Art Library
Philosophy

1977

【美術と哲学】写真はなぜ現実の証拠に見えるのか

パースの記号論とロザリンド・クラウス

1977年のニューヨークでは、美術館の展示室に絵画や彫刻と並んで写真、映像、文字による指示書、土地や建物への介入を記録した資料が現れていました。写真は新聞や広告、家族のアルバムに広く使われ、同時に、現場で起こった行為の唯一の記録として美術館に置かれることもありました。1960年代の大衆的なテレビ文化や写真印刷の普及を背景に、人々が芸術に接する媒体そのものが変化していたのです。

写真は私たちに、そこに写っているものがかつてカメラの前にあったという感覚を与えます。見知らぬ街の写真を眺めても、光景を直接訪れた人のようにその存在を信じることがあります。けれども画面の外で何が起きていたのか、撮影者がどの方向を向いていたのか、誰が写真に説明文を付けたのかは、写真を見るだけではわかりません。現実との結びつきと、写真が伝える意味は同じ問題なのでしょうか。

アメリカの美術批評家ロザリンド・クラウス(1941年生まれ)は、1977年、雑誌『October』に二部構成の論考「インデックスについての覚書――1970年代のアメリカ美術」を発表しました。彼女は19世紀に活動した哲学者チャールズ・サンダース・パース(1839–1914)の記号論を手がかりに、写真の性質が当時の美術全体を理解する鍵になると論じます。光の痕跡、指紋、壁の擦り取り、身体の動きの記録には、物と像を結ぶ共通の仕組みがあるという見方です。

写真が現実の証拠に見えるのは、何かに似ているからなのでしょうか。それとも現実の出来事が、光や物質の働きによって像を残すからなのでしょうか。デュシャンやマン・レイから、1970年代のランド・アート、身体を用いた作品、建物を変えるインスタレーションまでを見ていくと、写真と芸術の関係について新しい問いが生まれます。

CONTENTS

  1. 1970年代の美術に写真が広がった理由
  2. 写真はなぜ「そこにあった」と思わせるのか
  3. チャールズ・サンダース・パースは誰だったのか
  4. 似ている記号・つながる記号・約束による記号
  5. インデックスと「痕跡」はどこまで同じか
  6. 写真の像はどのように作られるのか
  7. 写真の発明時に「現実が自分で描く」と考えられた
  8. 写真の見え方を決める撮影者の判断
  9. ロザリンド・クラウスはなぜ写真に注目したのか
  10. 1977年の二つの「インデックスについての覚書」
  11. 「これ」「私」と写真はどう似ているのか
  12. デュシャンの《Tu m’》は何を指し示すのか
  13. マン・レイ《埃の培養》に写った時間の痕跡
  14. カメラを使わない《レイヨグラフ》の像
  15. 既製品と身体の型も「指標」になるのか
  16. オッペンハイム《Identity Stretch》の巨大な指紋
  17. アコンチ《Following Piece》で写真は何を残したのか
  18. スミッソン《スパイラル・ジェティ》と映像の役割
  19. 1976年のP.S.1では何が起こったのか
  20. マッタ=クラークは床をどのように切ったのか
  21. ミシェル・スチュアートは壁の記憶をどう写したのか
  22. ルーチョ・ポッツィの色面は何の痕跡なのか
  23. ケリーとポッツィでは抽象画の意味がどう違うのか
  24. 踊らずに話したデボラ・ヘイの身体
  25. 「コードのないメッセージ」はどういう意味か
  26. 身体や土地に残す行為と記録の写真
  27. 指標性は写真の真実を保証するのか
  28. クラウスの指標論をその後どう考えるか
  29. 略年表|写真と指標の記号論
  30. まとめ|写真はなぜ現実の証拠に見えるのか
  31. 参考資料・出典

1970年代の美術に写真が広がった理由

美術館へ入った行為の記録

1970年代のアメリカでは、完成した絵画を壁に掛けるほかに、数日間だけ行われるパフォーマンス、屋外に残された大きな造形、建物の一部を変える作品が増えました。観客の全員が制作現場へ行けるわけではありません。作品の写真や地図、実行手順を展示することによって、美術館の外で生まれた作品が別の場所でも知られるようになりました。

そのため写真は、単なる複製や記念写真として収まらなくなります。誰がいつ何をしたかを示す証拠であると同時に、それ自体が作品を見るための重要な形式になりました。現場の出来事と後の展示をつなぐ画像の働きに、批評家が注目した理由があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|スミッソン《Spiral Jetty》の映像(1970)/ニューヨーク近代美術館|アコンチ《Following Piece》(1969)/ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展)

雑誌と展示がつくった批評の場

ニューヨークでは画廊が作品を紹介し、批評雑誌がその意味を論じ、美術館や非営利施設が新しい実験を受け入れました。1960年代後半のミニマル・アートやコンセプチュアル・アートの後、同じ「美術」という語で呼ばれる表現の姿が一層多様になっていました。写真を含む印刷物は、その議論を広い読者へ伝える媒体でもありました。

1976年、ニューヨーク市クイーンズの旧学校建築を利用したP.S.1で展覧会「Rooms」が開催されます。画家や彫刻家は、廊下、床、窓、壁に残る建物の履歴へ介入しました。クラウスが翌年に論じたのは、こうした実際の展示の経験です。(参照:ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展/『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁)

一枚の写真が場所を移動するとき

ある土地を切り開く作品は、その場所で風雨や人の移動にさらされます。美術館に届く写真は、ある角度からある時点を切り取ったものです。現場では歩き回れた鑑賞者も、印刷された画像では固定された視点から作品と向き合います。

写真が運ぶのは、もとの作品のすべての経験というより、その出来事へ接近するための具体的な手がかりです。にもかかわらず写真は、見ていない人が出来事の存在を信じる根拠になります。この不思議さが1977年の議論を貫く問いでした。(参照:ニューヨーク近代美術館|スミッソン《Spiral Jetty》の映像(1970)/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

写真はなぜ「そこにあった」と思わせるのか

風景の画像が与える確かさ

雪の残る山道の写真を見て、私たちはその山道の存在を自然に想像します。画家が雪山を描いた場合にも景色の形は伝わりますが、写真を見ると、撮影時の光がその場所から届いたのだという別の感覚が加わります。見えた形に似ているという印象と、現実とのつながりを信じる気持ちが重なっているのです。

この二つを分けると、写真とは何かを考える哲学の問題が見えてきます。写真は何を根拠に対象へ結びつくのでしょうか。似ていることがその根拠なのか、写真が作られた過程に根拠があるのかによって、写真の理解は変わります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論/ジョン・ベンジャミンズ出版|サドフスキ「写真の類像性と指標性」(2011))

証拠と解釈は二つの段階にある

ある写真が実際の建物を撮ったものだと確認できても、その建物がなぜ壊れたか、誰がそこに暮らしていたかまで写真だけで決まるわけではありません。画像が生まれた出来事の存在と、その出来事の理由を説明することは別の仕事です。

写真に信頼性を感じる場合でも、撮影日時や場所、編集履歴を調べる必要があります。写真の哲学が扱うのは「写真は嘘をつかない」という単純な信念ではなく、どのような関係が確かな手がかりを与え、その手がかりからどんな推論が可能になるかという問題です。(参照:ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007)/『Philosophy of Photography』|ベア「報道写真と図示の関係」(2012))

よく似た画像でも制作の条件が違う

同じ街角を油絵で写生した絵と、カメラで記録した写真があるとします。二つの画像は店の形や道路の位置について同じ情報を示すかもしれません。絵には画家の観察と手の判断が、写真には光学系と感光材料を通した記録という異なる制作の経路があります。

両者の価値を順位づけるために、この違いを見る必要はありません。どのような仕組みで像が成立したかを知ると、写真が現実の存在を示すと感じられる理由が、画像の見た目を超えて理解できます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論/ジョン・ベンジャミンズ出版|サドフスキ「写真の類像性と指標性」(2011))

チャールズ・サンダース・パースは誰だったのか

19世紀アメリカの科学者で哲学者

パース(1839–1914)は、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれ、数学、論理学、天文学、測量などを研究した人物です。長く測地測量局の仕事に関わり、観測の方法や測定の誤差について考えました。彼の哲学は、言葉の意味を考える実用主義の源流の一つとしても知られています。

科学の記録にどんな根拠が必要か、観察によって得た情報をどのように推論へ結びつけるかという問題に取り組む中で、彼は記号の働きを詳しく考察しました。美術家の制作技法を分類するために記号論を作った人物ではありません。後の批評家がその議論を写真へ適用した点が重要です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|チャールズ・サンダース・パース/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

記号はものと人をどう結ぶのか

道に矢印が描かれていれば進む方向を理解し、空から煙が見えれば何かが燃えているのではないかと考えます。異なる形の知らせを一つの観点から考えるため、パースは記号、対象、解釈項という関係を論じました。記号は何かを示し、その働きが受け手に理解や別の記号を生み出します。

ここで解釈項とは、いつも頭の中にいる「解釈する人」のことではありません。記号が理解される仕方やそこで生じる意味の働きを指します。写真を見ることも、写った対象、画像、そこから生まれる判断という関係で考えることができます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

パースの議論は生涯にわたり変わった

パースの記号論は1860年代から20世紀初頭まで発展しました。1903年には、記号を複数の観点から分類する議論が進み、アイコン、インデックス、シンボルという区別も、より複雑な体系の一部になっています。生涯のどの文章を読んでも同一の定義が現れるという単純な理論ではありません。

後世の美術理論では三つの分類が便利な入口として使われます。原著の全体を見ると、一つの画像が複数の記号の働きを持つことも理解できます。分類を別々の箱として固定しない姿勢が、写真を考えるときにも役立ちます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論/スタンフォード哲学百科事典|チャールズ・サンダース・パース)

似ている記号・つながる記号・約束による記号

アイコンは類似によって示す

アイコン(類像記号)は、対象と共有する性質によってその対象を示します。人物の似顔絵は顔立ちの似かたを利用し、地図や図形には形や関係を利用するものがあります。対象そのものが今そこに存在するかどうかと、似ているという関係は分けて考えられます。

たとえばまだ建てられていない建築の完成予想図も、建物の姿をわかりやすく伝えます。似ていることは対象が現実に存在した証拠とは限りません。この違いを知ると、写真が似ていることに加えて何を持つのかという問いへ進めます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

インデックスは現実の結びつきによって示す

インデックス(指標記号)は、対象との現実的な関係に基づいて何かを示します。地面についた足跡は、足がその場所に触れたことで生まれます。温度計の表示は測定の仕組みを通じて温度と結びつき、指差しはある対象へ視線を向けます。つながりの形は、物理的な痕跡だけに限られません。

この種の記号を理解するときには、形の類似よりも対象との結びつきが重要です。足跡は足の形をある程度示しますが、誰がいつ歩いたかを知るには周囲の資料が必要です。つながりがあることと、解釈がすべて決まることは異なります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

シンボルは慣習によって働く

シンボル(象徴記号)は、学習された言葉や規則を通じて意味を持ちます。日本語の「木」という文字の形は、特定の木がそこに接触したことによって生まれたものではありません。使い方を知る人が共有する慣習によって対象を指します。

写真の下に付く地名や人名の説明は、通常このような言語の働きです。画像の記録が現実と結びついていても、文章が間違っていれば別の出来事として読まれます。一つの写真には、似ていること、現実的なつながり、慣習による説明が同時に関わります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論/『Philosophy of Photography』|ベア「報道写真と図示の関係」(2012))

インデックスと「痕跡」はどこまで同じか

足跡と指差しが共有する働き

砂についた足跡と、人が伸ばす人差し指は見た目が違います。前者は接触の結果として残る痕跡であり、後者は今そこにある対象へ注意を導く行為です。パースは、どちらにも対象と記号との現実的な結びつきがあると考えました。

「指標」と聞くと足跡のような複製を想像しがちですが、記号論ではより広い関係を含みます。写真が指標であるという説明も、必ず画像のすべての部分が直接接触したという意味ではありません。光を介した実際の関係に注目しています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

煙を見て火を推測するとき

遠くの丘から煙が立ちのぼる場面では、煙と燃焼との因果関係を知っている人が火の存在を推測します。煙があるという観察と、火があるという推論の間には、自然現象についての知識が働いています。

煙と火のつながりは、どこで何が燃えているのかまで教えるわけではありません。写真についても、像が何かの現実的な経路から生じたとして、その画像に写る出来事の意味を知るには、別の知識が必要になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論/ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007))

見つけた痕跡を読むための条件

古い床に傷を見つけても、それが家具を引きずった跡なのか、建物の改修で生まれた傷なのかは直ちには決まりません。形を比べ、同じ場所の記録を調べ、制作や使用の経過を推測することで、痕跡を歴史の情報へ変えられます。

クラウスが1970年代の作品に見たのは、意味を備えた形をあらかじめ描く代わりに、現実の場所や物の痕跡を提示する方法でした。現実との結びつきが強いほど説明が不要になるということではなく、別の仕方で説明が求められます。(参照:『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

写真の像はどのように作られるのか

レンズと光が表面へ残す情報

従来のフィルム写真では、被写体から来た光がレンズなどの光学系を通り、感光材料に化学的な変化を生じさせます。撮影された物と写真の画像は直接触れ合っていませんが、光の経路によって実際に結びついています。パースの語彙では、この結びつきを指標性として考えることができます。

画面に人物の姿が似ているという類像的な性質に加え、撮影時の光が記録に関与したという指標的な性質が重なります。画像を理解するにはこの二つの関係を分けることが有効です。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/ジョン・ベンジャミンズ出版|サドフスキ「写真の類像性と指標性」(2011))

シャッターの一瞬が持つ時間

短い露光による写真は、ある時刻の人物の身ぶりや物の位置を画面に固定します。動いている人の姿が一瞬だけ止まって見えるのは、撮影時に限られた時間の光が記録されたためです。

そのため古い写真には、今は変化した街路や失われた建物が写ることがあります。写った時間と鑑賞する時間が隔たっていることが、写真の「かつてそこにあった」という感覚を強めます。撮影時間は作品によって長短があり、長時間露光では複数の時点が一枚に重なります。(参照:メトロポリタン美術館|タルボット『自然の鉛筆』(1844–46)/メトロポリタン美術館|マン・レイ《埃の培養》(1920))

デジタル写真でも検討すべきつながり

デジタルカメラは光を電子的な信号として受け取り、記録されたデータを処理して画像にします。化学的な感光材料がなくても、実際の光を感知する過程は残ります。デジタル化によって写真の現実との関係がすべて消滅したと説明することはできません。

撮影後に合成や修正を加えれば、画面全体が一度に存在した場面を示すとは限らなくなります。研究者ピーター・オズボーン(2010年)はデジタル写真と化学写真の指標性に根本的な断絶を認めず、別の研究者はデジタル合成画像の扱いをより厳しく検討しています。(参照:『Philosophy of Photography』|オズボーン「写真画像の社会的存在論」(2010)/イスタンブール大学|デイルメンジ「デジタル写真と画像の存在論」(2017))

写真の発明時に「現実が自分で描く」と考えられた

タルボットの感光紙と物の輪郭

イギリスの科学者・写真技術の開発者ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット(1800–1877)は、1830年代に感光紙を用いる技法を発展させました。草木やレースを紙に直接置いて日光に当てると、遮られた部分と光が届いた部分の差が模様として現れます。

この技法では筆で物の輪郭をなぞる必要がありません。物の形と光の当たり方から像が生じることが、早い段階から写真の新しさとして理解されていました。メトロポリタン美術館に残る1839~40年のアルバムには、こうした接触による画像と、カメラで撮った陰画から作った画像が含まれています。(参照:メトロポリタン美術館|タルボットの初期写真アルバム(1839–40))

1844~46年の『自然の鉛筆』

タルボットは1844年から1846年にかけて、写真入り出版物『自然の鉛筆』を分冊で発行しました。メトロポリタン美術館の説明によれば、24枚の写真図版と解説文が、肖像、建築物、植物、文書の複製などの用途を紹介しています。

タイトルにある「自然の鉛筆」という表現は、人の筆跡とは異なる画像の生まれ方への関心を示します。写真の物理的な記録が、保存、研究、美術という複数の用途につながることも、その発明時から意識されていました。(参照:メトロポリタン美術館|タルボット『自然の鉛筆』(1844–46))

レースの像が教える形と接触

レースの細かな編み目を感光紙へ直接写すと、実物が画像の表面を遮ったことで明暗の形が生まれます。そこには実物に似た線が現れ、同時に実物が光の通り道に存在したという制作の経路が残ります。

接触による写真は、アイコンとインデックスが重なる様子をわかりやすく示します。像の意味を考えるときには、何の形に見えるかだけでなく、どの物がどう置かれたかを知ることが役立ちます。(参照:メトロポリタン美術館|タルボットの初期写真アルバム(1839–40)/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

写真の見え方を決める撮影者の判断

フレームの外に残る出来事

同じ広場を撮影しても、人混みの側から撮る場合と、誰もいない端の建物だけを写す場合では、鑑賞者の受け取る印象が変わります。写っている部分には撮影時の光が関わっていても、フレームの外にある出来事までは写りません。撮影する場所と向き、画角は情報を選び取る働きを持っています。

写真が指標的だという説明は、撮影者の判断を取り除く議論ではありません。現実に由来する画像を得る過程にも、何に注意を向けるか、どこまで見せるかという制作上の選択が組み込まれています。(参照:ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007)/『Philosophy of Photography』|ベア「報道写真と図示の関係」(2012))

露光・現像・印刷で変わる画像

同じ場面を撮影しても、露光時間や光の条件で細部の見え方は変わります。古い写真の暗室作業では、印画紙の焼き付けによって画面の一部を明るくしたり、暗くしたりする調整ができました。写真を現実の自動的な複製と考える場合にも、こうした制作工程を知る必要があります。

マン・レイの実験は、同じ感光材料から大胆に異なる画像をつくれることを示します。制作上の判断と、光に由来する痕跡とは一枚の中に共存しています。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》(1922)/ジョン・ベンジャミンズ出版|サドフスキ「写真の類像性と指標性」(2011))

説明文が写真の読み方を変える

路上に倒れている人を写した写真があっても、それが事故直後か、映画撮影の一場面か、演劇の記録かで受け止め方は変わります。写真自体にはその区別を明示する文字が含まれていない場合があります。

報道写真研究者ジョーダン・ベア(2012年)は、写真が証拠として示される際、矢印や囲み、文字の説明が読者の理解を導いてきたことを検討しました。画像が現実に由来していても、その事実を読者に伝えるためには説明や図示が関わります。(参照:『Philosophy of Photography』|ベア「報道写真と図示の関係」(2012)/ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007))

ロザリンド・クラウスはなぜ写真に注目したのか

1960年代以降の美術を研究した批評家

ロザリンド・クラウスは1941年にアメリカで生まれ、近現代美術の歴史と批評に取り組んだ美術史家です。1960年代以降のアメリカ美術では、絵画と彫刻に共通する一つの様式で時代を説明することが難しくなり、作品の構造や鑑賞の条件が新たな問題になっていました。

クラウスはミニマル・アートや現代彫刻の議論を積み重ねる中で、1970年代の多様な実践を貫く原理を探りました。そのとき彼女が選んだのは、写真が現実と結びつく仕組みでした。作品の形ではなく、痕跡がどのように成立するかに注目したのです。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/美術史文献データベース|クラウス「インデックスについての覚書」二部の書誌)

様式に名前を付けることが難しくなった

1960年代の抽象表現主義やミニマリズムには、絵画や彫刻の形状をめぐる比較的明確な議論がありました。1970年代には映像、パフォーマンス、土地への介入、文章による作品、写真を用いた作品が同時に展開します。新しい制作を一つの見た目で括ることは難しくなっていました。

クラウスは1977年の第1部の冒頭で、この分散した状況を取り上げます。そこで「作品の共通様式は何か」という問いから、「さまざまな作品にどんな記号の働きが現れているか」という問いへ移ることが、批評の転換でした。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/美術史文献データベース|クラウス「インデックスについての覚書」二部の書誌)

写真を美術の付属物から考え直す

美術館が彫刻の記録写真を展示したとき、それを二次的な資料とだけ捉えると、作品を鑑賞する経験の一部を見落とします。写真は、消えた行為を別の場所へ運び、地面の痕跡や身体の変化を鑑賞者の前へ現れさせています。

クラウスは、写真そのものの芸術性を認めるか否かという論争から一歩進み、写真の指標的な働きが写真以外の制作にまで広がることを論じました。これによって抽象絵画やインスタレーションにも、同じ観点から迫ることが可能になります。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁)

1977年の二つの「インデックスについての覚書」

春号に発表された第1部

クラウスの「インデックスについての覚書――1970年代のアメリカ美術」第1部は、1977年春刊行の『October』第3号、68~81ページに掲載されました。写真がどのように現実に結びつくかを、マルセル・デュシャンやマン・レイの仕事から探る構成です。

そこで扱われるのはカメラで撮られた画像だけではありません。レディメイド、身体の型取り、作品に残る塵や影、指差す手といった例を通じて、何かが存在したことを示す記号がどのように働くかを考えています。(参照:JSTOR|『October』第3号(1977年春)目次/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

秋号に続いた第2部

第2部は1977年秋刊行の『October』第4号、58~67ページに発表されました。クラウスは1976年のP.S.1の展覧会「Rooms」に出展された作品を取り上げ、写真のような痕跡の原理が抽象絵画や建築への介入でも働くと論じます。

この二つを続けて読むと、対象が過去のデュシャン作品から同時代のインスタレーションへ移ることがわかります。記号理論が美術作品の解釈を変える具体的な過程をたどる論考でした。(参照:JSTOR|『October』第4号(1977年秋)目次/フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

1977年という年代の意味

第1部と第2部は同じ年に刊行され、1976年の展示を直接の観察材料としていました。数年後の美術史を振り返っただけの回想ではなく、当時の多様化した美術に共通する仕組みを見いだそうとする同時代の批評です。

写真を「指標」と呼ぶこと自体はパースによって先に考えられていました。クラウスの新しさは、その概念を美術史へ持ち込み、彫刻、記録、行為、場所に残された跡まで連続したものとして読み直した点にあります。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁)

「これ」「私」と写真はどう似ているのか

指す相手によって意味が変わる言葉

会話の中で「これを見てください」と言われたとき、「これ」が何を指すかは、話し手の身ぶりや周囲の状況によって決まります。同じ言葉を別の場所で使えば、まったく違う物を指せます。言語学者ロマーン・ヤーコブソン(1896–1982)は、このように発話状況によって指示対象が決まる語をシフターと呼んで論じました。

クラウスは、この言語学の考えをデュシャンの作品に結びつけます。何かを示す方法が、固定した意味を描くことから、その場で物や身体を指し示すことへ変わるという問題です。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁)

「私はここにいる」はどう伝わるか

誰かが「私はここにいる」と語れば、その言葉の「私」は話し手自身へ結びついて意味を持ちます。文法的には同じ表現でも、話す人が変われば指す人物も変わります。言葉が機能するために、現実の場面への参照が不可欠になる例です。

写真にも、ある場所と時点に結びつく性質があります。画面はどんな出来事であったかを細かく説明しなくても、その場に何かが存在したという感覚をもたらします。この類比は第2部でパフォーマンスの問題へ展開されます。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

指標は語るよりも指し示す

駅の案内板の矢印は進む方向を示します。なぜそこへ行くべきかという長い説明は、別の言葉や情報に頼ることになります。指標的な働きは、対象と関係を結び注意を向けさせることに強みがあります。

クラウスは、1970年代の多くの作品で、完成した物語を描くことよりも、何かがそこにあったという痕跡の提示が前面に出たと考えました。観客は痕跡から行為や場所の意味を探り始めます。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

デュシャンの《Tu m’》は何を指し示すのか

1918年の横長の絵画

フランス生まれでアメリカでも活動したマルセル・デュシャン(1887–1968)は、1918年に《Tu m’》を制作しました。イェール大学美術館に所蔵されるこの作品は、高さ約70センチメートル、幅約3メートルの横長の画面に油彩と鉛筆を用い、瓶洗いブラシ、安全ピン、ボルトなどを取り付けています。

絵の中には、自転車の車輪や帽子掛けなど、彼のレディメイドを思わせる形の影が描かれます。実際の物と描かれた像が混ざるため、鑑賞者は何が画像で、何が現物なのかを見直すことになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|デュシャン《Tu m’》(1918)/イェール大学美術館作品データ|デュシャン《Tu m’》)

指差す手と、そこにない対象

《Tu m’》の画面中央には、手を伸ばして指し示す形が描かれています。指の先に何があるのかを考えると、手の形自体がひとつの指標のように働き、見る人の目を画面の別の部分へ導いていることに気づきます。

クラウスはこのような身ぶりに、描かれた物をそっくり再現することとは違う意味の仕組みを見ました。画面内の指示は、その場の配置を使って意味を立ち上げます。(参照:ニューヨーク近代美術館|デュシャン《Tu m’》(1918)/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

絵に残された裂け目と留め具

作品には布が裂けたように見える部分と、それを留める本物の安全ピンが組み合わされています。平らなキャンバスの上で、物を描くことと物を取り付けることが互いに作用します。こうした仕掛けによって、絵画の表面が何を示すのかが問題になります。

デュシャンの制作を指標という観点から読むと、画面は現実の物を模倣する場に留まらず、具体的な物と視線を関係づける場になります。実物の部品や指差しが、鑑賞者に見る行為そのものを意識させます。(参照:ニューヨーク近代美術館|デュシャン《Tu m’》(1918)/イェール大学美術館作品データ|デュシャン《Tu m’》/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

マン・レイ《埃の培養》に写った時間の痕跡

1920年、ガラスの上に積もった埃

1920年、アメリカ出身でパリなどで活動した芸術家マン・レイ(1890–1976)は、デュシャンの《大ガラス》の表面に積もった埃を撮影しました。《埃の培養》と呼ばれるこの写真は、上から見たガラスの上に、地形のような複雑な線と模様が現れた画像です。

メトロポリタン美術館によると、埃は約一年間積もったもので、撮影には約二時間の露光が使われました。写真の撮影時点とは別に、埃が積もるまでの長い時間が像の材料になっています。(参照:メトロポリタン美術館|マン・レイ《埃の培養》(1920))

埃は時間がつくる記録でもある

埃の分布は、目の前にいる人物の似顔絵とは別の仕方で意味を持ちます。物の表面に長く残った微粒子が、部屋の状態や時間の経過によって形を変えてきたからです。その痕跡を写真へ記録することで、二重の記録が生まれました。

クラウスはこの写真を、時間の経過が現実の痕跡として残る例として読みます。ガラスの上の埃が一つの指標であり、その埃の光による像が別の指標として現れます。(参照:メトロポリタン美術館|マン・レイ《埃の培養》(1920)/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

撮影後の作品にも埃の一部が残った

マン・レイの撮影が終わると、デュシャンはガラスの大部分から埃を取り除き、一部には固定して残しました。写真は制作途中の一時的な状態を伝え、その記録を経て作品の表面の状態が変わっていきます。

《埃の培養》を単なる制作記録と考えると、この関係は見落とされます。埃を残す行為と、それを撮影して見ることは、《大ガラス》という作品の成り立ちに深く関わっているのです。(参照:メトロポリタン美術館|マン・レイ《埃の培養》(1920)/デュシャン研究ポータル|《埃の培養》写真アーカイブ)

カメラを使わない《レイヨグラフ》の像

感光紙に直接置かれた物

マン・レイは1922年頃、暗室の感光紙の上に日用品を置き、光を当てることで画像を作るレイヨグラフを発展させました。ニューヨーク近代美術館の所蔵する1922年の一作は、約23.9×29.9センチメートルのゼラチン・シルバー・プリントです。

そこには手や人物の頭部、暗室の道具が重ねられ、写真でありながら現実には存在しない複雑な空間が現れています。物を置き直しながら少なくとも三回露光したことが、所蔵館の作品解説で確認できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》(1922))

接した物は影のような像を残す

感光紙へ物を載せて露光すると、光を遮ったところは明るく残り、透ける素材なら濃淡が生まれます。撮影用のレンズを通す必要がなく、物の位置と光の作用が画像をつくる仕組みです。

形の見え方を通じて対象を想像することもできますが、紙に残った輪郭は実際に置かれた物と光の関係によって生まれます。指標性を、写実的に見えることだけでは説明できない例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》(1922)/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

痕跡から現実にない空間をつくる

マン・レイが手と頭部の形を組み合わせたレイヨグラフでは、現実の物が一度に同じ奥行きへ並んでいたと想像する必要はありません。露光を重ねることで、物同士の位置関係が新しい造形へ変わります。

ここで「痕跡であること」と「現実の一場面を忠実に再現すること」は分かれます。写真には実際の光と物の関係が残りながら、完成した像は作家の実験によって構成されたものになるのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|マン・レイ《レイヨグラフ》(1922)/ジョン・ベンジャミンズ出版|サドフスキ「写真の類像性と指標性」(2011))

既製品と身体の型も「指標」になるのか

レディメイドが示す一回の選択

デュシャンは1910年代、既製品を選び美術の場へ移すレディメイドを制作しました。物の表面を描き写すのではなく、実際に存在する一つの物を取り出して作品として提示するところに特徴があります。選択した日時や展示の状況が意味を持つため、作者の技術を示す彫刻とは別の問題が生まれます。

クラウスはレディメイドを、現実に存在する物をその場から取り出し、特定の対象として指示する行為として捉えました。写真が現実の連続の一部を切り取る操作と、選ばれた既製品が作品になる過程を比較しています。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/ニューヨーク近代美術館|デュシャン《Tu m’》(1918))

1959年の顔の型と素描

デュシャンの1959年の《With My Tongue in My Cheek》では、横顔を描いた紙に自分の頬と顎の石膏の型を加えています。絵の線は顔を視覚的に似せ、型は実際の身体の形を材料へ移した痕跡です。

クラウスはこの作品で、類似に基づく記号と接触に由来する指標とが並置されることを論じました。ひとつの顔を示す二種類の方法が、身体と像の間に異なる関係をつくっています。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

身体の痕跡は本人そのものか

石膏に残る頬の形を見れば、型取りが身体に関わったことは理解できます。それでもその石膏の塊から、本人の言葉や性格、作品への意図がすべてわかるわけではありません。ある身体が接したという手がかりと、その身体の生きた経験を説明することは別です。

写真についても、被写体から来た光が像を生んだことは、撮影時の感情や社会的な意味まで明らかにするものではありません。クラウスの指標論には、そこへ言葉や解釈を補う必要性が繰り返し現れます。(参照:『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

オッペンハイム《Identity Stretch》の巨大な指紋

指紋を土地へ拡大する発想

アメリカの美術家デニス・オッペンハイム(1938–2011)は、1975年にニューヨーク州の土地で《Identity Stretch》を実現しました。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館によると、作家と息子エリックの親指の指紋をテープに写し、引き伸ばした形をさらに拡大して地面へ移し、アスファルトで線を引きました。

本来は小さな皮膚の模様である指紋が、広大な地面を占める図形になっています。身体に固有の小さな痕跡が、土地という別の尺度へ移される過程が、この作品の核心です。(参照:ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館|オッペンハイム《Identity Stretch》)

地面の痕跡を写真に記録する

指紋は普通、触れた場所と身体の接触を知らせる小さな印です。オッペンハイムは、本人と息子の指紋を何段階も拡大し、その形を実際の土地へ固定しました。美術館が所蔵する写真と地図、文字を組み合わせた資料は、現地で行われた変換作業を別の場所へ伝えています。

クラウスは1977年の第1部で、この作品を指標の働きをはっきり示す例として挙げました。皮膚からテープへ、地面へ、そして写真へと、痕跡が繰り返し別の形に移されているからです。(参照:ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館|オッペンハイム《Identity Stretch》/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

親指の形が人物の経験をすべて語るか

指紋が身体に結びつくことと、指紋から一人の人間の全体像を理解することは異なります。《Identity Stretch》に親と子の指紋が使われたと知ると、記録には家族の関係や個人の存在をめぐる意味も生まれます。

指紋の形だけを見た人には、その関係を判断する材料が足りません。作品に添えられた写真、文字、制作の経緯が、痕跡を人の営みとして理解させます。指標性と説明の関係がここにあります。(参照:ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館|オッペンハイム《Identity Stretch》/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

アコンチ《Following Piece》で写真は何を残したのか

1969年、見知らぬ人を追う行為

アメリカの美術家ヴィト・アコンチ(1940–2017)は、1969年の《Following Piece》で、ニューヨークの街角から通行人を無作為に一人選び、その人が私的な建物へ入るまで後を追いました。メトロポリタン美術館によれば、約一か月にわたって毎日実行されたこの行為は、数分で終わることも長時間続くこともありました。

芸術家は移動の方向を自分で決める代わりに、見知らぬ人の行動によって歩く経路を変えます。その場の都市と他者の動きが、作品を成立させる条件になっています。(参照:メトロポリタン美術館|アコンチ《Following Piece》/ニューヨーク近代美術館|アコンチ《Following Piece》(1969))

写真と地図、文字が作品を示す

ニューヨーク近代美術館が所蔵する《Following Piece》の一つの版には、ゼラチン・シルバー・プリント、フェルトペンによる記述、地図などが組み合わされています。フレームの大きさは約86.2×111センチメートルで、街を歩いた行為を写真と資料からたどれる構成です。

その資料を美術館で眺める人は、1969年の街をもう一度歩くわけではありません。写真と地図が、消えてしまった行動の痕跡を見える形に変えています。(参照:ニューヨーク近代美術館|アコンチ《Following Piece》(1969))

記録が示すことと、行為の倫理

追跡行為は、他人の移動を作品の条件にした点で重要です。同時に、追われていた本人は芸術の参加者になりたいと望んでいたとは限りません。美術館の記録も、この行動に攻撃的な側面があったことを説明しています。

作品を身体の指標として理解することと、その行為の倫理を評価することは別です。写真は追跡が行われた手がかりになっても、相手の気持ちや合意の有無まで証明するわけではありません。(参照:ニューヨーク近代美術館|アコンチ《Following Piece》(1969)/ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007))

スミッソン《スパイラル・ジェティ》と映像の役割

1970年、グレートソルト湖岸での造形

アメリカの美術家ロバート・スミッソン(1938–1973)は、1970年、ユタ州グレートソルト湖の岸辺に《スパイラル・ジェティ》を制作しました。岩石と土を移動させ、湖の水面へ伸びる巨大ならせんを形成した作品です。ニューヨーク近代美術館は、造形のために約6,650トンの土と石が動かされたと説明しています。

湖水の高さ、塩分、季節の環境によって、地面に残る作品の姿は変わります。このような作品を写真で見る人は、特定の撮影時点に現れていた形を経験します。(参照:ニューヨーク近代美術館|スミッソン《Spiral Jetty》の映像(1970))

映画は制作と地形の時間を伝える

スミッソンは同じ1970年に、作品の制作や地形をめぐる映像作品も制作しました。映像では空中からの撮影、地上での作業風景、地図、博物館の画像などが編集され、風景に含まれる時間の層を探究しています。

写真や映画は巨大な土地の作品を離れた鑑賞者へ届けます。編集された映像には作家の考えが組み込まれるため、単純な現場の記録以上の構成を持っています。現実との接続と作者の選択が共存する例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|スミッソン《Spiral Jetty》の映像(1970)/ニューヨーク近代美術館|スミッソンとホルトの映像作品)

作品の場所と画像の場所

《スパイラル・ジェティ》の実物は湖岸にあります。これに対し、映像は美術館や上映室で繰り返し見ることができます。現地で作品の周りを歩く経験と、編集されたカメラの動きを追う経験では、身体と作品の関係が異なります。

ランド・アートを写真から理解するときには、画像を手がかりとして実際の地形へ想像を広げることができます。同時に、その写真自体がどのような意図と条件から撮られたかを考えると、作品の多層的な構造が伝わります。(参照:ニューヨーク近代美術館|スミッソンとホルトの映像作品/『October』1977年春号|クラウス「インデックスについての覚書」第1部、68–81頁)

1976年のP.S.1では何が起こったのか

廃校建築を再利用した美術の場

1976年、ニューヨーク市クイーンズのロングアイランドシティにあった旧公立学校の建物が、P.S.1として美術の制作と展示の場に利用されました。企画を進めたのはアラナ・ハイスらの芸術活動支援に携わる人々です。もとの教室や廊下、階段など、学校として使われてきた空間の特徴が残っていました。

建物を均質な白い展示室へ改装するよりも、壁の剝がれや床の傷、空間の規模を生かした作品が制作されます。この場所は、痕跡と現実の関係を考えるクラウスにとって重要な観察の場になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展)

「Rooms」は建物の状態を作品に変えた

1976年6月に開催された「Rooms」展では、多くの作家が建築の各部分を使って作品をつくりました。床や壁を切り、壁面の模様を別の素材へ写し、廊下の色彩を小さなパネルに転じるなど、同じ建物に対してさまざまな介入が行われました。

個々の作品は完成品として別の場所へ運べるものばかりではありません。床の一部を切り抜く行為はその建物と一体になり、写真が現場の形を後へ伝える重要な資料になります。(参照:ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展/フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

作品が指しているのは展示室そのもの

通常の絵画は別の場所の景色を描いても成立します。「Rooms」の作品の一部は、まさにそこにある壁、床、扉の状態を指し示していました。場所を離れると作品の前提となった対象も変わります。

クラウスは、そうした作品で抽象的な形が自律的に意味を持つのではなく、現実の建築との結びつきによって成立すると考えました。写真のような指標の働きが、建物への介入にも現れているという指摘です。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展)

マッタ=クラークは床をどのように切ったのか

建物の内部を縦につなぐ切断

アメリカの美術家ゴードン・マッタ=クラーク(1943–1978)は、1976年のP.S.1の「Rooms」展で、建物の三つの階にまたがる床や天井を切り抜く作品《Doors, Floors, Doors》を制作しました。構造の一部が開かれ、上の階から下の階を見通す垂直の空洞が生まれます。

通常は階ごとに分かれている教室や廊下が、切断によって別の眺めを持つようになります。取り除かれた床の部分そのものが、建物の新しい視覚経験を生み出しました。(参照:ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展/フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

空洞がもたらす新しい視点

切り開かれた床の向こうには、もとの建物の梁や階下の壁が見えます。作者が風景の像を描いたというより、既存の建築を切り取ることで、そこにあった空間を別の見え方へ変えています。

クラウスはこの切断を、写真のフレームが現実の一部を取り出す働きと比較しました。残った空間そのものが示され、鑑賞者は開口部を通じて建物を再び見ます。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展)

残らない建築作品と記録写真

建築の一部を切る作品は、その建物が改修・取り壊しを受ければ、当時の姿を保ち続けることが難しくなります。展覧会写真には、その場所で実際に何が行われたかを示す役割が生まれます。

写真の中で見える空洞は、1976年の建物の状態と結びついています。実物の空間を歩いた経験を完全に移し替えることはできなくても、現地で起きた変化を示す証拠として機能します。(参照:ニューヨーク近代美術館|P.S.1の誕生と1976年「Rooms」展/『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁)

ミシェル・スチュアートは壁の記憶をどう写したのか

廊下の表面を紙へ移す

アメリカの美術家ミシェル・スチュアート(1933年生まれ)は、1976年の「Rooms」展で《East, West Wall Memory Relocated》を制作しました。クラウスによると、廊下の向かい合う壁の腰板やひび割れ、黒板の枠の形を大きな紙へ擦り取り、その紙をそれぞれ反対側の壁へ設置した作品です。

紙に刻まれた形は、壁を目で見ながら自由に構成した模様ではありません。表面の凹凸と擦る手の動きが、その場所に固有の情報を紙へ移していました。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/MoMA PS1アーカイブ|ミシェル・スチュアート《East, West Wall Memory Relocated》)

擦り取りという直接的な転写

壁の上に紙を当ててこすると、下にある凹凸に応じて線や色の濃さが変化します。拓本にも通じるこの手続きでは、紙は表面の複雑な状態を受け取るものになります。

こうした痕跡は、物がどのような形を持っていたかを伝える一方、こする圧力や道具、紙の性質によって結果も変わります。指標的な制作でも作者の選択が働いていることがわかります。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

向かい合う壁を入れ替えて見せる

スチュアートは壁の形を紙へ写すだけでなく、その紙を元の壁の向かい側に設置しました。鑑賞者は、いま見る壁の表面と、反対側の壁から移された跡を交互に経験します。

クラウスの議論では、この転写が、絵画の内部だけで意味が決まるという考えを変えます。画像は現実の建築を指し、その展示位置も参照先との関係を組み込んでいます。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/MoMA PS1アーカイブ|ミシェル・スチュアート《East, West Wall Memory Relocated》)

ルーチョ・ポッツィの色面は何の痕跡なのか

学校の壁の塗り分けを利用する

イタリア出身でアメリカで活動する画家ルーチョ・ポッツィ(1935年生まれ)は、1976年の「Rooms」展で、学校の壁の塗装が変わる場所に小さな二色のパネルを取り付けました。壁の色の境目とパネル内部の色の境目がつながるように置かれ、パネルの二つの色は背後の壁の色に合わせられています。

この作品の色彩は、独立したキャンバスの中だけで完結しません。どこへ置かれたかを知らなければ、なぜその組み合わせが選ばれたかという問いに答えにくくなります。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

色面の意味を決める外側の壁

二色の抽象画を美術館の白い壁に掛ければ、色の対比を絵画自身の構成として読むでしょう。ポッツィのパネルは背後にある壁の塗り分けをそのまま反復し、実際の空間との関係が目に見えるように置かれています。

クラウスはこの操作を、現実の一部を切り取って別の平面へ移す写真の仕組みと比べました。色の境界は作者が独立に作った線というより、建築の表面にあった境界を指し示します。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

抽象画が写真をモデルにするとき

ポッツィの作品は写真ではありません。アクリル絵の具によるパネルであり、光学装置で自動的に記録されたものでもありません。それでも、現実の場所から特徴を選び、色や境界を移し取るという点で写真に似た働きを持ちます。

クラウスの第2部の独創性は、写真の材料や画像形式よりも、その指標的な操作を抽象絵画へ拡張したことにあります。抽象画が意味を生む根拠を、絵画の外にある実際の壁へ求めています。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/『October』1977年秋号|クラウス「インデックスについての覚書」第2部、58–67頁)

ケリーとポッツィでは抽象画の意味がどう違うのか

エルズワース・ケリーの二色の絵画

アメリカの画家エルズワース・ケリー(1923–2015)は、幾何学的な輪郭や鮮やかな色面を用いた抽象絵画を展開しました。彼の二色の作品では、隣り合う色面やパネルそのものの接合が、絵画内部の構造を形づくります。

クラウスはこうしたケリーの仕事を、壁の既存の色分けに従うポッツィの作品と比較しました。外見がよく似た二色の抽象画でも、境界線がどこから来たかによって、絵画の意味の成立が変わると考えたのです。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

画面内の論理と場所への依存

ケリーの作品では、二つの色面の境目が絵の構造として自立し、その分割の意味を作品内部の関係から読むことができます。これに対し、ポッツィの作品の色と境界は展示場所の壁の塗装を写したものでした。

この差を知ると、抽象画を「何も描かれていない絵」とする理解が変わります。ケリーは絵画という平面をどのように分けられるかを問い、ポッツィは場所にある実際の区切りを作品へ移します。似た見た目の背後に異なる問いが含まれています。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

写真が抽象を変えるという逆説

普通、写真は目の前の人物や風景を記録し、抽象画は見える対象から距離を取る表現と考えられます。クラウスは1977年の第2部で、写真が抽象画に対する新しいモデルになっているという逆説的な主張を示しました。

ここでの「モデル」とは、写真と同じ機械を使うことではありません。現実の場所から像を切り取り、痕跡や転写として提示するという操作です。抽象絵画の色や線が、外界との関係を直接的に示すようになった点が彼女の論点でした。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/美術史文献データベース|クラウス「インデックスについての覚書」二部の書誌)

踊らずに話したデボラ・ヘイの身体

1976年のパフォーマンスで何が示されたか

アメリカの舞踊家デボラ・ヘイ(1941年生まれ)は、実験的なダンスに取り組んできた人物です。クラウスは1977年の第2部で、前年秋のヘイのパフォーマンスを紹介します。ヘイは踊る代わりに観客へ長く話しかけ、自分の身体にある細胞の動きを感じようとする意図を語りました。

ダンスがあらかじめ定められた身ぶりや振り付けによって意味をつくるとき、ヘイは身体にすでに起きている動きそのものへ注意を向けます。この変化をクラウスは、記号を構成する代わりに身体の現実を示す方法として考えました。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

「ここにいる」という言葉を補う理由

身体に細かな動きが存在するというだけでは、観客にどんな出来事が起きているか十分に伝わらないことがあります。ヘイが話した言葉は、彼女が現にその場にいることを説明し、普段のダンスとは違う経験へ観客を導きました。

クラウスは、存在の痕跡そのものと、それを説明する言語との関係を重視しています。痕跡はある出来事へ結びつきますが、その出来事を舞踊や芸術として理解するには別の意味づけが必要になります。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

身体の直接性をどう理解するか

パフォーマンスの観客は、ヘイの姿と声をその場で経験しました。その経験は写真の上に残る身体とは違って、動きや時間を同時に含みます。クラウスはその場の直接性と、作品について語る言葉の関係を、写真と抽象画にも通じる問題として考えました。

身体が現にそこにあることを証明するような表現ほど、観客には「何が起きているか」という説明が必要になる。この逆説は、1970年代の芸術を単純な自発性の表現として捉えるよりも、記号と解釈の関係から読む道を開きました。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

「コードのないメッセージ」はどういう意味か

ロラン・バルトの写真論との接点

フランスの思想家ロラン・バルト(1915–1980)は、1964年の「イメージの修辞学」で、写真が現実の場面をどのように伝えるかを記号学的に考察しました。クラウスは1977年の第2部で、その写真の記述を取り上げ、文化的な記号体系に置き換える前のように見える画像の特徴を考えています。

バルトが論じた「コードのないメッセージ」という問題は、写真の記録と、見る人が言葉や慣習で解釈する働きがどう結びつくかという問いです。写真に見える対象がその場にあったことと、その写真を何のために示すかは区別して考えられます。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文)

言葉が必要になる写真の沈黙

現場の床にひび割れがある写真を見たとき、その形がどんな事故や年月から生まれたかを即座に知ることは難しいでしょう。写真はひび割れの姿を示しますが、発生の事情を文章として説明しているわけではありません。

クラウスが写真の指標性を語るのは、画像が人間の説明を不要にするためではありません。むしろ、現実から来た痕跡の前で、それをどのように理解するかという言語の働きが改めて問題になるからです。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/『Philosophy of Photography』|ベア「報道写真と図示の関係」(2012))

写真にも複数の決まりごとがある

写真が光を記録することと、どんな写真が報道向きとされるか、どんな構図が家族写真らしいかという慣習は別です。私たちは記念写真、商品の広告、医学的な記録を、撮り方や添えられた文章から見分けています。

パースの記号論では、写真が現実との結びつきを持つことと、社会的に習得された記号の働きが共存します。クラウスの1977年の説明は当時の作品の特徴を鋭く示しましたが、写真の文化的な読み方まで消し去る結論としては理解できません。(参照:スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論/フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007))

身体や土地に残す行為と記録の写真

一回の行為が複数の資料になる

1960~70年代の美術では、身体を動かしたり土地へ手を加えたりする行為と、その記録写真が組み合わされました。写真は、展示室の外で行われた行為の存在を示し、作品の形や実施条件を後の人々へ伝えます。

アコンチの《Following Piece》では写真と地図が歩いた経路を示し、オッペンハイムの《Identity Stretch》では指紋を巨大化した土地の形が記録されました。これらの作品は、出来事と資料をどのように結びつけるかによって意味を持ちます。(参照:ニューヨーク近代美術館|アコンチ《Following Piece》(1969)/ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館|オッペンハイム《Identity Stretch》)

アナ・メンディエタの《シルエタ》

キューバ生まれでアメリカを中心に活動した美術家アナ・メンディエタ(1948–1985)は、1973年から《シルエタ》シリーズを展開しました。土や砂、草木、水、炎などを用いて、自身の身体を思わせる輪郭を自然の中に残し、それを写真や映像でも記録しています。

グッゲンハイム美術館が所蔵する1978年の作品は、約17.1×24.8センチメートルの画像を持つゼラチン・シルバー・プリントです。身体の形が土地へ残され、その一時的な状態がさらに写真へ移されるという二重の痕跡が見られます。(参照:グッゲンハイム美術館|メンディエタ《Silueta》シリーズ)

作品の出来事と作品の画像を区別する

ある場所に身体の形を残した作品を写真で見るとき、その形がかつて存在したという手がかりを得られます。けれども作品の身体的な意味は、現場で用いた素材、作者の活動歴、文化的背景とも関わります。メンディエタの実践では、移住と離郷の経験、宗教や自然への関心も重要です。

クラウスの指標論は、痕跡と現実の関係を説明する力を持ちます。個別の作品を理解するには、作家の歴史や使われた材料、展示の仕組みを併せて確かめることが欠かせません。これは1977年論考を後から広げて考える際の大切な観点です。(参照:グッゲンハイム美術館|メンディエタ《Silueta》シリーズ/オックスフォード大学研究アーカイブ|写真の指標性を再検討する研究)

指標性は写真の真実を保証するのか

写っている対象の存在と場面の意味

写真の表面に実際の光が作用したという事実は、撮影の経路についての情報です。そこで誰が何をしていたか、なぜ行動したかを知るには、撮影日時、説明文、前後の資料を確かめる必要があります。指標性が働くことと、報道の内容がすべて正しいことは同じではありません。

写真が証拠に見える理由を理解するには、光による記録という制作条件と、画像を証拠として用いる人々の判断の両方を調べる必要があります。哲学的な問題は、どこまでを画像から推論できるかという知識の範囲へ広がります。(参照:ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007)/『Philosophy of Photography』|ベア「報道写真と図示の関係」(2012))

合成された画像の一部には撮影の痕跡がある

実際の写真を二枚組み合わせれば、画面に写ったそれぞれの物には撮影時の光の痕跡が残っていても、合成された全体の場面は現実に存在しなかった可能性があります。写真の一部が指標的であることから、完成画像の説明文まで正しいと推論することはできません。

デジタル写真の研究では、光による記録が電子的な処理へ移っても指標性は続くとする立場と、加工・合成によって従来の参照の仕組みが変わるとする立場が論じられています。何が現実に結びつき、どの範囲が新たに作られたかが争点です。(参照:『Philosophy of Photography』|オズボーン「写真画像の社会的存在論」(2010)/イスタンブール大学|デイルメンジ「デジタル写真と画像の存在論」(2017))

証拠として写真を見るための資料

撮影場所が特定できる古い写真や、撮影日時が確認された出来事の記録は、歴史研究で重要な情報となります。その際には画像だけでなく、保存先、撮影者、当時の記録、改変の有無も調べます。

アーロン・メスキンとジョナサン・コーエン(2007年)は、写真が証拠として特別に扱われる理由とその条件を哲学の問題として検討しました。写真の因果的な成立が手がかりを与えることと、そこから確実な知識を得ることの間には、確認すべき段階があるのです。(参照:ワイリー学術出版|メスキン/コーエン「証拠としての写真」(2007)/『Photographies』|ヴェストベリ「写真の物質性と指標性」(2008))

クラウスの指標論をその後どう考えるか

美術の記号は一種類に還元できるか

1977年のクラウスは、分散した美術の実践に共通するものとして指標性を提案しました。オッペンハイムの指紋、マン・レイの写真、スチュアートの擦り取り、ポッツィの色面は、それぞれ異なる材料でありながら、現実との結びつきを使っています。

その共通点がわかることは、美術作品をすべて同じ種類の痕跡へまとめることとは違います。色彩、設置場所、文章、社会的な背景は作品ごとに大きく異なります。パース自身の記号論でも、アイコン、インデックス、シンボルはひとつの作品の中で結びついて働くことがあります。(参照:フルミネンセ連邦大学公開資料|クラウス論考第2部の本文/スタンフォード哲学百科事典|パースの記号理論)

後年の研究は「物としての写真」にも注目した

写真を現実の痕跡として理解するとき、写っている景色と、画像を支える紙や保存形式が区別されます。たとえば同じ写真でも、作者が焼き付けたプリント、新聞への掲載、後年の美術館向けの複製では、物質や流通の条件が変わります。

ニーナ・ラーゲル・ヴェストベリ(2008年)は、写真の指標性とアーカイブの問題を、画像に写る対象だけでなく、写真という物の保存や流通の側面から再考しました。像の成り立ちと、その後の保存・展示の歴史をつなぐ研究です。(参照:『Photographies』|ヴェストベリ「写真の物質性と指標性」(2008)/メトロポリタン美術館|マン・レイ《埃の培養》(1920))

現実とのつながりをどう問い直すか

写真が何かの現実的な経路から作られると知った後も、見る人は「その像は何を証明できるのか」と問い続けます。人が撮影する行為には選択があり、見る人には文化的な知識があり、画像には保存と編集の歴史があります。

2010年代の研究には、写真の指標性をなお中心的に扱う論者と、その枠組み自体の不明確さを検討する論者がいます。写真の哲学は、現実と像の関係を一度定義して終えるより、作品と技術の変化を通して精緻に考えていく領域です。(参照:オックスフォード大学研究アーカイブ|写真の指標性を再検討する研究/『Philosophy of Photography』|オズボーン「写真画像の社会的存在論」(2010)/イスタンブール大学|デイルメンジ「デジタル写真と画像の存在論」(2017))

略年表|写真と指標の記号論

  • 1800年|ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットが生まれる
  • 1839年|パースがアメリカのケンブリッジに生まれる
  • 1839〜1840年|タルボットが感光紙の画像やカメラによる陰画を使い、イタリアの研究者へ作品を送る
  • 1844〜1846年|タルボットが写真図版を収めた『自然の鉛筆』を分冊で出版する
  • 1860年代|パースが記号の分類について初期の論考を著す
  • 1877年|タルボットが死去する
  • 1903年|パースが記号論を発展させた講義を行う
  • 1914年|パースが死去する
  • 1918年|デュシャンが《Tu m’》を制作する
  • 1920年|マン・レイがデュシャンの《大ガラス》上の埃を撮影する
  • 1922年|マン・レイが感光紙を使ったレイヨグラフを発表する
  • 1938年|ロバート・スミッソンが生まれる
  • 1941年|ロザリンド・クラウスが生まれる
  • 1943年|ゴードン・マッタ=クラークが生まれる
  • 1948年|アナ・メンディエタが生まれる
  • 1959年|デュシャンが顔の素描と石膏型を組み合わせた作品を制作する
  • 1964年|バルトが写真と記号を論じた「イメージの修辞学」を発表する
  • 1969年|ヴィト・アコンチが《Following Piece》を実行する
  • 1970年|スミッソンが《スパイラル・ジェティ》を制作し、映像でも記録する
  • 1973年|メンディエタが《シルエタ》シリーズを開始する
  • 1973年|スミッソンが死去する
  • 1975年|オッペンハイムが土地に巨大な指紋を移した《Identity Stretch》を実行する
  • 1976年6月|ニューヨーク市クイーンズのP.S.1で「Rooms」展が開催される
  • 1976年|マッタ=クラーク、スチュアート、ポッツィがP.S.1の建物に介入する作品を制作する
  • 1977年春|クラウス「インデックスについての覚書」第1部が『October』第3号に掲載される
  • 1977年秋|同論考第2部が『October』第4号に掲載される
  • 1978年|マッタ=クラークが死去する
  • 1978年|メンディエタの《シルエタ》の写真作品が制作される
  • 1980年|ロラン・バルトが死去する
  • 1985年|アナ・メンディエタが死去する
  • 2007年|メスキンとコーエンが写真の証拠性を検討する論考を公表する
  • 2008年|ヴェストベリが写真の物質性と指標性をめぐる研究を発表する
  • 2010年|オズボーンがデジタル時代の写真画像の存在論を論じる
  • 2017年|デイルメンジがデジタル写真の指標性に関する研究を公表する

まとめ|写真はなぜ現実の証拠に見えるのか

チャールズ・サンダース・パースの記号論では、アイコンは類似によって、インデックスは対象との現実的な関係によって、シンボルは慣習によってものを示します。写真は被写体からの光を記録するため、見た目が似ているという性質と、撮影時の現実に結びついているという性質が重なります。タルボットの感光紙、マン・レイのレイヨグラフ、デュシャンのガラスに積もった埃の写真は、それぞれ異なる経路で物や時間の痕跡を見せています。

クラウスは1977年、この指標の仕組みを1970年代の美術全体へ拡張しました。オッペンハイムの巨大な指紋、アコンチの行為を示す写真と地図、P.S.1の床を切るマッタ=クラーク、壁の凹凸を写すスチュアート、壁面の色を再現するポッツィは、既存の場所や身体とのつながりを作品の条件にしています。抽象絵画すら、絵画内部の色面を組み立てるケリーとは別に、現実の色や形の痕跡を示す方法へ向かったとクラウスは論じました。

写真が現実の証拠に見える理由の一つは、この物理的なつながりにあります。それでも写真が何を意味し、どんな出来事を証明するのかは、撮影された範囲、作家の判断、説明文、保存と展示の経緯を踏まえて考える必要があります。写真の力は、現実に触れた画像の確かさと、その画像の意味を問い続ける解釈の営みが重なるところにあります。

参考資料・出典