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Philosophy

1917

【美術と哲学】便器を展示したら芸術になるのか

デュシャン《泉》が生んだ問い

1917年のニューヨークには、電車や地下鉄、高層ビル、百貨店が集まり、工場で作られた商品が大量に売られていました。ヨーロッパでは1914年から第一次世界大戦が続き、米国も1917年4月6日にドイツへの宣戦を布告します。芸術家や作家が国を越えて行き交うこの都市では、ヨーロッパで生まれた新しい絵画や彫刻を、米国の観客へ紹介する動きが広がっていました。美術館や画廊の展示に加え、芸術家自身が運営する展覧会も重要な発表の場になります。

その年の春、ニューヨークの独立美術家協会は「審査員なし、賞なし」を掲げ、会費を払った芸術家に出品の機会を開く大規模な展覧会を企画しました。ところが、会場に送られてきたのは、男性用の磁器製小便器でした。横倒しにした器具には「R. Mutt 1917」という署名があり、《泉》という作品名が付けられていました。協会は作品としての展示を認めず、この出来事はその後、美術の意味をめぐる論争になります。

この出品に深く関わったのが、フランス生まれの芸術家マルセル・デュシャン(1887–1968)です。彼はそれ以前から、工場で作られた普通の物を選び、題名や署名を与える「レディメイド」を試していました。1917年の《泉》は、何を芸術作品と呼ぶのか、誰がその資格を判断するのかという問題を、展覧会の内部で明らかにした出来事でした。拒否された作品の姿は写真に残され、雑誌に掲載された議論を通じて広く知られるようになります。

一枚の絵を見て「うまい」と判断するとき、私たちは絵を描く技術に注目します。美しい彫刻を見たときには、素材や形の美しさに心を動かされます。自分で形を作っていない既製品に芸術家が題名を付けた場合、作品として考えるための理由はどこにあるのでしょうか。デュシャンの《泉》と1917年に交わされた言葉をたどり、選ぶこと、名前を付けること、展示すること、解釈することの意味を考えていきます。

CONTENTS

  1. 第一次世界大戦中のニューヨークはどんな都市だったか
  2. 1913年のアーモリー・ショーが残した衝撃
  3. デュシャンはなぜ絵画から距離を取ったか
  4. 1913年《自転車の車輪》が開いた可能性
  5. 1914年《瓶乾燥器》と1915年《折れた腕に先立って》
  6. 「レディメイド」とは何を指すのか
  7. 独立した芸術家たちを支えたニューヨークの人脈
  8. 1916年に設立された独立美術家協会
  9. 1917年の《泉》はどんな物だったか
  10. 《泉》という題名は何を変えたか
  11. 「R. Mutt」という署名をどう理解するか
  12. 《泉》の出品はなぜ認められなかったか
  13. 誰が芸術作品を決めるのか
  14. 雑誌『The Blind Man』は何を伝えたか
  15. スティーグリッツの写真が伝えた《泉》
  16. 「リチャード・マット事件」の主張
  17. ルイーズ・ノートンの「浴室のブッダ」
  18. ビアトリス・ウッドの証言から何がわかるか
  19. 1917年の《泉》の現物はなぜ見られないのか
  20. 1950年の再制作が《泉》に与えた姿
  21. 1964年の版と複製の問題
  22. 作者が手で作ることは必要なのか
  23. 美しさは芸術の条件なのか
  24. 物の用途はどう変わるのか
  25. 1917年の手紙は誰の関与を伝えているか
  26. エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンをめぐる議論
  27. 女性たちは《泉》の物語にどう関わったか
  28. 作品をめぐる情報は何を変えるか
  29. 美術館に展示されると何が起きるか
  30. 「芸術の世界」を考えたアーサー・ダントー
  31. 制度としての芸術を考えたジョージ・ディッキー
  32. 概念を作品の中心へ置いた1960年代の美術
  33. 複製できる作品にはどんな価値があるのか
  34. 《泉》の問いを現在の美術へどうつなげるか
  35. 便器を展示したら芸術になるのか
  36. 略年表|《泉》とレディメイドをめぐる出来事
  37. まとめ|便器を展示したら芸術になるのか
  38. 参考資料・出典

第一次世界大戦中のニューヨークはどんな都市だったか

工業製品が生活の中にあふれる

20世紀初頭のニューヨークでは、工場による大量生産と流通の発達で、同じ形の生活用品が広く手に入るようになりました。家具や台所用品、配管設備なども、専門の商店や製造会社を通じて販売されました。普通の人が毎日使う物の形は、工業化された社会の中で決まっていきます。

美術品は伝統的に、特定の作者が作った珍しい物として扱われてきました。《泉》に選ばれた小便器は、同じ種類の製品を市場で買える存在でした。この違いが、後に作品の価値を考える際の大切な問題になります。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

欧州の戦争と芸術家の移動

1914年に始まった第一次世界大戦は、ヨーロッパ各地の都市と芸術家の生活を大きく変えました。徴兵や物資の不足、移動の困難が生じ、多くの人々が別の土地で活動するようになります。フランスから移ってきたデュシャンも、1915年にニューヨークで生活を始めました。

米国は1917年4月に参戦し、戦争はニューヨークの暮らしにも近づいてきます。前衛美術の活動も、この政治的な転換期の都市で行われていました。(参照:米国国立公文書館|1917年4月6日の第一次世界大戦参戦/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

美術を発表する新しい場

ニューヨークの美術界には、美術館、画廊、芸術家の集まり、私的なサロンがありました。新しい作風を持つ画家が作品を発表するには、展示する場所と、それを受け止める人々が必要でした。

1917年の独立美術家協会が掲げた自由な出品の原則は、作品を選ぶ権限を誰が持つかという問題と深く関係します。《泉》の一件を理解するには、どんな展覧会に出そうとしたのかを知ることが出発点になります。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/メトロポリタン美術館|キャサリン・ドライアーと独立美術家協会)

1913年のアーモリー・ショーが残した衝撃

ヨーロッパの新しい美術を米国で紹介する

1913年のアーモリー・ショーは、ニューヨークなどで開催された大規模な国際近代美術展でした。米国の観客は、キュビスムやほかの新しい表現にまとめて接する機会を得ます。伝統的な描写と異なる絵画は、会場で驚きや反発を呼びました。

これまでの絵画で重要だった人物の輪郭や自然な遠近法は、新しい画家たちによって大胆に組み替えられていました。観客は、芸術が何を描くべきかを改めて考えることになります。(参照:フィラデルフィア美術館|《階段を降りる裸体 No.2》1912年/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

《階段を降りる裸体 No.2》1912年

デュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》は1912年に描かれ、1913年のアーモリー・ショーで大きな反響を呼びました。画面には、身体の動きを示すような連続した形が重なり、人物の姿は幾何学的な面へ変形されています。

題名を読めば階段を降りる人物の動きを想像できます。絵だけを見れば何が描かれているのかすぐにはわからない人もいたでしょう。作品の題名と見る経験の間の緊張は、後のデュシャンの仕事にも続きます。(参照:フィラデルフィア美術館|《階段を降りる裸体 No.2》1912年/フィラデルフィア美術館|デュシャン回顧展の研究・作品構成)

作家の評価を変えた公開の機会

《階段を降りる裸体 No.2》は会場で嘲笑や論争を呼びました。同時に、その異例の画面は米国でデュシャンの名前を広く知らしめます。作品への反応は、観客が何を絵画として受け入れるかを示す出来事でもありました。

デュシャンが1915年にニューヨークへ来たころには、彼の名前はすでに前衛美術の議論と結びついていました。彼はその環境で、絵を描くことそのものの意味を問い直していきます。(参照:フィラデルフィア美術館|《階段を降りる裸体 No.2》1912年/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

デュシャンはなぜ絵画から距離を取ったか

絵を描く技術を学んだ芸術家

デュシャンは1887年にフランスのノルマンディー地方で生まれました。家族には画家や彫刻家として活動した兄たちがおり、本人も若いころは絵画を制作しています。1910年代初頭には、キュビスムや機械の形、運動の表現に関心を持ちました。

《泉》の作者として知られる現在の姿からは、彼が絵画の問題に長く取り組んでいたことが見落とされがちです。既存の技法を知ったうえで、その技法とは別の方法を探し始めた経緯が重要です。(参照:MoMA|マルセル・デュシャンの芸術とレディメイド/フィラデルフィア美術館|デュシャンの制作史と展覧会)

視覚的な美しさへの疑問

絵画を見るとき、人は色の調和や筆の巧みさに注意を向けます。デュシャンは、こうした目を通じた楽しさを作品の目的の中心へ据えることに疑問を持ちました。後年、感覚器官としての網膜に関係づけて批判する言葉を用いています。

彼が探したのは、物を見る経験と、そこに何を考えるかという知的な働きの関係でした。美術は鑑賞者の思考にも働きかけられるという見方が、レディメイドへ進む背景になります。(参照:MoMA|マルセル・デュシャンの芸術とレディメイド/MoMA|デュシャンとレディメイドの成立)

1912年以降の制作方法の実験

デュシャンは1912年ごろから、油彩画と異なる制作方法を積極的に試すようになります。機械の図面のような形、日用品の利用、言葉遊びなどが、作品の中心へ入ってきました。

その試みは、絵を描く仕事を急にすべてやめるという単純な変化ではありません。1910年代を通じて、絵画、物、写真、文章をまたぎながら、作品が成立する仕組みを実験していきました。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャン回顧展の研究・作品構成/ポンピドゥー・センター|デュシャンの作品とレディメイドの研究)

1913年《自転車の車輪》が開いた可能性

椅子の上で回る車輪

1913年、デュシャンは自転車の車輪を台所用の椅子に取り付け、アトリエに置きました。車輪は本来、道路を走る自転車の一部です。椅子は人が座るための家具です。二つを組み合わせると、普段の用途から離れた奇妙な物が現れます。

デュシャンは車輪を回す様子を眺めることにも関心を持ったと語っています。工業製品を新しい場所へ移すと、用途や見え方が変わるという実験の初期の例です。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/ポンピドゥー・センター|《自転車の車輪》の作品研究)

作ることと組み合わせること

椅子も車輪も、工場や職人の仕事によって作られた物です。デュシャンは部品そのものを最初から製造したのではありません。既存の物を選び、その関係を変える行為を行いました。

何かを作るとは、素材を加工して新しい形に仕上げることだけを意味するのでしょうか。別々の物を選び、意外な関係へ置くことにも創造的な判断が含まれます。《自転車の車輪》はその問いを具体的に示します。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/MoMA|レディメイドの定義)

初期作品の現物は残っているか

1913年に作られた最初の《自転車の車輪》は失われました。美術館が現在展示するものには、後年にデュシャンの関与を得て作られた版が含まれます。

ここで作品の意味と、特定の物としての現物の関係が問題になります。材料や部品を新しく用意しても、同じ作品として考えられるのかという問いが、早い段階から生まれていたのです。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/ポンピドゥー・センター|《自転車の車輪》の作品研究)

1914年《瓶乾燥器》と1915年《折れた腕に先立って》

《瓶乾燥器》に見る選択の行為

1914年にデュシャンは、瓶を乾かすための金属製の器具を作品として選びました。放射状に突き出す金属の腕を持つ器具で、本来は家庭や商店で使う道具です。複雑な形が見えても、その造形は生活上の目的から生まれていました。

美術として作るつもりのなかった物が、芸術家によって選ばれます。この過程では、造形を設計した職人や製造者と、作品として提示する芸術家の役割が異なります。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャン回顧展の研究・作品構成/MoMA|デュシャンとレディメイドの成立)

ニューヨークで買った雪かき用シャベル

デュシャンは1915年にニューヨークで雪かき用のシャベルを購入し、《折れた腕に先立って》という題名を与えました。シャベルは家の外で雪を除くための道具です。題名には、雪で滑って腕を折ることを防ぐというユーモアが含まれています。

本来の用途と少しずれた文章が加わることで、見る人は道具の意味を別の方向から考え始めます。作品を成立させるのは、物の姿と名前が作る関係でもありました。(参照:MoMA|《折れた腕に先立って》1915年の制作と後年の再制作/MoMA|レディメイドの定義)

物を選び題名を付ける方法

《自転車の車輪》《瓶乾燥器》《折れた腕に先立って》を並べると、デュシャンの方法の変化が見えます。部品を組み合わせる場合も、既製品をほぼそのまま置く場合もありました。

それぞれに共通するのは、芸術家が既にある物と出会い、物を選び、見せ方や名前を変えることです。1917年の《泉》は、この実験を公の展覧会へ持ち込んだ出来事になります。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/MoMA|《折れた腕に先立って》1915年の制作と後年の再制作/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

「レディメイド」とは何を指すのか

もともと「既製品」を意味する語

レディメイドという英語は、注文して作る品物に対して、すでに完成して販売される既製品を意味します。デュシャンはこの語を、自分が選んだ日用品に与える美術上の名称として使いました。

商品が工場で作られる仕組みと、芸術家が作品を作る仕組みを同じ物の上で考えられます。形を作った人と、その物を作品として示す人が分かれるところに、彼の問いがありました。(参照:MoMA|レディメイドの定義/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

1915年の妹への手紙

デュシャンは1915年、妹のシュザンヌ・デュシャン(1889–1963)への手紙で、既製品を使う自分の制作について説明しました。シュザンヌ自身も画家として活動しており、兄弟姉妹の間では美術についての対話が行われていました。

この手紙は、レディメイドという語が当時の実践の中で使われていたことを確認できる資料です。後年の解説だけに頼らず、芸術家がどのような言葉を選んでいたかを知る手がかりになります。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/MoMA|レディメイドの定義)

選ぶことと美的な無関心

デュシャンは後年、レディメイドを選ぶとき、美しいから好き、醜いから嫌いという反応から距離を取ろうとしたと説明しています。よい形を探して選ぶ美術制作とは異なる態度を試したのです。

この「美的な無関心」は作品に美しさがまったく現れないという意味ではありません。選ぶ行為を従来の好みや趣味から切り離そうとする、芸術家側の判断方法を指しています。(参照:MoMA|《泉》1950年版についての学芸員解説/MoMA|レディメイドの定義)

独立した芸術家たちを支えたニューヨークの人脈

アレンスバーグ夫妻の集まり

収集家ウォルター・アレンスバーグ(1878–1954)とルイーズ・アレンスバーグ(1879–1953)の住まいは、ニューヨークの前衛芸術家たちが集まる場所になりました。デュシャンは1915年に渡米してから、この交流の中で作家や写真家と知り合います。

作品を発表する場と同じくらい、制作について議論する仲間の存在が重要でした。レディメイドを理解しようとする人々も、こうした交流の中にいました。(参照:メトロポリタン美術館|マン・レイとデュシャン、アレンスバーグの交流/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

ビアトリス・ウッドという芸術家

ビアトリス・ウッド(1893–1998)は米国出身の芸術家で、のちに陶芸家としても長く活動しました。若いころから前衛美術の人々と交流し、デュシャンや作家アンリ=ピエール・ロシェ(1879–1959)とともに雑誌を制作します。

ウッドは《泉》をめぐる出来事を後年の聞き取りでも語っています。作品を取り巻く人々の経験を知るうえで、彼女の活動と証言が重要な資料になります。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッド1976年聞き取り/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群)

キャサリン・ドライアーの美術活動

キャサリン・ソフィー・ドライアー(1877–1952)は、米国の画家であり、美術を紹介する活動にも力を注ぎました。デュシャンやほかの芸術家と協力し、従来の美術界から距離を取る作家が作品を発表できる環境を求めます。

1917年の独立美術家協会にも関わり、1920年にはデュシャン、マン・レイらとともに現代美術を紹介する「ソシエテ・アノニム」を設立します。新しい美術の流通は、作家以外の運営者や支援者の仕事によっても支えられました。(参照:メトロポリタン美術館|キャサリン・ドライアーと独立美術家協会/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

1916年に設立された独立美術家協会

「誰でも出品できる」という理念

1916年、デュシャンはウォルター・アレンスバーグやキャサリン・ドライアー、ウォルター・パックらとともに、独立美術家協会の設立に関わりました。協会は1917年に最初の大規模な展覧会を開きます。

芸術家の発表の機会を広げるため、作品の優劣を審査員が決める方法を避けようとしました。その自由をどのように運用するかが、《泉》の出品で試されることになります。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/メトロポリタン美術館|キャサリン・ドライアーと独立美術家協会)

会費6ドルと「審査員なし、賞なし」

協会は会費6ドルを納めて参加する方式を採り、「審査員なし、賞なし」を掲げました。審査を通過した作家にだけ展示の機会を与える制度から、一歩離れる試みです。

作品を選別する権威を小さくしようとしたことには、当時の美術界への批判が込められていました。どのような作品でも受け入れるという理念が、実際の会場でどう扱われるかが問われます。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

出品する自由と展示を決める権限

出品を自由にする制度でも、作品を運び、置き場所を決め、会場を管理する人々がいます。運営には展示の条件や判断が必要です。誰でも参加できるという言葉と、会場で何が展示されるかは、いつも同じ意味にはなりません。

《泉》の事件は、この違いを具体的に見せました。美術界の制度を支える原則そのものが、一つの品物の出品によって試されたのです。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

1917年の《泉》はどんな物だったか

磁器製の小便器を出品する

1917年4月、独立美術家協会の展覧会へ男性用の磁器製小便器が送られました。もともとは建物の衛生設備として作られ、配管器具を扱う店で購入できる工業製品です。そこに「R. Mutt 1917」という署名が書かれ、《泉》という題名が与えられました。

美術作品としての意味を考えるとき、材料の形だけを見れば同種の日用品と大きな違いはありません。出品された場所、署名、題名、作者の意図が、物の理解を変える要素になりました。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

展示のために向きが変えられた

通常、小便器は壁などに取り付けられ、決まった向きで使われます。デュシャンが《泉》として示した品物は、用途に沿った置き方から方向を変えられていました。スティーグリッツの写真でも、使用時とは異なる向きで物の曲線や空洞が見えます。

向きを変えるだけで、普段は衛生設備として見ていた物の形が、見慣れないものとして現れます。使用する立場から眺める立場への移動も、作品を考える手がかりです。(参照:フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作)

素材や形の特徴をどう読むか

白い磁器は表面が滑らかで、曲面に沿って光を反射します。配管へ水を流すために作られたくぼみや縁の形は、製品としての機能から決まっています。美術として眺めると、その曲線や左右の関係が目に入ります。

この視覚的な魅力は、工場で作られた物にも美しさを見いだせるという問いにつながります。デュシャンが物を選ぶときに美的な好みから距離を取ろうとしたことと、鑑賞者が形を美しいと感じることは、別の経験です。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/MoMA|《泉》1950年版についての学芸員解説)

《泉》という題名は何を変えたか

水の流れる仕組みと「泉」

泉という語からは、地面から自然に湧き出る水や、公園に置かれた噴水を思い浮かべます。作品として提出された小便器も水に関わる器具ですが、その水は配管設備の中で使われます。題名は、二つの異なる場所や用途を連想させます。

名前を読む前には普通の衛生設備に見えた物が、《泉》という語を通じて別の意味へ開かれます。題名が作品の受け取り方を変える力を持つことがわかります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」)

物の働きと名前の距離

「椅子」と呼ばれる物を目にしたとき、私たちは座るための道具だと理解します。同じ椅子に《王座》という題名を付ければ、用途は同じでも権力や儀礼を連想するかもしれません。名前は物の姿と結びつきながら、別の考えを呼び起こします。

《泉》も、物の種類を言い当てる説明から離れ、見る人が使う言葉とその意味を試す題名でした。既製品を選ぶだけでなく、言葉によって対象の位置づけを変えています。(参照:1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」/MoMA|レディメイドの定義)

タイトルが作品を成立させるのか

一つの小便器に題名を付けるだけで、その物について考え始めることはできます。題名を付けた人に芸術家としての意図があり、その物が公の展覧会へ送られると、さらに別の関係が生まれます。

デュシャンの行為は、名前だけがあればあらゆる物が自動的に芸術になるという単純な公式を示したものではありません。1917年の出品がどのような制度や議論を引き起こしたかまで含めると、題名の働きが具体的になります。(参照:MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》/フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料)

「R. Mutt」という署名をどう理解するか

本名を出さないで出品する

小便器に記されたのは、デュシャンの本名と異なる「R. Mutt 1917」という署名でした。展覧会を運営する人々が、すでに名の知られたデュシャンの作品だとわかれば、判断が変わった可能性もあります。

仮名による出品は、作者の知名度をいったん隠して物そのものへの反応を引き出します。展覧会が本当に作品を平等に受け入れるのかを試す意味がありました。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

配管器具の商標と名前遊び

「Mutt」という名前については、当時の配管器具会社の名や、新聞漫画の登場人物を連想させるという説明が伝えられています。複数の意味が重なる名前遊びは、デュシャンの作品に繰り返し現れる特徴です。

署名は製品の製造者を示すものでも、実在する「R. Mutt」という作家の伝記を示すものでもありません。名前がどのように作者を示し、作品へ権威を与えるのかを考えさせます。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/ポンピドゥー・センター|デュシャンの作品とレディメイドの研究)

署名があるとなぜ作品らしく見えるのか

同じ物に著名な画家の署名があれば、私たちは作品や収集品としての価値を考え始めるかもしれません。署名は、作者の存在を物へ結びつける社会的な印にもなります。

《泉》ではその署名が架空の人物を示します。物と作家の名前がどのような関係を持つか、作者の保証によって作品の価値が変わるのかが問われました。(参照:フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

《泉》の出品はなぜ認められなかったか

協会内部で持ち上がった判断

独立美術家協会の展示準備中、《泉》を会場に置くかどうかが問題になりました。自由な出品をうたっていても、日常の衛生設備を作品として見せることには抵抗があったのです。

結局《泉》は一般の来場者に向けて展示されませんでした。物が持つ日常の用途や公衆の場での印象が、展示の判断へ影響したことを考えられます。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

「審査員なし」と拒否の矛盾

同じ会費を払って出品する仕組みであれば、どの作品を受け入れるかを審査員が選ぶ原則は置かれていません。《泉》を拒むという判断は、その自由の理念の範囲をあらわにしました。

美術界における制度の問題が、作品を通じて示された出来事です。宣言された原則と実際の判断の間の違いは、デュシャンが狙った問いの一つでした。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

デュシャンは運営者の立場を離れる

デュシャン自身は独立美術家協会の運営に関わっていました。《泉》が拒まれた後、彼は協会の役職を辞任します。出品する立場と制度を支える立場の両方を経験した人物による抗議でもありました。

美術館や展覧会で作品がどのように扱われるかは、芸術家の意図と運営者の判断が交わるところで決まります。《泉》は、その関係を事件として明らかにしました。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/フィラデルフィア美術館|《泉》論争100周年の展覧会資料)

誰が芸術作品を決めるのか

芸術家の意図だけで足りるのか

作者が「これは芸術だ」と言えば、その物を作品として考える理由が生まれます。ところが、会場に並べるかを決める人や、実際に見る鑑賞者もいます。芸術家の意図が作品を作る過程は、他者による受け止め方と関係します。

1917年の協会は、表現の自由を掲げながら《泉》の展示を拒みました。芸術家の意図と制度の判断が食い違う具体例です。(参照:MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

展示する人が持つ権限

展覧会の運営者は、作品をどこへ置き、どの題名で示すかを決めます。何を見せるかという判断は、観客が出会う芸術そのものを変える力を持ちます。

作品を選ぶ条件が変われば、同じ物が会場に入る場合も、拒まれる場合もあります。《泉》は、運営者が持つ権限の実際の大きさを見せました。(参照:メトロポリタン美術館|キャサリン・ドライアーと独立美術家協会/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

拒否されても議論を引き起こす作品

《泉》は正式な展示から外れました。それでも、出品と拒否をめぐる出来事は、その後の文章や写真を通じて知られるようになります。作品として認められなかったことが、逆に芸術の定義をめぐる議論を生みました。

この展開は、展示の成功と作品の歴史的な意味が同じ尺度で決まらないことを示します。見えなかった作品について考える人々が、後の評価を形作っていったのです。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」)

雑誌『The Blind Man』は何を伝えたか

デュシャン、ロシェ、ウッドの共同編集

デュシャンは1917年、アンリ=ピエール・ロシェ、ビアトリス・ウッドとともに小さな前衛雑誌『The Blind Man』を発行しました。書籍や新聞より小規模でも、自分たちの考えを印刷して人々に届けられます。

新しい美術について、展覧会の運営者だけが言葉を発する必要はありません。芸術家や仲間が自分たちで出版することも、美術の見方を変える重要な活動でした。(参照:メトロポリタン美術館|1917年『The Blind Man』第2号/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群)

1917年5月の第2号

1917年5月の『The Blind Man』第2号には、《泉》をめぐる文章とアルフレッド・スティーグリッツによる写真が掲載されました。展覧会で一般公開されなかった物の姿が、印刷物によって読者へ届きます。

読者はその場にあった現物を見て判断する代わりに、写真と文章を通じて事件を理解します。《泉》の歴史では、作品の姿とその解説が同時に広がったことが重要です。(参照:ペンシルベニア州立大学図書館|『The Blind Man』第2号の見開き/フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』)

展覧会を出た後にも作品は流通する

展覧会は期間が終われば撤収され、入場できる人も限られます。雑誌に印刷された写真や文章は、会場から離れた人にも届き、時間がたってからも読み直せます。

《泉》の一件は、美術作品が物として展示されることと、記録や議論として流通することの関係をはっきり示しました。後世の人々が1917年の出来事を知る経路にもなっています。(参照:メトロポリタン美術館|1917年『The Blind Man』第2号/MoMA|複製とオリジナルをめぐるデュシャンの作品)

スティーグリッツの写真が伝えた《泉》

近代写真を紹介してきた写真家

アルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)は、米国で写真の芸術的な地位を高める活動を進めた写真家です。ニューヨークの「291」と呼ばれる画廊でも、写真とヨーロッパの新しい美術を紹介しました。

彼は《泉》を撮影し、その写真が『The Blind Man』へ掲載されます。日用品を美術として見る行為と、写真を美術として考える試みが、同じ都市の前衛的な交流の中で交わりました。(参照:ナショナル・ギャラリー(ワシントン)|スティーグリッツと《泉》の撮影/フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』)

光と影によって作られた見え方

スティーグリッツの《泉》写真では、白い磁器の曲線やくぼみが光によって浮かび上がります。背景の暗い部分と器具の白さが対照を作り、店頭で見る配管器具とは違う印象が生まれます。

写真は、物の存在を記録するとともに、どの角度と光でその物を見せるかを決めています。実物の選択に加えて、撮影という別の創造的な判断が作品のイメージを形作りました。(参照:フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』/ナショナル・ギャラリー(ワシントン)|スティーグリッツと《泉》の撮影)

現物より写真が広まった作品

1917年の《泉》の現物は、その後失われました。スティーグリッツの写真は、最初の作品がどんな姿であったかを知るための中心的な資料になります。

私たちが教科書や展覧会で見る《泉》の姿には、写真に記録された1917年の物と、その写真に基づいて後に作られた版があります。作品の歴史は、現物と記録が互いに関わる形で続いています。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作)

「リチャード・マット事件」の主張

作った人より選んだ行為に注目する

『The Blind Man』第2号には「リチャード・マット事件」という無署名の文章が掲載されました。そこでは、出品者が自分の手で品物を製造したかよりも、品物を選んだことに意味があると述べられます。

伝統的な美術制作では、作者が筆を動かしたり石を彫ったりすることが中心と考えられてきました。この文章は、芸術家の役割を物を選ぶ判断の中にも見いだす説明を提示しました。(参照:1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」/ペンシルベニア州立大学図書館|『The Blind Man』第2号の見開き)

日常の物に新しい考えを生み出す

雑誌の文章は、日常の物がもとの用途から離れ、題名と新しい視点によって別の考えを呼び起こす点を強調しました。小便器としての使い方を示す場所を離れたことで、物について別の意味を考えられるようになります。

作品として提示する行為が、見る人の考え方を変える。この説明は、後にレディメイドを理解する際の重要な手がかりとして読み継がれます。(参照:1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

無署名の文章を誰の意見と読むか

「リチャード・マット事件」は雑誌の編集部による無署名の文章です。ウッドやほかの関係者の名前が執筆者として論じられてきました。発表された主張をそのままデュシャン本人の一人称の発言として引用する際には、資料上の区別が必要です。

確かなのは、1917年5月の雑誌が、この議論を公に示したことです。作品の意味を考えるうえでは、文章の発行時期、執筆者の特定の難しさ、その後の受容を分けて読めます。(参照:ペンシルベニア州立大学図書館|『The Blind Man』第2号の見開き/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッド1976年聞き取り)

ルイーズ・ノートンの「浴室のブッダ」

雑誌に寄せられたもう一つの文章

ルイーズ・ノートン(1890–1989)は、ニューヨークの前衛芸術家たちと交流した作家です。彼女は『The Blind Man』第2号へ「浴室のブッダ」と題する文章を寄せ、《泉》について考えました。

作品の議論は編集部だけで完結していませんでした。関係者がそれぞれの言葉で、なぜあの器具を美術として受け止められるのかを論じています。(参照:デュシャン研究資料アーカイブ|ルイーズ・ノートン「浴室のブッダ」1917年/ペンシルベニア州立大学図書館|『The Blind Man』第2号の見開き)

見慣れた物の形を別のものに見立てる

ノートンは、器具の滑らかな輪郭や静かな佇まいを、別の文化の造形を連想させる言葉で語りました。物の用途を知っている人が、形を眺めて別の意味を見いだす経験です。

こうした文章は、デュシャンの美的な無関心という考え方とは異なる鑑賞者の反応を示します。作品は作者が意図する問いに加え、見る人の感覚からも多様に解釈されました。(参照:デュシャン研究資料アーカイブ|ルイーズ・ノートン「浴室のブッダ」1917年/フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』)

1917年の解釈にも違いがあった

《泉》をめぐる文章の中には、選ぶという行為を重視するものと、形が生み出す印象を重視するものがあります。前衛芸術の仲間たちの間でも、一つの物をめぐって異なる解釈が生まれていました。

この違いは、作品について議論すること自体が、新しい美術の経験を作ることを示します。物が一つでも、言葉や視点によって意味は広がります。(参照:デュシャン研究資料アーカイブ|ルイーズ・ノートン「浴室のブッダ」1917年/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」)

ビアトリス・ウッドの証言から何がわかるか

展覧会をめぐる当事者の記憶

ビアトリス・ウッドは、1976年にスミソニアン協会のアメリカ美術文書館による聞き取りで、1917年の《泉》をめぐる出来事を振り返りました。彼女は『The Blind Man』の活動に関わった当事者の一人です。

何十年も前の出来事を記憶から語る証言には、当時の空気を知る価値があります。同時に、1917年その場で作られた雑誌や書簡と照らし合わせることで、出来事をより慎重にたどれます。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッド1976年聞き取り/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群)

デュシャンが会則を試していたという理解

ウッドは、デュシャンが独立美術家協会の自由な出品の原則を試したと理解していました。協会が掲げる理念が本当に守られるかを、普通は芸術と呼ばれない物を持ち込んで確かめる試みだったという説明です。

この証言は、現代の芸術制度をめぐる議論に直結する点を含んでいます。作品を美術品として見せる側が、作品を判断する側の規則そのものを問うていたのです。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッド1976年聞き取り/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

共同で作られた議論の場

『The Blind Man』は、ウッド、ロシェ、デュシャンが関わる出版物でした。スティーグリッツの写真やノートンの文章も、事件の伝えられ方に関わります。

《泉》という名前が美術史に残る過程は、一人の作家だけが作品を作ったという説明より広くなります。共同の編集、撮影、証言、収集の仕事が、作品の意味を後世へ伝えました。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群/フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』/デュシャン研究資料アーカイブ|ルイーズ・ノートン「浴室のブッダ」1917年)

1917年の《泉》の現物はなぜ見られないのか

最初の器具が失われた

1917年に提出された《泉》の現物は、その後の所在がわからなくなり、現在は失われた作品として扱われています。現代の美術館で見かける白い小便器の《泉》は、1917年の同じ器具そのものとは別の版です。

最初の品物が残らなくても、出品した出来事や写真、文章は資料として残りました。ここには、芸術作品の物としての姿と、その意味を引き継ぐ記録の関係が現れています。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録)

残っているものは何か

スティーグリッツが撮影した写真、『The Blind Man』の印刷物、関係者の証言、後年作られた複数の版があります。それぞれ、1917年の出来事の異なる部分を伝えています。

写真は形や置き方を示し、文章は作品をめぐる当時の議論を示します。複製品は、作品と向き合う身体的な経験を再び作り出します。どの資料を見ているかによって、わかることが変わります。(参照:フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』/メトロポリタン美術館|1917年『The Blind Man』第2号/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作)

同じ作品を別の物で示せるのか

長年のあいだ使われた古い楽器が失われても、楽譜が残っていれば別の楽器で同じ曲を演奏できます。絵画では、作品の表面そのものが一回限りの制作の痕跡となる場合があります。

《泉》では、作品の中心が特定の磁器のかたまりにあるのか、既製品を選んで新しい意味へ置いた行為にあるのかが問われます。失われた現物という事情が、この問いを具体的にします。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/MoMA|複製とオリジナルをめぐるデュシャンの作品)

1950年の再制作が《泉》に与えた姿

後年の版が美術館へ残る

フィラデルフィア美術館は、《泉》の1950年版を所蔵しています。この版は、1917年の失われた原作に基づき、デュシャンが関わって署名を与えた再制作です。

美術館の作品情報では、原作の制作年と現存する版の制作年が区別されています。展示される物がいつ作られたのかを確かめることが、《泉》の歴史を理解するうえで重要です。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録/フィラデルフィア美術館|《泉》論争100周年の展覧会資料)

1917年と1950年をどう結ぶか

1950年の器具は、1917年に出品された物と物質的には同じではありません。作品としての名前、作者の関与、再制作の意図が、二つの時代を結びつけています。

作者が再制作を承認することで、作品の同一性を考える条件も変わります。美術品を一回限りの手仕事と考える見方から、行為や考えの再提示として捉える方向が開かれます。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録/MoMA|《泉》1950年版についての学芸員解説)

戦後の観客が見るようになった作品

1917年の展覧会では人々の前に展示されなかった《泉》が、戦後には美術館で鑑賞されるようになります。かつて拒まれた物が、公的な美術制度の中で見られる作品へ変わりました。

この変化は、物の形に起きた変化以上に、その物を取り囲む人々の考え方や制度の変化を示しています。美術として認める基準にも歴史があります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》論争100周年の展覧会資料/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

1964年の版と複製の問題

ミラノで再び作られた《泉》

1964年、デュシャンの監修のもと、ミラノのアルトゥーロ・シュヴァルツの画廊が《泉》の複製版を制作しました。ポンピドゥー・センター所蔵の版も、この制作に関わる作品として記録されています。

最初の品物が失われてから数十年たち、当時の写真と資料を参照して、新たな器具が美術として作られました。1917年の選択が、異なる時代の制作を支える考えとして受け継がれています。(参照:ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作/ポンピドゥー・センター|デュシャンの作品とレディメイドの研究)

工業製品の複製と作品の版

工業製品は、同じ設計に従って数多く作られます。美術作品の版も、同じ構想のもとで複数作られることがあります。《泉》には、この二つの複製の仕組みが重なっています。

一般に販売される小便器と、美術館の作品として管理される《泉》では、形が近くても由来や署名、制作の記録が異なります。誰がどの版を作り、どのように認めたかが、作品を理解する材料になります。(参照:ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作/MoMA|レディメイドの定義)

原作が失われた作品の保存

絵画や彫刻の保存では、作者が触れた素材を長く残そうとします。《泉》の場合は、最初の品物が失われた後も、写真と作者の関与によって複数の版が生まれました。

作品を保存するとは何を保つことなのか。物質、形、名前、作者の考え、制作された状況という複数の要素があることを、《泉》の再制作は示しています。(参照:ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録)

作者が手で作ることは必要なのか

作る技術を重視してきた美術

絵を描く人は、構図や色の調整を重ね、筆の技術を磨きます。彫刻家は素材を彫り、削り、形を生み出します。こうした制作技術は長く、美術の評価において大切な役割を担ってきました。

デュシャンは、同じ価値を工場製品の製造者と区別された「作品の作者」にどう求めるかという問題を示しました。《泉》では、磁器を成形した人と、物を選んで出品した人が異なります。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」)

選ぶという行為にも判断がある

日用品売場にはたくさんの物が並んでいます。その中の一つを選び、題名を付け、決まった場所へ置くことは、人間の判断を必要とします。デュシャンは、その判断を作品を作る中心へ置こうとしました。

何を選んだかだけでなく、いつ、どこで、どんな目的のために選んだかが問題になります。1917年の小便器は、自由な出品を掲げた展覧会へ送られたことで、特別な問いを生みました。(参照:MoMA|レディメイドの定義/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

発想と実現の関係

建築では設計図を書く人と建物を施工する人が異なることがあります。音楽でも作曲と演奏は別の仕事です。それぞれの活動が一つの作品へ関わります。

この身近な分業から、《泉》の問いを考えられます。芸術家の仕事には、物を加工する行為とともに、何をどう示すかを考える行為もあります。デュシャンはその配分を大胆に変えました。(参照:1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

美しさは芸術の条件なのか

好みを基準にすることへの疑問

美術館の作品を見て「きれいだ」と感じるとき、その判断は色や形の好みから生まれます。デュシャンはレディメイドを選ぶ際に、美しいと感じるか、醜いと感じるかという基準から離れようとしました。

それまでの美術を評価する言葉では、技術や美しさが重要な位置を占めていました。《泉》は、そうした基準から作品を考える別の道があるかを試しています。(参照:MoMA|《泉》1950年版についての学芸員解説/MoMA|レディメイドの定義)

不快に感じる物を美術館へ置く

トイレの器具は身体の排泄と結びついています。普段は衛生設備として使用し、人前で鑑賞する対象にはしません。これを展覧会へ持ち込むと、場所にふさわしい物とは何かという社会的な感覚が刺激されます。

嫌悪や困惑を引き起こすことも、観客が作品について考え始めるきっかけになります。《泉》は、心地よい見た目だけが鑑賞者の経験を作るのかという問題を開きました。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/MoMA|1910年代のダダの広がりとデュシャン)

美の判断と芸術の判断の違い

海辺で美しい石を見つけても、それをすぐに芸術作品だと呼ぶ人は少ないでしょう。作家がその石を選び、題名を付けて展示した場合には、別の問いが生まれます。

美しいと感じることと、芸術作品として意味を考えることは、同じ経験の中で重なる場合もあれば別々に起きる場合もあります。デュシャンの例は、その違いをはっきり考える機会を与えます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/MoMA|レディメイドの定義)

物の用途はどう変わるのか

トイレの器具から鑑賞の対象へ

小便器は配管につなぎ、衛生設備として使うための物です。作品として横倒しに置かれると、通常の使い方から離れます。用途を持つ物が、眺めたり考えたりする対象へ変わります。

この移動によって、機能のために作られた曲線が、形そのものとしても経験されるようになります。日常の物に新しい注意を向けることが、レディメイドの重要な働きです。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作)

場所が変わると意味が変わる

駅に置かれた時計は時間を知るために見ます。同じ時計が美術館の展示台に置かれ、「時間」と題されていれば、見る人は経過する時間や機械の仕組みについて考えるかもしれません。

この例からも、物の置かれた状況が受け取り方を左右するとわかります。《泉》では、日用品を美術展へ持ち込むという行為自体が、作品の意味を生み出しています。(参照:MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」)

生活の物と美術品の境界を調べる

同じ工場で生産された物のうち、一つだけが美術作品として展示されるとします。その物質的な性質に違いが見えなくても、由来や提示された状況は異なります。

ここから、物の性質だけで芸術作品と日用品を完全に区別できるかという問いが生まれます。《泉》は、その境界について考えるための具体的な例になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/MoMA|レディメイドの定義)

1917年の手紙は誰の関与を伝えているか

妹シュザンヌへの4月11日の手紙

デュシャンは1917年4月11日、妹シュザンヌに宛てた手紙で、男性の仮名を使う女性の友人が磁器製小便器を彫刻として送ったと述べました。この記述は、後年《泉》の出品に誰が関わったかを考える際に注目されてきました。

デュシャンの作品として広く紹介されてきた《泉》には、出品を実際に手配した人や署名の意味をめぐる史料上の疑問があります。関係者を一人に決める前に、手紙が伝えている内容を確かめることが重要です。(参照:オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史/美術専門紙|《泉》の帰属問題に関する研究者間の論争)

「女性の友人」は誰を指すのか

手紙に記された友人については、ルイーズ・ノートンや別の人物が候補として議論されています。デュシャンはこの手紙で個人名を明示していません。出品手続きへの関与と、作品の発想を誰がしたかという問題も分けて検討できます。

こうした疑問は、匿名で出された作品に誰の判断が関わっていたかを考えるものです。協会の出品記録、当時の手紙、写真の細部などが研究の対象になっています。(参照:オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史/美術専門紙|《泉》の帰属問題に関する研究者間の論争)

史料から確かめられることの範囲

1917年に《泉》が出品され、展示が拒否され、雑誌に写真と文章が掲載されたことは、当時の記録から確認できます。出品の準備で誰がどの行為を担ったかについては、資料をどう読むかによって異なる解釈があります。

芸術史では、後に有名になった作品ほど、一人の人物に多くの出来事をまとめて語る傾向が生まれます。1917年に関わった人々の役割を具体的に分ければ、出来事をより正確に理解できます。(参照:ペンシルベニア州立大学図書館|『The Blind Man』第2号の見開き/オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッド1976年聞き取り)

エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェンをめぐる議論

ニューヨークで活動した前衛芸術家

エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(1874–1927)は、ドイツ生まれでニューヨークの前衛芸術に関わった作家です。詩や身体を使った表現、生活の物を取り入れた活動で知られています。

彼女の仕事からは、当時の前衛美術を支えた女性たちの活動も見えてきます。《泉》の帰属をめぐる議論でも、その存在が改めて注目されました。(参照:オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史/美術専門紙|《泉》の帰属問題に関する研究者間の論争)

《泉》の発想者だとする説

一部の研究者は、デュシャンが妹へ書いた「女性の友人」という言葉や、エルザの制作傾向から、《泉》の発想や出品に彼女が大きく関わった可能性を主張しています。美術史の通説を見直そうとする議論の一つです。

同じ資料を検討して別の結論を示す研究者もいます。作品の作者名を変更するかどうかは、複数の史料と当時の出来事の整合性を慎重に確かめる必要がある問題です。(参照:美術専門紙|《泉》の帰属問題に関する研究者間の論争/オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史)

作者を一人に定めることの難しさ

《泉》の歴史には、製品の製造、品物の選択、署名、提出、雑誌編集、写真撮影など、いくつもの行為が含まれます。それぞれの仕事に異なる人物が関わる可能性があります。

デュシャンのレディメイドが問う「誰が作品を作るのか」という問題は、この帰属をめぐる研究にも重なります。既知の事実と論争中の解釈を分けて考えることが、作品への理解を深めます。(参照:オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群)

女性たちは《泉》の物語にどう関わったか

シュザンヌ・デュシャンとレディメイドの対話

シュザンヌ・デュシャンは、自身も画家として活動し、兄マルセルと芸術について手紙を交わしていました。1915年のレディメイドをめぐる書簡や1917年の《泉》に関する記述は、家族の交流が制作史の重要な記録を残したことを示します。

妹に宛てて考えを説明する行為そのものが、デュシャンの作品を知る資料になりました。制作の歴史は、美術館に残る作品の外にも広がっています。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイドの成立/オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史)

ウッドとノートンが担った言葉の仕事

ビアトリス・ウッドは雑誌の編集に関わり、ルイーズ・ノートンは《泉》を論じる文章を書きました。彼女たちの仕事が、展覧会で拒否された物を後世に伝えるうえで役立っています。

作品の発明や発想に誰が関わったかという問題と、作品が知られるようになった過程で誰が何をしたかという問題は、両方とも美術史に必要です。実際に残る文章と証言から、その役割をたどれます。(参照:スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群/デュシャン研究資料アーカイブ|ルイーズ・ノートン「浴室のブッダ」1917年)

当時の女性作家たちの活動を具体的に見る

キャサリン・ドライアーは展覧会と収集の活動を進め、ウッドは編集と制作を続け、ノートンは文章で作品を解釈しました。同じ時代に、女性たちは異なる仕事を通じて前衛美術の活動を支えていました。

《泉》をめぐる議論から当時の美術界へ視野を広げると、作品を生み出すことと、その意味を世に届けることの多様な担い手が見えてきます。(参照:メトロポリタン美術館|キャサリン・ドライアーと独立美術家協会/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッドの資料群/デュシャン研究資料アーカイブ|ルイーズ・ノートン「浴室のブッダ」1917年)

作品をめぐる情報は何を変えるか

小便器の写真だけを見せられた場合

写真だけを見て、これが1917年に展覧会への出品を拒まれた物だと知らなければ、白い器具の形へ目を向けるかもしれません。人によっては、変わった姿の配管器具だと考えるでしょう。

独立美術家協会の理念や拒否の経緯を知ると、その器具は作品を選ぶ権限について問いかける存在にもなります。知識が加わることで、一つの物の経験が変わります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

題名・署名・時代背景という情報

作品のそばにある短い説明文には、題名、作者、制作年が書かれています。《泉》の場合、R. Muttという署名と1917年という年号が、どのような事件を指すかという説明が作品理解を大きく左右します。

美術館の作品情報は単なる付属物として働く場合もあります。《泉》では、その情報を知ることが作品の意味へ近づくための重要な部分になります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録)

説明が作品の理解を閉じてしまう場合

《泉》を「既製品も芸術になると証明した作品」という短い文章で覚えると、1917年の出品の仕組みや拒否の理由、雑誌に書かれた異なる主張が見えにくくなります。

作品の背景を知る意味は、正解の文章を一つ覚えることよりも、なぜ芸術として考えられるのかを具体的に問い直せるようになるところにあります。歴史的な資料を読むことで、その問いが豊かになります。(参照:1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」/フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料)

美術館に展示されると何が起きるか

展示台の上で目に入る日用品

家庭の台所にある皿は、食事をするための物です。同じ皿が美術館の展示台に置かれ、作品名と作者名が示されれば、見る人はその形や文化的な意味を考え始めるかもしれません。

《泉》が持ち込まれたのは、こうした意味の変化を起こすことのできる展覧会の場でした。会場へ入ること自体が作品の解釈と関わります。(参照:MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

制度が価値を保証するという問題

美術館には、作品を収集し、保存し、説明する専門家がいます。鑑賞者は、美術館が選んだ物には作品として考える理由があると期待します。その期待が、展示物の見方へ影響します。

《泉》の事件では、自由な出品を掲げた協会が展示を拒みました。後年、その作品が美術館に所蔵されるようになったことで、美術制度が与える評価も歴史の中で変化することが見えます。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録)

展示されなくても芸術でありうるか

1917年の《泉》は協会の展示を拒まれました。そこで作品が終わったと考えれば、後に生まれた写真や文章、再制作の歴史を説明しにくくなります。

芸術作品であることを制度の承認だけで説明しようとすると、作品が制度へ異議を申し立てた意味を考える必要が生まれます。《泉》は、美術館や展覧会の役割と限界を同時に問いかけます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争)

「芸術の世界」を考えたアーサー・ダントー

1964年の「アートワールド」

米国の哲学者アーサー・ダントー(1924–2013)は、1964年に発表した「アートワールド」で、芸術作品を理解する際に美術史や芸術理論の知識が果たす役割を論じました。外見がよく似た物でも、芸術としての意味は異なりうるという問題が重要になります。

ダントーの議論は《泉》から何十年も後に書かれた哲学です。デュシャンの作品が後の哲学者へ投げかけた問題を考える際に、作品の制作当時とは異なる時代からの視点を与えてくれます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

見た目が同じでも意味が違う

美術館に一つの箱が置かれているとします。見た目が同じ箱が店の棚にも並んでいるとき、私たちは二つを同じ物として見分けることが難しいでしょう。

ダントーが考えた問題は、見た目の同一性だけで芸術としての意味を説明できるかということです。作品が何についての表現であり、美術史のどこに位置づくかという背景が、理解に関わると考えます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/MoMA|レディメイドの定義)

《泉》の理解へどうつながるか

小便器の形を詳細に測ることからは、なぜ1917年の《泉》が展覧会の原則を試したのかまで説明できません。作品が置かれた歴史と、美術をめぐる考え方を知ることで、新しい意味が見えてきます。

ダントーの芸術哲学を通すと、《泉》が示した問題をより広い形で考えられます。物として何が見えるかと、その物を何として理解するかの関係が、哲学の問いになります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料)

制度としての芸術を考えたジョージ・ディッキー

美術制度が持つ役割を説明する

米国の哲学者ジョージ・ディッキー(1926–2020)は、1974年の『芸術と美的なもの』などで、芸術作品が美術界の活動や制度の中で成立するという考えを詳しく論じました。この方向は一般に「芸術の制度論」と呼ばれます。

芸術家、美術館、批評家、観客は、作品を作り、示し、理解する活動を通じて関係しています。ディッキーは、この社会的な関係を芸術の定義に含めようとしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛)

社会的な地位と作品の価値

美術館へ収蔵された物は、収集品として記録され、研究や展示の対象になります。その物が作品として扱われる地位と、見た人が魅力を感じるかという評価は、関係しながらも別の問題です。

ディッキーの制度論を通すと、ある物が美術として扱われる条件を、美術界の活動という観点から検討できます。《泉》が1917年に拒まれ、後年受け入れられた歴史も、この問いに関係します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録)

制度が認めるものはすべて芸術なのか

美術館の展示が誤りを含むことや、後になって評価が変わることもあります。社会的な制度から芸術を定義しようとすると、制度自体の判断をどのように評価するかという問いが生まれます。

《泉》は、制度に拒否されたことで新しい議論を生み、後年には制度に受け入れられました。その経緯は、芸術の制度論にとっても考察すべき材料になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

概念を作品の中心へ置いた1960年代の美術

ジョセフ・コスース《一つと三つの椅子》

米国の芸術家ジョセフ・コスース(1945–)は、1965年の《一つと三つの椅子》で、実物の椅子、椅子を撮影した写真、辞書に記された椅子の定義を並べました。私たちは同じ「椅子」という言葉で呼ばれる三つの異なる存在に向き合います。

人は物の形を見てそれが椅子であると理解し、言葉を読んで椅子とは何かを知ります。コスースの作品は、この認識の関係を作品の内容へ取り込みました。生活の道具を通じて芸術の意味を考える点で、《泉》とつながる問いを持っています。(参照:MoMA|ジョセフ・コスース《一つと三つの椅子》1965年/MoMA|コンセプチュアル・アートの歴史と考え方)

作品の構想と実物の関係

1960年代のコンセプチュアル・アートでは、作品を成り立たせる考え方や手続きそのものが重要な位置を占めるようになりました。説明文、地図、写真、指示書などが作品として示される場合もあります。

デュシャンの《泉》は、完成した道具を選んだ人の判断へ目を向けるきっかけを作りました。後の作家たちはその問題を、言葉や情報、制作のルールへさらに広げています。成立した時代と目的の異なる作品を見比べることで、展開の多様さを知ることができます。(参照:MoMA|コンセプチュアル・アートの歴史と考え方/MoMA|レディメイドの定義)

前衛美術から芸術の哲学へ

1917年の《泉》は、独立美術家協会の出品規則に直接関わる出来事でした。1960年代には、芸術の定義そのものを題材にする作品や哲学的な議論が増えていきます。

《泉》と後の作品を単純な親子関係として並べるより、それぞれがどんな場面で何を問題にしたかを確かめることが大切です。そうすることで、一つの出来事が異なる世代に繰り返し読まれてきた理由が見えてきます。(参照:MoMA|コンセプチュアル・アートの歴史と考え方/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

複製できる作品にはどんな価値があるのか

物の一回性をめぐる疑問

伝統的な絵画では、作者が絵の具を重ねた画面そのものが大きな意味を持ちます。《泉》の原作が失われた後、後年に作られた別の小便器が同じ作品の名で展示されるようになった経緯は、物の一回性を考えさせます。

1917年の写真と1950年の再制作、1964年の版では、使われた器具や制作された時点が異なります。作品の意味を共有しながらも、それぞれの物には独自の履歴があります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作)

複製を認める作者の判断

1964年の再制作は、画商アルトゥーロ・シュヴァルツの企画にデュシャンが関わり、複数部が制作されました。美術館に収蔵された版の記録には、その関係が残されています。

後年の版は、作者の承認を受けた再制作という履歴とともに展示されています。1917年当時の器具とは異なる製品です。作品としての同一性を考えるには、物の製造年と作品が構想された年を分けて理解することが役立ちます。(参照:ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録)

写真と文章も作品の歴史を作る

人々が最初の《泉》の姿を知る大切な手がかりは、1917年にスティーグリッツが撮影した写真です。また、『The Blind Man』に掲載された文章が、作品をめぐる問題を伝えました。

現物がなくなっても、その物について考える機会は失われませんでした。写真に記録された姿、言葉による擁護、後年の再制作という異なる資料が結びつき、《泉》の歴史が作られてきました。(参照:フィラデルフィア美術館|スティーグリッツによる《泉》写真と1917年『The Blind Man』/メトロポリタン美術館|1917年『The Blind Man』第2号/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作)

《泉》の問いを現在の美術へどうつなげるか

作品の意味を決める複数の人

作品は芸術家の判断から始まることがあります。その後、展示を企画する人、批評を執筆する人、写真を撮る人、作品を保存する人、鑑賞する人が、それぞれの働きによって作品の受け止め方に関わります。

《泉》の歴史には、デュシャン、独立美術家協会の委員、雑誌の執筆者、写真家、美術館の専門家が登場します。芸術の意味が一人の意図だけで完結しないことを、その経緯から具体的に理解できます。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/スミソニアン協会アメリカ美術文書館|ビアトリス・ウッド1976年聞き取り/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

よい作品だと感じることと芸術であること

ある作品を芸術として考えることと、その作品を好むことは、日常の鑑賞では別々に起こります。《泉》を見て面白いと思う人も、強い拒否感を抱く人もいるでしょう。

作品の美しさ、歴史的な重要性、芸術としての資格を分けて考えると、評価の理由を細かく説明できます。1917年に提示された問いが今でも役立つのは、目の前の物に向ける判断を丁寧に言葉にできるからです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料)

制度の外から新しい提案が現れるとき

美術館や展覧会は、作品を多くの人に見せる大切な場です。その運営には展示の基準や収集の方針があります。新しい制作方法は、既存の基準で測りにくい場合があり、対話や衝突を生みます。

独立美術家協会で起こった《泉》の出品拒否は、自由を掲げた制度にも判断の境界があることを明らかにしました。後からその境界がどのように変わったかを確かめることも、美術史を読む楽しさにつながります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

便器を展示したら芸術になるのか

1917年の出来事から答えを考える

デュシャンが関わった《泉》は、1917年の展覧会で作品として認められず、会場に並びませんでした。展覧会の原則をめぐる対立が生まれ、写真と雑誌の文章がこの出来事を広く伝えます。

この歴史からわかるのは、既製品を選び、題名と署名を与え、公の展示へ持ち込む行為が、芸術について考えるきっかけになりうることです。便器という素材の意外さと同じくらい、作品を発表する仕組みが重要でした。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」)

作品になる理由をどこに見いだすか

《泉》を理解する方法はいくつもあります。既製品を選ぶ芸術家の判断に注目する方法、器具の形と題名の関係を見る方法、出品拒否の歴史を読む方法、制度が芸術を認める条件を検討する方法です。

どの方法を取っても、作品を見たという経験だけで考察が終わることはありません。物の姿と、そこに重なった人々の行為や言葉を行き来することで、芸術の範囲について自分なりの説明を作れます。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》と情報の役割に関する学習資料/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

新しい問いを生み続ける作品

1917年の小便器は、当初の展覧会に姿を現さず、現在見られる作品の多くは後年の再制作です。それでも《泉》は、美術館で展示され、哲学の議論で取り上げられてきました。

「何を芸術と呼ぶか」という問いには、作ること、選ぶこと、示すこと、考えることが関わります。デュシャンの《泉》が美術史に残したのは、その問いを一つの物と具体的な事件によって、多くの人が考え続けられるようにしたことでした。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/MoMA|デュシャンと美術館、1917年の《泉》)

略年表|《泉》とレディメイドをめぐる出来事

  • 1887年|マルセル・デュシャンがフランスのブランヴィル=クルヴォンで生まれる
  • 1890年|ルイーズ・ノートンが生まれる。のちに《泉》をめぐる文章を書く
  • 1893年|ビアトリス・ウッドが生まれる。のちに『The Blind Man』の編集に加わる
  • 1908年|デュシャンがパリの展覧会で絵画を発表する
  • 1912年|デュシャンが《階段を降りる裸体 No.2》を制作する
  • 1913年|ニューヨークなどでアーモリー・ショーが開かれ、《階段を降りる裸体 No.2》が反響を呼ぶ
  • 1913年|デュシャンが《自転車の車輪》を制作する
  • 1914年|デュシャンが《瓶乾燥器》を選ぶ
  • 1914年7月|ヨーロッパで第一次世界大戦が始まる
  • 1915年|デュシャンがニューヨークへ渡り、生活を始める
  • 1915年|ニューヨークで雪かき用シャベルを選び、《折れた腕に先立って》という題名を付ける
  • 1916年|デュシャンやキャサリン・ドライアーらが独立美術家協会の設立に関わる
  • 1917年4月6日|米国が第一次世界大戦に参戦する
  • 1917年4月|独立美術家協会の第1回展覧会で、R. Mutt名義の《泉》の出品が認められない
  • 1917年4月11日|デュシャンが妹シュザンヌへの手紙で、小便器の出品と「女性の友人」について触れる
  • 1917年4–5月|アルフレッド・スティーグリッツが《泉》を撮影し、写真を残す
  • 1917年5月|『The Blind Man』第2号に《泉》の写真と擁護文、ルイーズ・ノートンの文章が掲載される
  • 1921年|ダダをめぐる活動が各地で広がり、レディメイドが前衛美術の重要な実験として知られていく
  • 1946年|アルフレッド・スティーグリッツが死去する
  • 1950年|デュシャンの関与を得た《泉》の再制作が行われる
  • 1964年|アルトゥーロ・シュヴァルツの企画で《泉》を含むレディメイドの版がデュシャンの承認を受け制作される
  • 1964年|アーサー・ダントーが論文「アートワールド」を発表する
  • 1965年|ジョセフ・コスースが《一つと三つの椅子》を制作する
  • 1968年|マルセル・デュシャンが死去する
  • 1974年|ジョージ・ディッキーが『芸術と美的なもの』を刊行し、芸術の制度論を詳しく論じる
  • 1976年|スミソニアン協会がビアトリス・ウッドへの聞き取りを記録する
  • 2017年|フィラデルフィア美術館が《泉》論争100周年を記念する展覧会を開催する

略年表はメトロポリタン美術館、フィラデルフィア美術館、MoMAの所蔵・研究資料と、1917年の『The Blind Man』、デュシャンの書簡に関する研究資料を照合して作成しました。出品拒否の年と後年に制作された版の年代を分けて記載しています。(参照:メトロポリタン美術館|マルセル・デュシャンとニューヨークの前衛/フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/メトロポリタン美術館|1917年『The Blind Man』第2号/ポンピドゥー・センター|《泉》1917年原作と1964年の再制作/オークランド博物館研究紀要|《泉》の帰属問題と写真史)

まとめ|便器を展示したら芸術になるのか

1917年のニューヨークでは、第一次世界大戦の影響が広がるなか、独立美術家協会が審査員や賞を設けない展覧会を企画しました。マルセル・デュシャンは、それ以前から自転車の車輪、瓶乾燥器、雪かき用シャベルなどの既製品を選び、作品として示す方法を試していました。男性用小便器を横倒しにし、「R. Mutt 1917」と署名した《泉》は、その実験が公の展覧会の原則と向き合う出来事になりました。

協会は《泉》の展示を認めず、デュシャンは協会の役職を辞しました。作品の姿はアルフレッド・スティーグリッツの写真に残され、1917年5月の『The Blind Man』第2号に写真と擁護文が掲載されます。「リチャード・マット事件」は、作品を自分の手で作ったかという問題より、既製品を選び、新しい名前を与えた行為に注目しました。ルイーズ・ノートンの文章は、器具の形をめぐる別の見方を示しています。

1917年の原作は現在失われており、美術館に残る《泉》には1950年や1964年に作られた版があります。どの物が作品なのか、複数の版が同じ作品の意味を共有できるのかという問いも、《泉》の歴史の中から生まれました。さらに1917年のデュシャンの手紙にある「女性の友人」への言及は、出品に関わった人物や作者の役割について研究を続ける手がかりになっています。

《泉》は、美術館に並ぶ物の美しさや作者の技術に加え、作品を選ぶ判断、展覧会の制度、記録する写真、作品をめぐる言葉が芸術の理解に関わることを示しました。後のコンセプチュアル・アートやダントー、ディッキーの芸術哲学から読み返すと、1917年の事件が多くの問いを残していることがわかります。「便器を展示したら芸術になるのか」という問いには、その物がどのように選ばれ、示され、論じられてきたかを具体的に考える道が開かれています。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の論争/1917年『The Blind Man』の原文|「リチャード・マット事件」/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版の作品記録/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

参考資料・出典

デュシャンと《泉》の制作・展示史についてはフィラデルフィア美術館、メトロポリタン美術館、MoMA、ポンピドゥー・センターの資料を参照しました。1917年の反応については『The Blind Man』第2号の原文と所蔵資料を重視し、後年の再制作と作品帰属の議論を別に整理しています。芸術の定義についてはスタンフォード哲学百科事典を参照しました。各小節末尾に対応する資料へのリンクを付しています。