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Philosophy

1974

【美術と哲学】誰が「これは芸術だ」と決めるのか

ジョージ・ディッキーの制度論

1974年のニューヨークでは、絵画や彫刻を扱う画廊のほかに、作品を選んで収蔵する美術館、展覧会評を載せる美術雑誌、作家を支える収集家など、多くの人々が芸術の公開に関わっていました。展覧会では学芸員や画廊の担当者が何を見せるか考え、作品を持ち込む作家は発表の機会を求めます。展示された作品は、批評家の文章や写真を通じて、会場に来ない人々にも知られるようになりました。

そのころ美術の世界では、何を作品として見せられるかが大きく変化していました。アメリカでポップアートを展開した画家アンディ・ウォーホル(1928–1987)は、スーパーで見かける洗剤の箱にそっくりな木製の彫刻を画廊に積み上げ、ニューヨークを中心にコンセプチュアル・アートを制作したジョセフ・コスース(1945年生まれ)は実物の椅子、写真、辞書の定義を並べました。絵の具の巧みな使い方や美しい形だけを手がかりにして、作品と日用品の違いを説明することが難しくなっていたのです。

美術館自体も社会的な対立の場となっていました。1969年に結成された芸術労働者連合は、ニューヨーク近代美術館へ黒人や女性の芸術家をより広く紹介すること、作家が自分の作品の扱いについて発言できることなどを求めています。1970年には美術館の展示室で来館者に政治的な投票を求める作品も発表されました。誰が美術を見せる場を運営し、誰に発表の機会を与えるのかという問題が注目されていたのです。

こうした時代に、アメリカの哲学者ジョージ・ディッキー(1926–2020)は、芸術作品は何によって芸術になるのかを問い続けました。1974年の『芸術と美的なもの――制度的分析』で彼が注目したのは、美術品の内部にある美しさよりも、作品を提示し、鑑賞する社会的な仕組みでした。美術館に飾られれば何でも芸術になるのでしょうか。それとも、作家や観客が共有している別の条件があるのでしょうか。作品の具体的な歴史とともに考えると、その問いの複雑さが見えてきます。

CONTENTS

  1. 1974年の美術界で、作品は誰に選ばれていたのか
  2. 芸術は見た目だけで判断できるのか
  3. ジョージ・ディッキーは何を問い始めたのか
  4. 芸術に共通の本質は必要なのか
  5. ダントーの「アートワールド」は何を説明したのか
  6. 1974年『芸術と美的なもの』は何を提案したのか
  7. 分類としての芸術と、評価としての芸術を分ける
  8. 「人工物」という条件はなぜ必要なのか
  9. 「地位を与える」とはどんな行為なのか
  10. 「鑑賞の候補」という資格をどう理解するか
  11. アートワールドは実際にどのような人々で成り立つのか
  12. 「誰が決めるのか」に一人の答えはあるのか
  13. 1917年のデュシャン《泉》は何を変えたのか
  14. 後年の《泉》の複製は何を語るのか
  15. ウォーホル《ブリロ・ボックス》はなぜ問題になったのか
  16. ラウシェンバーグ《ベッド》では日用品がどう変わるのか
  17. コスース《一つと三つの椅子》は何を見せたのか
  18. 物より考えや手順が前面に出る作品
  19. 美術館の中の行為も芸術になるのか
  20. 美術館そのものを作品にしたブロータース
  21. ハーケの作品は制度の政治性をどう見せたのか
  22. 美術制度には誰が参加できるのか
  23. 制度論にどのような批判が向けられたのか
  24. 「循環した定義」は何が問題なのか
  25. 1984年の改訂はどこを変えたのか
  26. 芸術の歴史を使って作品を説明する考え方
  27. 制度の外で作られたものをどう考えるか
  28. 制度論は作品の意味や感動まで決めるのか
  29. 展覧会を見たとき、何を問い直せるのか
  30. 略年表|芸術制度と作品の歴史
  31. まとめ|芸術という資格を支えるもの
  32. 参考資料・出典

1974年の美術界で、作品は誰に選ばれていたのか

美術館と画廊がつくる公開の場

1974年のニューヨークでは、画家や彫刻家の作品が画廊で紹介され、批評家は新聞や専門誌で展覧会を論じ、美術館の学芸員が購入や展示を検討していました。画廊は作品を見せるだけでなく、収集家と作家を引き合わせる商業の場でもありました。美術館では理事会や専門職員が収集方針を立て、限られた展示室へ何を出すか決めています。

作品が公共の場へ現れる過程には、制作する人のほかに、運搬、記録、展示設計、批評、資金の提供を担う人々がいました。社会に広く知られた作品も、制作された時点から同じ評価を受けていたとは限りません。こうした仕組みの中で「作品はどこで芸術になるのか」という問いが、単なる好みの問題を超えて重要になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求/ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品)

1960年代から変わってきた作品の姿

1960年代の美術館には、絵の具を塗ったキャンバスだけでなく、工業製品の箱、日用品、写真と文字を組み合わせた展示、記録資料を使う作品が登場しました。1964年にアンディ・ウォーホルが木製の梱包箱を画廊に並べると、スーパーに積まれた商品との外見上の違いは非常に小さく見えました。何をもって芸術と呼ぶのかが、それまで以上に見えやすい問題となります。

また、コンセプチュアル・アートの作家たちは、完成品の技術的な美しさよりも、作品を成立させる考えや仕組みに注意を向けました。ある物が物理的に何であるかと、それを美術作品として理解することの間には、説明すべき関係がある。その問題を受け止めたのが分析美学の制度論でした。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義/ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965))

美術館を変えようとする運動

1969年に形成された芸術労働者連合は、ニューヨーク近代美術館に対して展示や運営の改革を求めました。女性や有色人種の美術家をもっと紹介すること、作家が自身の作品の扱いについて発言できることなどが要求に含まれていました。作品の価値を語る施設の内部で、誰の作品が取り上げられるかという決定自体が争われたのです。

1970年の同館の展覧会「Information」では、ドイツ生まれでニューヨークを中心に活動する美術家ハンス・ハーケ(1936年生まれ)が来館者に政治的な問いへの投票を求める作品を出しました。観客は鑑賞するだけでなく、美術館内で意思表示する参加者にもなります。芸術の境界が変化する出来事と、境界を管理する制度への批判が、同じ時代に進んでいました。(参照:ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求/ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品)

芸術は見た目だけで判断できるのか

スーパーの段ボールと展示室の箱

店頭の洗剤の段ボール箱と、画廊に並ぶ同じ商品名の箱を想像してみてください。片方には商品が入り、もう片方は画家の作品として扱われています。外から眺めるだけでは、どちらがどちらなのか決めにくい場合があります。ウォーホルの《ブリロ・ボックス》は、まさにこの違和感を目に見える形にした作品です。

同じくらい似ている物でも、誰かが選び、どのように公開し、何について考えてもらうのかによって経験は変わります。重要なのは、箱を観察した後で判明する見えない関係です。哲学は、箱のどこが美しいかを問う前に、それが芸術に属するための条件を考えることができます。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

形のよさで線引きしようとすると

巧みに彫られた彫刻や美しい風景画なら、優れた技術や感動を芸術の特徴として挙げられます。ところが量産された商品に近い彫刻や、活字を並べた作品では、技術や美しさの種類が大きく変わります。従来の特徴を一つ選んでも、さまざまな美術の実践を説明しきれない状況が生まれました。

ここから、芸術は物の内側にある性質だけで決まるのか、それとも人と人の関係の中で成立するのかという問いに進みます。両方に目を向ける必要があるという事実は、芸術の歴史を理解するうえで新しい発想を促しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義)

芸術であることと、優れていること

美術館が収蔵している作品の中にも、見る人によって好き嫌いの分かれるものがあります。展覧会の作品に「退屈だ」と感じても、その作品が展覧会の対象であることまで否定する必要はありません。「芸術かどうか」という分類と「よい芸術かどうか」という評価は、問いの種類が異なります。

ジョージ・ディッキーはこの区別を明確に使いました。作品が芸術として扱われる条件を示す定義は、傑作を見つける審査基準とは別の仕事を担います。まず分類の意味を理解すると、制度論が単純な権威主義とどこで異なるかがわかります。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

ジョージ・ディッキーは何を問い始めたのか

20世紀後半のアメリカで活動した美学者

ジョージ・ディッキー(1926–2020)は、アメリカ合衆国で美学と芸術哲学を研究した哲学者です。芸術家の才能や特定の画風を論じるよりも、人々が「芸術」という言葉をどのような条件で使うのかに関心を向けました。分析哲学の方法を取り入れ、概念の意味を区別し、定義の条件を文章で明示する仕事を進めています。

ディッキーは1959年に博士号を取得し、1965年からイリノイ大学シカゴ校で教えました。彼の議論が求められたのは、美術館に並ぶ物が急速に変化していた時期でした。絵画、音楽、演劇、日用品からできた作品を、一つの言葉でどう捉えられるのでしょうか。ディッキーは、それらを芸術という種類に結びつけている社会的な関係に注目しました。(参照:コーネル大学出版局版書誌|ディッキー『芸術と美的なもの』(1974)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/イリノイ大学シカゴ校|ジョージ・ディッキー追悼・研究歴)

美的な経験だけで芸術を定義することへの疑問

ディッキーが検討したのは、芸術鑑賞には日常とは異なる特別な「美的態度」が必要だとする美学の考え方です。作品を利害から離れて注意深く見る姿勢は、鑑賞の経験を説明する際によく用いられてきました。ディッキーは、見る人の内面の特別な状態を条件にしても、ある物が芸術である理由を十分に説明できるかを問い直します。

例えば同じ絵を、色の配置に集中して見る人もいれば、描かれた都市の歴史に関心を持って見る人もいます。鑑賞の仕方は一つに決められません。作品として成立する条件と、観客がその作品をどう経験するかの関係を分けたことが、彼の理論の出発点でした。(参照:コーネル大学出版局版書誌|ディッキー『芸術と美的なもの』(1974)/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

1960年代の議論から1974年の著作へ

ディッキーは1960年代後半から芸術の制度的な定義を発表し、1974年に『Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis』(『芸術と美的なもの――制度的分析』)を刊行しました。出版社はニューヨーク州イサカのコーネル大学出版局で、初版は204ページの著作です。彼の考えは一冊の本で突然完成したのではなく、当時の美学で進んでいた定義をめぐる論争を引き受けながら整えられました。

この著作は美的な経験についての学説を吟味したうえで、芸術を理解するための社会的な枠組みへ進みます。重要な問題は、芸術作品をつくる技術の共通点を探すことから、物に芸術としての資格が生まれる条件を問うことへ移りました。(参照:コーネル大学出版局版書誌|ディッキー『芸術と美的なもの』(1974)/WorldCat|『Art and the Aesthetic』1974年初版書誌/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/American Philosophical Quarterly|ディッキー「Defining Art」(1969)/CiNii Books|ディッキー『Art and the Aesthetic』(1974))

芸術に共通の本質は必要なのか

絵画から演劇までに共通するもの

芸術を定義しようとすると、すべての作品に共通する性質を探したくなります。表現力、美しさ、模倣、想像力といった特徴は多くの作品で意味を持ちます。それでも古代の彫像、現代の映像、演劇の上演、言葉だけで構成された作品には、材料や受け取り方の大きな違いがあります。

この多様さを一つの性質で括るという課題は、20世紀の英米美学で強く意識されました。作品を作る実践そのものが変化すれば、過去に定めた定義はすぐに新しい実践へ試されます。何を芸術とみなすかについての議論は、作品の発展とともに変化してきました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/『The British Journal of Aesthetics』|ウォルハイムと芸術の歴史性(2024))

ワイツが提起した「開かれた概念」

アメリカの哲学者モリス・ワイツ(1916–1981)は、1956年の論考「美学における理論の役割」で、芸術の概念を新しい事例へ開かれたものとして捉える立場を示しました。彼の関心は、さまざまな作品を一組の必要十分条件で囲い込めるのか、という問題でした。

一つの様式が終われば芸術が終わるわけではなく、新しい作家たちは以前にはなかった方法を提出します。ワイツの議論は、芸術を一度定義すれば終わりという発想への強い疑問でした。ディッキーはこの批判を受け止めつつ、変化する芸術にも通用する社会的な条件を求めます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/『The British Journal of Aesthetics』|レヴィンソン「芸術を歴史的に定義する」(1979))

定義できないという結論に留まらない

変化する芸術を見れば、「芸術には定義がない」と結論したくなるかもしれません。ディッキーはそのとき、絵画に固有の見た目を探す方法自体を変えます。作品を囲む人間関係や慣行を、定義の条件として扱えば、古典絵画からコンセプチュアル・アートまで説明できる余地が生まれます。

この発想の哲学的な意味は、ある対象の種類を決める条件が、物の内部の性質とは別に存在しうることです。貨幣や法律上の役職の意味が社会の取り決めと結びつくように、芸術にも共有された制度が関わると考えたのです。制度の性質が貨幣や国家と完全に同じだという主張ではありません。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

ダントーの「アートワールド」は何を説明したのか

1964年の論考「アートワールド」

アメリカの哲学者アーサー・C・ダントー(1924–2013)は、1964年に論考「アートワールド」を発表しました。彼はウォーホルの《ブリロ・ボックス》のように、日常の品物と外見上よく似た作品を前に、両者の違いを哲学的に考えます。重要になるのは、作品を理解するための美術理論と、そこに至る芸術の歴史でした。

物が何を意味し、どんな表現として読めるかは、見える色や形だけからは決まりません。ダントーは芸術理論の雰囲気と美術史の知識が、ある対象を芸術として理解するために必要だと論じました。この意味での「アートワールド」は、まず作品を理解可能にする理論的な文脈を指しています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義)

同じ外見でも違う意味を持つ

洗剤の梱包箱が流通する場では、その印刷は商品を識別し、運送や販売に役立ちます。ウォーホルの作品を1964年の画廊で見れば、同じ商業的な図像が、絵画の表現や大量生産をめぐる問いとして現れます。形の似た物が異なる仕事をしているという事実を、ダントーは重視しました。

この違いは、二つの箱を詳しく計測すれば解決するとは限りません。どの作品の後に制作され、どんな意味をめぐって提示されたのかを知る必要があります。ディッキーはダントーから「アートワールド」という言葉を受け取りますが、その説明の中心を社会制度へ移しました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

二人のアートワールドは同一ではない

ダントーにとって、芸術史と理論は作品の意味を可能にする条件です。ディッキーにとって、芸術をめぐる社会的な役割と慣行は、作品を芸術として扱う仕組みに関わります。両者は見た目だけでは芸術を説明しにくいと考えながら、答えに選んだ条件が違っていました。

「ダントーが美術館の承認制度を提案した」と説明すると、この違いが消えてしまいます。ダントーの問題は主として解釈と意味であり、ディッキーは社会制度の中で生じる資格の問題に進みます。二人の理論を区別すると、作品を理解することと芸術として分類することの関係をより正確に考えられます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

1974年『芸術と美的なもの』は何を提案したのか

見えない社会的条件を定義に加える

1974年のディッキーは、分類上の意味での芸術作品を、人工物であって、そのある側面がアートワールドという社会制度を代表して行為する人々によって「鑑賞の候補」という地位を与えられたものとして定義しました。文章の中に、人工物、地位の付与、鑑賞の候補、アートワールドという四つの問題が含まれています。

これらは作品の美しさや値段を測る項目ではありません。どんな関係が成立すれば「芸術作品」という分類に入るかを説明する条件です。例えば人が作った箱が、鑑賞されるものとして作品の場へ差し出されることを、作品になるための手続きとして捉えます。(参照:コーネル大学出版局版書誌|ディッキー『芸術と美的なもの』(1974)/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/CiNii Books|ディッキー『Art and the Aesthetic』(1974))

「候補」という語を使った理由

「鑑賞の候補」とは、あらゆる観客が実際に賞賛するものという意味ではありません。ある物が評価や理解の対象として取り上げられる資格を持つ、という意味です。展示を見た人の多くが作品を嫌ったとしても、候補として差し出されたという事情は変わりません。

試験の候補者が必ず合格するわけではないように、芸術としての候補も高い評価を保証しません。ディッキーの定義を、学芸員が傑作認定の判を押す理論として読むと、彼が分類と評価を分けた意味を取り逃がします。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/CiNii Books|ディッキー『Art and the Aesthetic』(1974))

物全体ではなく、その側面を鑑賞する

ディッキーの1974年の定義には、人工物の「側面」について地位が与えられるという細かな条件がありました。絵画なら、鑑賞者が注意を向ける表面の色や形と、梱包や保管に必要な裏側の性質とを区別できる場合があります。どこを作品として経験してほしいのかという指定が、作品の提示に関わるからです。

こうした説明は、絵に描かれたものだけを鑑賞の対象とするためではありません。画家の選択や作品の置かれ方も、人々が注目する側面になります。社会的な地位を与えるとき、何を見てもらうのかが決められるという問題を示す表現でした。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/コーネル大学出版局版書誌|ディッキー『芸術と美的なもの』(1974)/CiNii Books|ディッキー『Art and the Aesthetic』(1974))

分類としての芸術と、評価としての芸術を分ける

「芸術作品だが好きではない」という判断

展覧会の一室で、観客が作品を見て「これも芸術と呼ぶのか」と不満を感じる場面を想像してください。その人は、展示物が芸術作品として紹介されていることを理解したうえで、価値や面白さに異議を唱えている場合があります。分類と評価を混同すると、この会話で何が争われているのか曖昧になります。

ディッキーが提示したのは、まず分類の条件でした。芸術作品であることは、完成度が高いことや、万人に好かれることを意味しません。失敗作や批判を浴びる作品も、芸術の歴史に登場する理由がそこにあります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

審査員の判断と制度的地位はどう違うか

公募展の審査員は、応募作品から展示するものを選びます。この判断は具体的な展覧会の運営に関するもので、そこで落選した作品の作者が制作活動をやめるわけでも、あらゆる作品が芸術から排除されるわけでもありません。芸術としての資格と、特定の展覧会で採用されることは段階が違います。

1917年のデュシャンの《泉》が展示を拒否された出来事は、この違いを考える材料になります。展示の門前で争いが起きたこと自体が、何を芸術として示せるかという規範を表面化させたからです。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

価格は芸術の条件になるのか

高値で売れた物がすべて芸術なら、投資用の貴金属や高級時計も同じ資格を持つはずです。反対に、売れない作品や売る意図のない作品も芸術として制作されます。市場価格は需要、希少性、収集の歴史などによって変動しますが、その数字だけで作品の分類を説明できません。

美術市場は作家の活動や作品の流通を支える重要な制度の一部です。ディッキーのいうアートワールドを、オークションで価値を決める市場と同一視すると、作品を発表し、鑑賞し、議論する多くの場が見えなくなります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求)

「人工物」という条件はなぜ必要なのか

人が作った物と自然にある物

ディッキーの初期の定義で第一の条件となる「人工物」は、人間の働きによって成立した物を指します。画家がキャンバスに描いた絵や職人が作った椅子は人工物です。山の石や海辺の流木は、そのままでは自然の中に存在していた物です。

芸術家が流木を拾い、向きを決め、彫刻として見せるとき、その選択と配置は人の行為になります。自然物を素材として作品をつくる場合をどう説明するかは、制度論にとって重要な試金石です。物を完全に作り替えることと、物を作品として扱うことの違いが問題になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

選択と展示は制作に含まれるのか

デュシャンが便器を選び、《泉》という題を付けて提出したとき、陶器を焼く作業を自ら行ったわけではありません。制作の焦点は、その物を選び、向きを変え、署名し、別の場に置こうとした行為にあります。ここでは、芸術家の仕事を「手で材料を加工すること」から広げて考える必要があります。

制度論は、ある物が普通の工業製品として作られていても、別の行為によって芸術の候補になりうると説明します。それでも選ぶだけですべてが芸術になるのか、選択には何らかの制作意図が必要かという疑問は残ります。(参照:ニューヨーク近代美術館|マルセル・デュシャンのレディメイド/フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争)

川原の石を持ち込む思考実験

例えば川原で手に取った石を棚に置き、「形を見てください」と友人に話したとします。石の形成過程は自然の働きですが、人が取り上げ、鑑賞のために提示したという事情が加わりました。石をただ集めた場合と、作品として展示した場合でどこが変わるのかを考えると、人工物の意味が揺れ始めます。

これはディッキーの定義を理解するための日常的な例です。彼の1974年の理論は人工物性を条件としながら、既成品に新しい役割を与える制作にも対応しようとしました。自然物がどのような手続きで人工物として扱われうるかという点は、後の議論でも問題になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

「地位を与える」とはどんな行為なのか

同じ物に別の役割が生まれる

学校の卒業証書、劇場の入場券、試合の審判などを考えると、社会的な地位は物の見た目だけで決まりません。紙片が入場券になるには、何らかの機関が発行し、関係者がその使用の仕方を認める必要があります。ディッキーは、芸術でも物の性質に加えて社会的な関係が働くと考えました。

ただ、芸術の制度は国家の法律のように明文化され、同じ手続きに従って運営されているわけではありません。作品をつくる人、見る人、批評する人の間で、何を鑑賞の対象とするかという慣行が育っています。「地位の付与」はその働きを説明する言葉でした。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

美術館の収蔵印が必要なのか

作品は美術館に買われる前から、作家の制作室や小さな画廊で鑑賞されることがあります。したがって制度論の「地位」は、国立美術館の収蔵証明書と同じ意味にはなりません。批評や展覧会の場だけでなく、作家が作品として差し出す行為も議論に含まれます。

ディッキーのいうアートワールドは、正式な資格証を持つ一握りの人だけの組織を指すと理解すると狭すぎます。制作と鑑賞の共有された営みがあるからこそ、ある物がそこで特別の扱いを受けるのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

「芸術だ」という宣言だけで十分か

誰かが拾った空き缶に「これは芸術だ」と書けば、それで定義は満たされるのでしょうか。ディッキーの初期の説明はこの問いを避けて通れません。社会制度を代表して地位を与えるという条件は、発言した人の役割と、その行為が置かれた状況を問うためのものでした。

一人の発言だけを見れば単純な問題に見えますが、その人がどんな慣行を理解し、何を観客に経験させようとするかを考えると複雑になります。制度の範囲をどう定めるかという困難は、理論への批判の焦点にもなりました。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義(2017年版))

「鑑賞の候補」という資格をどう理解するか

鑑賞される前の作品にも地位はある

画廊の壁に掛けられた絵は、誰も見ていない閉館中にも作品であり続けます。観客が実際に美的感動を覚えたかどうかを作品の成立条件にすれば、同じ物が来場者の反応のたびに芸術になったり、芸術でなくなったりしてしまいます。ディッキーは「実際に賞賛されること」から一歩離れた条件を置きました。

候補という言葉は、鑑賞の可能性を開かれたものとして扱う考え方です。作品が退屈でも難解でも、見る人がその面白さを論じたり批判したりできる位置へ差し出されます。ここには評価の結論ではなく、評価を始められる状態という特徴があります。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

観客がまだ作品を理解していないとき

新しい作品を初めて見た人は、何が主題なのか理解できないことがあります。概念芸術では、説明文を読んで初めて、目の前の配置が一つの問いになっているとわかる場合もあります。理解されるまでの時間差は、作品が鑑賞の候補として提示されることと矛盾しません。

むしろ、この時間差が重要です。芸術としての提示が先にあり、観客が作品への反応を形成していくことがあるからです。展示の制度は鑑賞を命じる仕組みというより、作品を対象として扱う関係をつくります。(参照:ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

不快な作品や政治的な作品はどうなるか

社会への怒りを伝えたり、人を不快にさせたりする作品もあります。「鑑賞」を美しさに浸る行為とだけ考えると、こうした作品を説明するのは難しくなります。1970年の「Information」展に出された政治的な作品は、観客が社会問題について判断することを求めました。

ディッキーの枠組みでは、芸術として示されることは、肯定的な感情を保証するわけではありません。理解し、問い、反論する対象になりうることが重要です。美を味わう経験だけに芸術を限定する考え方を離れたところに、この理論の射程がありました。(参照:ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

アートワールドは実際にどのような人々で成り立つのか

芸術家、観客、批評家、展示をつくる人々

ある展覧会には、作品をつくった作家、展示を企画する学芸員や画廊の担当者、作品を見に来る人、批評を書く人が関わります。記録係や技術者、資金を支える人も作品が公共の場へ現れる条件をつくります。美術が個人の制作であると同時に、複数の人による協働の場でもあることがわかります。

「アートワールド」は、こうした人々が共有する実践のまとまりとして考えられました。その範囲に絶対的な名簿があるわけではなく、どの役割が作品の成立に不可欠かという論争が生じます。作品が社会の中で現れる仕方を説明するための概念です。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求)

劇場と展覧会に共通する仕組み

演劇には俳優、演出家、観客、上演場所があり、展覧会には美術家、展示空間、鑑賞者がいます。完成した絵画と一夜だけの演技は物としての性質が違いますが、表現をつくり、他者へ示し、受け取る仕組みを持っています。ディッキーの関心はこうした共通の枠組みにも向かいました。

芸術の制度を狭い意味の美術館へ限定すると、演劇や音楽を同じ「芸術」という言葉で捉える理由がわかりにくくなります。制作と公表が行われる社会的な場という理解は、ジャンルを横断して働きます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

芸術を生む人と評価する人の境界

作家が自分の作品を初めて見る観客になることもあれば、批評家が展示を企画することもあります。役割は固定された職業名ではありません。例えば、制作した作品について作家自身が説明し、友人が反応し、共同で公開方法を選ぶこともあります。

社会制度は役割の分担を説明する一方で、役割が入れ替わる余地も持っています。ディッキーの理論を、権威者だけが芸術を発見する仕組みとして理解するより、誰がどんな役割で作品を差し出すかという関係として読む方が正確です。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

「誰が決めるのか」に一人の答えはあるのか

国の認定機関のような制度ではない

ある物が芸術であるかどうかについて、世界共通の証明書を発行する機関は存在しません。美術館同士で展示方針が違い、批評家の判断が分かれ、観客の見方も変化します。ディッキーが社会制度を重視したことは、芸術の正解を一人の権威へ委ねることと同じではありません。

制度論の出発点は、芸術としての取り扱いが社会の中で形成されるという観察です。誰かが「これを芸術として見てほしい」と示し、周囲の人々がその行為を理解し、作品について語る。地位の付与という説明には、こうした公開の行為が含まれます。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

作家だけで決められるのか

自分の制作を芸術だと考える作家の意思は重要です。けれども、制作した物をどのような約束や期待のもとで提示するのかを理解するには、受け手のいる場との関係が必要になります。作品を見せる場も、観客の共有する芸術への理解も、作品の経験を支えます。

初期制度論では「社会制度を代表する人」が誰なのかが明確さを欠くという批判を受けました。自己申告だけで地位が成立するのか、何らかの慣習への参加が必要なのか。この問いは、制度論を単純な主観主義と区別するためにも重要でした。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義(2017年版))

観客は受け身なのか

観客は展示物を眺めるだけでなく、解釈や議論を通じて作品を社会の中で生かしています。新しい表現を理解するには、既存の美術史や制作方法について考える場合があります。だからといって、観客の一票で作品が成立するという制度があるわけでもありません。

作品をめぐる判断は、作家、展示を担う人、鑑賞する人の相互作用の中で変わります。制度論が教えるのは、芸術の境界が個人的な感想と同一ではなく、共有された活動の中で維持されるという見方です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品)

1917年のデュシャン《泉》は何を変えたのか

便器の購入と「R. Mutt」の署名

フランス出身でニューヨークで活動したマルセル・デュシャン(1887–1968)は、1917年に陶器製の男性用小便器を選び、横向きに置いて「R. Mutt 1917」と記し、《泉》という題名を与えました。工場製の製品を作品として提出する行為は、芸術家が素材を自分の手で造形するという習慣を鋭く問い直しました。

1917年のものは後に失われています。現在見られる《泉》には、デュシャンが関わった後年の複製が含まれます。制作の元となった行為と、後から作られた物体を区別すると、作品の歴史がはっきりします。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版と1917年の出来事)

無審査を掲げた展覧会での拒否

《泉》は1917年4月、ニューヨークの独立美術家協会の展覧会へ提出されました。同協会は、作品を審査によって排除しない方針を掲げていました。それでも小便器の展示をめぐって委員会内で議論が起こり、作品は公開されませんでした。デュシャンはこの処置に抗議して協会から離れます。

無審査という理念のもとでも、何を作品として受け取るかという判断が実際には行われていました。この出来事は、美術制度が作品を認める仕組みと、そこに含まれる排除の力を同時に示しています。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争/サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版)

写真と雑誌が作品の記録を残した

作品の原物は残っていませんが、写真家アルフレッド・スティーグリッツ(1864–1946)が撮影した写真が、1917年5月の前衛雑誌『The Blind Man』第2号に掲載されました。その誌面には、工業製品を選ぶこと自体が新しい考えを生み出すという趣旨の文章も載っています。

展示から排除された作品が、写真と印刷物を通じて歴史に残ったことは意味深い事実です。作品を公の話題へ変えたのは、美術館の承認だけではありませんでした。雑誌の編集者、写真家、議論する人々も、その存在を後世へ伝えています。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争/ニューヨーク近代美術館|マルセル・デュシャンのレディメイド)

後年の《泉》の複製は何を語るのか

1950年版が美術家たちの目に触れる

フィラデルフィア美術館が所蔵する《泉》は、1917年の原作そのものではなく、1950年に作られた版です。画商シドニー・ジャニスがパリで中古の小便器を入手し、デュシャンが承認して署名を加えました。寸法は約30.5×38.1×45.7センチメートルで、陶器製の衛生器具が横倒しに置かれています。

この版は1950〜60年代に展覧会を通じて紹介され、実験音楽を展開したアメリカの作曲家ジョン・ケージ(1912–1992)や、日用品と絵画を結びつける制作に取り組んだ美術家ロバート・ラウシェンバーグ(1925–2008)らが見る機会を得ました。最初の展示から三十年以上を経て、デュシャンの問題提起が新しい世代の美術家へ伝わっていったことがわかります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版と1917年の出来事/ニューヨーク近代美術館|マルセル・デュシャンのレディメイド)

1964年版という別の制作物

サンフランシスコ近代美術館が所蔵する《泉》は、1917/1964年と記される後年の版で、高さ約38.1センチメートル、幅約48.9センチメートル、奥行き約62.6センチメートルの陶器製です。デュシャンの承認を得て制作された1964年の複製群に属します。

同じ《泉》という名前でも、1917年の原作、1950年の再制作、1964年の版は物理的には別の物です。作品の同一性を理解するには、作家の承認、版の来歴、展示の歴史を確かめる必要があります。目に見える形と作品の資格を分けて考える問題が、ここにも現れます。(参照:サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版/フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版と1917年の出来事)

美術館が承認したから歴史が始まったのか

《泉》は1917年の展覧会から排除されました。それでも写真や雑誌に残り、作家自身が複製へ関与し、後年に美術館で展示・収蔵されるようになりました。その歴史を一つの「美術館が芸術だと決めた瞬間」へまとめることはできません。

作品の社会的な位置は、繰り返される提示と解釈の過程で変化しました。ディッキーの制度論にとって《泉》は有力な事例ですが、制作・拒否・再制作という出来事の違いは、制度が一枚岩ではないことも示しています。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争/サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版)

ウォーホル《ブリロ・ボックス》はなぜ問題になったのか

1964年、画廊が商品の箱で埋まる

アメリカの画家アンディ・ウォーホル(1928–1987)は、1964年にニューヨークのステイブル・ギャラリーへ、洗剤用の金属たわし「ブリロ」などの箱を模した彫刻を並べました。木工職人が作った合板の箱へ、工業製品のパッケージに似た印刷が施され、画廊は倉庫のような光景に変わりました。

ウォーホル美術館によれば、制作にはジェラード・マランガやビリー・リニッチも関わり、複数の商品の箱がまとまって展示されました。商品の外観を借りる仕事が、伝統的な彫刻の素材や技法に対する問いになりました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義)

段ボールと合板という違いがあっても

実際の商品の段ボール箱と、ウォーホルの合板に印刷した箱は材料が異なります。その差を知ることは作品理解に役立ちますが、「合板で作れば芸術になる」という原理が導かれるわけではありません。別の職人が同じ形の合板箱を作り、倉庫の備品に用いる場合もあるからです。

ここで問うべきなのは、その箱がどのような活動に属し、何を見せようとしているかです。ダントーは芸術理論と美術史の必要性を強調し、ディッキーは社会制度のなかで作品に地位が生じる条件を探しました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

売れ残りさえ作品の地位を消さない

ウォーホル美術館の解説によれば、1964年の箱は注目を集めたものの、販売は順調ではありませんでした。作品が美術市場で広く売れるかどうかと、美術として提示されたかどうかは別の出来事です。ギャラリーに積み上げられた箱の姿は、商品流通の仕組みそのものを考えさせます。

ディッキーの定義では、観客の高い評価や売買の成功が、芸術作品の分類を決める唯一の条件にはなりません。1964年の商業的な図像の引用は、1974年の制度論が何を説明しようとしたのかを理解するための明確な事例となりました。(参照:アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

ラウシェンバーグ《ベッド》では日用品がどう変わるのか

1955年、使い古した寝具を壁に掛ける

アメリカの美術家ロバート・ラウシェンバーグ(1925–2008)は、1955年の《ベッド》で枕、シーツ、パッチワークの掛け布団を木製の支持体へ取り付け、絵の具や鉛筆の線を加えました。ニューヨーク近代美術館の記録では寸法が約191.1×80×20.3センチメートルで、人の身体に近い大きさを持ちます。

寝具は身につけたり使ったりする日用品ですが、壁に掛けられた《ベッド》では、布の染みやしわ、絵の具の飛沫が鑑賞の対象となります。どこまでが生活の物で、どこからが絵画なのかという境界が、一つの物に重ねられています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ラウシェンバーグ《ベッド》(1955))

絵画の手続きと日用品の素材が混ざる

《ベッド》には抽象表現主義の絵画を思わせる筆跡と、現実に使われた寝具の質感があります。伝統的なキャンバスの代わりに布団が画面となり、見る人は絵の具の配置と布の使い道を同時に意識します。作品を一つの表現として見るには、布がどのような用途から移ってきたかも意味を持ちます。

ラウシェンバーグは日常の物を絵画へ持ち込む「コンバイン」の方法を発展させました。《ベッド》は、制度によって作品と分類されることと、物が持つ感覚的な特徴の豊かさとを一緒に考えられる例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ラウシェンバーグ《ベッド》(1955)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

制度論は作品の質感まで説明するか

《ベッド》が芸術に分類される条件を説明しても、布団の重みや絵の具の激しい動きが何を感じさせるかまでは説明し終えられません。作品の経験を理解するには、素材、制作行為、展示位置を詳しく見る必要があります。

ディッキーの理論の射程をこうして区別することができます。制度論は芸術作品に属する条件を扱い、具体的な批評は作品の表面と歴史を解釈します。両者は異なる問いに取り組む営みであり、作品を理解する際には結びつけて考えられます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ラウシェンバーグ《ベッド》(1955)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

コスース《一つと三つの椅子》は何を見せたのか

椅子、写真、言葉を並べる

アメリカのコンセプチュアル・アーティスト、ジョセフ・コスース(1945年生まれ)は、1965年の《一つと三つの椅子》に、木製の折り畳み椅子、同じ椅子を撮った写真、辞書の「椅子」の定義を拡大したパネルを使いました。三つの要素が並ぶことで、一つの物と、それを示す像や言葉の関係が問いになります。

ニューヨーク近代美術館が所蔵する版では、椅子は高さ約82センチメートルで、写真パネルは約91.5×61.1センチメートルです。椅子そのものには特別な彫刻的装飾がなく、見慣れた家具を選ぶことが作品の構成に関わります。(参照:ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965))

物を作らずに作品を構想する

美術館の作品解説は、コスース自身が椅子を製作したわけでも、辞書の文章を書いたわけでもないことを説明しています。彼は三つの異なる表し方を選んで一緒に配置しました。制作の中心は既存の物を組み合わせ、そこから問いが生じる状況をつくることにありました。

こうした作品は、芸術作品が手仕事の巧みさや美しさで決まるという考えを試します。一つひとつは日常の物や資料でも、組み合わせたときに物、言葉、像について考える装置になるのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

美術館の壁から別の場所へ動かすと

同じ椅子が倉庫にあれば家具として扱われ、作品の一部として展示されれば、どんな意味で椅子なのかを考える材料になります。写真をどのように撮り、パネルをどこへ配置するかも、展示ごとの経験を左右します。

制度論では、この展示の枠組みが作品の分類を考える手がかりになります。同時に、コスースは作品を通じて「芸術とは何か」という問いを鑑賞者に返しています。社会制度と芸術家自身による概念の探究が、ここでは重なって見えます。(参照:ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965)/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

物より考えや手順が前面に出る作品

作品の説明書や記録が重要になる

1960年代後半から70年代にかけて、コンセプチュアル・アートでは、物を作るだけでなく、手順、書類、写真、言葉によって作品を組み立てる方法が広がりました。展示物を実際に制作した人、企画を立てた人、記録を保管する人が同一である必要はありません。

この変化は、作者の考えがどのような形で他者に伝わるのかを問い直しました。制度論は作品の材料を狭く限定しないため、こうした新しい実践も分類の対象にできる余地を持っています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジーゲラウブ文書と制度批判/ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965))

セス・ジーゲラウブが試みた発表方法

ニューヨークで活動したセス・ジーゲラウブ(1941–2013)は、1960年代後半にコンセプチュアル・アートの発表と流通を支えた企画者です。作品の所在を展覧会場だけに結びつけず、印刷物や文章を通じて美術の考えを伝える方法に関わりました。

ニューヨーク近代美術館のジーゲラウブ文書には、作家の権利、美術館への要求、政治的な意思表示に関する記録が保存されています。美術作品の発表は、作品を置く場所だけでなく、契約や出版、共同の活動とも結びついていたことが確認できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジーゲラウブ文書と制度批判)

複製可能な作品には何が残るか

作品が一つの実物として保管されるのではなく、特定の手順に従って複数回実現される場合があります。その際に重要なのは、どの要素を守れば同じ作品の実現と認められるかという条件です。これは展示技術の問題であると同時に、作品の同一性をめぐる哲学的な問題です。

ディッキーの社会制度という見方は、作品を発表する場と共有された慣行に注意を向けさせます。実際の展示では、指示書や作家の意図、保存担当者の判断を照合しながら、作品をどのように実現するかが検討されます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ジーゲラウブ文書と制度批判/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

美術館の中の行為も芸術になるのか

建物そのものを使う表現

美術館は普段、完成した作品を陳列する場所として捉えられています。ところが1960〜70年代には、展覧会場の使い方や入場者の行動そのものを作品へ取り込む美術家が現れました。作品を見るという行為の条件が、その場で変えられていきます。

1970年のニューヨーク近代美術館の「Information」展では、投票や電話、郵便といった方法が展示に持ち込まれました。絵画や彫刻の形を持たない表現も、鑑賞者の経験を組織することで成立していたのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品)

政治的な投票も展示作品になる

ハンス・ハーケ(1936年生まれ)は、1970年の同展で観客に政治的な質問へ答えるよう求める《MoMA Poll》を発表しました。美術館を訪れた人が投票という行為に参加することで、作品は集まった回答と社会の現実を結びつけます。

投票用紙を集計すること自体は、通常なら社会調査や選挙の手続きです。その行為が展示室の中で、政治と美術館の関係を問う作品として経験されたことに特徴があります。ディッキーの制度論を当てはめると、既存の活動が芸術の枠組みの中で新しい役割を担う場合を考えられます。(参照:ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

見る人が作品の一部になる

展覧会に入ったとき、ただ眺めるのか、紙に書くのか、音を聞くのか、行為を選ぶのかによって、鑑賞の経験は変わります。参加型の作品では、観客も展示の結果を変える存在になります。芸術を完成品の属性だけで定義する方法には、新たな課題が生まれました。

ディッキーは芸術をめぐる人の役割を考えることで、作品を社会的な営みの中に置きました。鑑賞者が単なる受け手を越える場合、提示する側と受け取る側をどう区別するかという問題も生じます。(参照:ニューヨーク近代美術館|1970年展「Information」と参加型作品/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

美術館そのものを作品にしたブロータース

架空の「近代美術館」をつくる

ベルギー出身の詩人・美術家マルセル・ブロータース(1924–1976)は、1968年に「近代美術館・鷲の部門」という架空の美術館を始めました。美術館という名前、分類、標識、広報に似た形式を用い、何が公的な文化機関として信じられるのかを作品の中心に置きます。

芸術を見せる枠組みそのものを、美術家が制作の対象にしたことが特徴です。美術館の名を掲げるとき、何が展示物に権威を与えるのかという疑問が生じます。制度論が芸術の条件として扱う仕組みを、作品の形で見せた先行例と考えられます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ブロータース《鷲の部門》と架空の美術館)

1968年《鷲の部門》の看板

ニューヨーク近代美術館が所蔵する1968年の《鷲の部門(ダヴィッド―アングル―ヴィールツ―クールベ)》は、約84×121.2センチメートルの薄い真空成形プラスチック板に塗装を施した作品です。広告看板に用いられる工業的な製法を借りながら、文字と図像の読み方をずらしています。

美術館の看板を思わせる形が、実際には美術館制度への問いになります。作品を示すはずの情報や分類の言葉が、それ自体で作品となるという入れ替わりです。ブロータースは1968年から1972年まで、この架空の美術館の活動を続けました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ブロータース《鷲の部門》と架空の美術館)

制度を説明する理論と、制度を揺さぶる作品

ディッキーは芸術を成立させる制度の働きを理論的に記述しようとしました。ブロータースの実践は、美術館の権威がどのように見える形をとり、どこで観客を納得させるのかを問いにします。同じ「制度」を扱っていても、哲学者の定義と美術家の制作は異なる活動です。

作品の中に美術館の形式を再現することは、実際の美術館に作品を見せることだけが芸術の条件なのかという疑問も生みます。制度の仕組みを利用する作品が、その仕組み自身を批判できるという点に、興味深い緊張があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ブロータース《鷲の部門》と架空の美術館/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

ハーケの作品は制度の政治性をどう見せたのか

1971年、土地と所有の記録を作品にする

ハンス・ハーケは1971年、《シャポルスキーほか――マンハッタン不動産所有、リアルタイムの社会システム》を制作しました。公的な不動産記録を調べ、建物の写真、地図、取引の情報などを組み合わせて、所有関係がどのように成り立つかを視覚化しています。ホイットニー美術館の解説では、146点の写真や地図、図表が用いられています。

ここでは写真や文字が、不動産経営の仕組みを示す証拠として働きます。画面の美しさだけでは作品の意味を説明できず、何が記録され、誰がそれを読むのかという社会との関係が重要になります。(参照:ホイットニー美術館|ハーケ《シャポルスキーほか》(1971))

グッゲンハイム美術館での展示中止

この作品は1971年にグッゲンハイム美術館で予定されていたハーケの個展に向けて準備されましたが、展示は中止され、企画した学芸員も職を離れることになりました。ホイットニー美術館の記録は、そのときの議論と作品の性格を伝えています。

作品を発表するための場が、作品内容に反応して展覧会を取りやめた出来事です。美術館が芸術を成立させる場であると同時に、芸術がどこまで社会の現実を扱えるかを制限しうる場でもあることが表面化しました。(参照:ホイットニー美術館|ハーケ《シャポルスキーほか》(1971))

社会制度への依存と批判の両立

ハーケの作品は、公共の記録を使って美術制度の外側にある権力関係へ向かいます。その作品が美術館と衝突することで、芸術の発表制度そのものが問題になりました。作品として提示されたものが、提示の条件を批判するという関係です。

制度論は作品と社会の結びつきを説明する力を持っています。その一方で、どのような政治的・経済的な力が発表の機会を左右するのかまで説明するには、具体的な歴史や制度運営を調べる必要があります。(参照:ホイットニー美術館|ハーケ《シャポルスキーほか》(1971)/ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求)

美術制度には誰が参加できるのか

美術館の選考は中立なのか

美術館には、予算、展示室の面積、作品の保存条件、収集方針などの制約があります。その中で誰の作品を見せるかを決定することは、公に知られる作家の顔ぶれを形づくります。選考の結果は、一つの施設の評判だけでなく、他の展覧会や美術史の記述にも影響します。

1960年代末の美術家たちは、この仕組みを見直すよう求めました。ニューヨーク近代美術館の記録には、展示の人選、作家の権利、組織運営に関する要求が残っています。芸術を支える制度が、さまざまな利害と権力の中で動いていることがわかります。(参照:ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求/ニューヨーク近代美術館|1969〜70年代の抗議と文化制度)

女性作家と人種的な排除をめぐる要求

1969年の芸術労働者連合は、黒人やプエルトリコ系など、それまで十分に紹介されてこなかった人々の作品を展示するよう求めました。同じ時期には女性作家の展示や購入、選考委員への参加を増やす要求も現れています。誰が芸術を評価する側に立てるのかが問われたのです。

制度を通じて芸術の資格が生まれるという説明は、制度から締め出されてきた人々についての疑問を呼び起こします。作品として見てもらう機会が不平等であれば、芸術についての共有された判断も、その不平等の影響を受けるからです。(参照:ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求/ニューヨーク近代美術館|美術家とジェンダー平等の要求)

分類の理論は不公正を認めるのか

制度論が「作品の資格は社会の慣行に関わる」と述べたとしても、それだけで慣行が公正だという結論にはなりません。展示の選考は批判され、収蔵方針は変更され、見落とされていた作家の作品が新たに紹介されることがあります。制度の記述と制度の擁護を区別する必要があります。

1970年代の美術家たちは、作品をつくりながら制度の仕組みを批判しました。制度論はなぜ制度が問題になるのかを考える材料となり、具体的な不公平を検討するには、誰がどのような条件で制作・発表できたかという歴史的資料が必要になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|美術家とジェンダー平等の要求/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

制度論にどのような批判が向けられたのか

芸術の外から新しい表現は生まれるか

芸術家として知られていない人が、一人で作った物を誰にも見せずに保管している場合を考えてみてください。それが後に傑作として発見されたなら、最初の制作時点には芸術としての資格がなかったのでしょうか。制度論が芸術の社会的な承認を重視するほど、この種の例が難しくなります。

ディッキーの初期の定義は、制度と芸術の境界をどう引くかという批判を受けました。社会から離れて制作された物や、新しい芸術の形式を初めて試した人物の仕事を、既存の制度で説明できるのかが問われたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

アートワールドが間違える場合

批評家や美術館の人々も、知識の不足や偏見から判断を誤ります。ある作品が当初は評価されず、後に美術史上の位置を与えられることもあります。制度の関係者が地位を与えたから必ず適切だとするなら、その制度の誤りをどう批判できるかという問題が残ります。

ディッキーは「芸術」と「優れた芸術」の区別を用いるため、評価の誤りについては一定の説明ができます。それでも分類する制度が誤る場合、どのように訂正や異議申し立てが可能になるのかという問題は、芸術の定義と制度の運営をつなげて考えさせます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

なぜ「芸術の世界」なのかを説明できるか

芸術の制度には作家、受け手、公開の場があるとします。同じような役割分担は商業見本市や宗教的な催しにも見られます。何が芸術の枠組みを他の社会制度から区別するのでしょうか。芸術を説明する言葉に、あらかじめ「芸術」という概念を含めると、定義が元に戻ってしまう危険があります。

この問題は制度論への循環性の批判として知られています。芸術をアートワールドで説明し、アートワールドを芸術のための制度として説明すると、どちらが先かが明らかになりません。ディッキーの理論を精密に検討する際の中心的な争点です。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

「循環した定義」は何が問題なのか

定義したい言葉で同じ言葉を説明する

「芸術とは、芸術として扱われる物のことです」と答えれば、一見わかりやすく聞こえます。しかし芸術が何か知らない人には、その説明から新しい判断の仕方を学ぶことができません。「アートワールドに受け入れられる物」が芸術だとしても、アートワールドの説明が芸術という言葉を使うなら同じ問題が生じます。

制度論への循環性批判は、単に言葉遣いを指摘するものではありません。芸術を他の社会的な活動から区別する根拠が、本当に示されているかを問う哲学的な批判です。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

多くの人が知っている慣行も説明を要する

劇場に入ると、観客が座り、俳優が演じると理解できます。私たちは劇場の働きを、特別な定義を知らなくても日常経験から学んでいます。社会制度の仕組みを記述する理論は、このような慣行の連なりを明らかにすることができます。

ただ、何を「劇場」と呼ぶかをすでに知っていなければ、その説明は別の催しと混同されるかもしれません。芸術でも同様に、共有された理解に依存する説明と、言葉の意味を初めて定める説明を区別して考える必要があります。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

必要な条件と十分な条件を区別する

美術館に置かれることが芸術の必要条件なら、美術館にない絵画は芸術でなくなってしまいます。十分条件なら、美術館の備品や消火器まで芸術になるおそれがあります。定義に使う条件は、どんな例が含まれ、どんな例が除かれるかを慎重に確かめなければなりません。

ディッキーの理論は単純に「美術館にある物は芸術だ」とするものではありません。人が作った物、鑑賞の候補としての地位、社会的な場といった条件を組み合わせました。その構成が十分に明確かどうかを検討することが、哲学的な議論の中心でした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

1984年の改訂はどこを変えたのか

「地位の付与」から制作と提示の仕組みへ

ディッキーは1974年の定義への批判を踏まえ、1984年の『The Art Circle』(『芸術の円環』)で制度論を組み直しました。改訂版では、誰かが作品へ地位を与える行為よりも、芸術家が作品を制作し、アートワールドの観客へ提示する枠組みに重点が置かれます。

この違いは年代順に理解する必要があります。1974年の理論を紹介するときには「鑑賞の候補としての地位」を使い、1984年の説明を1974年の内容として扱わないことが重要です。修正の背景には、制度の働きがどのような関係で成立するかという問いがありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義(2017年版)/CiNii Books|ディッキー『The Art Circle』(1984))

作家、作品、観客、制度を結びつける五つの説明

1984年の改訂版は、芸術家、芸術作品、観客、アートワールド、アートワールドの仕組みを相互に関係づけて定義しました。作家は作品の制作に理解を持って参加する人であり、作品は芸術を受け取る準備のある観客へ提示される種類の人工物だと説明されます。

美術館だけを唯一の入り口とするよりも、制作と提示の関係を広く捉える方法でした。その一方で、互いの定義の中に同じ概念が登場するため、循環性をどう理解するかという論争は残りました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/CiNii Books|ディッキー『The Art Circle』(1984))

循環を避けるより制度の関係を示す

改訂後のディッキーは、芸術の世界を成り立たせる要素が互いを支えているという考え方を前面に出しました。作家だけで芸術が成立するのか、観客だけで作品を決められるのかという問いに対し、創作と提示の仕組みが互いに結びつく関係を示そうとしたのです。

この説明を、すべての哲学者が認める最終的な定義と考える必要はありません。複数の概念が支え合うという発想には説明力がある一方で、どの社会活動が芸術であるかを外から見分けられるかという批判が続きました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/CiNii Books|ディッキー『The Art Circle』(1984))

芸術の歴史を使って作品を説明する考え方

過去の作品を見ることが次の制作になる

新しい美術家は、過去の絵画や彫刻、写真を見て、自分の制作の方法を選ぶことがあります。ある作品が以前の作品を引用したり、それまでの慣行へ反発したりするとき、その意味は歴史との関係から理解しやすくなります。ウォーホルの作品がデュシャンの実践と比較されるのも、こうした連続性があるためです。

制度を一つの時点の仕組みとして見るだけでなく、作品が時間の中で次の作品へ働きかけることを重視する哲学者たちが現れました。芸術とは何かという問いは、作品がどのような来歴をもって作られたかという問題にも広がります。(参照:『The British Journal of Aesthetics』|ウォルハイムと芸術の歴史性(2024)/アンディ・ウォーホル美術館|《ブリロ・ボックス》と美術の定義)

レヴィンソンの1979年の歴史的定義

アメリカの哲学者ジェロルド・レヴィンソン(1948年生まれ)は、1979年の論文「芸術を歴史的に定義する」で、芸術を過去の芸術との関係から説明する考え方を提案しました。すでに存在する作品がどのように鑑賞されてきたかを踏まえ、次の作品もそのような鑑賞を意図して制作されるという着想です。

この説明では、美術館などの制度への参加を唯一の条件にする代わりに、芸術家が過去の作品とどのような関係を結ぼうとしたかが重視されます。制度論への応答であると同時に、芸術の定義へ歴史的な時間を組み込む方法でした。(参照:『The British Journal of Aesthetics』|レヴィンソン「芸術を歴史的に定義する」(1979)/ゲティ研究所書誌|レヴィンソン「芸術を歴史的に定義する」)

新しい表現が生まれる余地をどう確保するか

新しい作品が過去の作品とまったく同じ方法で鑑賞されるなら、芸術は繰り返しだけになってしまいます。実際には過去の作品へ反論し、見方を変えることが制作の一部となります。歴史的な定義も、新しさと継承の関係を説明する必要があります。

芸術の歴史は単純な進歩ではなく、別の方法が同時に生まれ、古い方法が再解釈される過程です。レヴィンソンの提案は、制度論が明らかにした社会的な関係を、過去から現在への作品のつながりと比較する新しい道を開きました。(参照:ゲティ研究所書誌|レヴィンソン「芸術を歴史的に定義する」/『The British Journal of Aesthetics』|ウォルハイムと芸術の歴史性(2024))

制度の外で作られたものをどう考えるか

無名の制作者の作品を後から見つける

ある人が誰にも見せずに長年絵を描き、死後にその作品が発見されたとします。作品をつくった時点に公表の予定がなかったなら、それは芸術だったのでしょうか。現実にも、制作された当時とは異なる文化や時代の人々が、後から作品に価値を見いだす場合があります。

この問いは、社会制度を作品の成立条件として考える理論に向けられます。作品が公表された時点と、作品が制作された時点を分けたとき、どちらを芸術としての成立に関わる瞬間と捉えるかが問題になるからです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

地域や時代で制度の形が違う

西洋近代の美術館や画廊が成立するより前にも、人々は宗教儀礼、共同体の生活、権力の表象、個人的な装飾などに関わる造形物をつくっていました。これらを現代の芸術制度だけで説明するなら、異なる社会に固有の意味や制作の条件が見えにくくなります。

芸術を社会制度の関係から考える発想は、異なる社会にどんな制作と鑑賞の慣行があったかを調べる方向にも開かれています。ただ、今日の「美術作品」という分類を、過去のあらゆる社会へそのまま当てはめられるかどうかは慎重な検討が必要です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017))

誰にも認められなかった創作にも価値はあるか

公に紹介される機会に恵まれなかった作品でも、後世の観客が深く感動することがあります。ここでは価値の発見と、芸術作品に分類する条件をどう結びつけるかが問われます。知られていなかった作品を見つけた人は、その価値を生み出したのか、それとも以前からある価値を見つけたのか。

ディッキーの制度論は分類の社会的な条件を説明しようとするので、この区別を考える助けになります。同時に、作品の意味や価値が社会の承認だけに尽きるのかという問いは、制度論への批判として残り続けました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/『The British Journal of Aesthetics』|ウォルハイムと芸術の歴史性(2024))

制度論は作品の意味や感動まで決めるのか

分類の説明と具体的な批評は仕事が違う

ラウシェンバーグの《ベッド》が芸術の一つだとわかった後で、観客は布の皺や色、制作した人の身体の痕跡について考えられます。コスースの《一つと三つの椅子》を見れば、物の実在と言葉の意味の違いを問い直せます。その経験を説明するには、作品固有の構造を詳しく観察する必要があります。

ディッキーの定義は、こうした作品が芸術という分類に入る条件を考える道具です。それだけで作品の主題や表現の巧みさを判定する装置ではありません。作品分析と芸術の定義という二つの仕事を分けると、制度論の強みと限界が見えます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ラウシェンバーグ《ベッド》(1955)/ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

観客が感じた疑問を共有できるか

一見すると単純な白い箱でも、それが社会の中でどのような用途を持っていたかを知ると、観客の受け止め方が変わります。展示室では、作品の形、名前、解説、隣接する作品が互いに影響し合います。何を見たのかを言葉にし、他の人と比較することが、鑑賞の一部になります。

制度論は、鑑賞が完全に孤立した内面の活動ではなく、言葉や慣行を共有する社会の中で起こることに注意を向けさせます。その点で、作品の個別の解釈へ進む入り口になる理論としても考えられます。(参照:Journal of Social Ontology|制度論への批判的検討(2017)/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

評価は議論され、変化していく

美術史では、ある作品が発表当時に拒否され、数十年後に重要な例として読まれることがあります。デュシャンの《泉》はその代表的な一つです。作品を見る人や展示の環境が変わると、問いの受け取られ方も変わります。

芸術作品という分類は、作品が優れているという結論ではありません。何を優れた表現と考えるかは、具体的な作品を見て、資料を読み、他者と議論する中で形成されます。社会的な枠組みと個別の作品経験を併せて考えることが、美術を理解する豊かな方法になります。(参照:フィラデルフィア美術館|デュシャンと《泉》の論争/スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論)

展覧会を見たとき、何を問い直せるのか

作品の説明を見る前に形を観察する

展覧会で見慣れない物に出会ったとき、まず形、材質、大きさ、置かれた位置を観察すると、作品の具体性が見えてきます。その後で作者名や制作年、展示に至った事情を知れば、目の前の物が別の意味を持ち始めるかもしれません。物の外見と社会的な文脈が、別々の手がかりとして働きます。

この二段階の経験から、ディッキーの問題を身近に考えられます。なぜこの物がここへ置かれているのか。誰が観客に何を見てもらおうとしたのか。その問いは作品の質を判断するより先に、鑑賞が始まる条件へ向かいます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/ニューヨーク近代美術館|コスース《一つと三つの椅子》(1965))

展示されなかった物にも目を向ける

美術館で出会える作品は、世界のすべての作品ではありません。収集や展示の選考があり、予算や保存条件にも限界があります。何が公開され、何が別の場所にあるのかを意識すると、一つの展覧会がどのような選択からつくられたかがわかります。

芸術労働者連合や女性芸術家たちの要求は、この選考が誰の表現を見えにくくしてきたかという問題を明るみに出しました。「芸術は誰が決めるのか」は、作品の定義だけでなく、鑑賞の機会を誰に開くのかという社会的な問いにもつながっています。(参照:ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求/ニューヨーク近代美術館|美術家とジェンダー平等の要求)

権威への信頼と自分の判断を両立する

専門家が調べた制作年や来歴は、作品を理解するための大切な知識です。同時に、その作品をどう受け取るかについて、観客は自分の判断を持てます。作品として展示された事実を知ることと、感動や評価を押しつけられることは別です。

ディッキーの議論は、芸術が社会的な活動であることを伝えます。その活動を担う制度は歴史の中で作られ、修正されてきました。作品を注意深く見ながら、制度が何を見せ、何を見せてこなかったかまで考える視点が、ここから生まれます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|芸術の定義と制度論/ニューヨーク近代美術館アーカイブ|芸術労働者連合と包摂要求)

略年表|芸術制度と作品の歴史

  • 1887年|マルセル・デュシャンが生まれる
  • 1913年|デュシャンが《自転車の車輪》を制作する
  • 1917年4月|《泉》が独立美術家協会の展覧会へ提出され、展示を拒否される
  • 1917年5月|スティーグリッツの《泉》の写真が『The Blind Man』第2号に掲載される
  • 1924年|マルセル・ブロータースがベルギーで生まれる
  • 1926年|ジョージ・ディッキーがアメリカに生まれる
  • 1928年|アンディ・ウォーホルが生まれる
  • 1941年|セス・ジーゲラウブが生まれる
  • 1945年|ジョセフ・コスースが生まれる
  • 1950年|デュシャンが承認した《泉》の後年版が制作される
  • 1955年|ラウシェンバーグが《ベッド》を制作する
  • 1956年|モリス・ワイツが「美学における理論の役割」を発表する
  • 1959年|ディッキーがカリフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得する
  • 1964年|ダントーが「アートワールド」を発表する
  • 1964年|ウォーホルがステイブル・ギャラリーで《ブリロ・ボックス》などを展示する
  • 1964年|デュシャンが承認した《泉》の複数の版が制作される
  • 1965年|コスースが《一つと三つの椅子》を制作する
  • 1965年|ディッキーがイリノイ大学シカゴ校で教え始める
  • 1968年|ブロータースが「近代美術館・鷲の部門」を開始する
  • 1969年|芸術労働者連合がニューヨーク近代美術館へ改革を要求する
  • 1969年|ディッキー「Defining Art」が『American Philosophical Quarterly』に掲載される
  • 1970年|ニューヨーク近代美術館が「Information」展を開催し、ハーケが《MoMA Poll》を発表する
  • 1971年|ハーケ《シャポルスキーほか》をめぐってグッゲンハイム美術館の個展が中止される
  • 1972年|ブロータースの架空の美術館プロジェクトが終わる
  • 1974年|ディッキー『Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis』が刊行される
  • 1976年|ブロータースが死去する
  • 1979年|レヴィンソンが「Defining Art Historically」を発表する
  • 1984年|ディッキー『The Art Circle: A Theory of Art』が刊行され、制度論が改訂される
  • 1989年|アンドレア・フレイザーが《美術館ハイライト》を制作する
  • 1995年|ディッキーがイリノイ大学シカゴ校での長年の教育・研究活動を終える
  • 2020年|ジョージ・ディッキーが死去する

まとめ|芸術という資格を支えるもの

1974年のジョージ・ディッキーは、芸術を理解するために、美術品の美しさや制作技術だけでなく、その作品を誰が、どのような場で鑑賞の対象として提示するのかを問いました。『芸術と美的なもの』の制度的な定義は、人工物、アートワールド、鑑賞の候補としての地位という条件を結びつけています。作品が芸術という分類に属することと、その作品が優れているかどうかを判断することは、区別して考えられます。

デュシャンの《泉》では工業製品が1917年の展覧会で拒否され、写真と後年の複製を通じて広く知られるようになりました。ウォーホルの《ブリロ・ボックス》は商業的な図像を展示室へ移し、ラウシェンバーグの《ベッド》は使用済みの寝具を絵画の支持体へ変え、コスースは椅子と写真と文章を組み合わせて芸術の意味を問いました。どの作品でも、物の形と、制作・展示・鑑賞を取り巻く関係が結びついています。

制度論は、芸術の社会的な条件に光を当てました。同時に、制度そのものが作品の発表を妨げる場合や、作品を発表できる人に不平等がある場合をどう考えるかという問題を残します。芸術をアートワールドで、アートワールドを芸術で説明する循環性も批判され、ディッキーは1984年に理論を改訂しました。芸術を誰が決めるのかという問いは、一人の権威を指す答えでは終わりません。作品と歴史、作家と観客、制度と批判が関わり続ける中で、その意味が繰り返し問い直されます。

参考資料・出典