1998–2004
【美術と哲学】人との関係そのものが芸術になるのか
関係性の美学とその批判
1992年、ニューヨークのギャラリーで、作品を見に来た人へ無料のタイカレーが振る舞われました。奥の事務室は台所となり、展覧会の会場には食事の匂いと人々の会話が広がります。来場者が椅子に座り、食べ物を分け合う時間までが、作品を経験する一部になりました。画面に描かれた人物を見るのとは違い、鑑賞者自身がその場で起きる出来事に加わります。
1990年代には、こうした参加や交流を重視する実践が、美術館やギャラリーで注目されていました。冷戦終結後のヨーロッパで政治と社会のあり方が問い直され、サービス産業や通信技術が生活を変えつつあった時代です。美術家たちは絵画や彫刻の形だけでなく、人々が一緒に過ごす場所、会話するための装置、共同制作の仕組みなどを作りました。
フランスの批評家ニコラ・ブリオーは、これらの作品を1998年の著書『関係性の美学』で論じました。人間同士の関係を作ることが芸術の重要な働きになるという提案です。2004年にはクレア・ビショップが、交流が生まれるだけで優れた作品と言えるのか、誰が参加し、どんな対立や排除があるのかを問いました。食卓、街の仮設施設、働く人の身体を舞台に、芸術の価値をどこで判断するかという議論が展開していきます。
CONTENTS
1992年、ギャラリーの事務室が食堂に変わった
作品《untitled 1992 (free)》で実際に起きたこと
1961年にアルゼンチンで生まれ、タイの文化的背景を持ちながら国際的に活動してきた美術家リクリット・ティラヴァニャは、1992年9月12日から10月10日まで、ニューヨークの303ギャラリーで《untitled 1992 (free)》を発表しました。ギャラリーの事務室にあった机や書類などを展示スペースへ移し、空いた部屋を簡易的な台所に変えたのです。来場者はそこで作られたタイカレーと米飯を無料で受け取ることができました。
この配置は、通常なら裏側に隠れている美術の商取引や運営のための場所を人前に出し、事務作業の場を食事の場へ変えるものでした。鍋、調理器具、テーブル、椅子、食材が並ぶ空間は、白い壁に囲まれた展示室とは異なる生活の気配を持っています。303ギャラリーが残す当時の写真には、陽光の入る室内で来場者が向かい合って座る姿や、調理道具と食材が置かれた台が写っています。
作品を構成するのは、鍋や椅子だけではありません。料理を作る人、食べる人、食べずに眺める人が同じ場所に居合わせ、その場の時間が過ぎていきます。通常は非公開の事務室を来場者に開いたことにも、ギャラリーでの売買と鑑賞の関係を組み替える意味がありました。(参照:303 Gallery|《untitled 1992 (free)》展覧会記録/MoMA|《untitled (free/still)》所蔵作品記録)
二種類のグリーンカレーが語ること
ティラヴァニャはニューヨーク近代美術館の音声解説で、1992年の展示に二種類のグリーンカレーを用意したと語っています。ひとつはニューヨークのタイ料理店で提供されていた味に近いもの、もうひとつはタイの食材を使ったものです。料理を味わう体験には、食材の入手先、食文化が別の土地へ移った際の変化、何を本場らしいと感じるかという問題が含まれていました。
同じ食卓に着く人々が、味の違いをどう感じ、どう説明するかによって会話の内容は変わります。そこには、異なる文化を説明するときの言葉や期待も現れるでしょう。この作品を単に「無料で食事をふるまった」と説明すると、作家が料理を通じて扱った文化的な翻訳や他者との距離が薄れます。食べることが作品になったのは、料理を共有する具体的な状況が、人々の関係を変えるからです。
作品を「見知らぬ人が仲良く食事をした」とだけ要約すると、移動や文化的背景によって料理の受け止め方が変わるという側面が落ちてしまいます。提供されたのは、誰にとっても同一の意味を持つ食事ではありませんでした。(参照:MoMA|ティラヴァニャ本人の解説/303 Gallery|《untitled 1992 (free)》展覧会記録)
作品は食べ尽くされた後も存在するのか
MoMA所蔵の《untitled (free/still)》は、1992年、1995年、2007年、2011年から続く制作・展示の履歴を持つ作品です。所蔵記録では冷蔵庫、テーブル、椅子、木材、石膏ボード、食物などが素材として記され、寸法は可変とされています。2011年の美術館展示では、1992年の事務室をもとにした台所が再現され、館内の飲食担当者がカレーを調理して提供しました。作家自身が毎回同じ人数に料理を作るという形では継承されていません。
残されているのは固定した一つの物体というより、空間を整え、料理を作り、人が集まれるようにする条件です。調理を担当する人、訪れる人、美術館の運営が変わることで、その都度異なる体験になります。作品の継続は材料を保存することと、作品を成立させる手順や関係を伝えることの両方に支えられています。この保存と再制作の仕組みも、関係性の美学が投げかけた作品の同一性の問題を具体的に示します。
美術館はこの作品を、過去の展示の痕跡として提示することも、実際に料理を提供する状態で再び実施することもできます。冷蔵庫、椅子、壁材、食物などの記録と、誰がどこで何をするかという実施の条件が一体になっているのです。作品を保存する仕事そのものが、物体を保管する仕事から、再び出来事が起こる条件を伝える仕事へ広がります。(参照:MoMA|《untitled (free/still)》所蔵作品記録/MoMA|2011–12年の展示と再制作)
ニコラ・ブリオーは、何を「関係性の美学」と呼んだのか
1996年の「Traffic」展から、1998年の著作へ
ニコラ・ブリオー(1965年生まれ)は、フランスで現代美術の展覧会企画、雑誌編集、批評に携わってきた人物です。1990年代には美術誌『Documents sur l’art』の編集や展覧会を通して、リクリット・ティラヴァニャ、リアム・ギリック、フィリップ・パレーノ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステルら同世代の作家の仕事に注目しました。彼が考えたのは、同じ様式や素材で括れない作品群の間に、どんな共通の発想が見つかるかという問題です。
1996年1月26日から3月24日まで、フランス南西部ボルドーのCAPC現代美術館で展覧会「Traffic」が開かれました。ブリオーが企画し、28人の作家が参加した展覧会です。美術館として使われる旧倉庫の大きな空間に、映像、物体、来場者が関与する仕掛けなどが集まりました。展覧会の図録には、ひとつの外観や主題で統一するよりも、作家たちの関心が人間同士の関係に向かっているという説明が示されています。
1998年、ブリオーはフランス語で『Esthétique relationnelle(関係性の美学)』をディジョンの出版社Les presses du réelから刊行しました。フランス国立図書館の記録によれば、初版は123ページです。2002年には英語版『Relational Aesthetics』が出版され、議論はフランス語圏を越えて読まれるようになりました。1998年という記事の起点は理論書の初版刊行年に対応しています。
1998年刊行の著作は、それに先立つ作品や展示の試みを批評的な言葉で捉えたものです。理論に従う作品を探すより先に、1992年のティラヴァニャ、1996年の「Traffic」展という歴史的な経緯をたどると、ブリオーが何を説明しようとしたかが伝わります。(参照:ニコラ・ブリオー|「Traffic」図録論考(1996年)/CiNii Books|1996年「Traffic」展図録の書誌/Les presses du réel|『関係性の美学』刊行史と概要)
作品の中心は、完成品よりも「関係の条件」へ
ブリオーの関係性の美学では、作品を絵画のような視覚的対象に限らず、交流を可能にする場や状況として考えます。展示室に料理の香りが漂い、観客同士が食べ物を分け合っているとき、鍋や皿だけで展覧会の経験を説明することはできません。誰かが作り、別の誰かが食べるという行為、言葉を交わす時間、居合わせた人によって変わる空気が、作品の具体的な姿を形作ります。
展示室に置かれたテーブルや鍋は、目で見て確かめられる物体です。同時に、誰が調理をし、誰が食べ、そこで何を話すかによって、鑑賞経験は大きく変わります。ブリオーの関心は、芸術の材料を人間関係へ置き換えることだけではありません。人々が集まる機会や行為の条件を、作品を考える対象として扱うことでした。
絵画を見る人も色を比べたり、図像を解釈したりして能動的に鑑賞しています。観客の働きが芸術に関わることは、1990年代に初めて発見された現象ではありません。ブリオー自身、1996年の文章でマルセル・デュシャンの「創造的行為」に言及し、鑑賞者の参与に長い歴史があることを認めています。彼がより強く述べたのは、観客間の相互作用が制作の出発点と到達点になるという違いでした。(参照:ニコラ・ブリオー|「Traffic」図録論考(1996年)/Les presses du réel|2002年英語版『Relational Aesthetics』)
「社会的な間隙」と小さなユートピア
ブリオーは1996年の文章で、作品を社会の中に生まれる「間隙(かんげき)」として捉えました。この言葉は、既存の仕事や消費の規則が支配する場の中で、別の関係を試せる小さな場所を指しています。展示室で見知らぬ人と無償で食事を分け合う場面を思い浮かべると、普段の外食とは異なる決まりが一時的に成立していることがわかります。食事の代金や店員と客の役割から離れて、人と人の距離を作り直す試みです。
ブリオーはこのような短い時間の実験を、日常の中で試される小さなユートピアと結びつけました。ユートピアは理想社会の構想を意味します。20世紀の芸術には、革命後の社会の全体像を示そうとした運動がありました。関係性の美学の関心は、完成された社会像を先に示すことから、現実にある小さな交流の条件を試すことへ移ります。理想を壮大な未来の制度として掲げるより、目の前の人と共有できる時間として作る発想です。
1990年代には通信技術が発達し、消費やサービスの仕組みも生活の広い部分を占めるようになりました。ブリオーは、こうした社会の中で対面する時間を作る営みを、同時代の芸術の働きとして評価しました。彼の提案は、あらゆる人に同じ関係を与える完成した理想社会の設計ではなく、目の前の場で関係を試す方法に向けられています。(参照:ニコラ・ブリオー|「Traffic」図録論考(1996年)/クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
参加する芸術は、1990年代に突然生まれたのか
ハプニング、フルクサスから続く実験
1990年代の参加型美術には先行する実践がありました。1960年代のハプニングでは、予定された演技と偶然の出来事が交じり、観客が単に客席から眺める役割を超えて作品に関わりました。フルクサスでも、簡潔な行為の指示や日常の道具を通じて、芸術の特別な場所と普段の生活との距離が問い直されます。作品を見る人と行う人の境界は、以前から多くの作家によって実験されてきました。
ビショップは2004年の論文で、1960年代のハプニングやフルクサス、開かれた作品の理論を挙げ、参加を引き起こす作品という発想の先行例を確認しています。関係性の美学が1990年代に与えた意味は、その試みを新しい時代の消費・通信・展示制度の中で読み直し、複数の作家の作品を同じ問題から説明する言葉を与えたことにあります。
1990年代の特徴は、この歴史を受け継ぐ作品が、通信、消費、サービス、展示制度といった同時代の状況を踏まえて論じられたことにあります。「参加」という共通項だけでは、作品がどのような経験を生むかまでは決まりません。(参照:MoMA|《untitled (free/still)》所蔵作品記録/クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
ゴンザレス=トレスのキャンディーが伝える喪失
キューバ生まれでアメリカを拠点に活動した美術家フェリックス・ゴンザレス=トレス(1957–1996)は、1991年に《Untitled (Portrait of Ross in L.A.)》を制作しました。色とりどりの包装紙に包まれたキャンディーを床に積み上げる作品です。作家財団によれば、理想的な重量は175ポンド、約79キログラムで、展示時の全体の大きさは設置条件によって変化します。観客はキャンディーを持ち帰ることができ、展示する側は必要に応じて補充します。
この作品が「ロスの肖像」と呼ばれるのは、エイズによって命を落とした作家のパートナー、ロス・レイコックへの追悼に関わるからです。キャンディーの重さと減少を人間の身体や喪失に結びつける読みは広く行われています。鑑賞者がひとつ取るという小さな行為を通じて、誰かの死と、他者から受け取るものの重みを考える時間が生まれます。ここでの参与は楽しい交流に加え、失われる身体や記憶に触れる経験でもあります。
観客が触れて持ち去ることと、再び補充できることは、生命の有限さと、残された人が記憶をつなぐ営みを同時に考えさせます。関係性を生む作品がいつも明るい交流を目指すわけではないことが、この作品からよくわかります。人々の行為が作品を変えるという共通点を確認したうえで、その行為がどんな感情と歴史へ結びつくかを考える必要があります。
ブリオーの著書はゴンザレス=トレスにも言及しています。けれどもこのキャンディーの作品を、会話のための仕組みとしてだけ捉えると、ロス・レイコックとの関係やエイズ危機の歴史が見えなくなります。誰かから受け取ったものを持ち帰る行為が、親密さと死の記憶を伴っている点に、この作品の固有性があります。(参照:ゴンザレス=トレス財団|《無題(ロスの肖像)》/Les presses du réel|『関係性の美学』刊行史と概要)
関係を作る作品には、いくつもの方法がある
1996年、ティラヴァニャは美術館の中に自宅を開いた
1996年11月から翌年にかけて、ティラヴァニャはドイツのケルン美術協会で《untitled, 1996 (tomorrow is another day)》を発表しました。作家のニューヨークの住居をほぼ原寸大で再現し、キッチン、居間、浴室、寝室などを備えた空間を来場者へ開いたものです。1990年代の同作を紹介したニューヨーク近代美術館の展覧会図録によれば、会期中の部屋は昼夜を通して利用できるようにされていました。
家で客をもてなすとき、家の持ち主と訪問者の役割はある程度決まっています。ティラヴァニャの再現された住居では、主催者が作った場所を他者が使い、生活行為が作品を作ります。住居の家具や間取りは視覚的に重要な構成要素であり、どこに座れるか、どう動けるかという判断が、交流の生まれ方を決めます。つまり人間関係は自然に湧き上がるものではなく、具体的な空間とルールによって方向づけられています。
この作品には「誰でも利用できる場所を作る」という魅力とともに、その場所で実際に何が起きたかという問いが残ります。長く滞在した人と少しだけ訪れた人、場の文化に慣れた人と慣れていない人では、同じ開放性も違った意味を持つからです。交流が作品の一部になるとき、その経験を公平に記述するためには、参加者の行為だけでなく、場を設計した人の役割にも目を向ける必要があります。
食事を提供する場から、居住の形式そのものを公開する場へ。人との関係を扱うという共通点の内側で、作家は私的な空間を公の場所へ移すという別の実験を行っていました。(参照:ケルン美術協会|1996年ティラヴァニャ展/MoMA|《untitled (free/still)》所蔵作品記録)
ギリックの構造物は、まだ開かれていない会議を想像させる
イギリス出身の美術家リアム・ギリック(1964年生まれ)は、1990年代に文章、図面、建築的な構造物を用い、社会の意思決定や労働の仕組みを考える作品を制作しました。《Discussion Island》の各作品には、平台、仕切り、枠組み、半透明のパネルなど、会議室やオフィスに置かれそうな形が現れます。1997年の《Discussion Island Dialogue Platform》や《Discussion Island: Projected Think Tank》は、作家自身が公開している作品一覧でも確認できます。
ギリックの空間は、観客に決まった作業を指示する台所とは違います。会議や相談が行われそうな設備を置き、未来の計画について話す場面を想像させるのです。表面の色や部材の寸法、空間を区切る仕組みは、装飾であると同時に、どんな集まりや交渉を可能にするかという問題と結びつきます。形のある装置が、そこにまだ存在しない人間関係を示唆する点に、作品固有の特徴があります。
ギリックは1997年、著作『Discussion Island/Big Conference Center』を発表しました。ニューヨーク近代美術館の2003年の展覧会解説によれば、そこで描かれるのは、はっきり特定されない現在に暮らす三人が未来を構想しようとする物語です。議論しても具体的な解決に到達するとは限らず、計画、交渉、妥協そのものが主題になります。彼は映像や構造物と並行して文章を作り、作品の背景となる社会や政治の仮想的な場面を考えました。
2003年のMoMA「Projects 79: Literally」展でも、図式、文字、構造物を通じて、組織が考えや決定を生む方法が扱われました。ギリックの作品では、人々がその場で話したかどうかだけでなく、まだ始まっていない会議を想像させること自体が造形の働きになります。(参照:MoMA|「Projects 79: Liam Gillick, Literally」(2003年))
四万六千円で購入されたキャラクター「アンリー」
1999年、ピエール・ユイグとフィリップ・パレーノが取得した日本の商業用キャラクター「アンリー」の価格は、SFMOMAの当時の資料によれば4万6,000円でした。アンリーには詳しい過去や性格がなく、商業用の物語で短く使われて消えていく可能性のあるキャラクターでした。二人はその著作権と元画像を購入し、ほかの美術家がそれぞれの方法でアンリーに物語を与える企画を始めました。
これは観客同士が食卓を囲む作品とは違い、作家たちが一つのキャラクターとその権利を共有する試みでした。一人の作家が主人公を独占する構造を崩し、それぞれの作品でアンリーが違う姿や声を得る。共同制作や著作権の扱い方まで、作品の成り立ちに組み込まれています。
2002年12月、サンフランシスコ近代美術館で「No Ghost Just a Shell」展が開かれ、翌2003年3月まで続きました。ユイグとパレーノがほかの作家を招き、アンリーを使って制作した映像や別媒体の作品を集めた展覧会です。参加した人々にはギリック、ティラヴァニャ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステルらも含まれ、ひとつの図像が異なる作家の方法で変化する過程をたどることができました。(参照:SFMOMA|「No Ghost Just a Shell」開催時の報道資料(2002年))
声が地形を変える映像と、アンリーの「解放」
ユイグが2001年に制作した《One Million Kingdoms》は、上映時間6分46秒のカラー・音声付き映像です。アンリーはコンピューターで作られた月のような風景を進みながら語り、声にはアポロ計画の宇宙飛行士ニール・アームストロングの録音やジュール・ヴェルヌの小説から得た言葉が用いられています。ハーシュホーン美術館の作品解説によれば、声の抑揚に応じて地形の起伏が形作られる仕組みです。
主人公は画面の中を進みますが、背景は動かない舞台装置ではなく、発声そのものによって変化します。映像の技術、他の表現から借りた声や言葉、キャラクターの権利が重なり、作品はひとりの作家が新しい人物像を作る場合と異なる成立条件を持ちます。共同制作と流通の問題が、具体的な音声と映像の造形にまで入っている作品です。
2002年から2003年のSFMOMAでの展覧会は、この共同企画を締めくくる役割も持ちました。開催時の発表によれば、作家たちはアンリーをさらに利用することを終わらせ、契約によって商業的・芸術的な流通から解放することを構想していました。共同の創作物を増殖させた後で、その流通を終えるという選択までが企画に含まれていました。
誰が作品を所有し、誰が自由に使えるのか。人と人との関係を芸術として扱うというブリオーの枠組みは、食事や会話以外にも、創作に関わる権利と役割の分配へ広がっていきます。(参照:ハーシュホーン美術館|ユイグ《One Million Kingdoms》/SFMOMA|「No Ghost Just a Shell」開催時の報道資料(2002年))
2002年、美術館は「実験室」のようになった
パレ・ド・トーキョーとブリオーのもう一つの仕事
こうした変化を理解する具体例が、2002年にパリで開館したパレ・ド・トーキョーです。1937年の万国博覧会のために建設された建物の西翼を、建築家アンヌ・ラカトンとジャン=フィリップ・ヴァッサルが改修し、内装の未完成な印象を残した現代美術のための空間としました。批評家クレア・ビショップは2004年、展示室を実験室や制作現場のように見せる発想が、参加型作品と結びついていたと論じています。作品だけでなく、それを見せる制度の姿も変わろうとしていました。
パレ・ド・トーキョーの運営に関わったブリオーは、作品が人と関係を結ぶ場について論じるだけでなく、その場を作る制度の責任も引き受ける立場にいました。2004年のビショップの批評が展示施設の問題から始まるのは、この理論と運営との近さが重要だったからです。(参照:パレ・ド・トーキョー|施設沿革/クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
開放的な展示が、開放的な制度を意味するとは限らない
食事や会話を作品にする展示は、開館時間や会場の決まりと密接につながります。食材がなくなれば補充する必要があり、来場者が参加するには調理する人や安全を確保する人が必要です。映像や彫刻を展示する場合にも運営は必要ですが、会期中に参加者の行動が作品の主要な部分を作る展示では、職員の仕事が鑑賞体験の内部へいっそう近づきます。
磨かれた白い壁、整った照明、展示ケースの中の作品を見ると、完成した芸術に出会う印象が強まります。未完成な壁や組み立て途中の装置が見える空間では、鑑賞者はこれから何かが変わるという期待を持ちます。パレ・ド・トーキョーのむき出しの内装は、2002年の開館時にそのような雰囲気を作り出しました。
展示室が作業場に見えることと、誰が何を決められるかは別の問題です。企画を選ぶのは誰か。施設が許可する行動はどこまでか。食事や会話を維持するスタッフの労働はどう扱われるのか。来場者が自由に参加できる印象の背後にも、予算と運営、許可と管理の仕組みがあります。
ビショップは2004年の論文で、実験室のような美術館が制作の途中経過を積極的に見せる一方、それ自体が新しい娯楽や体験の場として売り出される可能性を指摘しました。来場者を歓迎し、くつろげる場を作ることは、美術館の大切な働きです。その働きを作品の批評と結びつけるときには、居心地のよさが何を実現したかを具体的に考える必要があります。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年)/パレ・ド・トーキョー|施設沿革)
2004年、クレア・ビショップは何を批判したのか
「交流が生まれる」だけでは作品の良さを判断できない
イギリス出身の美術史研究者・批評家クレア・ビショップは、2004年に美術理論誌『October』第110号へ「Antagonism and Relational Aesthetics(敵対性と関係性の美学)」を発表しました。論文は51〜79ページに掲載され、ブリオーの理論とティラヴァニャ、ギリックの作品を詳しく検討しています。ビショップが問うのは、作品によって交流が生じることだけを根拠に、作品が民主的だと評価できるかという問題でした。
人と人との関係は、それぞれの立場や利害を持つ人々の間に生まれます。会話の中には親しさもあれば意見の不一致もあり、発言を遮られる人がいる場合もあります。ビショップは、作品を評価するときに関係の存在だけを数えると、そこでどのような力が働いているかが見えにくくなると考えました。批判の中心は、参加型美術そのものの否定ではなく、関係の質を判断する基準です。
ビショップは、ティラヴァニャの1992年の展示を伝えた当時の批評にも目を向けています。その記録には、ギャラリーで食事をしながら画商や作家と会話した楽しさが表れています。作家が意図した場を実際にどんな人が使ったのかを知るには、こうした証言は貴重です。一方、親しい美術関係者が心地よく過ごせたという事実だけでは、異なる立場の人々の関係が変わったことまではわかりません。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年)/『October』|ビショップ論文の原掲載記録)
ビショップがラクラウとムフの民主主義論を参照した理由
ビショップは論文で、アルゼンチン出身の政治理論家エルネスト・ラクラウ(1935–2014)と、ベルギー出身の政治理論家シャンタル・ムフ(1943年生まれ)による民主主義の議論を参照しました。二人は1985年に『Hegemony and Socialist Strategy(ヘゲモニーと社会主義の戦略)』を刊行し、社会に存在する異なる要求や集団を、単純な合意だけでまとめられないことを論じました。
ラクラウとムフが論じる「敵対性」は、単に口論や感情の衝突を指しません。社会の一員を誰とみなすか、何が公共の問題になるかという境界は、異なる集団や要求の間で争われながら作られます。ビショップは、この政治理論によって、一時的な共同体が心地よく成立しているように見える時にも、そこから外れる人々の存在を考えるよう求めました。
ビショップは、単なる調和と単なる衝突の二者択一を目標にしているのではありません。芸術が作る関係の中に、社会の異なる立場がどのように現れ、互いの位置を揺さぶるかを問います。そこで重要になるのが、作品を見た人の不安や気まずさが、制度や立場の境界に気づく経験になることです。後に紹介するヒルシュホルンやシエラの作品が、具体例になります。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
評価の焦点を、参加の量から関係の具体的な内容へ移す
大勢の観客を集め、会話や参加を促した作品には、活気が生まれます。参加人数や滞在時間を数えれば、展示を運営する側が把握しやすい成果になるでしょう。ビショップが求めたのは、その数字の内側で、どのような関係が成立していたかを検討する批評でした。食事の場で誰と誰が話しているのか、地域の企画で誰が決定権を持っているのか、報酬を伴う行為では誰に負担が集中するのか。具体的な違いが作品の評価を変えます。
ここで問われるのは、誰もが気持ちよく食事を終えたかということだけではありません。初めて来た人は会話に加われたか。いつもそこにいる人と招かれた人は同じ権限を持っていたか。会場が変われば同じ作品の経験も変わるのか。作品を社会的な場として評価するほど、その場の実際の条件を観察する必要があります。
では、他者との違いや緊張を消さずに経験させる作品は、どのような姿をしているのでしょうか。ビショップが比較対象に選んだヒルシュホルンとシエラの制作が、その問いを具体的な場所と身体の問題へ進めます。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
トーマス・ヒルシュホルンは、観客を街へ連れ出した
2002年のドクメンタで、集合住宅地に作られた施設
スイス出身の美術家トーマス・ヒルシュホルン(1957年生まれ)は、2002年の第11回ドクメンタで《Bataille Monument(バタイユ・モニュメント)》を制作しました。ドクメンタはドイツのカッセルで開かれる国際的な現代美術展です。2002年はナイジェリア生まれのキュレーター、オクウィ・エンヴェゾー(1963–2019)が芸術監督を務め、世界の政治や文化を問う複数の会議と展覧会が組み合わされました。
ヒルシュホルンはカッセル中心部の主要展示会場から離れたノルトシュタット地区に《バタイユ・モニュメント》を設けました。木材、プラスチックのシート、アルミ箔、茶色いテープなどを用いた仮設建築が住宅地の芝生に並びます。ひときわ整った記念碑を建てる代わりに、その場所で人が集まり、読むことができる施設を地域住民とともに作ったのです。
図書室にはバタイユに関する本や映像が置かれ、別の建物にはテレビ制作の場所や思想家の生涯を扱う資料がありました。地元の家族が運営する飲食の場も加わっています。哲学者の名前を掲げることで、専門家だけのものと思われがちな読書や思索を、その地域の日常の中へ持ち込む構成でした。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年)/ドクメンタ|第11回展の公式記録)
タクシーに乗る時点から、作品への参加が始まる
ビショップの2004年の詳しい記述によれば、観客が《バタイユ・モニュメント》へ行くには、契約したトルコ系のタクシー会社を利用する仕組みがありました。カッセルの中心から会場へ運ばれた観客は、帰りの車が来るまでその場で過ごすことになります。図書室に立ち寄り、飲食の場を使い、そこに住む人々と場所を共有する時間は、作品の展示構造に組み込まれていました。
いつもの美術展なら、観客は作品を鑑賞し終えると次の展示へ移動できます。ここでは移動手段まで設計され、地域の生活圏が鑑賞の場になります。美術に慣れた来訪者が、展示の中心にいるのは必ずしも自分たちではないと感じる状況が生まれました。
ビショップはこれを、地域住民を珍しい見世物として眺める態度への反転として評価しました。同時に、地域へ美術観光の人々を送り込むこと自体が抱える緊張も消えません。関係性を作品と呼ぶとき、訪ねる側と訪ねられる側の立場がどのように作られるかまで見えてきます。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
サンティアゴ・シエラは、不平等を作品の内側に置いた
身体に線を残すことと、労働を買うこと
スペイン出身の美術家サンティアゴ・シエラ(1966年生まれ)は、1990年代末から、報酬を受け取って働く人々の行為を作品に取り入れてきました。2000年の《Line of 160 cm Tattooed on Four People》では、四人の身体に連続する一本の線の刺青を施す状況を制作・記録しています。刺青は身体に残るため、作家が用意した状況は会場で終わる一時的な行為より長い影響を持ちます。
シエラの仕事には、不平等な労働関係を目に見える形で扱う方法があります。仕事を依頼する側が条件を決め、引き受ける側が報酬のために行為する。その非対称な関係が、作品の成立条件として現れます。こうした作品を理解するには、参加した人の同意や報酬、行為の負担についての具体的な記録が必要です。社会的不平等を批判する意図と、その再現が当事者へ及ぼす影響は、それぞれ検討すべき問題です。
労働を買う側と、報酬を受け取る側では、決定できる条件に差があります。シエラはその差を隠さずに作品化しますが、経済的に弱い立場にある人へ負担を引き受けさせる方法には、作品が何を批判しているかという問題とは別の倫理的な緊張があります。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年)/Prometeo Gallery|サンティアゴ・シエラの作品資料)
ヴェネツィアで髪を金髪に染めた人たち
2001年のヴェネツィア・ビエンナーレで、シエラは路上で商品を売る人々らに髪を金髪に染めてもらいました。参加する条件はもともと髪が暗い色であること。ビショップの論文によれば報酬は12万イタリア・リラ、当時の約60ドルでした。計画上は200人を想定していたものの、現場での人数は133人と記録されています。 金髪への変化は街路に出ると周囲の目を引きます。普段は美術展の華やかな開催行事の外側で商売をする人々が、ビエンナーレの期間に視覚的に目立つ存在になりました。
ビショップが注目したのは、展示会場の中で商人たちが商品を売る姿に対して、芸術の観客が戸惑う瞬間でした。普段は街頭で行われる商取引が美術展の内部へ持ち込まれ、互いに相手のいる場所での振る舞いがわからなくなる。この奇妙な距離感を通じて、誰が美術展に属する人として扱われるのかが見えてきます。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
社会批評としての強さと、加担することの矛盾
ここには避けがたい疑問があります。格差を批判する作品が、報酬を得るために身体を差し出す人々の状況を利用しているのではないか。シエラ自身も作家として報酬を受け取り、依頼する側に立ちます。誰がその行為の危険や不利益を負い、誰が展示による評価を受けるかは一致しません。
ビショップも、シエラの作品が「資本主義は搾取的だ」という既知の事実を示すだけではないかという批判を紹介しています。そのうえで、シエラが場の区分や排除を明らかにし、鑑賞者の所属意識まで揺さぶることに批評的な可能性を見ました。シエラの作品を単純に称賛することも、参加者の同意があったという一点で倫理的な問題が解消したと考えることもできません。
ティラヴァニャの食事とシエラの雇用は、いずれも作家が人と人との関係を設計する行為です。前者ではもてなし、後者では取引と力の差が目立ちます。関係を作るという形式の共通性が、そのまま同じ評価へつながらないことが、二つの制作を並べる意義です。(参照:クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
2004年、対話を重視する別の議論もあった
スザンヌ・レイシーの屋上駐車場で、若者が語った
アメリカの美術家スザンヌ・レイシー(1945年生まれ)は、1970年代から、女性や若者を取り巻く社会問題について、参加者との共同制作や公共の行動によって作品を作ってきました。彼女が複数の協力者と進めた「オークランド・プロジェクト」(1991–2001年)の一つ《The Roof Is on Fire》では、1994年に公立高校の生徒220人が屋上駐車場の約100台の車へ分かれて座り、家族、教育、将来、薬物、セクシュアリティなどについて話し合いました。
1000人以上の市民がその場で会話に耳を傾けたと、作家の公式記録は説明しています。通常、教師や専門家が若者について語り、大人がそれを聞く構図になりがちな問題が、生徒自身の言葉によって共有されました。車内の会話は台本に従って演じられたものではなく、参加者がそれぞれの立場で話すことで成り立った出来事です。集められた車と聞き手を含む会場全体が、若者の発言を受け取るための造形的な仕組みになりました。(参照:スザンヌ・レイシー|「オークランド・プロジェクト」公式記録)
当日の会話より長い、学校との準備の時間
レイシーの活動には、展覧会当日に訪れる観客の反応より長い時間の準備が含まれています。《The Roof Is on Fire》のために、学校や教師と協力して教育プログラムを組み立て、若者がメディア表現や社会問題を学ぶ時間が設けられました。参加者が公の場で話せるようになる過程には、信頼関係、技能の共有、学校制度との交渉が関わっています。
美術作品の材料を木材や顔料と説明する場合、作家がそれを加工して形を作ります。参加型作品では、人が自分で考え、同意し、発言するため、同じ言葉で人間を材料として扱うことには慎重さが求められます。レイシーの作品で生徒が語る内容は、作家が自由に変形できる物体ではありません。複数の人々の意思と経験が、作品の進み方を左右します。(参照:スザンヌ・レイシー|「オークランド・プロジェクト」公式記録)
グラント・ケスターは、対話の継続をどう評価したのか
アメリカの美術史研究者グラント・ケスターは、2004年に『Conversation Pieces: Community and Communication in Modern Art』を出版し、地域での共同制作や対話を中心とした美術を論じました。出版社の目次には「対話の美学」「対話的実践の批評的枠組み」「共同体とコミュニケーション」などの章題が並びます。作品にどんな人間関係が生まれたかを評価するうえで、対話に時間をかけることや互いの立場を理解することに関心を置いた議論です。
展覧会の一日限りの催しで見知らぬ人と話す場合と、学校や地域の人々と数年にわたって仕事をする場合では、関係の継続が異なります。後者では意見の違いが表面化した後にも、相手と何度も会うことになります。初回の気持ちよさより、決定を変えたり、負担を分け合ったりする過程が作品の内側に入ります。
ケスターが重視した対話の倫理と、ビショップが重視した敵対性は、同じ年に提示された単純な二者択一ではありません。ケスターの研究は、特定の集団と継続的に関わる作品の条件を検討するものであり、ビショップの2004年論文も、こうした協働のあり方を一括して退けるものではありませんでした。両者は対象とする実践も議論の焦点も異なります。
関係を芸術の価値として考えるとき、参加者の間に一度交流が生じたか、その後も協力を続けられるか、話し合いの途中で力の差がどう変わるかという複数の問いが見えてきます。(参照:カリフォルニア大学出版局|ケスター『Conversation Pieces』/スミソニアン図書館|『Conversation Pieces』2004年版書誌/クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年))
略年表|関係性の美学とその批判
- 1960年代|ハプニングやフルクサスなどで、観客の行為や時間を作品に組み込む実践が広がる
- 1991年|ゴンザレス=トレスが《Untitled (Portrait of Ross in L.A.)》を制作
- 1992年9–10月|ティラヴァニャが303ギャラリーで《untitled 1992 (free)》を発表
- 1993–1994年|レイシーらが《The Roof Is on Fire》を準備・実施
- 1996年1–3月|ブリオーが企画した「Traffic」展がCAPC現代美術館で開催
- 1996年11月–1997年1月|ケルン美術協会でティラヴァニャの住居を用いた展示が開催
- 1997年|ギリックが『Discussion Island/Big Conference Center』を刊行
- 1998年|ブリオーが『Esthétique relationnelle(関係性の美学)』を刊行
- 1999年|ユイグとパレーノがアンリーの権利を購入し《No Ghost Just a Shell》を開始
- 2000年|シエラが四人の身体に一本の線を施す刺青作品を制作
- 2001年|シエラがヴェネツィアで《Persons Paid to Have Their Hair Dyed Blond》を実施
- 2001年|ユイグが《One Million Kingdoms》を制作
- 2002年1月|パレ・ド・トーキョー開館
- 2002年|第11回ドクメンタでヒルシュホルンが《バタイユ・モニュメント》を展示
- 2002年12月–2003年3月|SFMOMAで「No Ghost Just a Shell」展開催
- 2003年|MoMAでギリック「Projects 79: Literally」展開催
- 2004年|ビショップ「敵対性と関係性の美学」が『October』第110号に掲載
- 2004年|ケスター『Conversation Pieces』刊行
まとめ|人間関係はどのように芸術になるのか
人々が作品の前で会話する、料理を食べる、共同で何かを作る。1990年代の美術では、こうした行為を生み出す場そのものが重要な制作の対象になりました。ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」は、外見の異なる作品を人間同士の関係という観点から読み解く方法を示しました。1992年のティラヴァニャのカレー作品では、ギャラリーの事務室を台所に変える操作が、食事と出会いを生む装置になっています。
一方、関係を作ることがすべての作品で同じ価値を持つわけではありません。ゴンザレス=トレスのキャンディーには喪失と追悼があり、ヒルシュホルンの施設では都市の生活圏と美術展の観客の立場が交差し、シエラの仕事には人を雇う側と雇われる側の差が組み込まれています。クレア・ビショップが2004年に指摘したのは、交流が成立したという事実から、民主性や政治的な価値まで自動的に認めてしまうことの危うさでした。
人間関係そのものが芸術になるという提案は、作品を考える範囲を物体の外へ広げました。それを作品として成立させるのは、場所や素材を選び、行為の条件を組み立て、鑑賞者がそこで生じる出来事を経験し、解釈する仕組みです。誰がその条件を決め、どのような人が関わり、参加によって何が変わるのか。作品の形と参加者の立場の両方を具体的に見ることで、関係性の美学とその批判が今日にも残した意義がわかります。
参考資料・出典
- 303 Gallery|《untitled 1992 (free)》展覧会記録
- MoMA|《untitled (free/still)》所蔵作品記録
- MoMA|ティラヴァニャ本人の解説
- MoMA|2011–12年の展示と再制作
- ニコラ・ブリオー|「Traffic」図録論考(1996年)
- CiNii Books|1996年「Traffic」展図録の書誌
- Les presses du réel|『関係性の美学』刊行史と概要
- Les presses du réel|2002年英語版『Relational Aesthetics』
- クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」論文(2004年)
- ゴンザレス=トレス財団|《無題(ロスの肖像)》
- ケルン美術協会|1996年ティラヴァニャ展
- MoMA|「Projects 79: Liam Gillick, Literally」(2003年)
- SFMOMA|「No Ghost Just a Shell」開催時の報道資料(2002年)
- ハーシュホーン美術館|ユイグ《One Million Kingdoms》
- パレ・ド・トーキョー|施設沿革
- 『October』|ビショップ論文の原掲載記録
- ドクメンタ|第11回展の公式記録
- Prometeo Gallery|サンティアゴ・シエラの作品資料
- スザンヌ・レイシー|「オークランド・プロジェクト」公式記録
- カリフォルニア大学出版局|ケスター『Conversation Pieces』
- スミソニアン図書館|『Conversation Pieces』2004年版書誌