Art Library
Philosophy

2000年代

芸術は政治と無関係でいられるのか

ジャック・ランシエールの美学

2000年前後のヨーロッパでは、選挙で政府を選び、議会で法律を決める民主主義が広く定着していました。1990年代には冷戦が終わり、市場経済と議会制度を社会の共通基盤とする考え方が力を持ちます。そこで暮らす人々の声は、投票だけで社会の決定に届くのでしょうか。自治体の会議では行政や専門家が政策を説明し、住民は限られた時間の中で意見を述べます。仕事や家族の都合でその場に来られない人もいます。誰が議論の当事者として数えられるのかという問題が、民主主義の内部にありました。

1999年、アメリカ・シアトルでは世界貿易機関の会議に対して労働組合、環境団体などの人々が街頭で抗議し、政治的な決定に声を届けようとしました。ヨーロッパの現代美術の場でも、展示室の外へ出て街の人々と制作したり、歴史的な事件を参加者と再演したりする試みが広がります。2001年、イギリスの作家ジェレミー・デラーは、1984年の炭鉱労働者と警察の衝突を、当時を知る人々らと再演しました。2002年のドクメンタでは、作品を都市の住宅地に置く試みも現れます。

この時期、フランスの哲学者ジャック・ランシエール(1940年生まれ)は、芸術と政治の結びつきを「何が見え、誰の声が聞こえ、何を価値ある行為と考えるか」という問いから説明しました。2000年の『感性的なものの分配』は、美術館で何が芸術と認められるかという問題と、社会で誰が発言できるかという問題をつなぎます。政治的な主題を描いた作品は、その主張によって人々を動かすのでしょうか。抽象画のように直接の政治的標語を持たない作品にも、社会を考える意味があるのでしょうか。

ランシエールは、2002年の「美学的革命とその帰結」、2003年の『イメージの運命』、2008年の『解放された観客』などで、こうした問いを深めます。彼が見ていたのは、芸術を作る人と見る人の関係、働く人と考える人の役割、過去には重要とみなされなかったものが作品の中心へ現れる歴史でした。作品と政治的な行動を単純に結びつける前に、見ること、語ること、経験すること自体を考え直す哲学です。

CONTENTS

  1. 1990年代末のヨーロッパ|誰が社会の問題を語れるのか
  2. ジャック・ランシエールはどんな哲学者なのか
  3. 2000年『感性的なものの分配』が問うもの
  4. 身近な場面で考える「見えるもの」と「聞こえるもの」
  5. 「ポリス」と「政治」を分ける理由
  6. 「不和」とは、意見が食い違うこと以上の何なのか
  7. なぜ芸術の話が政治の話につながるのか
  8. 芸術を理解する「三つの体制」
  9. プラトンとアリストテレスをなぜ読み直したのか
  10. 18世紀末の美学に起きた変化
  11. 19世紀文学は誰を主人公にしたのか
  12. 写真や映画は「普通の人」をどう見せたのか
  13. 芸術は自律的でありながら社会に関わるのか
  14. 前衛芸術と日用品のデザインに共通する問い
  15. 2001年|ジェレミー・デラー《オーグリーヴの戦い》
  16. 2002年|フランシス・アリス《信念が山を動かすとき》
  17. 2002年|トーマス・ヒルシュホルン《バタイユ・モニュメント》
  18. 2004年|《アルビネ仮設美術館》は誰のための美術館だったのか
  19. マーサ・ロスラーの写真合成は何を伝えたのか
  20. 2003年『イメージの運命』が問い直したもの
  21. 2008年『解放された観客』の出発点
  22. 観客が解釈するとき、作品には何が起きるのか
  23. 政治的な芸術は人の意見を変えられるのか
  24. 美術館は政治的な作品をどのように扱うのか
  25. ランシエールの議論にはどんな批判があるのか
  26. 美学と政治をつなぐ考え方はその後どう受け継がれたのか
  27. 略年表|芸術と政治をめぐる思想の歩み
  28. まとめ|芸術は社会をどのように見せ直すのか
  29. 参考資料・出典

1990年代末のヨーロッパ|誰が社会の問題を語れるのか

冷戦終結後の「合意」と、その外側にいた人々

1990年代のヨーロッパでは、1989年のベルリンの壁崩壊と東西冷戦の終結を経て、議会制民主主義と市場経済を社会の共通基盤とする考え方が広がりました。選挙で選ばれた議員が政策を審議し、行政機関が専門知識によって制度を運営する仕組みのもとで、何を議論すべきかは議会や政府だけでなく、報道機関、経済界、専門家によっても形作られます。
こうした社会でも、制度の決定に直接参加しにくい人々は存在します。住民が住まいの問題を訴えても、行政の会議では「予算」や「都市開発」の問題に整理されるかもしれません。フランスの哲学者ジャック・ランシエールは、意見が異なること以上に、誰の発言が議論として聞かれ、誰の経験が公共の問題として数えられるのかに注目しました。彼の政治哲学は、民主主義の仕組みがある社会でなお生じる、発言する資格と可視性の不平等を考えるためのものです。(参照:ジャック・ランシエール|芸術の政治についてのインタビュー(2015年)/ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年))

街頭の抗議と美術館の新しい役割

1999年には世界貿易機関の会合が開かれたシアトルで、労働組合や環境団体など多様な集団が集まって抗議しました。国際的な経済政策に対し、会議に正式な席を持たない人々が街頭で自分たちの問題を示す行動です。こうした出来事は、決定する側と決定を受ける側の関係を考え直す契機にもなりました。
現代美術の世界では、2002年にドイツ・カッセルで開かれた第11回ドクメンタが、展覧会に先立つ討論の場を各地に設け、植民地主義、移住、都市、民主主義などを扱いました。展覧会場では、映像や資料を読み、参加者と話し、ときには街へ出る体験が作品に組み込まれます。美術を政治に関係づける方法が多様化するなかで、ランシエールの議論は「政治的なメッセージを伝えたか」という尺度そのものを問い直すことになります。(参照:ドクメンタ公式資料|第11回ドクメンタ(2002年)/ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》の回顧(2024年)/ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年)/ワシントン州歴史事典HistoryLink|1999年のシアトルWTO抗議)

ジャック・ランシエールはどんな哲学者なのか

アルチュセールのもとで哲学を学んだ1960年代

ジャック・ランシエール(1940年生まれ)は、フランスで活動する哲学者です。1960年代にはパリの高等師範学校で学び、マルクス主義の哲学者ルイ・アルチュセール(1918–1990)の研究に参加しました。アルチュセールは、社会を理解するには日常の思い込みと科学的な分析を区別する必要があると考えた思想家です。ランシエールは1965年の共同著作『資本論を読む』に寄稿し、当初はその知的環境に身を置いていました。
転機となったのは、1968年にフランス各地で学生と労働者による抗議やストライキが拡大したことです。ランシエールは、社会のしくみを専門家だけが正しく理解できるとする構図に疑問を深め、1974年の『アルチュセールの教訓』で師の立場を批判しました。何を知っている人が何を知らない人に教えるのかという序列への疑問が、後年の政治論と美学を貫くことになります。(参照:ランシエール|1968年以降の教育思想についてのインタビュー(2022年)/ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年))

夜に本を読む労働者から始まった平等の探究

ランシエールは19世紀のフランスの労働者たちが残した手紙、詩、雑誌、回想録などを調べ、1981年に『プロレタリアたちの夜』を刊行しました。工房で働く人々が仕事を終えた夜に哲学や文学を読み、自分たちの生活について文章を書く姿が、その史料には残っています。彼らは労働条件の改善だけを求めていたのではなく、詩を書く人、考える人として生きる時間も求めていました。
ここで問題になるのは、「労働者は労働し、知識人は考える」という役割分担です。仕事を終えた後に詩を読むことは、与えられた生活時間の使い方を変える行為でもあります。ランシエールは、政治的な平等を考える前提として、人々が何をする能力を持つと認められるかという問題を史料から見出しました。美術館で誰が作品を理解できると想定されるかという問いも、同じ研究の延長にあります。(参照:ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年)/ランシエール|1968年以降の教育思想についてのインタビュー(2022年))

『無知な教師』と「理解する能力」の平等

1987年の『無知な教師』でランシエールが検討したのは、19世紀の教育者ジョゼフ・ジャコト(1770–1840)が経験した学習の出来事です。ジャコトはオランダ語を十分に話せない状態で、フランス語を学びたい学生に二言語で書かれた本を与え、自分で読み進めるよう求めました。学生たちは語の対応を比較しながら学びました。
この逸話からランシエールが引き出すのは、すべての人が同じ量の知識を持つという主張ではありません。誰もが見比べ、試し、推測し、理解を深める知的能力を持つという前提です。教師が学習者を永遠に「説明を必要とする人」として扱えば、その区別自体が続きます。ランシエールは、能力の平等を教育の最終目標に置くのではなく、学習の出発点に据えようとしました。(参照:フェイヤール|ランシエール『無知な教師』(1987年)原著紹介/ランシエール|1968年以降の教育思想についてのインタビュー(2022年))

2000年『感性的なものの分配』が問うもの

芸術と政治に共通する「見える世界の仕切り」

ランシエールは2000年、フランス語で『Le Partage du sensible: Esthétique et politique』を刊行しました。一般に『感性的なものの分配』と呼ばれる議論を展開した著作です。ここで「感性的」とは、個人の感受性が豊かだという意味にとどまりません。人々に何が見え、何が聞こえ、どの場所で誰の行為が意味を持つと理解されるかという、共有された経験の枠組みを指します。
「分配」に当たるフランス語のpartageには、共有することと分け隔てることの両方の意味があります。社会には共同で使う場所や時間があり、その内部に役割の境界があります。例えば議会の演壇で発せられる言葉は政治的な発言として記録され、通路で同じ問題を訴える声は騒音として処理される場合があります。どの声を発言として受け取るかという仕切り自体が、ランシエールのいう「感性的なものの分配」です。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/ジャック・ランシエール|芸術の政治についてのインタビュー(2015年))

「美学」は美しさの好みを決める学問なのか

ランシエールの美学は、絵が美しいかどうかを採点する理論から出発しません。彼が調べるのは、何が芸術と認められ、どの人がそれを作ったり味わったりできると考えられ、作品が日常のどんな場所に現れるかという歴史です。美術館で日用品が作品として展示されることも、かつて絵の主題にならなかった労働者の生活が文学に描かれることも、この問題に関係します。
芸術は、社会で何を高貴なものとし、何を普通のものとして見過ごすかという感覚を組み替える場合があります。その組み替えは、政党の支持を訴えたり政策の正しさを説明したりする行為とは異なる仕方で進みます。作品の主題が政治的かどうかより、知覚と経験の関係がどう変わるかを考えるところに、ランシエールの美学の独自性があります。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

原著と英語版の刊行年を区別する

『感性的なものの分配』に関する議論は、2000年のフランス語原著が基礎になっています。ガブリエル・ロックヒルが編集・翻訳した英語版『The Politics of Aesthetics: The Distribution of the Sensible』は2004年に刊行されました。英語版には翻訳者の論考や追加の対話があり、研究上の参照に使われることも多い版です。
2000年代のランシエールの美学を「2004年に初めて登場した思想」とする説明は、フランス語圏での展開を見失わせます。2000年の原著、2002年の論文、2003年の『イメージの運命』、2008年の『解放された観客』は、芸術と政治をめぐる問題を異なる角度から広げたものとして読むことができます。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/大学図書館CiNii|『The Politics of Aesthetics』英語版と原著の書誌)

身近な場面で考える「見えるもの」と「聞こえるもの」

同じ場所にいても発言の資格は違って見える

地域の再開発をめぐる説明会を想像してみてください。行政の担当者は図面や統計を示し、住民はそこで暮らしてきた記憶や不安を語ります。図面は計画の根拠として扱われても、住民の言葉が個人的な感情とみなされれば、同じ場所にいても発言の重みは異なります。これは理解を助けるための例であり、ランシエールが特定の説明会を分析したという意味ではありません。
ここでの問いは、どちらの意見が最終的に採用されるかに加え、何が公共の論点と呼ばれるかを誰が決めるのかということです。住民が生活の記憶も都市の未来を考える知識だと主張すると、議論の対象そのものが変わり得ます。ランシエールが「政治」として重視するのは、決められた役割の内部で意見を競う場面に加え、役割や議題を決める境界を揺さぶる行為です。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/ミネソタ大学出版局|ランシエール『不和』英訳版紹介)

時間の使い方も社会的な区分になる

仕事、家事、移動、学習、休息に割り当てられた時間は、立場によって異なります。図書館で調べ物をする時間を持てる人と、勤務後すぐに家族の世話に戻る人とでは、同じ展示や講座への参加にも違う条件があります。ランシエールが19世紀の夜学ぶ労働者を重視したのは、まさに時間の配分が考える人としての資格に結びついていたからです。
芸術の公開を考える際にも、作品を無料で見せればすべての人が同じように参加できるわけではありません。開館時間、移動距離、案内の言語、仕事を離れる余裕が、経験の可能性を形作ります。ランシエールの理論は、こうした条件を調べる観点を与えます。作品がそれらの条件を現実に変えたかどうかは、各事業の記録と参加者の経験から確かめるべき問題です。(参照:ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年)/ランシエール|1968年以降の教育思想についてのインタビュー(2022年))

「ポリス」と「政治」を分ける理由

ランシエールの「ポリス」は社会の秩序を指す

ランシエールは1995年の『不和』で、「ポリス」と「政治」を区別しました。ここでいうポリスは、警察官による取締りだけを意味する言葉ではありません。社会で人々に仕事や場所や役割を割り当て、その割り当てを自然なものとして働かせる秩序のことです。行政、教育、職業、家庭といった場所で、誰が何を担当し、誰が決定するかが常識として共有されます。
社会を運営するには役割や制度が必要です。ランシエールの区別は、行政組織の存在自体を悪とする判断とは別のところにあります。ある集団が特定の仕事しかできないと扱われ、その人々の発言を初めから議論の外へ置くとき、秩序は能力の不平等を固定します。この配置が見えるようになると、政治がどの場面で起きるかも理解しやすくなります。(参照:ミネソタ大学出版局|ランシエール『不和』英訳版紹介/ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年))

政治は「数に入っていなかった人」が現れる出来事

ランシエールにとって政治は、割り当てられた位置を越えて平等を示す実践として現れます。発言する資格がないとされた人々が、同じ問題について判断できる人間として立ち上がり、公共の場を作り直す。そのとき社会が誰を「参加者」と数えるかが争われます。『不和』が扱うのは、話し合いの内容と、そもそも誰が話し合いに参加できるかという条件の重なりです。
この考え方は、すべての抗議が同じ効果を持つと予言するものではありません。ある抗議は制度を動かし、別の抗議は短い出来事として終わる場合があります。政治的な場面を見極めるために、誰が発言し、どんな境界が変わったかという具体的な問いを置きます。その観点が芸術作品の参加や展示に向けられると、美術館の開かれ方を考える論点になります。(参照:ミネソタ大学出版局|ランシエール『不和』英訳版紹介/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

「不和」とは、意見が食い違うこと以上の何なのか

同じ言葉を使いながら違う世界を見ている

例えば「安全な街をつくる」という目標には、多くの人が賛成するでしょう。ある人は監視カメラを増やすことを重視し、別の人は安心して集まれる公共空間を増やすことを求めます。同じ言葉を使っていても、そこで見ている問題は異なります。ランシエールの『不和』は、このように論点が共有されているように見える場面で、何が問題として存在するか自体が争われることに注目します。
彼がいう「不和」は、互いの言い分を理解できず口論している状態と同義ではありません。発言者が同じ問題について語っているのに、片方の言葉が発言として認められない状態も含みます。何が目に入るか、何を議論の対象と呼ぶかが変わるため、政治的な争いは感覚的な世界の成り立ちにも関わります。(参照:ミネソタ大学出版局|ランシエール『不和』英訳版紹介/ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年))

平等は達成後にもらえる資格なのか

「十分に勉強してから政治に参加しなさい」と言われた人が、いつ発言できる資格を得るのかは誰が決めるのでしょうか。専門知識の大切さと、公共の問題について考える能力の平等は、異なる論点です。ランシエールは、後者を先に認めることで初めて、従来の役割を超えた議論が始まると考えました。
この平等は人々の収入や学歴がすでに同じだという記述ではありません。発言できる能力を誰もが持つと仮定し、その能力を行為で確かめていくことです。1990年代末から2000年代の美学で観客の知性を論じるときにも、この出発点が残ります。観客を「意味をまだ理解できない人」と決めてしまう制度のあり方が、哲学的な検討の対象になるのです。(参照:フェイヤール|ランシエール『無知な教師』(1987年)原著紹介/ミネソタ大学出版局|ランシエール『不和』英訳版紹介)

なぜ芸術の話が政治の話につながるのか

展示することは、見る対象を選ぶことでもある

美術館が何を展示するかを決めると、鑑賞者はある作品に長い時間を向け、別のものを通り過ぎます。展示の順序、解説文、照明、入場の仕組みは、見る経験を形作ります。ランシエールのいう感性的なものの分配に照らすと、美術館は価値を持つ対象を社会に示す場所として働きます。
近代以前の絵画には、聖書の物語や王侯の出来事を大きく描く序列がありました。近代以降、食卓、仕事道具、街角、無名の人々など、かつて周辺に置かれがちだった主題も美術の中心へ入ります。どの対象に視線を向けるかを変えることは、人々の生活に付けられてきた意味を問い直す方法にもなるのです。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/ジャック・ランシエール|芸術の政治についてのインタビュー(2015年))

抗議のポスターと抽象絵画では政治性が違う

政治的な主張を明確に書いたポスターは、鑑賞者に賛成や行動を促すことがあります。抽象絵画は、社会運動の特定の要求を文字で伝えることなく、色と形の関係、画面を見る時間、周囲の空間の経験を変える場合があります。ランシエールは、どちらの表現も同じ種類の政治的な効果を持つと考えたわけではありません。
重要なのは、作品の形式と社会での働きの間に多様な関係があることです。抽象画が置かれる制度や鑑賞環境も歴史を持ち、政治的な図像が確実に人の意見を変える保証もありません。作品が何を見えるものにし、どの感覚を既存の秩序から引き離すかを具体的に調べることが、政治と美学の接点を考える出発点になります。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

芸術を理解する「三つの体制」

倫理的体制|画像は人々に何をもたらすのか

ランシエールは芸術を理解する歴史的な枠組みとして、倫理的体制、表象的体制、美学的体制を区別します。倫理的体制では、画像がどこから来たものか、人々の生活や共同体にどんな影響を及ぼすかが中心になります。古代ギリシアの哲学者プラトンが詩人による模倣を問題にした議論は、その代表的な例です。
ここでは絵や詩の価値が、独立した「美術作品」としての基準で決まるとは限りません。神々の像が信仰や教育とどう結びつくか、物語が人々の振る舞いをどう形作るかが問われます。ランシエールは、この枠組みを古代の特徴として示しながら、芸術に倫理的な効果を期待する見方が現代にも現れることを論じています。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

表象的体制|主題とジャンルに序列がある

表象的体制では、芸術が独自の制作技術と規則を持つ領域として認められます。詩や絵画では、何を描き、どの形式で表し、どんな語り口を選ぶかに規範が設けられます。悲劇や歴史画など高く評価されるジャンルと、喜劇や日常の情景など別の位置を与えられるジャンルの区別が、その仕組みの一例です。
こうした序列は、制作を難しい技術として発達させる一方、芸術が扱ってよい人物や出来事にも境界を引きます。ランシエールの説明では、表象とは現実をそのまま写すことだけを指しません。どの主題にどの表現がふさわしいかを定める体系として理解されます。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

美学的体制|普通の生活が芸術に入り込む

美学的体制では、あらかじめ決められた主題やジャンルの上下関係が揺らぎ、どんな対象でも芸術の素材になり得ます。作業場の光、無名の人の顔、街路の看板、廃れた家具といったものが、人々の経験を組み替える契機になります。芸術は特別な経験として区別されながら、日常の生活とも結び直されます。
ランシエールがいう三つの体制は、暦のある年を境に一つが消え、次が完全に取って代わるという年表ではありません。同じ社会の中で、芸術を道徳的な教育の手段とみなす考え方も、制作上の規則を重んじる考え方も、作品の自律性を重んじる考え方も活動します。三つの枠組みを使うことで、作品がどう見られ、何を芸術として認めるかの違いを説明できます。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

プラトンとアリストテレスをなぜ読み直したのか

プラトンの国家論における詩人の位置

紀元前4世紀のアテネで活動したプラトン(紀元前427頃–347)は、哲学者が正義と国家のあり方を論じた『国家』で、詩人の表現が人々の心や教育へ与える影響を問題にしました。物語や舞台で異なる人物を模倣する行為は、共同体が育てたい振る舞いと関わるからです。ランシエールはこの議論を、芸術を共同体の秩序から評価する倫理的体制の典型として読みます。
興味深いのは、プラトンが芸術を危険視した理由にも、表現が人々の役割を変える力への意識があることです。ある立場の人が別の立場の声を使うことは、社会的な役割の区分を揺さぶりかねません。ランシエールはプラトンの判断に賛同するために読むのではなく、芸術が政治と関係づけられてきた長い歴史をそこから考えます。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

アリストテレスと模倣の規則

プラトンの弟子であったアリストテレス(紀元前384–322)は、『詩学』で悲劇などの制作原理を分析しました。物語をどのように構成し、出来事をどんな筋にまとめれば作品として成立するかが論じられます。ランシエールは、こうした議論を芸術に固有の規範を認める表象的体制の重要な系譜に置いています。
この二人の比較によって、芸術を人々への影響から評価する立場と、作品を組み立てる規則から評価する立場の違いが見えます。後世のアカデミーで歴史画と風俗画が異なる地位を与えられた問題も、表象的体制の長い歴史から理解できます。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

18世紀末の美学に起きた変化

カントの美の判断から何が引き継がれたのか

18世紀末のドイツで活動した哲学者イマヌエル・カント(1724–1804)は、1790年の『判断力批判』で、ものを美しいと判断する経験を、実際に役立つかどうかという目的から区別して考えました。花を眺めるとき、その花を所有したり料理に使ったりする目的とは別に、形や色を味わう時間があります。美を判断する経験は、対象を直接使うことから一定の距離を持ちます。
ランシエールの関心は、この距離が社会の役割分担へどんな可能性をもたらすかという問題に向かいます。物に実用上の役割を与える時間からいったん離れる経験は、誰が働き、誰が考え、誰が楽しむかという境界を考え直す契機にもなります。その可能性をさらに社会全体の問題へ広げた人物が、フリードリヒ・シラーです。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

シラーの「遊び」と、芸術から新しい生活を考える希望

ドイツの詩人・劇作家フリードリヒ・シラー(1759–1805)は、1795年の『人間の美的教育についての書簡』で、感覚と理性の関係を、人間の自由を考えるための問題として扱いました。ランシエールは2002年の論文「美学的革命とその帰結」で、シラーが「遊び」を通して芸術と人間の生のあり方を結びつけたことを重要な出発点に据えています。
遊びの経験では、役に立つ成果を急いだり、外から命じられた規則だけで行動したりする状態がいったん緩みます。ランシエールはこの自由な経験に、芸術だけが変わるという希望と、人々の共同生活そのものが変わるという希望が結びついていたと読みます。美術が自律的であることと社会を変えることが、近代美学でなぜ同時に語られたのかが、ここから説明されます。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

19世紀文学は誰を主人公にしたのか

フローベールの小説と普通の人々の経験

19世紀フランスの小説家ギュスターヴ・フローベール(1821–1880)は、1857年に『ボヴァリー夫人』を刊行しました。地方の暮らしや買い物、家具、会話、退屈といったものが精密な文章で描かれ、英雄や王侯を中心にした物語とは異なる世界を成立させています。ランシエールは、小説の文体がどんな人物や物にも注意を向けられることを、美学的体制の特徴と結びつけて論じます。
これまで重要な出来事とは思われなかったものが、文章によって読者の視線を長く引き止めます。日常の細部へ美的な注意を向けることは、その人々の生活を公共の世界に現す働きにもなります。ここでいう文学の「民主性」は、作者が議会政治を支持する言葉を書いたかどうかだけで決まるものではありません。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版)

誰にでも注目する形式と、人物への作者の眼差し

『ボヴァリー夫人』の主人公エンマは、恋愛小説や流行品に憧れ、日常生活へ劇的な意味を求める人物です。フローベールの叙述は、その憧れと現実の隔たりを細かく描きます。ランシエールが読むのは、作者が主人公を賞賛するか批判するかという結論に加え、平凡な物や感覚まで文学的な注意の対象になるという形式上の変化です。
美術史でも似た問題が現れます。街で休む人や商品棚の一角が作品の中心になったとき、誰の生活が見るに値するかという基準が変わります。文学作品と現代美術を同じものとして扱うのではなく、作品が対象の序列へどう働きかけたかという問いを共有することができます。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

写真や映画は「普通の人」をどう見せたのか

技術の発明だけで芸術の歴史は決まるのか

写真が広がると、王族や著名人だけでなく、働く人や街路の景色なども記録されるようになりました。ランシエールは2000年の著作で、機械的な技術の登場だけが普通の人々を芸術の対象にしたと説明する見方を検討します。写真が芸術として受け取られるには、日常や無名の存在が見るに値するものだという歴史的な感覚の変化も関係するからです。
映画についても、動く映像という技術が生まれた瞬間から決まった芸術のあり方が成立したわけではありません。撮影された動作、編集された時間、観客が読み取る物語を通して、その表現がどのように芸術として理解されるかが変化します。ランシエールが重視するのは、新しい媒体の発明と、社会が何を注目すべきものと考えるかの歴史的な関係です。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/大学図書館CiNii|『The Politics of Aesthetics』英語版と原著の書誌)

無名の人物が画面の中心に立つ意味

街路を歩く人、働く人、家で過ごす人を写した写真は、ときに事件や有名人物の記録以上に長く見ることができます。その人が何者かを特定できなくても、姿勢、衣服、背景、光の入り方を観察することで、画面の中に一つの生活が立ち上がります。何を写したかという事実と、どう見る経験が成立したかという問題は重なりながら区別できます。
ランシエールにとって、無名の人々への注目は芸術史と民主主義の関係を考える入口です。芸術の画面へ現れるということが、その人の政治的な権利を自動的に保証するわけではありません。見るに値するとされる対象の範囲が変わることを、社会の役割の境界が揺れる可能性として捉えています。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

芸術は自律的でありながら社会に関わるのか

作品を役立つ目的から離して見る経験

美術館にある絵を前にして、鑑賞者は目の前のものを道具として使う必要がありません。長く立ち止まり、色や空間の関係を追い、自分の経験と結びつけて考えることができます。ランシエールがいう芸術の自律性には、作品が日常の実用目的から切り離された独特の経験の場を作るという側面があります。
2002年の論文では、この自律性は、作品という物体が社会から完全に独立していることとは区別されます。何かに使うという命令から離れて見る時間は、生活の役割によって定められた行動を一時的に緩めます。芸術の独自性が、共同生活のあり方を考える可能性とつながる理由がここにあります。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

芸術を生活へ溶け込ませたいという願い

20世紀の前衛芸術には、芸術を特別な展示室だけに置くことに疑問を持ち、街、工場、衣服、家具などへ広げようとする試みがありました。作品を生活から分けることと、生活の中へ取り戻すことが、近代以降の芸術の二つの方向として現れます。ランシエールは、その両方がシラー以来の美学的な経験から生じていると考えました。
美術館を離れて街で作品を見せれば、人々との接点は増えます。美術館の中にあっても、見る時間の使い方を変える作品はあります。場所だけで政治的な価値を決めると、作品が経験へ及ぼす複雑な働きを見落とします。ランシエールは自律性と社会性の緊張を、芸術の歴史に繰り返し現れる問題として捉えています。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

前衛芸術と日用品のデザインに共通する問い

マラルメの活字とベーレンスの工業製品

フランスの詩人ステファヌ・マラルメ(1842–1898)は、1897年に発表した『骰子一擲』で、紙面の余白や活字の大きさ、言葉の配置を詩の形式に組み込みました。その数年後、ドイツの建築家・デザイナー、ペーター・ベーレンス(1868–1940)は、電機会社AEGの建物や製品、宣伝物に統一した造形を与えていきました。二人の仕事は用途も媒体も違います。
ランシエールは2002年の論文や2003年の『イメージの運命』で、この組み合わせを考えます。マラルメの活字の配置も、ベーレンスの工業製品の設計も、形を整えることが新しい生活の感覚へつながると期待していた点で比較できます。文字と道具のデザインが、それぞれの方法で共同生活の見え方を作るという問題です。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『イメージの運命』(2003年))

日常へ入る芸術は、どんな政治性を持つのか

デザインは、家具や道具を使う人の身体の動きに関わります。ポスターは街角で人の視線を止め、印刷物は読書の時間や情報の広がり方を変えます。こうした造形が社会の経験に働きかけることは、政治的な主張を一つずつ掲げる方法とは違う関係を持ちます。
ランシエールは、日用品に美しい形を与えれば社会が平等になると結論づけているわけではありません。芸術と生活の境界を越える希望が、産業社会の発展とも商品文化とも結びついてきた歴史を調べます。美術の政治性を理解するには、理想と現実の間にある媒介の仕組みを見つめる必要があります。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『イメージの運命』(2003年))

2001年|ジェレミー・デラー《オーグリーヴの戦い》

1984年の炭鉱労働者と警察の衝突を再現する

イギリスの美術家ジェレミー・デラー(1966年生まれ)は、2001年6月、南ヨークシャーのオーグリーヴで《The Battle of Orgreave》を実施しました。1984年の炭鉱労働者のストライキ中、炭鉱関連施設の近くで労働者と警察が激しく衝突した出来事を、当時を知る人々と歴史再現の参加者が再演した作品です。制作団体アートエンジェルの記録によれば、参加者は800人以上に及びました。
現場では人々が当時の服装を身につけ、警察の騎馬隊を含む集団の動きが再構成されました。歴史再現の専門家ハワード・ジャイルズが演出に参加し、映画監督マイク・フィギスが記録映像を制作しました。作品は一日の出来事として終わると同時に、映像、音声、文章、地図、道具などを含むアーカイブとしても残されています。(参照:アートエンジェル|デラー《オーグリーヴの戦い》(2001年)制作記録/アートエンジェル|《オーグリーヴの戦い》アーカイブの構成)

誰が歴史を語るのかという展示の問題

炭鉱労働者のストライキは、政府、労働組合、警察、地域社会が異なる記憶を持つ出来事です。再演には当時実際にその場にいた元労働者らが参加し、彼らの証言や身体的な記憶が、制作の一部になりました。参加者同士の見解が一致していると前提にするより、何が公的な歴史として記録されてきたかを問い直す作品として見ることができます。
2001年のデラーがランシエールの2000年の著作を制作に用いたと裏づけられた資料は確認できません。後年の比較として両者を並べると、労働者が歴史の解説を受ける対象から、歴史を見せる主体へ移ることが重要な接点になります。作品の独自性は、哲学的な概念に加えて、地域の信頼を得る準備と実際の再演に参加した人々の経験に根ざしています。(参照:アートエンジェル|デラー《オーグリーヴの戦い》(2001年)制作記録/アートエンジェル|《オーグリーヴの戦い》アーカイブの構成)

2002年|フランシス・アリス《信念が山を動かすとき》

500人が砂丘を少しだけ動かす

ベルギー生まれでメキシコを拠点に活動する美術家フランシス・アリス(1959年生まれ)は、2002年4月11日、ペルーのリマ郊外で《When Faith Moves Mountains》を実施しました。クアウテモク・メディナ、ラファエル・オルテガとの協働によるもので、約500人の参加者がスコップを持ち、砂丘に一列に並んで砂を動かしました。大きな労力をかけても、砂丘が移動した距離はわずか数インチです。
グッゲンハイム美術館が所蔵する作品は、三つのチャンネルによる映像と音声で構成され、二つは16ミリフィルムから転写した約34分の映像、もう一つは約6分の映像を使います。ニューヨーク近代美術館には映像に加えて、図面、写真、地図、印刷物、シャツなどの資料を含む作品群も収蔵されています。実際の行為と、それを語り継ぐ資料が二重の作品を形作っています。(参照:グッゲンハイム美術館|アリス《信念が山を動かすとき》(2002年)/ニューヨーク近代美術館|アリス《信念が山を動かすとき》の映像・関連資料)

大きな努力と小さな結果は何を変えるのか

砂丘を数インチ動かすために数百人が協力したことを、土木工事の成果として測れば効率は極めて低いでしょう。アリスはそのずれを作品の中心に置きました。何かを確実に改善する事業とは異なり、共同で行った経験が記憶や語りの中で残ることに意味を見いだします。
ランシエールの観点から読むと、この作品は労働の目的や集団の能力を測る基準について考える契機になります。参加者にとってその一日が何を意味したかと、後に展示室で映像を見る人の経験も異なります。アリスの作品が社会制度を直接変更したという因果関係は、参加行為だけからは導けません。小さな結果と大きな共同作業の差そのものが、鑑賞者の考えを動かすのです。(参照:グッゲンハイム美術館|アリス《信念が山を動かすとき》(2002年)/ニューヨーク近代美術館|アリス《信念が山を動かすとき》の映像・関連資料)

2002年|トーマス・ヒルシュホルン《バタイユ・モニュメント》

ドクメンタの中心会場から離れた住宅地へ

スイス生まれの美術家トーマス・ヒルシュホルン(1957年生まれ)は、2002年の第11回ドクメンタで《Bataille Monument》を制作しました。主な展覧会場から離れたカッセルの住宅団地に、安価な建材を使ってフランスの思想家ジョルジュ・バタイユに関する資料を読む場を設け、地域の若者たちと準備や運営を進めました。
ドクメンタの公式記録は、中心部から離れた場所での展示が、現代美術とその土地の社会的な階層との関係を問う実験となったことを伝えています。会場へ足を運ぶためには、美術展の観客が普段通らない住宅地を訪れる必要があります。誰が作品に近づくのかと同時に、誰の暮らす場所が展覧会の中心として示されるのかも変わります。(参照:ドクメンタ公式資料|2002年のヒルシュホルン《バタイユ・モニュメント》/トーマス・ヒルシュホルン本人|《バタイユ・モニュメント》制作記録(2002年))

低価格の材料と共同制作がつくる場

ヒルシュホルンが公表した制作記録には、現地で協力する人々を探し、作業の役割を相談し、会場を組み立てていった経緯が書かれています。彼は2000年末から2002年春にかけてカッセルを繰り返し訪れ、事前準備を重視しました。完成した構造物の素材と、そこで働いた人々の時間が一緒に作品の性格を決めます。
作品は「参加したので対等な関係が成立した」と簡単にまとめられるものではありません。誰が作品を企画したか、作業を調整したか、どんな報酬や責任を担ったかという条件が共同作業の内部にもあります。ランシエールの平等論と比較するときは、参加者の能力をどう扱ったかという問いを持ちながら、制作の実際を確認することが大切です。(参照:トーマス・ヒルシュホルン本人|《バタイユ・モニュメント》制作記録(2002年)/ドクメンタ公式資料|2002年のヒルシュホルン《バタイユ・モニュメント》)

2004年|《アルビネ仮設美術館》は誰のための美術館だったのか

パリ郊外に近代美術の名作が運ばれた

ヒルシュホルンは2004年、パリ北郊オーベルヴィリエのランディ地区に《Musée Précaire Albinet》を開設しました。集合住宅の近くに組み立てた仮設の展示施設に、ポンピドゥー・センターなどから貸し出された近代美術作品を運び、地域の住民とともに展示、案内、講演などを実施しました。ポンピドゥー・センターの記録によれば、展覧会は8週間にわたり、マルセル・デュシャン、ピート・モンドリアン、アンディ・ウォーホルらの作品が紹介されました。
重要なのは、名作の複製を見せる催しではなく、実際の所蔵作品を住宅地へ運んだことです。住民は会場づくりや作品の取り扱いに向けた研修にも参加しました。美術館の来場者として迎えられる人と、作品を扱い、運営する側の人との境界が、具体的な作業の中で変わっていきます。(参照:ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》の回顧(2024年)/ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》(2004年)の運営記録)

文化への接近を増やすことと、平等の問題

《アルビネ仮設美術館》は、通常の美術館へ行く機会が少ない人々に作品を届けるという文化政策上の意味を持ちました。2004年の公式記録には、若者の研修や、プロジェクト後にポンピドゥー・センターで実務を学ぶ人が現れたことも記されています。作品を見ることに加えて、運営に携わる能力を認めるという変化がありました。
2024年にポンピドゥー・センターが行った回顧では、参加者の記憶とともに、文化へのアクセスを広げる活動が持つ恩恵と、支援する側と支援される側の区分を作る危うさが議論されています。ランシエールの立場からは、誰かを「文化を理解できない人」と定義してから教育する方法が問われます。この作品は、その緊張を具体的な出来事として考える材料になります。(参照:ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》(2004年)の運営記録/ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》20年後の批評的回顧)

マーサ・ロスラーの写真合成は何を伝えたのか

戦争を美しい室内へ持ち込む構図

アメリカの美術家マーサ・ロスラー(1943年生まれ)は、1960年代末から1970年代初頭にかけて《House Beautiful: Bringing the War Home》を制作しました。室内装飾雑誌から選んだ裕福な家庭の写真に、ベトナム戦争を伝える報道写真を切り貼りした作品群です。清潔な居間や整った家具の中に、兵士や破壊された街の光景が入り込みます。
ニューヨーク近代美術館の資料によれば、ロスラーはこの作品を戦争反対の運動で配布する印刷物としても使いました。切断された写真を一つの画面に見せる技術が、遠い戦地と家庭の安全が実際には結びついていることを示します。制作当時の作品はベトナム戦争への直接的な応答であり、2000年代のランシエールによる理論より長い歴史を持っています。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロスラー《戦争を家庭に持ち込む》作品記録/ニューヨーク近代美術館|ロスラー本人によるフォトモンタージュ解説)

2004年の新しい連作が示す批判の持続

ロスラーは2003年頃から2008年にかけて、この方法をイラク戦争の時代へ再び向けました。MoMA PS1の展覧会資料に記載された2004年の《Hooded Captives》《Lounging Woman》などは、家庭のイメージと戦争の写真を衝突させたフォトモンタージュで、約50.8×61センチメートルの作品です。先行する連作と同様、家庭の快適さと戦争の暴力が一つの画面に置かれます。
ランシエールの美学との比較では、こうした画像が見る人に何を知らせ、どんな感情や行動を生むと想定されるかが問題になります。戦争の悲惨さを理解した観客が必ず抗議へ向かうという一対一の関係は、作品の内容だけから決まりません。ロスラー自身の反戦活動と、後年の哲学的な読解を区別しながら、画面にある強い視覚的な対立を具体的に見ることができます。(参照:MoMA PS1|ロスラーの2004年新作連作と展示作品リスト/ニューヨーク近代美術館|ロスラー本人によるフォトモンタージュ解説)

2003年『イメージの運命』が問い直したもの

画像が増える社会で「イメージの終わり」は起きたのか

ランシエールは2003年、『Le Destin des images(イメージの運命)』を刊行しました。出版者の紹介文では、画像が世の中にあふれたため現実が失われるという、当時よく語られた見方を取り上げ、そもそも「イメージ」が一つの単純なものを指すのかと問いかけています。写真、映画、広告、絵画は同じように世界を表すのでしょうか。
例えば同じ写真が新聞に掲載されたときと、美術館の展示室に大きく引き伸ばされたときでは、読者や鑑賞者が読む時間や背景情報が変わります。画像を見たという事実に加え、その画像をどのような文脈で受け取るかを考えることが必要になります。ランシエールは、媒体を一つの運命に結びつける説明より、画像の機能の組み合わせへ目を向けます。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『イメージの運命』(2003年))

「表現できないもの」の議論も歴史を持つ

戦争や大量虐殺のような経験について、芸術が何を伝えられるかという議論があります。ランシエールは『イメージの運命』や2002年の論文で、ある出来事を「表現不可能」と呼ぶ判断が、どんな芸術観や表現の規範に基づいているかを調べました。ナチスによる迫害を扱う証言や映画についても、どのように語り、何を見せるかという形式の選択が問題になります。
ここで彼は、歴史的な暴力を軽く扱おうとしているのではありません。何を表すことができるかという問いを、表現者が実際に用いてきた文章や映画の方法から考えます。「直接映せないから芸術は無力だ」という決まり文句を離れ、記録、語り、沈黙、編集などの具体的な選択を比較するための議論です。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『イメージの運命』(2003年)/ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年))

2008年『解放された観客』の出発点

観客は座っているから受け身なのか

2008年に刊行された『Le Spectateur émancipé(解放された観客)』で、ランシエールは舞台や芸術を見る人をめぐる長い議論を取り上げました。観客は舞台の上で動かず、椅子に座って他人の行為を見ています。その姿から、見ることは受け身であり、演じる側だけが活動していると考えられてきました。
ランシエールは、この説明を問い直します。人は見ながら細部を選び、以前に見たものと比べ、記憶を呼び起こし、意味を考えています。たとえ会場で発言しなくても、見ている人の内側では理解や解釈が進みます。見ることも一つの活動であるという出発点が、観客をどのように扱うかという問題を変えました。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年)/ヴァーソ|ランシエール『The Emancipated Spectator』書籍紹介)

「知っている人が教える」という関係の反復

政治的な作品を作る人が、観客を社会の問題を知らない人と見なすと、作品は「真実を見せて目覚めさせる」道具として設計されやすくなります。ランシエールは、こうした考え方に、かつて教師が学習者を無知な人として位置づけた関係と似た構造を見ます。1987年の『無知な教師』と2008年の『解放された観客』が結びつく理由です。
作品を見る前から観客は経験と知識を持っています。同じ映像を見ても、記憶や関心が異なれば受け取る意味も変わります。作家の意図を尊重することと、観客の解釈の能力を認めることは共存できます。ランシエールは、知識の差を永遠に固定する説明の仕組みを考え直しました。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年)/フェイヤール|ランシエール『無知な教師』(1987年)原著紹介)

観客が解釈するとき、作品には何が起きるのか

一つの作品から複数の物語が生まれる

同じ展覧会の作品について、ある鑑賞者は素材に注目し、別の鑑賞者は自分の家族の記憶を思い出し、また別の鑑賞者は政治的な背景を考えるかもしれません。この違いがあるからといって、どの読み方も同じ程度に史実と合っていることにはなりません。作品の制作年や作者の発言は調べられます。その上で、鑑賞者が作品を経験に結びつける道筋は複数あります。
ランシエールが観客に認める能力は、解説を必要としない万能の理解力という意味ではありません。知っていることを足場に新しいものと比較し、自分の言葉へ移し替える能力です。観客は作家から送られた意味を受け取るだけの箱のような存在ではなく、作品の断片からそれぞれの理解を組み立てます。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年))

参加型の芸術が必ず観客を解放するのか

椅子に座って映画を見る人と、展示室で食事を作る人とでは、身体の動きが違います。前者も作品を読み取り、後者も主催者が決めた手順を守るだけという場合があります。ランシエールの観点では、立って動くことと、知的に自分で考えることを同じ尺度に置くと、観客の働きがかえって見えにくくなります。
前回の関係性の美学をめぐる議論で、批評家クレア・ビショップ(1971年生まれ)が2004年に「交流の質」を問うたことも、この問題と比較できます。ビショップは、どのような関係が成立したかを具体的に批評する必要を説きました。ランシエールの『解放された観客』は、参加と鑑賞を単純に上下へ並べる判断に別の問いを投げかけます。二人は同じ著作で共同の結論を出したわけではなく、鑑賞者と政治を考えるそれぞれの立場を持っています。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年)/クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」(2004年)DOI)

政治的な芸術は人の意見を変えられるのか

作品から知識へ、知識から行動への距離

戦争の写真を展示すれば観客は戦争に反対し、格差の統計を見せれば社会制度の改革を支持するようになるのでしょうか。情報を得ること、感情を抱くこと、行動を起こすことは関係し合いながら、それぞれ違う経験です。ランシエールは2008年の『解放された観客』に収めた議論で、作品と政治的行動を一直線の効果として結びつける考え方を検討します。
政治的な作品には、問題を知らせる力も、見慣れたものを異なる角度から見るきっかけを作る力もあります。その効果は観客の生活や他の情報、社会運動の有無によって変わります。ランシエールが否定するのは、作家が意図した感情がそのまま観客へ移り、望んだ行動に必ずつながるという単純な模型です。政治的な効力の条件は作品ごとに検討する必要があります。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年)/学術論文集Cairn|ランシエール「政治的芸術のパラドックス」(2008年))

距離があるから考える余地が生まれる

作品が観客に結論を告げず、見慣れた現実との間にずれを作るとき、鑑賞者は自分で関係を探し始めます。誰が作ったのか、なぜこの形になったのか、何を思い出すのかという問いが生まれます。ランシエールは、芸術と生活の間にある距離を単なる隔たりと見るのではなく、経験を組み替える可能性として考えました。
この観点からは、難しい作品をすべて平易な説明へ置き換えることが、観客の能力を尊重する唯一の方法にはなりません。必要な背景を提供しながら、作品を読む余地を残すこともできます。鑑賞者が実際に何を理解したかは、作品の主題だけで予想せず、その場の受け取り方を調べることで具体的になります。(参照:ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年))

美術館は政治的な作品をどのように扱うのか

壁の解説と作品を見る時間

美術館の解説板には、作者、制作年、材料、歴史的な出来事などを伝える重要な役割があります。例えば《オーグリーヴの戦い》では、1984年の労働争議と2001年の再演を区別して初めて、作品の歴史的な意味を理解できます。資料を示すことと、観客が考える余地を残すことは同時に可能です。
ランシエールが問いかけるのは、解説する側だけが正しい意味を持ち、見る人にはその結論を受け取る役割しかないという関係です。歴史的な情報を学ぶことは理解を深めます。その情報からどんな問いを進めるかという知的な働きにも価値があります。展示の教育が持つ意味を、能力の平等という観点から考えることができます。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年)/ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》20年後の批評的回顧)

美術館の外へ出ることの成果と課題

《アルビネ仮設美術館》のように所蔵品を地域へ運ぶ試みは、場所の距離を変え、作品を扱う人の範囲を広げました。《バタイユ・モニュメント》のように住宅地で新しい会場を組み立てれば、中心会場から離れた土地の人々との関係が生まれます。いずれも作品を見る条件を実際に変更した事例です。
それぞれの事業は、企画者、所蔵機関、地域住民、支援団体などの協力で成り立ちます。誰が継続的に決定できたか、活動の終了後に何が残ったかは、別途調べる必要があります。ランシエールの理論は、芸術施設の外へ出た事実を政治的成功と同一視するより、その場所で能力や役割の区分がどう働いたかを考える基準を与えます。(参照:ポンピドゥー・センター|《アルビネ仮設美術館》(2004年)の運営記録/ドクメンタ公式資料|2002年のヒルシュホルン《バタイユ・モニュメント》)

ランシエールの議論にはどんな批判があるのか

ピーター・ホールワードが2006年に問うた「変化の持続」

政治哲学を研究するピーター・ホールワードは、2006年に『New Left Review』で「平等を上演する」を発表し、ランシエールの理論を詳しく検討しました。彼は、人々が自分に割り当てられた役割を越えて政治的な場を作るという発想を評価しつつ、その場が終わった後、制度を変えるためにどんな組織や決定が必要になるのかと問いかけました。
街頭の行進で多くの人が発言しても、法律や予算を変更するには交渉や継続的な活動が必要になることがあります。ホールワードの批判は、政治的な出来事の力をどこまで長期的な変化へつなげて説明できるかという問題です。ランシエールの平等の哲学を否定する言葉だけで終わらせず、思想が説明する範囲を見極めるための批判として読むことができます。(参照:ピーター・ホールワード|「平等を上演する」『New Left Review』37号(2006年))

ケスターとビショップの芸術批評が加える問い

美術批評家グラント・ケスターは2004年の『Conversation Pieces』で、地域と協力して進める芸術や対話の過程を検討しました。ビショップも2004年の「敵対性と関係性の美学」で、交流が穏やかであることだけでは政治的な質を評価できないと論じます。彼らの仕事には、それぞれ制作の現場や参加者の違いをどう扱うかという問題が含まれます。
ランシエールは観客の知的能力の平等を出発点にし、ケスターは対話を持続する関係に、ビショップは共同性の内部にある対立へと目を向けます。三者を同じ理論の派生形として説明すると、作品を批評する方法の違いが失われます。個々の作品を見る際には、観客が何を読み取ったかと、誰がどんな条件で参加したかの双方を調べることができます。(参照:カリフォルニア大学出版局|グラント・ケスター『Conversation Pieces』/クレア・ビショップ|「敵対性と関係性の美学」(2004年)DOI)

美学と政治をつなぐ考え方はその後どう受け継がれたのか

美術史の方法として何が残ったのか

2000年代以降、ランシエールの議論は美術史、映画研究、政治哲学、教育研究などで参照されてきました。2019年に刊行された研究論集『Distributions of the Sensible』は、政治的な平等を論じる際の美学の役割や、芸術の政治性をどのように考えるかを複数の研究者が検討するものです。芸術作品と社会運動を同じものにするのかという疑問も、研究の中で論じられています。
ランシエール自身はインタビューで、芸術と芸術についての言説を完全に分ける見方を批判しています。あるものを作品として認めるには、見る方法や語る方法を含む関係が働くからです。美術史で作品を考えるとき、造形、展示、鑑賞、解説、制度が互いにどう結びつくかを調べる方法につながります。(参照:ノースウェスタン大学出版局|研究論集『Distributions of the Sensible』(2019年)/ランシエール|美学的体制と美術史についての対談)

芸術はいつ政治と関わるのかという問いの答え

ランシエールの説明をたどると、芸術は社会から切り離された独立領域としてだけ存在してきたわけではなく、何を見せ、誰の経験を価値あるものとして扱うかという歴史の中にあります。19世紀の小説で平凡な生活が文章の中心になったことも、2000年代に住宅地へ美術館の作品が運ばれたことも、見えるものの配置が変わる具体的な出来事です。
その変化が政治的な平等へどう結びつくかは、作品だけで完結せず、鑑賞者、参加者、制度の動きによって異なります。作品が命令のように人を動かすという考え方から離れると、芸術に固有の経験の力と、社会を継続して変える活動の働きを、それぞれ具体的に考えられるようになります。(参照:ラ・ファブリック|ランシエール『感性的なものの分配』2000年版/ジャック・ランシエール|「美学的革命とその帰結」『New Left Review』14号(2002年)/ラ・ファブリック|ランシエール『解放された観客』(2008年))

略年表|芸術と政治をめぐる思想の歩み

  • 紀元前4世紀|プラトン『国家』、アリストテレス『詩学』が模倣と芸術のあり方を論じる
  • 1790年|カント『判断力批判』刊行
  • 1795年|シラー『人間の美的教育についての書簡』刊行
  • 1857年|フローベール『ボヴァリー夫人』刊行
  • 1897年|マラルメ『骰子一擲』を発表
  • 1965年|ランシエールがアルチュセールらとの共同著作『資本論を読む』に寄稿
  • 1968年5月|フランス各地で学生・労働者による抗議・ストライキが拡大
  • 1974年|ランシエール『アルチュセールの教訓』刊行
  • 1981年|ランシエール『プロレタリアたちの夜』刊行
  • 1984年6月|イギリスのオーグリーヴで炭鉱労働者と警察が衝突
  • 1987年|ランシエール『無知な教師』刊行
  • 1995年|ランシエール『不和』刊行
  • 1999年11–12月|シアトルでWTO会議への大規模な抗議が行われる
  • 2000年|ランシエール『感性的なものの分配』フランス語原著刊行
  • 2001年6月|デラーが《オーグリーヴの戦い》を再演
  • 2002年3–4月|ランシエール「美学的革命とその帰結」が『New Left Review』に掲載
  • 2002年4月11日|アリスらがリマ郊外で《信念が山を動かすとき》を実施
  • 2002年6–9月|第11回ドクメンタでヒルシュホルンが《バタイユ・モニュメント》を制作
  • 2003年|ランシエール『イメージの運命』刊行
  • 2004年|ランシエール『The Politics of Aesthetics』英語版刊行
  • 2004年4–6月|ヒルシュホルン《アルビネ仮設美術館》がパリ郊外で開設
  • 2004年|ケスター『Conversation Pieces』、ビショップ「敵対性と関係性の美学」発表
  • 2006年|ホールワードがランシエールへの批判論文「平等を上演する」を発表
  • 2008年10月|ランシエール『解放された観客』フランス語版刊行
  • 2009年|『The Emancipated Spectator』英訳初版刊行
  • 2019年|研究論集『Distributions of the Sensible』刊行

まとめ|芸術は社会をどのように見せ直すのか

ランシエールは2000年の『感性的なものの分配』で、芸術を社会から切り離された趣味の領域としてだけ考える見方を改め、誰の声が発言として聞かれ、何が見るに値するものとされるかという問題から美学と政治を結びつけました。これは、政治的な標語を描けばその作品が政治的になるという単純な説明とは異なります。19世紀の小説が無名の人々の日常へ視線を向けたことも、作品を見るための時間が生まれたことも、共有された感覚のあり方が変わる歴史として読むことができます。

2001年のデラー《オーグリーヴの戦い》は元炭鉱労働者らが自分たちの記憶を再演する場となり、2002年のアリス《信念が山を動かすとき》は数百人の共同作業が大きな労力と小さな結果のずれを見せました。ヒルシュホルンの《バタイユ・モニュメント》と《アルビネ仮設美術館》は、展覧会場の外で制作・鑑賞・運営する人々の関係を作りました。これらの作家の意図はそれぞれ異なり、ランシエールの概念によって制作が直接導かれたとする根拠は示されていません。作品の形と歴史を確認した上で比較すると、誰が参加し、誰に能力が認められるかという問題が具体的に見えてきます。

2008年の『解放された観客』では、鑑賞する人も見比べ、推測し、解釈する知的な行為を行っていると論じられました。観客が必ず同じ結論に達するという前提を離れることで、芸術が社会へ与える影響をより具体的に考えられます。政治的な変化を持続させるための制度や組織をどのように説明するかという批判も残りました。ランシエールの美学が問いかけるのは、芸術にどんな正解を書き込むかに加え、作品と出会う人々がどのような世界を見ることを可能にされるかという問題です。

参考資料・出典