Art Library
Philosophy

紀元前300–100

人はどうすれば幸せに生きられるのか

エピクロス派とストア派

紀元前300年頃のアテネは、昔から続く神殿や劇場、広場を持ちながら、政治の条件が大きく変わった都市でした。紀元前323年にアレクサンドロス大王が亡くなると、その征服地をめぐって後継者たちが争い、マケドニア、エジプト、シリアなどに大きな王国が成立していきます。アテネはかつて成年男性市民が民会で政策を決め、裁判に参加する民主政で知られました。王国間の勢力争いのなかで都市の独立や政治参加の条件は繰り返し変わり、市民であっても戦争や外交の行方を自分たちだけで決められる範囲が狭まっていました。

ギリシア語を用いる人々はエーゲ海を越えて各地の都市で交易し、学び、暮らしていました。港と市場には出身地や身分の異なる人が行き交い、都市の政治に参加できたのは限定された市民です。女性や奴隷、在留外国人には市民男性と同じ権利がありません。学問の中心地としてのアテネには、プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンに続き、新しい哲学の仲間が集まります。人間の幸福を、名誉や政治的な成功が揺らぐ状況のなかでどう築くかが、切実な問題になりました。

この時代、エピクロスは仲間と暮らす「園(ケーポス)」を拠点に、不安と苦痛を減らして心の平静を得る道を探りました。キプロス島のキティオン出身のゼノンは、アテネの「彩色柱廊」で対話を重ね、理性と徳に基づく生き方を教えました。後にエピクロス派、ストア派と呼ばれる二つの流れです。病気や財産の変化、人との別れ、将来への恐れを前に、人は何を自分の幸福の土台にできるのでしょうか。両学派の違いは、古代の生活から出発したこの問いにあります。

都市国家から王国の時代へ|なぜ生き方が問題になったのか

紀元前323年、大王の死と都市の政治の変化

アレクサンドロス3世(紀元前356〜323年)はマケドニアの王で、父フィリッポス2世の後を継いでギリシア諸都市の勢力を統合し、ペルシア帝国を征服しました。彼がバビロンで亡くなると、将軍たちが領土と王権を争い、各地に新しい王国が生まれます。ギリシア世界の政治の中心は、個々の都市の民会に加えて、広大な土地を支配する宮廷や軍隊へ広がりました。

アテネも、紀元前322年のマケドニアとの戦争敗北を経て、政治制度に外部からの制約を受けます。のちに民主政が回復する時期もあり、都市には交渉や改革を続ける活動が残りました。人々は従来の市民生活を営みながら、王たちの争いや財政、戦争によって暮らしが変わる時代を生きます。何が起きても変わらない善い生き方を考えることは、この不安定な現実と直接つながっていました。(参照:ケンブリッジ大学出版局|ヘレニズム・ローマ期の政治思想/オックスフォード大学出版局|『ヘレニズム哲学ハンドブック』)

アゴラと学園で、誰が哲学を学んだのか

アゴラはアテネの公共広場で、売買、集まり、宗教活動、議論の場が重なっていました。広場の周辺には、柱が並ぶ屋根付きの建物であるストアが建ち、人々は雨や日差しを避けながら言葉を交わせました。壁画を飾る彩色柱廊(ストア・ポイキレー)もその一つです。ゼノンの学派が後にストア派と呼ばれるのは、彼がこの建物で教えたことに由来します。

この時代の哲学は、家庭教師や書物だけで伝えられたものではありません。仲間と散歩し、議論し、日々の判断を確かめる活動が大きな位置を占めました。ストア派の教える場所は公共の柱廊であり、エピクロス派の仲間は都市の中に設けた園を生活と学びの場にしました。こうした場所の違いは、二つの学派がどのような共同生活や社会との関係を重視したかを考える入口になります。(参照:ギリシア世界財団|アテネの彩色柱廊(ストア・ポイキレー)/スタンフォード哲学百科事典|ストア派/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

交易と王国の広がりは、人間の所属を問い直した

アレクサンドロスの征服と後継王国の成立により、エジプトのアレクサンドリアやシリア方面の都市などでギリシア語の文化と地域の伝統が交わりました。兵士、商人、行政に携わる人、学者たちが都市の間を移動します。故郷の制度だけで人生を考えていた人々にとって、異なる共同体の中で暮らす経験が増えました。

どの都市で生まれ、どれほど財産を持ち、どんな支配者のもとにいるかは、生き方へ影響します。その条件が移り変わっても、自分の判断や他者との関係をどう築けばよいのでしょうか。エピクロス派は安心して暮らせる交友と欲望の見直しへ、ストア派は理性と共同体の普遍的な秩序へ問いを進めました。幸福を都市の繁栄と結びつけて考えてきたギリシアの倫理学が、さらに別の可能性を探り始めます。(参照:ケンブリッジ大学出版局|ヘレニズム・ローマ期の政治思想/スタンフォード哲学百科事典|ストア派/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

「幸せに生きる」とは、哲学では何を意味したのか

ソクラテスから続いた、よい生き方への問い

紀元前5世紀のアテネで活動したソクラテス(紀元前469〜399年頃)は、勇気や正義とは何かを人々との対話で考えた哲学者です。弟子のプラトン(紀元前427〜347年頃)は『国家』などの対話篇を著し、正しい魂と正しい都市の関係を探究しました。プラトンの学園で学んだアリストテレス(紀元前384〜322年)は、『ニコマコス倫理学』で人間の活動が目指す幸福を論じ、徳を育てる習慣と社会の条件を考えました。

エピクロス派とストア派は、こうした先行する哲学の議論を受け継ぎます。「どんな人物が善い人か」という問いに加えて、「不運や病気、財産の喪失が起きても幸福でいられるか」を厳しく考えました。幸福のために必要なものを整理し、そのうち何が私たちの判断や習慣によって育てられるかを問う。生活上の心配を、善とは何かという理由の探究へ変えるところに、哲学としての働きがあります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|古代の倫理学/スタンフォード哲学百科事典|ストア派)

エウダイモニアは、一日のよい気分より広い

古代ギリシアの哲学者たちは、よく生き、人生がよい状態にあることを「エウダイモニア」という語で考えました。日本語では幸福と訳されます。友人との食事が楽しかった一日や、試験に合格した日の喜びも人間の経験です。エウダイモニアは、こうした一時的な喜びに加えて、どのような人生を選び、どんな状態を持続的に望むかを問います。

例えば、財産を増やすことで安心できる人がいるかもしれません。持ち物が増えるほど失う心配も大きくなるとしたら、安心はどこから生まれるでしょうか。あるいは正しいと思う行動を選び、評判が下がった人は不幸なのでしょうか。何を持つかと、どう判断して生きるかの関係を考えると、幸福の基準そのものが問題になります。二学派はその答えを、異なる出発点から組み立てました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|古代の倫理学/エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|ストア派)

「善いもの」の定義が変われば、選択も変わる

ある人が仕事の名誉を得る機会と、静かに家族と暮らす時間のどちらを選ぶか迷ったとします。どちらを重く見るかは、その人が何を善い人生の中心に置くかによって変わります。選択肢の名前を並べるだけでは、なぜその選択が自分にとってよいのかを説明したことになりません。幸福を探る哲学には、望みの理由を吟味する仕事があります。

エピクロスは快を人生の目的と考えながら、その快を身体の苦痛と心の不安が和らいだ状態へ結びつけました。初期ストア派は、人間が理性に従って正しく生きる徳こそが善いものだと考えました。この違いを知れば、同じ出来事の前で「どの選択が後の不安を減らすか」と「どの選択が正義や勇気にかなうか」という別の問いが生まれることが分かります。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|ストア派)

エピクロスと「園」|安心して生きるための学び

サモスで育った哲学者がアテネへ戻った

エピクロス(紀元前341〜270年)は、アテネ市民の家族に生まれ、エーゲ海のサモス島で育った哲学者です。若い頃にアテネへ来たのち、小アジアの沿岸地域でも生活し、哲学を学びました。原子論の系譜に連なる教師ナウシファネス(紀元前4世紀頃に小アジアで活動)との関係が古代資料に伝えられます。ナウシファネスは自然を物質的な仕組みから考える学問に関わり、エピクロスも後に世界の成り立ちと人間の不安を結びつけて論じました。

紀元前306年頃、エピクロスはアテネへ戻り、土地を購入して仲間と学ぶ拠点を設けます。そこが「園(ケーポス)」と呼ばれる共同体です。プラトンのアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンが数学や自然など幅広い学問を探究したのに対し、園の教えは日々の恐れを解き、快く生きるための理解と実践を密接に結びつけました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第10巻|ペルセウス電子図書館)

友人と暮らし、誰がどのように参加したのか

エピクロス派の活動には、共に学び、食事をし、助け合う友人の関係がありました。『主要教説』第27・28項は、幸福を支えるものとして友情を特に高く評価します。互いの安全と信頼を確かめられる関係があれば、未来への心配や人との争いが少なくなります。園の共同生活は、快く生きる条件を、個人の頭の中の理解から実際の人間関係へ広げました。

史料にはテミスタやレオンティオンなど、エピクロス派と関わった女性たちの名が残ります。古代の政治参加が男性市民中心だった社会で、哲学をめぐる共同体に女性の参加が確認できることは注目されます。現代の研究は、女性たちが担った役割や著作の伝承が限られることも検討しています。性別や身分によって参加の形が一律だったと想定せず、確認できる仲間のつながりから共同体の姿を読み取れます。(参照:エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第10巻|ペルセウス電子図書館/ケンブリッジ古典学誌|エピクロス派における女性の位置)

短い言葉を繰り返し思い出す学び方

エピクロスの多くの著作は失われましたが、後代の文献に『メノイケウス宛書簡』『ヘロドトス宛書簡』などの要約的な文章が伝わっています。紀元後3世紀の著述家ディオゲネス・ラエルティオスが『哲学者列伝』の中で、それらを収めました。今日読める短い『主要教説』も、人生の目的、死、友情、正義について繰り返し確かめられる形で伝えています。

例えば強い不安があるとき、何が起こるのかを考える前に、「どうせ最悪の結果になる」と決めてしまうことがあります。エピクロスは、そうした思い込みの理由を問い、恐れの対象を自然の説明や欲望の分類で捉え直します。短い教えを覚えることは、それを何度も実際の経験に照らし、判断を整えるための練習でした。哲学を毎日の習慣にする工夫が、園の思想を支えています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ)

エピクロス派|「快楽」はどうして幸福の中心なのか

空腹が満たされるとき、快さに何が起こるか

長い仕事の後に空腹を感じ、パンと水を口にすると、身体は満たされて落ち着きます。エピクロスは『メノイケウス宛書簡』で、質素な食事も欠乏の苦しみを取り除くときに大きな快をもたらすと説明しました。必要なものを得られた満足には、さらに高価な料理を求め続けなくてもよい安定があります。彼が言う快は、その場の刺激が強いほどよいという競争から距離を取っています。

エピクロスは、身体に苦痛がなく、心が動揺から解放された状態を、望ましい快の中心としました。身体的な苦痛の不在を「アポニア」、心の乱れのない平静を「アタラクシア」と呼びます。快楽を善とする哲学が、節度ある食事と落ち着いた暮らしへ向かうのは、快の大きさを一瞬の興奮ではなく、苦しみがない状態の充実から考えたためです。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

欲望を三種類に分けると、必要なものが見える

『メノイケウス宛書簡』と『主要教説』第29項では、欲望を、自然で必要なもの、自然に生じる好みのうち生活の必需品から離れたもの、根拠の薄い思い込みによるものへ分けます。食べ物や水、身体を守ることへの欲求は、生きるための基本的な必要と結びつきます。おいしい料理への好みは暮らしに変化を加えます。限りない名声や財産を求める気持ちには、他人の評価や果てのない比較が関わりやすくなります。

例えば、友人との食事が楽しいのは人間関係や満足のためでしょう。毎回最も高価な店に行かなければ満足できないと感じるなら、どんな理由でその条件が必要になったかを考えられます。エピクロスの分類は欲望を無理に消す方法というより、必要なものと際限なく増えるものを見分ける方法です。手に入るかどうか不確かなものへの依存が減れば、生活の安心を築きやすくなります。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ)

賢い選択は、目先の快さと将来の苦しみを比べる

エピクロスは、快が善であることから、思い浮かんだ快をすべて選ぶという結論には進みません。『メノイケウス宛書簡』では、今の快を選ぶことで後に大きな苦しみを受ける場合や、今の苦労を引き受けることで長く快い状態が得られる場合を考えます。人は何を選び、何を避けるかを、結果との関係で賢く判断する必要があります。

例えば翌日の体調が大きく崩れるほど飲食を重ねる楽しみと、翌日も健康に活動できる適度な楽しみを比べる場面があります。小さな我慢があることで長く安心して暮らせるなら、苦痛を少し引き受ける判断も幸福へつながります。ここで重要になるのが思慮深さです。彼にとって節度や正義などの徳は、快く暮らすための判断と切り離せないものとして論じられました。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|古代の倫理学)

死と神への恐れを、どのように考え直したのか

「死は私たちにとって何ものでもない」の論理

将来の死を思うと、身体の痛みや、大切な人と別れること、死後にどうなるかといった複数の心配が浮かびます。エピクロスは『メノイケウス宛書簡』で、善悪を感じるには感覚が必要であり、死はその感覚が失われる状態だと論じました。生きているあいだは死を経験しておらず、死後には経験する主体が残らないという論理から、死そのものへの恐怖を考え直そうとします。

この議論は、愛する人との別れが悲しいという経験のすべてを説明するものではありません。彼が取り組んだ中心問題は、死んだ後にも自分が苦しみ、罰を受け続けるという恐れを、どんな根拠から持つのかということでした。感じる主体と死の関係を明確にし、存在しない経験を想像して現在の人生を悩ませる仕組みを検討したのです。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

原子と空虚を考え、自然の現象に理由を求める

エピクロスは、古代の原子論を受け継ぎ、世界を物質の微小な構成要素と空虚から説明しようとしました。紀元前5世紀のギリシア世界に伝わるデモクリトスは、物が集まり、離れ、形を変える仕組みを原子と空虚から考えた思想家です。エピクロスはこの系譜から、身体や魂も自然の中で成り立ち、死とともにその構成が解かれると論じます。

雷鳴や星の動きを神々の怒りの証拠と考えれば、空を見上げるたびに罰の心配が生じます。エピクロスが自然研究を重視したのは、現象に自然の原因を探し、根拠の曖昧な恐れを和らげるためでもありました。『主要教説』第11・12項では、天体や死への恐れを解くうえで自然について知る必要を説いています。世界の仕組みの説明と心の平静が、彼の哲学では一つの道筋に結びついています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ)

神々をどう考えるかが、心の安心に関わった

古代ギリシアの都市には神殿や祭礼があり、人々は神々と共に生きる世界を考えていました。エピクロスは神々の幸福で不滅なあり方を認めながら、人間の善行へ賞を与えたり、悪行へ罰を下したりする存在として神々を考えることを改めます。『メノイケウス宛書簡』は、人々が神へ怒りやえこひいきといった性質を帰することを問題にしています。

たとえば嵐が来たとき、自分が何か間違った行為をしたため神が怒っていると考えれば、自然現象と道徳上の不安が結びつきます。エピクロスは、嵐の原因を自然に求め、幸福な神々を人間の生活の細部への干渉から区別しました。宗教的な文化が身近だった社会で、神を信じる意味と、神の罰を恐れる意味を問い分けたことに、この思想の独自性があります。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

友情と正義|エピクロス派は社会をどう考えたのか

静かな暮らしと友情は、どのようにつながるか

エピクロス派は、大勢に知られることや権力を得ることを幸福の目標に据えず、信頼できる友人と安心して暮らすことを大切にしました。『主要教説』第27・28項で友情が高く評価されるのは、困ったときの助けや支えを互いに期待できる関係が、心の平静に深く関わるためです。自分を理解してくれる人と話せることは、将来への恐れが大きくなったときにも支えになります。

例えば一人で病気に向き合うことと、様子を見に来てくれる友人がいることでは、同じ症状であっても生活の不安が変わるでしょう。友人の価値を、利用できるかどうかの計算だけから理解すると、親しい関係の喜びが説明できません。エピクロス派の交友は、互いの生活を支え合い、その関係そのものを楽しむ実践として続けられました。幸福が個人の感覚に関わる思想でも、他者と共に暮らすことが中心に置かれていたのです。(参照:エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

正義とは「互いに傷つけない」約束なのか

『主要教説』第31〜38項で、エピクロスは正義を、人々が互いに害を加えたり被ったりしないようにする取り決めと結びつけます。法律や慣習が正しいかを考えるとき、その仕組みが共同生活の安全に役立っているかが問題になります。都市や時代によって具体的な約束の形は変わり、約束が共同生活に果たす役割から正義の意味を説明しようとしました。

例えば市場で品物を交換するとき、盗みや欺きが少なく、約束が守られると分かっていれば、人は安心して取引できます。誰もがいつ自分を傷つけられるかを恐れる社会では、財産が多くても心は落ち着きにくくなります。エピクロスの正義論は、善い行いと幸福の関係を抽象的な命令として扱うより、相互の安全と信頼を実際にどう築けるかという問題から説明する試みでした。(参照:エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|エピクロス)

政治から距離を取ることには、どんな意味があったのか

古代アテネでは民会で発言し、裁判へ参加することが男性市民の重要な役割でした。後継王国の時代には、都市の政治が大きな勢力の外交や戦争の影響も受けます。エピクロス派は、名誉と権力を求める競争がかえって恐れや争いを増やす場合を考え、公的な野心から距離を置く生き方を勧めました。静かな生活へ向かう姿勢は、危険な状況の中で心の安全を求める選択と結びつきます。

彼らが重視したのは、何もせずに世の中を眺めることという単純な姿勢ではありません。園での学びや友情の維持、他者を傷つけない約束にも、責任ある行為が必要です。政治への関わり方は個々の事情によって変わりうると理解することで、エピクロス派の実践が個人的な安心と共同体の安全を両立させようとしたことが見えてきます。公職と名声を人生の成功とみなす価値観に対して、別の生活の尺度を示したのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/ケンブリッジ大学出版局|ヘレニズム・ローマ期の政治思想)

ゼノンとストア派|自然に従って生きるとはどういうことか

キティオンからアテネへ来た哲学者

ストア派の創始者ゼノン(紀元前334〜262年頃)は、地中海東部のキプロス島にあるキティオン出身の哲学者です。紀元前4世紀末にアテネで学び、ソクラテスの対話を尊重しながら、キュニコス派のクラテスなどの教師に学んだと伝えられます。クラテスは紀元前4世紀にギリシアで活動し、財産や社会的な名声に縛られない生活を重んじた哲学者です。徳を富より優先するこの姿勢を引き受け、ゼノンは何が人間を善くするのかという問いを深めていきました。

ゼノンはアテネのアゴラにある彩色柱廊で教えました。そこは壁画を飾った公共の建物で、人々が出入りする場所です。紀元前5世紀に建てられた柱廊は、ゼノンが教え始めた時点ですでに長い歴史を持っていました。学園を私有の園として持つエピクロスとは異なる場所で、ゼノンは仲間と理性やよい生活について議論しました。その場所のギリシア語名「ストア」が、学派の名称となったのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ギリシア世界財団|アテネの彩色柱廊(ストア・ポイキレー)/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻|フォーダム大学史料集)

クレアンテス、クリュシッポスが教えを発展させた

ゼノンの後継者クレアンテス(紀元前330〜230年頃)は、小アジアのアッソス出身と伝えられ、ストア派を率いた哲学者です。彼は宇宙の秩序を重視し、自然に従う生き方を論じました。続いて小アジアのソロイ出身のクリュシッポス(紀元前280〜206年頃)が学派を率い、論理学、自然学、倫理学の議論を詳しく整えたと伝わります。初期ストア派は一人の創始者の言葉だけで作られた体系ではなく、後継者たちの研究で発展しました。

この三人が書いた著作は、今日ではまとまった形で残っていません。後代の著述家ディオゲネス・ラエルティオスや、紀元前1世紀のローマの政治家・著述家キケロなどが、学説の内容を伝えています。キケロはギリシア哲学をラテン語で紹介し、諸学派の議論を比較した人物です。初期ストア派を読むときは、その古代の紹介と、研究者が残存資料から再構成した体系とを照合することになります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻|フォーダム大学史料集/キケロ『善と悪の究極について』第3巻|シカゴ大学古典文献)

「自然に従う」は、気ままに暮らすことを意味するか

ストア派は、幸福を「自然に従って生きる」ことから考えました。私たちは食事をとり、身体を守る生き物であると同時に、理由を言葉で確かめ、他者と協力する能力を持ちます。人間の特徴である理性をよく働かせて判断することが、人間として自然にかなった生き方だと考えられたのです。ここでいう自然は、森や川の中で暮らすという生活環境だけを指していません。

例えば一時の怒りで人を傷つけたくなったとき、その衝動が生じたこと自体は理解できます。ストア派は、人間に備わる理性によって行為の理由を吟味し、正義や節度にかなう判断を選ぶことを求めます。ゼノンの後継者たちは、人間の理性を宇宙全体の秩序と関係づけて考えました。どんな生き方が自分の本性にかなうかを問うことから、世界全体をどのような秩序として理解するかという哲学へ進んだのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻|フォーダム大学史料集/スタンフォード哲学百科事典|古代の倫理学)

ストア派|「徳だけが善い」とはどういう意味か

富や評判が変わっても残るものを探す

ストア派は、知恵、正義、勇気、節度といった徳を、幸福を本当に成り立たせる善いものと考えました。財産や地位、周囲からの評判は、本人の行動に関わりながらも、戦争や政治の動き、他人の判断によって変わります。こうした条件だけに幸福を預けていると、それを失った瞬間に人生全体の価値も失ったように感じてしまいます。

例えば商売で大きな損をした人が、売れなかった理由を正直に説明し、取引相手への約束を守ったとします。財産という結果は望ましい状態から遠ざかりました。ストア派は、その人がどれほど賢明かつ公正に行動したかを、より根本的な善の基準としました。人の幸福を運の良さで決めるのか、自分がどう判断し、どんな人であるかで決めるのか。そこに学派の厳しい選択があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/キケロ『善と悪の究極について』第3巻|シカゴ大学古典文献)

健康や財産には「選ぶ価値」がある

健康も富も幸福の核心を直接成り立たせる善には含めないという立場から、ストア派はそれらを「中立的なもの」と分類しました。けれども、健康な身体で働けることや、必要な生活費があることには、日常の選択における価値があります。ストア派はこの区別のために、健康や一定の資力などを「優先される中立的なもの」として扱いました。

風邪をひいた人が治療を受けて回復しようとするのは、健康が生き物として自然に望ましい状態だからです。努力して治療することは理にかないます。治療をしても病気が長引いた場合、その結果だけで人の善し悪しが決まるのでしょうか。ストア派の答えは、治療へ向かう賢明な判断と、実際に回復する結果を分けることでした。健康を大切にしながらも、運に左右される結果を徳の価値と混同しない工夫です。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/キケロ『善と悪の究極について』第3巻|シカゴ大学古典文献)

正しい行為は、結果が悪くても意味を持つ

嵐の中で船を安全に進めようとする船長を想像してください。天候を調べ、船員と相談し、危険を減らす判断を行うことは船長の責任です。暴風によって航海が遅れた場合にも、危険を見極めた判断と船員を守る勇気には価値があります。こうした現代の理解補助を通じて、行為を評価することと、天候などの条件で決まる結果を評価することの違いを考えられます。

この思想では、何を達成したかを考えるときも、どんな理由でどの行為を選んだかを確かめます。ストア派の賢者の幸福は、外的な災難によって増減するものとして説明されません。幸福を徳の働きと結びつける主張は、苦痛や損失が現実に存在することと共に考えられています。何が人間にとって最終的な善なのかという価値判断を、外から見える成功の基準から切り離した点に、その特徴があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/キケロ『善と悪の究極について』第3巻|シカゴ大学古典文献)

感情、運命、共同体をストア派はどう考えたのか

怒りや恐れは、どんな判断から強くなるか

ある友人が約束に遅れてきたとき、「軽んじられた」と即座に決めれば怒りが強くなります。交通機関に問題があったと知れば、同じ遅刻でも受け止め方が変わるでしょう。ストア派は、人が受ける印象と、それを本当だと認める判断の関係を調べました。クリュシッポスは、怒りや恐れなどの強い感情が、何が善悪かという評価と深く結びついていると論じたと後代に伝えられます。

ストア派が目指したのは、身の回りで起きた出来事に鈍感になることという単純な状態ではありません。根拠の薄い評価から行動を急がず、理由に沿って選ぶ力を育てることです。ストア派は不合理な激情と、理性にかなう喜びや慎重さなどを区別しました。感情がどこから生まれるかを理解することが、人間の判断を改善する哲学の中心となったのです。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻94〜159節|古典文献翻訳)

世界の因果的な秩序と、人間の判断

初期ストア派は、世界を相互につながった原因の秩序として考えました。物事は因果的なつながりの中で生じ、宇宙の自然には理性的な構造があると論じます。この秩序を語るとき、「ロゴス」というギリシア語が使われます。ロゴスは言葉、理由、理性などと関わる語で、ストア派では自然を貫く合理的な働きとも結びつきました。

世界の出来事が原因に従って生じるなら、人間が努力し、判断することにどんな意味があるのでしょうか。ストア派は、人の性格や考え、その人自身の行為も因果関係の中に含まれると考えました。未来を願うだけで得ようとするのではなく、今の状況を理解し、理由に従って何をするかが人の生き方になります。運命への同意と、理性的な活動をどう両立させるかは、学派の哲学的な問題として論じ続けられました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻|フォーダム大学史料集)

人間は都市を越えて結びつくのか

ストア派は、人間が理性を持つ存在として互いに関わり、家族や都市を越えた共同性を考えられると論じました。自分の子を育て、身近な人を世話する自然な結びつきから、さらに広い人間同士の関係へ関心を広げる思想は「オイケイオーシス」と呼ばれます。言葉の由来には、自分に属するものとして受け止めるという意味合いがあります。

キティオン出身のゼノンがアテネで学び、別の地域出身の弟子たちがストア派を育てたことも、都市の境界を越える当時の知的交流を示します。社会の階層と政治的な資格はなお厳しく分かれていました。ストア派の普遍的な共同性は、そうした現実の中で、人はどこまで他者の善い生き方へ責任を持つかを問う哲学でした。徳を自分の心の問題にとどめず、他者に対する行為へ結びつける方向がここにあります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』第7巻|フォーダム大学史料集)

二つの幸福論を比べると、何が見えてくるのか

同じ不運の前で、問いの中心が違う

ある人が仕事を失い、家計と将来に不安を抱えたとしましょう。エピクロス派の考えからは、いま何が必要で、どの心配が根拠のあるものかを分け、友人の助けや質素な生活によって苦痛を減らす道を探れます。ストア派の考えからは、仕事という外的な条件が変わっても、誠実さと賢明な判断を続けることに幸福の基準を置けます。どちらも状況を理解し、次の行為を選ぶための哲学です。

二つの学派は、財産だけが人の価値を決めるという考えから距離を取りました。エピクロスにとって心身の穏やかな快は最終的な目的であり、徳はその快い生活に不可欠な働きを持ちます。ストア派にとっては徳そのものが唯一の善であり、健康や財産は選ぶ価値があっても幸福を成り立たせる中心には入りません。日常の選択が似ていても、選ぶ理由の根本が異なるのです。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|ストア派)

病気や苦しみを考えるとき、どんな限界が残るか

エピクロスは痛みと快の関係を考え、苦しみが長く続く場合にも心に楽しみや満足を持てる可能性を論じました。ストア派は、重い苦痛を受けた人の徳と幸福が損なわれないと主張します。どちらも、病気や喪失が生活へ与える現実の影響を考えるうえで、非常に強い立場を示しています。

現代の読者がこの二つを考えるとき、誰にでも同じ心の状態を求めるより、その哲学が何を説明しようとしたのかを確かめることに意味があります。エピクロスの哲学は苦しみを減らすための欲望の吟味を、ストア派はどのような状況でも善く判断する価値を主題にしました。古代の論争でも、身体や財産を「中立的なもの」としながら選ぶ価値を認めるストア派の立場には、説明上の難しさが指摘されてきました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/スタンフォード哲学百科事典|ストア派/スタンフォード哲学百科事典|古代の倫理学)

後世のローマ世界で、それぞれの考えはどう受け継がれたか

エピクロス派とストア派は、紀元前3世紀のアテネで生まれた後も、地中海世界の別の都市へ広がりました。紀元前1世紀のローマの詩人ルクレティウスは、エピクロス派の自然観と死への恐れについてラテン語の長編詩『物の本質について』で論じました。同じ頃、政治家・著述家キケロは諸学派の倫理学を紹介し、『善と悪の究極について』第3巻ではストア派の議論を詳しく描いています。

その後のローマ帝政期には、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスといった人物がストア派の思想を異なる立場から受け継ぎました。今日よく知られる「自分で左右できること」に関する表現には、彼らの時代に伝わる教えが含まれます。初期のゼノンやクリュシッポスの著作は断片的な伝承によって知られるため、後代の名句を創始者自身の言葉として扱う際には史料の出所を確かめる必要があります。二学派の問いは、時代を越えて読み直されながら受け継がれました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/スタンフォード哲学百科事典|ストア派/キケロ『善と悪の究極について』第3巻|シカゴ大学古典文献)

略年表|ヘレニズム時代と二つの学派

  • 紀元前341年|エピクロスが生まれる
  • 紀元前334年頃|キティオンのゼノンが生まれるとされる
  • 紀元前323年|アレクサンドロス大王が死去し、後継者争いが始まる
  • 紀元前322年|アテネがマケドニア側との戦争に敗れ、政治制度が変わる
  • 紀元前306年頃|エピクロスがアテネに園を設ける
  • 紀元前300年頃|ゼノンがアテネの彩色柱廊で教え、ストア派の活動が始まる
  • 紀元前270年|エピクロスが亡くなる
  • 紀元前262年頃|ゼノンが亡くなり、クレアンテスが後継者として学派を率いる
  • 紀元前230年頃|クリュシッポスがストア派を率い、学説の体系化を進める
  • 紀元前206年|クリュシッポスが亡くなる
  • 紀元前2〜1世紀|両学派の考えが各地のギリシア語圏・ローマ世界へ広がる

学派の活動開始年や人物の生没年には概年を含みます。初期ストア派の教説は後代の古代文献に伝わる内容を含めて整理しました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|エピクロス/スタンフォード哲学百科事典|ストア派/ケンブリッジ大学出版局|ヘレニズム・ローマ期の政治思想)

まとめ|快の平静と、徳のある生き方

アレクサンドロス大王の死後、都市と王国の関係が変わったヘレニズム時代のアテネで、エピクロス派とストア派は幸福への異なる道を示しました。エピクロスは、身体の痛みと心の不安を和らげる快を人生の目的に据え、必要な欲望を見分け、死や神への恐れを自然の説明から考え直しました。友情と互いの安全を守る約束が、その幸福を支える生活の基盤となります。

ゼノンに始まるストア派は、人間が理性に従い、知恵、正義、勇気、節度を働かせることを幸福の中心に置きました。健康や財産にも選ぶ価値を認めながら、外的な結果を超えた徳の価値を探究します。感情を生む判断、世界の因果的な秩序、他者との共同性も、この倫理学を支える問いとなりました。二つの思想を比べると、幸福とは気分のよさか、苦しみの少なさか、正しく生きる働きかという問題が現れます。自分が何を善いものとして選んでいるのかを説明することが、古代から続く哲学の営みです。(参照:エピクロス『メノイケウス宛書簡』|MIT古典文献アーカイブ/エピクロス『主要教説』|MIT古典文献アーカイブ/スタンフォード哲学百科事典|ストア派)

参考資料・出典

エピクロスの書簡と『主要教説』、初期ストア派の古代証言、現代の専門研究を照合しました。学派の成立年代、社会背景、後代の著述家による解釈はそれぞれの資料に基づいて記述しています。