Pictures Generation
ピクチャーズ・ジェネレーションのアーティスト
ピクチャーズ・ジェネレーションは1970年代末から1980年代のアメリカで、広告、映画、テレビ、雑誌など既存イメージを引用し、表象の仕組みを検討した作家たちを指します。
Artists
5 ARTISTSピクチャーズ・ジェネレーションについて
OVERVIEWピクチャーズ・ジェネレーション(Pictures Generation)は、1970年代後半から1980年代のアメリカで、広告、映画、テレビ、雑誌、商品写真、美術作品など、すでに社会に流通しているイメージを引用・再撮影・再演・編集し、「画像がどのように意味や欲望、アイデンティティを作るのか」を検討した作家たちを指す美術史上の呼称です。シンディ・シャーマン、リチャード・プリンス、シェリー・レヴィーン、ロバート・ロンゴ、ルイーズ・ローラー、バーバラ・クルーガー、ローリー・シモンズ、ジャック・ゴールドスタインらが代表的に挙げられます。
この名称の重要な起点は、批評家ダグラス・クリンプが企画し、1977年にニューヨークのArtists Spaceで開催された展覧会「Pictures」です。この展覧会に参加したのはトロイ・ブラウンタック、ジャック・ゴールドスタイン、シェリー・レヴィーン、ロバート・ロンゴ、フィリップ・スミスの5人でした。現在「ピクチャーズ・ジェネレーション」と呼ばれる作家全員がこの展覧会に参加していたわけではありません。
彼らに共通していたのは、現実を直接表現するより、すでに写真、映画、広告、テレビなどによって媒介された「イメージ」を扱ったことです。新しい像をゼロから作るのではなく、既存の像を選び、切り取り、反復し、再演し、文脈を変える。その方法は、コンセプチュアル・アート以後の作者性への疑問と、急速に拡大するマスメディア社会の両方から生まれました。
1977年「Pictures」展
1977年9月から10月にかけて、ニューヨークのArtists Spaceで「Pictures」展が開催されました。企画したのは当時若い批評家だったダグラス・クリンプです。
出品作家は、トロイ・ブラウンタック、ジャック・ゴールドスタイン、シェリー・レヴィーン、ロバート・ロンゴ、フィリップ・スミスの5人でした。写真だけの展覧会ではなく、プリント、映画、レコード、彫刻的レリーフ、ドローイングなど複数の媒体が含まれていました。
重要だったのは媒体の共通性ではなく、彼らが「すでに存在するイメージ」に対して距離を取り、そのイメージがどのように意味を作るかを扱っていたことです。
なぜ「Pictures」なのか
クリンプが用いた「Pictures」という言葉は、写真だけを意味しません。映画、広告、テレビ、雑誌、美術作品、記憶の中の場面など、文化の中で流通するあらゆる像を含む広い概念でした。
一枚の写真を「現実のコピー」として見るのではなく、それ自体が別のイメージを参照し、さらに別のイメージへつながるものとして考えます。
ここでは、像の背後に「本物の現実」が一つだけあるという考えが弱まり、私たちはすでに画像のネットワークの中で現実を理解しているという感覚が前景化します。
ダグラス・クリンプ — 表象そのものを問題にする
クリンプは1977年の展覧会カタログや、その後の1979年の論考「Pictures」で、若い作家たちの実践を理論化しました。
彼が注目したのは、作品が何かを「表現している」ことより、「表象という仕組みそのもの」が作品の主題になっていることでした。
画像は透明な窓ではありません。映画の構図、広告写真の演出、テレビの編集、雑誌のレイアウトなど、見る方法はすでに文化的なコードによって組織されています。ピクチャーズ・ジェネレーションは、そのコードを作品の中で露出させました。
コンセプチュアル・アートの「後」に戻ってきたイメージ
1960年代末から1970年代初頭のコンセプチュアル・アートでは、言語、指示、資料、アイデアが重視され、視覚的なイメージそのものへの関心が一度弱まりました。
ピクチャーズ・ジェネレーションは、その批判的な方法を捨てずに、再び写真、映画、広告、物語的なイメージを扱いました。
つまり「魅力的な絵をもう一度作ろう」としたのではありません。コンセプチュアル・アートが作品の制度や作者性を疑った後で、「では画像はどのように私たちを支配しているのか」と問い直した世代だったのです。
ジョン・バルデッサリとCalArts
ピクチャーズ・ジェネレーションの形成には、ロサンゼルスのCalifornia Institute of the Arts(CalArts)も重要でした。ジョン・バルデッサリの教育のもとで、写真、映画、文章、既存イメージを自由に組み合わせる実践が育ちました。
バルデッサリ自身も、映画スチルや報道写真などの既存画像を切り取り、並べ替え、文字と組み合わせる作品を制作していました。
一つの媒体を専門的に極めるより、イメージがどのように編集され、意味が変化するかを考える教育環境が、この世代の重要な背景となりました。
シンディ・シャーマン — 映画のようで映画ではない
シンディ・シャーマンの《Untitled Film Stills》は、ピクチャーズ・ジェネレーションを代表する作品群です。シャーマン自身がさまざまな女性像へ扮し、1950〜60年代の映画の一場面のような白黒写真を制作しました。
しかし、どの写真にも元になった特定の映画は存在しません。鑑賞者は「見たことがある」と感じるのに、作品の出典を特定できません。
それは映画や雑誌によって繰り返されてきた女性像の類型が、私たちの記憶の中にすでに蓄積されているからです。
《Untitled Film Stills》 — 女性像は誰が作るのか
シャーマンは、秘書、主婦、都会へ来た若い女性、旅の途中の女性など、映画で見覚えのある人物類型を演じました。
重要なのは、「本当のシンディ・シャーマン」を自画像として見せているわけではないことです。彼女はカメラの前で役割を演じることで、女性らしさそのものが演技や視覚コードによって作られていることを示しました。
この点で彼女の作品はフェミニスト・アートと深く関係しますが、単純なメッセージではなく、イメージを見る鑑賞者自身がステレオタイプを認識する仕組みを作品化しています。
「自画像」なのに本人を表さない
シャーマン自身が写真に写っているため、作品は自画像のように見えます。しかし、そこに写る人物は毎回異なる架空のキャラクターです。
通常、自画像は作者の内面や人格を示すものと考えられます。シャーマンは逆に、顔や衣服、化粧、ポーズ、撮影方法を変えることで、自己像がいかに簡単に作り替えられるかを示しました。
「本当の自分」を写真に固定するのではなく、アイデンティティ自体が表象によって作られている可能性を示します。
リチャード・プリンス — 広告をもう一度撮影する
リチャード・プリンスは、雑誌広告など既存の写真を再撮影する「rephotography」によって知られています。
広告から写真部分を切り離し、再撮影して大きく提示すると、元の商品の説明や雑誌の文脈が失われます。その結果、広告写真が持っていた欲望、階級、ジェンダー、ライフスタイルの演出が奇妙なものとして見えてきます。
作者自身が被写体を撮影していないにもかかわらず、その再撮影された写真がプリンスの作品として提示されることで、作者性と所有の問題も前景化しました。
カウボーイは誰のイメージか
プリンスは後に、タバコ広告などに登場するカウボーイ像を再撮影した作品を制作しました。
カウボーイは自由、男性性、荒野、アメリカらしさを象徴する存在として広告に利用されていました。商品名を取り除いて写真だけを見ると、それが自然な男性像ではなく、企業によって作られた神話であることが見えてきます。
プリンスは新しいカウボーイ像を作るのではなく、すでに大量流通している像を再提示することで、その欲望の構造を露出させました。
シェリー・レヴィーン — 「他人の写真」を自分の作品にする
シェリー・レヴィーンは、ウォーカー・エヴァンズやエドワード・ウェストンなど、写真史上著名な作家の作品を再撮影し、自分の作品として提示しました。
この行為は「盗用」と「引用」の境界を意図的に曖昧にします。オリジナルの作品をほとんど変えないため、鑑賞者は「では、レヴィーンの作品はどこにあるのか」と問わざるを得ません。
作品の本体は新しい画像ではなく、既存の写真を再び作者名付きで提示するという行為にあります。
《After Walker Evans》 — オリジナルとは何か
《After Walker Evans》では、レヴィーンがウォーカー・エヴァンズの写真を印刷物から再撮影しました。
エヴァンズの写真自体も、現実の人物や場所を写真として複製したものです。その写真をさらにレヴィーンが複製すると、「オリジナル」はどこにあるのかという問題が生まれます。
写真はもともと複製可能な媒体です。それにもかかわらず、美術市場では特定のプリントや作者名に希少価値が付けられます。レヴィーンはその矛盾を作品化しました。
作者の「天才性」への批判
レヴィーンの作品には、近代美術が重視してきた「独創的な天才作家」というモデルへの批判があります。
どんな作品も過去のイメージや文化的な規則から完全に独立して生まれるわけではありません。作家はすでに存在する形式、構図、物語、言語を組み替えながら制作します。
その事実を極端な形で示すため、レヴィーンは「新しいものを作らない」ことそのものを作品にしました。この方法はアプロプリエーション・アートの中心的な実践となります。
ロバート・ロンゴ — 映画的な身体
ロバート・ロンゴは、写真、映像、ドローイング、彫刻などを用い、映画やマスメディアを思わせる劇的なイメージを制作しました。
《Men in the Cities》シリーズでは、スーツ姿の男女が身体を激しく曲げる瞬間を巨大な木炭・黒鉛ドローイングとして描きました。
人物は踊っているようにも、撃たれたようにも見え、物語の前後が分かりません。映画の一コマのような強いイメージだけが切り離されて提示されます。
ジャック・ゴールドスタイン — 映画の「事件」だけを残す
ジャック・ゴールドスタインは短編映画、レコード、パフォーマンス、絵画など多様な媒体を用いました。
初期の映画では、燃える物体、飛び込む人、光るものなど、映画の中の「出来事」だけが短く提示されます。物語や人物の心理はほとんどありません。
映画を物語を語る媒体から、強烈な視覚効果を生み出す装置へ還元することで、スペクタクルそのものの構造を作品化しました。
ルイーズ・ローラー — 作品ではなく「作品が置かれる場所」を撮る
ルイーズ・ローラーは、美術作品そのものより、それが美術館、ギャラリー、オークション会場、コレクター宅などでどのように展示されているかを撮影しました。
有名作品がソファの横に掛かっていたり、展示準備中に床へ置かれていたりする状況を写すことで、美術作品の価値が展示環境や所有者と切り離せないことを示します。
この点で彼女は、ピクチャーズ・ジェネレーションと制度批評をつなぐ重要な作家です。
作品の意味は置き場所によって変わる
美術館では崇高に見える作品も、富裕層の住宅に置かれると財産や装飾としての側面が見えてきます。
ローラーの写真は作品を批判的に壊すのではなく、「作品がどのような制度の中で見られているか」を静かに見せます。
作者、作品、所有者、展示場所、撮影者という複数の関係を一枚の写真へ重ねることで、美術の意味が固定されていないことを示しました。
バーバラ・クルーガー — 広告の言語を逆用する
バーバラ・クルーガーは、既存の白黒写真に短く強い文章を重ねる作品で知られています。雑誌広告や宣伝ポスターのような視覚言語を使いながら、その形式を消費、権力、ジェンダーへの批評へ転換しました。
「I」「YOU」「WE」などの代名詞を使うことで、鑑賞者は作品から直接呼びかけられます。
広告が商品を欲しくさせるために使う視覚的な力を、そのまま広告文化を批判するために利用した点が重要です。
イメージと文字はどちらが強いのか
クルーガーの作品では、写真だけを見れば一つの意味に見えても、文字が加わることで解釈が反転します。
画像は自然に意味を持っているのではなく、見出し、キャプション、広告文、ニュース文などの言語によって方向づけられていることが分かります。
この構造は、雑誌、広告、SNSなど現在のメディア環境にも直接つながる問題です。
ローリー・シモンズ — 人形と家庭像
ローリー・シモンズは、人形、ミニチュア家具、ドールハウスなどを撮影し、家庭や女性役割のイメージを扱いました。
写真に写る台所や居間は一見すると親しみやすい家庭空間ですが、そこにいるのは人間ではなく人形です。
家庭生活が「自然なもの」ではなく、広告、玩具、テレビなどを通して幼少期から学習される役割であることを、人工的なセットによって示しました。
ダラ・バーンバウム — テレビをテレビで批評する
ダラ・バーンバウムは、テレビ番組やニュース映像を録画し、反復・再編集することで、放送メディアが作るジェンダーや権力のイメージを分析しました。
《Technology/Transformation: Wonder Woman》では、テレビドラマの変身場面を反復し、娯楽番組が女性身体をどのようなスペクタクルとして作っているかを露出させます。
この方法はビデオ・アート、フェミニズム、アプロプリエーションの重要な交差点です。
「現実」より先にイメージがある
ピクチャーズ・ジェネレーションにとって、私たちは現実を完全に直接経験しているわけではありません。恋愛、成功、家族、女性らしさ、男性らしさ、都市生活、アメリカらしさなど、多くの概念を映画や広告の画像から学びます。
そのため作品は「現実を正確に描く」ことより、「現実だと思っているものがどの画像によって作られたのか」を調べる方向へ進みました。
イメージは現実の二次的なコピーではなく、現実を理解する枠組みそのものになります。
アプロプリエーション・アートとの関係
ピクチャーズ・ジェネレーションの多くの作家は、アプロプリエーション・アートの中心人物でもあります。
プリンスの再撮影、レヴィーンの写真の再撮影、クルーガーの既存画像利用など、新しいイメージを作るより既存イメージを選び、文脈を変えることが作品になります。
「ピクチャーズ・ジェネレーション」は特定の世代と歴史的文脈を示す呼称であり、「アプロプリエーション」はより広い制作方法を指す言葉と考えると整理しやすくなります。
ポストモダニズムとの関係
ピクチャーズ・ジェネレーションは、1980年代美術のポストモダニズムを代表する動向として位置づけられます。
唯一のオリジナル、純粋なスタイル、作者の内面、芸術の自律性といった近代美術の価値観を疑い、引用、反復、複製、パロディ、既存イメージの再利用を積極的に用いました。
作品は「何を新しく発明したか」ではなく、「すでにあるものをどう読み替えたか」によって成立します。
フェミニスト・アートとの接続
シャーマン、クルーガー、シモンズ、バーンバウムらの作品は、フェミニスト・アートと強く接続します。
ただし1970年代初期のフェミニスト・アートが女性自身の身体経験を直接表現することが多かったのに対し、彼女たちは「女性というイメージがメディアによってどう作られているか」を分析する方向へ進みました。
身体そのものより、身体を表象する写真、映画、テレビ、広告のコードを批判的に扱う点に世代的な変化が見られます。
制度批評との接続
ルイーズ・ローラーをはじめ、ピクチャーズ・ジェネレーションの作家は、イメージがどこで展示され、誰が所有し、どのように価値づけられるかにも関心を向けました。
この方向は制度批評と重なります。画像の意味は、その内容だけでなく、美術館、雑誌、広告、コレクター宅など、置かれる制度によって変化するからです。
「画像を見ること」と「画像を成立させる制度を見ること」が次第に切り離せなくなりました。
著作権と作者性の問題
既存写真をそのまま、あるいはほとんど変更せず利用する方法は、著作権をめぐる問題を必然的に生みました。
芸術的には「作者とは誰か」「複製されたイメージを誰が所有できるのか」という批評的な問いになりますが、法的には原作者の権利との緊張が生じます。
この問題は1980年代で終わらず、デジタル画像、検索エンジン、SNS、生成AIなど、画像が容易に複製・再利用される現在まで続いています。
「盗用」と「引用」はどこで分かれるのか
アプロプリエーション作品を見ると、「他人の作品を使っただけではないか」という疑問が生じます。その疑問こそが作品の中心にある場合があります。
美術史では引用や模倣は長く行われてきました。しかし写真のようにほぼ同じ像を複製できる媒体では、作者と所有の問題がより直接的になります。
ピクチャーズ・ジェネレーションは、その不安定な境界を避けず、むしろ作品として可視化しました。
画像が多すぎる社会への反応
1970〜80年代には、テレビ、広告、映画、雑誌、商品パッケージなど、大量の画像が日常生活を埋め尽くしていました。
作家が新しい像を一枚追加しても、それはすぐに巨大なイメージの流れへ飲み込まれます。そこで、既存の画像を再利用し、その流通構造自体を見せる方法が重要になりました。
これは、現在のSNS、画像検索、ミーム、リポスト、スクリーンショットの文化を考える上でも非常に現代的な問題です。
「見ること」は受動的ではない
広告や映画を見るとき、私たちは画像をただ受け取っているだけではありません。過去に見た映画、商品、ジェンダー規範、社会的な価値観を使いながら像を解釈します。
シャーマンの写真を「映画の一場面」に見せているのは、作品だけではなく鑑賞者自身の記憶です。
ピクチャーズ・ジェネレーションは、見る人が持つ文化的記憶まで作品の構造へ組み込みました。
画像を作ることから、画像を読むことへ
ピクチャーズ・ジェネレーションの歴史的な重要性は、広告や映画を美術へ持ち込んだことだけではありません。美術家の役割を「新しい画像を作る人」から、「すでに存在する画像を選び、読み替え、その仕組みを可視化する人」へ広げたことにあります。
シャーマンは映画的な女性像を自ら演じ、プリンスは広告を再撮影し、レヴィーンは写真史の名作を複製し、ロンゴとゴールドスタインは映画的な断片を抽出し、ローラーは作品の置かれた制度を撮り、クルーガーとバーンバウムは広告やテレビの言語を逆用しました。
コンセプチュアル・アートの批評性をイメージ文化へ持ち込み、フェミニスト・アート、制度批評と交差しながら、ピクチャーズ・ジェネレーションはアプロプリエーション・アートとポストモダニズムの中心的な基盤を形成しました。現実よりも先に画像があり、その画像を通して世界を理解する時代を、美術の側から最も鋭く捉えた世代だったのです。