既存の画像や物を利用するとき、作者は何を変え、どのような意味を加えたのかを考えることができます。ダントーが示した理論と歴史の視点は、そうした作品の解釈にも使われています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義)

見えている像の同一性と制作の違い

同じ画像を印刷した二枚の紙があっても、片方が日用品の説明書で、もう片方が美術家の作品として制作された場合、用途と意味は異なることがあります。写真や複製技術の発達によって、外観の類似と制作の違いを考える機会はいっそう増えました。

作品として示されるものを理解するには、画像の内容に加え、制作された経緯、どんな展示や発表の場が選ばれたかを調べます。ウォーホルの彫刻は立体物を扱っていますが、その問題は写真や印刷物などにも広がるため、現代の鑑賞者にとって身近な問いを残しています。(参照:美学会|松久勝利「The Artworld:芸術の立脚点をめぐって」(1994))

何を見れば芸術だとわかるのか

ある物を前にしたとき、まず色、形、材料を観察することができます。その後、作者の仕事や作品の来歴を調べ、何を表現しているかを考えることもできます。鑑賞の各段階で得られる知識は異なります。見える特徴を丁寧に確認する行為と、作品の意味を探る行為は互いを支えます。

ダントーは、見た目に同じものが二つあるという設定から、芸術を知るとはどういうことかを問いました。1964年の《ブリロ・ボックス》は、誰でも知っている商品の形を使いながら、何を根拠に「作品」と呼べるのかという哲学の基本的な問題を、具体的な形として示し続けています。(参照:イェール大学出版局|ダントー『芸術とは何か』(2013))

スーパーの商品と美術館の作品は何が違うのか

外観と材料から答えられること

1964年のウォーホルの箱は、スーパーの洗剤用段ボール箱によく似ています。実際の作品の多くは木で作られ、絵具とシルクスクリーンが使われました。現存作品を調べると、材質や寸法、個体の来歴がそれぞれ記録されています。こうした違いは作品の歴史を知るうえで確かな事実です。

ここから一つの問いが残ります。もし素材も形も同じ物が作られたら、芸術と商品をどう説明し分ければよいでしょうか。ダントーは、外観の違いを探すことから、何として制作され、どんな歴史の中で理解されるかを考える方向へ問いを進めました。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

美術史と解釈が加える違い

デュシャンによる既製品の選択、ラウシェンバーグの日用品と絵具の組み合わせ、ジョーンズによる旗の図柄の再制作を知ると、ウォーホルの箱が同じ時代の広告文化をどう扱ったかを考えられます。ブリロの箱はその歴史のなかで作品として制作され、商品包装を繰り返す行為そのものを鑑賞者へ示しました。

ダントーの1964年の答えは、芸術を可能にする理論と美術史の知識を重視するものです。美術館や画廊の存在は鑑賞を支え、実際の作品情報は判断を確かなものにします。作品の成立を考えるには、それらを含む歴史のなかで、物がどんな意味を担っているかを説明する必要があります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

箱を見る経験が問いを残し続ける

スーパーマーケットでブリロの箱を見かければ、洗剤を運ぶための包装として理解できます。美術館でウォーホルの箱を見るときには、なぜ同じ外観を繰り返し制作したのか、なぜ箱を積んだのか、過去の美術との関係は何かを考え始めます。この見方の違いは、箱に突然特別な色が現れたから生じるものではありません。

同じ形から異なる問いが生まれることを、ダントーは芸術哲学の問題へ変えました。作品を理解することは、どのように作られ、何を表し、誰によってどのような背景のもとで示されたかを考えることでもあります。目の前の箱とその背後の歴史を一緒に見るところに、1964年の議論の核心があります。(参照:ヘルシンキ大学公開資料|ダントー「アートワールド」(1964年原論文))

略年表|ウォーホルと芸術の定義をめぐる歴史

  • 1887年|マルセル・デュシャンがフランスに生まれる
  • 1913年|デュシャンが《自転車の車輪》の初期作を制作
  • 1917年4月|デュシャンの《泉》がニューヨークの独立美術家協会展で展示を拒まれる
  • 1924年|アーサー・C・ダントーがアメリカに生まれる
  • 1928年|アンディ・ウォーホルがペンシルベニア州ピッツバーグに生まれる
  • 1949年|ウォーホルがニューヨークで商業美術の仕事を始める
  • 1950年|デュシャンが1950年版《泉》の制作に関わる
  • 1954–1955年|ジャスパー・ジョーンズが《旗》を制作
  • 1955年|ロバート・ラウシェンバーグが《ベッド》を制作
  • 1958年|ジョーンズがニューヨークのレオ・カステリ画廊で初個展を開く
  • 1962年7月|ウォーホルがロサンゼルスのフェラス画廊で《キャンベル・スープ缶》を発表
  • 1962年|ウォーホルがニューヨークのステイブル画廊でも作品を発表
  • 1964年4月|ウォーホルがニューヨークのステイブル画廊で箱の彫刻を展示
  • 1964年7月2日|アメリカで公民権法が成立
  • 1964年10月15日|ダントー「アートワールド」が『ザ・ジャーナル・オブ・フィロソフィー』第61巻第19号に掲載
  • 1964年12月|「アートワールド」の論文に記されたアメリカ哲学会の発表予定時期
  • 1969年|ジョージ・ディッキーが「芸術を定義する」を発表
  • 1970年|ウォーホルの1964年の箱の企画を踏まえた別サイズの《ブリロ・ボックス》が制作される
  • 1974年|ディッキーが『芸術と美的なもの』を刊行
  • 1981年|ダントーが『ありふれたものの変容』を刊行
  • 1984年|ダントーが『ザ・ネーション』誌で美術批評の仕事を始める
  • 1994年|松久勝利がダントーの「アートワールド」を論じる研究論文を発表
  • 1997年|ダントーが『芸術の終焉以後』を刊行
  • 2012年|ジュリア・ヴィディレが《ブリロ・ボックス》と版画史に関する研究を発表
  • 2013年|ダントーが『芸術とは何か』を刊行、同年に死去

まとめ|スーパーの商品と美術館の作品は何が違うのか

ウォーホルの《ブリロ・ボックス》は、スーパーで使われる洗剤の包装を、木箱と印刷によって再現した1964年の彫刻です。赤と青の図柄を複数の箱に繰り返し、画廊を倉庫のような空間に変えました。実物の商品と作品は材質や制作工程に違いがあります。作品を見る経験を考えると、その違いだけで芸術の意味を説明し尽くすことの難しさが現れます。

ダントーは「アートワールド」で、ほとんど同じ外観の物が違う意味を持つ理由を検討しました。彼が重視したのは、芸術の理論と歴史を知ることで、目の前の物を作品として理解できる条件です。模倣説の見直し、作品内の部分を何として捉えるかという「芸術的同定」、箱の例が一つの論理につながっています。

この考えはデュシャンの既製品、ラウシェンバーグの《ベッド》、ジョーンズの《旗》を通じて培われた美術の新しい実践を説明する試みでした。後にはディッキーが制度を重視する定義を展開し、ダントー自身は意味とその具現という問題をさらに掘り下げました。作品が美術館に入ること、作品が優れていると評価されること、そもそも芸術として成立することは、互いに関係しながらも別々に検討できます。

同じ箱を見ても、その物を洗剤の輸送用容器として使うのか、商品を繰り返し再現した彫刻として鑑賞するのかによって、問われる内容は変わります。日常の物と芸術作品の違いを説明するには、見た目と材料を知ることに加え、何を表現するために制作され、どのような歴史のなかで理解されているかを考える必要があります。

参考資料・出典

1964年のダントーの論文はヘルシンキ大学の公開本文と専門誌の書誌によって確認し、作品の制作年、材料、寸法は所蔵美術館の記録と照合しています。後年の芸術制度説や解釈の変化は専門研究を参照しています。