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Philosophy

1943

人生には最初から意味があるのか

サルトルと実存主義

1943年のパリは、ナチス・ドイツの占領下にありました。1940年にフランス軍が敗れた後、首都にはドイツ軍の占領当局が置かれ、フランス側の行政官もその命令に従っていました。人々は配給券を使って食料を求め、移動の制限や物資の徴発に向き合いました。ペタン元帥が率いるヴィシー政権はドイツに協力し、ユダヤ人を標的とする法令や逮捕が暮らしを脅かします。1943年には労働力をドイツへ送る徴用制度が強化され、日々の選択が政治や戦争から切り離せないものになっていました。

厳しい状況のなかでも学校は授業を続け、出版社は本を出し、劇場には観客が集まりました。どの作品を印刷し、どの戯曲を舞台にかけるかには検閲や政治的な圧力が及びます。書くこと、教えること、劇場へ足を運ぶことにも、占領下の社会ならではの条件が伴いました。フランスの哲学者・作家ジャン=ポール・サルトル(1905–1980)は、戦争で捕虜となった経験を経てパリへ戻り、教壇に立ちながら哲学書と戯曲を執筆していました。

同年、サルトルは『存在と無』を刊行します。副題は「現象学的存在論の試み」です。この大著が考えたのは、人間が物や他者に囲まれた世界で生きながら、自分のあり方をどうつくっていくのかという問題でした。たとえば、人から「あなたはこういう人だ」と決めつけられたとき、その評価が自分のすべてを言い当てていると感じるでしょうか。これまでに何をしてきたかという事実と、これからどのように生きるかという可能性は、複雑につながっています。

サルトルは、人間が生まれつき完成した目的を与えられているという考えを問い直し、自由、選択、他者のまなざし、責任を人間存在の根本から考えました。戦後に「実存は本質に先立つ」という言葉で広く知られる発想は、1943年の著作では意識の構造や日常の行動を詳しく分析することで展開されています。自分の人生が何を意味するのか。その問いへの答えを、サルトルは人間が置かれた状況と、そこから始まる行為のなかに探していきました。

占領下のフランスで「自由」を問うこと

行政と生活を変えた1940年の敗戦

1940年6月にドイツ軍がパリへ進駐し、フランス政府は休戦を受け入れました。北部と大西洋岸はドイツ側が直接占領し、南部にはペタンを首班とする政府が置かれます。1942年11月にはドイツ軍が南部にも進駐し、フランス全土の政治と生活への圧力が強まりました。

占領下のパリ市公文書には、行政機関の紙を使い回した記録や物資不足の報告が残っています。命令が市役所や警察の実務を通して人々へ届く仕組みがあったのです。住民の行動を制限する制度と、そのなかで生活する個人の決断との距離は、サルトルの自由の議論を読む際にも具体的な背景となります。(参照:パリ市公文書館|占領下のパリ 1940–1944年)

配給、検閲、徴用が重なった1943年

戦争が長引くにつれ、住民には食料と燃料の配給が欠かせなくなりました。公的な禁止事項が積み重なり、移動や取引の条件も変わります。ドイツ当局とヴィシー政権はユダヤ人を迫害し、逮捕や移送が続きました。レジスタンスの活動に対しては、報復と取り締まりが強められます。

1943年2月16日にはドイツへ労働力を送る義務的な労働奉仕制度が法制化され、多くの若者が徴用に直面しました。従うか、逃れるか、周囲に助けを求めるかという判断は、身体的危険と社会的なつながりを伴います。哲学でいう「選択」は、このような不均等な力関係から切り離して考えられるのかという問いも生まれました。(参照:フランス国防省「記憶の道」|1943年の強制労働徴用と抵抗運動)

学校と劇場に残された発言の場所

パリでは戦時中も学校教育が続き、出版社や劇場も活動しました。サルトルは中等教育の教員として哲学を教えるかたわら、論文や劇作に取り組みます。公開される作品には検閲が関わり、文学的な表現が政治的な含意をもつ場合、作者、演出家、俳優、観客の受け取り方は一致しません。

サルトルが1943年に初演した『蠅』は、古代ギリシアのオレステスの物語を使い、罪悪感によって支配される都市とそこから行動する人物を描きました。劇場という共同の場で自由と責任を考えさせる形式は、難解な哲学書とは異なる読者・観客へ届く試みでした。(参照:フランス国立図書館|戯曲『蠅』1943年初演)

時代の出来事と哲学の議論をどう結ぶか

『存在と無』の自由論は、サルトルが戦時下で書いたという事実と重なります。同書で論じられる問題は、占領以前に研究していた現象学や、ドイツ哲学との対話からも生まれました。そこには数年にわたる読書、教育、執筆の積み重ねがあります。

個人が望んで選んだわけではない歴史的条件のなかで、どんな自由が成り立つか。これは占領を生きる人々にも、より広く人間の生活にも関わる問いです。サルトルが論じた自由の強さと限界は、実際の社会に働く制約を考慮して検討することで、いっそう明瞭になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

サルトルの歩みと1943年の著作

パリの教育と哲学者への道

ジャン=ポール・サルトルは1905年にパリで生まれ、フランスの高等師範学校で学びました。同校は中等教育の優れた教員や研究者を養成する機関で、哲学を教える資格試験が大学教育と結びついていました。サルトルは1929年に哲学の教授資格試験に合格し、その後は地方やパリのリセで教えます。

学校で授業を行う生活と、自分の思想を文学や論文へ書く仕事は並行していました。人が世界をどう感じ、他人の視線のもとでどのような行動を選ぶかという問題は、抽象的な形而上学から日常の細かな動作へつながります。彼の著作にはこうした二つの関心が通っています。(参照:フランス国立図書館|サルトルの生涯・年譜)

1938年の小説『嘔吐』と偶然性

1938年に発表された小説『嘔吐』では、主人公ロカンタンがいつも見慣れた物を突然奇妙に感じ、存在することの偶然性に打たれます。机や木の根はそこにあります。その存在には、初めから説明し尽くせる理由が用意されているのだろうか。小説は身体的な嫌悪や戸惑いを通してこの疑問を描きます。

『嘔吐』は、日常の風景が見慣れないものとして現れる経験を、登場人物の感覚や行動として物語にしました。その経験を追うことで、サルトルが後に『存在と無』で考える「世界にあるもののあり方」と「それを経験する意識」の違いへ読者は導かれます。(参照:フランス国立図書館|サルトル主要作品年譜)

兵役、捕虜生活、1941年の帰還

1939年9月、戦争が始まるとサルトルは軍に召集され、気象観測を任されました。暇を見つけて読書と日記を続けた彼は、1940年にドイツ軍の捕虜となります。収容所で暮らした後、1941年にパリへ戻り、学校で再び教えながら執筆を始めました。

この時期には、モーリス・メルロ=ポンティ(1908–1961)ら、哲学を研究する知人と知的な抵抗活動を模索しました。メルロ=ポンティはフランスで知覚と身体を研究した哲学者で、後にサルトルと雑誌を通して協働します。戦時の経験を経て、自由を個人の内面から社会の行為へ広げる課題が現れていきます。(参照:フランス国立図書館|戦時中のサルトルと教育・執筆)

1943年刊『存在と無』は何を目指したか

『存在と無』は1943年にパリのガリマール社から刊行されました。副題「現象学的存在論の試み」の「存在論」とは、何がどのような仕方で存在しているかを問う哲学の領域です。物の存在と人間の意識は同じ仕方で存在するのか、意識が現実を否定し、これから可能な行為を考えられるのはなぜか。大著の構成はこうした問いに沿っています。

導入部で現象と存在を論じ、無、自己欺瞞、対自存在、他者、身体、自由、行動へと考察が進みます。サルトルは「人生の意味」という言葉だけで答えを示したのではなく、意味を生み出す人間の構造を日常的な経験から分析しようとしました。(参照:フランス国立図書館|『存在と無』1943年刊行版の書誌)

自由に生きるとは、最初に何を意味するのか

進路が決まっていないときに考えること

職業を選ぼうとするとき、人は能力、家族の事情、収入、希望を考えます。これまでの経験や周囲の期待は判断に影響します。それでも、何を優先してどの生活を引き受けるかは、単なる履歴の一覧から自動的には決まりません。誰かの「あなたにはこの道が向いている」という評価を受け入れるかどうかにも、自分の関わり方があります。

そこから生まれるのは、人生を方向づける意味が最初から完成した形で与えられるのか、という哲学的な問いです。サルトルは意識が自分の現在の状態を眺め、別のあり方を思い描けることに注目します。私たちがまだ実現していない可能性を考えられる事実を、人間存在の根本的な特徴として調べたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

実存と本質はどう違うのか

「本質」は、あるものを何であるか理解するための性質や定義を指します。道具なら、何をするためのものかという用途から説明しやすいでしょう。対して「実存」は、人間が実際にこの世界で生きているという事実に関わります。人は生まれ、他者や歴史のなかで経験を重ねながら、自分の生き方を形づくります。

サルトルの議論では、人間のあり方を完成済みの設計図から説明することに疑問が向けられます。人が何者になるかには、その人が行う選択と行動が深く関わります。この順序の転換が、戦後に「実存は本質に先立つ」というわかりやすい定式で広まることになります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

物の用途と人間の生き方の違い

手紙を切るためのペーパーナイフなら、製作者は用途や形を思い描いてから作ります。後年のサルトルは、この道具の例を使って、本質が製造より先に構想される場合を説明しました。人間を同じように理解しようとすると、誰が人の使命を決めたのかという問いに直面します。

無神論的な立場に立つサルトルは、神がすべての人間に共通の人生計画をあらかじめ与えたという説明を採りません。生き始めた後の行動によって自分を形づくることが、人間の自由と責任を考える出発点になります。ペーパーナイフの例は1945年の講演で明確に提示されたものです。(参照:ニューヨーク大学出版局・JSTOR|『実存主義とはヒューマニズムである』の講演)

1943年の分析と1945年の講演

『存在と無』は1943年に刊行され、人間の意識や自由を詳しく分析しました。1945年10月の講演「実存主義とはヒューマニズムである」では、サルトルは一般の聴衆に向けて議論を整理し、実存と本質の順序を印象的な言葉で語ります。講演のテキストが書物として刊行されたのは1946年です。

1943年の哲学的な分析と1945年以降の広い読者に向けた説明を区別すると、実存主義がどのように世間に知られるようになったかが見えてきます。人気を得た短い標語の背後には、意識は何をし、行動の理由はどう生まれるかという、長い議論がありました。(参照:フランス国立図書館|『実存主義とは何か』の講演と刊行)

現象学は日常経験をどう哲学へ変えたか

フッサールが調べた意識の向かう先

19世紀末から20世紀前半にドイツで活動した哲学者エトムント・フッサール(1859–1938)は、現象学を発展させました。彼が重視したのは、考えること、見ること、記憶することが、いつも何かについての経験であるという点です。意識は空の箱ではなく、何かを見たり、望んだり、恐れたりする働きとして現れます。

例えば同じコップを見ても、喉が渇いたときには水を飲むためのものとして、絵を描くときには光を反射する形として現れます。物が変わったわけではなく、経験の仕方が違います。サルトルはこの方向から、意識が世界と関わる仕組みを考え始めました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

ハイデガーが問い直した人間の存在

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889–1976)は1927年の『存在と時間』で、人間がすでに生活世界の中にあり、他者や道具と関わりながら存在していることを分析しました。フッサールの現象学を受け継ぎながら、意識の働きを存在そのものへの問いにつないだ人物です。

サルトルはハイデガーの著作から、世界に投げ込まれて生きる人間の有限性や、自己の可能性に向き合うという問題を学びました。『存在と無』では、意識の自由をとりわけ強く論じます。日常的な経験から存在を問う方法を引き継ぎながら、意識、否定、他者との衝突を独自の中心問題としました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

見えたものから「ある」を問い直す

朝、窓の外に雨が見えたとします。「雨が降っている」という言葉は、視界や音の経験をまとめています。現象学では、見えているものをただの主観的な幻と決めつけず、経験のなかで世界がどう姿を現すかを丁寧に記述します。サルトルの哲学もこの出発点を共有しています。

そこから、意識が見るものと意識そのものは同じ存在の仕方なのか、という疑問へ進みます。雨は自分が気づかなくても降り続けます。意識は雨を見ながら、別のことを考えたり、「雨がやんでほしい」と望んだりできます。この違いを明らかにすることが、サルトルの存在論の入口になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

体験の記述と存在論をつなぐ

一般的な心理学なら、なぜ不安になるかを性格や記憶、環境との関係から説明することがあります。サルトルはさらに、そもそも不安を抱ける意識はどのような存在なのかを問いました。経験の仕組みを記述し、そこに働いている存在の構造を考えようとしたのです。

『存在と無』が「現象学的存在論」を掲げる理由はここにあります。カフェで誰かを待つこと、人に見られて恥ずかしくなること、仕事で役割を演じること。具体的な経験は、そのまま哲学的な問いの証拠となります。経験に即して考えることと、人間存在に関する大きな主張とを行き来する方法でした。(参照:ラウトレッジ|『存在と無』校訂英訳版の紹介と原典の主要論点)

物は存在し、人は自分の可能性を生きる

即自存在とは何か

サルトルは物の存在の仕方を「即自存在」と呼びます。石は石としてそこにあり、机は机として存在しています。机が自分の将来を思い描き、今の姿を変えたいと悩むことはありません。あるものが、そのままそれとしてあるという性格が即自存在の特徴です。

机には用途や歴史があり、製作者や使い手がいて、壊れることもあります。サルトルが区別したのは、机が自分のあり方について距離を取る意識を持つかどうかです。この違いが、人間の自由を説明するための対照となります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

対自存在としての意識

人間の意識の存在の仕方を、サルトルは「対自存在」と呼びます。対自存在は、自分がいま何をしているかに気づき、それをやめたり続けたりする可能性を思い描けます。職業や年齢のような事実を持ちながら、自分の現在の状態と完全に重なってしまうことはありません。

例えば失敗した人が「自分は失敗者だ」と感じても、失敗の事実が将来のすべての行動を決めるわけではありません。反省する、別の方法を試す、同じ仕事を続けるなど、多くの可能性が残ります。自分を対象として見つめ直す余地を、サルトルは意識の存在の特徴として説明します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

なぜ「ある」と「考える」を分けるのか

日常会話では「私は学生です」「私は親です」と言います。これらの言葉は生活を説明するのに役立ちます。哲学的に見ると、そうした役割はその人の行為や関係の一部であり、これから何を望み、どう行動するかをすべて含み尽くしてはいません。

サルトルが即自存在と対自存在を区別したのは、意識を物のように固定された実体として扱うと、なぜ人が自分の状態について問いを立てられるのか説明しにくくなるからです。意識は世界に出会いながら、現状とまだ起きていない可能性の差を経験します。その差が自由を考える土台になります。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

意識に完成した芯はあるのか

「本当の自分」という言葉には、長く変わらない性格や才能を探したい気持ちが込められることがあります。サルトルは、そのような性質がすべての行動を決めると考えることに疑問を向けました。自分を知る行為は重要でも、過去を知ることと未来の行動を決めることは異なります。

人間の存在を、完成した本質を持つものとして理解するか、つねに自分の可能性へ向かうものとして理解するか。サルトルは後者の方向から、欲望、責任、他者との関係を説明します。この存在論上の違いが、道徳的な言葉で語られる「自由」を独特の深さへ導きました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

カフェにいない友人をどうして見つけられるのか

ピエールがいないカフェという原著の例

サルトルは『存在と無』で、友人ピエールを探しにカフェへ入る場面を取り上げます。テーブルがあり、人々が話し、店員が働いています。多くのものが見えているのに、探していたピエールだけが見つかりません。そこで「ピエールがいない」という経験が生まれます。

奇妙なのは、「いない」というものを私たちが確かに経験することです。目には人物や椅子が映ります。ピエールの不在は、そこにある別の物と同じ仕方では見えません。友人がいるはずだという期待が、店の風景全体を「見つからない場所」として組み立てます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

否定はどこから生まれるのか

カフェの机や椅子は、そのままそこに存在しています。店の風景だけを物の一覧にしても、「ピエールの不在」という意味は出てきません。意識が友人に会うという可能性を持って入り、その可能性と実際の場面を比べることで、「いない」と判断できます。

サルトルは、否定や無が意識の働きと深く結びついていると考えました。これは言葉の形式だけを調べる論理学とは異なり、人が世界に向かう仕方から否定の成立を問う議論です。現実にあるものに対して「まだ」「もう」「ここには」と言えることが、自由や未来を思い描く力にもつながります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

約束を待つ時間に現れる「まだ」

現代の例で、約束の時刻に駅で待っている状況を考えてみます。改札を通る人が次々に見えますが、待ち合わせ相手は現れません。そのたびに「まだ来ていない」と思います。相手が到着する前と後で、同じ駅の景色が違って感じられるでしょう。

こうした経験では、人は現在の風景の中に、まだ実現していない出来事を重ねています。サルトルのいう無は、世界の外に浮かぶ謎の物体ではなく、現実に距離を取り、ありうる状態から今を捉える意識の働きに関わります。その働きを説明するために、彼はカフェというごく身近な場所を選びました。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

否定できることが行動を生む

手元の書類を見て「これで十分だ」と考えると、修正せずに提出するでしょう。「まだ説明が足りない」と感じれば、書き足す理由が生まれます。同じ書類を前にしても、目標によって足りない部分の意味が変わるのです。現実の不足を見つけることは、望む状態を思い描くこととつながります。

『存在と無』の行為の議論では、現状に欠けているものを捉えることが行動の条件とされます。自分が望む未来との隔たりが見えたとき、人は今とは違うことを始められます。不在の友人の例から、サルトルは世界を否定できる意識と、世界を変えようとする行為の関係を考えました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

意識はいつ自分を知っているのか

読書に集中しているときの意識

小説に夢中になっているとき、人は登場人物や物語の展開を追います。自分の意識を逐一観察するよりも、読むことそのものに集中しています。そこで急に呼びかけられれば、読んでいたことをすぐに理解できます。自分の行為への気づきが、明確な内省より先に働いているのです。

サルトルはこうした仕組みを「前反省的な自己意識」として考えました。意識が何かに向かうとき、その働きには自分が読んでいるということへのささやかな気づきが伴います。そのため、後から自分の経験を振り返ることもできると論じます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

自分を振り返る前にすでに経験している

歩きながら会話をしているとき、意識は話題や道順に向いています。そこで急に足を止め、「今、自分はどんな気分だったか」と考えると、先ほどまで背景にあった経験が対象になります。前者と後者では、意識の向け方が変わっています。

サルトルは、意識が常に「私」という観察者を内部に置く必要はないと考えました。反省以前の経験そのものに自己への関わりがあるため、後から振り返ることが可能になります。こうした発想は、意識の奥に変わらない主体を置く従来の説明を再検討することにつながりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

デカルトの「考える私」との関係

17世紀のフランスで活動したルネ・デカルト(1596–1650)は、疑いえない知識の根拠を探り、思考している自分の存在を確かな出発点としました。近代哲学の自己意識論を考えるうえで欠かせない人物です。サルトルも意識の確かさを重視しますが、その仕組みを反省以前の経験から捉えます。

自分について「私は考えている」と言葉にする以前に、考える経験はすでに進んでいます。サルトルはこの関係を重視し、意識の存在と、意識を持つ「私」という像を区別しました。自分を対象として捉えた言葉は、経験の一部を整理する一つの仕方なのです。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

自画像のように自分を固定すると何が起こるか

過去の写真を見て「これが私だ」と感じるとき、写真はある瞬間の姿を確かに伝えます。現在の自分は写真を見つめる側にもいて、撮られた時点からの時間を経験しています。写真に映る特徴を認めながら、その画像に収まり切らない経験を生きているのです。

サルトルの意識論では、このずれが特別な例外としてではなく、人間が自己に関わる基本的な構造として現れます。自己を知ることは、固定した性格の一覧を完成させることと重なりません。自分を見つめ直す働きのなかには、いまの姿を越えて次の行為へ向かう余地があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|本来性・真正性)

人間は状況のなかで自由なのか

生まれた場所や過去を選べない事実

生まれた時代、家族、身体の特徴、過去に起きた出来事などを、人は後から自由に選び直せません。サルトルはこうした所与の条件を、自由を考える際の「事実性」と呼びます。すでに起きたことや現在の環境には、自分が望むだけでは変えられない部分があります。

こうした条件に囲まれている人が、それでも自分の未来を思い描けるのはなぜか。サルトルは、事実性を引き受けた人が、そこからどう行動するかを構想する働きに自由を見いだします。自由は世界から離れた真空の中で働く力ではなく、具体的な生活の場面を通して現れます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

事実性と超越はどう関わるのか

今住んでいる町や働いている職場は、生活の現実です。同時に人は、これから学ぶことや別の人との関係、将来の行為を考えます。サルトルは意識が現在の事実を越えて可能性へ向かう働きを「超越」と呼びました。ここでの超越は、宗教的な別世界への移動を意味する言葉ではありません。

事実性と超越は、人間が生きるなかで同時に現れます。過去の出来事を消すことはできなくても、その出来事をどう受け止め、次に何をするかは新たに問われます。この組み合わせが、後に自己欺瞞の分析で中心的な役割を果たします。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

障害物は目標によって違う意味を持つ

山道に大きな岩があるとします。頂上へ急ぐ登山者にとっては進路をふさぐ障害物になるかもしれません。岩を観察したい地質学者には研究対象となり、腰を下ろしたい人には休憩場所になるかもしれません。岩の物理的な特徴は共通していますが、そこに見いだされる意味は行動の目標によって変わります。

サルトルの状況論では、物の抵抗や社会の制約が、目的に向かう人の行為のなかで具体的な意味を帯びます。目標があるからこそ、ある条件が障害として見えてきます。その見方は、制約が本当に存在することを認めながら、自由と現実の関係を考えようとするものでした。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

自由に選べることと実現できること

望む仕事へ応募しても採用されるとは限りません。身体の状態や差別的な制度、必要な資金の不足も、行為の結果を左右します。ここで、目標を持って行動を始める自由と、望んだ結果を実現する力を区別する必要があります。

サルトルは『存在と無』で、行為者が目的や動機を組み立てる自由を考えました。この自由を、何でも思い通りにできる能力と同一視すると、彼の議論の焦点が見えなくなります。何を可能性として捉え、どの行動を始めるかが、具体的な状況のなかで問われているのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

選ぶことが怖くなるのはなぜか

高い場所で感じる恐怖と不安

崖の縁に立つと、足を滑らせて落ちることが怖くなります。これは危険な場所への恐怖として理解できます。サルトルが注目したのは、危険を避けられるはずの自分が、何をするかを自分で決めなければならないという不安です。外部の危険と、自分の行動の可能性への気づきは異なる経験です。

ここでは人間の意識が、目の前の状況から一定の距離を保てるという考えが働いています。行動の道筋が機械的に一本へ決まっていないからこそ、人は自分がどう振る舞うかを気にかけます。不安は、自由を認識する経験として分析されました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

もう賭けないと決めた人の翌日

サルトルは『存在と無』で、以前に賭博をやめようと決意した人物が、後になって再び誘惑に直面する例を扱います。昨日の決意を覚えていても、今日の自分がどう行動するかを決める作業は残ります。過去の約束そのものが、現在の手を自動的に止めるわけではありません。

この場面で現れるのは、自分の決意と将来の行為を結ぶ確実な鎖がないという不安です。サルトルは、人が新しい場面で再び選択を引き受けるという構造に注目します。以前に誠実だったという事実も、次の行動を考えるときには、生きた決断として引き受け直されます。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

なぜ人は自分の決断を他人へ預けたくなるか

難しい判断をするとき、「決まりだから」「みんながそうするから」という理由に安心することがあります。規則や助言は生活に役立ち、集団で働く際には不可欠です。そこでなお、規則に従うと決める自分の関わりがどこまで残るかという疑問が生まれます。

サルトルは、人が自分の自由を他者や役割に預け切ろうとする態度を、後に自己欺瞞として説明します。決断の責任を軽く感じたい気持ちには、自由を経験することの負担が表れています。不安は欠点というより、自分の可能性を自覚したときに生まれる根本的な経験だと考えられました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|本来性・真正性)

自由は喜びだけを意味するのか

希望する進路を選べることは喜びにもなります。その選択によって別の道が遠ざかり、失敗の可能性を引き受ける必要も生まれます。サルトルの自由論は、この明るさと重さの両方を扱います。自分で何かを始められることは、未来に何が起きるかを完全に知っていることとは違います。

彼が語る自由の「刑」という表現は、選択から離れた安全な場所が人間には用意されていないという意味で読まれます。世界をどう見るか、何を目指すかという決断を避けようとする態度も、具体的な行動の一つです。この厳しい自由観が、戦後の実存主義を特徴づけました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

カフェの給仕はなぜ「給仕らしく」振る舞うのか

身振りの行き届いた給仕という原著の例

『存在と無』には、カフェの給仕が登場します。歩き方、客への応対、注文の受け方がいかにも給仕らしく整えられ、その身振りはどこか大げさです。彼は仕事の手順をこなしていると同時に、「給仕である自分」という役割を演じているように見えます。

サルトルが問うのは、なぜ人が職業の姿へ自分をぴったり重ねようとするのかという問題です。給仕には実際の仕事と責任があります。それでも、一人の人間は勤務時間の外で考えたり、別の仕事を望んだり、今の役割について迷ったりできます。「給仕らしさ」という形に自分を収めたい態度は、そうした余地を忘れさせます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

自己欺瞞は単なる嘘とどう違うか

相手を欺くときには、嘘を話す人と、それを信じる人が区別されます。サルトルは自分自身を欺く「自己欺瞞」を、この構図とは異なる問題として考えました。「自分は決められた役割をこなすだけだ」と言いながら、その役割を引き受ける行為を続けている人は、自分の自由について何を知っているのでしょうか。

自己欺瞞では、人はある面では自分の可能性を理解しながら、その可能性を覆い隠すように振る舞います。職場の役割や過去の肩書きが、自分の全部であるかのように扱われます。意識が自分から距離を取れるという性格を、サルトルは自己理解がねじれる条件として分析しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

事実性だけに身を預ける場合

「私は昔からこういう性格だから、ほかのやり方はできない」と言い切ると、自分の行動が性格によって一度で決まっているように感じられます。過去に同じ失敗を重ねてきたとしても、次の場面で行動をどう組み立てるかという問いは残ります。

サルトルの用語では、これは事実性へ過度に身を預ける方向の自己欺瞞として考えられます。これまでの経歴や性格を無視する必要はありません。人は過去を持ちながら、その過去にどう関わるかという可能性も生きています。両方を含む存在を、一つの固定した説明へ縮めるところに自己欺瞞の問題があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|本来性・真正性)

可能性だけに逃げる場合

逆の場面として、約束を破り続ける人が「本当の私は約束を大切にする人だ」と自分を説明することがあります。心の中の理想は大切でも、実際に何度も起きた行為から目をそらせば、周囲の人への影響が見えにくくなります。未来の可能性だけを語り、現在の事実を引き受けない態度です。

サルトルの分析では、人間には事実性と超越の両方が含まれます。固定した過去だけで自分を説明する態度も、現実の行動から離れた理想だけで自分を説明する態度も、自己の複雑さを隠します。自己欺瞞を理解することで、誠実であるとは何かという次の倫理的な問いが生じます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

「本当の自分」はどのように生きられるのか

役割を担うことと役割になること

親として子どもの世話をする、教師として授業をする、友人として約束を守る。人は多くの役割を通じて生活します。役割には期待される行動があり、互いに信頼するための規範もあります。サルトルの給仕の例は、役割そのものを軽んじる議論として読むと意味を見失います。

問題は、役割を果たしている人が、その役割と自分の存在を完全に同一視しようとすることです。自分で引き受けるという面を忘れると、なぜその行為を続けるのかを問い直しにくくなります。仕事への責任と、仕事について考える自由は、日常生活のなかで同時に働いています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

誠実さを誇ることにも潜む問題

「私は絶対に誠実な人間だ」と強く言うとき、その言葉は自分の過去の行動を一つの性質にまとめます。これからも誠実であろうとするには、次の約束や困難な判断で行動し続ける必要があります。過去の評価と未来の実践のあいだには距離があります。

サルトルは、自己欺瞞をやめることが単純に「完全に正直な自己像」を持つことだと考えるのも難しいと見ていました。人間が自分と完全に一致しない存在である以上、固定した自己像を完成させる努力そのものに問題が残ります。この点が、後の本来性をめぐる議論へつながっていきます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|本来性・真正性)

本来性という言葉はどこまで言えるか

日常語の「自分らしく生きる」は、好みに従うことや他人の期待から離れることを指す場合があります。哲学では、自己の自由と事実性をどのように引き受けるかという深い問題になります。ハイデガー以来、「本来性」という言葉は人が自分の可能性へ向き合う態度を表してきました。

サルトルの1943年の著作は自己欺瞞を詳細に分析しましたが、本来性の倫理を体系的に完成させたわけではありません。彼はその後も倫理について考え、戦後の草稿で議論を広げます。『存在と無』を読むときには、すでに示された自己欺瞞の分析と、残された倫理の問題を分けて理解することができます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|本来性・真正性)

自分の性格についての言葉をどう使うか

「私は内向的だから人前で話せない」と考える人がいるとします。これまでの経験がその人にとって重い事実であることは確かです。発言する機会を避けるか、小さな集まりで試してみるかは、その事実との関わり方の違いです。

サルトルの観点から見ると、性格を表す言葉は過去の傾向を理解するために役立ちます。その言葉を将来を閉ざす判決のように使い始めると、自分の可能性を狭く捉えることになります。日常的な自己紹介の中にも、人間の自由をどう理解するかという哲学の問題が含まれているのです。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

フロイトの無意識をめぐるサルトルの異論

精神分析は欲望をどう説明したか

19世紀末から20世紀前半のウィーンで活動した医師ジークムント・フロイト(1856–1939)は、夢や症状、言い間違いなどを手がかりに、人の意識に現れにくい欲望や葛藤を調べました。精神分析は、自分で説明できない行動の背景を探る方法として、ヨーロッパの思想や芸術へ大きな影響を与えます。

サルトルも人が自分の欲望を十分に理解していないことを認めていました。そのうえで、自己欺瞞を無意識の別の装置によって説明することに疑問を持ちます。誰が何を知り、何を隠しているのかという問題を、意識の働きそのものから考え直そうとしたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

検閲する心は何を知っているのか

フロイトの初期の心の模型では、意識に現れると苦痛を伴う内容が抑圧され、心の検閲のような働きがその表出を妨げると説明されます。サルトルはそこで、検閲が何を隠すべきか判断するには、その内容をある仕方で知っている必要があるのではないかと問います。

彼の批判は、自己を欺く問題を心の内部にある複数の機関へ分けても、知ることと隠すことの関係が残るというものでした。意識が自分を欺くという現象を、最初から意識の構造として説明する必要があると考えたのです。精神分析へのこの反論自体も、後の研究で妥当性が検討されてきました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

自己を隠す意識という難題

友人への嫉妬を感じながら「私は気にしていない」と言い続ける人を想像してみます。本人は本当に平静だと思いたいのかもしれません。自分の感情を言葉にできなくても、相手の話題を避けるなどの行動には、その感情への複雑な関わりが表れます。

サルトルが調べたのは、人があることを経験しながら、それを自分の行動の理由として認めることから逃げる仕組みです。誰かが頭の中で別の誰かをだましているという図式より、意識が自分の事実と可能性を行き来する姿が重視されます。自己理解を問う哲学と心理学が交わる問題です。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

実存的精神分析は何を探るのか

サルトルは『存在と無』の後半で、「実存的精神分析」という方法を構想します。人の行動や好みをばらばらの症状として列挙する代わりに、その人が世界や自分とどのような関係を結ぼうとしているのかを読み解こうとするものです。個々の選択に通底する基本的な企てを探ります。

例えば同じ職業を選ぶ人でも、安定を求める人、他者に認められたい人、特定の問題を解決したい人では、行為の意味が異なります。サルトルは人を外側から固定した性格の種類に分類することを越え、その人の生活全体を貫く価値と企てを理解しようとしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

なぜ他人の視線が急に気になるのか

鍵穴をのぞく人と足音

『存在と無』には、ある人が扉の鍵穴から中をのぞく場面があります。その人は中の出来事に夢中で、自分がどう見えるかを考えていません。ところが背後で足音がすると、突然、誰かに見られているかもしれないと感じ、恥ずかしくなります。

この変化は、実際に誰かが叱ったことから生じるわけではありません。自分の行動が他者の目にさらされ、評価されうるものとして立ち現れます。自分が行為する主体であると同時に、他人から見られる存在でもあることを、サルトルは恥の経験から説明しました。(参照:ラウトレッジ|『存在と無』校訂英訳版の紹介と原典の主要論点)

自分の知らない自分が現れる

会話の途中で誰かに撮られた写真を見ると、自分が思っていた表情と写っている顔が違うことがあります。他人は、自分が気づいていなかった振る舞いや癖を見ることができます。その評価に触れたとき、自分はその人の世界で何者になっているのかという問いが生まれます。

サルトルが「対他存在」と呼んだのは、人が他者の視線のもとで存在するという側面です。自分が描く自己像と、他人にとっての自分は完全に重なるとは限りません。そのずれは不安や恥を生み、他者との関係を自由の問題へ結びつけます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

他者はどうして単なる物と違うのか

向かいのベンチに人が座っているとき、その人の服装や姿勢は見えます。同時に、その人も周囲を見て、何かを望み、自分について判断する可能性があります。こちらの視線から世界を捉えるだけでは、その人の経験のすべてを知ることはできません。

サルトルは、他者をもう一つの物体のように説明しようとする試みを批判しました。相手は自分の世界を持つ主体であり、その主体の視線にさらされると自分も対象になる。この相互性を出発点にすることで、他者が存在することを理論上どう確かめるかという哲学の難題へ向き合いました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

まなざしは目線の動きだけを意味するか

誰かがこちらを見ていると気づく瞬間は、視線の動きとして描きやすい経験です。そこでサルトルが論じた「まなざし」は、眼球の動きだけに収まるものではありません。他者の判断を受けうる立場へ自分が置かれることが、問題の核心にあります。

誰もいないと思っていた場所で録画中の装置に気づく場合にも、自分の行為が見られるものへ変わった感覚が生まれます。これは現代の理解補助となる例です。サルトルの原著では足音や鍵穴の場面を通じ、他者にとっての自分が現れる経験を詳しく調べました。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

他者と生きることは衝突ばかりなのか

他人に決められた自分への抵抗

ある人から「あなたは怠け者だ」と断定されたとします。その評価を受けると、相手が自分の一部分を固定した像として見ているように感じるでしょう。反論したり、努力を見せたり、距離を置いたりする行動には、他者に定義された自分を変えようとする意図が含まれます。

サルトルは、他人の自由な判断にさらされることが、自分の自由に緊張を生むと考えました。他人に認められたいという願いと、自分のあり方を他人に決められたくないという思いは、同じ関係の中で交差します。その複雑さが対他存在の分析を広げます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

ヘーゲルの承認論とのつながり

19世紀初頭のドイツで活動した哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831)は、人が自己意識を確立するうえで他者による承認が重要だと論じました。『精神現象学』では、主人と奴隷の関係を通して、互いを認め合おうとする意識の闘争が描かれます。

サルトルはこの伝統を受け継ぎながら、他者との関係に生じる緊張を強く分析しました。自分が相手を対象として理解しようとすれば、相手も自分を対象として見ることができます。二人とも自由な主体であるという条件が、支配や依存、承認をめぐる問題を生むのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

愛情と支配が入り組むとき

誰かに愛してほしいと願うとき、相手が自由な意思で自分を選ぶことが大切だと感じられます。相手の判断を完全に支配できれば、望んでいた愛情の意味も変わってしまいます。相手の自由を求めながら、その自由に不安を覚えるという矛盾が生じます。

『存在と無』の具体的な対人関係の分析では、愛や欲望、他者を所有したい衝動が取り上げられます。サルトルは、人が相手の自由から承認を得ようとする試みの難しさを描きました。愛情を単純に美化せず、相手を自由な存在として受け止めることの難題を正面から扱っています。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

『出口なし』の有名な言葉の背景

1944年に初演されたサルトルの戯曲『出口なし』では、閉ざされた部屋に置かれた登場人物たちが、互いのまなざしと評価から逃れられなくなります。「地獄とは他人のことだ」という有名な言葉は、この劇の終盤に現れます。

戯曲の台詞は1943年の『存在と無』にそのまま書かれたものではありません。両作品は、自分の姿が他者の判断にさらされることを共通の問題として扱います。日常生活には協力や友情もあります。サルトルの初期の分析は、とりわけ他者と自由の衝突がどのように起きるかを鋭く描いたものでした。(参照:フランス国立図書館|『出口なし』1944年初演)

身体をもつ人間はどう自由なのか

自分の身体を生きる経験

階段を上るときには、足の動きや息づかいを細かく考えずに進むことがあります。疲れて立ち止まると、今まで背景にあった身体の感覚が前面に出ます。身体は外から観察される物体であると同時に、世界へ働きかける生活そのものの場でもあります。

サルトルは『存在と無』の後半で、身体の存在を他者との関係や行為とともに論じました。身体を持つことは、自由な意識が世界から離れて浮かんでいるという考えとは異なります。人は身体を通して空間を動き、物の抵抗を感じ、人と出会います。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

疲れをどう受け止めるかという原著の場面

サルトルは、山歩きで疲れて足を止める人の例を使います。同じ疲労を感じても、景色を楽しむことに気持ちを向け続ける人と、疲労を強く意識して休む人がいます。身体の状態が行為のなかでどんな意味を持つかは、その人の目的や状況と関わります。

この例で考えたいのは、疲れているという事実を自由な意思で消せるかどうかではありません。身体が経験する疲労が、いつ、どのように休む理由として現れるのかという問題です。サルトルは目的と動機を結ぶ意識の働きに注目し、自由を身体的な状況のなかで理解しようとしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

他人から見られる身体

一人で歩くとき、身体は行動するための自然な手段として働きます。人前で転んだときには、自分がどう見えているかを急に気にするかもしれません。自分が生きている身体と、他人に見られる身体が違う仕方で経験されます。

サルトルはこの違いを、対自存在と対他存在の問題に結びつけました。他者は、自分が体験している身体を外側から見て、名前を付け、評価します。身体についての他者の知識を受け取ることは、自分の経験を豊かにもします。その知識に自分が固定される不安も、まなざしの分析とつながります。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

身体と自由をめぐる残された問題

怪我をした人が希望する動きを実現できないことや、社会がある身体のあり方を不利に扱うことは、行為の可能性に具体的な違いをつくります。自由を論じるときには、こうした条件が誰にどう働いているかを考える必要があります。

サルトルは身体を状況の一部として分析しました。その議論は後にメルロ=ポンティの知覚と身体の哲学や、ボーヴォワールによる女性の身体をめぐる研究と比較されてきました。意識の自由と身体的・社会的な制約をどう結びつけるかは、現代にも続く哲学上の論点です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|モーリス・メルロ=ポンティ)

過去があるのに未来へ向かえるのはなぜか

過去の出来事は消せるか

数年前の失敗や約束を思い出すと、当時に起きた出来事そのものを変えることはできません。過去に生じた損害には責任を持つ必要があります。そのうえで、出来事をどう理解し、その後の行為へどう結びつけるかという課題は現在の自分に残ります。

サルトルは、人間が過去という事実性を持ちながら、未来の可能性へ向かう存在だと考えました。過去を認めることと、過去だけで今後の生き方を決めることは違います。この差が、人間が時間の中で自分を形づくる仕組みを説明します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

未来の計画が現在を変える

資格試験の勉強を始めると、昨日まで何となく過ごしていた夕方の時間に新しい意味が生まれます。時間割を組み、読む本を選び、友人との予定を変えるかもしれません。まだ起きていない合格や進路の可能性が、現在の行動を方向づけています。

サルトルはこの未来へ向かう構造を、人間の基本的なあり方と結びつけました。未来はすでに完成した出来事ではありません。目的として思い描かれたものが、現在の状況をどのように理解するかを変えるのです。将来を考えられる意識の働きは、無と否定をめぐる議論ともつながっています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

今の自分を定義する言葉の時間

「私は教師だ」という発言には、今の職業という事実があります。同時に、授業の準備をすること、学生との関係を築くこと、働き方を変えることなど、時間の流れのなかで生じる行為も含まれます。人の生き方は、名札のように一度で完成するものとして経験されません。

『存在と無』では、人間が過去・現在・未来にまたがって生きることが、自己と完全に一致しない意識の構造として説明されます。過去の自分に対して「もうそうではない」と言えること、現在の自分に対して「これからこうなる」と望めることが、自由を時間と結びつけます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

ハイデガーの時間論との違い

ハイデガーは『存在と時間』で、人が死という有限な可能性に向き合い、未来・既往・現在を結びつけて生きる時間性を論じました。サルトルはこの問題を受け取りながら、過去の事実から距離を取り、未来の可能性へ向かう意識の働きを強調します。

両者にとって人間の存在を一瞬の固定した状態として説明することには限界があります。ハイデガーは存在の意味を問い直す時間の構造を、サルトルは意識の否定と自由が働く時間の構造を、異なる仕方で探究しました。この比較から、実存主義の内部にも複数の道筋があることが分かります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

行動する理由はどこから生まれるのか

現状への不満だけで変化は始まるか

労働条件が厳しい職場にいる人は、疲労や低い賃金を経験するでしょう。ある人は転職を考え、別の人は同僚と条件の改善を求め、別の人はその職場を続ける理由を見いだすかもしれません。同じ不満が、そのまま一つの行動を決めるとは限りません。

サルトルは『存在と無』で、労働者が現状を変えようとする場合を取り上げました。状況を「こうであってほしい状態」と比べるとき、現実は変えるべき不足として現れます。その不足の意味を持つ未来の可能性が、行為の動機と結びつきます。現状を見ることと目標を持つことの関係を問う議論です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

動機と目的はどう結びつくのか

雨で濡れている道を見たとき、散歩を中止する人もいれば、傘を持って出かける人もいます。雨という事実が何をする理由になるかは、その人の予定や目的によって異なります。「濡れたくない」「今日こそ歩きたい」という目的が、雨の意味を変えるのです。

サルトルは、原因が身体を動かすように動機が人間を動かすという説明を問い直しました。目的を思い描く意識が、現在の事実を行為の理由として理解します。こうして行動の説明は、過去の原因を探すことに加え、その人が何を実現しようとしているかという問いを含むようになります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

計画は言葉になる前から働く

急いで駅に向かうとき、歩く速さや道順は、電車に乗りたいという目的によってまとまっています。人はその都度「今、右足を出す理由は」と考えません。それでも動作は一つの計画へ向かって組織されています。目的は、明確な文章にした決意より広く、行為の進め方に表れます。

サルトルが「投企」と呼ぶ未来への向かい方は、このように生活の行動全体を方向づけるものです。自分の選択を常に言葉で説明できることを自由の条件にしていません。実際の行為をたどると、その人が何を価値あるものと見ていたかが分かるという考えにつながります。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

責任は心の中の意図だけで足りるか

誰かを助けたいと強く願っていても、声をかけることも手を貸すこともしなければ、相手の状況は変わらないかもしれません。逆に不器用な行動でも、現実に支援が届けば、願いは具体的な力を持ちます。意図と行動の関係は、道徳の評価に深く関わります。

サルトルにとって自由は、状況のなかで目標を立て、実際に何かを行うことを通じて現れます。想像したことを実行する過程には、物や他者の抵抗も伴います。何を考えたかとともに、何をしたかが人間の生き方を形づくります。この点は、戦後の政治参加や文学者の責任をめぐる彼の主張へつながっていきます。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの政治哲学)

価値や目的は誰が決めるのか

人生の意味を先に決める設計図

椅子には座るためという用途があり、楽器には音を奏でるためという役割があります。使い手が別の使い方を発見することもありますが、設計者は製作時にある目的を思い描いているでしょう。では、人間の人生にも、それと同じ仕方で先に決められた用途があるのでしょうか。

サルトルは、この問いを人間の存在と自由の関係として考えました。人が自分の生涯で何を大切にするかは、完成した物の説明書を読むようには決まりません。家族や社会から教わる価値を受け取り、問い直し、行為に結びつける過程で、自分の生きる方向が具体化します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

神を前提としない価値の問題

宗教的な世界観では、神の意志や人間の召命によって生の目的を理解する伝統があります。サルトルが自ら位置づけた無神論的な実存主義は、そうした超越的な設計者を根拠とせず、人が価値を見いだす働きに注目しました。

この立場では、何が大切なのかを決める仕事が人間のもとへ戻ってきます。どんな行為を選び、誰に影響が及ぶかを自分の問題として引き受けることが求められます。価値の根拠についての問いが、自由と責任を結びつけます。自由には判断の重みと、選択の結果を知ろうとする姿勢が伴います。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

選択を続けることで形成される自分

画家を志した人が毎日描き続けるとき、作品を制作する時間が生活の中心になります。描くことが楽しくても難しくても、制作を続け、別の人に見せ、修正する行為が、その人を画家として形づくります。最初に思い描いた「画家という自分」の姿と、実際の制作を経た姿は少しずつ変わるでしょう。

サルトルの考えでは、人間の生き方を理解するには、こうした具体的な行動に目を向けることが必要です。自分の内側にすでに完成した性質を発見するというより、状況の中で選んだことが意味を持ち、その人のあり方をつくっていきます。将来の目的が現在の努力を方向づけることも、その一部です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

他人と共有する価値をどう考えるか

約束を守ることや暴力を避けることは、個人の好みを越えて社会で重視されてきました。サルトルの無神論的な自由論を読むと、共通の規範を何によって正当化できるのかという疑問が生まれます。人が自分の価値を選ぶという説明から、他者の権利を尊重する義務はどう導かれるのでしょうか。

『存在と無』は、価値が人間の企てと深く関わることを示しました。そこから誰もが同意できる倫理規則を体系的に確立したわけではありません。サルトル自身も倫理の問題を残し、戦後にはボーヴォワールらが他者の自由をどう尊重するかを深く検討します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|本来性・真正性)

自由と責任はどこまで広がるのか

自分の人生を引き受けるという主張

サルトルは人間を、置かれた状況について意味を与え、可能性を選ぶ存在として考えました。そこから、選んだ行為の責任を誰かにすべて預けることの難しさが生まれます。自分の選択が現実の人々に及ぼす影響を見つめることが、自由を論じる際の重要な課題になります。

彼が語る責任は、選択に関与する自由の構造から導かれています。自分が何を望むか、どう行動するかを問い直せるからこそ、その行為について説明を求められるのです。生活を規定する制度や事故の原因まで個人がつくったという意味へ、この議論を広げると論点が混乱します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

選択が他人へ届くとき

友人との約束を破れば、自分にとって予定が楽になっても、相手の時間を失わせるかもしれません。仕事場で危険な手順を見過ごせば、同僚の安全へ影響します。何を選ぶかは個人の自由に関わり、その結果は共に暮らす人々の生活へ広がっていきます。

サルトルは戦後の講演で、自分の行為が人間とはどのように生きるものかという像にも関わると説明しました。自由の選択を語るときに、自己の内面だけを考えれば済むのかという問いがここから生じます。相手の自由と自分の責任を同時に考える必要が現れるのです。(参照:ニューヨーク大学出版局・JSTOR|『実存主義とはヒューマニズムである』の講演)

迫害された人の責任をどう捉えるか

差別的な制度のもとで暮らす人は、教育、仕事、住む場所を選ぶ機会を強く制限されることがあります。1930年代から1940年代のヨーロッパでは、反ユダヤ主義政策が法的な身分や生命を奪う暴力として実行されました。こうした歴史を考えると、自由が人間の存在に属するという主張を、政治的な力の不均衡と併せて検討する必要があります。

選択の可能性を持つという哲学上の考えと、実際に安全な選択肢へアクセスできるという社会的条件は区別されます。サルトルの初期の自由論は大きな議論を呼び、後年のサルトル自身も植民地支配や階級、歴史的な抑圧の問題を深めていきました。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの政治哲学)

自由の重さを倫理へつなげる課題

苦しい状況で何かを決める人を見たとき、外側から「選んだのだからすべて自己責任だ」と評価することには危険があります。必要な情報、周囲の支援、暴力による脅迫の有無によって、実際に取りうる行為は大きく変わります。

サルトルの著作が提起したのは、行為を人間の外部にある決定因だけで説明できるかという問題でした。その主張を政治や倫理へ発展させるには、自由を生きる具体的な条件を検討する作業が必要です。後の思想家が彼の議論を受け継ぎ、批判し、修正した中心的な争点の一つでした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

自由について語ることは政治的行動になるか

思想の自由と占領期の実践

1943年のパリで自由について考えることは、実際の危険と隣り合っていました。学校や出版、劇場を通して言葉が伝わる場所は残されていましたが、占領当局の検閲と取り締まりがありました。文学者や哲学者は、公開の言葉を選ぶことに具体的な責任を負う状況に置かれていました。

サルトルは戦前から自由や意識を研究し、戦争を経験した後には知識人の社会参加をいっそう強く問うようになります。存在論としての自由は、そのまま抵抗活動の記録にはなりません。思想をどのように行動へつなげるかという問題が、戦時から戦後にかけて新たな重みを帯びました。(参照:フランス国立図書館|戦時中のサルトルと教育・執筆)

『蠅』が描く罪悪感と統治

サルトルの戯曲『蠅』は1943年6月にパリで初演されました。古代ギリシアのアトレウス家の伝説をもとに、住民が罪を思い続ける都市アルゴスを舞台にします。主人公オレステスが自分の行為を引き受ける姿が、悔恨を利用する支配への対抗として表れます。

占領下の観客がこの物語をどう読んだかには幅がありました。政治的な暗示を見いだした人もいれば、難解な神話劇として受け取った批評家もいました。サルトルは、自由を哲学の議論として書くことに加え、登場人物の葛藤として舞台上へ示しました。(参照:フランス国立図書館|戯曲『蠅』1943年初演)

検閲下で上演できた理由を考える

占領期の劇場では、作品を上演するには規制や審査を通過する必要がありました。『蠅』は1943年に上演され、その政治的な意味を当時のすべての観客や当局者が同じように理解したわけではありません。後から抵抗の象徴として読まれた作品の当時の受容は、史料によって丁寧に確かめる必要があります。

演劇史の研究では、上演を許可した制度、新聞の批評、作者の記憶、戦後の再評価を分けて検討しています。サルトルの哲学を時代背景と結びつける際にも、作品の内容と政治的行為の記録を区別することが、実際の歴史を理解するために重要です。(参照:Persée学術論文|占領期のサルトル演劇と検閲)

戦後の「参加する作家」という考え

フランスの解放後、サルトルは文章を書くことを社会への関与と結びつけ、「アンガージュマン」と呼ばれる作家の参加を積極的に論じました。社会に何が起きているかを言葉で示し、読者の判断と行動へ訴えかける仕事を重視したのです。

1945年創刊の雑誌『レ・タン・モデルヌ』は、哲学、文学、社会批評を結びつける場所になりました。そこで展開された政治的な立場は『存在と無』の自由論とつながりながら、戦後の新しい状況で具体化していきます。1943年の存在論と戦後の社会参加を時代順に読むと、思想が歴史の中で変わる過程が見えてきます。(参照:フランス国立図書館|雑誌『レ・タン・モデルヌ』の創刊)

ボーヴォワールは自由をどう捉え直したか

同時代の独立した哲学者ボーヴォワール

シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908–1986)はパリで哲学を学び、1929年にサルトルと知り合ったフランスの哲学者・作家です。教育に携わりながら、個人の自由、他者との関係、社会の規範について独自に考察しました。二人は長く対話し、それぞれの著作で共通する問題に取り組みます。

ボーヴォワールの思想はサルトルの哲学をただ応用したものとして理解するには収まりません。彼女は自身の経験、ヘーゲルやキルケゴールの読書、他者との関係を通して、自由を社会的な場に置いて考えました。この点で、サルトルの『存在と無』へ同時代から応答する重要な思想家です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

1943年の小説『招かれた女』

ボーヴォワールは1943年に最初の小説『招かれた女』を刊行しました。登場人物たちの愛情、嫉妬、自由、他者の存在をめぐる葛藤を描きます。自分の世界に他人が入り込むことで、これまで当然だった関係が不安定になるという経験が物語の中心です。

同じ1943年に出たサルトルの『存在と無』は、他者のまなざしや愛情を哲学的な概念で分析しました。両者の作品には同時代の対話と共通の問題意識が見られます。どちらか一方の思想を他方が借用したという単純な説明では、二人の執筆や思索の複雑な関係を捉えられません。(参照:スタンフォード哲学百科事典|シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

1947年『曖昧さの倫理学』が加えた問い

ボーヴォワールは1947年の『曖昧さの倫理学』で、人間の自由が他者と共同の世界を持つことと切り離せないと論じました。自分の目的を追う行動は、他人の生活を助けることも妨げることもあります。自分の自由を肯定するなら、他者の自由をどのように望み、守るべきかが問われます。

サルトルの初期の対人関係論が衝突を強調したのに対し、ボーヴォワールは互いの自由を支える倫理の可能性をさらに探究します。選択の重さを語る実存主義に、社会の中で何を正しい行為とするかという具体的な課題を加えました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

1949年『第二の性』と社会的な制約

1949年にボーヴォワールは『第二の性』を刊行し、女性の生き方が教育、慣習、法律、労働、家族制度によって形づくられてきた歴史を調べました。女性が自分の可能性を選ぶ際に、どのような社会的障壁があるかという問いが中心にあります。

ここで自由は、人間の意識の一般的な能力としてだけでなく、誰が機会を持ち、誰が他人の目的に従わされるかという現実の差異と結びつきます。ボーヴォワールの研究は、サルトルの自由論を読み直すための重要な視点になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

実存主義は一つの思想だったのか

キルケゴールの信仰と個人の選択

19世紀のデンマークで活動した思想家セーレン・キルケゴール(1813–1855)は、キリスト教的な信仰と個人の決断を深く考えました。社会の一般的な規範を知ることと、個人が自分の存在を懸けて選ぶことのあいだにある緊張を問題にします。

後の実存主義は、このように具体的な個人の生き方を哲学の中心に置いた先行者から多くを学びました。キルケゴールは信仰の問題から決断を考え、サルトルは無神論的な立場から人間の自由を論じます。同じ実存への関心が、異なる世界観へ結びつくことを示す比較です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

ニーチェが問うた価値の根拠

19世紀後半にドイツで活動した哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844–1900)は、キリスト教道徳や既成の価値観を問い直し、人が何を価値とするのかを歴史的・心理的に考えました。価値を外部から受け取るだけでなく、新たな価値を生み出す問題を強く打ち出します。

サルトルの無神論的な自由論は、神に保証された目的を前提としないという点で、ニーチェ以後の問いと関わっています。両者は方法や結論を同じくするわけではなく、人間が既成の意味に頼れなくなったときに何を根拠として生きるかという共通の難題に向き合いました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

カミュは不条理をどう描いたか

アルジェリア生まれでフランス語で執筆した作家・思想家アルベール・カミュ(1913–1960)は、1942年に小説『異邦人』と哲学的な随筆『シーシュポスの神話』を発表しました。人間が意味や秩序を求めることと、世界がその期待に明確な答えを返さないこととの隔たりを、「不条理」として考えます。

カミュはサルトルと同時代のパリの知的文化で交流しました。カミュ自身は「実存主義者」という分類を受け入れませんでした。世界に用意された最終的な意味を疑うという問題を共有しつつ、不条理へ反抗して生きるカミュと、意識の自由から行為を考えるサルトルには、それぞれ独自の議論があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

同じ名前に異なる答えが集まる理由

「実存主義」という呼び名は、20世紀半ばのフランスで広く使われました。ハイデガーの存在論、キルケゴールの信仰、サルトルの自由、カミュの不条理など、異なる思想が個人の生き方や有限性を考えたため、一つの傾向として語られることがあります。

哲学者の中にはその名称を自分の思想の説明として受け入れない人もいました。ハイデガーはサルトルの実存主義的な読みを批判しています。「実存主義」という言葉の広がりを理解するには、一つの短い標語へすべてをまとめるより、各人がどんな問いを立て、どんな根拠から答えたかを読むことが有効です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

戦後、人々はなぜ実存主義を読んだのか

1944年の解放と文化の再編

1944年8月、パリはドイツ軍の占領から解放されました。占領と協力、抵抗を経験した人々は、誰が何を行い、何を選べたのかを改めて考えることになります。出版や新聞、劇場の活動も、戦時の検閲から戦後の新しい政治的状況へ移りました。

サルトルの自由論はこの時代に注目され、学生や作家、一般の読者のあいだで議論されました。生の目的、責任、他者との関係を自分の問題として考える言葉が求められたのです。その人気と、著作の哲学的な複雑さは区別して理解する必要があります。(参照:フランス国立図書館|サルトルの生涯・年譜)

1945年の講演が与えた短い言葉

1945年10月、サルトルはパリで「実存主義とはヒューマニズムである」と題する講演を行いました。そこで人間はまず存在し、その後に自分が何者かを形づくると説きます。複雑な『存在と無』を読み通すことが難しい聴衆にも、議論の方向が伝わる形になりました。

講演では無神論、選択、責任が取り上げられ、共産主義者やキリスト教徒から寄せられていた批判にも応えました。1946年の刊行によってその言葉はさらに広まり、サルトルは実存主義の代表者として知られます。1943年の著作を読む際には、この後の公共的な説明との関係を意識すると理解が深まります。(参照:フランス国立図書館|『実存主義とは何か』の講演と刊行)

カフェ、書店、雑誌が広げた議論

戦後のパリでは、学生、作家、芸術家がカフェや書店を行き来し、哲学と文学の新しい議論が広まりました。サン=ジェルマン=デ=プレ地区は実存主義と結びつけて語られる場所になります。流行としての生活様式と、哲学書に書かれた理論とが同時に知られるようになりました。

『レ・タン・モデルヌ』は1945年に創刊され、哲学と現代社会への批評を結びつけます。雑誌にはボーヴォワールやメルロ=ポンティらも関わりました。思想が大学の授業と専門書を越え、政治、文学、読者の生活について考える場へ広がっていく過程が、戦後の実存主義の特徴です。(参照:フランス国立図書館|雑誌『レ・タン・モデルヌ』の創刊)

批判に応答して変わったサルトルの関心

実存主義には、人を孤独にし、行動を無意味と感じさせる思想ではないかという批判も向けられました。サルトルは講演で、自由は行為へ向かうものであり、自分の選択が人間のあり方に関わると説明しました。哲学を生活の実践と結びつける応答でした。

その後、サルトルは労働、階級、植民地支配、歴史の問題へ研究を広げます。初期の存在論を捨て去ったという単純な図式より、自由を具体的な政治と社会のなかで考える課題が増えていったと見ることができます。読者からの批判と歴史の変化が、思想の展開に関わりました。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの政治哲学)

自由の哲学にはどのような批判があるのか

メルロ=ポンティの身体と世界

メルロ=ポンティは1945年に『知覚の現象学』を刊行し、身体を通して世界を経験する人間のあり方を論じました。椅子に座る、道を歩く、人の声を聞くといった行為では、知覚と身体の習慣が深く結びついています。人が物を見る仕方には、長年の経験がすでに入り込んでいます。

サルトルの意識論とメルロ=ポンティの身体論は、同じ現象学の伝統から異なる問題を強調しています。自由を意識の否定や投企から考えるサルトルに対し、身体の能力や習慣、知覚世界に注目すると、自由がどのように具体的な生活へ根づくかという問いが深まります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|モーリス・メルロ=ポンティ)

自由を妨げる社会制度をどう考えるか

貧困や差別のために教育を受けられない人にとって、進学を望むことと実際に大学へ通えることの隔たりは大きくなります。意思の強さを評価するだけでは、学費や制度、労働時間といった条件を説明できません。自由の哲学を社会へ適用するには、可能性の格差を具体的に見る必要があります。

サルトルは『存在と無』で、状況の中で動機と目的が生まれることを論じました。後の議論では、階級、制度、歴史、他者の抑圧をどのように分析できるかが課題になります。自由を語る抽象的な言葉が、現実の力の違いを見失わないようにする批判が、実存主義を発展させていきました。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの政治哲学)

自己欺瞞は本当に一つの説明で足りるか

人が自分の感情を理解できない理由には、習慣、言葉にしにくい記憶、周囲からの圧力など、さまざまな条件が関わります。サルトルの自己欺瞞論は、自分で知っている事実を覆い隠す態度を鋭く捉えます。その説明をすべての心理現象へ適用できるかは、別の問いです。

フロイトの精神分析についても、サルトルの批判が理論のどの部分を正確に捉えているか、研究者による検討が続いています。哲学での「意識とは何か」という問いと、治療や実験によって検証される心理学の問いは互いに学ぶ関係にあります。自己理解の複雑さを保つことが議論の意義です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

他者との協力をどう説明するか

『存在と無』のまなざしの分析は、人が他者によって対象化される経験を鮮やかに説明しました。信頼できる相手と一緒に何かを作るときには、互いの自由が衝突するだけでなく、相手に任せることによって新しい行為が可能になります。友情や共同作業をどう理解するかは、重要な検討課題です。

ボーヴォワールの倫理学は、他者の自由を望むことを自分の自由と結びつけました。サルトル自身も後年、歴史的な集団行為や共同の実践を考えます。初期の他者論が浮き彫りにした緊張は、その後、協力と連帯を含む自由の理解へ議論を広げる出発点になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|シモーヌ・ド・ボーヴォワール)

人生には最初から意味があるのか

生まれたときに与えられるもの

人は生まれたときから言葉や制度、家族、他者の期待のある世界に入ります。その事実は自分で選んだものではありません。時代や社会によって、許される行動や得られる機会にも違いがあります。こうした条件を持って生きることが、サルトルのいう事実性です。

人生に意味があるかと問うときには、すでに自分を取り巻く歴史を知ることが欠かせません。人間に普遍的な役割を記した設計図が先にあり、そのとおりに生きれば完成するという考えをサルトルは問い直しました。与えられた条件は現実であり、その条件のもとで何を目指すかが開かれています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

日々の行動で変わる意味

誰かと親しくなるとき、初めからその関係のすべてが決まっていることはありません。何度も会い、困ったときに助け、誤解を解くといった行動によって、相手との関係に固有の意味が育ちます。同じように仕事や制作、学びも、続けるうちに当初とは違う価値を持つようになることがあります。

サルトルは、人間が未来の可能性を思い描き、その可能性に向かって行動することを存在の特徴として論じました。意味は自分の心の中で宣言するだけで完成するものではありません。誰に関わり、何を行い、その結果にどう向き合うかという生活のなかで具体的になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

誰かに決められた人生から何を学べるか

親や社会から進路を勧められることには、知識や経験を受け取る意味があります。人は他者の助けなしに生活を始めることができません。そこで、その助言をどのように引き受けるか、自分の希望や状況とどう照らし合わせるかという判断が残ります。

サルトルの自由論は、他者との関係を断つよう勧めるものとして読む必要はありません。人はすでに人々の中で生き、他者の目に映り、周囲の制度の影響を受けています。そのなかで自分の行為の理由を考えることが、外部から与えられた説明だけで生き方を完成させない道になります。(参照:インターネット哲学百科事典|サルトルの実存主義)

サルトルが示した具体的な答え

「人生には最初から意味があるのか」という問いに対し、サルトルの無神論的実存主義は、人間にあらかじめ完成した使命や本質が与えられているという考えを退けます。私たちはすでに特定の世界で生きており、その事実を引き受けながら未来の可能性を選び、実際の行動を通して自分の人生を形づくります。

その過程では、自由とともに不安が生まれ、他者の評価によって自分が揺らぐこともあります。自分の役割に隠れる自己欺瞞を問い直し、過去の事実と未来の可能性をともに見つめ、他者への影響を考えながら行動すること。サルトルが示したのは、人生の意味を受け取る人間から、意味を生きる行為の中でつくっていく人間へと視点を移す答えでした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|実存主義)

略年表|サルトルと実存主義の時代

  • 1596年|近代哲学の確実性を問い直したデカルトがフランスに生まれる
  • 1770年|承認をめぐる自己意識の議論を展開したヘーゲルが生まれる
  • 1813年|信仰と個人の決断を考えたキルケゴールがデンマークに生まれる
  • 1844年|既成の価値を問い直したニーチェがドイツに生まれる
  • 1856年|精神分析を発展させたフロイトが生まれる
  • 1859年|現象学を発展させたフッサールが生まれる
  • 1889年|ハイデガーがドイツに生まれる
  • 1905年|6月21日、サルトルがパリに生まれる
  • 1908年|1月9日、ボーヴォワールがパリに生まれる
  • 1927年|ハイデガーが『存在と時間』を刊行する
  • 1929年|サルトルが哲学教授資格試験に合格し、ボーヴォワールと知り合う
  • 1936年|サルトルが『自我の超越』などを発表し、ドイツ現象学の受容を進める
  • 1938年|サルトルの小説『嘔吐』が刊行される
  • 1939年|短編集『壁』が刊行される。9月、サルトルが軍に召集される
  • 1940年|ドイツ軍がパリを占領。サルトルが捕虜となる
  • 1941年|サルトルが収容所からパリへ戻り、教育と執筆を再開する
  • 1942年|カミュが『異邦人』『シーシュポスの神話』を刊行する
  • 1943年2月|フランスでドイツへの労働力徴用を制度化する義務的労働奉仕法が制定される
  • 1943年6月|サルトルの戯曲『蠅』がパリで初演される
  • 1943年|サルトル『存在と無』がガリマール社から刊行され、ボーヴォワール『招かれた女』も刊行される
  • 1944年5月|サルトルの戯曲『出口なし』がパリで初演される
  • 1944年8月|パリがドイツ軍占領から解放される
  • 1945年|メルロ=ポンティが『知覚の現象学』を刊行。雑誌『レ・タン・モデルヌ』が創刊される
  • 1945年10月|サルトルが「実存主義とはヒューマニズムである」を講演する
  • 1946年|サルトルの講演が『実存主義とはヒューマニズムである』として刊行される
  • 1947年|ボーヴォワールが『曖昧さの倫理学』を刊行する
  • 1949年|ボーヴォワールが『第二の性』を刊行する
  • 1960年|サルトルが『弁証法的理性批判』第1巻を刊行する
  • 1980年|4月15日、サルトルがパリで死去する
  • 1983年|サルトルの戦後の倫理学草稿『倫理学ノート』が死後刊行される

著作の刊行年と上演年はフランス国立図書館の書誌・年譜に基づき、戦時の出来事はパリ市の歴史資料と照合しています。(参照:フランス国立図書館|サルトルの生涯・年譜)

まとめ|人生の意味はどこから生まれるのか

1943年、ドイツ軍の占領下にあったパリで、ジャン=ポール・サルトルは『存在と無』を刊行しました。彼はフッサールの現象学とハイデガーの存在論を受け継ぎ、人間の意識が物とは異なる仕方で存在することを詳しく分析しました。物はそれとして存在しています。人間の意識は現在の状態を認めながら、そこに「まだないもの」を見いだし、未来の可能性へ向かうことができます。

カフェに友人ピエールがいないことを知る場面では、不在を経験できる意識の働きが問題になります。給仕が職業の役割へ自分を重ねる場面では、自分の自由から逃れる自己欺瞞が現れます。鍵穴をのぞいている人が足音に気づき、恥ずかしくなる場面では、他者の視線のもとで自分が対象になる経験が描かれます。いずれも身近な行為から、否定、自己意識、他者の存在という哲学上の問題へ進む議論です。

サルトルの自由は、願ったことを何でも実現できる力を意味しません。人には生まれた時代、身体、過去、制度という条件があります。そうした事実性のもとで、何を可能性として見いだし、どんな目標へ向かって行動するかが問われます。自分を過去の肩書きだけで説明したり、現実の行為から離れた理想だけで語ったりすると、人間の事実と可能性の両方が見えにくくなります。

この自由論は戦後に「実存は本質に先立つ」という言葉で広く知られました。1945年の講演と1946年の刊行が、1943年の哲学的な分析を広い聴衆へ届けました。同時代のボーヴォワールは他者の自由と社会的な抑圧を考え、メルロ=ポンティは身体を通した経験を深く論じ、実存主義の自由の問題を広げていきます。

「人生には最初から意味があるのか」という問いに、サルトルは、人間に完成済みの人生の設計図は与えられていないと答えます。生きる世界を自分だけで決められるわけでもありません。人は他者と歴史のなかに置かれながら、未来を思い描き、選び、行動し、その結果に向き合う存在です。人生の意味は、生きる前に受け取る答えとしてより、実際に生きる過程でつくられていくものとして理解されます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ジャン=ポール・サルトル)

参考資料・出典