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Philosophy

1844–1867

豊かになる社会で、なぜ人は疎外されるのか

マルクスと労働の哲学

1840年代のイギリスでは、綿花を糸に変える紡績機と織物を作る力織機が、工場の中で大勢の人を働かせていました。北西部のマンチェスターでは、水力や蒸気力を使う製造業が発展し、リヴァプール港と工業都市を結ぶ鉄道が原料と製品の移動を速めていました。布地の生産量が増え、商人が扱う市場は国境を越えて広がります。工場を持つ人、そこで賃金を得て働く人、綿花を運ぶ人の暮らしは、新しい産業の仕組みに組み込まれていきました。

工場で働く女性や子どもの長時間労働は、当時から社会的な問題になっていました。英国議会では1833年の工場法で児童の雇用と労働時間を規制し、監督官を置く制度が作られます。1847年には繊維工場の女性と若年労働者の労働時間を制限する法律が成立しました。新しい機械によって豊富な商品を作れるようになった社会で、その生産を担う人々の生活をどう守るかが、政治の場でも争われていたのです。

同じ頃、プロイセン出身の若い思想家カール・マルクス(1818–1883)は、フランスのパリで経済学を学びながら、働く人が自分の生み出したものや仕事の意味から切り離される状況を考えていました。1844年の『経済学・哲学草稿』で彼は、その経験を「疎外された労働」として分析します。物を生産する力が大きくなるほど、なぜ生産した人が自分の働きを自由に形作れない場合があるのでしょうか。マルクスの問いは、産業の成長を人間の生活との関係から捉え直すものでした。

それから20年以上が過ぎた1867年、マルクスは『資本論』第1巻を刊行します。商品の価値がどう決まるか、工場で働く時間から利益がどう生まれるか、人間同士の関係が市場ではなぜ物の値段の関係として現れるかを、膨大な統計と史料によって説明しようとしました。1844年の疎外論と1867年の経済分析を結ぶと、豊かさの増大と働く人の自由が必ずしも同じ歩幅で進まない理由を、社会の制度から考える道筋が見えてきます。

CONTENTS

  1. マンチェスターの綿工場は世界とどうつながっていたか
  2. 工場法は誰の時間を守ろうとしたか
  3. 若きマルクスはなぜ経済へ向かったか
  4. エンゲルスが見たイギリスの労働者
  5. アダム・スミスとリカードの経済学から何を学んだか
  6. ヘーゲルとフォイエルバッハから受け継いだ「疎外」
  7. 1844年の『経済学・哲学草稿』はどんな文書か
  8. 自分が作った製品が自分から遠ざかる
  9. 働いている時間そのものが自分のものではなくなる
  10. 人間の「類的存在」とは何を意味するのか
  11. 働く人同士の関係まで変わっていく
  12. 私有財産と疎外された労働はどう関係するか
  13. 賃金が上がれば疎外はなくなるのか
  14. 人間はなぜ自然に働きかけ、物を作るのか
  15. 1845年の「フォイエルバッハに関するテーゼ」は何を変えたか
  16. 『ドイツ・イデオロギー』が示す社会と生活の関係
  17. 1848年の『共産党宣言』と革命の時代
  18. 分業と協働によって生まれる大きな力
  19. 1859年の「序言」に示された歴史の見方
  20. ロンドンで書き続けた『資本論』
  21. 『資本論』はなぜ商品から始まるのか
  22. 商品の価値に労働時間はどう関わるか
  23. お金が資本として増える仕組み
  24. 労働者が売る「労働力」とは何か
  25. 剰余価値はどのように生まれるのか
  26. 労働日をめぐって誰が何を争ったか
  27. 機械は働く人を自由にするのか
  28. 商品の「物神性」は何を隠すのか
  29. 富の蓄積はなぜ働く人の不安と結びつくのか
  30. 資本主義の始まりにはどのような歴史があったか
  31. 疎外論はその後どのように読まれてきたか
  32. 豊かになる社会で人はどうすれば自由に働けるか
  33. 略年表|産業革命とマルクスの思想
  34. まとめ|豊かさと働く人の自由
  35. 参考資料・出典

マンチェスターの綿工場は世界とどうつながっていたか

リヴァプール港から綿花が工場へ届く

19世紀前半のマンチェスターは、イギリスの綿工業の中心地として発展しました。綿花は港から運河や道路で工場へ届き、1830年に開通したリヴァプール・マンチェスター鉄道は、その輸送網を変える重要な役割を果たします。工場では原料が糸と布地へ加工され、完成した製品は国内だけでなく海外の市場へ売られました。都市の仕事は、その場にいる人だけで完結するものから、遠くの生産地や消費地まで結ぶものになりました。

綿花の主要な供給地の一つは、奴隷制が続いていたアメリカ合衆国南部でした。綿畑で強制的に働かされた人々の労働と、イギリスの機械化された製造業は大西洋を越えて結びついていました。布地を安く大量に作る技術と、植民地支配や奴隷制の歴史を同時に見ることで、19世紀の工業化が持つ世界的な広がりが理解できます。(参照:マンチェスター科学産業博物館|綿工業と大西洋奴隷制の歴史/マンチェスター科学産業博物館|工業都市の発展と綿花貿易)

工場と町が変えた一日の長さ

家族や小さな作業場を単位に布を作っていた時代から、大勢の労働者が同じ場所で機械を動かす時代へ移ると、労働の時間と規律も変わりました。工場では始業と終業、機械を動かす速さ、作業の順序が雇い主の管理のもとで決められます。製品を大量に作れる仕組みには、生産する人々の活動を同じ時間の枠へ集める働きがありました。

機械は人が少ない力で多くを生産する可能性を広げました。生産が止まる時間を短くすることが経営上の目的になると、工場を動かす時間が長引く圧力も生まれます。一日のうち何時間を仕事に使い、残りを家族や休息に使えるのか。労働をめぐる争いは、賃金の金額に加えて人間が自分の時間をどこまで決められるかという問題にも向かいました。(参照:英国議会|1833年工場法の成立/マンチェスター科学産業博物館|工業都市の発展と綿花貿易)

生産量の増加と生活の豊かさの差

一台の機械で以前より多くの糸を作れるようになれば、布を購入する人は商品をより手に入れやすくなる可能性があります。工場の所有者も生産量と売上を増やす機会を得ます。生産を支える人々の暮らしが同じ速度で改善するかどうかは、賃金、労働時間、住居、衛生、仕事の安定などによって変わります。豊かな社会という言葉には、生産された物の多さと、人々が経験する生活の豊かさという二つの意味があります。

マルクスが注目したのは、この二つが食い違う理由を社会の仕組みから説明することでした。工場での働き方がどのように決まり、誰が製品を所有し、利益の配分に誰が発言できるのか。生産量の増大を示す数字から、こうした関係を考えると、産業革命は技術の歴史であると同時に、労働と所有をめぐる哲学の問題になります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マンチェスター科学産業博物館|綿織物と世界市場)

工場法は誰の時間を守ろうとしたか

1833年の法律は何を変えたか

英国議会は1833年、工場で働く子どもに対する年齢制限や労働時間の規制を定める法律を成立させました。対象となったのは主として繊維工場で、9歳未満の児童の雇用を禁じ、年齢に応じた労働時間の上限などを設けます。法律を実際に守らせるための工場監督官も置かれました。工場経営者の裁量に委ねられていた労働条件へ、国家が介入する制度が整えられ始めたのです。

法律の制定後も、職場の安全を確保するには多くの課題が残りました。取り締まりの対象と人員には限界があり、家族が子どもの収入を必要とする状況も続きます。議会の議論が続いたのは、工場の仕事を何歳から、どの程度まで認めるのかについて、経営者、改革運動、労働者の間で利害が分かれていたためです。(参照:英国議会|1833年工場法の成立/英国国立公文書館|1833年工場法と児童労働)

1844年と1847年の改正をめぐる争い

1844年の工場法は機械による事故を防ぐための安全対策などを強め、女性の労働時間にも規制を広げました。1847年の「十時間法」は繊維工場の女性と一定年齢の若年労働者の労働時間を制限するもので、長い労働時間の短縮を求める運動の成果でした。当時の雇用の形態によっては、女性や若年者への制限が工場全体の稼働時間にも影響しました。

こうした法律は議会の中で自動的に進んだものではありません。工場経営者の反対、児童労働の実態調査、労働者と支援者の運動があり、何時間働くことを社会として許容するかが争われました。1846年の議会討論では、子どもの教育と宗教生活に時間を確保することまで論点になっています。労働時間は私的な契約の問題であるとともに、社会全体が向き合う政治的な問題でした。(参照:英国議会|19世紀の工場法と改正/英国議会議事録|1846年工場法案をめぐる審議)

「自由な契約」で十分なのかという疑問

大人が働く条件に同意し、工場主が賃金を支払えば、外から見ると自由な契約が成立しています。生活のために収入を得る必要が強く、別の仕事を見つける機会が少ない人にとって、その契約の選択肢は限られます。雇い主にも商品の価格や競争という制約があります。両者の関係を理解するには、契約書の言葉に加えて、仕事を求める人の社会的な条件を見ることが必要になります。

マルクスは後の『資本論』で、契約の自由という形を認めたうえで、その背後にある労働力と生産手段の所有関係を分析します。工場法をめぐる争いは、この問題を具体的に示していました。労働者が自分の時間を守ろうとし、国家が規制を設け、資本家が稼働時間を確保しようとする。その衝突の中から、自由とは何を指すかという問いが生まれます。(参照:マルクス『資本論』第1巻第10章|労働日/英国議会|1833年工場法の成立)

若きマルクスはなぜ経済へ向かったか

プロイセン領ライン地方で学んだ哲学

カール・マルクスは1818年、当時プロイセン王国に属していたトリーアのユダヤ系家庭に生まれました。ボン大学とベルリン大学で法律や哲学を学び、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770–1831)の思想をめぐる議論に深く関わりました。ヘーゲルは社会制度や歴史を理性との関係から理解しようとした哲学者です。マルクスはその問題意識を受け継ぎながら、現実の政治や人々の生活へ関心を向けていきました。

学問の世界で職を得る見通しが難しくなると、マルクスは新聞で政治や経済の問題を論じるようになります。政治の制度について哲学的に考える人が、税制や土地の使用、貧しい人々の権利に触れることで、抽象的な自由という言葉と現実の生活との距離が見えてきました。新聞を通じて社会の問題に向き合った経験は、経済学の研究へ進む重要な契機になりました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/スタンフォード哲学百科事典|ヘーゲル)

新聞編集と検閲が突きつけた現実

マルクスは1842年に『ライン新聞』の執筆・編集に関わり、プロイセン政府の検閲や政治上の制約に直面しました。新聞は1843年に廃刊へ追い込まれます。当時のプロイセンでは出版物への監督が強く、自由や法律をめぐる議論が政府と衝突しました。マルクスにとって政治的な自由は、机上の概念として研究するだけで終わる問題ではありませんでした。

法律が平等をうたっていても、人々が暮らす条件には大きな差があります。形式上の権利を持つ人が、生活を支える土地や仕事の仕組みを自由に決められるとは限りません。マルクスは政治と社会を結びつけて考える過程で、所有と労働の関係を調べる必要を強く感じるようになります。物を作り生活する条件へ思想の中心が移っていったのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版)

1843年パリで経済学と労働運動に触れる

1843年、マルクスはパリへ移住し、翌年にかけてフランスの社会主義思想やイギリスの経済学を学びます。パリは政治的な急進思想や労働者の組織活動に接することのできる都市でした。マルクスは1844年、哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハの宗教批判などを手がかりに、労働と人間の自己理解を結びつける草稿を書き始めます。

そこで問題になったのは、工場や市場が拡大する社会を何によって説明するかということです。政府がよい法律を作れば解決するのか。個人の考え方を改めれば十分なのか。マルクスは、働く人が生産に参加する条件そのものへ目を向けることで、経済生活の仕組みを哲学の主題にしました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立)

エンゲルスが見たイギリスの労働者

マンチェスターで働く人々を観察する

ドイツ出身のフリードリヒ・エンゲルス(1820–1895)は、家業に関わる仕事のため1842年からマンチェスターに滞在し、工業都市の労働者の生活を観察しました。工場街と貧困地域、住居の密集、病気、長時間労働に関心を寄せ、1845年には『イギリスにおける労働者階級の状態』を刊行します。彼は製造業に関わる家庭の出身であり、産業の仕組みを知る立場からも働く人々の生活を見ていました。

著作には都市の住宅事情や工場の労働、労働運動について多くの記述があります。エンゲルスの観察は、当時の労働者の状態を知るための重要な同時代資料です。政治的な主張を持つ著述家による報告でもあり、個々の数字や事例は行政史料や別の歴史研究とも照らして読む必要があります。マルクスとエンゲルスの協力は、社会の現実を哲学へ取り込む大きな道筋になりました。(参照:エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』1845年|目録/エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』|工業労働)

街の住居と工場の働き方

工場の労働条件を考えるとき、建物の中にいる時間だけでは人々の暮らしは見えてきません。帰宅する先の住居に十分な水や衛生設備があるか、家族が休息できるか、病気になったときどうなるかが生活を左右します。エンゲルスはマンチェスターなどの街を観察し、生産の発展と都市の住環境を同じ社会問題として描きました。

経済の成長を工場の数や生産された商品で測ることには意味があります。それと並んで、働いた後の時間を人がどのように過ごせるかを考えれば、成長の成果が社会の中でどう分配されているかが見えてきます。都市の住宅事情が労働の問題と深く結びつくことは、19世紀の工業化を考えるうえで欠かせない点でした。(参照:エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』1845年|目録/マンチェスター科学産業博物館|工業都市の発展と綿花貿易)

マルクスとの協力が始まる

マルクスとエンゲルスは1844年にパリで本格的な協力関係を築きました。マルクスが哲学と政治経済学を研究し、エンゲルスがイギリスの工業社会の現実を知っていたことは、二人の議論を特徴づけます。二人は後に共同で『ドイツ・イデオロギー』の草稿を書き、1848年には『共産党宣言』を刊行します。

協力の中で、人間の生活を形作るのは思想だけなのか、それとも働き、物を作り、交換する具体的な関係なのかという問いが強まりました。マルクスの1844年草稿は、その後完成する経済学説の確定版ではありません。実際の工業社会の分析とヘーゲル哲学の再検討が交わる初期の試みとして読むと、思想が変化していく過程が見えてきます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』|分業と人々の社会関係)

アダム・スミスとリカードの経済学から何を学んだか

分業が豊かさを生むという説明

スコットランドの道徳哲学者・経済学者アダム・スミス(1723–1790)は、1776年の『国富論』で分業が生産力を高める仕組みを論じました。有名なピン工場の例では、一本のピンを一人で最初から最後まで作る方法と、針金を切る、形を整える、先端を作るなどの作業を分担する方法が比較されます。仕事を専門化すると技術を習熟させやすく、道具の改良も進み、大量の製品を作れるようになります。

この説明は、産業の生産性が高まる理由を理解するための基礎になります。マルクスも、協業や分業が大きな生産力を生むことを認めました。そのうえで、作業が細分化されたとき、働く人は製品全体や仕事の進め方をどう理解できるのかと考えます。生産の仕組みを支える人間に焦点を合わせることで、同じ分業が別の哲学的な問いを生み出します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録)

デイヴィッド・リカードが考えた価値と分配

イギリスの経済学者デイヴィッド・リカード(1772–1823)は、1817年の『経済学および課税の原理』で、商品の価値や賃金、利潤、地代がどう関係するかを研究しました。ものがどれほど役立つかという価値と、市場でほかの商品とどのように交換されるかという問題は区別されます。産業の成長に伴う所得の分配を考えることは、当時の経済学の大きな課題でした。

マルクスはスミスとリカードを深く読み、価値と労働の関係を学びました。先行する経済学が商品の生産や価格を説明しようとするところから、なぜ賃金労働という仕組みが社会で成り立つのか、そこで利益がどのように生まれるのかを問う方向へ進みます。資本主義の仕組みを自然な秩序として受け取る前に、その歴史的な成立と働く人への影響を確かめるのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの経済理論を読み解く研究)

経済学の数字から人間の生へ

ある工場の売上が増えても、そこで働く人の生活がどれほど改善するかは、それだけではわかりません。原料費や設備費、賃金、利益がどう配分され、働く時間が変化したかを調べる必要があります。数字を見比べる作業を通じて、豊かさが誰にどのような形で届くかという問題を具体的に考えられます。

経済学は価格や所得を説明する力を持ちます。マルクスが加えた哲学的な問いは、生産の仕組みが人間にとってどのような関係になっているかという点にあります。商品を作る行為が自分の能力を発揮する機会になる場合もあれば、他人の指示に従うだけの経験になる場合もあります。価値を測ることと、人間がどう生きるかをつなげて考えるところに、初期マルクスの独自性が現れています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

ヘーゲルとフォイエルバッハから受け継いだ「疎外」

ヘーゲルでは自己の外に出ることが何を意味するか

ヘーゲルは、人間の意識や精神が、自分の外に現れた世界と関わりながら自己を理解していく過程を考えました。ものを作ることや社会制度を生み出すことには、自分の内側にあった意志や考えが外の形になるという面があります。外へ現れたものに再び向き合うことで、人間は自分が何を生み出したのかを理解することもできます。

マルクスはこの発想から、働く人が作ったものとその人自身の関係を問い直しました。作品や道具を外に作り出すことは、人間の活動が持つ普通の働きです。作ったものが本人の意志から離れ、他人の権力や市場の力として働くとき、そこにどのような問題が生まれるのか。マルクスの疎外論は、人間とその生産物との関係を社会的な条件の中で考えます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ヘーゲル/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

フォイエルバッハの宗教批判

ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハ(1804–1872)は、1841年の『キリスト教の本質』で、神に帰せられた完全さや愛の性質を、人間の能力や願望との関係から解釈しました。人間自身が持つ性質を外の絶対的な存在へ投影し、その存在に従うという関係を批判したのです。この議論は、若いマルクスの宗教観と人間観に強い刺激を与えました。

マルクスが労働へ向かったとき、似た構造が見えてきます。人が生み出したものが、次第に人を支配する独立した力のように現れることです。宗教的な信念を説明する際の疎外という言葉が、工場での生産や商品の所有という現実的な関係へ移されます。何が人間の力を本人から遠ざけるのか、なぜそのような関係が生じるのかを経済の条件から考え始めます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/スタンフォード哲学百科事典|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ)

人間の意識から社会の仕組みへ移る

ある人が自分の作った道具を別の人に渡し、その人が使うなら、両者の関係は共同の仕事として成り立ち得ます。誰がその道具を持ち、どの条件で働かせるかという関係が大きく変われば、作った人の経験も変わります。疎外を単なる心の感覚として見る場合には、こうした所有や支配の違いを説明できません。

マルクスは、考え方が変わればそれで十分だという説明から進み、所有と労働の仕組みを検討します。人間が自ら生み出した力にどう向き合うかという問いには、精神的な側面と制度的な側面の両方があるからです。何を誰が作り、誰のものとなり、どのように使われるかを確かめる方法が、哲学の新しい探究につながりました。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

1844年の『経済学・哲学草稿』はどんな文書か

パリで書かれた研究ノート

マルクスは1844年、パリで経済学の文献を読み、労働や賃金、私有財産についての考察をノートにまとめました。現在『経済学・哲学草稿』と呼ばれる文章は、発表のために整えられた一冊の完成原稿とは性格が違います。途中で切れている箇所や重複もあり、読書ノートと独自の議論が入り交じっています。ヘーゲルや経済学者の言葉へ向けた批判が、思想の形成途中の形で残されています。

この文書を読むと、マルクスが生産と所有をめぐる社会の仕組みを、まだ手探りで理解しようとしていた様子がわかります。後の『資本論』で使われる概念と似た考えもあります。草稿独自の人間論や哲学的な言葉も数多く見られます。両者の関係を調べる際は、1867年の結論を1844年へそのまま移さず、概念がどう育ったかを追うことが大切です。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版)

1932年まで広く読まれなかった疎外論

1844年の草稿は、マルクスの生前には刊行されませんでした。まとまった形で公刊されたのは1932年で、執筆から約90年を経ていました。19世紀の読者がマルクスを知る際には、当時刊行された論文や『共産党宣言』『資本論』などが主要な資料でした。現在よく知られる四つの疎外の説明は、20世紀になって初めて幅広く研究されるようになった文章に基づきます。

この刊行史は哲学史を理解する上で大きな意味を持ちます。1844年に書かれた思想を紹介することと、1844年に社会へ影響を与えた思想を紹介することは、別の歴史を指します。マルクスの青年期を再発見した20世紀の研究者たちは、経済分析の著者としての姿に、人間の自由や自己実現を考える哲学者としての姿を重ねました。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版)

「疎外された労働」の節を読む位置

草稿の「疎外された労働」と呼ばれる部分では、商品の生産が増える状況と、働く人が自分の作ったものを自由に扱えない状況が結びつけて論じられます。マルクスは、賃金が低いことや工場が不衛生であることを考えるとともに、労働という人間の活動そのものがどのように変わっているのかを問いました。商品を作る人間が、自分の仕事を外から命じられる作業として経験するのはなぜでしょうか。

そこで彼は、生産物からの疎外、労働活動からの疎外、人間としての可能性からの疎外、他の人々との関係からの疎外を論じます。四つの側面は別々の問題の一覧というより、同じ社会関係に含まれた異なる切り口です。どこから切り離され、なぜそれが人間にとって問題になるのかを、順に確かめることで草稿の論理が見えてきます。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

自分が作った製品が自分から遠ざかる

生産物からの疎外はどこに現れるか

織物工場で働く人が布を織り上げても、その布は通常、工場の所有者のものとして販売されます。労働者は契約に基づいて賃金を受け取り、製品の販売価格や販路を決定する立場にはありません。1844年のマルクスは、人が力と時間を注いで作ったものが、本人から切り離された外部の所有物として現れる関係に着目しました。

ここで重要なのは、完成品を持ち帰れないという事実だけではありません。生産物には働く人の能力や時間が形を変えて含まれています。その生産物が本人の生活を自由にする力にならず、賃金と雇用を左右する他者の資産として蓄積されるとき、働いた成果が自分にとって異質な力になると考えたのです。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

豊かさが増えるほど距離が広がるという逆説

工場が新しい機械を導入し、一日に作る布の量が二倍になったとします。製品が増えることは社会にとって豊かさを生む可能性を持ちます。労働者が機械の導入や製品の配分を決められず、雇用や賃金が市場の変化に左右されるなら、生産力の増加を自分の力として実感できるとは限りません。

マルクスが問題にしたのは、生産物の量と生産者がその成果を支配できる程度との間に生じる隔たりでした。工場の売上が増えれば必ず全員が豊かになるという説明から、利益の所有と決定の仕組みを確かめる問いへ進んだのです。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

生産物と作り手の関係を考える

職人が依頼を受けて机を作る場合でも、完成後の机は注文主へ渡ります。生産物が手元から離れること自体は、交換や共同生活のありふれた出来事です。疎外を考えるには、作り手が製作の目的や工程にどの程度関われるか、報酬や成果の扱いを誰が決めるかという社会的な条件を調べる必要があります。

この区別によって、マルクスの議論は、物を売る行為を一律に悪いとする説明から離れます。製品を介して社会へ働きかける人が、その活動の条件を自ら理解し、方向づけることができるのか。生産物からの疎外は、人間の創造した力を誰が動かすのかという問いを提起します。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

働いている時間そのものが自分のものではなくなる

労働活動からの疎外とは何か

1844年の草稿でマルクスは、生産物だけでなく、それを作る活動も疎外されると考えました。工場へ入る時間、作業の順番、動作の速さ、休憩の仕方が細かく決められれば、労働者は自らの活動を自由に組み立てる余地を失います。仕事を進める行為が、自分の能力を発揮する機会であると同時に、外から課された義務として経験されます。

労働活動は、毎日の長い時間を占める生活の一部です。仕事の時間を本人にとって意味ある活動にできるかどうかは、勤務時間の外で何が買えるかという問題とは別に考えられます。マルクスは、活動そのものが本人から遠ざかるという点を、生産物の所有に劣らず重大だと見ました。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立)

時計と監督者の指示で動く身体

工場制の生産では、複数の人の仕事を同じ速度で進める必要が生じました。機械の運転時間に合わせて作業が配置され、監督者は遅れや停滞を管理します。この方法は大量生産を可能にしました。その仕組みの中では、一人の労働者が自分の判断で作業を中断したり、全体の工程を変更したりすることは難しくなります。

働く身体の時間が、他の人の計画の一部として編成されるのです。マルクスの分析は、工場で働くことが必ず苦痛であるという心理の断定ではありません。働き方を決定する権限がどこにあり、個人の活動がどのような仕組みに組み込まれているかを問う社会的な分析でした。(参照:エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』|工業労働/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

充実した仕事と強い拘束はどう違うか

人は共同で働くとき、自分一人では達成できない仕事に参加できます。楽器の合奏も建築現場も、全員の時間を調整する必要があります。協働に規律があることと、仕事をする人が活動の目的に関われないこととは、区別して考えられます。どのような規律が必要で、誰がそれを決められるかが焦点になります。

労働活動からの疎外という概念は、仕事の大変さを測る尺度以上のものを示します。人間が生きている時間の中で、自分の活動をどれほど自分のものとして引き受けられるかという問題です。この問いは、マルクスが後に労働時間を社会的な争点として分析するときにも響いています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『資本論』第1巻第10章|労働日)

人間の「類的存在」とは何を意味するのか

生きるための活動を超えた可能性

マルクスは1844年の草稿で、人間を「類的存在」として考えました。人間には、生存に必要なものを作る力があり、自分たちがどのような活動を行うかを意識し、将来を構想する能力もあります。道具や建物を作り、知識を伝え、共同生活を組み立てるという営みの中に、人間の可能性が現れると考えたのです。

この表現には、フォイエルバッハを通じて受け継いだ人間観が見られます。マルクスは、人間の活動をその日の食事を手に入れる手段としてだけ捉えませんでした。人が自らの能力を社会の中で発揮し、周囲の世界に働きかけることが、どのような条件で可能になるかを問いました。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ)

共同で作り、世界を理解する能力

一人で作れない橋や学校も、多くの人が知識と労力を組み合わせれば実現します。その成果は、今日の生活を支えるだけでなく、次の世代の活動の条件になります。言葉や技術を継承し、社会の将来を考えながら物を作れることは、人間の集団的な力の現れです。

生産活動が暮らしを維持するための強制としてしか経験されなくなると、このような能力を発揮する機会が狭まります。マルクスはそれを人間の「類的存在」からの疎外として捉えました。人間の生の豊かさを生産物の数量だけで表せないと考える理由が、ここにあります。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

自由な活動を考える際の限界と広がり

類的存在という言葉は、人間に共通する能力を語るための哲学的な概念です。どのような生活が望ましいかについて、文化や時代を超えた一つの答えをすぐに導くことはできません。創作や技術研究を好む人もいれば、家族や地域の仕事に意味を見いだす人もいます。

マルクスの議論から引き出せる重要な問いは、人々が多様な能力を発揮するために何を必要とするかという点です。生活のために働く時間と、自分が望む活動に関わる時間の関係を調べれば、自由を具体的な社会条件として考えることができます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立)

働く人同士の関係まで変わっていく

他者からの疎外という第四の側面

人間の仕事は、道具や原料を用いるとともに、ほかの人々との関係の中で成り立ちます。作ったものや活動そのものが本人から切り離されるとき、その成果を所有し、労働を指示する人との関係も変わります。マルクスは、この人間と人間の分離を疎外された労働の第四の側面として論じました。

生産物を自分のものとして扱えない労働者と、その生産物を所有して販売する人との関係には、権限の差があります。マルクスは、疎外の問題を個人の孤独感に閉じ込めず、こうした人々の間に成立する所有と支配の関係へ結びつけます。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

競争と協力が同じ工場に存在する

工場の製品は多くの人の共同作業によって生まれます。労働者は前の工程を担当する人の仕事を受け取り、次の工程の人へ渡します。この協力は技術的に欠かせません。雇用の機会が限られ、賃金をめぐる交渉力に差がある場合、同じ職場で働く人々が競争する関係も生まれます。

共同で成果を作りながら、その成果や働き方について対等に意思決定できるとは限らない。この複雑な状況を、マルクスは人間の社会的な能力と現実の労働関係の隔たりとして見ました。協力しているという事実だけでは、協力の成果を誰が動かしているかまではわかりません。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』1845年|目録)

人間関係の問題を制度の問題として読む

職場に親切な監督者がいることは、毎日の経験を大きく変えます。公正な賃金や安全な作業環境を整えることも重要です。マルクスが提示したもう一つの問いは、個々の人が善意を持っていても、所有者と労働者の間にどのような力の差が残るかということでした。

人間と人間の関係を考える際に、性格や道徳だけを評価しても社会の構造は十分に見えません。雇用契約、所有権、意思決定の仕組みを調べれば、ある関係が繰り返し生まれる条件を分析できます。疎外論が哲学でありながら社会制度の研究へつながる理由がそこにあります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

私有財産と疎外された労働はどう関係するか

誰が生産の道具を所有しているか

綿を紡ぐ機械や大きな工場を建てるには、設備や原料を集める必要があります。これらを所有する人と、生活のために自分の労働力を提供する人とが分かれると、製品や作業の進め方に対する決定権も分かれます。マルクスは、私有財産という言葉を生産の条件を所有する社会関係の中で論じました。

家庭で使う椅子や衣服の所有を、工場や原料の所有と同じ働きをするものとして考えると、彼の議論の焦点がぼやけます。生産手段の所有が、ほかの人の労働を組織し、生産されたものを販売する力となる点が問題なのです。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

結果であり原因でもあるという考察

1844年の草稿で、マルクスは私有財産を疎外された労働の結果としても捉えています。働く人の生産物が他人のものになる関係が繰り返されることで、生産者から切り離された富が蓄積されます。蓄積された富はさらに労働を組織するための手段となり、同じ関係を続ける力を持ちます。

ここでは、労働の成果と所有の仕組みが相互に結びつき、社会関係を繰り返し生み出す過程が考えられています。私有財産が疎外の原因となり、疎外された労働が私有財産を生み出すという関係です。後年の資本の蓄積という分析につながる着想も見いだせます。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録)

所有を問い直すことが自由とつながる

機械の購入に資金を出した人が利益を受け取ることには、現実の経済の中で説明される理由があります。マルクスはそこで議論を終えず、働いた人々が生産の条件と成果をどのように理解し、決定できるかと問いかけました。市場で取引される所有権と、労働の現場で経験される自由とを同時に考えます。

所有の問題を哲学へ結びつけると、自由の意味が広がります。契約を結ぶ権利に加え、自分の生活を形作る生産活動に関与する力が問われるからです。この点が、1844年の草稿で経済学と人間論をつなぐ中心的な論点でした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立)

賃金が上がれば疎外はなくなるのか

生活水準と仕事の自由を分けて考える

同じ工場で働く人の賃金が上がれば、食事や住居を改善し、教育や余暇へ使えるお金が増えます。賃上げは労働者の生活に現実的な変化をもたらします。1844年の疎外論は、その上で、何を作るか、どう作るか、誰がその成果を動かすかという別の問いを残しています。

給料の高い仕事に就いている人が、仕事の進め方をほとんど決められない場合もあります。低い賃金でも仕事に創意を感じる場合も考えられます。生活の豊かさと活動に対する主体性は互いに関係しながら、それぞれ確かめる必要がある問題なのです。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

疎外と搾取は同じ言葉なのか

後の『資本論』でマルクスは、労働力の価値と、その労働力が生産過程で生み出す価値の差に注目しました。そこから剰余価値の概念を組み立てます。この経済分析で中心となる搾取と、1844年に論じた疎外は、同じ現象に関わり得るものの、論じる対象が異なります。

疎外は、人間が自分の活動とその成果にどう関わるかを問います。搾取は、生産で生み出された価値が賃金と利益へどう分かれるかを説明する概念です。両者を区別すると、賃金水準が改善した場合にもなお残る問題と、労働による利益の分配をめぐる問題が整理しやすくなります。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|搾取をめぐる哲学的論争)

よい仕事とは何かを判断するために

仕事を評価するには、賃金の額、身体の安全、休息の時間、仕事の意味、意思決定への参加といった複数の視点が必要です。マルクスの疎外論は、このうち働く活動を自分の力として経験できるかという観点を鮮明にしました。賃金の要求と労働時間の短縮をめぐる運動にも、それぞれ固有の意味があります。

この考え方は、19世紀の工場を研究する際にも役立ちます。労働条件を知るために給与記録だけを読むのではなく、作業の指示書、工場法、当事者の証言を合わせて考えることで、人が働くことの全体像に近づけます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/英国議会|1833年工場法の成立)

人間はなぜ自然に働きかけ、物を作るのか

働くことが世界を変える

人は木材を加工して椅子を作り、土を耕して作物を育て、鉱石から道具を作ります。その過程で自然の素材が生活に役立つ形へ変わり、働く人も新しい技術や知識を身につけます。マルクスは、人間の生活が自然との絶え間ない関わりの中で営まれることを重視しました。

1844年の草稿では、この活動が人間の能力を現実の世界へ表すものとして考えられています。後の『資本論』は、労働過程を人間と自然との物質的なやり取りとして説明します。両者の言葉は違っていても、生産を人間の生活の根幹に置く視点が続いています。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立/マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産)

道具と知識は世代を超えて残る

産業革命の機械は、それまでの職人が蓄積してきた技術や知識を新しい装置に組み込みました。紡績機や蒸気機関は、一人の発明者の力だけで成り立ったものではありません。過去の仕事の成果や研究、部品を作る職人、工場の作業員が複雑に関わっています。

人間の生産活動は、各人の人生の長さを超えて共同の世界を作ります。その蓄積された力が、次に働く人々を支える可能性を持つことは重要です。同じ機械が強い拘束を生むこともあるため、何を作り出したかに加えて、装置を使う社会関係が問われます。(参照:マルクス『資本論』第1巻第15章|機械と大工業/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

自然への働きかけと社会への問い

大量生産を可能にした工場は、原料と燃料を遠くから集め、製品を広い地域へ届けました。生産の規模が大きくなるほど、人と自然との関係は都市の外にも広がります。綿花を育てる土地、水や石炭の利用、輸送の経路まで視野に入れると、工業社会の豊かさが多くの場所と人々に支えられていることがわかります。

マルクスの労働論からは、自然を加工する能力の成長と、その能力が社会でどう使われるかという二つの問いを取り出せます。人が何を生み出せるか、そして生み出した力をどう管理するかは、彼の思想を理解するための連続した問題です。(参照:マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産/マンチェスター科学産業博物館|綿工業と大西洋奴隷制の歴史)

1845年の「フォイエルバッハに関するテーゼ」は何を変えたか

世界を理解することと変えること

1845年、マルクスは短い覚書「フォイエルバッハに関するテーゼ」を書きました。後に知られる第十一テーゼでは、哲学者たちが世界をさまざまに解釈してきたことに触れ、世界を変えるという課題を強調します。この文章は生前には公刊されず、エンゲルスが1888年に付録として発表しました。

世界を変えるという言葉を、理論を捨てて直ちに行動するという命令として読むと、文章が置かれた思想上の問題が見えにくくなります。マルクスは、人間の考えと社会の現実を切り離して説明する方法を問い直しました。社会の中で人間が何を行い、どのように関係を変えるのかを研究の中心に据えようとしたのです。(参照:マルクス『フォイエルバッハに関するテーゼ』1845年/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

「実践」という言葉が指す活動

人が道具を作り、家族と暮らし、仕事を分け合い、政治的な要求を伝えることは、社会を成り立たせる具体的な活動です。実践という言葉は、考えを現実へ移す行為だけを指すものとして限定しきれません。知識そのものが、働くことや共同生活の中で生まれ、試され、受け継がれるという意味を持ちます。

この視点を取れば、社会制度を考えるとき、そこに暮らす人々の活動を調べる必要が明らかになります。法律や宗教の観念がどのように成立したかを問う作業は、生活を維持する行為や人間関係の歴史とつながっていきます。(参照:マルクス『フォイエルバッハに関するテーゼ』1845年/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

思想の転換点として読み直す

1844年草稿で人間の本質や疎外を強く語っていたマルクスは、その後、人間を具体的な社会関係の中で考える方向へ進みました。1845年のテーゼは、その変化が短い文章に凝縮されているため、マルクス思想の転換点としてよく読まれます。

若い時期の問いが消えたと断定する必要はありません。人はなぜ自分の活動を自由に扱えないのかという問題が、社会の制度や歴史をどう研究するかという方法の問題へ広がっていったと理解できます。草稿から草稿へと考え方が動いていく過程が、ここに示されています。(参照:マルクス『フォイエルバッハに関するテーゼ』1845年/マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』|分業と人々の社会関係)

『ドイツ・イデオロギー』が示す社会と生活の関係

考え方を支える毎日の生活

マルクスとエンゲルスは1845〜46年ごろに『ドイツ・イデオロギー』の原稿を共同で書きました。そこでは、食物や住居などの生活手段を作る活動、人々が結ぶ社会関係、知識や意識のあり方を結びつけて考えます。生活を続けるための活動から社会を理解しようとする方法が、さらに明確になります。

この原稿も執筆当時には書物として公刊されず、まとまった形で読まれるようになったのは1932年です。1840年代の思想が当時どのように流通したかを語るときには、完成して刊行された文章と、後世の研究によって発見された草稿を区別する必要があります。(参照:マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』|分業と人々の社会関係/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版)

分業が社会の関係を形作る

一つの村で農業と手仕事を分け合う社会と、工場で細かな作業を専門に担う社会では、人々が互いを必要とする形が異なります。生産の方法が変われば、人が集まる場所や暮らす仕組み、仕事をめぐる争いのあり方も変わります。分業は経済技術の問題であるとともに、社会関係を組み立てる条件です。

マルクスとエンゲルスは、現実の人間が生活を作る過程に着目しました。社会の姿を個人の頭の中の観念だけで説明する方法では、工場や土地、家族や都市が変化していく理由を十分に捉えられません。歴史的な条件の中で人間を考えるという発想が、後の研究を支えます。(参照:マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』|分業と人々の社会関係/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

思想の歴史を物質的な歴史につなぐ

教育や宗教、政治制度は社会生活に大きな影響を与えます。それらがどのように成立したかを考えるには、人々がどのような仕事で生活し、どのような力関係のもとで暮らしていたかを調べることも必要になります。社会の経済的な条件に着目するのは、思想を軽く見るためではありません。

知識や政治的な考えが形成される現実の場を研究することに意味があります。1844年の疎外論で取り上げた「人が作ったものに人が支配される」という問題は、社会全体がどのように構成されるかという研究へ広がりました。(参照:マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』|分業と人々の社会関係/スタンフォード哲学百科事典|分析的マルクス主義)

1848年の『共産党宣言』と革命の時代

ヨーロッパに広がった政治的な動き

1848年にはパリで二月革命が起こり、ヨーロッパ各地で政治体制の改革や国民国家を求める運動が広がりました。同じ年、マルクスとエンゲルスは政治文書『共産党宣言』を刊行しました。産業と市場の発展を歴史的な変化として描き、資本家階級と賃金労働者階級の対立を中心的な争点に据えています。

『共産党宣言』は読者へ行動を呼びかける政治文書です。1844年の未刊草稿や、後の『資本論』の詳細な経済分析とは、文章の目的と語り方が異なります。著作が書かれた状況を確かめることで、マルクスが複数の形式で社会へ働きかけていたことがわかります。(参照:マルクス/エンゲルス『共産党宣言』1848年/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

ブルジョワジーとプロレタリアートという言葉

宣言に登場するブルジョワジーは、近代産業の発展とともに生産手段や資本を握るようになった階級を指します。プロレタリアートは、生活のために労働力を売る賃金労働者の階級です。この区分は、人の暮らしぶりや道徳性を名前で決めるものではなく、社会の生産と所有の関係に基づくものです。

産業革命期には、工場を所有する人、商人、熟練職人、日雇い労働者、農村から移住した人々など、多様な立場が存在しました。宣言はその複雑な現実を、歴史を動かす対立の構図として示します。読む際には、政治的な目的を持った鋭い概括であることを踏まえると理解が深まります。(参照:マルクス/エンゲルス『共産党宣言』1848年/エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』1845年|目録)

労働の問題から社会の変革へ

賃金や工場法をめぐる要求は、具体的な労働条件を改善する働きを持ちます。宣言ではさらに、労働と所有を組織する社会制度そのものを変えられるかが問われます。生産の方法が歴史の中で発展してきたなら、その方法を支える社会関係も変化し得るという考え方が、政治的な展望を支えていました。

この時期のマルクスにとって、疎外という哲学的な問いと、階級や国家をめぐる政治的な問いは別々に存在していたのではありません。人々が自分の生活を作る条件へどのように関与できるかという問題が、社会全体へ広がっていきました。(参照:マルクス/エンゲルス『共産党宣言』1848年/マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』|分業と人々の社会関係)

分業と協働によって生まれる大きな力

一人では作れないものを作る

鉄道の建設には、線路を敷く人、橋を作る人、機関車を設計する人、資金を集める人が関わります。多くの人が協力すると、一人では到達できない規模の仕事を成し遂げられます。マルクスは『資本論』で、共同作業によって生まれる社会的な生産力に注目しました。

この力を何に使うかを決めるのは、しばしば生産を組織する側です。働く人々が共同で生み出した能力が、仕事を監督し雇用を決める資本の力として現れるとき、協働の成果とその管理との間に距離が生じます。分業と協力の分析は、初期の疎外論につながる社会的な問題を具体化します。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

仕事の専門化がもたらす発展

一つの技術を長く学べば、道具の扱いに習熟し、作業の精度を高めることができます。分業による専門化には、このような能力を育てる働きがあります。工場では、生産の各工程を組み合わせることで、作業時間を短縮し、複雑な製品を安定して作ることが可能になります。

同時に、ある工程しか担当しない労働者が、完成品の用途や設計を知る機会を持ちにくくなることがあります。マルクスは、分業の技術的な効果と、それが労働者の経験へ与える影響を区別しながら考えました。生産性を高める方法が、人間の能力をどの方向へ育てるかを問う視点です。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/マルクス『資本論』第1巻第15章|機械と大工業)

共同の力は誰のものと感じられるか

交代勤務や複数の工場の連携によって、一つの製品を大量に生産できるようになります。その成果は、多くの人の熟練と協力の蓄積によって生じます。工場の帳簿には製品の売上や設備の価値が記録されても、共同作業の力を一人ひとりの働きとして示すことは簡単ではありません。

マルクスは、生産を組織する資本が、働く人々の共同の力を自らの力のように表すことを問題にしました。これは共同作業の成果を誰が所有し、誰が今後の仕事に使うかという社会制度の問いでもあります。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

1859年の「序言」に示された歴史の見方

生活を生産する仕組みから社会を考える

マルクスは1859年の『経済学批判』の序言で、人々が生活を生産する過程に入る社会的な関係が、経済的な構造を形作ると述べました。法律や政治の制度、思想のあり方を理解するときには、その社会で人々がどう生産し、どのような関係を結んでいるかを考える必要があります。

これは、ある時代の人が何を信じていたかを調べる歴史研究に、生産と所有の関係を加える方法です。農業を中心に暮らす社会と、工場生産に多くの人が雇われる社会では、土地や道具の所有、家族の働き方、政治的な要求も変化します。社会を全体として読む視点が明確に示されています。(参照:マルクス『経済学批判』1859年|序言/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

生産力と生産関係の緊張

新しい技術によって大量の物を作れるようになっても、それを使う制度が古いままなら、誰が設備を動かせるか、利益を得られるかをめぐる対立が生まれます。マルクスは、生産する能力の発展と、所有や労働を組織する社会関係との間に生じる緊張を歴史の変化を考える手がかりとしました。

技術の発展が必ず一つの政治体制を生み出すという単純な図式だけで読むと、現実に存在する複数の選択肢が見えにくくなります。技術と制度の関係を歴史的に調べ、矛盾や対立がどのように行動へつながるかを確かめることが重要です。(参照:マルクス『経済学批判』1859年|序言/スタンフォード哲学百科事典|分析的マルクス主義)

歴史に必然を見いだす議論をどう読むか

マルクスの歴史理解は、社会にある対立を発展の力として捉える点で大きな影響を与えました。生産の仕組みが変われば社会制度も変わり得るという考えは、政治運動や社会科学の理論に結びついていきます。歴史の方向が一つに定まっているのかという問題は、後の解釈でも繰り返し議論されてきました。

1859年の序言を読む際には、そこに簡潔に示された歴史の見方と、実際にマルクスが行った経済史の研究を合わせて考えると理解が深まります。社会の変化を人間の活動から説明しようとする試みは、特定の未来を予言する文章の範囲に収まりません。(参照:マルクス『経済学批判』1859年|序言/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

ロンドンで書き続けた『資本論』

亡命生活と大英博物館の閲覧室

1848年の革命運動が退潮した後、マルクスは各地を移り、1849年からロンドンで生活しました。家計には厳しい時期が続き、ジャーナリストとして記事を書きながら経済学の研究を進めました。大英博物館の閲覧室は、経済学の著作、統計、議会報告書を調べる重要な場所になりました。

彼が調べた資料には、工場監督官の報告や労働時間についての議会資料も含まれます。『資本論』は理論だけで組み立てられた書物ではなく、当時のイギリスで働く人々の具体的な条件を取り込んで書かれました。マルクス自身の貧しい亡命生活も、研究と執筆の長い年月を特徴づけます。(参照:大英図書館研究記録|マルクスと大英博物館閲覧室、『資本論』/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

1857〜58年の草稿から1867年の刊行まで

マルクスは1857〜58年に経済学の大規模な研究草稿を書き、1859年には『経済学批判』を刊行しました。研究を続ける中で、商品、貨幣、資本、労働力といった概念を練り直します。『資本論』第1巻がドイツ語で刊行されたのは1867年で、出版地はハンブルクでした。

一般に『資本論』と呼ばれる著作は複数の巻に分かれます。マルクスの生前に刊行されたのは第1巻で、第2巻は1885年、第3巻は1894年にエンゲルスが遺稿を編集して出版しました。1867年の第1巻を中心に考えることで、同時代の読者が実際に手にできた議論の範囲を明確にできます。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版)

哲学的な問いを経済学の仕組みへ

『資本論』では、商品の価値をどう考えるかという議論から出発し、労働力が売買される条件、生産過程での剰余価値、労働日をめぐる争いへと進みます。1844年の草稿に見られる人間の本質をめぐる説明は、書物全体を貫く直接の構成原理として前面に出ていません。分析のための概念と史料の扱い方が大きく変わっています。

その変化を追うと、若い時期の問いが経済学の研究によって具体的な社会の仕組みへ向けられたことがわかります。生産物が働く人から離れるとはどういうことかを考えた思想家が、後にその生産物が市場で交換され、資本となって蓄積する仕組みを詳しく調べたのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性)

『資本論』はなぜ商品から始まるのか

布や上着を身近な例として考える

『資本論』第1巻は「商品」の分析から始まります。たとえば布は衣服を作るために役立ち、上着は身体を寒さから守ります。人々が使うという具体的な有用性を、マルクスは「使用価値」と呼びました。物の素材や用途に関わる性質です。

布と上着を市場で交換するときには、種類の異なる物が一定の比率で比べられます。この交換を可能にしている共通の社会的な尺度は何なのか。マルクスはそこから、使用価値と区別される価値の問題へ進みます。商品の分析が労働をめぐる議論の入り口になります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録)

使えることと交換できること

ある人が家族のために机を作れば、その机は使うことのできる物になります。商品生産の社会では、多くの机が市場で販売するために作られます。生産者は、誰かの役に立つ物を作ることに加え、それが市場で売れるかどうかを考えなければなりません。

作った物が必要とされているか、どの価格で売れるかという判断は、各生産者の外側にある市場を通じて表れます。マルクスは、この仕組みの中で、人間の労働がどのような社会的な形をとるのかを考えました。商品という日常的な物の分析が、人々の関係を考える哲学にもつながります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

物の性質から社会の関係を読み取る

同じ布でも、家で使うために織ったものと、遠くの市場で販売するために織ったものでは、置かれる社会関係が異なります。素材の柔らかさや丈夫さは布の物理的な性質です。価格や交換の比率は、人々の労働と取引の関係を通じて決まります。

商品の姿を注意深く調べることで、マルクスは市場の表面に現れる価格の背後に、社会的な労働の仕組みを見ようとしました。商品の分析は、物を研究することから人間の関係を考えることへ進む道筋を示しています。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/スタンフォード哲学百科事典|資本主義)

商品の価値に労働時間はどう関わるか

社会的に必要な労働時間という尺度

マルクスの価値論では、商品を生産するために社会的に必要とされる労働時間が重要な役割を持ちます。平均的な生産条件と標準的な熟練・強度のもとで、ある商品を作るのにどれほどの時間が必要かという考え方です。仕事の遅い人が多くの時間をかければ、その分だけ商品の価値が自動的に高くなるという意味ではありません。

新しい機械が普及し、以前より短い時間で布を作れるようになれば、その商品を生産するために社会で必要とされる時間も変わります。生産技術の発展と商品の価値を結びつけるために、個々の作業時間と社会的な尺度を区別する必要がありました。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの経済理論を読み解く研究)

具体的な仕事と抽象的な労働

服を縫う裁縫の仕事と、食器を作る陶工の仕事には、それぞれ違う技術や道具があります。マルクスは、商品の使用価値を作るこうした具体的な仕事と、異なる商品を価値として比較する際に共通のものとして扱われる労働とを区別しました。後者を「抽象的人間労働」と呼びます。

この区別は、人間が実際に行う仕事の多様性を消すためのものではありません。商品が市場で交換されるとき、性質の異なる労働がどのように社会的な比較の対象になるかを説明するための考え方です。生産物の価値をめぐる議論が、労働の社会的な関係を表す理由がここにあります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

価値論をめぐる議論は今も続く

マルクスの労働価値論は、賃金と利潤を分析するための重要な理論として研究されてきました。商品の価格は需給や競争、技術、制度によっても動きます。現代の経済学では価格形成を説明する別の理論が広く使われ、価値と価格の関係についてマルクスの分析に対する多くの批判や再解釈が存在します。

そこで『資本論』を読むときには、マルクスがどのような理論的な前提から議論を進めたかを明確にすることが大切です。労働時間と価値の関係をめぐる理論の妥当性と、仕事の条件や豊かさの分配を問う哲学的な意義は、それぞれ検討できます。(参照:ケンブリッジ大学出版局|マルクスの経済理論を読み解く研究/スタンフォード哲学百科事典|分析的マルクス主義)

お金が資本として増える仕組み

商品を売って必要なものを買う

農家が収穫した小麦を売り、そのお金で衣服を買うとします。この場合、売ることは生活に必要な別の物を手に入れるための手段です。マルクスは『資本論』で、商品から貨幣を経て別の商品へ移るこの流れを説明しました。取引の前後で手に入る物の種類は変わり、最終的な目的は生活に役立つ物を得ることです。

商品と貨幣の交換が広がれば、見知らぬ人々の間で多くの取引ができるようになります。貨幣は異なる商品の価値を表示し、交換を仲介します。日常の売買を考えることが、資本の動きを理解する準備になります。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性)

お金を増やすために商品を買う

工場経営者が機械と原料を購入し、労働者を雇い、製品を売って最初に投じた額より多くのお金を得ようとする場合、取引の目的は変わります。マルクスはこれを、貨幣から商品を経て増加した貨幣へ至る運動として説明しました。商品を作ることが、投じた価値を増やす過程へ組み込まれます。

『資本論』で「資本」と呼ばれるものは、単に金庫にあるお金や工場の機械の集まりだけで捉えられません。価値を増やすために貨幣が投じられ、労働が組織され、商品が売られるという社会的な運動の中にあります。資本の意味を理解するには、その循環を考えることが大切です。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

交換が等価なら利益はどこから来るか

買った商品を高く売れば、個別の商人は利益を得ることがあります。社会全体の資本が繰り返し増える理由を、その値上げだけで説明できるでしょうか。マルクスは、商品が一定の価値で交換されると仮定しても、資本が増殖する仕組みを説明しようとしました。

そのために注目したのが、人間が働く能力としての「労働力」です。労働力は市場で売買され、その使用によって新たな価値を作り出すという性質を持ちます。商品交換の表面から、工場の内部で起こる生産過程へ議論が進んでいきます。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産)

労働者が売る「労働力」とは何か

働く能力と実際の活動を区別する

雇用契約では、労働者は決められた時間に働くことを約束し、賃金を受け取ります。マルクスは、ここで売買されるのは労働そのものというより、一定の時間、労働を行う能力としての「労働力」だと説明しました。雇い主はその能力を契約の範囲で使用し、工場で製品を生産します。

この区別は『資本論』の核心にあります。雇い主が買う能力には、市場で価格がつきます。その能力が実際に使われる過程では、新たな商品と価値が生み出されます。労働力の価値と、働いている間に生み出す価値を分けて考えることで、利益の源泉を分析できるようになるのです。(参照:マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

労働力を維持するための生活費

働く人は食事や住居を必要とし、身体を休め、技能を学び、次の日も働ける状態を保たなければなりません。マルクスは、労働力の価値を、それを維持し再生産するために社会的に必要な生活手段の価値との関係から説明しました。必要なものの範囲には、歴史的、社会的な条件も関わります。

賃金を決める現実の過程には、労働者と雇い主の交渉、職種、景気、制度など多くの事情があります。マルクスの議論は、その市場の動きの背後で、人間が継続して働く能力を維持することがどのように位置づけられているかを理論として説明しようとします。(参照:マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

自由な労働者が置かれた歴史的な条件

賃金労働者は、法律上は自分の労働力をどこへ売るか選ぶことができます。マルクスは同時に、多くの労働者が土地や工場などの生産手段を持たず、生活のために働く能力を売る必要に置かれていることを重視しました。契約の自由と、生活を維持する条件の差が同じ社会に存在します。

この仕組みを理解するには、雇用契約の成立場面に加え、なぜ一部の人が生産設備を所有し、別の人が労働力を売る立場になったかという歴史を調べる必要があります。『資本論』の終盤で扱われる本源的蓄積の分析は、この問いにつながっています。(参照:マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産/マルクス『資本論』第1巻第26章|本源的蓄積の秘密)

剰余価値はどのように生まれるのか

労働力の価値と生み出す価値

ある工場で、労働者が一日に生み出す新しい価値と、その日に支払われる賃金に相当する価値を比べるとします。マルクスの理論では、労働力を維持するために必要な価値を生み出した後にも、働く時間が続くことがあります。その追加の労働が生み出す価値が「剰余価値」です。

マルクスは、商品交換が等価に行われていると仮定した上でも、この差が生まれると論じました。労働力の持ち主は契約によって賃金を受け取り、工場の所有者は契約した時間に生産された商品の成果を受け取ります。利益の形成を、個々の商人の不正な値付けだけで説明しない点に、この分析の特徴があります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産/スタンフォード哲学百科事典|搾取をめぐる哲学的論争)

仮に八時間働いたらどうなるか

仕組みを理解するため、八時間の労働を仮定してみます。最初の四時間で賃金に相当する価値が新たに生まれ、残りの四時間でも同じ速さで価値が生まれるとします。後半の四時間は、マルクスの理論では剰余労働時間に当たります。ここでの四時間ずつという数字は、概念を説明するための仮定であり、当時の工場の平均値を示すものではありません。

労働者は八時間の仕事に対して賃金を受け取っています。マルクスが問題にしたのは、労働力の価値を超えて生まれた価値を誰が取得するかという仕組みです。実際の工場の利益を計算するには、原料や機械の費用、商品が売れる条件、価格の動きなどを考慮する必要があります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第7章|労働過程と剰余価値の生産/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの経済理論を読み解く研究)

剰余価値が利潤と結びつく

工場で作られた商品が市場で売れなければ、投じたお金は回収できません。生産過程で剰余価値が生じるという分析と、それが販売を通じて貨幣として実現されるという問題は、結びつきながら区別されます。市場の競争は、それぞれの工場が同じ製品をより安く作ろうとする圧力にもなります。

マルクスが剰余価値の理論を組み立てた目的は、賃金と利潤を一つの生産過程の中で説明することでした。その理論が経済全体の価格や利潤を十分に説明できるかについては、後世まで議論が続いています。哲学史としては、富の増加と労働時間の配分を同じ構造で理解しようとした点が重要です。(参照:マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの経済理論を読み解く研究)

労働日をめぐって誰が何を争ったか

一日を何時間働くかという対立

工場経営者は、機械や建物を活用するためにできるだけ長く工場を稼働させようとします。働く人には、身体を回復させ、家族と暮らし、自分の時間を持つ必要があります。『資本論』の労働日を扱う章で、マルクスは労働時間の長さをめぐる争いを、資本家と労働者の利害が衝突する問題として描きました。

契約に基づいて労働力を使う権利と、労働力を維持するために時間を守る必要とがぶつかるのです。働く時間をめぐる限度は、個々の工場の裁量や取引だけで決められるとは限りません。労働運動や議会を通じて社会的な規制が形成されました。(参照:マルクス『資本論』第1巻第10章|労働日/英国議会|1833年工場法の成立)

工場監督官の記録が持つ重み

マルクスは、労働日について論じる際に、英国の工場監督官の報告書や議会資料を詳しく引用しています。子どもや女性の労働、休憩時間の扱い、法律の抜け道をめぐる記録は、長時間労働がどのように社会問題になったかを示していました。抽象的な価値の理論が、具体的な時間の数え方に結びついていきます。

資料に登場する人々の労働条件は、業種や時代によって異なります。マルクスが選んだ事例が当時のすべての職場の平均像を示すと考えることはできません。彼の分析を理解するためには、引用された記録がどの制度のもとで作られたかを確認することも有益です。(参照:マルクス『資本論』第1巻第10章|労働日/英国議会|1833年工場法の成立)

法によって作られる自由の条件

児童労働の年齢規制や女性・若年者の労働時間制限は、人が働く時間を社会として調整し始めた事例です。立法の内容は限られており、当初の規制を受けない業種や労働者もいました。工場法の歴史を通じて、誰の時間が保護されるか、保護がどの範囲まで広がるかという問題が見えてきます。

『資本論』における労働日は、価値の形成を説明する時間であると同時に、人々が政治的に争った生活の時間でもあります。豊かさを生み出すための時間と、人が自分の生活を営むための時間の関係が、資本主義の中心的な問題として表れます。(参照:英国議会|19世紀の工場法と改正/マルクス『資本論』第1巻第10章|労働日)

機械は働く人を自由にするのか

機械が減らす作業と増やす生産

紡績機や力織機の導入は、一人の人が短時間で作れる糸や布の量を増やしました。人が長く続けていた単調な動作を装置へ移し、身体の負担を軽くする可能性も持ちます。機械化によって生産の技術的な条件が変わると、製品の価値や労働者に必要とされる技能も変化します。

マルクスは『資本論』で、機械の働きを詳しく調べました。技術的な発展そのものを否定するためではなく、機械がどの目的で使われ、どのように労働者の時間や仕事の内容を組み替えるかを理解するためです。(参照:マルクス『資本論』第1巻第15章|機械と大工業/マンチェスター科学産業博物館|綿工業と大西洋奴隷制の歴史)

工場での速さと雇用の変化

機械の導入によって、一部の仕事には以前ほど多くの人数が必要でなくなることがあります。新しい作業や設備管理の仕事が生まれる場合もあります。雇用と技能の変化は、技術の種類、需要の拡大、競争などの条件によって異なります。工場を動かす速度が上がれば、労働者の身体が機械のリズムに合わせられることもあります。

生産性が向上しても、それが全員の労働時間の短縮に直結するとは限りません。工場経営者が販売量の増加へ機械の能力を使う場合、労働の強度や作業の管理が高まることがあります。生産する力の進歩と働く人の経験との関係を、マルクスは社会的な選択の問題として考えました。(参照:マルクス『資本論』第1巻第15章|機械と大工業/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

人の能力はどこへ向かうか

機械の導入によって人が担う仕事は変わります。繰り返しの動作から解放され、複雑な判断や新しい製品の開発に力を使える可能性があります。作業が細かく管理され、機械の監視に時間を費やす形になる可能性もあります。働く人が技術の変更に参加できるかどうかは、仕事の経験を大きく左右します。

機械は人間が生み出した知識を物の形にしたものです。その機械が人間の自由を広げる条件を考えることは、1844年に生産物が人から遠ざかると論じた問題に、別の角度から答える試みとも言えます。(参照:マルクス『資本論』第1巻第15章|機械と大工業/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

商品の「物神性」は何を隠すのか

市場では物と物が関係しているように見える

店で上着を買うとき、私たちの目には値札と商品の形が見えます。上着を作った人がどこで何時間働いたか、原料を誰が集めたか、工場の仕事がどう分担されたかまでは、通常わかりません。商品を交換する社会では、人々の労働の関係が、価格を持つ物と物との関係として表れます。

マルクスは『資本論』の第1章で、こうした現れ方を「商品の物神性」と呼びました。物が不思議な魔力を持つという宗教上の信念を単純に批判しているのではありません。人間同士が社会的に結びついている仕組みが、商品そのものに備わる性質のように見えることを説明する概念です。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

値段の背後にある働く人々

一枚の布が市場で一定の価格を持つとき、それを作った人は直接買い手に出会わないことがあります。自分の仕事が社会でどれほど必要とされているかは、市場で商品が売れるという結果を通じてわかります。人々の協力と依存は、計画された一つの共同作業として見えるとは限りません。

マルクスの議論で重要なのは、誰かが価格にだまされているという心理の問題を超えた点です。商品交換が生産者の関係を仲介する社会では、物の交換という形そのものが、人々の関係を表す手段になります。日常の買い物という場面から社会の仕組みを読む視点です。(参照:マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性/スタンフォード哲学百科事典|資本主義)

1844年の疎外論とのつながり

1844年の草稿では、人間が生み出した生産物が本人から切り離され、独立した力のように現れることが論じられました。1867年の商品の物神性の分析では、人々が結ぶ労働の関係が、商品を交換する物同士の関係として表れます。どちらにも、人間が作り出した社会の力が、作り手から離れて見えるという問題があります。

両者は成立時期も概念の働きも異なります。初期草稿の中心は働く人とその活動の関係であり、『資本論』では商品交換という社会形式の分析が中心です。この違いを保ったまま読むと、マルクスが何を引き継ぎ、何を新しい方法で問い直したのかがわかります。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/マルクス『資本論』第1巻第1章|商品と商品の物神性)

富の蓄積はなぜ働く人の不安と結びつくのか

利益を再び生産へ投じる

工場の経営者が利益の一部を新しい機械や設備へ投じれば、翌年にはより多くの製品を作れる可能性があります。マルクスは、得られた剰余価値が新たな資本に変わる過程を「蓄積」として論じました。資本を増やす競争が、技術の改良や生産規模の拡大を促す仕組みです。

社会に多くの商品や設備が蓄積されると、人々の生活を便利にする可能性が高まります。同時に、投資をどう行うかという判断が少数の所有者に集中していれば、働く人々の雇用や地域の暮らしは、その判断から大きな影響を受けます。富の増加を生産者の安心にどう結びつけるかが問われます。(参照:マルクス『資本論』第1巻第25章|資本主義的蓄積の一般法則/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

雇用を求める人々の存在と交渉力

機械の導入や景気の変化によって仕事を失った人が増えれば、職を探す人々の間で競争が強まります。マルクスは、資本の蓄積に伴って生まれる相対的な過剰人口を分析し、それが労働市場で雇用と賃金の条件に関わると考えました。一般に「産業予備軍」と呼ばれる議論です。

労働力を必要とする分野が拡大すれば、新しい雇用も生まれます。現実の雇用は景気や技術、人口移動、法制度などの影響を受けて変化します。マルクスは、失業を働く人の個人的な失敗として説明する見方を超え、資本が拡大する仕組みと結びつく問題として捉えようとしました。(参照:マルクス『資本論』第1巻第25章|資本主義的蓄積の一般法則/スタンフォード哲学百科事典|分析的マルクス主義)

生産が豊かでも生活が不安定になる理由

町に新しい工場が建てられ、以前より安価な製品が行き渡ることは、経済の成長を示す出来事です。働く人が失業の危険を抱え、生活を計画しにくくなるなら、社会に蓄積された富と各人の安心の間には隔たりが残ります。所有する設備が増えることと、人生の見通しが立つことは同じ指標で測れません。

マルクスの資本蓄積論は、この隔たりが産業の発展に伴ってどのように再生産されるかを説明しようとします。1844年の疎外論に戻れば、生産する力が自分たちを支える力として経験されるためには何が必要かという問いが、ここでも重要になります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第25章|資本主義的蓄積の一般法則/マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働)

資本主義の始まりにはどのような歴史があったか

土地から離れた人々と賃金労働

『資本論』の終盤でマルクスは、資本を持つ人と労働力を売る人が分かれた歴史を調べました。イングランドでは長い時間をかけて土地の利用や所有の仕組みが変化し、農村で生計を立てるために使っていた土地から離れる人々が現れます。こうした過程は、工場で働く人々が増える歴史と関係していました。

生産手段を持たない人は、生計を立てるために労働力を売ることを求められます。マルクスは、この条件が最初から自然に存在したと考えず、その成立を「本源的蓄積」として分析しました。近代の契約制度を理解するために、それが成立するまでの強制や所有の変化を調べたのです。(参照:マルクス『資本論』第1巻第26章|本源的蓄積の秘密/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

囲い込みと土地をめぐる歴史

イングランドで進んだ土地の囲い込みには、地域と時代ごとに異なる形がありました。共有地や農地の利用の仕組みが変わることは、そこで働き暮らす人々の生計に大きな影響を与えました。マルクスは、土地から人が切り離される歴史が、賃金労働者と資本の成立を理解するうえで重要だと考えます。

人口が都市へ移り、産業が拡大した理由は一つではありません。農業の技術変化、人口動態、貿易、制度改革なども関わっています。本源的蓄積の議論は、それらの歴史の中でも、所有権をめぐる強制と人間が生活の手段を失う過程を強く照らし出すものです。(参照:マルクス『資本論』第1巻第26章|本源的蓄積の秘密/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

植民地支配と奴隷制が支えた富

イギリスの綿工業に使われた原料の多くは、アメリカ南部の奴隷制プランテーションから供給されました。そこでは人々が奴隷として扱われ、暴力的な強制の下で働かされていました。イギリスの工場で結ばれた賃金契約と、綿花の生産地で続いていた奴隷制は異なる労働の仕組みです。二つは世界市場を通じて深く結びついていました。

マルクスは『資本論』で、植民地の略奪や奴隷制を資本主義の歴史的形成を考えるうえで論じています。工業社会の豊かさを理解するには、機械を発明した人だけでなく、原料を生産した人々と、その労働が置かれた権力関係を見る必要があります。(参照:マルクス『資本論』第1巻第26章|本源的蓄積の秘密/マンチェスター科学産業博物館|綿工業と大西洋奴隷制の歴史)

疎外論はその後どのように読まれてきたか

1932年の公刊が変えたマルクス像

20世紀に入るまで、1844年の『経済学・哲学草稿』は広く読まれる状態にはありませんでした。1932年の公刊によって、若いマルクスが労働と人間の自己実現を深く考えていたことが、研究者や読者に見えるようになります。『資本論』の著者を、哲学的な人間論を持つ思想家として読み直す動きが強まりました。

この発見によって、初期の疎外論が後年の経済研究へどれほど続いているかが論争の対象になります。初期と後期の間に思想の転換を強く見る解釈もあれば、問いの連続性を重視する研究もあります。草稿の刊行史そのものが、20世紀のマルクス理解を形作ったのです。(参照:ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

経済理論に向けられてきた批判

マルクスは資本主義を理解するために、価値、労働力、剰余価値、蓄積という概念を組み立てました。その理論が価格や利潤の動きをどの程度説明できるかについては、経済学者や哲学者の間で多くの検討がなされてきました。歴史がどのような道筋で変化するか、階級による説明がどこまで有効かという問題も、研究の対象です。

彼の主張を学ぶことは、すべての予測をそのまま受け入れることと同じではありません。価値論への批判を知りながら、労働契約や生産物の所有、工場の時間をめぐる問題を考えることができます。思想史の研究では、提起された問いとそれに与えられた理論的な答えを区別することが、理解を深めます。(参照:ケンブリッジ大学出版局|マルクスの経済理論を読み解く研究/スタンフォード哲学百科事典|分析的マルクス主義)

有償労働の外に広がる問い

生活に必要な仕事には、工場や職場で賃金を得る労働に加え、家庭での食事作り、育児、介護などがあります。これらの活動は人間の生活と、次の日にも働ける条件を支えています。誰がその仕事を担い、どの程度社会から評価されているかを考えることは、労働をめぐる現代の重要な課題です。

19世紀の工場労働を中心に組み立てられたマルクスの分析から出発し、そこで十分に扱われなかった経験へ問いを広げる研究も進んできました。人が生活を作り、ほかの人を支える力が、どのような制度の下で認められるのか。この問題は疎外と労働を考えるための開かれた論点です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/スタンフォード哲学百科事典|搾取をめぐる哲学的論争)

豊かになる社会で人はどうすれば自由に働けるか

生産する力の成長と生きる力の成長

産業革命以来、人間は機械や知識を使って以前より多くの物を作れるようになりました。社会の生産力が高まることは、生活に必要な物を広く届け、人々の仕事を軽くする可能性を持っています。マルクスが問うたのは、その可能性が働く人の生活でどのように実現されるかという問題でした。

製品の量が増えても、働く人が自分の時間や活動の方向を決める力を持ちにくいなら、豊かさと自由の間に距離が残ります。何を作り、どれほど働き、成果をどう分け合うかを決める仕組みが重要になります。1844年の疎外論は、この問いを人間の活動から考え始めたものでした。(参照:マルクス『経済学・哲学草稿』|疎外された労働/スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス)

制度が変えられることの意味

工場法の成立によって、働ける年齢や一日の労働時間に規制が設けられました。社会の仕組みが法律や政治的な活動を通じて変化し得ることを、この歴史は示しています。職場の安全、労働条件の交渉、教育の機会などは、人々がどのように働けるかを左右する具体的な制度です。

マルクスの『資本論』は、そのような制度の背後で、所有と生産がどのように結びついているかを分析しました。社会を変えるための答えを一つに決める前に、働く人が何に制約され、どの場面で発言できるかを確かめることができます。(参照:マルクス『資本論』第1巻第10章|労働日/英国議会|19世紀の工場法と改正)

「疎外」という問いが残したもの

マルクスが1844年に考えた疎外は、製品が手元から離れること、働いている時間が外から管理されること、人間の能力を自由に発揮できないこと、人々の関係が所有と支配によって変わることを結びつける概念でした。1867年の『資本論』では、その背景にある商品、労働力、剰余価値、蓄積の仕組みが詳しく研究されました。

豊かになる社会でなぜ人は疎外されるのか。その問いへのマルクスの答えは、生み出された富の多さと、その富を作る活動に人がどのように関われるかが、異なる社会的な条件によって決まるというものでした。働くことが自分と他者の生活を豊かにする力になるには、何を変えられるのか。二つの時期の著作は、その問題を今も考え続けるための材料を残しています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録)

略年表|産業革命とマルクスの思想

  • 1776年|アダム・スミスが『国富論』を刊行し、分業と生産力の関係を論じる
  • 1817年|デイヴィッド・リカードが『経済学および課税の原理』を刊行する
  • 1818年5月5日|カール・マルクスがプロイセン王国のトリーアに生まれる
  • 1820年11月28日|フリードリヒ・エンゲルスがプロイセン王国のバルメンに生まれる
  • 1830年|リヴァプール・マンチェスター鉄道が開通する
  • 1833年|イギリスで工場法が成立し、繊維工場の児童雇用や労働時間の規制を進める
  • 1841年|フォイエルバッハが『キリスト教の本質』を刊行する
  • 1842年|マルクスが『ライン新聞』の編集に関わり、エンゲルスがマンチェスターへ赴く
  • 1843年|『ライン新聞』が廃刊となり、マルクスがパリへ移る
  • 1844年|マルクスがパリで『経済学・哲学草稿』を書き、疎外された労働を論じる。草稿は未刊行のまま残る
  • 1844年|マルクスとエンゲルスがパリで協力を本格化させ、イギリスでは工場法が改正される
  • 1845年|エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』を刊行し、マルクスが「フォイエルバッハに関するテーゼ」を書く
  • 1845〜1846年|マルクスとエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』を執筆する。全文の公刊は1932年
  • 1847年|イギリスで十時間法が成立し、繊維工場の女性や若年労働者の労働時間を制限する
  • 1848年2月|『共産党宣言』が刊行され、パリの二月革命をはじめヨーロッパ各地で政治的変動が続く
  • 1849年|マルクスがロンドンでの亡命生活を始める
  • 1857〜1858年|マルクスが後に『経済学批判要綱』として知られる大規模な研究草稿を書く
  • 1859年|マルクスが『経済学批判』を刊行し、序言で社会と歴史に関する方法を示す
  • 1864年|ロンドンで国際労働者協会(第一インターナショナル)が創設され、マルクスが活動に関わる
  • 1867年|マルクスがハンブルクで『資本論』第1巻を刊行する
  • 1883年|マルクスがロンドンで死去する
  • 1885年|エンゲルスの編集によって『資本論』第2巻が刊行される
  • 1888年|「フォイエルバッハに関するテーゼ」がエンゲルスにより初めて公刊される
  • 1894年|エンゲルスの編集によって『資本論』第3巻が刊行される
  • 1932年|『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』のまとまった公刊がマルクス研究に新しい論点をもたらす

年表はマルクス本人の著作とエンゲルスの著述、英国議会の工場法史料、ケンブリッジ大学出版局の草稿研究を照合してまとめました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/英国議会|1833年工場法の成立/ケンブリッジ大学出版局|マルクスの草稿の再発見と校訂版/マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録)

まとめ|豊かさと働く人の自由

1840年代のイギリスでは、綿工業の拡大によって大量の商品が生産され、マンチェスターを中心とする工業都市が成長しました。リヴァプール港から運ばれる綿花は、大西洋を越えた奴隷制プランテーションともつながっていました。工場に集まった人々は機械と時計の規律の下で働き、女性や子どもの長時間労働に対しては工場法の整備が進みます。産業の発展は社会の豊かさを増やすとともに、その生産を担う人々の時間や生活をどう守るかという問題を生みました。

若いマルクスは1844年の『経済学・哲学草稿』で、「疎外された労働」という考えを示しました。働く人が作った製品を自分で動かせないこと、労働活動が外から課されたものになること、人間の共同的な能力を発揮しにくくなること、所有や雇用の関係を通じて人々が隔てられることが、同じ問題の異なる側面として論じられています。賃金の改善は生活を支える重要な条件であり、疎外論はさらに、活動の目的や成果を誰が決定できるかという問いを開きました。この草稿は1932年まで刊行されず、その受容は20世紀の研究史に属しています。

マルクスはエンゲルスとの協力や政治活動を通じ、働く人々の生活を社会の歴史と結びつけて考える方法を深めました。1848年の『共産党宣言』では資本家階級と賃金労働者階級の対立を政治的な問題として描き、1859年の『経済学批判』では生産の方法と社会関係を結びつける歴史理解を示します。ロンドンでの長い研究を経て1867年に刊行された『資本論』第1巻は、商品、価値、労働力、剰余価値、労働日、機械、蓄積などの仕組みを経済学として分析しました。そこでは、働く能力を賃金で買い、その活動から新たな価値が生まれる関係が中心的な課題になります。

マルクスの労働価値論や歴史理解については、その後多くの批判と再解釈が重ねられてきました。1844年の疎外論と1867年の『資本論』の関係にも、思想の継続と変化をめぐる研究上の議論があります。二つの時期の文章をそれぞれの成立条件に沿って読むと、生産する力の成長と、人が自分の働き方を決められることの間に存在する隔たりが見えてきます。豊かさがどのように生み出され、誰がその成果と時間を使えるのか。この問いを社会の仕組みから考える道筋を、マルクスの労働の哲学は残しています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|カール・マルクス/マルクス『経済学・哲学草稿』1844年|草稿の構成と成立/マルクス『資本論』第1巻|オンライン版全章目録)

参考資料・出典

マルクスの1844年草稿と『資本論』第1巻は原典の英訳公開版を参照し、歴史的な成立時期、草稿の後年の刊行、哲学上の解釈はスタンフォード哲学百科事典と校訂史研究を照合しました。工業都市や綿花貿易の歴史にはマンチェスター科学産業博物館の資料、工場法の内容には英国議会と英国国立公文書館の説明を用いています。経済学の概念の妥当性や後世の研究をめぐる論点は学術機関の専門資料と比較しました。原典の参照箇所はオンライン公開版の章立てに従っています。