1690–1714
知識は経験から生まれるのか、理性から生まれるのか
ロックとライプニッツ
1690年頃のロンドンでは、議会、宮廷、教会、大学、実験を行う学者の集まりが、何を信じ、何を確かめられるのかをめぐって動いていました。1688年の政変でカトリック教徒の国王ジェームズ2世が退き、翌年には議会がウィリアム3世とメアリー2世に王位を認め、権利章典が成立します。議会で法律や課税を論じる政治と、宗派によって公職や信仰生活が左右される社会が併存していました。書店には宗教・政治の論争書や新しい自然研究の報告が並び、人々は同じ世界について食い違う説明に接していました。
その頃、ドイツ語圏は一つの国民国家にまとまっておらず、神聖ローマ帝国内の諸侯領、自由都市、大学、宮廷が知識人の活動の場でした。1648年に三十年戦争が終わった後も宗派と諸侯の利害は学問や外交に関わり、ラテン語、フランス語、ドイツ語の書物や手紙が都市を越えて行き来します。ハノーファーの宮廷で働く学者は、政治的な助言をしながら数学を研究し、パリやロンドンの知識人とも議論を続けました。知識をどう手に入れるかという問いは、異なる言語と制度の間で確かな理由を共有できるかという問題でもあったのです。
イングランドの哲学者ジョン・ロック(1632–1704)は、見聞きし、自分の心の働きを経験することから知識を調べ始めました。ドイツの哲学者・数学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646–1716)は、経験が学びを始めることを認めながら、必然的な真理を理解するには心に備わる働きを考えねばならないと応じます。リンゴの色を知ることと、三角形の性質が必ず成り立つと知ることは、同じ意味の「知る」でしょうか。この違いを追うと、近代の科学、数学、人間理解が共有した根本問題が見えてきます。
CONTENTS
- 王と議会、教会、印刷物が交差するイングランド
- 実験を見せ、確かめるという新しい学問の作法
- ジョン・ロックはどのように知識を研究したのか
- ライプニッツが活動したドイツの宮廷とヨーロッパ
- 「知っている」と言うとき、何を根拠にしているのか
- ロックが批判した「生まれつき知っている」という説
- 外の世界と心の内側、二つの経験
- 単純観念から複合観念へ、心はどのように働くか
- 色は物の中にあるのか――第一性質と第二性質
- 言葉が物を分類するとき、何が「本質」になるのか
- 確実に知ることと、十分な理由をもって信じること
- 昨日の私と今日の私は、なぜ同じ人なのか
- ライプニッツはロックにどう反論したのか
- 白紙に対して「筋の入った大理石」が示すもの
- 意識していない知覚はあるのか
- 必ず真であることと、現実に起きたこと
- モナドという考えは、心と物の関係をどう変えるか
- 1710年の『弁神論』と1714年の二つの著作
- ロックとライプニッツを、三つの例から比較する
- 「経験論対合理論」という図式で失われるもの
- 18世紀の哲学は二人の問いをどう受け継いだか
- 略年表|ロックとライプニッツの時代、著作、受容
- まとめ|経験から始まり、理性によって確かめる
- 参考資料・出典
王と議会、教会、印刷物が交差するイングランド
1688年の政変は何を変えたのか
17世紀後半のイングランドは、王政の復活と宗教対立を経て、王の権限を議会がどこまで制限できるかを争っていました。1685年に即位したジェームズ2世はカトリック教徒で、彼の宗教政策に対する反発が強まります。1688年、オランダから来たウィリアム・オブ・オラニエの進軍に際してジェームズは国外へ去り、翌1689年、議会はウィリアムと妻メアリーを共同統治者として迎えました。
1689年の権利章典は、王による議会の同意なき課税や法の停止をめぐる問題を明文化しました。選挙で政治参加できる人は財産や身分などの条件によって限られ、近代的な普通選挙には遠い社会です。思想家が「正当な権威」や「確かな判断」を論じた背景には、統治者の言葉を権威だけで受け入れてよいのかという現実の争いがありました。(参照:英国議会|名誉革命と権利章典/英国議会|1689–1714年の主要出来事)
宗教の違いが議論の自由を左右した
イングランド国教会が公的な地位を持つ社会では、国教会に属さないプロテスタントやカトリック教徒に対する制限がありました。礼拝、大学教育、公職などの機会は信仰上の立場と結びつき、宗教上の確信を示すことが社会生活に影響しました。1689年の寛容法は一部の非国教徒に礼拝の余地を広げましたが、宗教的な平等を実現した法律ではありません。
ロックは政治と宗教に関する著作も執筆し、統治者が人々の内面の信念を直接作り変えられるのかを考えました。信じるという働きは命令だけで起こせるものか、何を根拠に同意すべきかという問題は、知性についての研究と響き合います。哲学書に見える「同意」「確信」「証拠」という言葉は、論争と宗教的分裂を経験した社会にも根を持っています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック/英国議会|名誉革命と権利章典)
本と手紙が国境を越えた知識の場をつくる
都市の印刷業者と書籍商は、宗教論争、自然学の論文、哲学書を読者へ届けました。大学で講義を聞く学生ばかりが新しい議論に触れたわけではなく、医師、聖職者、政治家、海外との交易に携わる人々も書物を共有しました。著者が生きる国での反発を避け、別の土地で刊行することもあり、オランダ共和国の出版文化はイングランドやドイツの知識人にとって重要でした。
ライプニッツは多くの手紙を用いて意見を交換し、ロックの『人間知性論』を読んで自分の応答を書きました。二人の議論を理解するには、同じ教室で直接討論した場面を想像するより、一冊の本が移動し、読者が余白に疑問を抱き、別の著作で反論する仕組みを思い浮かべるとよいでしょう。哲学的論争は出版と通信の制度によって時間と場所を越えて続きました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
実験を見せ、確かめるという新しい学問の作法
王立協会の会合と公開された実験
ロンドンでは1660年、自然研究に関心を持つ人々が集まり、のちに王立協会と呼ばれる組織の最初の会合を開きました。1662年には国王の勅許状を得て、観察や実験を互いに報告する制度を整えます。望遠鏡、顕微鏡、空気ポンプを用いる研究も、報告の内容や実験方法を検討する仲間とともに進みました。人の見たことを、他人が評価できる形で伝える慣行が育ちます。
1665年に始まった学術誌『フィロソフィカル・トランザクションズ』は、観察や実験の報告が印刷を通して伝わる仕組みを広げました。確実な知識を目指すとは、偉い学者の説明を覚えることだけでなく、測定や再現、報告の信頼性を検討することでもあります。そのような研究が力を得た時期に、ロックは人間の知る能力そのものの範囲を問う著作を書きました。(参照:王立協会|王立協会の歴史/王立協会|1660年の最初の会合)
ボイルの物質研究と見えない仕組み
イングランドの自然研究者ロバート・ボイル(1627–1691)は、気体と圧力などを実験で探究し、物体の性質を微小な粒子の配置や運動と結びつける機械論的な自然哲学を推進しました。ロックはボイルの研究に親しみ、物の内部構造を直接知ることの難しさを考えます。例えば金属に重さや色があるとして、その見た目から内部の細かな組み立てを完全に読み取れるでしょうか。
ある物質を熱したときに色が変わるなら、観察された色と、変化を生む物質の構造を区別する必要があります。ロックが感覚で得られる性質と、物体がそれを生み出す力の関係を論じたのは、この難しさに応えるためでした。科学の成功によってすべてを知り尽くしたと考えるより、何を観察し、どこから仮説が始まるかを見極める姿勢が生まれています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|第一性質と第二性質/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
ニュートンの数学と観察は対立していたか
イングランドの数学者・自然研究者アイザック・ニュートン(1642–1727)は、1687年の『自然哲学の数学的諸原理』で天体と地上の運動を数学的に論じました。観測事実を説明する法則には、数式を扱う推論が不可欠でした。経験による確かめと、数学による一般的な関係の把握は、実際の自然研究の中で結びついていたのです。
「経験論は観察だけ、合理論は計算だけ」という分類では、この時代の学問を説明し切れません。測定した数値は計算を通して意味を持ち、数学の推論は自然に適用できるかを確かめられます。ロックとライプニッツの違いも、経験か理性かという道具の好み以上に、普遍的な正しさを最後にはどのような根拠で支えられるかにありました。(参照:王立協会|王立協会の歴史/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
ジョン・ロックはどのように知識を研究したのか
オックスフォードから医学と自然哲学へ
ジョン・ロック(1632–1704)はイングランド南西部に生まれ、オックスフォード大学で学び、哲学、医学、自然研究に関心を広げた思想家です。当時の大学には古代から伝わる論理学や自然哲学を教える習慣が根強く残り、新しい解剖学や実験も研究者の目を引きました。ロックはこの両方に触れながら、人がいかにして判断の材料を得るのかを探り始めました。
体調や病気の診察では、観察された症状と、見えない原因の推測を区別しなければなりません。たくさんの情報を集めても、すべての原因に直接届くわけではないという経験は、知性の限界という哲学の問題につながります。ロックが目指したのは、生まれつきどれだけの事実を知っているかを数えることより、知るための材料と確信の程度を整理する仕事でした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
政治家シャフツベリとの仕事と亡命
ロックは1660年代後半、のちに初代シャフツベリ伯爵となる政治家アンソニー・アシュリー・クーパー(1621–1683)と結びつき、医療上の相談に応じるとともに政治・行政にも関わりました。権力や宗教をめぐる対立が激しくなると、彼自身も疑いの目を向けられ、1683年にオランダ共和国へ移ります。そこで研究と著述を続け、1689年に帰国しました。
宮廷と行政に接したロックにとって、ある主張が「正しい」と認められる理由は机上の問題で終わりません。政治では人々が証言や噂に基づいて判断し、宗教では異なる確信を持つ人々が隣り合って暮らします。どれほど強く信じていても、その強さだけで真実だと決まるのでしょうか。ロックは知識と確率的な判断を区別し、この問いに方法を与えました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
数十年かけて書かれた『人間知性論』
ロックは1670年代初めから人間の理解力を論じる仕事を進め、オランダ滞在期にも改稿を重ねました。『人間知性論』(An Essay Concerning Human Understanding)は1689年に刊行の準備が整い、1690年を刊年とする初版として広まりました。第1巻から第4巻までを通じ、生得観念への批判、観念の成り立ち、言語、知識と意見の違いを扱います。
序論でロックは、世界のあらゆる実在をすぐに説明し始める代わりに、人間の理解力に何ができ、どこに限界があるかを調べると宣言します。浅瀬を航行するために必要な深さが分かれば、海の底のすべてを測れなくても船は進めます。これは原著が示す比喩です。知性にも十分に使える範囲があり、限界を知ることは探究を放棄する理由ではありません。(参照:ロック『人間知性論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
ライプニッツが活動したドイツの宮廷とヨーロッパ
三十年戦争後の諸侯領と大学
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646–1716)は、三十年戦争終結の二年前、神聖ローマ帝国の商業・大学都市ライプツィヒに生まれました。帝国は多数の領邦から成り、諸侯が宮廷を運営し、大学や教会が教育と学問を支えていました。戦争の記憶が近い時代、宗教や政治の違いを越えて学者が議論する方法は切実な課題でもありました。
若いライプニッツは法学と哲学を学び、古代の論理学や近代の数学にも取り組みます。彼にとって理性は、現実の制度から切り離された頭の中の遊びではありません。異なる立場の人が互いに理由を説明できるような、共通の推論規則への関心につながりました。人間が何を知れるのかという問題は、政治的な調停や学問の交流とも接していたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
パリで学んだ数学と、ハノーファーの仕事
ライプニッツは1672年から1676年までパリに滞在し、オランダ出身の数学者・物理学者クリスティアーン・ホイヘンス(1629–1695)らとの交流を通じて数学を深めました。微積分の方法を発展させたことでも知られます。続いてハノーファーの宮廷で顧問、図書館員、歴史資料の調査者などの仕事を担い、外交文書や系譜の研究にも時間を費やしました。
彼は長い論文を書くだけでなく、書簡や短い論考を数多く残しました。宮廷で求められる系譜の調査には、何が確かな記録に基づくかという検証が必要です。数学では、数式の一歩一歩が理由によって連結されます。異なる仕事の中で、事実を知る道と必ず成り立つ関係を証明する道の双方を使っていたところに、ライプニッツの認識論の特徴があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
スピノザを読み、ロックを読み直した思想家
ライプニッツは1676年にオランダでスピノザ(1632–1677)と会いました。スピノザはアムステルダム出身でハーグを拠点に、自然と神を根本から考え直した哲学者です。ライプニッツはまた、フランスの哲学者デカルト(1596–1650)の機械論を検討し、物体の運動だけで世界の根本を説明できるか問い続けました。先行する思想の長所を取り込みながら、自分の体系へ組み替えていったのです。
ロックの『人間知性論』が欧州で読まれると、ライプニッツは経験に対するその慎重な分析を高く評価しつつ、必然的な真理の源泉をより深く考えようとしました。二人の関係を、片方が感覚を信じ、片方が感覚を嫌ったという対立にすると、共有していた探究心が消えてしまいます。問題は、経験から始まる学びがどこまで普遍的な知識に届くかでした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/スタンフォード哲学百科事典|近代初期の合理論)
「知っている」と言うとき、何を根拠にしているのか
赤い果実を見たという知識
机に置かれたリンゴを見て「赤い」と判断するとき、私たちは目から入る光とそれに伴う見えを頼りにします。部屋の照明を変えると色の印象も変わり得ます。見えたという経験は確かにあり、その果実が実際にどのような性質を持つのかを確かめるには、照明や観察条件まで考える必要があります。この二つの問いを区別したところからロックの考察が始まります。
目を閉じた後にも「赤」を思い浮かべることができます。今見ている色と、思い出している色と、赤という一般的な考えをどこで区別すべきでしょうか。哲学の問いになるのは、個々の色を知っているかという事実以上に、心に現れたものを外界の正しさとどう結びつけ、判断の基準を何に置くかを調べるためです。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|第一性質と第二性質)
三角形を描かずに考える知識
紙に三角形を描き、内角や辺を調べる場面を想像してください。線は太さを持ち、測定には誤差があります。幾何学の証明では、個々の図の不完全さを越えて、定義と推論から性質を明らかにしようとします。何枚の三角形を測っても、すべての三角形について絶対にそうなるという結論へ、数を増やすだけで届くのでしょうか。
ライプニッツはここに経験と必然性の違いを見ました。経験した事実が多くても、未経験の例があり得るかぎり、一般化には別の理由が要ります。数学の証明は、その理由を推論の内部に求めます。ロックも数学的な確実性を認めるため、論争の中心は「数学が正しいか」ではなく、数学を理解する概念と能力がどのように私たちのものになるかでした。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『人間知性新論』第4巻|Early Modern Texts/ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts)
知識の材料と知識の保証は別の問い
ある言葉をいつ習ったかは、その言葉で述べる命題がなぜ正しいかとは異なります。「三角形」という語を授業で学んだとしても、三角形に三辺があるという関係が授業の日だけ成り立つわけではありません。経験が理解のきっかけになることと、その理解を正当化する理由を分けると、二人の考えの接点が見えてきます。
ロックは観念の起源と、観念同士の関係を知る確実性を調べました。ライプニッツは経験が心の働きを呼び起こすことを認めつつ、必然的な関係を理解する条件として心の性向に注目します。この時代の認識論は、情報の入手法、推論の方法、判断の正しさという複数の問題を一緒に扱っていました。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|近代初期の合理論/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
ロックが批判した「生まれつき知っている」という説
誰もが同意する原理はあるのか
『人間知性論』第1巻でロックが標的にするのは、真理や観念が誕生時から心に刻まれているという学説です。例えば「同じものが、同じ意味で同時に存在し、存在しないことはできない」という矛盾律を、人は生得的に知っているのでしょうか。もしすべての人がこの原理を実際に理解しているなら、幼い子どもも自覚しているはずだ、とロックは問いかけます。
彼が批判するのは、ある命題がいつでも真理であることそのものではありません。その真理への同意が人間に初めから与えられているという説明です。人々が同じ原理を認めたとしても、それだけで生得性は証明されず、教育や推論によって到達した可能性が残ります。何かが広く信じられているという事実と、なぜ信じられるかという根拠を分けた点に論争の核心があります。(参照:ロック『人間知性論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
子どもや異なる文化の人々の理解
ロックは道徳原理についても、人間がどこでも同じ命令を生まれつき意識しているという説明を疑います。習慣、教育、社会によって道徳上の判断が異なり、原理を言葉として理解するには学習が関わります。観察可能な違いを示して、生得的な知識という主張が何を説明できるか検討するのです。
ここには現代の読者にも役立つ論点があります。多数の人がある考えに同意しているとき、その同意は共通の人間的能力から生まれたのでしょうか。それとも似た教育や経験の結果でしょうか。ロックは同意の普遍性を安易に想定せず、知識が獲得される実際の過程を見るよう促します。その方法は、伝統的権威の裏づけを探す発想を変えました。(参照:ロック『人間知性論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|生得性をめぐる歴史的論争)
白い紙という比喩を正しく読む
ロックは第2巻の冒頭で、観念をまだ持たない心を「文字のない白い紙」にたとえ、そこへ経験がどのように材料を与えるかを説明します。この比喩は、出生時の人間に記憶、知覚、思考などの能力がまったくないと証明するものではありません。問いの中心は、心が思考に用いる観念をどこから得るかという点です。
幼児が成長するにつれて味や色を区別し、言葉を覚える経験を考えてみましょう。感覚器官と学習する力があっても、具体的に見た赤や味わった甘さの経験は別に必要です。ロックは人間の能力と、経験から得られる内容を混同しない方向へ議論を進めます。後世の「タブラ・ラサ」という呼び名だけで彼の哲学を理解するより、原著の比喩が答える問いを追う方が正確です。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
外の世界と心の内側、二つの経験
感覚は外界との接点になる
ロックは『人間知性論』第2巻で、観念の材料が経験から来ると述べ、その入り口を「感覚」と「反省」に分けました。感覚とは、外の物体が目、耳、皮膚、舌などに働きかけ、色、音、温かさ、味といった観念を与えることです。冷たい水に指を入れれば冷たさを感じ、鐘の音を聞けば響きを経験します。こうした個々の内容を、経験前から具体的に知っていたとする必要はありません。
ロックの「観念」は、心が考えるときに直接扱う内容を広く指す言葉です。目の前にリンゴがあるとき、外界にリンゴが存在するという主張と、私に赤く見えるという経験は、互いに関わりながら同じではありません。彼はこの区別を使って、知っていると自信を持つことと、経験が実際に保証する範囲を調べました。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
反省は考えている自分の働きを知る
もう一つの入口は、心の内部の働きに目を向ける「反省」です。思い出す、比べる、疑う、信じる、望む、決めるといった活動を私たちは自分の中で経験します。例えば昨日の約束を思い出したとき、約束の言葉という記憶内容に加え、「思い出している」という心の働きにも気づきます。これが感覚と区別される第二の経験です。
「経験」と聞くと、外のものを触ったり見たりする行為だけを想像しやすいでしょう。ロックの経験論では、心が自分の活動を受け取る反省も欠かせません。感覚によって甘さを得ても、二つの味を比べることや選ぶことを理解するには、比較し判断する経験を考える必要があります。外界と内面という二つの入口を区別すると、経験論が知性の活動を消し去る学説でないことが分かります。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
二つの入口が結びつく観念
時間や空間、数、力などを考えるとき、ロックは感覚と反省の両方が関わる場面を論じます。例えば並んだ三つの石を数えることも、心の中で三つの音を思い返して数えることもできます。「一つ、もう一つ」と繰り返す活動から、数についての理解が育つと考えるのです。単に外から刺激が届くのを待つ心の姿ではありません。
この説明は、数学の知識を石ころの数え上げだけに還元するものでもありません。数を構成する心の働きが観念の起源としてどんな役割を果たすかを示し、その観念を使って確実な関係を理解できるかは後で検討します。知識の材料がどこから来るか、材料をどう扱うか、扱い方が正しいとどう確かめるか。三段階を分けて読むと、ロックの議論は立体的になります。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts)
単純観念から複合観念へ、心はどのように働くか
「甘い」という経験の最小単位
砂糖を味わって得る甘さ、火の近くで感じる熱さ、目に入る明るさのような内容を、ロックは「単純観念」の例として扱います。単純とは、心の中でそれ以上別の観念へ分解して取り出せないという意味です。これらを受け取る場面で心は受動的であり、まだ経験していない感覚の質を自由に作り出すことはできないと考えました。
例えば生まれつきある味を感じる能力がない人に、説明だけでその味の直接的な経験を完全に渡せるでしょうか。言葉で似た味を挙げたり化学的な成分を教えたりすることはできます。なお、その人の感覚に実際に現れる特有の味わいを、説明と経験のどちらが与えるのかは別の問題です。ロックは単純観念を考えることで、思考が経験から受け取る材料の特徴を明確にしました。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts)
リンゴと街路と約束を組み立てる心
ひとつのリンゴを考えるとき、私たちは赤さ、丸さ、重さ、甘さなどを結びつけ、特定のものの観念を作ります。ロックはこうした「複合観念」が、単純観念を結合したり、比較したり、切り離したりする心の活動から生まれると論じました。街路という空間的なまとまりや、二人の間の約束という関係も、経験された内容を心が組み立てる例として考えられます。
例えば「金色の山」を想像するとき、金色や山という経験済みの内容を組み合わせられます。心の能動性があるため、人はまだ見たことのないものも思い描けるのです。そのことは、思い描けたものが実在する証明にはなりません。考える能力の豊かさと、想像された事物の現実性を区別する課題が、単純観念と複合観念の分析から生じます。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
実体、様態、関係という三つの仕分け
ロックは複合観念を、主に「実体」「様態」「関係」に分けます。実体の観念はリンゴや人間のようなものを一つの担い手として考える場合、様態は数や三角形、盗みといったあり方や行為を捉える場合、関係は二つのものの比較を捉える場合に関わります。この区別によって、同じ「観念」でも、物に関する理解と、心が構成した規則についての理解に違いがあると分かります。
例えば「三角形」は形の条件を定義して推論できますが、「金」は実際に自然界にある物質の多様な性質を調べる対象です。前者で確かめることと後者で確かめることの方法は同じではありません。ロックは物の内側を直接知り切る難しさと、数学や倫理について明確な観念を扱う可能性を、複合観念の種類に応じて考えました。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/ロック『人間知性論』第3巻|Early Modern Texts/ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts)
色は物の中にあるのか――第一性質と第二性質
形や大きさと、色や香りを分ける
ロックはボイルらの自然研究を背景に、物体の性質を「第一性質」と「第二性質」に区別しました。第一性質には、物の大きさ、形、運動や静止、数、固さなどが含まれます。物体を小さく分けても、その微小な部分には何らかの形や大きさがあると考えられます。第二性質には、私たちに特定の色、音、味、香りの観念を生じさせる物体の力が含まれます。
ここで鍵になるのは、物体の側にある性質と心に現れる観念との関係です。ロックによれば、第一性質の観念は物体の性質に似ると考えられますが、甘さや赤さという経験は、物体内部の粒子の動きと同じ形で存在するとは言えません。物体には、そのような経験を引き起こす力があるのです。見た色を偽物だと片づける議論より、色の経験を物の構造とどう説明上つなぐかが焦点になります。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|第一性質と第二性質)
ぬるま湯でも左右の手で違って感じる
ロックの第2巻には、同じ水が、一方の手には温かく、もう一方の手には冷たく感じられ得るという例が登場します。先に冷水へ手を入れた場合と温水へ入れた場合を考えると、同じ水でも触れた人の状態によって経験が変わります。手で感じる温度の観念を、そのまま水に固定された一個の感覚的な姿だと捉えると、二つの経験が食い違うのです。
この例から、ロックは感覚的な現れと、物体が感覚を引き起こす物理的な条件を分ける必要を説きます。熱さを感じている事実は否定されません。私たちが経験する性質は、物体と感覚する身体との関係で現れるという理解へ進むのです。読者も温度や照明を変えた経験を思い返せば、「見えたとおり」と「物の側の仕組み」を分ける理由を確かめられます。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|第一性質と第二性質)
目に見えない粒子を、どこまで知れるか
物体を粒子の形や運動から説明する学説は、ロックの時代の有力な自然研究の一つでした。金の重さや色、溶け方が分かっていても、それを生む最も細かな構造まで直接観察できるとは限りません。外に現れた性質を知ることと、それらがどうして必ず結びつくかを説明することとの間には、距離が残ります。
物質の構造についての仮説は観察を整理し、新たな実験を促す力を持ちます。ロックが慎重なのは、その仮説と、直観や証明によって必ず真だと示せる知識を同一視することです。自然を研究する人には、観察、推測、確実な判断を正しく振り分ける仕事があると考えました。この自制は科学を軽視する態度から生まれたのではなく、実験が示すことの強さを正確に見定めようとする発想でした。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ロックと実在的本質)
言葉が物を分類するとき、何が「本質」になるのか
「金」という名前は何をまとめているのか
『人間知性論』第3巻でロックは、言葉と観念の関係を詳しく扱います。「金」と聞くと、多くの人は黄色い色、重さ、溶け方、用途などを思い浮かべるでしょう。言葉は観察した物の特徴を一つのまとまりとして扱うために役立ちます。ところが、どの特徴を重視して金という種類を区別するかは、話し手の知識や分類の目的によって変化し得ます。
例えば新しい金属片を見つけたとき、色だけで「金だ」と決める人も、重さや反応を試す人もいます。同じ名前を使っても、その名前に結びつけている観念の内容には差があり得ます。ロックにとって言語の問題は単なる呼び方の習慣ではありません。私たちが普遍的な言葉で知識を述べるとき、実際には何を共有しているのかを問う問題なのです。(参照:ロック『人間知性論』第3巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ロックと実在的本質)
名目的本質と実在的本質を区別する
ロックは、あるものを一つの種類として呼ぶために私たちがまとめた特徴を「名目的本質」と呼び、そうした特徴を生じさせる物の内的な構造を「実在的本質」と区別します。金属の色や重さを組み合わせて「金」と呼ぶ観念を作っても、その性質を生む粒子の構造すべてを知ったことにはなりません。名前で分類できることと、分類されたものの成り立ちを解明することは別です。
この区別を理解すると、百科事典である種の説明を読めても、なぜその性質が必ず現れるかは研究課題として残る理由が分かります。ロックが指摘した距離は、知らないことへの嘆きではありません。言葉で整えた分類と自然界の実在の関係を検討し、性質の説明を証拠とつなぐ必要を示すものです。(参照:ロック『人間知性論』第3巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ロックと実在的本質)
普遍的な言葉はどうして使えるのか
目の前にある犬は一頭ずつ体格や毛の色が違います。それでも私たちは「犬」という共通の言葉で多くの個体を扱えます。ロックは、個々の経験から特定の特徴を取り出す抽象の働きによって、一般的な観念と言葉が成り立つと説明しました。あらゆる犬を一頭に重ね合わせた画像を心に用意することが目的ではなく、個体差の中からある種類として考える条件を取り出すことが要点です。
どの違いを無視して同じ種類と呼ぶかは、科学の分類や日常の言葉遣いに大きな影響を与えます。抽象による一般化が便利であるほど、言葉を使い慣れたことと対象を詳しく知ることを取り違えやすくなります。ロックは言葉の使い方を検討することで、知識をめぐる議論が曖昧な名称に引きずられる危険を明らかにしました。(参照:ロック『人間知性論』第3巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
確実に知ることと、十分な理由をもって信じること
観念の一致や不一致を捉える
ロックは第4巻で、知識を観念の一致・不一致や関係を知覚することと説明します。例えば「白は黒ではない」と判断するとき、二つの観念の違いをすぐに捉えます。別の判断では、中間の考えをたどらなければ関係を確かめられません。私たちが知っていると語る対象を、外界のすべてへ一度に広げず、心がどんな関係をどの強さで捉えたのかから分析するのです。
この説明は、知識とは物について多くの単語を持つことだという考えを揺さぶります。「三角形」の定義を知っていても、まだ別の性質の証明を理解していないかもしれません。概念を持つことと、その概念の関係を確実につかむことには差があります。ロックはこの差を明確にして、学校で覚えた説明が本当に自分の理解になっているかを問う道を開きました。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
直観的知識、論証的知識、感覚的知識
ロックは知識のあり方を、直ちに関係が分かる「直観的知識」、中間の段階を通して分かる「論証的知識」、現在存在する外の個別のものに関わる「感覚的知識」に分けます。たとえば「自分が存在する」という確信、数学の証明を順序立ててたどる理解、今この場所に机があるという判断は、同じ道筋によって成立するわけではありません。
感覚的知識を論証的知識と区別したことには難しさがあります。心に直接現れる観念の関係としての確実性と、心の外にものが存在するという確かさをどう結びつけるかが問題になるからです。ロックは現在の感覚に基づく外界の存在について一定の知識を認め、すべてが錯覚かもしれないという疑いで日常の判断を停止することは求めませんでした。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
確率と証言を評価する理性
遠い土地で起きた出来事を知るとき、私たちは自分で見ていない事実を証言や記録から判断します。ロックは、知識ほどの確実性を持たない領域でも、証拠の数、信頼性、経験との整合性を考えて同意の程度を調整できると論じました。歴史や政治、自然研究の日々の判断は、この「蓋然性」の吟味によって支えられます。
例えば友人から「昨日、川が氾濫した」と聞けば、土地の状況や他の証言、記録を合わせて判断できるでしょう。「証明できないから何も信じない」としては、生活も共同研究も進みません。根拠が強いときは強く信じ、弱いときは判断を保留する。ロックの理性は、数学の確実性を扱うだけでなく、限られた経験をもとに慎重に生きるためにも働きます。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
昨日の私と今日の私は、なぜ同じ人なのか
人間という生物と人格を分けて考える
ロックは1694年の『人間知性論』第2版で、第2巻第27章「同一性と差異」を加え、人格同一性を詳しく論じました。木が成長しても同じ一本とされること、人の身体が変化しても同じ人とされること、昨日の自分が今日の自分であることには、それぞれ異なる判断基準があり得ます。まず「何の同一性」を問うのかを定める必要があるのです。
ロックは「人格」を、理性と反省を持ち、過去と現在にわたって自分を自分として捉えられる存在として論じました。この区別によって、身体という生物学的なまとまりと、行為の責任を引き受ける人格のつながりを別々に考えられます。年月とともに身体の一部が入れ替わっても、自分がした約束を自分の行為として引き受ける理由はどこにあるのでしょうか。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ロックの人格同一性論)
王子と靴職人の思考実験
ロックが挙げる想像上の例では、王子の意識と過去の経験が靴職人の身体へ移ったとします。その人が王子の行為を自分の経験として覚えているなら、王子と同じ人格だと考えられるでしょうか。ロックは、同じ人格であることを身体の同一性や魂という実体の同一性から直接説明する代わりに、意識の連続に結びつけて考えました。
これは単なる奇妙な物語ではありません。「誰の身体か」と「誰がその行為に責任を持つか」がずれる場合を想像し、両者の判断の条件を切り分ける哲学上の実験です。今の自分が子どもの頃の失敗を「私がした」と思えることには、どのような意味があるでしょうか。ロックの議論は、人格、記憶、道徳的な責任がつながる仕組みを考えさせます。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ロックの人格同一性論)
記憶が途切れたときに生じる問題
目が覚めて昨日の出来事を思い出せない場合、同じ身体で生活を続ける人と、昨日の行為を意識できる人格はどのように関係するのでしょうか。ロックは過去の行為へ現在の意識が届く範囲を人格の同一性に結びつけました。ここから、忘れてしまった行為への責任や、記憶が誤っている場合をどう扱うかという難題が生じます。
現代の解説で「ロックは記憶だけが人格を作ると言った」と短くまとめると、意識と責任をめぐる原著の議論が薄くなります。第27章では人格が法廷や責任に関わる語であることも強調されます。心が自分の過去を引き受けるという働きを、身体や物質の同一性とどう関係づけるか。経験論はここで、個人の存在を考える形而上学の問いへつながりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ロックの人格同一性論/ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts)
ライプニッツはロックにどう反論したのか
『人間知性新論』という対話の形式
ライプニッツはロックの『人間知性論』を詳しく読み、これに応える『人間知性新論』(Nouveaux essais sur l’entendement humain)を1703〜1704年頃に執筆しました。原著はロックの立場を語るフィラレテスと、ライプニッツの考えを述べるテオフィルという二人の対話で進みます。ロックの四巻構成をたどりながら、どこに賛成でき、どこに別の説明が必要かを検討する仕組みです。
対話の人物が歴史上の二人そのものとして実際に会話した記録ではありません。フィラレテスはロックの著作から立場を再構成した登場人物で、テオフィルもライプニッツの哲学を示す役割を担います。ライプニッツは異論を挙げる前に相手の問いを受け取り、経験の力を認めながら理性の働きを加えます。対話形式そのものが、共通する問題を詳しく比較する哲学の方法になっています。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
ロックの死後、原稿が長く刊行されなかった
『人間知性新論』が1704年頃にまとまった時期、ロックは同じ年に亡くなりました。ライプニッツはロックの死後にこの大部の応答を出版せず、原稿は長く未刊行のまま残ります。1765年にようやく刊行されたときには、著者二人の生きた時代から半世紀ほど過ぎ、ヨーロッパ哲学の問題設定も変わっていました。
「1690年に始まったロックとライプニッツの論争」と表現すると、二人が書店で反論を出し合ったように聞こえるかもしれません。実際には、先に公刊されたロックの本をライプニッツが読み、応答の原稿を書き、その反論が後の読者に届いたという経路です。1704年の執筆と1765年の刊行を分けることで、同時代に交わされた議論と、後世がまとめて読んだ論争の姿を区別できます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/ライプニッツ著作原典一覧|Early Modern Texts)
互いに共有した「観念を調べる」課題
ライプニッツはロックの本を時代の優れた仕事と認め、人間の理解力を細かく吟味する必要性を共有しました。経験から多くの観念が得られることにも異議を唱えません。対立は、心に現れた観念を列挙することで、数学の必要性や実在についての判断まで説明できるかという位置にあります。
例えば三角形を描く経験は、私たちに図形へ目を向けさせます。その後、性質を証明する際には、個々の絵の線の太さを無視し、定義と関係を追います。ロックは観念を心の材料として分析し、ライプニッツはその材料が扱えるようになる心の構造を強調します。観察した出来事から何を知るのかという問いが、心の能力そのものを探る方向へ深まりました。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|近代初期の合理論/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
白紙に対して「筋の入った大理石」が示すもの
彫刻が現れる前の石にも違いがある
ライプニッツは『人間知性新論』の序文で、心を真っ白で均質な紙と見る比喩に対し、自然な筋の入った大理石を挙げました。彫刻家がヘラクレス像を掘る場合、石の筋がある形を作りやすく導くなら、像の可能性は加工する以前から石のあり方に関わっています。完成した彫刻が石の中に小さく隠れていたという意味ではありません。
この大理石を心に置き換えると、経験は彫刻家の仕事のように学びを促し、心の生来の傾向は筋のように理解の方向を定めます。生まれつき複雑な定理を一字一句知っていることと、適切な経験や思考があれば定理を理解できる能力を持つことは違います。ライプニッツは生得観念を、完成済みの知識よりも、可能性と傾向として説明しました。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|近代初期の合理論)
生得性は「思い出せる知識」だけを意味するか
ロックは、まだ考えたこともない命題が心に刻み込まれているという説明を批判しました。ライプニッツは、ある真理が生得的であることと、その真理を意識して認めていることを分けます。幼い子どもが数学の定理を口にできなくても、のちに理由を理解できる能力が備わっているという説明は可能です。理性の生得性は、無意識のうちに全文を暗唱できるという意味ではありません。
ここで二人の問いは少しずれています。ロックは生得的な知識がすでに存在する証拠を求め、ライプニッツは経験を理解へ変える心の潜在的な構造に注目します。習得した内容と学べる能力を別々に考えると、経験と生得性を完全な対立物として扱う必要がなくなります。問題は、どの能力を生得的と呼べば説明として十分なのか、という次の段階へ移ります。(参照:ロック『人間知性論』第1巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|生得性をめぐる歴史的論争)
なぜ経験した数の多さで必然性は決まらないのか
一日ごとに太陽が昇ることを繰り返し経験すれば、次の日も昇るだろうという予想には理由ができます。けれども、過去に何度起きたかを数えることと、その出来事がどんな条件でも必ず起きると証明することは異なります。ライプニッツは、数学や論理に現れる必然的真理を、経験的な一般化とは異なる種類の知識として考えました。
彼にとって感覚は、定理に気づく機会や実際の事実を知る材料を与えます。定理がなぜ普遍的に成り立つかは、理性が概念の関係を分析して理解します。ロックにも確実な数学的知識の説明があるため、相違は感覚だけで証明をするかという単純な話ではありません。必然性を見いだす能力の源をどこに求めるかが論点になります。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『人間知性新論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
意識していない知覚はあるのか
波の音を作る小さな音
海辺で波のざわめきが一つの大きな音として聞こえる場面を考えてください。ライプニッツは『人間知性新論』序文で、波の音全体を聞くには、それをなす小さな水の動きの音が関わっていると論じます。私たちは一つ一つをはっきり聞き分けていなくても、それらの寄与が合わさってざわめきを経験します。
ライプニッツはこの例を、意識にのぼらない微小な知覚――「小さな知覚」(petites perceptions)――の説明に使いました。心の中には、はっきり気づいたことだけが存在するのでしょうか。慣れた時計の音を聞き流していても、突然止まると気づく場合があります。この日常的な気づきは、意識の明るい部分の周囲に、まだ区別できない働きがあると考える入口になります。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの心の哲学)
知覚と統覚を分ける
ライプニッツは対象を表す心の状態としての「知覚」(perception)と、その状態に意識的に気づく「統覚」(apperception)を区別しました。私たちがすべての知覚をつねに自覚していると仮定すると、意識していない小さな変化が蓄積し、ある時にはっきりした経験として現れる過程を説明しにくくなります。
例えば少しずつ遠くから近づく足音を、ある瞬間に初めて明瞭に聞いたように感じる場合を想像してみましょう。ライプニッツの立場では、聞こえとして自覚する前にも心の状態には変化があったと考えられます。統覚がどの種類の知覚に伴うかは彼の文献でも複数の論点があり、研究者の解釈も分かれます。中心となる発想は、自覚のある思考と心の働き全体の範囲が一致するとは限らないことです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの心の哲学/ライプニッツ『人間知性新論』第2巻|Early Modern Texts)
ロックの反省とライプニッツの無意識
ロックが反省を通じて自分の思考や意志を知ると述べるとき、心が自分で捉えられる働きが考察の入り口になります。ライプニッツは、その入り口の外側にも知覚があると考えます。現在の自覚を、心に起きていることの全目録として扱わない姿勢です。二人は同じ「心の内側」を扱いながら、観察できる意識の範囲について異なる見積もりを示しました。
意識されない知覚という着想は、後世の心理学的な「無意識」とそのまま同じ理論ではありません。ライプニッツでは、微小な知覚が実体の活動の連続性や知識の生得的な可能性を説明する哲学体系の中に位置づけられます。何かを今は思い出せないことから、心には何も残っていないと結論してよいのか。心についての経験が、経験の外側を考える方向へ広がったのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|生得性をめぐる歴史的論争/スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの心の哲学/ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts)
必ず真であることと、現実に起きたこと
理性の真理と事実の真理
ライプニッツは「理性の真理」と「事実の真理」を区別します。例えば「三角形には三つの辺がある」は概念の関係に基づく必然的な判断です。「今日ロンドンでは雨が降った」は、実際の出来事を調べて確かめる偶然的な判断です。後者が真であっても、別の天候になっていた可能性は考えられます。
ここで「偶然的」は気まぐれで理由がないという意味ではありません。ほかの可能性が論理的に考えられるということです。ある出来事が実際に起きた理由を追うには観測、記録、因果の説明が必要です。数学の定理に求める証明と、昨夜の天気に求める証拠を区別することで、ライプニッツは理性と経験の役割をそれぞれ整理しました。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第4巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
矛盾律は何を禁止するのか
矛盾律とは、同じものが同じ意味と条件のもとで同時にある性質を持ち、持たないという判断は真になれないという原理です。例えば「この図形は三角形であり、同じ定義のもとで三角形ではない」という主張には矛盾が生じます。ライプニッツは、必然的な真理を分析していくと、同一性や矛盾律のような原理に行き着くと考えました。
私たちが目で見た三角形が不完全でも、定義を使って矛盾を見分けられる点がここでは意味を持ちます。ロックも観念同士の明白な関係を認めており、二人がどちらも論理を不要としたことはありません。ライプニッツに独特なのは、こうした原理から知識だけでなく、実在のあり方まで説明しようとした広がりです。(参照:ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts)
十分理由律は「なぜここにあるのか」を問う
机に一冊の本があるとします。誰かが置いた理由、机を支える構造、出版されてそこへ届くまでの経路を尋ねられます。ライプニッツの「十分理由律」は、何かがそうであって別のあり方でないなら、その理由があるという原理です。私たちがその理由を知っていることと、説明し得る理由が存在することは別の主張です。
すべての出来事に理由があるという考えから、世界がなぜ存在するかという問いが生まれます。個々の原因をいくら追っても、原因の連鎖全体の存在をどう説明するかが残るからです。ライプニッツは十分理由律を数学の証明から神や宇宙の理解へ広げました。これは壮大な説明を可能にする一方、あらゆる事実に本当に十分な理由が必要かという批判を受ける哲学的な仮定でもあります。(参照:ライプニッツ『自然と恩寵の原理』|Early Modern Texts/ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
モナドという考えは、心と物の関係をどう変えるか
単なる粒子より根本にある単純実体
ライプニッツは物体をいくら小さく分けても、延長を持つものはさらに部分へ分けられると考え、存在の根本には部分を持たない単純な実体が要ると論じました。彼はこの実体を「モナド」と呼びます。1714年に書かれた『モナドロジー』では、モナドを物体内部の極小の粒子としてではなく、世界の多様なあり方をそれぞれの仕方で表す実体として捉えます。
粒子なら形や位置を考えられますが、部分を持たないモナドにはそのような幾何学的な構成がありません。だからこそ、モナドがどんな働きをするかは、物の押し合いを説明する方法とは異なります。ライプニッツは「知覚」と、ある知覚から次の知覚へ移る傾向である「欲求」を用いて、その内的な活動を説明しました。物体についての科学と、実在の根本を問う形而上学の区別がここにあります。(参照:ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
「窓がない」と言われるモナド
『モナドロジー』第7節では、モナドには外から何かが入ったり出たりする「窓」がないと述べられます。物体同士の衝突のように、別の実体から何かが移されて内面を変える仕組みをモナドには認めないのです。それぞれのモナドの知覚の変化は、その実体自身の原理に従います。
では外の世界が見えるのはなぜでしょうか。ライプニッツは、個々のモナドが世界全体の秩序をそれぞれの視点から表していると考えました。窓のない部屋の中に小さな風景の写真が保管されているという話ではありません。互いに直接の物理的な出入りがなくても、内的な変化が世界の秩序と対応するという説明です。ここには経験される世界と実在の構造を結びつける大きな問題があります。(参照:ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの心の哲学)
二つの時計の比喩と予定調和
心で腕を上げようと考えると、実際に腕が動きます。心の意志が身体の粒子を直接押すのか、身体の動きが心の状態を作るのか。デカルト以来の心身問題に対し、ライプニッツは「予定調和」を唱え、心と身体それぞれの過程が初めから対応する秩序のもとにあると考えました。二つの時計を最初から同じ時を示すように調整した場合にたとえられます。
時計の比喩が表すのは、二つの系列が一致するからといって、毎回その間で力が受け渡される必要はないという考えです。自然研究では身体の運動を機械的な法則で説明でき、心については知覚や目的を語る説明が成り立ちます。ライプニッツは両者の対応を神の創造に結びつけました。経験する因果関係をどう説明するかという問いが、実在全体の調和をめぐる主張へ展開します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツと因果性/ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/ライプニッツ『自然と実体の交流に関する新体系』|Early Modern Texts)
1710年の『弁神論』と1714年の二つの著作
なぜ「最善の可能世界」なのか
ライプニッツは1710年に『弁神論』を刊行し、神の善性、人間の自由、悪の存在を結びつけて論じました。多くの可能な世界を考え、その中で神が選ぶ世界には理由があるとします。「最善の可能世界」という表現は、この世界に苦しみがなく、誰にとっても都合がよいと主張する言葉ではありません。世界全体の秩序を神の完全な知恵からどう説明できるかという議論です。
例えば一つの出来事だけを取り出せば、苦しみを減らす別のあり方を想像できます。その変更が世界のほかの関係へどう波及するかまで含めると、比較は複雑になります。ライプニッツは可能な世界を個別の良い出来事の寄せ集めとして考えず、全体として整合する秩序の比較に置きました。この主張には、実際の不幸や悪を前に本当に最善と言えるのかという深刻な批判が向けられます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの悪の問題/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
必然的な知識と、人間が自由に選ぶこと
もし世界に十分な理由があるなら、人が何をするかも初めからすべて必然になるのでしょうか。ライプニッツは、ある命題の反対を考えること自体が矛盾になる「絶対的な必然性」と、現実に選ばれた世界の中で起きる事柄とを区別しました。人間の行為に理由があることと、行為の反対が論理的に不可能であることは同じではないと考えます。
誰かが助けを求めたとき、自分の動機や判断が理由となって行為を選ぶことを想像してください。そこに説明があるからといって、数学の定理のように反対の判断が矛盾だと決まるわけではありません。ライプニッツは合理的な説明を保ちながら自由を考えようとしました。自由意志と神の予知の関係が解決されたかについては、その後も議論が続いています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの悪の問題/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ)
1714年に書かれた『モナドロジー』
ライプニッツは1714年、『モナドロジー』と『理性に基づく自然と恩寵の原理』を執筆しました。両者は、単純実体、知覚、十分理由律、神と世界の関係などを簡潔にまとめた著作です。この年は、後世の読者が「ライプニッツの体系」と呼ぶ問題群が短い文章の形で示された重要な節目でした。
1714年にはハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世に即位します。ライプニッツは長年その宮廷に仕えていたため、イングランドとハノーファーの政治的な連絡も彼の生活と無関係ではありませんでした。彼の哲学はロンドンと大陸の学問を結ぶ書簡や宮廷の仕事の中で作られ、同時代の知識人の交流を映しています。(参照:ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts/ライプニッツ『自然と恩寵の原理』|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/英国議会|1701年王位継承法)
ロックとライプニッツを、三つの例から比較する
色を知るときに、二人は何を重視するか
最初の例は、夕日の光の中で赤く見えるリンゴです。ロックは、赤という観念が感覚から得られることと、リンゴが特定の視覚経験を生じさせる力を持つことを分けます。ライプニッツも具体的な色の経験を理解の契機と考えます。さらに、経験が起こるとき心が自分の内的な原理に従って知覚するという仕組みまで問います。
同じリンゴを見た二人が「赤い」と述べても、問うている段階に違いがあります。観念の材料と外界の性質の関係をたどるのか、そもそも物の情報に相当するものを心がどう表現できるのかを考えるのか。経験の存在を認めた上で、心と世界の説明をどこまで進めるかが異なります。読者は自分の見えを起点に、それが成立する条件へ問いを深められます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|第一性質と第二性質/スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの心の哲学/スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツと因果性)
数学を知るときに、二人は何を重視するか
二つ目は、紙に描いた正方形です。面積の関係を何例か確かめるだけなら測定です。なぜすべての正方形に同じ計算が適用できるかを説明するなら証明になります。ロックは経験から得た観念を比較し、その一致や関係を直観や論証によって確実に知る道を認めます。数学の確実性を感覚の報告と同じ水準に置く必要はないと考えました。
ライプニッツは、普遍的な証明が可能なのは心に生まれつき備わる理性的な性向があるからだと論じます。二人の相違は、測定値を信じるか証明を信じるかではありません。正確な観念と必然的な関係に到達する能力の成り立ちを、経験に基づく説明で十分とするか、心の生得的な構造まで認めるかという点に現れます。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『人間知性新論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|近代初期の合理論)
約束の責任を知るときに、二人は何を重視するか
三つ目は、一年前に自分がした約束を思い出す場面です。ロックは、過去の行為を自分のものとして意識できることが、人格同一性と道徳的な責任に関わると考えました。誰が約束をした人物かを、身体の変化と意識のつながりから調べます。知識の問題が「自分とは誰か」という問いへ広がった例です。
ライプニッツは、意識して思い出す以前にも個々の実体の活動が連続していると考えるため、人格の持続を自覚された記憶だけで捉える説明を検討し直します。いま思い出せない出来事があっても、自分の存在の歴史まで途切れたと結論すべきでしょうか。ここにも、意識に現れた内容をどこまで基本に据えるかという二人の違いが表れます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ロックの人格同一性論/ライプニッツ『人間知性新論』第2巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツの心の哲学)
「経験論対合理論」という図式で失われるもの
ロックも理性を必要としていた
ロックは観念が経験から生じると論じつつ、推論、比較、抽象、証明を欠かせない心の働きとして扱いました。第4巻の数学や道徳に関する議論には、観念の関係を明瞭に捉えることで確実な知識へ到達する可能性があります。経験論という名前だけを見て、彼がすべてを反復観察で決めようとしたと理解するのは正確ではありません。
例えば「約束を守るべきだ」という判断に関わる概念を明らかにし、その関係を考えることは、実際に誰かが約束を破った例を数える作業以上のものです。ロックの認識論では、経験が観念の材料を供給し、理性がその関係を吟味します。彼が強く問うのは、人間の理解力について根拠を越える主張をしないための方法でした。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
ライプニッツも経験を必要としていた
ライプニッツの生得観念は、心が何の経験もせずにあらゆる事実を知っているという説明ではありません。微小な知覚、感覚を契機とする学習、歴史や自然についての実証的な情報を重んじました。実際、彼は数学だけを研究した人物ではなく、図書館、歴史文書、自然学、政治の仕事に長く従事しました。
「経験は学びを始め、理性は必然性を理解する」という形で二つの役割を整理すると、彼の主張がつかみやすくなります。心に備わる構造を認めても、目の前の物体が何色であるか、どの国で何が起きたかを知るには個別の情報が要ります。彼にとって経験がいらないことが合理論の特徴なのではなく、経験を理解へ変える理性の原理が根本にあることが特徴でした。(参照:ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
論争の焦点は「知の正当化」にもある
子どもが三角形を描いたことを知る経路と、三角形の性質が必ず成り立つことを知る理由を分けて考えましょう。ロックは観念の出所を経験に求めつつ、その観念同士の関係を確実に捉える方法を論じました。ライプニッツは、必然的真理を支える理性的な性向を心の側に見いだします。どちらも数学と経験世界に関心を持ちながら、説明の最終的な位置が違うのです。
経験論と合理論という区分は論点の入口として便利です。学者を二つの陣営に完全に分け、経験か理性の片方だけを使ったと考えると、17世紀末の議論の豊かさが見えなくなります。二人の文章を読み比べると、知識の材料、正しい推論、世界についての証拠、心の働きが、同じ知るという営みを別々の角度から支えることが分かります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論/スタンフォード哲学百科事典|近代初期の合理論/スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック)
18世紀の哲学は二人の問いをどう受け継いだか
ヒュームが問う、経験から未来を予想する理由
スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711–1776)は、18世紀に経験と因果関係をさらに厳しく検討した人物です。火に触れれば熱さを感じるという経験を何度も重ねても、次も必ずそうなるという保証はどこから来るのでしょうか。ヒュームは、原因と結果の結びつきを経験することと、その必然性を理性で証明することの違いを問いました。
ロックが知性の限界と蓋然性を調べた仕事は、こうした後の経験論の問題へつながります。ヒュームは単にロックの結論を反復したわけではなく、経験がもたらす確信の仕組みをいっそう徹底して問いました。近代の認識論は、事実を知ることができるという日常の確かさと、すべての可能な場合について証明するという要求の間で、考え続けることになります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論/スタンフォード哲学百科事典|ロックの科学哲学)
カントが「経験を可能にする条件」を問う
ドイツ語圏の哲学者イマヌエル・カント(1724–1804)は、18世紀後半のケーニヒスベルクで、経験が知識を生むことと、経験を理解する枠組みの問題を結びつけました。『純粋理性批判』(1781年初版)では、人間が経験する対象をどのような形式や概念によって理解できるかを探ります。ロックとライプニッツの後に、新しい問いの構成が現れたのです。
例えば出来事が時間の順序で経験されるとき、その順序を見いだす能力そのものも説明の対象になります。カントは先行する合理論と経験論の議論から多くを学び、そのどちらにも簡単には収まらない批判哲学を築きました。「知識はどこから来るか」という問いが、「そもそも経験を知識として成り立たせる条件は何か」という問いへ転じます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ライプニッツとカント/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
いま、自分の知識をどう見分けるか
ニュースを読んで出来事を知るとき、私たちは目撃者の証言、記録、他の報告を照合します。数学の問題を解くときは、一つずつの推論が正しいかを確認します。友人との約束を思い返すときは、記憶と自分の責任を考えます。三つの場面で「知っている」という語は同じでも、確かめ方は異なっています。
ロックから学べるのは、実際に何を経験したかを明確にし、そこからどの程度まで言えるかを判断する態度です。ライプニッツから学べるのは、その経験を理解可能にする心の能力と、説明に含まれる理由を問い返す態度です。目に見えたこと、筋道を立てて示せたこと、他人から聞いたことの区別は、現在の私たちが知識を扱うときにも具体的に役立ちます。(参照:ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『人間知性新論』第4巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
略年表|ロックとライプニッツの時代、著作、受容
- 1618年|神聖ローマ帝国を中心に三十年戦争が始まる
- 1627年|自然研究者ロバート・ボイルが生まれる
- 1632年8月|ジョン・ロックがイングランドに生まれる
- 1646年7月|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツがライプツィヒに生まれる
- 1648年|ヴェストファーレンの講和によって三十年戦争が終わる
- 1660年5月|イングランドで王政が復活する
- 1660年11月|ロンドンでの会合から王立協会の活動が始まる
- 1662年|王立協会が国王の勅許を得る
- 1665年|王立協会の学術誌『フィロソフィカル・トランザクションズ』の刊行が始まる
- 1666〜1667年頃|ロックがアンソニー・アシュリー・クーパーの周辺で活動を始める
- 1672年|ライプニッツがパリに移り、数学・自然哲学の研究を深める
- 1675年頃|ライプニッツが微積分の方法を発展させる
- 1676年11月|ライプニッツがオランダ共和国でスピノザと会う
- 1676年末|ライプニッツがハノーファーでの宮廷勤務を始める
- 1683年|ロックがオランダ共和国へ移る
- 1686年|ライプニッツが『形而上学叙説』を執筆する
- 1687年|ニュートンが『自然哲学の数学的諸原理』を刊行する
- 1688年|名誉革命でジェームズ2世がイングランドから去る
- 1689年|ウィリアム3世とメアリー2世が共同統治を始め、権利章典と寛容法が成立する
- 1689年|ロックが帰国し、『寛容についての書簡』などを刊行する
- 1690年(刊年)|ロック『人間知性論』初版が刊行される(刊行準備・初出は1689年)
- 1694年|『人間知性論』第2版に人格同一性を論じる第2巻第27章が加わる
- 1695年|ライプニッツが『自然と実体の交流に関する新体系』を公表する
- 1701年|イングランドで王位継承法が成立する
- 1703〜1704年頃|ライプニッツがロックの著作への応答『人間知性新論』を書く
- 1704年|ロックが亡くなり、『人間知性新論』は未刊行のまま残る
- 1704年|ニュートンが『光学』を刊行する
- 1710年|ライプニッツが『弁神論』を刊行する
- 1714年|ライプニッツが『モナドロジー』と『自然と恩寵の原理』を執筆する
- 1714年|ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世に即位する
- 1716年|ライプニッツがハノーファーで亡くなる
- 1739〜1740年|ヒューム『人間本性論』が刊行される
- 1765年|ライプニッツ『人間知性新論』が死後に初めて刊行される
- 1781年|カント『純粋理性批判』初版が刊行される
二人の生涯と著作年代、王立協会および議会の制度史、1704年頃の『人間知性新論』執筆と1765年の死後刊行を区別してまとめました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジョン・ロック/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/王立協会|王立協会の歴史/英国議会|1689–1714年の主要出来事)
まとめ|経験から始まり、理性によって確かめる
ロックとライプニッツは、17世紀末から18世紀初めの社会で、知識の材料と確実性の根拠をそれぞれ調べました。イングランドでは議会と王権をめぐる政変、宗教的な対立、王立協会の実験文化が進み、ドイツ語圏では諸侯領の宮廷と大学、国境を越える書簡が研究を支えます。ロックは『人間知性論』で生得観念への批判から出発し、感覚と反省によって得る単純観念、それを組み立てる複合観念、第一性質と第二性質、言語と本質、直観・論証・感覚による知識を分析しました。外界や他人の証言について判断する場合には、確実性の段階を区別して理性を働かせます。
ライプニッツは、具体的な経験が学びを促すことを認めながら、必然的な真理を理解する心の生得的な性向を説きました。筋の入った大理石の比喩、意識されない微小な知覚、矛盾律と十分理由律、理性の真理と事実の真理は、その主張の異なる側面を示します。『人間知性新論』は1704年頃に完成したものの、刊行は1765年です。1714年の『モナドロジー』では知覚を持つ単純実体と予定調和の考えがまとめられます。知識がどこから来るかを問うときには、経験を得ること、観念を組み立てること、推論の正しさを確かめることを分けて考えられます。二人の論争は、その区別を今日にも残しました。(参照:ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts/ロック『人間知性論』第4巻|Early Modern Texts/ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts/スタンフォード哲学百科事典|ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ/スタンフォード哲学百科事典|合理論と経験論)
参考資料・出典
ロック『人間知性論』全四巻、ライプニッツ『人間知性新論』全四巻および『モナドロジー』などの原典を、専門哲学事典と照合しました。掲載したEarly Modern TextsのPDFはJonathan Bennettによる読みやすい英語への編集・現代語訳であり、17〜18世紀の原刊本そのものの画像ではありません。ロックの人格同一性論やライプニッツの統覚に関する研究上の異論は専門研究を踏まえ、断定を避けました。政治・実験文化の年代は英国議会と王立協会の記録に基づきます。
- ロック『人間知性論』第1巻|Early Modern Texts
- ロック『人間知性論』第2巻|Early Modern Texts
- ロック『人間知性論』第3巻|Early Modern Texts
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- ライプニッツ『人間知性新論』第1巻|Early Modern Texts
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- ライプニッツ『自然と恩寵の原理』|Early Modern Texts
- ライプニッツ『モナドロジー』|Early Modern Texts
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