紀元前399
ソクラテスはなぜ死刑になったのか
アテネの民主政と哲学の対話
紀元前5世紀のアテネは、現在のギリシア南部、アッティカ地方に広がる都市国家(ポリス)でした。海に面した港ピレウスには船が出入りし、市街地のアゴラと呼ばれる広場には商人や市民が集まりました。アゴラの周囲には役所や集会のための建物もあり、売買をする場所と政治を行う場所が近くにありました。丘の上のアクロポリスには女神アテナを祀る神殿が建ち、都市の祭礼には多くの人々が参加しました。
この都市では、市民が政治に直接参加する民主政が発達していました。成人男性の市民は民会に出席して戦争や外交、都市の決まりを議論し、市民の中から選ばれた人々が裁判を担当しました。民会での発言と投票は成人男性の市民に限られ、女性や奴隷、他都市から移住して暮らす人々には政治上の議決権がありませんでした。集会や裁判で自分の意見を述べる機会の多い社会では、相手に理由を説明し、説得する能力が高く評価されていました。
アテネには、神々に捧げる祭礼の一環として悲劇や喜劇を上演する文化もありました。演劇では、家族と国家の決まり、神々への義務、政治家の振る舞いなどが観客の前で描かれました。人々が公の場で正義や勇気、法律について話し合う環境の中で、広場や体育訓練場を訪ね、言葉の意味とその理由を問い続けたのがソクラテス(紀元前469〜399年頃)です。
ソクラテスの晩年、アテネは紀元前431〜404年のペロポネソス戦争で敗北し、少数者による政権と民主政の回復を経験しました。政治的な対立の記憶が残る紀元前399年、ソクラテスは都市の神々への不敬と若者への悪影響を訴えられ、市民による裁判で死刑判決を受けます。人々に「勇気とは何か」「正しいとは何か」と尋ねる哲学者の活動が、なぜ都市の裁判に結びついたのでしょうか。
CONTENTS
裁判が起きたアテネは、どのような都市だったのか
アゴラに集まる人々と、都市の日常
アテネの中心部にあったアゴラは、屋外の広場を囲むように行政施設や商業施設が並ぶ場所でした。人々は食料や日用品を売買し、知らせを読み、知人と話しました。出土した石碑に刻まれた公文書や、計量用の重り、裁判員の札などからは、市場の活動と都市の行政がこの一帯で行われていたことがわかります。
アゴラには市民のほか、アテネに住む外国出身の商人や奴隷も出入りしました。法律上の権利や生活上の立場が異なる人々が顔を合わせる公共空間で、政治や教育、宗教についての会話が交わされていました。ソクラテスが人々に質問を重ねたのも、こうした都市の身近な場所です。プラトンの対話篇にも、広場や体育訓練場で人々が話し合う場面が繰り返し描かれています。(参照:アテネ・アゴラ発掘調査|アメリカ古典学研究所)
民会と五百人評議会――市民はどう政治を動かしたのか
アテネの民主政は、紀元前508〜507年頃のクレイステネスの改革を通じて基礎が整えられました。住民の所属を十の部族に再編し、各部族から50人ずつ、合計500人が参加する評議会を設けたことが大きな特徴です。紀元前5世紀には、市民が自ら議論に参加する政治制度が発達しました。
民会は主に市街地西側のプニュクスの丘で開かれ、成人男性の市民が政策について発言し、採決しました。民会に提出する議題の準備や行政上の仕事は、抽選で選ばれた五百人評議会が担いました。評議会はアゴラにある議事堂に集まり、部族ごとに担当を交代しながら日々の運営を進めました。政治に参加するということは、集会で賛否を示すだけでなく、共同体の仕事を実際に引き受けることでもありました。
市民権の資格も政治の中で定められていました。紀元前451年頃には、ペリクレスの提案によって、父母の双方がアテネ市民であることが市民権の条件となりました。こうした資格のもとで民会に参加する市民は、集会の議論を聞き、自分の立場を説明し、都市の決定に加わりました。誰に共同体の決定権があり、何をもって正しい政策とするのかという問題は、ソクラテスが問い続けた正義や知恵にも通じています。(参照:アリストテレス『アテナイ人の国制』第21〜22章|イェール大学/アクロポリス博物館|古代アテネの民会/アクロポリス博物館|五百人評議会)
市民裁判はどのように行われたのか
アテネの法廷では、市民権を持つ男性が裁判員となり、当事者の訴えと弁明を聞いて投票しました。裁判員は抽選によって選ばれ、数百人規模の集団が一つの事件を判断することもありました。国の役人がすべての争いを裁く制度とは異なり、法律をめぐる最終的な判断に市民自身が加わる仕組みです。
裁判では訴えた人と訴えられた人が、それぞれ自分の立場を述べました。弁論の持ち時間は水時計で計られ、裁判員は聞いた内容にもとづいて投票します。紀元前4世紀に書かれた『アテナイ人の国制』には、30歳以上の市民から裁判員を選ぶ手続きや、裁判の直前に抽選して担当を決める方法が記されています。この詳細な制度記録はソクラテスの裁判より後の時期のものですが、市民裁判が抽選と投票を柱として発達した仕組みを具体的に伝えています。
法廷で争う人には、裁判員に理解してもらえる説明を組み立てる力が必要でした。ソクラテスが問いを投げかけるときも、「その意見にはどんな理由があるのか」「別の場面でも成り立つのか」と確かめます。政治や裁判で重んじられた説得と、答えの根拠を吟味する哲学の違いは、彼の弁明を読むと鮮明になります。(参照:碑文博物館|アテネの民主政と抽選制度/アリストテレス『アテナイ人の国制』第63〜69章|MIT古典資料/スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス)
神々への祭礼と、悲劇・喜劇が上演される都市
アクロポリスでは、アテネの守護神アテナを祀る祭礼が営まれました。パンアテナイア祭では、人々が行列を組んで神殿へ向かい、女神の像に捧げる衣を運び、動物を供えて儀礼を行いました。パルテノン神殿の浮彫には、供物を運ぶ若者、楽器を奏でる人々、騎馬の隊列などが表され、共同体の祭りが多くの人々の役割によって成り立っていたことを伝えています。
酒と演劇の神ディオニュソスを祀る祭礼では、悲劇や喜劇の競演が開かれました。劇作家アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの悲劇には、家族への義務と都市の法が衝突する場面や、人間が神々の定めにどう向き合うかという問いが描かれています。喜劇では政治家や知識人が笑いの対象になり、ソクラテス自身も紀元前423年の『雲』に風刺されました。
こうした祭礼は神々への敬意を表すとともに、都市の人々が共に過ごす公的な行事でした。神殿や祭りへの態度は、共同体への帰属とも結びつきます。ソクラテスの裁判で神々への「不敬」が訴えの中心になった背景には、宗教儀礼が市民社会の制度や文化に組み込まれていた事情があります。(参照:アクロポリス博物館|パルテノン神殿北側フリーズとパンアテナイア祭/アクロポリス博物館|ディオニュソスの聖域と劇場/スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス)
戦争の敗北、三十人政権、民主政の回復
紀元前431年、アテネとスパルタを中心とする陣営の間でペロポネソス戦争が始まりました。アテネは長い戦争の間に疫病や軍事的な損失を経験し、紀元前411年には一時的に民主政が停止しました。紀元前404年の敗北後、スパルタの支援を受けた三十人による政権が成立し、市民の処刑や追放、財産の没収などが行われました。
民主派は紀元前403年に政権を回復し、内戦後の和解に向けて取り決めを交わしました。過去の政治的な行為をめぐる報復を抑え、法と裁判の運営を立て直すことが課題となります。歴史家エドウィン・キャラワン(2013年)とクリストファー・ジョイス(2022年)は、この和解と法制度の再建を研究し、その過程で行われたソクラテスの裁判も検討しています。
ソクラテスの裁判は、民主政回復から4年後の紀元前399年に開かれました。正式な訴えは神々への不敬と若者への悪影響でした。戦争と政変の記憶は、彼と政治家たちの交友関係を見る市民の目にも関わったと考えられます。どの事情が有罪判決に影響したかについては歴史家の見解が分かれており、告発状の内容と政治的な背景を分けて考えることができます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス/エドウィン・キャラワン『アテネの恩赦と法の再構築』(2013年)|オックスフォード大学出版局/クリストファー・ジョイス『紀元前5世紀末アテネの恩赦と和解』(2022年)|エディンバラ大学出版局)
ソクラテスとはどのような人物だったのか
広場で人々と話したアテネ市民
ソクラテス(紀元前469〜399年頃)は、アテネに生まれた哲学者です。兵士として戦争に参加した経験を持ち、壮年以降は広場や体育訓練場など、人々が集まる場所で対話を続けた人物として知られています。身なりにこだわらず、財産や名誉の獲得より、人間がよく生きるための考え方を重視した姿が、後世の記録に描かれています。
例えば政治に詳しいと評判の人に「正しい政治とは何か」と尋ねたり、勇敢だと評される人に「勇気とは何か」と尋ねたりする。ソクラテスは、相手の地位や評判より、その人が挙げる理由に関心を向けました。対話では、答えを聞いたあとに「その説明は別の場合にも当てはまるでしょうか」と考えを進めます。身近な言葉の意味を確かめることが、彼の哲学の中心でした。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
弁論を教えたソフィストたちとの違い
同じ時代のアテネには、弁論術や政治に役立つ知識を教える知識人たちが集まっていました。一般にソフィストと呼ばれる人々です。彼らには、討論や裁判で説得力のある発言をする技術を教え、授業料を受け取る者もいました。民会と法廷が政治生活の中心だったアテネでは、この教育への需要がありました。
ソクラテスは、対話に参加する人々から授業料を取らず、自分を完成した知識の持ち主として売り込むこともしませんでした。相手に質問を重ね、本人がすでに信じていることを確かめようとしたのです。ソフィストたちも倫理や政治を論じていたため、互いの関心には重なる部分がありました。ソクラテス特有の姿勢は、人を説得する前に、自分の答えが本当に成り立つかを吟味することにありました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
なぜ書物ではなく対話で知られるのか
ソクラテス本人の著作は残っていません。彼の言葉や姿は、周囲の人々が残した作品を通して伝わります。とりわけ大きな役割を果たしたのが、弟子として彼の対話に接したプラトン(紀元前427〜347年頃)です。プラトンはソクラテスを登場人物とする対話篇を書き、人が質問を重ねながら考える様子を文学的にも描きました。
また、アテネにゆかりのある軍人・著述家クセノポン(紀元前430年頃〜354年頃)もソクラテスの言動を記録しました。二人の描く人物像には違いがあります。作品を読む際には、どの著者が、何を伝えようとして書いたのかを確かめる必要があります。ソクラテスを研究する人々は、こうした証言の比較から、実際の人物がどのような哲学を行ったのかを考え続けています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/クセノポン『ソクラテスの弁明』|ペルセウス電子図書館)
「正しい」「勇敢だ」とはどういうことか――質問から始まる哲学
勇気とは、戦場で逃げずに戦うことなのか
例えば、危険な場所に飛び込んだ人を見て「勇敢だ」と思ったとします。では、その人が周囲の状況を理解せず、無謀に危険へ向かったとしても勇気と呼べるでしょうか。逆に、仲間を守るためにいったん退却した人には勇気がなかったのでしょうか。同じ「勇気」という言葉を使っていても、考えている中身は違ってきます。
プラトンの対話篇『ラケス』には、この問題をめぐるやりとりがあります。ラケスは紀元前5世紀のアテネで将軍を務めた人物として登場し、敵を前に持ち場を離れず戦うことが勇気だと答えます。ソクラテスは、戦い方には退いて敵を誘う戦術もあり、危険に向き合う場面は戦争以外にもあると問いかけます。これを受けて議論は、「勇敢な行為の例」から「どの行為にも共通する勇気の性質」へ進みます。
一つの行為を挙げることと、その行為を勇敢と呼ぶ理由を説明することは、別の仕事です。ソクラテスの問いかけは、私たちが日頃使っている価値判断の基準を確かめようとします。誰かを勇敢と称賛するなら、どんな場合にも通用する理由を考える必要がある。その作業によって、善く生きるための判断を、言葉で吟味できるようになります。(参照:プラトン『ラケス』190–192節|ペルセウス電子図書館/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
神々が喜ぶことなら、すべて正しいのか
別の対話篇『エウテュプロン』では、ソクラテスが裁判を控えた場面で、宗教的な正しさが問題になります。相手のエウテュプロンは、神々への敬虔さをよく知っていると自負する人物として描かれます。ソクラテスは彼に、何をもって行為を敬虔だと判断するのかと尋ねます。
エウテュプロンは神々に愛されることを基準に挙げます。するとソクラテスは、ある行為が正しいから神々に愛されるのか、それとも神々に愛されるから正しくなるのかと問い直します。例えば、困っている人を助ける行為を良いと考える理由は、権威ある人物がそれを褒めたからでしょうか。それとも、助けること自体に良い理由があるからでしょうか。読者にも身近な、この「評価する側」と「正しさの理由」の違いが問題になります。
ここでの問いは、神々についての知識比べを超えています。正しいという判断をするとき、その根拠はどこにあるのか。人は権威や習慣を尊重しながら、同時にその理由を吟味できるのか。プラトンの描くソクラテスは、相手の答えから次の問いを作り、正しさを考えるための基準を探っています。(参照:プラトン『エウテュプロン』5節|ペルセウス電子図書館/プラトン『エウテュプロン』10節|ペルセウス電子図書館)
相手の答えを試す「問答」の進め方
ソクラテスの対話を理解するには、一つの答えが別の場面でも成り立つかを試す様子を見るのが近道です。たとえば「勇気とは恐怖に耐えることだ」と答えたとしましょう。ソクラテスは、状況を理解して粘り強く耐える場合と、危険を知らずに無理をする場合を並べて考えます。両方を同じように称賛してよいのかを問いかけると、最初の説明は修正を迫られます。
こうして相手が認めた複数の考えを照らし合わせ、食い違いを見つける方法は、哲学研究では「エレンコス(吟味・反駁)」と呼ばれます。自分が確かだと思っていた説明を検討し、もっと納得できる答えを探すことが対話の中心です。実際の対話篇では結論が定まらないことも多く、その行き詰まり自体が次の探究へつながります。(参照:プラトン『ラケス』190–192節|ペルセウス電子図書館/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
「自分は何を知らないのか」――知恵を問い直す
デルフォイの神託から始まった問い
『ソクラテスの弁明』によれば、彼の友人カイレフォンは、アテネの民主派とも関わりのあった人物で、デルフォイのアポロン神殿で神託を尋ねました。問いは「ソクラテスより知恵のある人がいるか」というもので、巫女からはそれに該当する者はいないという返答があったと語られます。ソクラテスはその言葉の意味に戸惑い、なぜ自分が知恵のある人とされたのかを考え始めます。
そこで彼は、知恵があると評判の人々を訪ねて話を聞きます。政治家、詩人、職人などは、それぞれ自分の領域で知識や技能を持っていました。職人の技術的な知識と、人生や政治について正しく判断する知恵には、違いがあります。ソクラテスが発見したと語られるのは、自分の知識の範囲を確かめることの難しさでした。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』21a|ペルセウス電子図書館/ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』)
「知っているつもり」に気づくことの意味
例えば、友人との約束を守ることは良いことだと考えている人に、「危険なことをする友人との約束でも守るべきでしょうか」と尋ねたとします。答えに迷うとき、私たちは「約束を守る」という原則をどこまで理解しているのかに気づきます。知っていると思っていたことを細かく検討すると、条件や理由をまだ説明できない部分が見えてきます。
ソクラテスは、知らないことを知っているつもりになるより、自分がどこまで理解しているかを認める姿勢に価値を置いたと語られます。「無知の知」という言葉でまとめられる有名な考え方の核も、ここにあります。ソクラテスの言葉として『弁明』をたどると、すべてのことについて無知だと宣言しているのではなく、確かな理由を持たずに大きな知恵を自称することを問題にしています。
答えに詰まったところから、考え直す作業が始まります。自分の判断に必要な理由をさらに探し、前より正確な答えへ近づく機会になります。ソクラテスの対話は、知識を持つことと、その知識をどこまで信頼できるかを自覚することの両方を重んじました。(参照:ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
財産や名声より「魂への配慮」を重んじる
ソクラテスは、言葉の定義を確かめながら、人は何を大切にして生きるべきかという問題を問い続けました。『弁明』のソクラテスは、富や名声を増やすことに熱心な市民へ、まず自分自身をよくすることを考えるように促します。そこで使われる「魂」という言葉は、人間の善悪の判断や、生き方に関わる部分を指して理解するとわかりやすくなります。
例えば、ある人が政治で成功し、人々から称賛されたとします。その人が利益のために不正を見過ごすなら、立派に生きたといえるでしょうか。ソクラテスは、どれほど社会的な成功を収めたかと、どのような人間であるかを分けて考えるよう促しました。生き方の価値を判断する基準を、外から与えられる名誉や財産よりも、自分の行為と判断の質に求めたのです。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』29d|ペルセウス電子図書館/プラトン『ソクラテスの弁明』30a–30c|ペルセウス電子図書館)
人々はなぜソクラテスを疑ったのか
対話を面白がる若者と、恥をかく大人たち
ソクラテスの周囲には、対話を見たり一緒に考えたりする若者が集まっていました。評判の高い政治家や知識人が質問に答えられなくなる場面は、若者たちに強い印象を与えたでしょう。『弁明』では、若者が彼の問答を真似てほかの大人たちを質問攻めにし、その大人たちの反感がソクラテス本人へ向かったと説明されます。
考え方を吟味される側に立つと、この方法の厳しさもわかります。たとえば、大勢の前で「あなたの言う正義とは何ですか」と問われ、自信をもって答えたところで矛盾を指摘される。周囲にいる若者がそれを面白がれば、質問した側への恨みが残ることもあります。ソクラテスの対話には自分の判断を深める働きがあり、同時に都市の名誉や威信をめぐる緊張も生みました。(参照:ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』/スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂))
喜劇『雲』で広まった奇妙な知識人の姿
紀元前423年、アテネの劇作家アリストファネス(紀元前5世紀半ば〜紀元前386年頃)は、喜劇『雲』でソクラテスを風刺しました。舞台に登場するソクラテスは、自然現象を研究し、言葉の技術で相手を打ち負かすような奇妙な教師として描かれます。当時の観客が知識人たちに抱いていた印象を利用した喜劇でした。
ソクラテスは後年の裁判で、自分をめぐる古い噂が人々の考えに影響したと語っています。喜劇の人物像と歴史上のソクラテスは区別して読む必要があります。長く広まった風刺が、彼の宗教観や若者への影響を疑う見方と結びついていたことは、『弁明』の弁護の仕方からうかがえます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』)
神的な「しるし」を語る哲学者
ソクラテスには、ある行動をしようとするとき、自分を思いとどまらせる神的なしるしがあると語る特徴もありました。古代ギリシア語で「ダイモニオン」と呼ばれるこのしるしは、プラトンの著作では、何かをするよう積極的に命じるというより、ある行為を止める働きとして描かれています。
アテネの人々が都市の神々を祀っていた時代に、ソクラテスは自分に固有の神的な導きを語っていました。これは個人の信仰と共同体の宗教慣行をめぐる疑問を生みます。裁判でソクラテスは、自分が神的な存在について語っていることを挙げ、神々を一切認めない人物だという訴えに反論しました。この論点は、告発の内容を読むと具体的に理解できます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/プラトン『ソクラテスの弁明』24b|ペルセウス電子図書館)
二つの罪状と、法廷で交わされた言葉
メレトス、アニュトス、リュコンの告発
紀元前399年、メレトスはソクラテスが都市の神々を敬わず新しい神的なものを持ち込み、若者を悪くしていると訴えました。訴えを起こした中心人物メレトスは古代資料では詩人として現れ、政治に関わったアニュトスと、弁論家とされるリュコンも告発に加わりました。事件は市民から選ばれた裁判員が審理し、ソクラテス自身が弁明しました。
ここでいう「若者を悪くする」とは、具体的にどのようなことだったのでしょうか。ソクラテスは若者を集めて大人の意見を問い直し、都市に重んじられる価値観を議論していました。告発者の側には、こうした対話が市民の教育や神々への敬意に悪影響を与えるという見方がありました。私たちが知る訴因と弁護の内容は、主に後世に書かれた著作から伝わります。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』24b|ペルセウス電子図書館/スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂))
メレトスへの質問は何を明らかにしようとしたのか
プラトンの『弁明』では、ソクラテスが告発者メレトスに「若者を良くするのは誰か」と質問する場面があります。メレトスは、裁判員たちや市民たちが若者を良くし、ソクラテス一人が悪くすると答える形で議論を進めます。ソクラテスは、人を良く育てる仕事には知識や訓練が必要なのに、周囲の誰もが上手に教えられるという説明は本当だろうかと問い直します。
続いてソクラテスは、自分が若者を悪くするなら、その若者たちと暮らす自分にも害が及ぶはずだと論じます。自分に害が返ってくると知りながら、わざとそうする理由があるのかと問いかけたのです。ここでの議論は、罪の有無を現代的な意味で科学的に証明する手続きではなく、告発者の主張の理由を法廷で試す問答でした。なぜそう考えるのかという説明を相手にも求めた点に、普段のソクラテスの哲学が現れています。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』24–26節|ペルセウス電子図書館/ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』)
神々への不敬という訴えと弁明
メレトスはソクラテスが都市の神々を認めず、新しい神的なものを持ち込むと訴えました。ソクラテスは、神的なしるしについて語る人間が、同時に神的な存在をすべて否定していると言えるのかと反論します。相手が語っている二つの主張の関係を確かめ、整合しているかを問うのです。
この反論には、宗教をめぐる当時の緊張も映っています。ソクラテスはデルフォイの神託を重く受け止め、神に従って対話を続ける使命感を語りました。その一方で、都市の人々にとって彼の宗教的な言動は独特に映りました。神々への敬意と、市民のあいだで共有される儀礼や言葉の使い方は、法廷で争われる問題になっていました。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』24b|ペルセウス電子図書館/ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』)
民主政の危機とソクラテスの関係
アルキビアデスとクリティアスはどんな人物だったのか
ソクラテスの名は、政治的に大きな議論を呼んだ人物たちとも結びついていました。アルキビアデス(紀元前450年頃〜404年)はアテネの政治家・軍人で、ペロポネソス戦争中にアテネから離れ、敵対するスパルタ側に協力した時期もあります。プラトンの対話篇ではソクラテスと親しく関わる人物として登場します。
また、クリティアス(紀元前460年頃〜403年)は、アテネの知識人・政治家で、敗戦後に成立した三十人政権の中心人物の一人になりました。ソクラテスとの交流が古代資料に伝わっています。戦争と内紛で傷ついた市民には、こうした人物とのつながりが気がかりに映った可能性があります。誰かと交流したことと、その人物の政治行動に賛同したことは別なので、裁判の理由を考える際には両者を区別する必要があります。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂))
民主政と少数者の政権の双方で、不正に異議を唱えた
プラトンの『弁明』でソクラテスは、紀元前406年の海戦後、将軍たちをまとめて裁こうとした市民集会の手続きに反対したと語ります。多数の市民が処罰を望むなか、法律に従った判断を求める行動でした。
また、紀元前404〜403年の三十人政権下では、レオンという人物を逮捕して連れてくるよう命じられた際、これに従わず帰宅したと述べています。権力を握るのが多数の市民であっても少数者の政権であっても、自分が不正だと考える行為への加担を避けたという説明です。これらはプラトンが伝えるソクラテスの自己弁護に含まれ、当時の政治との関係を考える重要な材料になっています。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』32節|ペルセウス電子図書館/スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂))
裁判は宗教の問題だったのか、政治の問題だったのか
告発状に記されたのは神々への不敬と若者への影響です。裁判が行われた都市は民主政を回復したばかりで、かつての政変への関与をめぐる感情も残っていました。こうした社会的背景から、歴史研究ではソクラテスの裁判と政治的な不信の関係が論じられてきました。
一方、ソクラテスの独特な神的なしるし、公開の場で人を問い詰める姿勢、若者がそれを真似て年長者を困らせる様子も、宗教や教育をめぐる反発を説明します。正式な訴因、裁判前から広がっていた評判、戦争後の政治的な緊張は、異なる種類の材料です。どの要因が有罪評決にどれほど影響したのかは、現在も史料の読み方によって見解が分かれます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
有罪判決から、最後の対話まで
弁明でソクラテスは何を訴えたのか
『ソクラテスの弁明』の冒頭で、ソクラテスは人々の感情を動かす巧みな言葉遣いより、話している内容が真実であるかどうかを見てほしいと裁判員に求めます。やがて、もし質問をやめることを条件に無罪となるならどうするかという問題に進みます。彼は、神から与えられたと考える探究を続け、市民に自分の生き方を吟味するよう勧めると語りました。
例えば、財産や評判を追い求める人に、同じ熱心さで自分の判断の正しさを考えたことがあるかと尋ねる。ソクラテスが裁判で守ろうとしたのは、こうした対話を続ける生き方でした。彼はアテネを大きな馬、自分をその馬を目覚めさせる小さな虫にたとえています。人々が嫌がる質問をすることにも、都市のためになるという考えがありました。(参照:ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』/プラトン『ソクラテスの弁明』30a–30c|ペルセウス電子図書館)
なぜ死刑という判決になったのか
プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、裁判員はまず有罪と無罪を投票で決め、ソクラテスを有罪としました。続いて刑罰を選ぶ段階では、告発者の求める死刑と、被告が示す代案が争われます。ソクラテスは、自分が都市のために働いたのだから公費で食事を与えられる栄誉に値すると述べ、法廷に驚きを与えたと伝えられます。
その後、友人プラトンやクリトンらが保証人になることで、ソクラテスは銀30ムナの罰金を代案として提案します。しかし、裁判員たちは死刑を選びました。この経過は、ソクラテスが自分の行為を都市への奉仕だと信じていたことと、裁判員の判断との隔たりを示しています。裁判員一人ひとりが何を重視して投票したかについては、残る史料から複数の可能性が考えられています。(参照:プラトン『ソクラテスの弁明』38節|ペルセウス電子図書館/ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』)
逃亡を勧める友人に、どんな理由で答えたのか
有罪判決の後、ソクラテスの友人クリトンは、獄中のソクラテスに逃亡を勧めます。クリトンはアテネの市民で、長くソクラテスと親しくしてきた人物としてプラトンの対話篇に登場します。友人を助けたいという思いに加え、助けられるのに何もしなかったと思われる心配も、彼の言葉に含まれていました。
ソクラテスはここでも、自分の行動が正しいかどうかを先に考えます。『クリトン』で彼は、他人から不正を受けたときにも、自分が不正で仕返しをしてよいのかと問いかけます。続いて、都市の法律が自分に語りかけるという形で、法廷の判決を個人が力ずくで覆したら共同体はどうなるかと議論します。友人の気持ちと法の問題が、対話を通して結びつけられています。(参照:プラトン『クリトン』49節|ペルセウス電子図書館/プラトン『クリトン』50節|ペルセウス電子図書館/プラトン『クリトン』51節|ペルセウス・アトラス)
毒杯の場面は、どのような記録から伝わるのか
アテネでは、アポロンに捧げる船がデロス島へ向かう宗教行事の期間中、処刑が延期される習わしがありました。ソクラテスは判決後もしばらく獄中にとどまり、船の帰還を待つことになります。
最期の場面を詳しく伝えるのは、プラトンの対話篇『パイドン』です。エリス出身の若い知人パイドンが語り手となり、ソクラテスが友人たちと魂や死について議論した後、毒の入った杯を受け取って飲む様子が描かれます。処刑に使われたのはドクニンジン(ヘムロック)の毒と考えられています。『パイドン』は毒物の種類よりも、最期まで友人たちと語り合うソクラテスの姿を詳しく描いています。
クセノポンも『ソクラテスの弁明』で、ソクラテスが死を前に毅然としていた姿を伝えています。二人は関心の置き方が異なり、プラトンは死の直前まで続く哲学的な対話を、クセノポンは裁判に向かう姿勢を強く描きます。これらを合わせて読むと、ソクラテスの死が後の思想家にとって何を意味したのかが見えてきます。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/プラトン『パイドン』117節|ペルセウス電子図書館/クセノポン『ソクラテスの弁明』|ペルセウス電子図書館)
ソクラテスが哲学に残した問い
「よく生きる」とは何かを、理由から考える
タレスをはじめとするミレトスの思想家たちは、自然界に共通する原理を探しました。ヘラクレイトスやパルメニデスは、変化や存在を説明するための問いを深めました。ソクラテスの対話では、人が勇気、正しさ、知恵、幸福と呼ぶものの意味が、より直接的に問題になります。自然についての探究が同時代にも続くなかで、人間の生き方と判断の理由を問う仕事が大きく広がりました。
例えば、政治で成功した人に「良い政治家とは何か」と尋ねることは、その人の行動がどんな基準で評価されるべきかを考えることです。「正しい」と言える理由を問い直す習慣は、個人の生活にも公共の議論にも関わります。ソクラテスの哲学は、名声や慣習で答えを決める前に、自分の考えを言葉にして確かめるという姿勢を後世へ伝えました。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
プラトンたちは何を受け継いだのか
紀元前399年の死の後、ソクラテスを知る人々は、それぞれ異なる方法で彼の言動を伝えました。プラトンは対話篇を通じて、正義、知識、魂、国家についての問いを展開し、のちにアテネで学問を行う場としてアカデメイアを開きます。クセノポンは、生活や政治の場面での言行を通じ、ソクラテスの人柄と実践を記録しました。
ソクラテスから何を学ぶかという点にも違いがありました。定義を求める対話の方法、正しい生き方の探究、権力や多数意見に向き合う態度などが、それぞれの著作で新たな議論へつながっていきます。どのように生きるべきかを他人任せにせず、理由を確かめながら答えを求める。ソクラテスの裁判は、その問いを思想だけでなく実際の人生の問題として後世に残しました。
プラトンの対話篇に登場するソクラテスの言葉を、どこまで歴史上の本人の考えとみなせるかという問題も残りました。哲学研究者グレゴリー・ヴラストス(1907〜1991年)は、1991年の研究で対話篇の成立段階を手がかりにソクラテス本人の思想を再構成しようとしました。これに対し、対話篇をプラトンの文学的な作品として丁寧に読む研究者たちは、人物の発言を作品全体の構成から理解する方法を重視します。二つの読み方の違いは、ソクラテスの実像をめぐる研究に今も関わっています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
略年表|ソクラテスとアテネの政治
- 紀元前508〜507年頃|クレイステネスの改革で十部族と五百人評議会を柱とする民主政の基礎が整う
- 紀元前469年頃|ソクラテスがアテネに生まれたとされる
- 紀元前431年|アテネとスパルタの間でペロポネソス戦争が始まる
- 紀元前423年|アリストファネスの喜劇『雲』が上演され、ソクラテスを風刺する
- 紀元前411年|アテネで民主政が一時的に崩れ、寡頭政が成立する
- 紀元前406年|アルギヌサイの海戦後、将軍たちの裁判をめぐりソクラテスが手続きに異議を唱えたと伝わる
- 紀元前404年|アテネが戦争に敗れ、三十人による政権が成立する
- 紀元前403年|アテネで民主政が回復する
- 紀元前399年|ソクラテスが神々への不敬と若者への影響を訴えられ、死刑となる
- 紀元前4世紀前半|プラトンやクセノポンがソクラテスの言動を伝える著作を残す
まとめ|対話と市民社会が向き合った問題
紀元前399年の裁判でソクラテスが問われたのは、都市の神々への態度と若者への影響でした。その背景には、アテネの宗教的な慣行、戦争と政変の後の政治的不信、公開の場で権威ある人々の説明を問い直すソクラテスの振る舞いがありました。法的な訴因と政治的な不信の関係については、残された証言から複数の説明が考えられています。
彼の問答は、勇気や正義といった馴染み深い言葉について、具体的な行為の例から共通する基準を探る方法でした。相手の答えをさらに質問で試し、理解が不十分なところを見つける作業は、自分自身の判断を見直すことにもつながります。プラトンはその姿を対話篇に描き、クセノポンは生活と裁判の記録を残しました。実際のソクラテスの発言を確定するには史料の制約がありますが、正しい生き方を理由から考えるという問いは、彼の死後も議論され続けています。(参照:スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)/インターネット哲学百科事典|ソクラテス)
参考資料・出典
- スタンフォード哲学百科事典|ソクラテス(2022年改訂)
- メトロポリタン美術館|古典期ギリシアの美術と歴史
- インターネット哲学百科事典|ソクラテス
- クセノポン『ソクラテスの弁明』|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ラケス』190–192節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『エウテュプロン』5節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『エウテュプロン』10節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ソクラテスの弁明』21a|ペルセウス電子図書館
- ハーバード大学ギリシア研究センター|プラトン『ソクラテスの弁明』
- プラトン『ソクラテスの弁明』29d|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ソクラテスの弁明』30a–30c|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ソクラテスの弁明』24b|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ソクラテスの弁明』24–26節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ソクラテスの弁明』32節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『ソクラテスの弁明』38節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『クリトン』49節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『クリトン』50節|ペルセウス電子図書館
- プラトン『クリトン』51節|ペルセウス・アトラス
- プラトン『パイドン』117節|ペルセウス電子図書館
- アテネ・アゴラ発掘調査|アメリカ古典学研究所
- アクロポリス博物館|古代アテネの民会
- アクロポリス博物館|五百人評議会
- アリストテレス『アテナイ人の国制』第21〜22章|イェール大学
- 碑文博物館|アテネの民主政と抽選制度
- アリストテレス『アテナイ人の国制』第63〜69章|MIT古典資料
- アクロポリス博物館|パルテノン神殿北側フリーズとパンアテナイア祭
- アクロポリス博物館|ディオニュソスの聖域と劇場
- エドウィン・キャラワン『アテネの恩赦と法の再構築』(2013年)|オックスフォード大学出版局
- クリストファー・ジョイス『紀元前5世紀末アテネの恩赦と和解』(2022年)|エディンバラ大学出版局