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Philosophy

730–843

【美術と哲学】神や聖人の姿を描いてよいのか

ビザンティン帝国の聖像論争

西暦730年頃、地中海東部のローマ帝国は、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都としていました。後世「ビザンティン帝国」と呼ばれるこの国では、皇帝の宮廷が軍隊と官僚を通じて諸地域を統治し、都市の司教や修道院は礼拝、教育、救済、地域の信仰生活に関わっていました。教会の壁にはモザイクやフレスコ画があり、木の板に描かれたキリストや聖母、聖人の姿は祈りの場でも用いられていました。

七世紀から八世紀の帝国は、ペルシアとの戦争に続くアラブ勢力の拡大によって、シリア、エジプトなどの広い領土を失っていました。717〜718年には首都が攻囲され、帝国の防衛と宗教上の正統性が政治の大きな課題となります。キリスト教の聖書には神の像を造り拝むことへの戒めがあり、教会には画像へ祈りを向ける慣行も根づいていました。何を神聖なものとして扱うべきかが、皇帝と聖職者、信徒の間で争われます。

やがて730年頃から843年まで、キリストや聖人の画像を認める人々と、宗教的な礼拝から排除しようとする人々との対立が繰り返されました。争点は画像の好みや装飾方法に収まりません。「目に見えない神を描けるのか」「絵に敬意を表すとき、私たちは絵の具を拝んでいるのか」「人の姿をしたキリストをどう表すのか」。聖像論争は、像と実在の関係を問う哲学が、教会の空間と帝国の政治を動かした出来事でした。

八世紀の帝国では、誰が信仰と画像を決めていたのか

コンスタンティノープルの皇帝と、都市・地方の教会

コンスタンティノープルの皇帝は、軍の指揮、徴税と行政、宮廷の官職への任命を担いました。帝国内の都市では司教が聖堂の礼拝を主宰し、司祭が日々の典礼に従事します。首都の総主教は有力な聖職者として皇帝と接し、教会会議には各地の司教が出席して教えや規律を討議しました。皇帝は会議を召集し、決定を政治的に後押しできたため、教義の争いは帝国の統治とも密接につながっていました。

聖像をめぐる問題は、この仕組みの中で具体的な形を取りました。聖堂にどの画像を置くかは、祈る人の習慣と司教の判断に関わります。皇帝が望む宗教政策に従うかどうかは、任命される聖職者や修道院にも影響しました。聖像を認めるか否かという結論とともに、誰が聖書を解釈し、どの会議の決定に正統性があるのかが争われた理由は、こうした政治と教会の制度から理解できます。(参照:オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|ビザンティンのイコンと聖像論争)

戦争と領土の縮小が、帝国の秩序への不安を強めた

六世紀には地中海沿岸の広い領土を支配した東ローマ帝国も、七世紀には戦争による大きな変化を経験します。イスラームを信仰するアラブ諸勢力がシリアやエジプトへ進出し、皇帝の行政はそれらの地域を失いました。首都コンスタンティノープルも717〜718年にウマイヤ朝の軍勢に攻囲されます。帝国の人々にとって、神の加護と国家の運命を結びつけて考えることは現実的な関心でした。

聖像への祈りが神の怒りを招いたのではないかという考えが、政治的な危機と結びついた可能性は研究されています。原因を一つに決めるだけの史料は揃っていません。帝国の危機、聖書解釈、皇帝の統治、教会内部の対立が重なり、画像をめぐる問題が大きな政治課題になりました。宗教的な正しさを通じて国を守ろうとする考えが、画像の扱いにまで及ぶ時代だったのです。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章)

教会の壁、家の板絵、硬貨にあった人物の姿

ビザンティンの宗教画は、教会の壁を飾るモザイクやフレスコ画、手に持ち運べる板絵など、さまざまな形で制作されました。都市の大聖堂に訪れる人と、自宅で小さなイコンに向き合う人では、同じ人物像に接する場所が違います。修道院では典礼と共同生活が営まれ、壁画や板絵は祈りの空間に置かれました。人々が像へ近づき、敬意を表す行為には、画像が誰を指し示すのかという前提がありました。

画像は権力の表明にも使われました。皇帝ユスティニアノス2世(685〜695年、705〜711年に在位)は、七世紀末に発行した金貨へキリスト像を刻み、裏側に皇帝の姿を配しました。これは皇帝の権威とキリストとの関係を、公的に流通する小さな物体へ示した例です。聖像をめぐる問いは、宗教画の美しさを評価するだけでなく、画像に何を託し、どこで人々に見せるかという社会の問題にも及びました。(参照:イェール大学美術館|ユスティニアノス2世のキリスト像付き金貨/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|ビザンティンのイコンと聖像論争)

イコンは何を描き、人々はどう向き合ったのか

キリストと聖人の像は、見るためだけの物ではなかった

イコンはギリシア語で「像」を意味する言葉に由来します。キリスト、聖母マリア、天使、聖人、聖書の場面などを表し、木の板に描かれることも、壁のモザイクとして作られることもあります。信徒は像の前で頭を下げ、接吻し、灯火や香を捧げました。聖人へ助けを求め、その取り次ぎを祈る行為と結びつくこともありました。絵の具、金地、木材の表面が、見る人の宗教的な身ぶりを引き出す場所となっていたのです。

画像を見る経験には、写された人物を思い起こす働きがあります。遠くの家族の肖像に目を向けるとき、私たちは紙の表面とそこに表れた人を区別しながら、その人への気持ちを抱きます。この身近な経験を考えると、画像に向けた敬意はどこへ届くのかという問題が生まれます。聖像擁護派は、この像から描かれた人物へ気持ちが向かう関係を深く考え、聖像反対派は物体への礼拝とどう区別できるかを追及しました。(参照:メトロポリタン美術館|ビザンティンのイコンと聖像論争/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳)

シナイ半島に残る六世紀のキリスト像

エジプトのシナイ半島にある聖カタリナ修道院は、六世紀に皇帝ユスティニアヌス1世のもとで整備された修道院です。ここに伝わる《キリスト・パントクラトール》(全能者キリスト)のイコンは、六世紀の板絵の代表作です。温めた蝋を絵の具の結合材として用いるエンカウスティック技法で、キリストの顔、手、福音書が描かれています。目の前にいる一人の人物のような具体性と、儀礼に用いられる神聖な像としての性格が重なります。

シナイ半島は七世紀以降、イスラーム勢力の統治下に置かれ、帝国の中心部とは異なる環境で修道院が存続しました。そのことは古いイコンが多く伝わった背景の一つと考えられています。現存する作品は、八世紀の論争より前からキリストの姿が画像になっていたことを示します。画像を作る習慣の歴史と、それが礼拝にふさわしいかという議論の歴史には、長い重なりがあったのです。(参照:J・ポール・ゲティ美術館|展覧会「シナイの聖像」/スマートヒストリー|シナイ山・聖カタリナ修道院の建築と美術/メトロポリタン美術館|ビザンティンのイコンと聖像論争)

聖母子と聖人を描いた板絵は、人間の姿をどう示すか

同じ修道院には、玉座に座る聖母子の両側に、聖テオドロスと聖ゲオルギオスを配し、奥に天使を描いた六世紀のイコンもあります。聖母と幼子、二人の聖人は前を向き、画面には空間の奥行きも表されています。人物の正面性と近さ、宗教的な階層が、一つの画面に組み合わされています。描かれた人はすでにこの場にいないのに、像を見る人はその人物の存在を意識できます。

ここから、絵画の描写は顔の形や衣服の記録なのか、信仰の対象となる人物との関係を生み出すものなのかという問いが現れます。八世紀の論争は、この画像と人の関係を宗教上の正しさとして問うものでした。もとの人物に似せて描くことと、祈りの場に置くこと、そこで行われる礼拝とは、連続しながら別の判断を必要とします。具体的な作品を見れば、その判断の難しさを考えられます。(参照:スマートヒストリー|聖母子と聖テオドロス、聖ゲオルギオスのイコン/J・ポール・ゲティ美術館|展覧会「シナイの聖像」/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点)

「偶像を造ってはならない」という戒めをどう読むのか

聖書の戒めは、神の姿を造ることを禁じていた

ユダヤ教とキリスト教に受け継がれる『出エジプト記』第20章には、刻んだ像を造り、それにひれ伏して仕えることへの戒めがあります。神が人間の目には見えず、あらゆるものの創造者であるなら、人が造った木片や絵の具に神性を求めることは適切でしょうか。聖像反対派は、この戒めを重視し、目に見える物体に宗教的な行為を向けることが偶像崇拝へ近づくと考えました。

木に描かれた絵は、職人が色を塗り、時間とともに傷む物体です。聖人を敬うつもりの人が、その物体自体に特別な力があると考え始める場合、どこで祈りの対象が変わるのでしょうか。この問いは、何かを神聖だと認めるための根拠と、宗教的な身ぶりの意味をめぐるものです。画像の有無は、神という存在をどう理解し、人間の行為をどう評価するかへ直結していました。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|ビザンティンのイコンと聖像論争/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳)

画像を禁じる聖書と、造るよう命じる聖書の箇所

聖像擁護派は、聖書の中で神が画像や装飾の制作を命じる箇所にも注目しました。『出エジプト記』第25章には、契約の箱を飾る金のケルビム像の指示があります。聖書がすべての視覚的な表現を一律に排除しているなら、こうした場面をどう理解するのでしょうか。彼らは、何を描き、何のために置き、どう向き合うかによって、画像の宗教的な性格が変わると考えました。

二つの聖書箇所を比較すると、単に「画像は許されるか」という二者択一を越えた問題が見えてきます。神聖なものを表す手段と、神聖さそのものを混同する危険はどこにあるか。造られた物体が信仰を助けることと、物体へ神の位置を与えることをどう区別するか。聖像論争が哲学的に深いのは、同じ聖典を読みながら、像と実在の関係について異なる原理を導き出した点にあります。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/ダマスコのヨハネ『聖像擁護論』抜粋|フォーダム大学史料集/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳)

七世紀末の公会議は、羊の象徴より人の姿を選んだ

聖像をめぐる議論が激しくなる前、691〜692年にコンスタンティノープルで開かれたトゥルロ公会議は、教会の規律を定めました。第82条は、キリストを羊として象徴的に描く代わりに、人間としての姿で表すことを求めています。キリストは人間として生まれ、生活し、苦しみ、死んだという教えを、視覚的にも明確に伝えようとしたのです。画像が教義を表す方法として、すでに重要視されていたことが分かります。

羊の象徴なら、人物の顔を描くことを避けられます。公会議が人間の姿を重視したのは、目に見える身体を持ったというキリスト教の核心を表そうとしたためです。のちの聖像反対派は、この人間の姿を描くことへ強い疑問を投げかけます。同じキリストの教えを守る目的から、画像を求める判断と避ける判断が生まれたところに、八世紀の対立の背景があります。(参照:トゥルロ公会議(691〜692年)第82条|New Advent原典訳/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

皇帝たちは、どのように聖像への反対を進めたのか

レオン3世の時代に始まった論争と、史料の難しさ

レオン3世(在位717〜741年)は、帝国の防衛と統治に取り組んだ皇帝でした。後世に広まった物語では、726年または730年頃に皇帝が宮殿の門にあったキリスト像を取り外させ、それが聖像破壊の始まりになったとされています。総主教ゲルマノス1世(八世紀前半に首都の教会を率いた聖職者)も画像を擁護した人物として伝えられ、730年頃に退任しました。宗教政策をめぐり宮廷と教会の間に対立が生じていたことがうかがえます。

この時期の破壊がいつ、どこまで行われたかは、史料の成立事情を考える必要があります。聖像擁護側の著述が後世の歴史像を強く形づくり、現在の研究は宮殿の門をめぐる物語の細部や、帝国全域で組織的な破壊が進んだという説明を再検討しています。最初の年代を一本の線で確定するより、720〜730年代に争いが表面化し、次の皇帝のもとで教義として体系化された経緯をたどることで、確かな変化が見えてきます。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章)

コンスタンティノス5世は754年の教会会議で画像を否定した

レオン3世の息子コンスタンティノス5世(在位741〜775年)は、聖像への反対を明確に支持しました。754年、彼が召集したヒエレイアの会議は、教会に置かれるキリストや聖人の画像を退ける立場を示します。画像の扱いは、個々の司祭や信徒の好みを越え、皇帝の支持を受ける教会政策となりました。司教がどの会議の決定に従うかによって、教会内の立場が分かれることになります。

この会議は、神であり人間でもあるキリストを絵にするとき、何を描いているのかという難問を詳しく論じました。目に見える人間としての部分だけを描けば、キリストを二つに分けることにならないでしょうか。神の性格まで絵に含めれば、見えない神を限られた形に収めることにならないでしょうか。聖像反対派が問題にしたのは、絵の技術の巧拙というより、画像が示す対象をどう理解するかでした。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章)

十字架は残された――画像すべての否定ではない

聖像反対派は、十字架をキリスト教の中心的な象徴として重んじました。ヒエレイアの会議を支持する政策のもとでも、教会建築や装飾は続いていました。人物を表す画像と、十字架のような記号は異なる位置づけを与えられました。十字架が祈りの空間で認められたことから、争点の中心は、神聖な人物を具体的な姿へ表す行為にあったと理解できます。

ヒエレイアの会議の議論は、後に聖像擁護派の公会議で引用され、批判されています。反対派の独立した著作は伝わりにくかったため、残る文章の多くを論敵の編集を通して読まねばなりません。議論の力点を公平に考えるには、聖像反対派が守ろうとした神の超越性や偶像への警戒を、擁護派の反論と併せて確かめることが大切です。十字架の継続使用も、その立場を理解する具体的な資料となります。(参照:メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

ダマスコのヨハネは、なぜ画像を擁護したのか

皇帝の領土の外から、神学者が問いかけた

ダマスコのヨハネ(655年頃〜745年頃)は、ウマイヤ朝の支配するシリア・パレスチナ世界で活動したキリスト教の著述家・修道士です。ダマスカスに関わる経歴を持ち、のちにエルサレム近郊の聖サバ修道院で過ごしたと伝えられています。彼は八世紀の『聖像擁護論』で、画像への敬意が何を意味するのかを論じました。東ローマ皇帝の領土の外に暮らしていたことから、彼の議論は帝国内の命令とは異なる場でも広がりました。

彼の著作はビザンティンの宮廷への反論であると同時に、イスラーム統治下のキリスト教徒が、ユダヤ教・イスラーム教も含む画像への多様な態度の中で自らの信仰を説明する試みとして研究されています。キリスト教徒の世界は帝国の国境で終わっていなかったのです。画像をめぐる問題は、異なる宗教の人々が接する地域で、神をどう語り、物質をどう評価するかという問いとしても考えられました。(参照:ケンブリッジ大学出版局|ウマイヤ朝パレスチナにおけるヨハネの聖像神学/ダマスコのヨハネ『聖像擁護論』抜粋|フォーダム大学史料集/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章)

見えない神が人間となったことが、描く根拠になる

ヨハネの議論の中心は、キリスト教の「受肉」という教えです。神の子キリストが人として生まれ、身体を持ち、人々の目に見える存在となったのなら、目に見えた姿を描くことには意味があると考えました。絵は目に見えない神の本質を、形や色で包み込もうとするものではありません。人々の前に現れたキリストという人物の姿を表し、その出来事を思い起こさせます。

例えば、遠くにいる人の写真を見て、その人に会った記憶を思い出すとします。写真は人物そのものではなく、人物の姿を伝える媒介です。ヨハネの議論にも、画像を通じて本人へ向かうという構造があります。宗教画の場合は、描かれる人物が神として理解されるため、単なる記憶の助け以上の問題が生まれます。ヨハネは、受肉によって目に見えるものと神の働きが接したことを、その関係を考える出発点にしました。(参照:ダマスコのヨハネ『聖像擁護論』抜粋|フォーダム大学史料集/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

木や顔料という物質にも、伝える役割がある

絵の具は乾き、木は腐り、布は破れます。こうした物質を使った像に向かって祈るとき、人は神よりも材料を重んじてしまうのでしょうか。ヨハネは、神が造った物質を通じて救いが人間に届くというキリスト教の理解から、材料そのものを軽んじる考えを退けました。受肉という出来事は、神的なものと物質的なものの関係を断ち切る説明ではなく、その関係を考え直す根拠になるのです。

この発想は、芸術作品を美しいと評価することとも異なる深さを持っています。板に描いた像が見事だからこそ祈れるという判断ではなく、材料がある人物を指し示すことによって宗教的な意味を担うと考えます。画材の働きと、それによって表される人への敬意を分けながら結びつける点に、ヨハネの議論の特徴があります。画像は物として有限でも、描かれた人物を記憶し理解する契機となり得るのです。(参照:ダマスコのヨハネ『聖像擁護論』抜粋|フォーダム大学史料集/ケンブリッジ大学出版局|ウマイヤ朝パレスチナにおけるヨハネの聖像神学/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳)

像に触れる人の敬意は、どこへ届くのか

「礼拝」と「敬意」を分けることの意味

聖像擁護派は、宗教的な身ぶりの対象と程度を区別しました。ギリシア語の「プロスキュネーシス」は、身をかがめて敬意を表す行為を広く指し、「ラトレイア」は神に捧げる特別な礼拝を指す言葉として、論争の中で重要になりました。画像の前で頭を下げたり、口づけたりすることは、そこに描かれたキリストや聖人への敬意であり、神そのものへの礼拝とは区別されるという説明です。

行動の形が同じでも、その意味や宛先が違う場合があります。来客に頭を下げるとき、敬意が向かう先は来客です。聖像擁護派はこれと似た関係を、像を見る人の意識と行為へ当てはめました。聖像反対派は、その区別が実際の礼拝で保たれるのかを疑いました。人の行為の意味は、外から見えるしぐさで決まるのか、その人の意図と対象との関係で決まるのか。ここには今日にも通じる哲学的な問いがあります。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/ダマスコのヨハネ『聖像擁護論』抜粋|フォーダム大学史料集/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

肖像への敬意は、描かれた本人に及ぶのか

都市に置かれた皇帝の肖像や、遠方へ送られた皇帝の像に人々が敬意を表す慣行は、ビザンティンの人々にも身近でした。第2ニカイア公会議の記録には、皇帝の像へ示す敬意を例に、画像への行為は描かれた人物へ向けられているという説明が現れます。ここで重要なのは、肖像が本人と同じ材料でできていることではなく、肖像と本人との間に、誰を表すかという関係が成立していることです。

親しい人の手紙を大切にするのは、紙の繊維が特別だからでしょうか。送り主と結びついた物だからこそ大切になることがあります。聖像擁護派は「像への敬意が原像へ及ぶ」と表現し、目に見える像を通して表された人を尊ぶ構造を論じました。原像とは、画像のモデルになっている本人を指します。この関係をどこまで宗教上の行為として認めるかが、議論の核心となりました。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/ダマスコのヨハネ『聖像擁護論』抜粋|フォーダム大学史料集)

キリストの「本性」と描かれる「人物」をどう区別するか

451年のカルケドン公会議以来、ビザンティンの主流の神学は、キリストが神としての本性と人としての本性を持つ一人の存在だと説いてきました。聖像反対派は、絵が人間としての姿しか表せないなら、神としての本性と切り離してしまうと考えました。擁護派は、絵が表すのは神的な本性の全体ではなく、人間として現れた一人のキリストという具体的な人物だと論じます。

誰かの肖像画を描くとき、その人の記憶や心のすべてを色で表すことはできません。それでも「この人の肖像画」と呼ぶことはできます。ここから、人物を表すのに、その人を構成するすべての性質を描く必要があるのかという疑問が生まれます。ビザンティンの論者が考えた「本性」と「人物」の区別は、キリストについての教義であるとともに、画像が何を指し示せば特定の人の像になるかという表象の哲学でもありました。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/オックスフォード大学出版局|『ストゥディオスのテオドロスによるイコン擁護』/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

壁に残る十字架と消された人物像は、何を伝えるのか

聖エイレネ教会の大きな十字架モザイク

コンスタンティノープルの聖エイレネ教会は、740年の大地震で損傷し、八世紀のうちに再建されました。主祭壇奥のアプシスには、金地を背景とする大きな十字架のモザイクが残ります。人物の代わりに十字架を置く構成は、聖像反対派が認めた視覚表現を示す重要な例として紹介されてきました。金や銀のガラス片を巧みに組み合わせ、離れた場所から見たときにも十字架の形が整うように工夫されています。

このモザイクは聖像反対政策下のコンスタンティノス5世の制作とする説明が広くあります。近年には、後の聖像擁護派の女帝エイレネが関わったとする研究もあり、制作を命じた人物の確定には議論が残ります。現存する作品自体から確かめられるのは、壮大な教会空間を十字架で組織したことです。像をめぐって対立していた人々も、宗教的な意味を託す視覚表現の力を強く意識していたと理解できます。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/ビザンティン遺産資料サイト|聖エイレネ教会の建築と十字架モザイク/ルイビル大学学位研究|聖エイレネ教会アプシスの制作年代再検討)

アヤソフィアの接見室には、消された名が残る

首都の大聖堂アヤソフィアに付属する接見のための部屋には、人物の画像が置き換えられた痕跡が見られます。八世紀後半、総主教ニケタスがキリストや聖人のモザイクを取り除いたと伝える史料があり、実際に小さな接見室では人物名の文字が消された跡や、十字架の円形装飾が確認されています。絵を消したあとにも、以前そこに何があったかを示す手掛かりが建築の表面に残ったのです。

文字の痕跡とモザイクの継ぎ目は、画像をめぐる政治が具体的にどこへ及んだかを考える手掛かりです。人物の名と姿を取り去る行為には、その人物を空間の中でどう扱うかを変える意味がありました。画像の破壊や変更を帝国全体の一つの出来事として語るより、部屋ごとに残った資料を調べると、どの場所で何が起きたかを具体的に把握できます。歴史家や美術史家が文字史料と建物の痕跡を照合する理由もここにあります。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点)

ニカイアの教会では、聖母子から十字架へ、再び聖母子へ

現在のトルコのイズニクにあった生神女就寝教会では、二十世紀初めに撮影されたアプシスのモザイクから、異なる時期の改変をたどることができます。初期には聖母子像があり、聖像論争の時期に十字架へ置き換えられ、843年以降に再び聖母子が作られたと考えられています。残っていた画像の継ぎ目が、複数の制作段階を示しました。教会そのものは現存しないため、写真が貴重な記録になっています。

一つの礼拝空間が、人物像、十字架、再び人物像へと変化したことは、どの表現が宗教的に正しいとされたかの変遷をよく伝えます。材料を新しくする行為は、教義を建物の目立つ場所に示す行為でもありました。制作時期の細部には調査上の難しさが残りますが、同じ場所のモザイクが重ねられたこと自体は、信仰と芸術の関係が長い時間の中で作り直されてきた証拠です。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/ルイビル大学学位研究|聖エイレネ教会アプシスの制作年代再検討/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章)

787年の公会議は、画像の扱いをどう定めたのか

エイレネは皇帝の後見人として会議を開いた

皇帝レオン4世の死後、780年から幼いコンスタンティノス6世の母エイレネ(752年頃〜803年)が摂政として統治を担いました。エイレネは聖像への敬意を認める方向へ政策を進め、787年には小アジアのニカイアで教会会議が開催されました。宮廷が会議を支援し、司教たちが教義上の根拠を議論するという仕組みのもとで、754年のヒエレイア会議の立場が覆されます。

この会議は後に第2ニカイア公会議、また第7全地公会議と呼ばれました。皇帝権力の後援を受けた会議が、先の皇帝のもとで出された決定を退けるという経緯は、政治の変化と教会の教えの形成が結びついていたことを示します。エイレネの政治的な立場や動機を一つの心理へ還元するより、実際に会議が何を定め、聖職者と信徒の行動がどう変わったかに注目すると、出来事の意味が明確になります。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

絵画・モザイク・布――画像の置かれる場所まで定める

第2ニカイア公会議の決議は、キリスト、聖母、天使、聖人の像を教会に置くことを認めました。絵画やモザイクなどの材料を挙げ、教会の壁、祭具、衣服、家の中、道沿いにも画像が置かれることを想定しています。宗教的な像は、聖堂の内部だけで見る特別な絵画に限らず、人々の生活の広い場所に関わっていたのです。

この決議には、画像の前で敬意を表すことと、神にのみ捧げる礼拝とを区別する説明も含まれます。像を繰り返し見ることで、表される人物を思い起こし、その人への愛や尊敬が育まれると考えられました。どんな場所へ置くか、どのような行為を認めるかを定めた点で、公会議は画像についての抽象的な哲学を、具体的な視覚文化と礼拝の規則へ結びつけました。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/第2ニカイア公会議(787年)の史料|フォーダム大学史料集/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

画像と原像の区別が、公的な教えとなった

決議の中核には、画像に向けられた敬意はその原像、すなわち描かれた人物へ届くという考えがあります。ここでは木や顔料に神としての礼拝を与えることと、描かれたキリストや聖人を敬うことが区別されます。画像の見た目が似ているかという問題に加えて、画像がどの人物を表し、その人物とのどのような関係を作るかが正統な解釈の条件となりました。

第2ニカイア公会議の文章は、聖像反対派を強い言葉で非難しています。教義を定める決議であるとともに、長年の対立で一方の立場が勝ったことを示す文章だからです。現代の読者が学べるのは、勝者の断定をそのまま歴史全体へ広げること以上に、像と本人の区別がどう論証され、公的な規範へ変わったかという過程です。哲学的な概念が、人の行動と制度の形を決めた例といえます。(参照:第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

815年に論争が再燃したとき、何がさらに問われたのか

レオン5世の政策によって、第二の対立が始まる

787年の公会議の後も、ビザンティン帝国の軍事と政治の問題は続きました。九世紀初めにはブルガリアとの戦争で敗北が重なり、813年に即位した皇帝レオン5世(在位813〜820年)は、815年に再び聖像を排除する方針を支持します。この時期から843年までを、聖像論争の第二期と呼びます。礼拝で画像を認めるかという争いが、再び司教や修道院の活動に影響しました。

聖像への態度が変わった理由には、皇帝が宗教的な正しさと帝国の安定を結びつけた事情が考えられます。前の公会議で決着したはずの問題が政治の転換によって問い直されたことは、教義と統治の間の不安定さを示します。この段階では、八世紀のヨハネが立てた問題に加え、画像が特定の一人の人物をどう表せるのかを精密に説明する議論が発達しました。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点)

修道院長テオドロスは、「何が描かれるのか」を掘り下げた

ストゥディオスのテオドロス(759〜826年)は、コンスタンティノープルのストゥディオス修道院を率いた修道院長で、第二期の聖像擁護論の中心人物です。皇帝の政策に反対して追放を経験しながら、手紙や論考を通じて画像の意味を説明しました。彼が取り組んだのは、描けるものと描けないものを区別するだけでなく、キリストの肖像がどのような条件で「キリストの像」と呼べるのかという問いです。

テオドロスは、絵が描くのは抽象的な「人間という本性」ではなく、具体的な一人の人物であると論じました。ある人の肖像画には顔立ちや身体が描かれます。その人の知性や心まで色で描くことはできません。それでも、描かれた顔は特定の人を指し示しています。この区別をキリストに当てはめ、人間として具体的な姿で現れたキリストの人物性と、絵に描けない神的な本性との関係を考えたのです。(参照:オックスフォード大学出版局|『ストゥディオスのテオドロスによるイコン擁護』/学術誌Scrinium|第2次聖像論争におけるテオドロスの画像論/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

肖像は本人と同じ物質でなくても、同じ人を表せる

木の上に描かれた顔と、生きた人の顔は、物質として異なります。絵の具に血は流れず、板には本人の体温もありません。テオドロスはこの違いを認めたうえで、画像と原像は同じ一人の人物を指し示すという関係を論じました。絵の材料と本人の身体が同じである必要はありません。どの人物を表すのかが、画像の成立を考える鍵になります。

この議論は、画像と本人が似ていることだけで信仰が成立するのかという問いへも広がります。例えば、友人の肖像を別の画家が描いたら、色や線は変わります。それでも誰の肖像かを理解できる場合があります。テオドロスは、具体的な姿と特定の人物との関係を丁寧に考え、画像に向けた敬意の意味を守ろうとしました。九世紀の論争では、絵が何でできているかという問いが、絵は誰を表しているのかという問いへ深まったのです。(参照:オックスフォード大学出版局|『ストゥディオスのテオドロスによるイコン擁護』/学術誌Scrinium|第2次聖像論争におけるテオドロスの画像論)

843年の「正教の勝利」は、どんな姿で記憶されたのか

女帝テオドラと総主教メトディオスのもとで画像が戻る

聖像反対政策を続けた皇帝テオフィロス(在位829〜842年)が亡くなると、幼いミカエル3世の母テオドラが摂政となりました。843年、テオドラと宮廷の有力者テオクティストスは、聖像を支持するメトディオスをコンスタンティノープル総主教に迎え、画像への敬意を認める政策を復活させます。首都では宗教的な行列とアヤソフィアでの礼拝が行われ、この出来事は「正教の勝利」として祝われました。

この決定によって、七百年代以来繰り返されてきた皇帝主導の聖像反対政策が終わりました。東方正教会では後に、大斎期の最初の日曜日にこの回復を記念する習慣が定着します。テオドラが過去の政策をどのような動機で覆したかについては、後世の物語と当時の政治状況を分けて考える必要があります。確かなのは、宮廷と総主教の決定が礼拝の形を変え、その変化が共同体の行事として受け継がれたことです。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/オックスフォード大学出版局|『ビザンティン帝国の正教会』聖像論争の章/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点)

867年のアヤソフィアに、聖母子のモザイクが現れた

843年の政策転換から約二十四年後、首都の大聖堂アヤソフィアの祭壇奥に、玉座の聖母が幼子キリストを抱く大きなモザイクが設けられました。867年、総主教フォティオス(810年頃〜893年)は、その画像について説教を行っています。金地の中で人間の姿をした聖母子が高い場所から見下ろす構成は、聖像擁護派が重視した「受肉したキリストを見せること」を、教会建築の中心に表した例です。

フォティオスの説教は、画像が教会の尊厳を取り戻したことを語ります。現存するモザイクがそれ以前に何と置き換えられたのかは確定しておらず、過去の人物像があったことまでは示せません。制作された時期と、それが政治的・宗教的な勝利のしるしとされた意味を分けて考えると、作品の姿がより明確になります。聖母子の像は、議論の結論を建築に可視化したものとして理解できます。(参照:スマートヒストリー|アヤソフィアの中期ビザンティン・モザイク/サセックス大学|フォティオス説教第17篇とアヤソフィアの聖母子像/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

約五百五十年後の板絵は、争いの結末をどう語るか

大英博物館にある《正教の勝利》のイコンは、14世紀後半から15世紀初め頃に制作されたと考えられる板絵です。画面には、聖母子のイコン、女帝テオドラと幼いミカエル3世、聖像擁護を象徴する聖人たちが描かれています。843年の出来事を、その時代の目撃者が描いた資料ではありません。はるか後代の人々が、どの人物とどの画像を結びつけて勝利を記憶したのかを伝える作品です。

この絵で中心的に示されるのは、画像を守った人々と、守られた画像そのものです。絵画は出来事の記録であると同時に、その出来事の意味を構成する手段にもなりました。何を選んで描くかによって、勝利の物語は見る人に伝わります。聖像論争を調べる際に後世の作品と当時の史料を区別することは、画像が歴史の記憶をどのようにつくるのかを考えるためにも役立ちます。(参照:大英博物館|「正教の勝利」のイコン(14世紀後半)/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利)

聖像論争は、芸術と哲学にどんな問いを残したのか

「破壊された時代」という説明を、現存する資料から考え直す

聖像論争という名からは、帝国の各地であらゆる絵が消された印象を受けるかもしれません。現在の研究では、実際に人物像が取り除かれた場所、十字架に置き換えられた場所、古いイコンが残った場所を区別して調べています。首都アヤソフィアの接見室には改変の痕跡があり、聖エイレネには巨大な十字架が残ります。シナイの修道院では古い板絵が伝わりました。作品の残り方には、地域と支配の違いが反映されています。

ヨルダンやパレスチナには、人物や動物のモザイクが植物の模様へ置き換えられた八世紀頃の例もあります。それらの地域は当時ビザンティン皇帝の支配外にあり、イスラーム統治下のユダヤ教徒やキリスト教徒の文化交流から考えられています。画像の変更をすべて首都からの命令へ結びつける説明では、この地域の歴史が見えにくくなります。作品の状態と地域の事情から考える研究が、論争の実像をより複雑にしています。(参照:メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/スマートヒストリー|シナイ山・聖カタリナ修道院の建築と美術)

フランク王国は、別の画像観を選んだ

第2ニカイア公会議の決議は、西ヨーロッパのフランク王国でも読まれました。国王カール大帝(742〜814年)は、のちに西方で皇帝となる統治者で、学問と教会制度を支えました。その宮廷では790年代に『カロリング朝文書』と呼ばれる論考がまとめられ、画像を教えや記憶の助けとして認めることと、画像へ宗教的な敬意を表すこととを区別する立場が展開されます。フランク側は画像を壊す方針にも強く賛成していませんでした。

東方の公会議決議がラテン語へ訳される際、画像への敬意と神への礼拝を表す語が十分に区別されなかったことは、両者の行き違いの一因として研究されています。訳語の問題に加えて、画像をどのような目的で教会に置くかという理解にも差がありました。同じキリスト教世界で、絵を教える道具とみる考え、人物への敬意を届ける媒介とみる考えが議論されたのです。(参照:ケンブリッジ大学出版局|フランク王国の聖像論争への応答/学術誌Early Medieval Europe|『カロリング朝文書』における礼拝用語の解釈/第2ニカイア公会議(787年)の史料|フォーダム大学史料集)

「像を見て誰を思うか」は、いまも続く問いである

聖像論争では、絵が何を示すかを説明するために、「原像」「人物」「本性」「敬意」といった考えが練り上げられました。目に見える形と、そこに表されたものはどう結びつくのか。人が画像へ触れたり頭を下げたりするとき、その行為はどんな対象へ向けられているのか。こうした問題は、画像が正確に似ているかという技術の判断から、人間が像を理解し、社会の中で扱う仕方へ進む哲学の問いです。

現代でも、遺影を飾ること、肖像を公共の場所に掲げること、画像を損なうことには、単なる紙や画面の変化以上の意味が生まれます。画像が人物や共同体の記憶と結びつくからです。八〜九世紀のビザンティンでは、その結びつきを宗教上の正しさとして定義しようとしたため、皇帝や公会議までが関わる争いとなりました。美術と哲学の歴史に残ったのは、画像の背後にある実在と、画像に向き合う人の行動を一緒に考える視点です。(参照:メトロポリタン美術館|ビザンティンのイコンと聖像論争/スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/オックスフォード大学出版局|『ストゥディオスのテオドロスによるイコン擁護』/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳)

略年表|聖像論争とビザンティンの教会・美術

  • 451年|カルケドン公会議がキリストの二つの本性に関する教義を定める
  • 6世紀|シナイの聖カタリナ修道院に伝わるキリスト像・聖母子像が制作される
  • 7世紀|東ローマ帝国がシリア・エジプトなどの広い領土を失う
  • 691〜692年|トゥルロ公会議第82条が、羊の象徴に代わる人間としてのキリスト像を重視する
  • 692〜695年頃|ユスティニアノス2世の金貨にキリスト像が刻まれる
  • 717〜718年|コンスタンティノープルがウマイヤ朝の軍勢に攻囲される
  • 720〜730年代|レオン3世の統治下で聖像をめぐる対立が表面化する
  • 740年|地震でコンスタンティノープルの聖エイレネ教会が損傷する
  • 754年|コンスタンティノス5世がヒエレイアの会議を召集し、聖像への反対を教義化する
  • 8世紀後半|聖エイレネ教会の十字架モザイクなど、人物に代わる装飾が作られる
  • 787年|エイレネの支援で開かれた第2ニカイア公会議が聖像への敬意を認める
  • 790年代|フランク王国の宮廷で『カロリング朝文書』がまとめられ、東方の聖像理解が論評される
  • 815年|レオン5世が聖像反対政策を復活させ、第二期の論争が始まる
  • 843年|女帝テオドラの摂政政府と総主教メトディオスのもとで聖像への敬意が再び認められる
  • 867年|アヤソフィアの聖母子モザイクについて、総主教フォティオスが説教を行う
  • 14世紀後半〜15世紀初め|《正教の勝利》のイコンが制作され、843年の出来事が後世の画像として記憶される

レオン3世の政策開始年や、聖エイレネ教会の十字架を命じた人物には研究上の議論があります。制作年代、同時代の記録、後世の伝承を分けて示しました。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/メトロポリタン美術館|聖像破壊運動の実態と研究上の論点/ルイビル大学学位研究|聖エイレネ教会アプシスの制作年代再検討)

まとめ|見える像と、描かれた人物の関係

730年頃から843年にかけてのビザンティン帝国では、教会にキリストや聖人の姿を描き、像へ敬意を表してよいかが争われました。聖像反対派は、見えない神を形に収めることと、物体への礼拝が偶像崇拝へ近づくことを問題にしました。擁護派のダマスコのヨハネは、キリストが人として身体を持ったという受肉の教えから、見える姿を描く理由を説明します。さらに画像へ向けた敬意が描かれた本人へ届くという原像との関係が論じられ、787年の第2ニカイア公会議で公的な教えとなりました。

聖エイレネ教会の十字架、アヤソフィアの画像改変の痕跡、シナイに残る古い板絵は、争いの実際の広がりを考える資料です。815年に論争が再燃すると、テオドロスは絵が「本性」ではなく特定の「人物」を表すという問題を詳しく論じました。843年に画像が再び認められ、後世には聖母子モザイクや《正教の勝利》のイコンがその結末を語ります。像とそこに表された実在との関係、画像への行為の意味を問うこの論争は、美術が社会と信仰の中で何を担うかを考えるための歴史です。(参照:スマートヒストリー|ビザンティンの聖像論争と正教の勝利/第2ニカイア公会議(787年)決議と聖像破壊派の議論|New Advent原典訳/オックスフォード大学出版局|『ストゥディオスのテオドロスによるイコン擁護』)

参考資料・出典

教会会議の決議、ヨハネの聖像擁護論、現存するイコン・モザイクの作品解説、および美術史・神学史の研究を参照しました。人物像が改変された証拠と、後世の聖像擁護派が語った出来事を区別しています。