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Philosophy

1984

【美術と哲学】抽象絵画は目に見えないものを表せるのか

リオタールとバーネット・ニューマン

1984年のパリでは、1977年に開館したポンピドゥー・センターが戦後美術を紹介する重要な場所となっていました。国の文化施設であるこのセンターには、近代美術館の展示室だけでなく、一般の人々が利用できる公共図書館や音楽研究のための機関も置かれています。1981年に発足したミッテラン政権は文化政策を重視し、美術館、劇場、地域の文化施設へ公共資金を投じていました。美術をめぐる議論は、美術館の作品と同じく、雑誌、展覧会、大学の講義を通して広く交わされていました。

戦後の抽象絵画も、そうした議論の対象でした。第二次世界大戦後のニューヨークでは、キャンバスを動作の痕跡で満たす画家や、広大な色の面を描く画家たちが新しい絵画を開拓しました。その一人バーネット・ニューマン(1905–1970)は、画面の大部分を赤や青で塗り、そこへ少数の縦線を置きました。見慣れた人物や風景はありません。絵の前に立つと、何を描いた作品なのかという疑問が浮かぶ一方、色彩の広がりが視野や身体感覚へ働きかけます。

フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924–1998)は、1984年に「崇高と前衛」を美術雑誌『Artforum』へ発表しました。彼はニューマンが1948年に書いた「崇高は今ここに」という文章を起点に、抽象絵画は「今、何かが起こる」という経験をどのように生むのかを問い直します。この問題には、18世紀のエドマンド・バーク、カントによる「崇高」の議論も関わっています。

例えば、幅約5.4メートルの赤い絵画に近づくと、端までを一目で見ることが難しくなります。画面の全体像を理解する前に、赤が視界を占め、一本の縦線が空間の感覚を変える。そのとき私たちは何を見ているのでしょうか。絵画が何かの姿を再現していなくても、そこでは確かに一つの経験が生まれています。ニューマンの具体的な作品とリオタールの原論考を手がかりに、「見えないものを表す」とは何を意味するのかを考えます。

CONTENTS

  1. 1984年、哲学者が抽象絵画に向き合った理由
  2. リオタールは「見えないもの」をどう問題にしたのか
  3. バーネット・ニューマンはどのような画家だったのか
  4. 1948年「崇高は今ここに」は何を宣言したのか
  5. 《Onement I》で一本の縦線が起こした変化
  6. 《Vir Heroicus Sublimis》はなぜ巨大なのか
  7. 色の広がりを「見る」とはどういうことか
  8. 白い画面の《The Voice》は何を響かせるのか
  9. 《Cathedra》の青はどこまで広がるのか
  10. 《Day One》は「始まり」をどう示すのか
  11. エドマンド・バークはなぜ恐怖と崇高を結びつけたのか
  12. カントは「崇高」をどのように考えたのか
  13. 「呈示する」と「再現する」は何が違うのか
  14. リオタールの「ニューマン――瞬間」は何を論じたのか
  15. 「今、何かが起こる」という感覚はなぜ重要なのか
  16. 抽象絵画の前で身体はどう働くのか
  17. ニューマンの彫刻は「ここ」をどう示したのか
  18. 《十字架の道行き》は何を表現したのか
  19. 宗教的な題名と抽象絵画はなぜ結びつくのか
  20. 1950年代の作品を1984年に読み直す意味
  21. 1982年から1984年へリオタールの崇高論はどう展開したのか
  22. 「崇高な作品」はすべて巨大である必要があるのか
  23. モンドリアンやマレーヴィチとは何が違うのか
  24. ロスコとニューマンの絵画は同じ経験を生むのか
  25. グリーンバーグのモダニズム論とどう違うのか
  26. 1985年「非物質的なもの」展は何を試みたのか
  27. リオタールの崇高論にはどのような批判があるのか
  28. カントからリオタールへの変化をどう評価するか
  29. 抽象絵画を前にしたとき何を考えられるか
  30. 前衛芸術が残した問いは何か
  31. 略年表|崇高論とニューマン、リオタールの歩み
  32. まとめ|抽象絵画は目に見えないものを表せるのか
  33. 参考資料・出典

1984年、哲学者が抽象絵画に向き合った理由

パリで展開した美術と思想の議論

1980年代前半のパリでは、1977年に開館したポンピドゥー・センターが近現代美術の展示と公共の文化活動を支えていました。1981年にはフランソワ・ミッテラン政権が誕生し、ジャック・ラングを文化相として美術・舞台芸術への公共支援が強化されます。美術館の展示や批評誌は、戦後の抽象絵画を新しい世代の表現と比較する場所になっていました。

写真、映像、インスタレーションが拡大する中で、絵画にはどんな経験を生む力があるのかが改めて問われます。大きな色面と少数の線から成る一枚の絵が、人間の世界理解を揺り動かすなら、その働きは形の美しさだけでは説明できません。フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924–1998)は、こうした問題に抽象絵画から取り組みました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

1979年の知識論から1984年の絵画論へ

リオタールは1979年の『ポストモダンの条件』で、進歩や人類解放といった大きな物語が知識を正当化する働きを考察しました。この著作は、コンピューター化が研究、大学、行政を変える時代に、知識の評価基準をどう捉えるかという問題を扱っています。

1984年に彼が向き合ったのは、知識を正当化する規則とは異なる、作品に接した瞬間の経験でした。見ているものを言葉で説明しようとしても、画面の存在感がその説明を超えてしまう。そこに起きる出来事をリオタールは「崇高」という古い美学概念を使って考え直します。知識論から美学への移行には、把握できないものにどう応答するかという共通の問題がありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

1984年の「崇高と前衛」という論考

リオタールの「崇高と前衛」は、1984年4月の美術雑誌『Artforum』第22巻第8号に掲載されました。美術批評の読者を対象にした文章で、冒頭にはアメリカの抽象画家バーネット・ニューマンの作品と1948年の文章が登場します。書誌上の初出年が1984年であることは、ゲティ研究所由来の目録でも確認できます。

同年の「ニューマン――瞬間」という論考も、ニューマンの絵画と時間を考える重要な文章です。1984年に扱われた問いは、抽象絵画が世界の何かを再現するかという問題から、作品の前で「何かが起こる」とはどういうことかへ移ります。両論考の掲載経路や後の英訳・再録を分けることで、この年の哲学的な仕事が見えてきます。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

リオタールは「見えないもの」をどう問題にしたのか

見える対象を描くとはどういうことか

風景画では、遠くの山、手前の木、空の色などが画面に描かれます。観客は描かれた物を認識し、現実の景色との違いを考えられます。抽象画では、色の広がりと一本の線があるだけで、山や人物に置き換える手がかりが乏しい場合があります。

それでも、何も見えていないわけではありません。色の面積、表面のむら、絵具が置かれた境界、作品と身体の距離を私たちは経験しています。その経験が何を示すのかという問いは、「描かれている物は何か」という問いと異なります。リオタールの関心は、目で見えるものと、それを理解する能力との間に生じる隔たりへ向かいました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

「表現できないもの」を表すという逆説

「表現できないもの」と言うと、通常は筆や言葉で示せない事柄を指します。では、その存在を作品によって知らせることはできるのでしょうか。例えば、夜空を見上げたときの広がりを写真一枚に収めても、その空間の果てまでを写し取ることはできません。

リオタールが論じる「呈示不可能なもの」は、見えない隠し絵のような対象ではありません。感覚に与えられる形が、思考の求める全体や理念に十分に応えられないという関係を指します。絵画は、その不足を別の絵で補うのではなく、見るという経験の中で限界そのものを感じさせることができます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

欠けているものを探す鑑賞との違い

画面に人物がいないとき、鑑賞者は「何かが省略されている」と考えるかもしれません。しかしニューマンの色面は、完成すべき人物像の背景として作られたわけではありません。作品全体が赤や白の色彩と縦線によって成立しています。

その前で「何を描いた絵か」と繰り返すと、見る側があらかじめ想定した対象だけを探してしまいます。リオタールは、絵の外に隠れた答えを見つける方法とは別に、見ているその瞬間の不安定さや強度を哲学の問題にしました。何かを理解し終えるより前に、絵がこちらに働きかける時間があるのです。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

バーネット・ニューマンはどのような画家だったのか

1905年のニューヨークに生まれた作家

バーネット・ニューマン(1905–1970)は、ポーランド系ユダヤ移民の家庭にニューヨークで生まれました。画家、著述家、批評家として活動し、第二次世界大戦後に形成されたニューヨークの抽象表現主義と深く関わります。ポロックやロスコと同じ美術史の流れで語られますが、彼の画面には飛び散る絵具より、広い色面と少数の垂直線が目立ちます。

1940年代までの作品をほとんど失い、1948年頃から自分の絵画の方法を確立していきました。ホイットニー美術館は、戦争と大量虐殺、核兵器の脅威を経験した画家が、過去の図像をそのまま受け継ぐことに疑問を抱き、新たな出発を目指したと説明しています。作品の簡潔な構造には、その歴史的な選択が関わっています。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

戦争後の文化と「新しい始まり」

ニューマンの世代は、1930年代の世界恐慌、第二次世界大戦、ナチスによるユダヤ人迫害、1945年の原爆投下を経験しました。美術で人間の尊厳や苦難をどう扱うかという問いは、政治と無関係な装飾の問題ではありませんでした。

戦後ニューヨークでは美術家、批評家、画廊、美術館による議論が増え、抽象表現主義が国際的に注目されます。ニューマンは、伝統的な英雄像や宗教図像を描き直すより、人間が新しい世界の始まりに立ち会うような絵画を構想しました。《Day One》の題名も、その出発への願いと結びついています。(参照:ホイットニー美術館|《Day One》(1951–52))

同じ抽象表現主義でも方法が異なる

ジャクソン・ポロック(1912–1956)はアメリカの画家で、床に置いたキャンバスへ絵具を垂らす方法によって、身体の運動を画面に残しました。マーク・ロスコ(1903–1970)は、重なり合う柔らかな矩形の色面によって、見る者の感情や空間感覚に働きかける絵画を展開しました。

ニューマンの縦線は、ポロックの軌跡ともロスコの境界とも異なり、広大な面を分けながら一つの場に結びます。これらの差を確認すると、「戦後の抽象絵画は目に見えない精神を表した」という一つの説明では足りません。作品がどんな行為と配置によって経験を生むかが、それぞれ異なっているのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|バーネット・ニューマン作品一覧)

1948年「崇高は今ここに」は何を宣言したのか

画家自身が書いた崇高についての文章

1948年、ニューマンは文芸・美術誌『The Tiger’s Eye』に「The Sublime Is Now(崇高は今ここに)」を発表しました。彼はヨーロッパ美術で美しい形や伝説的な題材が重んじられてきた歴史を踏まえ、自分たちの時代にふさわしい「崇高な芸術」を作る必要を論じました。

その文章は、画面に神話の巨人や山岳風景を描くことを命じるものではありません。崇高をもたらす力を、形の整い方や歴史的図像への依存から離して考えようとしています。ニューマン自身の言葉と、約36年後にリオタールがその言葉へ与えた哲学的な読みは、成立した時期も目的も異なります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ニューマンの「崇高は今ここに」の主張)

崇高を「今」という時間で捉える

「崇高」という言葉は、遠い山脈や巨大な嵐を前にした畏怖を連想させます。ニューマンが題名に置いた「Now」は、壮大な対象の前へ出かけるという方向から、作品に接している現在へと注意を動かします。

絵画を見る時間は、制作時の過去を振り返るだけの時間ではありません。鑑賞者が画面の前に立つその時、色面が視界を満たし、立っている場所の感覚が変わる。ニューマンの「今」という言葉には、作品を通じて経験が起こるという強い要求が含まれていました。後のリオタールはここに、時間についての独自の問題を読み込みます。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

1948年の発言と1984年の解釈を分ける

ニューマンは画家として、特定の歴史に縛られない新しい美術の形式を求めました。リオタールは哲学者として、その絵画が見る人にどんな時間経験を与えるかを考えます。二人は同じ「崇高」を用いながら、問いの向きが一致しているわけではありません。

リオタールの文章は、ニューマンが実際に意図したことをすべて代弁する記録ではなく、後代に生まれた哲学的な解釈です。この距離を意識すると、作家の宣言を尊重しながら、作品が別の時代の議論を生むことの意味も理解できます。描く人と論じる人の関係が、ここでは美術史上の重要な出来事になっています。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

《Onement I》で一本の縦線が起こした変化

1948年の小さな油彩画

《Onement I》(1948年)は、縦69.2センチ、横41.2センチの油彩画です。ニューヨーク近代美術館が所蔵し、赤褐色の地の中央に明るい赤の縦帯が通っています。材料としては、キャンバス上の油絵具に加え、画面に残されたマスキングテープ上の油絵具が記録されています。

縦帯の表面は地の色面より厚く、筆やパレットナイフの動きを感じさせます。後の巨大な画面と比べると小さな作品ですが、この一本の帯によってニューマンの絵画は大きく変わりました。所蔵館は画家自身がこの作品を突破口と位置づけたことを伝えています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ニューマン《Onement I》(1948))

残されたテープと線の成立

ニューマンは赤い色地の上へマスキングテープを貼り、その上に橙がかった赤の絵具をパレットナイフで重ねました。当初はテープを剥がす意図があったとされますが、最終的には残された帯を作品の中心として受け入れました。

ここで重要なのは、一本の線が左右を分けると同時に一つの画面を成立させている点です。線が描かれた物の輪郭であるなら、その外側に人物や建物があるはずです。《Onement I》では帯そのものと両側の広がりが、作品の出来事を担っています。線の働きを日常的な物の輪郭から切り離したところに新しさがあります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Onement I》の制作方法)

見る人が一つの場所を意識する

中心の赤い帯を目で追うと、周囲の地の色が単なる背景には感じられなくなります。左右の広がりの幅、上下の端まで通る線、絵具の手触りが互いに関係します。一本の線が画面の尺度をつくり、見る人の視線を組織しているのです。

リオタールの問いへつなげるなら、線を「何の記号か」と判断する時間と、線の前で画面の広がりを経験する時間は異なります。この作品は、後の巨大画面における一瞬の遭遇を考えるための出発点になります。小さな絵にも「ここに一つの存在がある」という強さが生まれることを示しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ニューマン《Onement I》(1948))

《Vir Heroicus Sublimis》はなぜ巨大なのか

幅約5.4メートルの赤い画面

《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51年)は、縦242.2センチ、横541.7センチのキャンバスに油絵具で描かれた作品です。ニューヨーク近代美術館が所蔵し、全面に近い深い赤の中を、幅や色の異なる五本の細い縦帯が貫いています。題名のラテン語は、おおむね「英雄的で崇高な人間」を意味します。

画面を離れた位置から見ると単純な赤い長方形に見えるかもしれません。近づくと、白い帯、えんじ色の帯、赤に近い帯の違いが生き始めます。一本ずつの位置は左右対称ではなく、帯と帯の距離も異なります。その不均等な関係が、巨大な赤を一枚の装飾的な面以上の経験へ変えていきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

制作時に変化したジップの位置

ニューヨーク近代美術館の音声解説によれば、ニューマンは1950年にこの大作の制作を始め、翌1951年に右端近くの縦帯を付け加えました。画面左下の署名にも、1950年に続いて加えられた1951年の記載が確認されます。

完成画面は最初に計画した模様を機械的に広げただけのものではありません。垂直線の追加によって全体の釣り合いや視線の進み方が変わるため、色面の広がりと区切りの判断が制作の核心を成します。こうした物質的な作業を知ると、抽象画における「今」は、制作の積み重ねを含んでいることも理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》音声解説)

近づいて見るよう求めた理由

ニューマンはこの作品を最初に展示したとき、鑑賞者に画面へ近づくよう促す案内を付けました。近い距離では、約5.4メートルの全幅を一目で納めにくくなり、赤い面が周辺視野へ広がります。美術館の解説は、これを他者との出会いに似た、身体的で意味深い経験として紹介しています。

ここで大きさは、絵の価値を誇示するための数値で終わりません。立つ位置によって見える範囲が変わり、右と左を見直すたびに赤の広がりと縦線の距離が組み替わります。観客の身体が経験の一部になるという性質は、リオタールが抽象絵画を「起こること」の側から読む理由につながります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

色の広がりを「見る」とはどういうことか

赤の色面は一つの色に見えるか

赤い紙を机に置いて見る場合、私たちは色の名を簡単に答えられます。約5.4メートルの画面を占めるニューマンの赤は、見る位置、室内の光、隣接する縦帯との関係によって印象が変化します。同じ色彩の中でも、近くと遠く、中心と端では経験が異なってくるのです。

作品の「赤」という説明は正しくても、作品に立ち会った経験のすべてを言い尽くせません。リオタールが問うのは、名前を与えて理解することと、色彩がその場で起こすこととの間にある隔たりです。鑑賞者は同じ赤い面を前にしても、その大きさと身体の距離を通じて固有の経験を持ちます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

ジップが空間の尺度をつくる

ニューマンが後に「ジップ」と呼んだ縦帯は、画面の一部を縁取る輪郭線とは異なる働きをします。左右の色面を切り分けながら、その隔たりを一つの関係として意識させるのです。《Vir Heroicus Sublimis》の白い縦帯は、その左側と右側が同じ広がりではないことをはっきり示します。

縦帯の幅や位置が少し変われば、見る人の感じる画面全体の尺度も変わります。一本の線が作品の実際の幅以上に、広がりの体験を決めているのです。無限の空間を絵の奥へ描く遠近法とは違い、こちらへ向き合う表面上に大きさと境界の経験が現れます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

実物と縮小画像では何が変わるか

図録や画面上の画像では、ニューマンの大作を小さく一覧できます。縦線の本数と配置を知るには便利ですが、原画の高さが鑑賞者の身体を超え、横幅が視野からはみ出すという経験は伝わりにくくなります。

この違いは、写真複製が偽物だという意味ではありません。複製は作品を紹介し、構図を比較する役割を持っています。実物は、その場所に立っている人と絵のあいだに距離、視点、時間の関係を生みます。リオタールのいう「出来事」の説明には、作品の現前とそれを伝える画像とを分けて考える必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》音声解説)

白い画面の《The Voice》は何を響かせるのか

1950年の白の大作

《The Voice》(1950年)は、縦244.1センチ、横268センチのキャンバスに、卵テンペラとエナメル絵具を用いた作品です。広い白の色面に、少し色味の異なる白い縦帯が置かれています。ニューヨーク近代美術館の作品記録では、その絵具の材料と寸法が明示されています。

白い面を注意深く見ると、画面全体の白が均質な空白ではないことに気づきます。縦帯の位置、キャンバスの織り目、塗膜の反射がゆっくり感じられます。色数を極端に絞ることで、画面にあるわずかな差を受け取る時間が長くなります。(参照:ニューヨーク近代美術館|《The Voice》(1950))

「声」という題名が示すもの

絵の題名は《The Voice》、すなわち「声」です。人物の口も楽器も見当たらないのに、音を思わせる名が与えられています。題名によって音の記憶や期待が生まれ、観客は静かな白い画面にもう一度向き合うことになります。

絵に描かれた物を題名から推測する鑑賞では、音源となる人物や機械を探してしまいます。この作品では、名づけられた「声」が具体的な姿を持たないこと自体が問題になります。色と空間を通じて、何かが告げられるという感覚をどう経験するのか。ニューマンが扱った崇高の問題は、鮮やかな赤だけに限られません。(参照:ニューヨーク近代美術館|《The Voice》(1950))

静けさと現前する出来事

真っ白に近い画面には、語るべき物語が少ないように見えます。ところがその前に立つと、目は帯の位置へ戻り、白の違いを探し、何かが現れるのを待つことがあります。鑑賞する時間に生じるこの変化は、あらかじめ決められた物語の展開とは別です。

リオタールが考察する「ある」という出来事は、音や光の強い刺激がなければ起こらないものではありません。変化が最小限の画面でも、目の前に何かがあることへの驚きが生まれます。色の細部に戻っていく身体的な時間は、絵の主題と同じほど重要です。(参照:エディンバラ大学出版局|リオタール「ニューマン――瞬間」1984年)

《Cathedra》の青はどこまで広がるのか

1951年の青い絵画

ニューマンの《Cathedra》(1951年)は、アムステルダム市立美術館が所蔵する巨大な青い絵画です。深いウルトラマリンの広い面を、白と空色の二本の縦帯が区切っています。題名は「座」や「玉座」を意味し、美術館はその宗教的な語感と画家が求めた精神的な経験との関係を紹介しています。

画面の強い青は、一つの模様として把握するには大きすぎる広がりを持ちます。帯は視線の目印になり、青の面はその間で連続して見えます。ニューマンの絵画を赤だけで代表させず、色ごとの違いを確かめると、単純な形から生まれる感覚の豊かさが見えてきます。(参照:Museum.nl/アムステルダム市立美術館|《Cathedra》(1951))

玉座という言葉をどう受け取るか

「玉座」という題名を知ると、観客は権力者や宗教的な存在の姿を思い浮かべるかもしれません。実際の画面には椅子も人物も描かれておらず、青の広がりが視界を占めています。題名が開く連想と、目に見える絵の構造の間には意図的な距離があります。

ニューマンの精神的な関心を考えるうえで、聖書やユダヤ神秘主義との関係は資料に照らして扱う必要があります。作品を特定の教義の暗号に還元すると、絵そのものの経験が後景に退きます。リオタールの議論へ引きつけるなら、題名によって示唆されるものを、絵が明確な像へ置き換えずに保つことが重要です。(参照:Museum.nl/アムステルダム市立美術館|《Cathedra》(1951))

赤と青の体験の違い

《Vir Heroicus Sublimis》と《Cathedra》はいずれも巨大な色面と縦帯で構成されています。ところが前者の赤では複数の帯による位置の変化が際立ち、後者の青では二本の帯の間に広がる色の深さが強く感じられます。

この違いは、ニューマンの作品を「ジップがある抽象画」という図式だけで理解できない理由でもあります。材料の違い、色の反射、画面比率、帯の本数が固有の鑑賞を生みます。崇高を語るときも、抽象的な精神性ではなく、個別のキャンバスが持つ形と大きさを見失わないことが大切です。(参照:Museum.nl/アムステルダム市立美術館|《Cathedra》(1951))

《Day One》は「始まり」をどう示すのか

縦長の赤い画面

《Day One》(1951–52年)は、ホイットニー美術館が所蔵する油彩画で、縦335.4センチ、横127.3センチという細長い比率を持っています。赤い色面の左右には細い帯が置かれ、広がりの中心に明瞭な人物像は描かれていません。

《Vir Heroicus Sublimis》が横へ広がるのに対し、《Day One》は見る人の身長を超えて上へ伸びます。身体の正面で視線を上下に動かす経験が強調されます。題名と寸法を併せて見ると、抽象絵画の形の選択が、鑑賞の時間と姿勢に直接関わることが理解できます。(参照:ホイットニー美術館|《Day One》(1951–52))

「第一日」という題名と創造の問題

「Day One」は「第一日」と訳せます。天地創造や新しい時代の始まりを思わせる言葉ですが、絵そのものは歴史的な場面の再現ではありません。ホイットニー美術館の解説は、ニューマンが戦後に新しい人間の可能性を信じようとしたことと、この題名を結びつけています。

観客は赤い表面を見ながら、始まりとは何かを考えることができます。そこに具体的な日の出が描かれている必要はありません。リオタールの読みと比較すれば、「いま何かが始まる」という感覚は、過去から未来へ続く物語に還元しにくい瞬間の経験です。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

展示室の大きさが変える鑑賞

この絵画の赤は、部屋の壁面や他の作品との距離によっても印象が変わります。ホイットニー美術館の音声資料では、ニューマンが比較的小さな部屋で大きな作品を見せ、色彩が空間を満たすような経験を目指したことが説明されています。

「大きな抽象画は広い展示室で遠くから鑑賞する」という常識だけでは、画家の意図は捉えきれません。距離を詰めることで輪郭が視界の外へ広がり、作品の前にいることが強く意識されます。身体と色面が出会う時間を考えるために、展示環境の記録は重要な資料です。(参照:ホイットニー美術館|《Day One》の鑑賞と崇高)

エドマンド・バークはなぜ恐怖と崇高を結びつけたのか

1757年に書かれた崇高論

18世紀イギリスの思想家エドマンド・バーク(1729–1797)は、政治家としても活動し、1757年に『崇高と美の観念の起源に関する哲学的探究』を刊行しました。そこでは、美しいものがもたらす快さと、強大なものや恐怖に結びつく崇高な経験を区別して考えます。

雷鳴や嵐を安全な場所から経験すると、危険を予想させる力と、そこから距離を置けることが複雑な感情を生みます。崇高は単に巨大な物の名前ではなく、人がその物へどのように反応するかという経験の問題です。リオタールは、この恐怖と安堵の関係を1984年の論考で読み直しました。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

「何も起こらないかもしれない」という不安

リオタールが注目するのは、怖い出来事が起きるという予想ばかりではありません。次の瞬間に何も起こらなくなるかもしれない、という時間そのものへの不安です。絵の前で次に現れるものを待つことは、単純な期待や退屈と異なる緊張を伴うことがあります。

バークの崇高論にある恐怖の仕組みをリオタールが前衛美術へ結びつけたのは、絵が新たな物語を聞かせるためではなく、「なお何かが起こりうる」という感覚を生み出すからです。この転用には哲学者自身の独自の解釈があり、バークが抽象絵画を論じたということではありません。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

画面の前での安堵は何から生まれるか

突然の暗闇の後に光が戻れば、人は安堵します。崇高の経験を説明するバークの議論では、恐怖と、その危険から解放される感覚の関係が重視されました。リオタールはこの構造を、出来事が起こるかどうかという極めて根本的な不安に接続します。

抽象絵画は、絵の中に危険な崖や炎を描かずに、観客の注意を「ここで何が起こるのか」へ向けることがあります。リオタールが重視したのは、強い感覚を生む題材より、知覚の起こる条件を変える働きでした。そこで崇高は、時代遅れの壮大な風景の好みから、現代の作品経験を考える道具へ移されます。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

カントは「崇高」をどのように考えたのか

美しさと崇高の感情の違い

ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724–1804)は、1790年の『判断力批判』で、美と崇高の判断を詳しく論じました。美では想像力と悟性が調和する感覚が中心になります。崇高では、感覚によって捉える能力が圧倒され、理性が要求する大きさや力との間に緊張が生まれます。

例えば、見渡せる庭の構成を美しいと感じる経験と、果ての見えない大空の広がりを前にする経験は異なります。カントにとって重要なのは、自然物の中に崇高という属性が入っていることではなく、人間の心の能力同士の関係です。リオタールはその不一致から、前衛絵画の働きを説明します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カント美学と崇高)

数学的崇高と想像力の限界

カントの「数学的崇高」は、感覚的には全体を把握しきれない巨大さを経験するときに関わります。高い山並みの各部分を順に見ても、その全体を一つの像として同時に掌握することは難しい。想像力は、理性が求める全体の表象に十分に応えられません。

絵画の巨大さは、カントの自然の崇高と同じものではありません。それでも、見る側が視野の限界を意識するという点では比較の手がかりになります。ニューマンの横長の赤い画面を近くで見るとき、端から端までを一瞬に把握することの困難が、身体の経験として現れます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カント美学と崇高)

力に圧倒される動的崇高

カントの「動的崇高」は、嵐や荒海のような自然の圧倒的な力を、安全な立場から見つめる経験を扱います。自然の強大さを前に、自分の身体の弱さを意識しながら、理性や道徳の能力を考え直すという構図です。

ニューマンの抽象画は、嵐を描いて恐怖を誘う作品ではありません。リオタールがカントから受け継いだのは、感覚が思考の要求を満たせなくなるときに生じる緊張です。彼は崇高の経験を、理性の統一的な勝利へ戻すことに慎重でした。ここにカントの理論を20世紀後半へ移し替える際の大きな変更があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

「呈示する」と「再現する」は何が違うのか

人物を描く絵画と色面の絵画

人物画は、人間の姿という対象を絵の中で示します。顔、服、背景の関係を見れば、描かれた人物のいる場所や表情を理解できます。ニューマンの赤い絵画には、そのような再現すべき人物像がありません。

リオタールは「見えるものを作る」と「既知の対象を写す」とを分けて考えます。赤や青の面が画面に現れることそれ自体が経験を生み、そこでは何かを物語として語ることが中心になりません。抽象絵画を理解するには、何の象徴かを探すだけでなく、見る行為にどんな変化が起こるかを確かめる必要があります。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

言葉にできる意味と経験の間

鑑賞者は《Vir Heroicus Sublimis》を「赤い大作」「五本のジップ」と説明できます。さらに「戦後の新しい人間の姿」という美術史的な意味を加えることもできます。その説明を聞いた人が作品に近づいたとき、赤い面が視界を満たす経験が同じ強さで生じるかは別の問題です。

説明は知識を共有するために必要です。哲学的に難しいのは、言葉で説明できる内容を持ちながら、作品の経験がその内容に完全には重ならないことです。リオタールはこの隔たりを、芸術が知識の伝達から独立した役割を持つ理由として考えました。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

美しい構図を超えた問題

美術館では色の調和や線の均衡を見て、作品を美しいと評価できます。ニューマンの画面でも、ジップの配置や色面の関係には高度な判断が働いています。しかしリオタールの崇高論が説明しようとするのは、心地よい均衡だけから生じる感覚ではありません。

目の前に大きな画面があり、見渡しても一つの物語にはまとまらない。それでもその経験から離れがたいと感じる。このような状態が、美しいという評価とは異なる問いを生みます。作品が見せるものと思考で捉えようとするものがずれるとき、崇高の議論が始まります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カント美学と崇高)

リオタールの「ニューマン――瞬間」は何を論じたのか

絵画にはいくつの時間があるのか

リオタールは1984年の「ニューマン――瞬間」で、絵画に関わるいくつもの時間を区別します。画家が制作するために使った時間、見る人が作品を受け取る時間、絵に描かれた物語の時間、作品が制作後に流通して観客へ届くまでの時間などです。

例えば《Vir Heroicus Sublimis》には1950年から51年の制作時間があります。展示を訪れる人には、作品を見始めてから立ち去るまでの時間があり、美術館の収蔵や展覧会にはさらに別の歴史があります。リオタールは、こうした時間の区別を重ねることで、「その絵そのものが時間である」とは何を意味するかを問いました。(参照:エディンバラ大学出版局|リオタール「ニューマン――瞬間」1984年)

作品が語る時間と作品が起こす時間

歴史画には、ある出来事が起きた過去の時間が描かれます。肖像画であれば、描かれた人物が生きた時代を考えることもできます。ニューマンの縦帯と色面は、物語の時刻や季節を伝える道具として置かれていません。

画面に向かう人は、何が起きたかを物語から説明する代わりに、いまその絵と向き合っている経験を持ちます。リオタールは作品の時間を制作年や鑑賞時間へ還元せず、目の前の何かが成立する出来事として考えました。この区別は、絵画が現実をどのように扱うかという長い美学の問いを変えるものです。(参照:エディンバラ大学出版局|リオタール「ニューマン――瞬間」1984年)

「瞬間」は短い時間の単位なのか

写真のシャッター速度のように、一瞬を数値で測ることができます。リオタールのいう「瞬間」は、そのような短さを表す言葉だけではありません。あることが起こる前にはまだ内容がわからず、起こった後にはそれを説明できる。その境目にある出来事の性質が問題になります。

ニューマンの絵を見た瞬間の印象も、後から「赤い絵だった」と記憶し直せます。けれども、その説明を作る前に「何かがある」と出会う経験が起きています。時間を順番に並べて計算するだけでは捉えにくい、その現れの一回性が1984年の哲学的な焦点です。(参照:エディンバラ大学出版局|リオタール「ニューマン――瞬間」1984年)

「今、何かが起こる」という感覚はなぜ重要なのか

待つ時間の中にある不確かさ

美術館の通路で白い大作へ向かうとき、鑑賞者はまだどんな感情を抱くかわかりません。作品を見ながら、何かを思い出し、意味を探し、反対に何も思い浮かばないこともあります。経験はいつも、あらかじめ完成した結果として訪れるわけではありません。

リオタールが考える「起こること」の特徴は、その発生を完全な計画へ閉じ込められない点です。見ている者の予測が作品の前で揺らぐとき、時間は決まった順序をなぞるだけのものではなくなります。絵の前に立つことそのものが、次の瞬間への開かれた関係になります。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

「いま」と「ここ」が結びつく

ニューマンの作品には《Here》や《Now》といった短い言葉を題名に持つものがあります。リオタールは1984年の論考で、これらの題名と1948年の「崇高は今ここに」とをつなげて考えました。指示語は、何を描いたかより、どこで、いつ経験しているのかを思わせます。

「いま」「ここ」は具体的な場所や時間を指すにもかかわらず、別の人が別の時刻に発すれば指す内容が変わります。絵画がその場にあるとき、鑑賞者は自分が立つ場所と時間を作品との関係の中で経験します。その経験は、いつでも取り出せる固定した図像の意味とは違っています。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

何も起こらないことを恐れる理由

人は演劇の開幕を待つように、絵から意味のある何かが現れるのを待つことがあります。リオタールは、この待機を「次に何が描かれるか」という期待より深いものとして考えます。世界の出来事が継続し、また新しい何かが現れるという確信が揺らぐ可能性があるからです。

こうした不安をバークの崇高論へ接続した点が、1984年の論考の特色です。ニューマンの画面は激しい場面を描きません。静かな面の前で、何かがなお到来しうるという経験を生みます。リオタールにとって、そこには恐れと同時に、出来事が起こることへの強い肯定があります。(参照:KUNSTFORUM International|1984年版「崇高と前衛」原論考)

抽象絵画の前で身体はどう働くのか

観客は一か所から全体を見られるか

美術館で大きな絵を見るとき、少し下がって全体を確かめ、再び近づいて表面を見ます。ニューマンの作品のように、横幅が数メートルに及ぶ場合には、同じ位置に立っていても頭や目を動かさなければ全体の違いを捉えにくくなります。

この身体の移動は、作品理解の邪魔になる動作ではありません。見る人は色の境界と自分との距離を測り、画面に向き直ることで、絵と空間の関係を作り直しています。崇高を神秘的な気分の名前にするだけでは、こうした実際の鑑賞の条件が抜け落ちてしまいます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

近づくほど画面が変わる

《Vir Heroicus Sublimis》から離れると、赤い矩形と五本の帯が一望できます。近づくと、帯の端の不均一さや塗膜の質感が見え、赤い広がりが視界の周囲へ伸びます。どの距離が「正しい」かを一つに決めるより、異なる距離で起こる経験を比べると絵の働きがわかります。

ニューマンが近距離での鑑賞を促したという展示史の事実は、彼が画面を視覚だけの記号として作っていなかったことを示します。リオタールは身体知覚の詳細な実験をしたわけではありませんが、絵の前で起こる出来事に注目する議論は、こうした鑑賞条件と具体的に関わっています。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

メルロ=ポンティの身体論との接点

フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908–1961)は、1945年『知覚の現象学』と1961年「眼と精神」で、見ることを身体のある人間が世界に関わる行為として考えました。画家の身体は、光、距離、運動、素材との関係の中で制作します。

その考えをリオタールの議論と比較すると、鑑賞者が外側から客観的に色面を測るだけではないという点で共通します。メルロ=ポンティの現象学とリオタールの崇高論は、用いる概念も議論の目的も異なります。後者はとりわけ、出来事の不確かさと感覚的な呈示の限界を前面に出しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

ニューマンの彫刻は「ここ」をどう示したのか

《Here》と題された立体作品

ニューマンは絵画に加えて彫刻も制作しました。ホイットニー美術館には1965〜66年の《Here III》が収蔵されています。細い垂直の構造が立体として成立すると、絵画のジップとは異なる仕方で、現実の床や周囲の空間が作品に関わります。

リオタールは1984年の「崇高と前衛」で、ニューマンの《Here》の題名にも注意を向けています。「ここ」という言葉は、立体が空間の一地点に置かれ、観客がそこへ近づく経験と重なります。縦線は絵の中の区切りから、場所を占める物質的な存在へ変わります。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

立体の周囲を移動するという経験

彫刻では、正面から見える形と、側面から見える形が異なります。作品の周囲を回れば、金属の面や線が展示室の壁と重なったり離れたりします。絵画が作る視覚空間と、立体が実際に占める床や空気の空間を比較できます。

このように作品が身体との位置関係を変えるとき、「ここ」は抽象的な座標以上の意味を持ちます。リオタールが指摘する現在の感覚は、特定の内容を説明する言葉から生まれるというより、作品が存在する場所と出会う経験に関わります。ここでは彫刻の観察を、彼の議論を理解するための比較として用いています。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

絵画のジップと彫刻の直立を比べる

キャンバス上のジップは、絵具やテープによってできた帯です。彫刻の垂直の構造は、金属の重さ、支持、床との接点を伴います。どちらも縦方向の軸によって観客の位置を意識させますが、実際の材料と経験は異なっています。

ニューマンが生涯を通じて同じ形を単に拡大したと考えると、素材を変えた意味が薄れます。絵画と彫刻を分けて観察すれば、少数の形によって現前する場所と時間を探った持続的な試みが見えてきます。リオタールの題名の読みも、この具体的な作品群との関係から考える必要があります。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

《十字架の道行き》は何を表現したのか

1958年から1966年まで続いた連作

ニューマンは1958年、心臓発作からの回復期に《十字架の道行き――レマ・サバクタニ》の連作を始め、1966年まで制作を続けました。14点の「留」に対応する絵画と、締めくくりの《Be II》を合わせた15点が、ワシントンのナショナル・ギャラリーで紹介されています。

連作は、キリストの受難を一場面ずつ描く伝統的な宗教画とは異なり、白、黒、地色の差異と縦帯の配置を展開します。形が近くても各作品の素材や帯の置き方は違っています。長い制作期間を経て、作品相互の関係が一つの経験をつくるよう構成されました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《十字架の道行き》連作)

1958年《第一留》の画面

《第一留》(1958年)では、明るい色の画面に黒い絵具が不規則に広がり、細い白い帯が立っています。ナショナル・ギャラリーは画家の署名と制作年、画面に現れる黒い絵具の細部を紹介しています。

この作品を見てキリストの具体的な姿を探しても、対応する人物像はありません。黒い絵具の広がりと白い帯の緊張が、見る人に独自の感覚を生みます。題名を知ると、その構成が苦痛や問いかけと結びついて経験されることがあります。像を再現しないという選択は、題名との関係をいっそう強めます。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《第一留》(1958))

1962年《第五留》の線と材料

《第五留》(1962年)は、縦198.7センチ、横153センチの油彩画です。画面の左側には幅広い黒い帯があり、右側には細い黒線が配置されています。ナショナル・ギャラリーの作品記録には、絵具の材質、寸法、署名年と展覧会歴が記されています。

一見すると単純な構成でも、幅広い帯の縁には筆致の乱れがあり、細い線とは表面の性質が異なります。連作のそれぞれを現物として見れば、二本の黒い要素が生む距離や揺らぎは同じではありません。リオタールの崇高論を当てはめる前に、この具体的な違いを確かめることが作品への理解を深めます。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《第五留》(1962))

宗教的な題名と抽象絵画はなぜ結びつくのか

「なぜ私を見捨てたのか」という叫び

《十字架の道行き》の副題「レマ・サバクタニ」は、十字架上のイエスの叫びに由来します。ニューマンはユダヤ系アメリカ人で、この作品をキリストの生涯の図解として作ったわけではありません。ナショナル・ギャラリーの解説は、画家が人間の苦悩そのものに関わる問いとしてこの叫びを用いたと説明しています。

叫ぶ人物の顔を描くと、観客は苦しむ人の表情を理解しようとします。この連作では、題名が示す叫びと画面の線や色面のあいだに直接的な物語の対応はありません。その隔たりが、苦悩を自分の経験へ引き寄せる余地を作っています。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《十字架の道行き》連作)

聖書の物語と画面の差異

伝統的なキリスト教の「十字架の道行き」は、イエスの受難の過程を複数の留に分けて追体験する慣行です。ニューマンはその連続性を題名に用いながら、各作品で黒や白の縦帯の位置、幅、周囲の色を変えました。

観客が順番に見ることで経験するのは、物語を絵から読み取る時間というより、近い構造の画面が異なる感覚を生む時間です。ニューマンは宗教的な言葉を使いながら、画像による説明を避ける道を選びました。リオタールの「呈示できないもの」への関心は、このような制作を考える一つの方法となります。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|《十字架の道行き》連作)

《Be II》が果たす役割

ナショナル・ギャラリーの記録では、《Be II》は1961–64年に制作されたキャンバスで、油絵具とアクリル絵具を用いています。14点の「留」を結ぶ連作の終わりに置かれた作品として紹介され、黒い縦線が地の色の上に並びます。

「Be」という題名は、物が何であるかを説明する名詞ではなく、「ある」という行為や存在を想起させます。問いかけと沈黙の後に、なお存在することへ向かう読みが生まれます。リオタールがニューマンの題名に見いだしたのは、作品の秘密を解く暗号より、存在と時間を指し示す短い言葉の働きです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ニューマンの作品目録)

1950年代の作品を1984年に読み直す意味

制作年代と解釈の年代の隔たり

ニューマンの《Onement I》は1948年、《Vir Heroicus Sublimis》は1950–51年の制作です。リオタールが1984年に「崇高と前衛」を発表したとき、画家はすでに1970年に亡くなっていました。作品が生まれてから三十年以上の時間が経っています。

この時間差を無視すると、1948年の画家が1984年の哲学理論を実行するために制作したような説明になってしまいます。実際には、作品、画家の文章、美術館での展示、哲学者の読みが重なっています。リオタールの議論は、既存の作品が別の知的状況の中で新たな問題を生む例として理解できます。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

戦後ニューヨークからヨーロッパの批評へ

ニューマンは1940年代末のニューヨークで、戦争後の新しい芸術を求めました。1984年のリオタールは、フランスでポストモダンをめぐる議論が広がる中、アメリカの抽象絵画を参照します。文化的な場も、その時代の課題も違っています。

しかし両者を結ぶ具体的な資料があります。1948年の画家の論考、作品の題名、1950年代の大型キャンバス、1960年代の彫刻、それらに対する1984年の哲学的な読解です。美術と哲学の関係は、直接の影響だけでなく、後代の思考が作品へ応答する過程によっても形成されます。(参照:KUNSTFORUM International|1984年版「崇高と前衛」原論考)

後の研究が画家の意図をどう検討するか

美術史家がニューマンの作品を調べるとき、本人の著作、制作記録、展覧会記録、コレクターの証言、画面の材料が根拠になります。哲学者はそれらと重なる資料を使いながら、作品が人間の知覚や時間について何を考えさせるかを論じることができます。

ここで両者の成果を競わせる必要はありません。リオタールの解釈は、ニューマンの絵が持つ意味の一部を鋭く示します。その解釈が作品のあらゆる側面を言い尽くすかどうかは、別の作品や資料と照らして検討されます。原著と作品と受容史を別々にたどることが、議論の正確さを支えます。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

1982年から1984年へリオタールの崇高論はどう展開したのか

1982年「呈示不可能なものを呈示する」

リオタールは1982年にも『Artforum』へ「呈示不可能なものを呈示する――崇高」を発表しました。ここでは近代絵画やポストモダンの表現を、感覚で示しきれないものをどのように扱うかという問いから考えています。

形の美しさを保ちながら、その中で表しきれない対象をほのめかす方法があります。別の方法では、従来の美しい構成自体を揺さぶり、経験のまとまりを崩そうとします。この対比は、抽象絵画が美しい装飾へ向かうだけでなく、見る人の理解の基準を問い直す力を持つことを示します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

1984年はなぜニューマンの「今」へ向かったか

1984年の「崇高と前衛」では、ニューマンの「崇高は今ここに」という文章が導入になります。ここでは、崇高を大きな対象や理性の理念と結びつけるだけでなく、次の瞬間に出来事が到来することの不確かさとして考えようとします。

1982年の議論と共通するのは、感覚による表現の限界への関心です。1984年の特色は「何かが起こる」という現在の出来事を、前衛芸術の役割として前面に出したところにあります。リオタールが同じ言葉を数年間にわたって使っていても、論考ごとの問いの位置を区別すると理解しやすくなります。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

1985年以降の英訳・再録で読まれる

「崇高と前衛」は1984年の『Artforum』掲載後、1985年の学術誌『Paragraph』第6巻にも英語で掲載されました。さらにリオタールの著作集や美学研究で読み継がれ、1980年代後半以降の現代美術批評で頻繁に参照される文章になります。

刊行年の異なる版を区別すると、1984年が最初の発表時点であり、1985年以降は改訂・翻訳・再録を通じた受容であることがわかります。思想の歴史は、著作の成立年だけでなく、どの雑誌や本を通じて読者が出会ったかによって広がっていきます。(参照:エディンバラ大学出版局|「崇高と前衛」1985年掲載情報)

「崇高な作品」はすべて巨大である必要があるのか

大きさと感覚の強さの関係

ニューマンの大作を目の前にすると、その寸法が鑑賞体験を左右しているとわかります。《Vir Heroicus Sublimis》では幅約5.4メートルの赤が視界へ広がり、《Day One》では縦3.35メートルの面が身体の高さを超えます。

巨大さが作品の経験を変えるのは確かですが、リオタールの崇高を大きさだけで定義すると、《Onement I》のような小さな作品が持つ強い現前を説明しにくくなります。崇高という概念で問題になるのは、物の寸法そのものと、それが見る側の能力に起こすことの関係です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ニューマン《Onement I》(1948))

小さな作品でも「今」は生まれるか

《Onement I》は縦69.2センチの作品で、観客の身体よりずっと小さなキャンバスです。赤褐色の面を貫く縦帯を前にすると、その表面の質感や中心のずれが注意を引きつけます。画面の中に一つの出来事が成立しているように感じられます。

この例は、瞬間の経験が大画面の物理的な圧倒だけで説明できないことを示します。リオタールの「今」を、ある対象に出会ったときに生じる驚きとして考えるなら、作品の大きさは複数ある条件の一つです。画面の具体的な働きを見ることが、崇高を便利な賛辞にしないための出発点になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ニューマン《Onement I》(1948))

巨大な絵画を美しい背景として見る場合

巨大な色面を前にしても、その色を気に入って快いと感じる人はいるでしょう。作品が広い壁と調和し、空間の雰囲気を整えるときには、装飾的な魅力が生まれます。それは経験として間違っているということではありません。

リオタールの崇高論が特に明らかにしようとするのは、色の快さから少し離れた、説明できないことへの緊張です。実際の鑑賞がいつもそのようになるとは限りません。作品が複数の受け取られ方を許すことを認めたうえで、哲学的な理論がどの経験を強調しているかを見分ける必要があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カント美学と崇高)

モンドリアンやマレーヴィチとは何が違うのか

マレーヴィチの幾何学的な絵画

ロシア帝国に生まれたカジミール・マレーヴィチ(1879–1935)は、1910年代に幾何学的な形を中心とするシュプレマティスムを展開しました。1915年の《黒の正方形》では、ほぼ正方形の黒が白い地の中に置かれ、見慣れた物の描写を離れた構成になっています。

マレーヴィチの黒い形とニューマンの赤い色面は、どちらも再現すべき外界の物体から距離を取っています。それでも、黒い正方形を一つの面として示す方法と、観客を広い色の場に向き合わせる方法では、作品が用いる構造と歴史的な目的が異なります。類似を確認しながら、双方の絵を同じ思想へまとめないことが重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

モンドリアンの直線とニューマンのジップ

オランダ出身の画家ピート・モンドリアン(1872–1944)は、水平線と垂直線、白・黒・原色による画面を発展させました。厳密な区画と配置によって関係を組み立てるその方法は、ニューマンの垂直な帯と比較されます。

ニューマンでは一本の帯が色面の中に現れ、線そのものが見る側の時間や尺度を変えることがあります。モンドリアンの画面では、複数の水平・垂直の関係が均衡を組み立てます。どちらも抽象的な形式に深い関心を持ちながら、形の秩序と鑑賞経験の結びつき方は同じではありません。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

先行する抽象画と戦後の課題

マレーヴィチやモンドリアンの実験は、第一次世界大戦前後のヨーロッパで広がりました。ニューマンは第二次世界大戦を経たニューヨークで、抽象絵画の可能性を別の歴史的な立場から考えました。

リオタールもこの歴史を一直線の進歩として説明することに慎重です。ある時代に形を単純化する試みがあり、別の時代にその成果が使われたとしても、作品の問題意識は政治、宗教、技術、鑑賞制度と結びついて変化します。「抽象化が進むほど崇高になる」という単純な図式を避け、具体的な制作と思想を比べることが必要です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

ロスコとニューマンの絵画は同じ経験を生むのか

色彩による空間の立ち上がり

ニューマンと同時代のマーク・ロスコは、輪郭の柔らかな矩形の色面を重ね、色彩の間に深さや揺らぎを生みました。ニューマンのジップは明確な縦方向の境界をつくるため、画面の見え方はかなり異なります。

色面絵画という共通の分類を知ることは便利ですが、それだけでは作品の経験を説明できません。ロスコの重なりは色同士の関係をゆっくりと変化させ、ニューマンの帯は位置と距離を強く意識させます。両者の作品を比べると、同じように具象的な対象を描かなくても、形の選択によって異なる知覚が生まれることがわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館|バーネット・ニューマン作品一覧)

精神性という説明の幅

両作家は、色彩を通して観客の内面に強く働きかける画家として紹介されてきました。そこから「抽象絵画は目に見えない精神性を描いた」という総括が生まれやすくなります。

精神性という語だけでは、各作品の材料と構造、作家が残した発言、鑑賞者の違いが隠れてしまいます。リオタールのニューマン論は、絵の中にどの精神的内容が表されたかを特定するより、見る行為が始まるその時間の問題へ注意を向けます。この独自性を見れば、ロスコへの解釈と自動的に同一視できないことも明らかです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

画家の意図と観客の経験がずれるとき

ロスコの色面から安らぎを感じる人も、緊張を覚える人もいるでしょう。ニューマンの赤から力強さを感じる人がいれば、静けさや戸惑いを覚える人もいます。作品の効果は、作家が発表した文章だけで一律に決まりません。

この違いは、何を感じても正しいという結論へ進む理由ではありません。絵の構造や材料に対する観察と、鑑賞者の感情をつなげて考える必要があります。リオタールの崇高論も、経験の一つの側面を深く説明する方法として、具体的な作品との往復の中で検討されます。(参照:エディンバラ大学出版局|リオタール「ニューマン――瞬間」1984年)

グリーンバーグのモダニズム論とどう違うのか

画面の平面性を重視する批評

アメリカの美術批評家クレメント・グリーンバーグ(1909–1994)は、20世紀半ばに抽象絵画とモダニズムについて論じ、絵画が自らの平面性や媒体固有の条件を探究することを重要視しました。彼の批評は、戦後アメリカ美術の評価を形成する大きな力となりました。

ニューマンの画面は平面的な色の広がりを持っています。そのため、絵画の媒体を明確にするという観点から説明することもできます。リオタールがさらに問うのは、平面性の成立した結果として見る人に「今、何かが起こる」経験が生まれることです。形の分析から、その経験の条件へ問いが移るのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

「前衛」を進歩の物語にできるか

新しい画家が現れるたびに、前の時代より絵画が純粋になったと説明すると、美術史は一直線に進歩する物語になります。1979年にリオタールが問うた大きな物語への不信は、美術の進歩史を考える際にも関係します。

1984年のリオタールは、前衛を新しい形式へ到達した運動としてのみ理解するのではなく、既存の表現形式が何を示せるかを繰り返し問い直す活動として捉えました。まだ形になっていない何かを呈示しようとする試みが、次の形式を生み出すという考えです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

二つの批評が見ている対象

グリーンバーグのモダニズム論は、絵画という媒体が他の芸術と異なる条件をどのように探究してきたかを問います。リオタールの崇高論は、作品が呈示しきれないものとの関係から、表現の条件をどう揺さぶるかを問います。

二人の説明は、同じ抽象画を別の角度から見ているとも言えます。画面の平面性を理解しても、その前で感じる時間を説明し終わるとは限りません。逆に崇高な経験を語るだけでは、絵具の塗り方や素材の革新は十分に説明できません。二つの問いを区別することが作品の具体的な理解へつながります。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

1985年「非物質的なもの」展は何を試みたのか

リオタールが展覧会を企画した理由

1985年3月28日から7月15日まで、パリのポンピドゥー・センターで「非物質的なもの」(Les Immatériaux)展が開催されました。哲学者リオタールとデザイン理論家ティエリー・シャピュ(1949–1990)が企画に携わり、芸術だけでなく科学、工業技術、音楽、情報処理に関する資料が組み合わされました。

この展覧会は、1984年に語られたニューマンの絵画を単に大きな会場へ再現したものではありません。新しい技術によって材料と情報、作者と受け手の関係がどのように変わるかを問う取り組みでした。哲学者が文章による批評に加えて、鑑賞者の経験を直接組み立てる展示を構想した点に特徴があります。(参照:ポンピドゥー・センター|「非物質的なもの」展公式目録・開催情報)

展示を歩きながら考えるという構成

ポンピドゥー・センターによれば、この展示は一方向に知識を教えるのではなく、観客が経路を選びながら作品と技術的な装置に出会う経験を重視していました。生体工学、写真、建築、情報と美術が、同じ展示の中で関係づけられています。

観客は展示を回る中で、見慣れた物が新しい技術の下で異なる意味を持つことに気づきます。そこでは知識を一枚の説明図へまとめることより、予想外の関係に遭遇することが重要になります。ニューマンの絵を前にした「出来事」を考えたリオタールの問題意識は、異なる形の展示実験にも接続していました。(参照:ポンピドゥー・センター|1985年「非物質的なもの」展)

絵画論から情報化社会の感覚へ

『ポストモダンの条件』で知識と情報化を論じたリオタールは、展覧会でも通信やコンピューターの発展による人間の感覚の変化を追究しました。1985年のポンピドゥー・センターの公式記録は、展示が美術展と科学技術展の既存の枠をまたいでいたことを示しています。

絵画の大きな色面と電子技術による像は、物質的にも歴史的にも別のものです。共通するのは、既知の物として説明する前に何かに出会い、その働きを感じ取るという問いです。1984年の崇高論を翌年の展示と照らせば、哲学者が考えた「現在」の問題の広がりを理解できます。(参照:ポンピドゥー・センター|1985年「非物質的なもの」展)

リオタールの崇高論にはどのような批判があるのか

作品の意味を崇高だけで説明できるか

ニューマンの絵には、色の選択、画面の寸法、絵具の材料、展示の指示、題名、画家の文章という複数の要素があります。「崇高な瞬間」と呼ぶと、作品を前にした経験の強さを伝えられるものの、制作上の選択がその言葉の陰に隠れる危険もあります。

例えば《Onement I》には、画面に残したマスキングテープという具体的な判断があります。これは哲学的な説明を使わなくても確認できる事実です。リオタールの議論の価値を測るには、作品について新しい問いを開くことと、物質的な細部を正確に説明することの両方から検討する必要があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ニューマン《Onement I》(1948))

観客は誰でも同じ崇高を経験するのか

巨大な赤い画面から力強さを感じる人もいれば、静けさや戸惑いを感じる人もいます。鑑賞に慣れているか、色にどのような記憶を持つか、展示空間へどんな期待を持って来たかによって経験は変化します。

リオタールは絵の前で起こる不確かな出来事へ注目しましたが、そこからすべての観客が同じ崇高を感じると証明されるわけではありません。鑑賞者の歴史的、文化的、身体的な違いを検討することは、理論の射程を明確にする課題です。作品に開かれた経験を重視するなら、受け取り方の複数性も具体的に扱う必要があります。(参照:韓国学術情報サービス|リオタール・カント・ニューマンの崇高論研究)

政治や歴史の問題が後景に退かないか

1948年のニューマンが生きた社会には、戦後の不安や核兵器の脅威、ユダヤ人迫害の記憶がありました。リオタールの哲学的な読みでは、作品が「いまある」と感じられる出来事が中心になります。両者の焦点の違いを認めることで、歴史的な背景がどこまで説明されるかを検討できます。

崇高を抽象的な感覚の概念だけにすると、作品が生まれた社会と作家の選択を見失う可能性があります。その反面、戦後という背景を知っただけで個々の絵の働きを説明し終えることもできません。作品の経験と歴史的な条件を往復させることが、リオタールの議論を批判的に使うための方法になります。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

カントからリオタールへの変化をどう評価するか

理性が限界を越えるというカントの構図

カントの崇高論では、自然の大きさを想像力が把握しきれないとき、人間の理性が感覚を超えた理念を考えられることが意識されます。この構図では、感覚の限界から、理性や道徳的な能力の自覚へ進む道が描かれます。

リオタールが重視するのは、感覚と理念が容易に一致しないことです。彼は、すべてが一つの普遍的な理解に収まる保証を置くより、その隔たりを作品が経験させる点に関心を向けます。ここで崇高は、理性の勝利を称えるための感情から、不一致そのものを持続して考える概念へ移されます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カント美学と崇高)

芸術は答えより問いを生むことができる

画面から山や人物を読み取れないとき、観客は「何を描いているのか」と問います。その問いを急いで解決する代わりに、なぜ何かの姿がなければ絵を理解できないと思うのかを考えることができます。

リオタールのいう前衛芸術は、すでに定まった規則を巧みに使うだけの営みではありません。表現が何を示しうるのか、その規則そのものを問う実験です。こうした考え方は、抽象絵画の価値を「意味不明だから深い」とする安易な評価からも離れています。意味を探す方法を問い直す具体的な経験こそが問題になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ポストモダニズムとリオタール)

哲学的な読みと美術史の記述を結ぶ

1984年のリオタールは、ニューマンの作品を通して時間と崇高を論じました。美術史はさらに、1948年の文章、1950年代の展示と制作、1960年代の連作、後の収蔵と批評の過程をたどります。二つの研究方法は同じ資料に触れながら、それぞれ異なる問いを立てます。

哲学は、作品の経験から世界や時間を理解する条件へ向かいます。美術史は、具体的な作品がいつ、どのような材料や制度の下で生まれたかを問い直します。両者を結ぶことで、作品は思想の単なる例にも、意味のわからない特殊な物にもなりません。そこにある一枚の絵から、検証可能な事実と思考の問いを同時に考えられます。(参照:ゲティ研究所書誌|リオタール「崇高と前衛」1984年初出)

抽象絵画を前にしたとき何を考えられるか

見た瞬間に何を判断するのか

絵画の前に立ったとき、私たちは「赤い」「大きい」「一本の線がある」といった判断を素早く行います。それらは作品を知るために必要な最初の手がかりです。少し時間をかければ、縦帯の端が均一でないことや、中心からわずかにずれた配置にも気づきます。

同じ絵を見る中でも、見ることと理解することの関係は変わります。リオタールの問いを手がかりにするなら、判断を急いで完成させる以前に、画面が自分の感覚へどんな働きをしているかを確かめられます。何かを描いた作品だと説明できなくても、作品に向き合う経験は成立しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

遠くから近くへ歩くと何が変わるか

例えば、展示室の入口から《Vir Heroicus Sublimis》を見て、ゆっくり近づく場面を考えます。最初は赤い長方形と五本の縦帯をまとめて見られます。数歩近づけば帯ごとの色の違いが増し、さらに近づけば画面の外縁が視野の端から失われます。

この変化は、作品の内容が書き換わったから起きるのではありません。作品に対する身体の位置と、視覚に入り込む範囲が変わっています。絵画は同じ場所にありながら、見る人に一つの固定した像だけを与えているわけではないのです。ここから「作品はいつ、どこで成立するのか」という問いへ進めます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

目に見えないものをどう理解するか

画面に描かれていないものを、何でも想像してよいと考えると、作品の固有の形から離れてしまいます。ニューマンの絵には確かに赤や白があり、帯の数や位置、絵具の材質が確かめられます。それらの具体的な条件から経験が生まれます。

「目に見えないもの」を、絵の背後に隠された神秘的な物体として探す必要はありません。見ることが一つの言葉や像に収まりきらないという経験、その瞬間が何かを起こすことへの驚きを考えれば、崇高の問いが立ち上がります。リオタールの1984年の議論は、作品の表面を離れずにそこから哲学へ進む道を示しています。(参照:KUNSTFORUM|リオタール「崇高と前衛」1984年論考)

前衛芸術が残した問いは何か

「新しい形」をつくる理由

20世紀の抽象画家は、人物や風景の再現から離れ、色、線、平面、素材の関係を作り直しました。その営みを、単純化が進んだという一言で説明すると、作家がなぜそれまでの方法を改めたかがわかりにくくなります。

ニューマンの場合、戦後の歴史を経た画家が、過去の美しい図像や物語へ戻ることに納得せず、広い色面とジップによって新しい経験を作ろうとしました。リオタールは、この試みを世界に対する新しい問いを生む活動として読んでいます。表現の規則が変わるとき、作品が受け手へ求めることも変化します。(参照:ホイットニー美術館|ニューマンの戦後美術観と創作)

前衛が過去の美術から受け継ぐもの

ニューマンの線をモンドリアンと比べることも、崇高の議論をバークやカントへさかのぼることもできます。前衛美術は過去を完全に断絶して生まれる活動ではありません。以前の形や考え方を知り、その限界や別の可能性から新しい作品が作られていきます。

リオタールが1984年に18世紀の哲学を参照したのは、その古い理論をそのまま現代美術へ適用するためではありません。大きさ、恐怖、理性、現在という問題を組み替えるためでした。過去の概念が現代の作品との出会いで変わること自体が、美術と哲学の交流を示しています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カント美学と崇高)

「今ここ」の絵画はその後も意味を持つか

ニューマンが制作してから長い年月を経て、作品は美術館に収蔵され、修復と保存の対象となり、写真や映像によって広く紹介されてきました。その一方で、実物を見るにはなお展示室へ足を運び、画面の寸法と自分の身体を向き合わせる必要があります。

作品の歴史的な背景を学ぶことと、その場で経験することは互いを支えます。リオタールの問いは、抽象画に正解となる隠し意味を与えるものではありません。絵の前で何が起こっているのか、まだ言葉にできない経験をどのように考えるのか。その問いは、作品を見るたびに具体的な形で生まれ続けます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《Vir Heroicus Sublimis》(1950–51))

略年表|崇高論とニューマン、リオタールの歩み

  • 1724年|カントがプロイセンのケーニヒスベルクに生まれる
  • 1729年|エドマンド・バークがアイルランドのダブリンに生まれる
  • 1757年|バークが『崇高と美の観念の起源に関する哲学的探究』を刊行
  • 1790年|カント『判断力批判』刊行、崇高の分析を展開
  • 1872年|ピート・モンドリアンが生まれる
  • 1879年|カジミール・マレーヴィチが生まれる
  • 1903年|マーク・ロスコが生まれる
  • 1905年|バーネット・ニューマンがニューヨークに生まれる
  • 1912年|ジャクソン・ポロックが生まれる
  • 1915年|マレーヴィチが《黒の正方形》を発表
  • 1924年|ジャン=フランソワ・リオタールが生まれる
  • 1939–1945年|第二次世界大戦。ヨーロッパで大規模な迫害と破壊が進む
  • 1945年|第二次世界大戦が終結し、ニューヨークの美術家たちは新しい表現を探る
  • 1948年|ニューマン《Onement I》を制作、雑誌に「崇高は今ここに」を発表
  • 1950年|ニューマンが《The Voice》を制作
  • 1950–1951年|ニューマンが《Vir Heroicus Sublimis》を制作
  • 1951年|ニューマンが《Cathedra》を制作
  • 1951–1952年|ニューマンが《Day One》を制作
  • 1958年|ニューマンが《十字架の道行き》連作を開始
  • 1962年|《第五留》《第六留》を制作
  • 1965–1966年|ニューマン《Here III》を制作
  • 1966年|《十字架の道行き》がグッゲンハイム美術館で展示される
  • 1970年|ニューマンが死去
  • 1977年|パリにポンピドゥー・センターが開館
  • 1979年|リオタール『ポストモダンの条件』がフランスで刊行
  • 1981年|フランスでミッテラン政権が発足
  • 1982年|リオタールが「呈示不可能なものを呈示する――崇高」を『Artforum』で発表
  • 1984年4月|リオタール「崇高と前衛」が『Artforum』に掲載される
  • 1984年|リオタール「ニューマン――瞬間」の初期版が発表される
  • 1985年3–7月|ポンピドゥー・センターでリオタールらによる「非物質的なもの」展を開催
  • 1985年|「崇高と前衛」が学術誌『Paragraph』に掲載される
  • 1989年|リオタール『非人間的なもの』英語版刊行、崇高と時間の諸論考を収録
  • 1998年|リオタールが死去

まとめ|抽象絵画は目に見えないものを表せるのか

1948年の《Onement I》で、ニューマンは赤褐色の画面を一本の縦帯で分けました。キャンバスに残したテープと厚い絵具は、線が物の輪郭を描かずに画面そのものを成立させる仕組みを示しています。1950–51年の《Vir Heroicus Sublimis》では、その試みが横幅約5.4メートルへ広がり、鑑賞者は赤い面の中で距離と時間を意識するようになります。

1948年のニューマンの文章「崇高は今ここに」は、神話や壮大な自然景観の再現から離れ、作品の前に立つ現在の経験を求めるものでした。1984年のリオタールはその言葉と絵画を読み、崇高を「何かが今、起こる」という時間の問題として考え直します。その議論にはバークの恐怖と安堵、カントの想像力と理性の不一致という先行する美学が関わっています。

《The Voice》の白、《Cathedra》の青、《Day One》の縦長の赤、《十字架の道行き》の黒と白は、それぞれ異なる材料・大きさ・配置から経験を生みます。作品は同じ理論を説明する挿絵ではありません。リオタールの考え方は、見える形を確かめることから、その形が言葉だけでは収まりきらない何かをどのように生むのかという哲学的な問いへ進む道を示しています。

ニューマンが制作した1940〜60年代と、リオタールが論じた1984年には時間差があります。作品の制作史、作家本人の発言、後年の哲学者の解釈を区別しながら読むことで、抽象絵画は神秘的な意味の容器というより、色と線、身体と空間、現在と記憶を関係づける具体的な出来事として理解できます。見える形があるからこそ、見えるものだけでは説明し尽くせない経験が生まれるのです。

参考資料・出典