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Philosophy

750–950

ギリシア哲学はイスラーム世界でどう発展したのか

翻訳運動と知識の交流

西暦八世紀後半、現在のイラクにあたるチグリス川流域に、新しい帝国の首都バグダードが築かれました。アッバース朝のカリフはイスラーム共同体の政治的指導者として宮廷を置き、官僚が税と文書を扱い、商人は遠方から布や香辛料、紙などを運びました。モスクは礼拝と学びの場であり、キリスト教徒など異なる信仰を持つ人々も、医療や文書行政、学問に携わっていました。町の書籍商や写字生が扱う本は、統治と知識をつなぐ道具にもなります。

この帝国の学者たちはアラビア語で議論しましたが、読みたい書物は別の言葉で記されていました。古代ギリシアの哲学、医学、数学は、ギリシア語の原本や、キリスト教徒の学者が用いたシリア語の写本を通じて伝わります。宮廷と民間の有力者が翻訳者を支援し、医師や天文学者、論理学の教師が翻訳を読み、訂正し、論じました。翻訳は、文字を別の言葉へ置き換える作業とともに、病気の原因、証明の方法、世界の始まりといった問いを新しい読者へ渡す営みでした。

ここには哲学ならではの難しさがあります。「すべての出来事には原因がある」と主張するとき、その「原因」は何を意味するのでしょう。紀元前四世紀にギリシアで活動した哲学者アリストテレスの、永遠に存在する世界を論じる議論は、神が世界を創造したと考える人々にどう読まれたのでしょう。八世紀半ばから十世紀半ばにかけて、翻訳はギリシアの書物を保存すると同時に、その論証を批判し、神・自然・知識・政治を新たに考えるアラビア語哲学へつながっていきます。

アッバース朝のバグダードでは、誰が学問を支えたのか

七五〇年の王朝交替と、七六二年の新しい首都

七五〇年、アッバース朝はウマイヤ朝に代わり、広大なイスラーム帝国を統治し始めました。第二代カリフのマンスール(在位754〜775年)は七六二年、メソポタミアの交通と交易に適した場所にバグダードを建設します。行政官はカリフの命令や歳入の記録を作り、軍人や宮廷の役人、宗教法を学ぶ人々が首都に集まりました。政治を動かす文書と、暦・測量・計算に役立つ知識には、実務上の需要がありました。

新しい首都の設立は、王朝が権威を示す機会でもありました。古いイランの宮廷文化、インドの計算法、ギリシア系の医学・哲学を知ることは、広い地域を統治する学問の選択肢を増やします。宮廷に雇われる書記や医師の技能は、イスラームを信じる人々だけで成り立っていたのではありません。異なる出自や信仰の知識人が、共通の仕事のためにアラビア語の文章を読み書きする条件が、ここで整っていきました。(参照:ケンブリッジ大学出版局|帝国都市バグダードの建設(762〜836年)/ラウトレッジ|Dimitri Gutas『Greek Thought, Arabic Culture』/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

医師、書記、書籍商がつないだ知識の仕事

カリフや有力者の家では、病を診る医師が重んじられました。どの薬を使うか、発熱をどう説明するかには、観察と医学書を突き合わせる技能が求められます。国家の書記は複数の文化に由来する行政技術を扱い、天体を調べる人々は暦や観測の計算に取り組みました。専門知識を文章で共有する環境があり、翻訳された本は、読んだ人が試し、説明し直すことによって価値を持ちました。

九世紀にはアラビア語の書籍が広まり、写本を複製して売る人々や書物を収集する人々も知的な活動の一部になります。ギリシア語の巻物を一冊手に入れれば仕事が終わるのではなく、訳文を写し、誤りを比べ、後から学ぶ人に伝える手間が続きます。医学書、天文学書、論理学書に関心が集まった背景には、宮廷の威信と実務の必要、知識そのものを探究する関心が折り重なっていました。(参照:ケンブリッジ大学出版局|帝国都市バグダードの建設(762〜836年)/ラウトレッジ|Dimitri Gutas『Greek Thought, Arabic Culture』/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

「知恵の館」は宮廷の一施設で、翻訳の現場はもっと広かった

アッバース朝の学問を語るとき、「知恵の館」(バイト・アル=ヒクマ)という名がよく登場します。歴史資料からは、宮廷に結びつく蔵書・学問活動の場として理解できます。とくにカリフのマアムーン(在位813〜833年)は知的事業を援助しました。宮廷の書庫や学者への報酬が、異言語の書物を手に入れ、研究を続ける条件になったのです。

「知恵の館」がすべてのギリシア語翻訳を指揮した単一の巨大な学校だったという物語は、現在の研究では支持されていません。後に見るキンディーの周囲の翻訳者、医師フナインの仲間、富裕な学者一家など、それぞれの人脈と支援者が活動を進めました。活動の場を複数に分けて考えると、何を訳すかという選択が、宮廷の命令だけでなく、医療の需要や学者間の問いにも動かされていたことが見えてきます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/ラウトレッジ|Dimitri Gutas『Greek Thought, Arabic Culture』)

ギリシアの書物は、どんな道を通って届いたのか

シリア語を使うキリスト教徒が担っていた学問

シリア語は、シリア・メソポタミアのキリスト教徒が長く用いたアラム語系の言語です。五〜六世紀にはエデッサやニシビスなどの学びの場で、聖書の解釈に加え、ギリシア語で書かれた論理学や医学が読まれました。修道院や学校で教師が弟子に文献を説明し、ギリシア語からシリア語へ訳した文章を使う習慣が育ちます。この知の蓄積は、七世紀にイスラーム勢力が各地を統治するようになってからも受け継がれました。

六世紀に活動したレシャイナのセルギオスは、ギリシア語の学問に通じ、アリストテレスの論理学や医師ガレノスの著作をシリア語で扱ったキリスト教徒の医師・翻訳者でした。アッバース朝時代より何世代も前から、古代ギリシアの著作にはシリア語で学ぶ読者がいたのです。八〜九世紀の翻訳者が使えた知識には、その人々が保存し、解説し、医学の実践に結びつけてきた長い歴史がありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/シュプリンガー『中世哲学百科事典』|ギリシア語からシリア語への翻訳)

ギリシア語、シリア語、アラビア語を行き来する

ある著作はギリシア語の原本からアラビア語へ直接訳され、別の著作は既存のシリア語訳を介して届けられました。同じ本に複数の訳がある場合、後の翻訳者は先行訳を調べ、読者にとって意味の通る文章に改めることができます。こうした言語の往復を担ったのは、ムスリムの学者だけではなく、ギリシア語やシリア語の教育を受けたキリスト教徒の専門家たちでもありました。

例えば「魂」を表す言葉が医学では生き物の働きを、哲学では知覚や思考の原理を指すことがあります。訳す言葉を一つ決めても、その意味を読む人がどう理解するかという問題は残ります。原文の語を知る人、シリア語で解説する人、アラビア語で議論を進める人が互いの解釈を確かめる過程で、共通の専門語が形づくられました。言語間の交流そのものが、哲学の考え方を精密にする仕事だったのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承/シュプリンガー『中世哲学百科事典』|ギリシア語からシリア語への翻訳)

初期の宮廷に届いた書物と、始まりの年代

ウマイヤ朝末からアッバース朝初めにかけて、ギリシア系の文献をアラビア語で扱う動きが現れました。八世紀の宮廷に仕えたイラン系の文筆家イブン・アル=ムカッファ(756年没)は、中期ペルシア語の著作をアラビア語へ移し、王侯の統治や文学を伝えた人物です。論理学の要約も彼、またはその息子の仕事と伝えられます。初期には、ギリシア語から直ちに訳す方法のほか、ペルシア語など別の言語を経る知識の移動もありました。

東方教会の総主教ティモテオス一世(823年没)は、アッバース朝の宮廷と関わり、カリフのマフディー(在位775〜785年)の求めでアリストテレスの『トピカ』を翻訳したことを記しています。『トピカ』は議論で何を前提にし、相手の主張をどう検討するかを考える論理学の書物です。九世紀の大規模な活動に先立って、政治を担う人々がギリシアの議論の技術へ関心を寄せた事実が、この記録からうかがえます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承)

何のために医学・天文学・論理学を訳したのか

ガレノスの医学書は、治療を説明するために読まれた

ガレノス(二世紀のローマ帝国で活動したギリシア語の医師)は、人体の働きや病気を観察と理論によって理解しようとしました。その膨大な著作には、診断、薬、身体の器官、医学知識の証明についての議論があります。アッバース朝の医師はこうした書物を求め、実際の患者に向き合う医療に加えて、どんな説明を信頼できるかという医師の教育にも役立てました。

例えば熱のある患者の症状を記録するとき、一度の経験だけで原因を決めれば、よく似た別の病を見落とすかもしれません。観察した事実からどこまで一般的な説明を導けるのか。その検討には身体の理論と、主張を整理する論理の両方が必要になります。医学書の翻訳がギリシア哲学の受容と重なったのは、医療が「何を知っていると言えるか」という問いを日々生み出す仕事だったからです。(参照:米国国立医学図書館|フナイン・イブン・イスハークの翻訳書簡とギリシア医学/学術誌Journal of the Royal Society of Medicine|フナイン・イブン・イスハークの医学翻訳/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

天体の計算は、理論と観測を突き合わせた

二世紀のアレクサンドリアで活動したプトレマイオスは、天体の動きを数理的に説明する『アルマゲスト』の著者です。この書物や古代の幾何学書はアラビア語で研究されました。月や惑星がいつ、どの位置に見えるかを予測するには、観測した角度を測り、数の関係を計算し、その結果と実際の空を比べます。計算が合わない場合には、測定方法やモデルの前提が検討されました。

予測に成功する数式が得られたとして、その数式は宇宙の本当の構造を示しているのでしょうか。これは天文計算を越えた哲学的な問いです。数学で現象を整然と記述することと、なぜ天体がそのように動くのかを自然学で説明することは関係しながらも別の作業です。数学者と哲学者が同じ文献の周囲に集まったことで、正しい計算、確かな証明、自然の原因の意味を比べる議論が深まりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム世界の自然哲学と自然科学/イラン百科事典|バヌー・ムーサー兄弟)

アリストテレスの論理学は、異なる学問を結んだ

アリストテレス(紀元前四世紀のアテネなどで活動したギリシアの哲学者)は、推論の形式、自然の変化、生き物、政治、存在の根本を幅広く考えました。論理学では、結論を導くときに前提同士がどのようにつながるかを分析しています。後世の学者は、医学で病因を論じる場合も、神について考える場合も、根拠から結論へ進む道筋を吟味するために彼の著作を読みました。

ある医師が「この治療はいつも効く」と述べたら、読者は「どんな患者に、何を観察した結果なのか」と尋ねられます。経験の積み重ねが確かな説明となる条件を考えると、個別の病気を離れて、どの学問にも共通する論証の基準が問題になります。九世紀の翻訳が哲学史を変えたのは、既存の実務的な知識へ、理由の正しさそのものを問うための書物と専門語を組み込んだからでした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム世界の自然哲学と自然科学)

翻訳者たちは、原文の意味をどう確かめたのか

フナインは古い訳と写本を照らし合わせた

フナイン・イブン・イスハーク(808年頃〜873年)は、アッバース朝時代のバグダードで活動した東方教会系のキリスト教徒で、医師・翻訳者です。ギリシア語、シリア語、アラビア語を使い、ガレノスの医学書を中心に膨大な仕事をしました。彼は翻訳済みの書物をただ引き継ぐのではなく、異なる写本の文章を比較し、文脈に合った読み方を調べ、既存の訳を改めました。原文の状態を確かめること自体が、専門的な作業になったのです。

彼の『ガレノス著作の翻訳に関する書簡』には、誰のために、どの書物をシリア語やアラビア語へ訳したかという記録があります。依頼者の名が並ぶことから、翻訳の仕事には多様な支援者がいたと分かります。また、満足できるギリシア語写本を集めたり、先行する訳文を改訂したりした経緯が語られます。新しい言語で読む人へ信頼できる文章を渡すには、古い文字を解読するだけでなく、原著者が何を論じたかを深く理解する必要がありました。(参照:米国国立医学図書館|フナイン・イブン・イスハークの翻訳書簡とギリシア医学/学術誌Journal of the Royal Society of Medicine|フナイン・イブン・イスハークの医学翻訳/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

同じ意味を、読者に届く文章へ移す

ギリシア語の一語には、前後の文章によって異なる意味があります。語順をそのままなぞると、アラビア語では議論の関係が見えにくくなることもあります。フナインの翻訳方法をめぐる記録からは、文の意味を読み取り、新しい言語で通る表現を選ぶ姿勢がうかがえます。訳者は原文へ忠実であろうとすると同時に、医学を学ぶ読者が論理の順番を追える文章を作ろうとしました。

たとえば医師の文章に「自然」という言葉が出たとき、周囲の記述から、それが人間の身体に備わる働きを指すのか、万物の仕組みを指すのかを判断します。意味を曖昧にしたまま一つの訳語を選べば、議論の結論まで変わり得ます。翻訳者が語の使い方を詳しく考えることは、読者が「この主張は何を述べたのか」と問うための土台を作りました。翻訳の精度と哲学的な理解は、同じ作業の二つの面でした。(参照:米国国立医学図書館|フナイン・イブン・イスハークの翻訳書簡とギリシア医学/学術誌Journal of the Royal Society of Medicine|フナイン・イブン・イスハークの医学翻訳/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

一人の天才より、訂正し合う共同作業

フナインの息子イスハーク・イブン・フナイン(九世紀後半〜十世紀初めに活動した翻訳者)も、ギリシアの哲学書などをアラビア語へ移しました。父子だけで全分野を担ったのではなく、宮廷や医師の仲間には原文を読める人、訳文を確認する人、特定の学問に熟達した人がいました。先の翻訳を参照し、難しい語を説明し、別の読者から質問を受けることで、完成した本がさらに改善されていきます。

この過程を想像するなら、同じ図面を使って橋を架ける複数の職人に似ています。原本の行が欠けていれば設計の解釈が変わり、用語の理解が違えば完成した構造が違うものになります。そこで訳者は、本文、注釈、他の著作の記述を照らし合わせました。ギリシア哲学がアラビア語で読めるようになったことには、ひとつの決定的な翻訳よりも、訂正を重ねる長い共同作業が大きく寄与しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承/学術誌Journal of the Royal Society of Medicine|フナイン・イブン・イスハークの医学翻訳)

論理学は、正しい議論の何を明らかにしたのか

結論の正しさは、前提の組み合わせで変わる

アリストテレスの三段論法を簡単な例で考えます。「すべての人間はいずれ死ぬ」「ザイドは人間である」。この二つを認めれば「ザイドはいずれ死ぬ」という結論が導かれます。誰について語るかが違っても、この推論のつながりは保たれます。論理学が調べるのは、気の利いた言葉で相手を納得させる技術だけではなく、どんな形の前提からどんな結論が必然的に出るかという関係です。

同じ形式で「すべての鳥は泳ぐ」「この動物は鳥である」から結論を出せても、最初の前提が現実に合っていないなら、世界について正しい知識は得られません。この違いから、推論の形が正しいことと、その前提が確かであることを区別できます。アリストテレスの『分析論』などを読み直す学者たちは、相手の意見に勝つ議論と、確かな理由に基づく学問の証明をどう分けるかを問題にしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの論理学と哲学的言語/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承)

ポルピュリオスの入門書から概念を分類する

ポルピュリオス(三世紀にローマ帝国で活動したギリシア語の哲学者)は、アリストテレスの『カテゴリー論』への入門書『イサゴーゲー』を書きました。彼の著作では、ものを「種類」や「種」に分けること、共通する性質とそれぞれを区別する性質が論じられます。この入門書はシリア語の学問で使われ、アラビア語でアリストテレスを読む人々にも概念を整理する手段を与えました。

身近な例なら、目の前の馬を「動物」「哺乳類」「馬」と分類すると、同じ一頭に複数の説明を与えられます。そこで「分類した言葉は、人が便利に付けた名前なのか、それともものの性質を捉えるのか」という疑問が生まれます。論理学の分類は文章を書く技術に始まり、世界にどんな共通性があるかという存在の問いに届きます。古い哲学の入門書が、新しい言語の学習者にも議論を生み出した理由です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/シュプリンガー『中世哲学百科事典』|ギリシア語からシリア語への翻訳/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの論理学と哲学的言語)

アラビア語の文法と、普遍的な論理は同じか

十世紀のバグダードでは、ギリシア由来の論理学とアラビア語文法との関係が争点になりました。哲学者・翻訳者のアブー・ビシュル・マッター(十世紀前半のバグダードで活動、940年没)は、シリア語を通じてアリストテレスの論理学をアラビア語へ伝えた人物です。彼がアラビア語文法に通じるアブー・サイード・シーラーフィー(九〜十世紀に活動した文法学者)と議論したという記録が、後世の文献に伝わります。

争点は、ギリシア語で生まれた推論の規則が、アラビア語にも通用するのかということです。言葉の語尾や語順は言語ごとに変わります。けれども「すべてのAはBだ」という論理の形は、違う言語で表せます。哲学者は言語を越える推論の構造を求め、文法学者は具体的な言葉の意味と用法を重んじました。このやりとりは、翻訳された論理学をアラビア語の知的文化の中で正当化する必要があったことを伝えています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの論理学と哲学的言語)

「アリストテレスの神学」は、なぜ別の哲学を伝えたのか

本の表紙の名前と、実際の著者が違っていた

九世紀のアラビア語世界では、『アリストテレスの神学』と呼ばれる書物が読まれました。題名からは古代のアリストテレスが書いたように思えますが、内容の重要な部分は、三世紀のローマ帝国で活動した哲学者プロティノスの『エネアデス』第四〜六部を編集・改作したものです。プロティノスはプラトンの思想を受け継ぎ、万物の根源である「一者」から知性や魂、感覚世界が成り立つ関係を考えました。

アラビア語の読者は、アリストテレスの名のもとで、実際には別の時代の哲学者が発展させた形而上学にも出会っていました。この編集と翻訳は、誤った著者名だけで説明できる出来事ではありません。文章には当時の読者に合わせた改変もあり、古いギリシア哲学を新たな問いへ結びつける作業が重なっています。書物が誰の名で読まれたかは、その主張をどの先行思想と結びつけて理解するかを左右しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|『アリストテレスの神学』/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学)

「一つの根源」から、多様な世界はどう生じるか

木、星、動物、人間の考えはそれぞれ違います。性質の異なるものが一つの根源に由来するとしたら、何がその違いを生み出すのでしょう。プロティノスは、万物の根源である「一者」から知性や魂が発し、多様な存在が秩序づけられると論じました。アラビア語の『アリストテレスの神学』も、第一の根源とそこから生じる存在の関係を考える素材になりました。

ここでの問いは、神がいるかどうかを尋ねるだけにとどまりません。変化するものが多数ある世界と、完全で単一の第一原理がどのように両立するかを、筋道立てて説明することが求められます。永遠の根源から世界が生じるという発想は、神が時間をもつ世界を創造したという理解と緊張することがあります。後の哲学者は、この緊張をほどくため、ギリシア語文献の概念を組み替え、自分たちの宇宙論を築いていきました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|『アリストテレスの神学』/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学/スタンフォード哲学百科事典|キンディーの哲学)

プロクロスの著作も、アリストテレス像を変えた

五世紀のアテネで活動した新プラトン主義の哲学者プロクロスは、第一原因から諸存在が生じる関係を精密に論じました。彼の『神学綱要』に連なる内容もアラビア語世界へ入り、一部は後に『純粋善についての書』、ラテン語では『原因論』として知られる系統の文献になります。アリストテレス本人の自然学や形而上学と、彼より後のプラトン主義者が書いた説明が、互いに影響しながら読まれました。

結果として、アラビア語の読者が「アリストテレスの哲学」と呼ぶものには、後世の解釈者を経た多様な議論が混ざりました。これは単純な混乱の記録というより、世界全体の第一原因、神の単一性、存在の段階を一貫して説明しようとする知的な試みを生み出した条件です。原本と改作を区別して研究すると、アラビア語哲学がギリシア語の書物を受け取り、そこから独自の論点を形成した具体的な道筋を確かめられます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|『アリストテレスの神学』/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学)

キンディーは、ギリシア哲学をどう組み替えたのか

最初期のアラビア語哲学者が取り組んだ「第一哲学」

キンディー(801年頃〜873年頃)は、九世紀のアッバース朝宮廷で活動したアラブ系の哲学者・学者です。数学、光学、音楽など広い分野の著作に関わり、ギリシア語文献を訳す人々とも交流しました。『第一哲学について』では、ものごとの根本にある真理を探る哲学を、第一の原因である神についての学問と位置づけます。古代の著作を読みながら、神が一つであることと、世界がどう始まったのかを論証しようとしました。

キンディーの仕事が哲学史上注目されるのは、ギリシアの議論を引用したからだけではありません。彼は、それらの推論を使ってアラビア語で問いを立て直しました。古い哲学者の考えを尊重しつつ、受け取った主張をそのまま採用するかどうかを自分で検討します。哲学はある民族や言語だけが所有する知識なのかという問題に対し、他者から真理を学び、より正確に説明する態度が著作の姿勢として現れています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|キンディーの哲学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

本当に「一つ」であるものは、どう存在するのか

例えば一つの家は、壁や屋根、部屋など複数の部分を持っています。一人の人間にも身体の部分やさまざまな性質があり、私たちが日常で「一つ」と呼ぶものは、多くの要素から成り立っています。では、部分の組み合わせによって一つと呼ばれる存在と、何にも分けられず根本から一つである存在は、どう違うのでしょう。キンディーはこの区別をもとに、神を真の意味で「一なるもの」として考えます。

『第一哲学について』では、数えられるものや変化するものが、さまざまな意味で一と多を兼ね備えていることが論じられます。多くの部分に依存するものは、究極の第一原因になりにくい。そこで彼は、複合した世界の根拠として、真に単一な第一の存在を探ります。単に「神は一つ」と告白する言葉から、なぜ世界の根源は分割できるものと異なるはずなのかを理由によって説明する探究へ進んだのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|キンディーの哲学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学)

世界は永遠だったのか、始まりを持つのか

アリストテレスの自然学には、宇宙の運動を永遠の秩序として考える議論があります。キンディーは、それに対して世界の時間と大きさに限りがあることを論じ、宇宙が始まりを持つと考えました。その議論には、六世紀のアレクサンドリアで活動したキリスト教徒の哲学者ヨハネス・ピロポノスが、世界の永遠性に異議を唱えた著作との関係が指摘されています。ギリシア語思想の内部にも、異なる宇宙観が受け継がれていました。

過去の一日、一年、一世代をどこまでもさかのぼれると考えると、すでに過ぎ去った時間に無限の長さを認めることになります。終わりのない過去は、今という時点にどうつながるのでしょう。キンディーはこのような無限についての議論を用い、時間を持つ宇宙の有限性を擁護します。宗教的な創造観と哲学上の推論とが交差したこの論点は、後世に宇宙の永遠性を支持する哲学者との大きな論争へ発展しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|キンディーの哲学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

哲学とイスラーム神学は、どんな問いを共有したのか

「カラーム」は理性的な討論を重ねていた

八〜九世紀のイスラーム世界には、聖典の意味や神の性質を議論する「カラーム」という神学的な討論の伝統が育っていました。神はどのような性質を持つか、人が自由に行動できるなら神の力とどう関係するか、世界に起こる出来事をどこまで原因から説明するか。これらは聖典解釈の問題であり、同時に知識と行為の根拠を問う哲学的な問題でもありました。

九世紀に影響力を持ったムウタズィラ派の神学者たちは、神の唯一性や正義、人間の責任などについて論理的な議論を進めました。善悪の判断や自由な行為を考える際、人間に責任があると言える条件が必要になります。例えば、誰かが約束を破ったとき、その人に別の行動を選ぶ可能性がまったくなかったなら、非難はどう成り立つのでしょう。こうした身近な問いは、神の正義と人間の自由をめぐる神学に深く関わります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム思想の因果論/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム世界の自然哲学と自然科学)

同じ「原因」でも、考え始める場所が違った

哲学者が世界の第一原因や自然の働きを探るとき、アリストテレスの運動論や新プラトン主義の存在論が議論の道具になりました。神学者は、神が世界へ働きかける仕方、個々の出来事の生起、人間の行為の責任を考えました。どちらも「なぜ起きるのか」と尋ねますが、どんな原因を認め、どこまで確かな説明を求めるかについては異なる学説がありました。

火を近づけると布が燃えるという例を考えましょう。火の性質から燃焼が起こるのか、神がその出来事を生み出すのか。こうした問いは後世の因果論でとくに精密に論じられます。九〜十世紀の段階でも、自然に固有の働きを認める説明と、神の力を根本に据える説明との関係が争点になっていました。観察できる連なりから、何を実在する原因として認められるかが問われていたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム思想の因果論/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム世界の自然哲学と自然科学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学)

政治的な宗教政策と、哲学の営みを分けて見る

マアムーンの治世末、833年には、クルアーンが創造されたものかという教義をめぐる信仰審査、いわゆるミフナが始まりました。この政策は後継のカリフのもとでも続き、九世紀半ばに終わります。王朝の宗教的権威をどう考えるかは宮廷の政治問題であり、神学者や法学者の立場にも影響しました。同じ時代に宮廷が翻訳を支援していたため、政治と知識の活動は接する場所を持っていました。

翻訳者、哲学者、神学者は、それぞれ固有の問題に取り組んでいました。フナインの医学翻訳は患者と医師の需要に支えられ、キンディーの第一哲学は古代の推論を用いて神と宇宙を考え、カラームは聖典と宗教上の論争を中心に進みました。交流と対立は具体的な論点ごとに起こります。思想の違いを明確にすると、アラビア語世界の哲学が多様な問いの交わる場として発展した経緯が理解できます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム思想の因果論/ラウトレッジ|Dimitri Gutas『Greek Thought, Arabic Culture』)

数学者たちは、翻訳をどこまで発展させたのか

バヌー・ムーサー兄弟は、研究と翻訳を援助した

九世紀のバグダードでは、ムーサーの三人の息子、ムハンマド、アフマド、ハサンの兄弟が天文学や数学を研究し、翻訳を支援しました。まとめて「バヌー・ムーサー」と呼ばれる彼らは、宮廷と関係を持つ学者一家として知られています。幾何学書や天文学書を訳すために専門家の仕事を後押しし、自分たちも測量や図形の問題を考えました。知識を得る人が、知識の生産を支える立場にもあったのです。

古代の幾何学書には、図を描いて理解する命題と、なぜ必ず成り立つのかを証明する手続きが並びます。一つの図で正しく見えても、似た別の形で同じ結果になるかを確かめねばなりません。ギリシア語から訳された幾何学の手法は、読者が実際に問題を解くことで鍛えられました。翻訳された知識は、図形や観測を扱う現場でさらに問い直され、新しい議論を書く出発点になりました。(参照:イラン百科事典|バヌー・ムーサー兄弟/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

サービト・イブン・クッラは、研究者でも翻訳者でもあった

サービト・イブン・クッラ(836年頃〜901年)は、メソポタミア北部のハッラーン出身の数学者・天文学者・翻訳者です。当地の宗教共同体に属し、バヌー・ムーサーの一族と関わってバグダードで活動しました。ギリシア語などの文献を扱い、アポロニオスやユークリッドにつながる幾何学の知識を受け継ぎつつ、自分自身も数や図形に関する研究を行っています。

彼の業績には、二つの数の約数の和が互いに相手の数になる「友愛数」についての研究があります。例えば220と284はその関係にあり、単なる計算例から一般的な規則を探すことができます。数の性質を追うと、古い本の命題を正確に理解するだけでなく、まだ説明されていない関係を自ら見つける課題が生まれます。翻訳の仕事と独創的な数学研究が同じ知的な生活の中にあったことが、この人物から分かります。(参照:セント・アンドルーズ大学数学史資料|サービト・イブン・クッラ/イラン百科事典|バヌー・ムーサー兄弟)

アラビア語の学術文化は、古典の読者から著者を生んだ

科学と哲学の交流は、古い書物を保存したという事実に加え、新しい著作が書かれたところに表れます。数学者が計算の手続きを洗練し、医師が治療の知識を整理し、哲学者が論証の基準を確かめる。各分野の専門家は、先行する文章を吟味して、採用する主張と修正すべき点を選びました。ギリシアの著作に記された内容は、学問の終点から議論の材料へと変わっていきます。

例えば幾何学が必要とする証明と、医学が必要とする臨床経験は、同じ形では確かめられません。この違いを比較するため、哲学の論理学は「どの種類の前提から、どの程度の確かさが得られるか」を考える語彙を提供しました。翻訳運動の影響は学問の境界を越え、ある分野が何を根拠として成り立っているかを説明することにも及びました。古代の知識を受け取った学者たちは、自分たちの方法を持つ著者になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム世界の自然哲学と自然科学/イラン百科事典|バヌー・ムーサー兄弟)

ファーラービーは、哲学をどう一つの体系にしたのか

論理学から存在の研究へ、学問を組み立て直す

ファーラービー(870年頃〜950年頃)は、中央アジアに出自を持ち、十世紀のバグダードなどで活動したアラビア語の哲学者です。彼はアリストテレスの論理学やプラトンの政治思想を詳しく読み、各学問の目的と順序を考えました。何を知ることができるのかを確かめる論理学、自然の変化を考える自然学、あらゆる存在に共通する原理を問う形而上学というように、異なる問題をつなげる体系を描いています。

例えば天文学は星の位置を調べ、医学は人体の働きを調べます。では、星にも人にも共通する「存在する」ということは何を意味するのでしょう。個々の対象から離れ、存在そのものやその第一原因を問うのが形而上学です。ファーラービーは、ギリシアの諸著作から得た方法を使い、その学問で何を証明できるかを定めようとしました。読み継がれた断片的な知識を、人間が世界を理解するための秩序ある仕事へ配置し直したのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの論理学と哲学的言語/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献)

理性で示すことと、言葉や物語で伝えること

ファーラービーは、論理学を特定の言語の文法と区別し、推論の関係を調べる普遍的な学問として重視しました。さらに、真理へ至る方法には論証、議論、説得など違いがあると論じています。ある結論が確かな前提から示される場合と、聞き手になじみのある比喩で納得される場合とでは、理解に至る道筋が異なります。言語表現と推論の関係は、翻訳文化の中でとりわけ切実な問題でした。

彼の宗教と哲学の理解では、哲学が論証によって示そうとする内容を、宗教は共同体に届く象徴や言葉で表すことができます。多くの人が抽象的な形而上学の証明を学ぶとは限りません。それでも、人は何を善とし、どう生きるかを共有して社会をつくります。確かさを求める方法と、人々に理解され実践される方法の関係を整理することが、彼にとって知識の体系を完成させる課題になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの社会・宗教哲学/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの論理学と哲学的言語/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学)

『有徳都市の住民の見解』で幸福と政治を結ぶ

ファーラービーの『有徳都市の住民の見解』は、世界の第一原因や知性、魂の働きを論じた後、人々が協力して幸福を求める社会を描きます。政治について考えるために、彼はプラトンの『国家』の哲学者による統治という問題も受け継ぎました。よい都市では、人間の生の目的が理解され、知識と徳を備えた指導者が共同体を導くと考えられます。

一人ではできないことを人々が分担する社会で、何を共通の目標にするべきでしょう。財産を増やすこと、安全を守ること、よく生きることは、互いに関係しながら価値が異なります。ファーラービーは政治を単なる支配の技術から、人間の幸福を実現するための協力として考えました。宇宙の秩序、知性の働き、言語による教育、統治のあり方が一つの哲学に収まる点に、九〜十世紀の翻訳で育った学問の新しい展開があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの社会・宗教哲学/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの心理学と認識論)

翻訳運動は、その後の哲学に何を残したのか

イブン・シーナーは、受け継いだ問題を深めた

十世紀末に生まれたイブン・シーナー(980〜1037年)は、現在のウズベキスタンやイランにあたる地域で活動した医師・哲学者です。キンディーやファーラービー以後に整ったアラビア語の哲学用語を使い、アリストテレスの思想を批判的に読み直しました。彼は、あるものが「何であるか」という本質と、「実際に存在するか」ということの関係を深く考え、存在の必要性や可能性をめぐる議論を展開しました。

例えば、まだ建てられていない家の設計図を考えると、どんな家であるかを詳しく説明できても、その家が現実に存在しているかは別の問題です。そうした区別を世界全体へ広げると、あるものが存在するにはどんな原因が必要なのかと問えます。イブン・シーナーの探究は八〜十世紀の翻訳で得られた論理と形而上学の基盤から発展し、その後のイスラーム世界だけでなく、ラテン語を使う中世の哲学にも影響しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学の形而上学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア哲学のラテン世界への影響/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学)

ラテン語世界へ渡るまでには、さらに時間がかかった

ヨーロッパのラテン語世界では、十二世紀を中心にイベリア半島のトレドなどでアラビア語の学術書がラテン語へ訳されました。イスラーム勢力とキリスト教勢力が接する地域で、医学、数学、天文学、哲学の文章が新しい読者を得ます。その際に伝わったのは、古代ギリシアから直接続く原典だけではなく、アラビア語で編集され、解説され、新しく書かれた哲学的な議論でした。

アリストテレスの著作のヨーロッパへの受容には、ギリシア語からラテン語へ直接訳す経路もありました。アラビア語を経た文献はそれと交わりながら、神学や大学の議論を豊かにします。古代の書物がギリシア語、シリア語、アラビア語、ラテン語へと渡る歴史は、ある文明が一方的に知識を与えたという物語より多くの人々を含みます。読む人が変わるたび、書物は新しい問題のために解釈し直されたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア哲学のラテン世界への影響/スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承)

受け継がれたのは本だけでなく、「問う方法」だった

ギリシア語の書物がアラビア語へ移った過程で、原本の収集、複数の訳の比較、専門語の調整、注釈による論争が行われました。その結果、アラビア語の哲学者たちは古代の先行者を読みながら、どこまでが確かな論証なのか、世界が始まるとはどういうことか、人間に幸福な共同生活が可能かを自分たちの言葉で問い続けることができました。翻訳は、研究のための共通の文章を作る仕事でもありました。

この時代に知の交流を支えた人々は、宮廷のムスリム学者、キリスト教徒の翻訳者、ハッラーンの数学者など多様でした。彼らは古典の論証を検討し、自分たちが取り組む医療や自然の研究、神と人間の理解に合わせて新しい書物を書きました。新しい読者が原理や証拠を吟味したからこそ、古典の著作は別の議論へつながりました。何かを正しく理解するには翻訳を信じるだけで十分か、という問いもまた、この交流の歴史から私たちが受け取る哲学的な課題です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア哲学のラテン世界への影響)

略年表|翻訳運動とアラビア語哲学の発展

  • 5〜6世紀|エデッサやニシビスなどでシリア語によるギリシア語学術文献の学習が進む
  • 6世紀|レシャイナのセルギオスがギリシアの医学・哲学文献をシリア語で扱う
  • 750年|アッバース朝が成立する
  • 762年|カリフのマンスールがバグダードを建設する
  • 8世紀後半|イブン・アル=ムカッファの時代にペルシア語などを経た知識の移動が進む
  • 775〜785年|総主教ティモテオス一世が、カリフのマフディーの求めで論理学を訳す
  • 813〜833年|カリフのマアムーンの治世に宮廷と結びつく学術活動が広がる
  • 9世紀前半|キンディーとその周囲で哲学の翻訳とアラビア語での著述が進む
  • 9世紀|『アリストテレスの神学』など、プロティノスに由来する改作が読まれる
  • 833年|アッバース朝でクルアーンの教義をめぐるミフナが始まる
  • 9世紀中葉|フナインがガレノスの著作などの翻訳・改訂に取り組む
  • 9世紀後半|バヌー・ムーサー兄弟とサービトらが数学・天文学の研究と翻訳を進める
  • 873年頃|キンディーとフナインが生涯を終える
  • 10世紀前半|バグダードで論理学とアラビア語文法の関係が議論される
  • 950年頃|ファーラービーが生涯を終え、論理学・形而上学・政治哲学を結ぶ著作を残す
  • 980年|のちに存在論を大きく発展させるイブン・シーナーが生まれる
  • 12世紀|トレドなどでアラビア語の哲学・科学書がラテン語へ翻訳される

八〜九世紀の翻訳には個人の活動年代や書物の成立時期が確定しない例もあります。年表では、史料に即して概年・時期を示しています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|アリストテレス著作の伝承/スタンフォード哲学百科事典|キンディーの哲学)

まとめ|翻訳から始まった新しい哲学の問い

八世紀半ばから十世紀半ばのアッバース朝では、ギリシア語、シリア語、アラビア語の学問が人々の手で結び直されました。バグダードの宮廷が支援者となり、キリスト教徒の翻訳者や医師、数学者の一族など複数の集団が書物を探し、訳し、書き直しました。「知恵の館」はその時代を象徴する宮廷の蔵書活動に関わりますが、学問の営みは都市の多くの場へ広がっていました。ガレノスの医学、プトレマイオスの天文学、アリストテレスの論理学が選ばれたのは、学者が患者を診て、天体を計算し、説明の根拠を確かめる具体的な仕事をしていたからです。

ギリシア哲学はアラビア語世界で新しい問いを生みました。プロティノスを改作した『アリストテレスの神学』は第一原因と世界の関係を考える材料となり、キンディーは神の単一性と宇宙の始まりを論じ、ファーラービーは論理学から政治に至る学問の体系を築きました。イスラーム神学の討論や数学・医学の研究も、因果関係と証明の意味を問い直しました。その後、イブン・シーナーらが議論を展開し、十二世紀にはアラビア語の学術文献がラテン語世界へ渡ります。翻訳運動が残したものは、保存された古典と、それを根拠として自分たちの問いを立てる方法の両方でした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|アラビア語・イスラーム哲学におけるギリシア語文献/スタンフォード哲学百科事典|ファーラービーの形而上学/スタンフォード哲学百科事典|アラビア哲学のラテン世界への影響)

参考資料・出典

ギリシア語・シリア語・アラビア語の文献伝承、翻訳者の記録、キンディーとファーラービーの思想史、アッバース朝の都市・宮廷文化、後世のラテン語受容に関する研究資料を参照しました。著者帰属や翻訳組織に関する論点は、現代の研究に基づいて区別しています。