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Philosophy

1739–1757

美しさの好みは人それぞれで終わるのか

ヒュームと趣味の判断

18世紀半ばのエディンバラでは、大学の講義、書店、学会、私的な討論会が、哲学と文学を語る場所になっていました。スコットランドは1707年にイングランドと合同してグレートブリテンの一部となり、議会はロンドンのウェストミンスターに集約されます。スコットランド独自の教会、司法制度、大学は維持され、都市の法律家、医師、商人、出版業者、教員が知識人のネットワークを支えました。1745年には亡命した旧王家の復位をめざすジャコバイトの蜂起が起こり、1746年に敗れます。政治的緊張の中で、教養ある会話と出版を通じて公共の判断を育てようとする文化も発展していました。

この時代の「趣味」(taste)は食べ物の好みを指すだけの言葉ではなく、詩、演劇、絵画、音楽、建築、言葉遣いのよしあしを感じ分ける能力を意味しました。文学作品を読む人が増え、作品の価値を論じる批評が広がると、身分の高い人が褒めた作品と自分が感動した作品が一致するとは限らなくなります。隣同士の人で評価が違い、遠い国や古い時代の人は別の美を好むのに、優れた作品を見分ける共通の基準を語れるのでしょうか。

スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711–1776)は、経験と感情を調べる『人間本性論』(1739–1740年)から出発し、1757年の論考「趣味の基準について」でこの問題を正面から扱いました。美しさを感じるのは鑑賞する人の心です。その感情には個人差があるのに、経験を積んだ批評家の判断を重んじる理由もあります。ヒュームは感じたことを一律の正解へ押し込む代わりに、よい判断を生み出す条件を探りました。

CONTENTS

  1. 1707年以後のスコットランド――政治と学問の舞台
  2. 書店、文学、討論会が育てた「趣味」の文化
  3. ヒュームは誰で、何を明らかにしたかったのか
  4. 『人間本性論』から始まった感情の探究
  5. シャフツベリ、アディソン、ハチスンから何を受け継いだか
  6. 美しいという感情は、どこに存在するのか
  7. 想像力と共感が、作品への反応をつくる
  8. 美しさと役立ちやすさは結びつくのか
  9. 1741年、繊細な趣味は育てられると考えた
  10. 感情をもとに道徳と美を判断するという考え
  11. 1757年、「趣味の基準について」はどのように現れたのか
  12. 「好き」は本当でも、「優れている」は争われる
  13. ワイン樽の底にあった鍵が示すこと
  14. 芸術の一般的な規則はどこから生まれるのか
  15. よい批評家の第一条件――感覚の確かさと繊細さ
  16. 第二の条件――何度も鑑賞し、比べること
  17. 第三の条件――偏見から距離を置く
  18. 第四の条件――理解力と作品の目的をつかむ
  19. 熟練した批評家の判断はどう標準になるのか
  20. 鑑賞の違いが最後まで残る理由
  21. 芸術の道徳と文化差にどう向き合うか
  22. 悲劇を見て悲しくなるのに、なぜ楽しめるのか
  23. 趣味の基準は後世の哲学と今日の鑑賞へどうつながるか
  24. 略年表|ヒュームの生涯と趣味をめぐる思想
  25. まとめ|好みの違いを尊重し、判断を育てる
  26. 参考資料・出典

1707年以後のスコットランド――政治と学問の舞台

合同法が変えた政治参加の場所

1707年、スコットランド議会とイングランド議会による合同法を経て、両王国はグレートブリテンという一つの国家になります。新しい議会はロンドンで開かれ、スコットランドから選ばれた代表もそこへ送られました。エディンバラに固有の議会がなくなった後も、裁判所、長老派を基盤とするスコットランド国教会、大学は地域の制度として続きます。

法律を扱う専門家や宗教者、大学の教師が都市に集まり、議論が公共の知識を形成しました。政治の争点と日々の職業的な判断は異なっても、どんな証拠や理由に従うかという関心はつながります。ヒュームの時代に人々が「趣味を磨く」と語った背景には、教養ある発言を交わし、互いの評価を吟味する社会的な活動がありました。(参照:英国議会|1707年合同法とグレートブリテン成立/スタンフォード哲学百科事典|18世紀のスコットランド哲学)

1745年の蜂起と都市の政治的緊張

1688年の政変で王位を追われたステュアート家を支持する人々はジャコバイトと呼ばれました。1745年、チャールズ・エドワード・ステュアートがスコットランドで蜂起し、エディンバラを占領する局面を迎えます。1746年、カロデンの戦いで反乱軍は敗れ、政府はハイランド地方の氏族制度や武装を制限する政策を進めました。

都市で知識人が進歩や洗練を語る時代は、同時に宗教的・政治的な忠誠が厳しく問われた時代でもあります。自分とは異なる土地や習慣をどのように理解するかという問題は、抽象的な礼儀作法だけの話では済みません。ヒュームが偏見を取り除き、相手の時代や状況へ想像力を向けるよう求めた議論を読む際には、この社会の分断も念頭に置けます。(参照:英国議会|1745年ジャコバイト蜂起/スコットランド国立図書館|ジャコバイト運動の年表)

大学・法廷・教会が支えた都市の知識文化

エディンバラには大学と最高民事裁判所などの法制度が集まり、グラスゴーも大学教育と商業で発展していました。大学では哲学が知性だけでなく、倫理、言語、社会について考える学問として教えられます。聖職者、法曹、医師、商人らが、講義や読書会や書簡を通じて知識を交換しました。

同じ書物を読んでも、医師は人体の働きから、法律家は証言の信頼性から、詩人は表現の効果から意見を述べます。異なる職業の人が集まる場では、議論を可能にする共有の言葉が必要です。「よい判断」とは何かというヒュームの問いは、こうした交流の中で具体的な意味を持ちました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|18世紀のスコットランド哲学/スコットランド国立図書館|スコットランド啓蒙展資料)

書店、文学、討論会が育てた「趣味」の文化

作品を読む人と批評する人が現れる

18世紀のイギリスでは、定期刊行物、詩集、歴史書、随筆、演劇が、書店や購読者の手を通して広がりました。文章を公に評価する機会が増えると、読者の感動は私的な体験であると同時に、他人へ理由を伝える対象になります。文章の調子がよい、劇の構成が不自然だ、登場人物の行動に説得力があるといった判断が、批評の言葉になっていきました。

「読むと楽しい」と「どのように構成されているから優れているか」を説明する言葉を持つことは別の仕事です。ある詩を好む人と苦手な人が向き合う場合、単に声の大きさで結論は出ません。比較して読んだ経験、細部の理解、作者の狙いを考えることが、意見交換を進めます。ヒュームの美学は、この日常の批評の場面を哲学の問いへ引き上げました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

セレクト協会の討論と都市の社交

1754年にエディンバラで発足したセレクト協会には、画家、法律家、学者などの知識人が集まり、社会の改善や文化について討論しました。残された1754〜1762年の議事録には、議論の規則や会員名簿、取り上げるべき問いが記録されています。ヒュームもこの知的な交流圏に属し、対話と論争の力を身近に感じる位置にいました。

議論の場があったことは、誰もが同じように参加できたことを意味しません。社交団体の会員になれるのは限られた階層の人々であり、女性や働く階層の意見が均等に代表されていたわけでもありません。趣味の標準を定める話には、判断の能力をどう考えるかと、実際に誰がその場へ入れたかという別々の問題が重なります。(参照:スコットランド国立図書館|1754–1762年エディンバラ・セレクト協会議事録/スコットランド国立図書館|スコットランド啓蒙展資料/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

詩と絵画と音楽を同じ「趣味」で語る

当時の趣味という言葉は、絵画の線や色を鑑賞すること、詩の響きに感動すること、劇の構成を評価することにも広く用いられました。例えば一枚の肖像画を見たとき、顔立ちの再現に感心する人も、全体の配置や人物の表情を高く評価する人もいます。何をよさとして取り出すかによって、判断の言葉は変わります。

作品ごとに異なる細部を見ながら、なぜ優れた判断と拙い判断を区別するのか。ヒュームは「趣味」という共通の働きへ目を向け、鑑賞対象の種類を越えて、感情がどのように育ち、他人の評価と比較できるかを考えました。今日の美術批評にも通じる問いが、詩や演劇を中心とした18世紀の言葉の中で組み立てられたのです。(参照:ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

ヒュームは誰で、何を明らかにしたかったのか

エディンバラに生まれた哲学者

デイヴィッド・ヒューム(1711–1776)はスコットランドのエディンバラに生まれ、若い頃に大学で学び、のちにフランスでも研究を進めた哲学者・歴史家・随筆家です。人間がどう考え、感じ、信じ、他人を評価するかを、観察される心の働きに沿って説明しようとしました。数学や自然科学に加えて、道徳や政治や文学を人間の経験から調べる意欲を持ちます。

世の中に「当然だ」と受け入れられている事柄でも、実際には習慣や感情が大きな役割を果たすことがあります。ある作品を名作と思うことも、その典型でしょう。ヒュームの関心は、人間の理解力を侮ることより、判断が成り立つ仕組みを細かく確かめることにありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|デイヴィッド・ヒューム)

フランスでの執筆と1739年の『人間本性論』

ヒュームは1730年代にフランスへ滞在し、ラ・フレーシュなどで『人間本性論』の大部分を構想しました。第1巻と第2巻は1739年、第3巻は1740年にロンドンで刊行されます。この本は、知性、情念、道徳を連続した問題として扱い、観念の連合や習慣、感情が判断に果たす役割を論じました。

「人間の本性」を調べるとは、心の内部へ無条件に推論を重ねることではなく、記憶、期待、喜び、嫌悪、共感といった経験をたどり、その働きに共通する原理を探すことです。ある劇に感動する理由も、心がどう反応したかという人間研究の一部になります。1757年の趣味論は、初期のこの構想から切り離された唐突な美術評論ではありません。(参照:ヒューム『人間本性論』原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|デイヴィッド・ヒューム/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

歴史家としても働いたヒューム

ヒュームは随筆を発表しながら、公職や図書館の仕事にも関わりました。1752〜1757年にはエディンバラの法曹図書館の司書を務め、大量の史料に接しながら『イングランド史』の執筆を進めました。哲学者が同時に歴史家であったことは、時代によって価値判断が変化する問題への感覚にもつながります。

古い文書には現代人と異なる制度や習俗が記されます。その人物の行為を判断するには、当時どのような選択肢があったのかを理解する必要があります。ヒュームが批評家に求めた、自分の立場を離れて別の時代や社会の読者を想像する能力は、歴史を読む仕事とも響き合っています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|デイヴィッド・ヒューム/スコットランド国立図書館|ヒュームと法曹図書館)

『人間本性論』から始まった感情の探究

感覚と観念を観察する方法

『人間本性論』第1巻でヒュームは、私たちが心に抱く知覚を、いきいきした感覚や感情である「印象」と、思い出し想像する際の「観念」に区別しました。目の前で音楽を聞く経験と、後で旋律を思い浮かべる経験では、現れの力強さが違います。この差を調べることが、人間の思考を理解する入り口になります。

感動そのものを取り出すことと、感動を説明することは違います。ある曲を聞いて涙が出たとして、涙が出た事実は確かでも、曲が優れた作品であるかを他人に説明するにはさらに考察が必要です。ヒュームは心に現れるものを観察する方法から、後に趣味の判断が持つ難しい問題へ進んでいきました。(参照:ヒューム『人間本性論』原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

「気に入る」という感情はどう生じるか

第2巻でヒュームは、喜び、悲しみ、誇り、愛情などの情念を詳しく論じます。人間は物事を知るだけで生活するのではなく、好悪の感情によって行為や評価を方向づけます。例えば友人が誇らしく思っている品を見て、そのうれしさに引き込まれることがあります。私たちの感情は、他人との関係や想像力の動きに左右されるのです。

美しい作品に接して生まれる喜びも、こうした人間の働きの中に置かれます。作品の特徴を知ることと、その特徴に感応することは、同時に起こり得る別々の働きです。感覚、想像、感情を連続して調べることが、ヒュームの美学を単なる好みの告白より深いものにしました。(参照:ヒューム『人間本性論』第2巻|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|17・18世紀の情念論・ヒューム)

経験から一般的な説明を導く難しさ

同じ絵を何度も見た後で、新しい表現のよさに気づくことがあります。この変化を、対象が突然別のものになったと考えるより、鑑賞者の経験、比較の材料、期待が変化したと説明できます。ヒュームは、人間が繰り返し経験することで結びつきを学ぶと考え、その習慣の働きを知識と判断の分析に用いました。

経験の数が増えれば自動的に正しい趣味へ到達するという結論は、そこから直ちには出てきません。誤った見方を繰り返す可能性もあり、何を比べ、どの条件で見るかが問われるからです。1757年のヒュームは、経験の重みを認めながら、その経験をよい判断へ結びつける条件をより具体的に考えます。(参照:ヒューム『人間本性論』原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online)

シャフツベリ、アディソン、ハチスンから何を受け継いだか

シャフツベリが語った内的な感受性

第3代シャフツベリ伯爵アンソニー・アシュリー・クーパー(1671–1713)は、イングランドで道徳と美を論じた哲学的著述家です。1711年の『人間・習俗・意見・時代の諸特徴』に収められた論考で、徳と美を捉える内的な感受性を重視し、人間の評価を単なる利益計算より広く説明しようとしました。ヒュームが参加した美学の議論には、こうした先行する感情論の蓄積がありました。

例えば自分の利益になる建物を立派だと思うときと、自分には無縁でも整った庭園に心を動かされるときとでは、喜びの理由をどう説明できるでしょうか。美を感じる力を自分の利害だけに還元しない発想は、18世紀の趣味論を豊かにしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|シャフツベリ伯爵/スタンフォード哲学百科事典|美的なものという概念)

アディソンの想像力の楽しみ

イングランドの随筆家ジョゼフ・アディソン(1672–1719)は、1712年に雑誌『スペクテイター』で「想像力の喜び」を論じました。広々とした景色や優美な造形を楽しむ働きに注目し、感覚がもたらす印象と想像力による心の動きを結びつけます。読者が日々接する風景や文学を哲学の題材にした人物です。

山並みを前に開放感を覚える人は、山の寸法を計算してから感動するとは限りません。広がりの経験が想像力を動かし、喜びにつながります。ヒュームも作品に触れたときの感情と想像の結びつきを分析する点で、この流れを受け継ぎました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

ハチスンの「内的感覚」と美の経験

アイルランドに生まれスコットランドのグラスゴー大学で教えた哲学者フランシス・ハチスン(1694–1746)は、1725年の『美と徳の観念の起源についての探究』で、美を楽しむ心の働きを「内的感覚」として説明しました。彼は美の経験に統一と変化の関係を見いだし、外界の光や音を感知する感覚とは区別される評価の働きを考えます。

同じ模様が規則正しく繰り返され、その中で少しずつ変化するときに美しさを感じる場面を想像してください。形の特徴と喜びの関係を考えることは、美を物の中に書かれた数値として読むこととは違います。ヒュームは先行する内的感覚論に学びながら、なぜある人の感受性が他人よりよい判断を生むと考えられるのかという問題に焦点を絞りました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|フランシス・ハチスン/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

美しいという感情は、どこに存在するのか

作品の性質と心が感じる美しさ

彫刻の高さや材質は、道具を使って確かめることができます。「この彫刻は美しい」という評価は、寸法を記録することと異なり、鑑賞者の快さや感動に関わります。ヒュームは、美と醜という価値が、鑑賞する心の感情を通して現れると考えました。ものの特徴は感情を呼び起こす契機となり、評価はその働きの中で成立します。

例えば同じ音楽を聞いて心が落ち着く人と、眠くなる人がいるかもしれません。音符の順序は共有されていても、感じることは異なります。この差を見つめると、美の根拠を物の側だけに置けるのか、鑑賞する主体をどう理解するかという哲学の問いが生まれます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

色や甘さの比喩で考える

ヒュームは『趣味の基準について』で、美と醜を甘さや苦さと並べて語ります。砂糖が甘いと感じるのは舌と物との関係によって起こる経験であり、「甘さ」を感じる人の働きを除いて説明することは困難です。美しさも鑑賞者の感情によって現れるため、事物の物理的な特徴を測るだけではその経験を語り尽くせません。

例えば花の花弁を五枚と数えることと、その花を優美と感じることを考えましょう。花弁の数をめぐる判断は観察によって照合し、美の感情は感じた本人に確かに存在します。ヒュームはこの違いを出発点に、感情の個人差の中で評価の良しあしが語られる理由を探ります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|美)

気持ちよさを認めることと、批評すること

ある作品を見て「私は好きです」と述べるとき、自分の感情について語っています。「構成が優れた絵画です」と述べるときには、そのよさを他人にも伝え、検討してほしいという期待が加わります。ヒュームは前者の感情を認めながら、後者のような判断がどんな根拠を持つかを解き明かそうとしました。

美が鑑賞者の心に関わるとすれば、万人に同じ感情を命じることは難しくなります。それでも、細部を丁寧に見た人の説明から新しい魅力を発見することがあります。私たちが批評を読んだり他人の意見を聞いたりする理由は、そこにあります。趣味の問題は感情の自由と、感情について学べる可能性の両方を含んでいました。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

想像力と共感が、作品への反応をつくる

目の前にいない人物の喜びを感じる

小説の登場人物が再会する場面を読んで、読者がうれしくなることがあります。登場人物が実際に目の前にいる必要はありません。物語の言葉によって人の立場を想像し、その状況への感情が生じるからです。ヒュームは他人の情念を心に伝える「共感」の働きを詳しく論じ、鑑賞が自分だけの直接経験を越えて成立することを説明しようとしました。

作品を評価するときには、描写された出来事への感情と、描写の仕方を楽しむ感情が重なります。悲しい場面に心を動かされることと、文章の巧みさを評価することは同じ意味の感動でしょうか。ヒュームはこの複雑さを出発点に、作品の力がどのように私たちの心へ及ぶかを考えました。(参照:ヒューム『人間本性論』第2巻|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|17・18世紀の情念論・ヒューム/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学)

過去の経験が新しい場面の見方を変える

昔親しんだ旋律を再び聞くと、旋律そのものに加えて当時の記憶がよみがえることがあります。ヒュームが分析した観念の連合は、似たもの、近くにあったもの、原因と結果として結びつけたものの間で、思考が移動する仕組みです。想像力は作品の一部分から別の部分へ、感情を伴って私たちを動かします。

同じ作品を二人が見ても、経験や連想の違いによって反応が変わり得ます。そこから、作品にある構成を十分に捉えた結果なのか、たまたま自分の記憶へ引き寄せているのかを区別する疑問が生まれます。ヒュームの趣味論は、経験の差を認めた上で、作品をよく見たときの判断に近づく方法を考えます。(参照:ヒューム『人間本性論』原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

美的な感情が道徳的な評価へ接する

勇気を示す人物を描いた絵画や、残酷な行為を語る劇を見たとき、鑑賞者は形の面白さとともに、描かれた行為への好悪を感じます。ヒュームの道徳哲学では、人の行為や性格を評価する際にも感情が中心となります。美しさの経験と道徳的な評価は、同じ心の働きの中で互いに影響することがあるのです。

この関係は、芸術が常に教訓を示す必要があるという単純な規則にはまとまりません。作品の内容が観客の感情をどう動かし、演出や言葉がそれをどう変化させるかを検討する問題です。ヒュームは美と徳を身近な感情に結びつけることで、美学を人間理解の広い一部として位置づけました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/ヒューム『人間本性論』第3巻|Hume Texts Online)

美しさと役立ちやすさは結びつくのか

使い勝手のよい机の美しさ

手に取る器や座り心地のよい椅子を「よくできている」と感じることがあります。ヒュームは『人間本性論』で、物が役に立つという性質が、その物を美しいと感じることに影響する場合を認めました。道具の形を見て、実際に使う人の動作や便利さを思い浮かべ、それを快く感じるからです。

例えば自分では座らない椅子でも、ほかの人が安定して座れる構造に感心できるでしょう。ヒュームは利点を自分自身の利益だけに限定せず、役に立つことを想像する楽しみまで含めて考えました。美を色や線の表面だけに閉じ込めない視点です。(参照:ヒューム『人間本性論』第2巻|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学)

利益から離れた喜びと他人への共感

ハチスンは、美を感じる喜びを個人的な役得から区別しました。ヒュームも私益だけでは美の評価を説明し切れないと考え、共感を通じて他人の便利さや幸福を快く思う場合に注目しました。整った橋を見て、その橋を渡る人々にとって有用だと感じることも、美しさへの評価に関わる可能性があります。

橋の耐荷重を測る計算と、そこにふさわしい構造への感心は、互いに関係しながら別の働きです。どの要素が実際に鑑賞者へ快さを与えたかを考えると、美の判断が対象の目的や人間の営みと結びついていることが分かります。建築や家具を鑑賞する今日の経験にも応用できる問いです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学)

芸術の目的によって評価が変わる

ヒュームが後に批評家へ求めるのは、作品の目的を理解する判断力です。説得を目指す弁論と、感情を動かす詩を、同じ尺度だけで比べることは難しいでしょう。器は手で持てることが評価に関わり、悲劇は観客へ情念を伝える構成が評価に関わります。作品が何をしようとしているかを知ることが、感じたよさの説明につながります。

例えば案内表示と風景画のどちらも色彩を用います。案内表示に求められる読みやすさと、風景画が与える視覚の楽しみは役割が違います。これは理解のための現代的な例ですが、目的を踏まえた判断というヒュームの発想を分かりやすくします。鑑賞の基準は、作品の種類や働きを考えることで具体性を得ます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

1741年、繊細な趣味は育てられると考えた

「趣味と情念の繊細さ」の違い

ヒュームは1741年の随筆「趣味と情念の繊細さについて」で、出来事に激しく心を揺らす「情念の繊細さ」と、詩や絵画の細部を敏感に感じ取る「趣味の繊細さ」を区別しました。前者は運や偶然による喜怒哀楽へ人を翻弄し、後者は書物や音楽など自分で選べる対象の鑑賞を豊かにすると考えます。

例えば人からの一言に激しく傷つきやすいことと、詩の言葉遣いのわずかな差を楽しめることは、両方とも感受性が鋭い状態です。ヒュームは、芸術に向けられた鋭さは習得や選択によって育てられ、人生の楽しみを増やすと論じました。1757年の趣味論に先立って、感受性の向け方が問題になっていました。(参照:ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

書物と人間を読む経験が判断を鍛える

1741年の随筆では、優れた文章を理解するためには多くの事情を考え、比較し、人間の性格に通じる必要があると述べられます。詩を読んで美しい言い回しに気づくことは、ひとつの形容詞を好きになる以上の理解を要します。前後の文章との関係、登場人物の性格、状況にふさわしい感情を捉えるからです。

繰り返し作品を読むと、最初には気づかなかった不自然な比喩や巧みな構成が見えてきます。ヒュームはこの経験を通じて、芸術の鑑賞が判断力を養うと考えました。趣味は生まれつき固定された好みの量ではなく、経験に応じて細やかになり得る働きとして描かれています。(参照:ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online)

喜びの幅を広げるという人生論

ヒュームは、洗練された趣味が芸術を楽しむ機会を増やし、穏やかな感情を育てることにも役立つと論じました。詩や音楽から多様な楽しみを得る人は、一つの出来事の成功や失敗だけに喜びを集中させずに生活できます。芸術鑑賞の価値が、名作を当てる能力以上のものとして考えられていたのです。

日常の生活で、気に入った作品を見つけた後に、その作者の別の作品を追ってみることがあります。好きという感情が新しい観察や理解を促し、その後の楽しみ方を変えます。ヒュームの随筆は、その変化を趣味の教育として捉えました。(参照:ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

感情をもとに道徳と美を判断するという考え

1751年の『道徳原理の研究』

ヒュームは1751年に『道徳原理の研究』を刊行し、徳や悪徳の評価に感情がどのような役割を持つかを論じました。誰かの親切な行為を知って好意を持つ場合、私たちは出来事を理解するだけでなく、その行為をよいものと感じます。道徳的な評価と美の評価は、いずれも人間の感受性に根ざしていると考えられました。

例えば描かれた人の勇敢さに感心することと、色彩の調和を美しいと感じることは、対象が異なります。それでも「よい」と感じる反応は、観察と想像と感情が組み合わさって現れます。ヒュームはこの共通性を利用し、趣味の判断を人間の一般的な心理の中へ位置づけました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

評価を共有するための一般的な視点

親しい友人の作った作品を高く評価するとき、その人を好きな気持ちが作品への判断にも影響する場合があります。ヒュームの道徳論では、個人的な立場を離れ、より広い人々の視点から評価しようとする工夫が重視されます。自分の直接の利害と、他人にも分かるよさを区別することが、評価を伝えるために必要になります。

芸術作品についても、作者を知っていることと作品そのものの評価を切り分けようとできます。自分の気持ちを消し去るのではなく、好き嫌いが生まれた理由を確かめ、異なる立場から見直します。この訓練が1757年の「偏見から離れた批評家」という条件へつながります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学/ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online)

評価の感情と理性の協力

ヒュームは道徳や美のよさを感じる働きを重視しながら、判断の中で理性が果たす役割も明確にしました。例えばある人物が何をしたかを誤解していれば、行為への好悪も誤った事情に基づきます。事実の調査や論理的な理解を整えた上で、感情はその対象へ向かいます。

絵画の説明を聞いて作者の意図を誤認していたと気づくと、鑑賞の感情が変化するかもしれません。知識が感情を命令で生み出すという説明ではありません。対象をより正確に理解することで感情が働く条件が変わるのです。趣味の判断は、感じる心と考える心の協力として説明できます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online)

1757年、「趣味の基準について」はどのように現れたのか

『四論集』と新しい批評の問い

ヒュームは1757年に『四論集』を刊行し、その中に「趣味の基準について」と「悲劇について」を収めました。『四論集』は宗教、情念、悲劇、趣味に関する四つの論考をまとめたものです。感情や宗教の問題を調べてきたヒュームが、芸術の評価をめぐる共通の基準を正面から問う場となりました。

ヒュームは出版計画で宗教的に論争を呼ぶ二つの論考を外し、短くなった本を補うために「趣味の基準について」を執筆したと後に説明しています。出版の事情がきっかけでも、論考にはそれまでの情念論や道徳論の蓄積が集まっています。後年の改訂を経て流通した本文にも、感情と批評の関係を考える基本構想が保たれました。(参照:ヒューム『四論集』原典構成|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/ウェルカム・コレクション|ヒューム『四論集』1757年書誌)

文章の評価を通じて美術全般を考える

「趣味の基準について」では、詩や文学、弁論に関する例が多く登場します。ヒュームは当時の教養として広く読まれた古代の詩人や、近世の劇作家を挙げ、長く評価される作品と一時的に人気を得る作品を区別する条件を探ります。その議論は絵画や音楽も含む広い趣味の働きへ向けられていました。

例えば詩の響きの巧みさと絵画の構図のよさは、感覚を通して異なる仕方で理解されます。どちらも、初めは気づかなかった細部を経験を積むことで見いだせる可能性があります。ヒュームが詳しく論じたのは、作品の種類を越えて優れた批評を支える人間の能力でした。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

1757年の初刊と後年の本文を見分ける

ヒュームの論考は1757年に初めて公刊され、その後『道徳・政治・文学論集』に収められて読まれました。今日の校訂テキストでは、1777年にまとめられた最終的な文章が本文の基礎になっていることがあります。刊行年と、いま読む文章が依拠する版を区別すると、原典を正しく位置づけられます。

原文を読む際には、ヒューム自身の語句と、編集者が加えた現代語の説明を区別することも役立ちます。『Hume Texts Online』は原典の版や段落番号を確認でき、現代英語の読みやすい版は別の助けになります。思想の内容を先に理解した上で原文の議論へ戻ると、趣味という語がどの範囲で使われていたかを確かめられます。(参照:オックスフォード大学|David Hume Archive/ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味の基準について」現代英語版|Early Modern Texts)

「好き」は本当でも、「優れている」は争われる

感じたことと事実の主張は違う

「この曲を聞いて心が安らいだ」という感情は、その人に実際に起きています。「この曲が1757年に作曲された」という事実の主張は、楽譜や記録に照らして真偽を調べられます。ヒュームは、感情の存在と事実についての判断を区別しました。感じ方に正誤を一律に付けることは難しくても、その感情がどの対象をどのように捉えた結果なのかを吟味する余地は残ります。

自分には心地よい色の組み合わせでも、別の人には騒がしく感じられることがあります。両者が感じた事実を認めると、どちらの評価にも理由がないという結論へ向かいやすくなります。ヒュームはそこから、なぜ私たちが優れた詩人と拙い詩人を区別して語るのかを問い返しました。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|美)

「この絵は好き」と「この絵はよくできている」

ある絵画を見た二人が、それぞれ正反対の感想を述べるとします。一人は「この静けさが好き」、もう一人は「迫力が足りない」と感じます。ここで作品の制作意図、画面の配置、別の作例との関係を詳しく調べれば、最初の印象は変化するかもしれません。感情が主観的であっても、作品を見る能力を磨くことには意味があります。

ヒュームは感情の違いを事実の間違いと同じ方法で解消しようとはしませんでした。よい鑑賞が生じやすい条件を探し、その条件を満たした判断には特別な重みを与えるのです。「好き」の自由と「よい判断」の可能性を両立させようとしたところに、論考の新しさがあります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

時代や国によって評価は大きく変わる

ヒュームは論考の冒頭で、近しい人々の間にも趣味の違いがあり、遠い国や古い時代を眺めればその差はさらに広がると述べます。同じ作品でも、教育、慣習、用いる言語、身近な作品の範囲によって受け取り方が変わります。差が存在することを確かめた上で、なお優れた判断を語る理由を考えます。

例えば別の時代の舞台劇に触れて、登場人物の振る舞いを不自然に感じることがあります。自分の社会では常識的でない作法も、当時の観客には意味があったかもしれません。この違いをどう扱うかは、作品を評価するうえで大きな問題です。ヒュームは単に好みの多様性を認めるだけで終わらず、比較可能な判断の条件を探っていきました。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味の基準について」現代英語版|Early Modern Texts)

ワイン樽の底にあった鍵が示すこと

サンチョ・パンサの親族がワインを味わう

ヒュームはスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテス(1547–1616)の小説『ドン・キホーテ』にある話を使って、繊細な趣味を説明します。サンチョ・パンサの親族二人が大樽のワインを味わい、一人は革の味、もう一人は鉄の味がすると言います。周囲の人々はその細かな指摘を笑いますが、樽の中身を空にすると、底には革紐の付いた古い鍵が見つかります。

周囲の人に感じ取れなかった微細な味わいが、二人には分かっていました。これは小説に由来する物語をヒュームが批評の比喩として引用した例で、鑑賞に役立つ感受性の違いを伝えています。細部に気づけることと、何でも細かく批判することは同じではありません。実際の対象に含まれる違いを正確に識別する能力が問われています。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味の基準について」現代英語版|Early Modern Texts)

鍵が見つからなくても判断はどうなるか

ワイン樽の底から鍵が出てきたことで、二人の味覚が優れていたと周囲も納得できます。もし樽を空にする機会がなく、鍵が見つからなかったらどうでしょうか。ヒュームはその場合でも、二人の味わいの細かさは同じで、第三者へ証明することが難しくなるだけだと考えます。

芸術の評価では、樽の底の鍵に当たる決定的な証拠がいつも見つかるとは限りません。ある文章のわずかな語の違いを優れた批評家が捉えても、そのよさを瞬時に誰もが感じるとは限らないからです。そこでヒュームは、細かな性質へ反応できる人をどう見分けるか、繰り返し観察して得られる規則をどう用いるかという問題へ進みます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

美術作品の細部を見るときの類比

例えば風景画を離れて見ると穏やかな印象を受け、近づくと樹木の輪郭や光の重なりに繊細な工夫があると分かるかもしれません。最初の印象と、細部を観察して得られた理解は同じ作品に向けられています。何を見落としていたかが分かることで、評価の根拠は具体的になります。

この風景画は現代の理解を助ける例です。ヒュームがワインの比喩で伝えたかったのは、評価の違いを感性の優劣という肩書だけで決めるのではなく、何を感じ分け、どのように違いを確かめられるかを示すことでした。鑑賞とは、見たものへの反応と、反応を生む細部の把握が互いに働く行為です。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

芸術の一般的な規則はどこから生まれるのか

優れた作品から観察を積み重ねる

ヒュームは、芸術の規則を抽象的な命令として最初に決める方法より、多くの作品の効果を観察する方法に重きを置きます。どのような表現が長く鑑賞者を喜ばせるか、どのような構成が退屈や混乱をもたらすかを調べ、その中から一般的な傾向を見いだそうとするのです。感情が働く条件を経験的に探る姿勢です。

例えば何篇もの詩を比べ、一定のリズムの中で突然の変化が強い印象を生むと気づくかもしれません。その発見は、すべての詩に同じ変化を入れれば傑作になるという規則へは直結しません。作品の全体と鑑賞者の反応の関係を見ながら、どんな場合にその工夫が生きるかを調べることが必要です。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

規則に反する名作をどう考えるか

優れた作家も、ある時代の規則から外れた表現を使う場合があります。ヒュームは、読者を強く惹きつける作品には別の優れた性質があり、一部の欠点を上回る喜びを与えることがあると論じました。規則から外れている事実と、その違反ゆえに美しいのかという理由は分けて考える必要があります。

例えば物語の筋が複雑で分かりにくくても、登場人物の描写に強い魅力がある場合があります。読者が感動したという事実を尊重しつつ、どの部分が感動を生んだのかを確かめれば、その作品の評価を具体的に説明できます。ヒュームの規則は作品を作るための固定したレシピというより、批評の観察を助ける一般的な知識です。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

目的と形式が違う作品をどう比べるか

笑いを誘う喜劇と、深い悲しみを描く悲劇を同じ感情だけで測ろうとすると、作品の働きが見えにくくなります。ヒュームは文芸の種類ごとの目的や仕組みを考え、それぞれの作品がその目的をどの程度うまく果たしているかを吟味しました。巧みに作られているという評価には、その作品が何を試みたかを理解する過程が含まれます。

現代の例なら、ニュース写真と抽象絵画に、同じ意味での情報伝達を求めると判断が乱れます。何を見せることがその表現の中心か、どんな仕組みで鑑賞者に働きかけるかを先に調べると、比較の軸が見えてきます。目的の理解が批評へ関わるというヒュームの考えは、芸術を多くの種類に分けて見る現代にも通じます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

よい批評家の第一条件――感覚の確かさと繊細さ

細部を正確に受け取る力

ヒュームは「真の批評家」に必要な条件として、健全で鋭い感覚、繊細な感情、訓練、比較、偏見の克服を挙げます。まず求められるのは、作品を受け取る心身の働きが十分に機能していることです。色や響きや文章の調子を誤って取り違える状態では、それをもとにした評価も影響を受けます。

例えば薄暗い部屋で絵画を鑑賞し、光の微妙な違いを読み取れなかった場合を考えてみましょう。明るさを変え、作品をより適切に見られるようにすれば、最初には気づかなかった部分が分かるかもしれません。評価を論じる前に、作品の性質を正確に受け取る条件を整えるという考えです。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学)

繊細な趣味は多くを感じ分ける

趣味の「繊細さ」とは、強い刺激だけに反応する状態より、細かな違いを一つずつ捉えられる状態を意味します。ヒュームがワインの比喩で示したのも、ほかの味に紛れた微小な革や鉄の風味を識別する力でした。詩では一語の選択、音楽では旋律の抑揚、絵画では全体を支える色の関係が、感情を動かす要素になります。

ここで大切なのは、目立つ特徴をほかの人より多く列挙する競争をすることではありません。作品のよさと欠点がどこから生じるかを丁寧に見分け、全体の経験に結びつける能力です。最初の感想が粗かったと気づけば、それだけ感受性を育てる余地も見えてきます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online)

刺激に敏感なことと、評価が正確なこと

非常に大きな音にすぐ反応する人が、必ずしも細かな旋律の違いを聞き分けられるとは限りません。ヒュームが求める趣味は、刺激に対して激しく感情を動かされることだけで説明できないものです。注目すべき違いを捉え、作品がどのような働きを持つかを理解できることが含まれます。

この差は批評の学び方にも関わります。感動の大きさを他人と競うより、なぜその場所で心が動いたかを丁寧に振り返り、別の作品と比べてみる方が判断を深めます。ヒュームの繊細さは、鑑賞者の心の状態を評価するための実質的な能力として考えられていました。(参照:ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

第二の条件――何度も鑑賞し、比べること

繰り返し見ると作品はどのように変わるか

一度読んだだけでは意味が分からなかった詩を、何度か読み返すうちに言葉のつながりが見えてくることがあります。ヒュームは趣味を磨く条件として「習熟」や「練習」を重視しました。作品に繰り返し接すれば、最初は混ざり合っていた要素を区別し、構成全体に注意を向けやすくなります。

例えば音楽の一節を初めて聞くと旋律だけが耳に残っても、何度か聞けば低音の動きや間の取り方が分かるかもしれません。そうした発見は、感じ方が変化した経緯を説明する材料になります。ヒュームが重視した経験は、単に鑑賞回数を増やすことより、作品への注意を育てる過程でした。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

異なる作品を比較して差を見つける

同じ作者の二つの作品を並べると、使う色の範囲や構成に違いがあると分かることがあります。ヒュームは比較を通して趣味が鍛えられると考えました。一作品だけを見て優れていると感じても、多様な作品を知ることで、どの特徴が際立っているのかをより正確に判断できるからです。

例えば写実的な肖像画と抽象的な構成画を比べるなら、色彩と視線の動きを比較し、再現の細かさという別の尺度はそれぞれの意図に応じて考えるとよいでしょう。この例は現代の鑑賞への応用です。作品の種類を理解した上で適切に比べることが、比較の経験を判断力へ変えます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学)

比較はランキングの数を増やすことか

鑑賞の経験が多い人が優れた批評家となるには、作品を好きな順番に並べる以上の仕事が必要です。比較には、それぞれの作品が何を目指しているかを理解し、技法、構成、表現の効果を見分ける仕事が伴います。ヒュームの比較は、好みを並べること以上に、感情を生む特徴を明確にするための訓練です。

自分が好きな一冊と評判の高い一冊を読み比べ、どちらが何を得意としているかを説明してみると、最初の感想を支える理由が見えてくるでしょう。両方の長所を理解できるようになることも、比較によって得られる成果です。趣味を磨くことは、好き嫌いの選択肢を狭めることとは限りません。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

第三の条件――偏見から距離を置く

作者との関係が判断を揺らす

親しい友人の作品を見るとき、応援したい気持ちが評価へ影響する場合があります。反対に、嫌いな人の作品なら細かなよさを見落とすかもしれません。ヒュームは良い趣味に「偏見から離れること」を求め、作者との個人的な関係や自分の利害が鑑賞をゆがめる危険を指摘しました。

これは感情をすべて消す要求ではありません。好きな人の作品だと自覚した上で、作品の特徴をさらに注意深く見ることができます。何に感動したのかを具体的に伝え、知人であることが評価を左右していないか検討する。その過程が批評を信頼できるものへ近づけます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

別の国や時代の観客になってみる

ヒュームは、古い時代や異なる国の作品を評価する場合、その作品が向けられた人々の事情を考えるよう求めます。ある演説が誰に向けられ、どんな出来事の中で語られたかを知らなければ、言葉の力を正しく捉えにくいからです。自分が慣れ親しんだ習俗を唯一の基準にして判断すると、作品の工夫を取り逃します。

例えば歴史的な衣装をまとった人物の肖像を、服装の奇妙さだけで判断すると、その時代に何を示す衣装だったかを見失います。制作当時の役割や鑑賞者を知ってから見ると、肖像画の意味が変わるでしょう。文化の違いへ想像力を向ける能力は、ヒュームにとって優れた趣味を支える条件です。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

偏見のない評価は訓練できるか

自分の好みや社会的な立場を完全に忘れることは難しく、何が偏見に当たるかも話し合いの対象になります。ヒュームの提案は、作品に向き合うための工夫を具体的に示しています。自分と異なる時代の作法を調べること、作者への個人的な感情を認識すること、作品のねらいを確かめることです。

鑑賞の前提が変われば、同じ形や色が別の意味を持つ場合があります。偏見を取り除くとは作品への期待を無色透明にするだけの作業ではなく、何を見落としているかを問い直す活動です。ヒュームの趣味論は、批評家自身も学び続ける存在として捉えています。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

第四の条件――理解力と作品の目的をつかむ

感性だけでは評価を支えきれない

繊細に感じ、何度も見て、ほかの作品と比較し、個人的な偏見を控える。それでもヒュームの求める批評家の条件は尽くされません。作品の構成を理解し、各部分がどう結びついているかを考える「健全な理解力」も必要です。詩や演説や物語は、色や響きの集まりだけではなく、全体を形づくる意図と順序を持つからです。

例えば小説の結末だけを読んで不自然だと感じても、前の章で繰り返される人物の行動を読み直せば、結末までの経過が理解できることがあります。感情の反応はそのまま尊重できても、判断の材料を十分に集めたかは別に確かめられます。ヒュームは、批評で感情と理解力が協力することを重んじました。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

作品の内部で部分と全体を結ぶ

ヒュームは、複数の部分からできた作品には、全体の目的に向けて各部分が互いに関係するという性質があると考えます。文章が巧みでも話の流れにそぐわなければ、全体としてのよさを損なう場合があります。逆に、地味な一節が結末を支える重要な働きを持つこともあるでしょう。批評家は印象の強い箇所だけを抜き出すのではなく、全体をたどる力を持つ必要があります。

これは作品にあらかじめ唯一の正しい解釈が書き込まれているという意味ではありません。作品の筋道や表現の働きを根拠に、どの読みが全体とよくつながるかを確かめることです。理解力を働かせるほど、個々の感動が作品のどこから生じたのかを豊かに説明できるようになります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

趣味の五条件を一つの働きとして考える

ヒュームの有名な条件を整理すると、繊細な感受性、繰り返す鑑賞、幅広い比較、偏見からの自由、健全な理解力です。原典で描かれるのは、独立した試験科目の一覧より、感性と経験と知性を結びつけて判断する人の姿です。ある条件がほかの条件を助ける場面も多くあります。

例えば何度も劇を見る人は、似た場面を比較する力を育て、構成を理解しやすくなります。以前なら嫌っていた時代の作品も、背景を学ぶことで魅力が見えてくるでしょう。五条件を自分の序列を証明する札にするのではなく、どの能力を伸ばせるかを考える手がかりにすれば、ヒュームの議論を生きた鑑賞の方法として読めます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/ヒューム「趣味と情念の繊細さについて」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学)

熟練した批評家の判断はどう標準になるのか

人気と批評の基準を分ける

美しさを感じる人によって判断が分かれるなら、多数決で最も得票した作品を優れていると決めればよいのでしょうか。ヒュームの答えは異なります。偶然の流行や評判、周囲への同調に左右される数の多さだけでは、作品のよさを見分ける力は測れません。長く吟味され、比較され、異なる状況で受け取られた判断にこそ注目するのです。

新刊が一時的に人気を集めることと、何世代もの読者に読み直され続けることでは、判断が試される条件が違います。長年好まれた事実だけで作品の価値が保証されるわけでもありません。経験を持つ鑑賞者が繰り返しよさを確かめ、理由を説明できることが、流行との重要な違いになります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

真の批評家たちの一致という発想

ヒュームは、適切な条件のもとで判断できる人々の共同の評決を「趣味の真の基準」とする考えを示しました。その人々は、同じ身分に属するから正しいのではありません。作品を繊細に受け取り、習熟し、比較し、偏見を離れ、理解力を働かせているかどうかが重視されます。判断力には個人差があるので、すべての意見を同じ重みとして扱うことはできないという立場です。

例えば複数の熟練した演奏家が、ある演奏の音程、間合い、曲の構成の扱いを詳しく説明できたとします。一般の聴衆がその演奏を好きになるかは人によって違いますが、説明の中には最初の聴き方を変える手がかりがあるでしょう。ヒュームの標準は、好みを従わせる命令ではなく、よく訓練された判断から学ぶための目印として理解できます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

時代を越えて読まれる作品の意味

ヒュームは、古代ギリシアの詩人ホメロスや、イングランドの劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564–1616)のように、異なる時代の読者を魅了し続ける作者を論じます。ホメロスは古代ギリシアの叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』に結びつく詩人です。読み手の習慣が変わっても作品への感嘆が繰り返し現れるなら、ある時期の流行だけでは説明しにくい力が示されます。

歴史を通して高く評価されてきた作品も、読まれる機会が与えられなかった作品も存在します。後者が忘れられたという理由だけで価値を持たないとは言えません。ヒューム自身が提示した長期的な評価の考えを現代から用いる際は、何が保存され、誰が読書に参加できたかという社会的な条件も検討する必要があります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学)

鑑賞の違いが最後まで残る理由

年齢や気質によって心が動く場所が違う

ヒュームは、熟練した人々の間にも好みの違いが残ると認めます。気質や年齢の違いから生じる好みには、修正すべき誤りと決められないものがあります。若い読者が勢いのある物語に惹かれ、年齢を重ねた読者が静かな人物描写を好んでも、それだけでどちらかの趣味が劣るとは言えません。

大切なのは、どちらの人も作品の細部をよく受け取り、理解している場合です。同じ作品を精密に読んでも、心が強く反応する場所が違うことがあります。判断を育てることと、好みが一種類になることは別です。ヒュームの趣味論には、共通する評価の手がかりを探す姿勢と、消えない違いを認める姿勢が並んでいます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

国や時代の習慣が作品の魅力を変える

国や時代によって、礼儀、話し方、人物への期待、物語の慣習は変化します。ヒュームはそうした習慣の違いが作品の好みに影響することを認めました。例えばある演劇の所作が制作当時には上品な親しみを表していても、別の社会の観客には大げさに見えるかもしれません。背景を知る努力をしても、感じる親密さが完全には一致しない場合があります。

違いを前にして、理解できないものをすぐ欠点と決めるのは早計です。同じ場面がどう受け取られてきたかを調べれば、自分の習慣が判断へ及ぼす影響に気づけます。ヒュームは趣味の標準を探しながら、歴史的な距離が評価へ残す影響も無視しませんでした。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

議論を続けても一致しないとき

例えば二人の鑑賞者が、ある絵画の構図、色のつながり、制作の事情を十分に学んだ後も、一人は静けさを、もう一人は緊張感を最も魅力的だと感じたとしましょう。両者の理解が十分なら、その差を残したまま、それぞれが何に反応しているかを説明できます。趣味を磨くことの成果は、判断の一致だけではありません。

ヒュームの議論を日々の会話へ生かすなら、「人それぞれ」と対話を終える必要も、相手を論破する必要もありません。作品のどの部分を見たか、どう比較したか、どんな習慣を前提にしたかを確かめられます。それでも残る違いを認めることで、鑑賞の会話がさらに具体的になります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

芸術の道徳と文化差にどう向き合うか

作品の中の残酷さを評価から切り離せるか

古い物語には、現代の読者から見ると残酷な行為や差別的な表現が含まれることがあります。ヒュームは制作時代の習俗を理解する必要を説くと同時に、重大な道徳的欠点が作品への感動を損なうことも論じました。道徳的な判断が作品の価値と無関係だと考えたのではなく、鑑賞者の感情がどのように動くかに注目したのです。

例えば登場人物の暴力が称賛される場面を見て、物語の巧みな構成は理解できても、肯定的な気持ちにはなれない場合があります。その経験を、鑑賞能力が足りない証拠とする必要はありません。作品の技法、物語の意味、道徳的な違和感をそれぞれ言葉にすることで、評価が何に向けられているかを整理できます。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの道徳哲学)

宗教や慣習の違いと判断の限界

ヒュームは、宗教的信念や慣習が異なる作者の作品を評価するとき、許容できる差と、重大な欠点と見なす差を区別しようとしました。ここでは、どこまで相手の時代の立場を想像できるかと、何を普遍的な価値と考えるかという二つの問題が重なります。彼の判断にも18世紀イギリスの社会や宗教をめぐる見方が反映されています。

歴史的な哲学者の文章を読む場合、その人が文化の違いへの理解を求めた事実と、実際にすべての文化を公平に評価できたかは分けて考えると明瞭です。ヒュームの方法を継承することは、その時代の個別の評価をすべて受け入れることを意味しません。自分たちの評価も偏見から自由かを問い直す余地が残ります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|18世紀のスコットランド哲学)

誰を批評家として認めるかという現代の問い

18世紀の文芸や社交の世界で「洗練された趣味」を語る資格は、教育を受ける機会や出版・討論の場への参加によって左右されました。ヒュームが判断の能力を重視したとしても、その能力を試す機会自体は平等ではありませんでした。女性、植民地の人々、労働する人々の経験が批評の中心に集まりにくかった歴史を無視すると、真の批評家の一致を安易に社会の総意と取り違えてしまいます。

この問題は、ヒュームが現代の文化的多様性の議論をそのまま述べたという意味ではありません。彼の条件を現在へ応用するときに生まれる批判的な問いです。誰が比較する機会を与えられ、どの作品が保存され、誰の反応が記録されるのか。判断する力を育てる環境の公平さも、趣味の基準を考えるうえで欠かせません。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学/スコットランド国立図書館|1754–1762年エディンバラ・セレクト協会議事録)

悲劇を見て悲しくなるのに、なぜ楽しめるのか

1757年「悲劇について」が問う矛盾

1757年の『四論集』には、「趣味の基準について」と並んで「悲劇について」が収められました。劇場で登場人物の不幸を見れば悲しみや恐れが生じます。それなのに観客は悲劇を進んで見に行き、その作品を美しいと評価します。苦痛な出来事を描く表現から、なぜ喜びが生まれるのか。ヒュームはこの一見矛盾する感情を分析しました。

例えば親子が別れなければならない舞台を見て、悲しさで胸がいっぱいになることがあります。同時に、台詞の力、俳優の表現、物語の流れに深く引き込まれ、劇を見てよかったと感じることもあるでしょう。悲しみを感じた事実と、鑑賞全体を肯定的に受け取った事実は、同時に成立します。(参照:ヒューム「悲劇について」原典|Hume Texts Online/ヒューム『四論集』原典構成|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|悲劇の逆説)

表現の力が感情の混合を変える

ヒュームは、出来事への悲しみや恐れと、それを表現する詩的な雄弁さや模倣の巧みさが生む喜びに注目しました。表現が強く働く場合、悲しい対象が引き起こした感情も、作品全体を楽しむ力へ組み込まれていくと説明します。これは悲しみが本当は存在しなかったという話ではなく、異なる情念が結びついたときの全体の変化を考える試みです。

例えば同じ別れの場面でも、説明が平板な劇と、人物の気持ちが細やかに伝わる劇では、観客の心の動きが違うかもしれません。後者では悲しみが深いからこそ、その表現の力へ感嘆を覚える場合があります。ヒュームは、悲劇の喜びを理解する手がかりとして、この感情と表現の相互作用を示しました。(参照:ヒューム「悲劇について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|悲劇の逆説)

悲劇論と趣味論が交わる場所

よい悲劇を判断するには、悲しい題材にただ強く反応することだけでは足りません。登場人物の事情を理解し、台詞や演出がどのように感情を生んでいるかを見分ける必要があります。悲劇論で扱われた情念の変化と、趣味論で扱われた繊細さや理解力の訓練は、鑑賞が一つの単純な感情では済まない点でつながっています。

悲劇の喜びを説明するヒュームの理論があらゆる悲劇に当てはまるかは、後の哲学研究でも議論されています。悲しい場面が心に残っても、作品を楽しめなかった経験もあるでしょう。そうした例を考えること自体が、彼の理論の働く範囲を確かめる方法になります。感情の複雑さを観察する姿勢は、二つの論考を通じて一貫しています。(参照:ヒューム「悲劇について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|悲劇の逆説/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学)

趣味の基準は後世の哲学と今日の鑑賞へどうつながるか

1757年に並び立った異なる美の研究

1757年、アイルランド出身の政治思想家・著述家エドマンド・バーク(1729–1797)は『崇高と美の観念の起源についての哲学的探究』を刊行しました。バークは恐怖や巨大さがもたらす「崇高」と、穏やかな快さを伴う「美」の違いを人間の感覚と感情から探ります。同じ年のヒュームは、作品を評価する趣味に共通の基準があるかを問いました。二人の研究は、18世紀の美の哲学が感情を重要な題材にしていたことを示します。

バークの問いをヒュームの問いと重ねれば、恐ろしい風景の絵を「美しい」と感じるとき、その感情はどこから来るのか、それを優れた作品と判断する理由は何かという二方向から考えられます。感動が生じる仕組みを調べることと、判断を吟味する条件を調べること。互いに関わりながら区別できる問題です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|美)

カントが改めて問う美の普遍性

のちにプロイセンの哲学者イマヌエル・カント(1724–1804)は、1790年の『判断力批判』で美の判断を体系的に論じます。カントは、美しいという判断が快の感情に結びつくのに、他人にも同意を求める形を取るのはなぜかを問いました。ヒュームとカントは解答の組み立て方が異なりますが、個人的な感情から他人と共有できる判断へどう進むかという難問をともに扱っています。

ヒュームは経験を積んだ批評家の判断をたどり、カントは美的判断が持つ普遍性への要求の性格を分析しました。感性に関する対話を考える際には、経験豊かな人がどのように評価を形成したかを尋ねる方法も、美しいと語る言葉が他人へ何を求めているかを問い直す方法も役立ちます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|18世紀ドイツ美学/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|18世紀イギリス美学)

よい批評家を決める基準も問われる

ヒュームの趣味論には難しい問いが残ります。よい作品を選ぶのはよい批評家だとして、よい批評家をどう見分けるのでしょうか。その人が名作を高く評価していることだけを根拠にすると、よい作品とよい批評家が互いを証明する循環が起こります。ヒュームは繊細さ、習熟、比較、偏見からの自由、理解力という具体的な能力を示し、この問題へ応えようとしました。

今日なら、批評家が作品の特徴をどれほど明確に示せるか、異なる文化の作品を知っているか、反対意見を受けて判断を改められるかを確かめられます。どれほど専門的な人も、間違う可能性から免れません。ヒュームの議論を読む価値は、権威ある人に好みを預けることではなく、自分と他人の判断を豊かに育てながら、なお対話を続ける方法を考えられることにあります。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/スタンフォード哲学百科事典|美的なものという概念)

略年表|ヒュームの生涯と趣味をめぐる思想

  • 1671年|第3代シャフツベリ伯爵アンソニー・アシュリー=クーパーが生まれる
  • 1707年|合同法によってイングランドとスコットランドがグレートブリテン王国となる
  • 1711年|デイヴィッド・ヒュームがエディンバラに生まれる
  • 1711年|ジョゼフ・アディソンとリチャード・スティールが雑誌『スペクテイター』を創刊する
  • 1712年|アディソンが『スペクテイター』で想像力の喜びを論じる随筆を発表する
  • 1713年|第3代シャフツベリ伯爵が亡くなる
  • 1724年|イマヌエル・カントが生まれる
  • 1725年|フランシス・ハチスンが『美と徳の観念の起源に関する研究』を刊行する
  • 1729年|エドマンド・バークが生まれる
  • 1734〜1737年|ヒュームがフランスに滞在し、『人間本性論』の執筆を進める
  • 1739年|ヒューム『人間本性論』第1・第2巻が刊行される
  • 1740年|『人間本性論』第3巻が刊行される
  • 1741年|ヒューム『道徳・政治論集』初巻に「趣味と情念の繊細さについて」などが収められる
  • 1742年|『道徳・政治論集』続巻に「懐疑論者」が収められる
  • 1745年|チャールズ・エドワード・ステュアートのジャコバイト蜂起が始まる
  • 1746年|カロデンの戦いでジャコバイト軍が敗れる
  • 1746年|内的感覚を論じた哲学者フランシス・ハチスンが亡くなる
  • 1748年|ヒューム『人間知性研究』が刊行される
  • 1751年|ヒューム『道徳原理研究』が刊行される
  • 1752年|ヒュームがエディンバラの法曹図書館の司書になる
  • 1754年|エディンバラのセレクト協会が発足する
  • 1754年|ヒューム『イングランド史』の最初の巻が刊行される
  • 1757年|ヒューム『四論集』が刊行され、「悲劇について」「趣味の基準について」を収める
  • 1757年|バーク『崇高と美の観念の起源についての哲学的探究』が刊行される
  • 1757年|ヒュームが法曹図書館の司書職を退く
  • 1763年|ヒュームがイギリス大使館の職務に伴いパリへ赴く
  • 1766年|ヒュームがジャン=ジャック・ルソーをイギリスへ同行させる
  • 1776年|ヒュームがエディンバラで亡くなる
  • 1777年|ヒュームの最終改訂による『随筆集』が死後刊行される
  • 1781年|カント『純粋理性批判』初版が刊行される
  • 1790年|カント『判断力批判』が刊行され、美的判断の普遍性を論じる

著作の刊行年はヒュームの原典書誌と研究資料に照合し、スコットランド政治史と討論会、法曹図書館の活動については英国議会とスコットランド国立図書館の記録を参照しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|デイヴィッド・ヒューム/ヒューム『四論集』原典構成|Hume Texts Online/英国議会|1707年合同法とグレートブリテン成立/スコットランド国立図書館|ヒュームと法曹図書館/スコットランド国立図書館|1754–1762年エディンバラ・セレクト協会議事録)

まとめ|好みの違いを尊重し、判断を育てる

ヒュームは、1707年の国家合同から1745年の蜂起を経て出版と討論が活発になったスコットランドで、人間が作品を「美しい」と感じる仕組みを調べました。1739〜1740年の『人間本性論』で経験と情念の働きを探り、1741年の「趣味と情念の繊細さについて」、1742年の「懐疑論者」を経て、1757年の「趣味の基準について」で、好みが異なる人々のあいだに批評の基準を見いだせるかを問います。美しさは物の中に数値のように置かれているのではなく、鑑賞する人の心に生じます。それでも個人の反応だけで議論を閉じると、経験や観察から学ぶ道が見えなくなります。

ワイン樽の底にあった鍵の逸話は、他人が気づかない細部を感じ分ける能力を印象的に示します。ヒュームが真の批評家へ求めたのは、繊細な感性、鑑賞の習熟、幅広い比較、偏見からの自由、健全な理解力でした。そうした人々の判断が批評の標準になると考えながら、年齢や気質、時代や地域による好みの違いが残ることも認めました。誰が鑑賞に参加できるか、文化の違いをどこまで尊重するか、優れた批評家をどう見分けるかという課題は今も続きます。「人それぞれ」と言う前に、何を見て、どう感じ、なぜそう考えたかを聞き合うこと。その対話のために、ヒュームの趣味論は現在も読み直されています。(参照:ヒューム「趣味の基準について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|ヒュームの美学/ヒューム「悲劇について」原典|Hume Texts Online/スタンフォード哲学百科事典|デイヴィッド・ヒューム)

参考資料・出典

1757年に『四論集』へ収録された「趣味の基準について」「悲劇について」を中心に、1739〜1740年の『人間本性論』および1741年以降の初期随筆の原典を参照しました。Hume Texts Onlineの本文は後年の改訂版も区別して提供される学術的電子テキストであり、1757年当時の文字列と無条件に同一視していません。Early Modern Textsは読みやすさのために編集した現代英語版です。歴史背景と解釈の異論は専門事典や公的資料と照らし合わせました。