Nabis
ナビ派のアーティスト
ナビ派は1880年代末のフランスで結成された若い画家たちのグループで、平面的な色面、装飾性、日常生活や室内を主題に、絵画とデザインの境界を横断しました。
Artists
1 ARTISTSナビ派について
OVERVIEWナビ派は、1888年から1900年頃にかけてパリを中心に活動した若い画家たちのグループです。ポール・セリュジエ、モーリス・ドニ、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ポール・ランソン、ケル=グザヴィエ・ルーセル、フェリックス・ヴァロットンらが主要なメンバーとして挙げられます。「ナビ(Nabi)」はヘブライ語で「預言者」を意味し、彼らは絵画を自然の再現から解放し、新しい視覚表現へ導こうとする自分たちの役割をこの名称に重ねました。
Metropolitan Museumによれば、グループ形成の重要なきっかけとなったのは、1888年にセリュジエがブルターニュのポン=タヴェンでポール・ゴーギャンから助言を受けて制作した小さな風景画《タリスマン》でした。そこでは、木や川を自然の色どおりに描くのではなく、黄色、緑、青などの色面へ大胆に置き換えています。セリュジエはこの作品をパリへ持ち帰り、アカデミー・ジュリアンの仲間たちに示しました。この小さな板絵が、ナビ派にとって絵画を別の方法で考える象徴となります。
ナビ派はポスト印象派の流れに位置しながら、光の一瞬を観察することより、色と形を画面上でどのように組織するかを重視しました。さらに文学や宗教と結びついた象徴主義、日本の浮世絵、ポスター、演劇、室内装飾などから刺激を受け、絵画とデザイン、純粋美術と応用美術の境界そのものを問い直していきます。
《タリスマン》から始まった色と形の解放
1888年の夏、セリュジエはポン=タヴェンでゴーギャンと出会い、自然をそのまま模写するのではなく、自分が感じた色をより自由に使う方法を学びました。Musée d’Orsayは、《タリスマン》がゴーギャンの助言のもとで制作され、のちにナビ派の形成を象徴する作品となったことを紹介しています。
この作品では、川岸や樹木、空といった対象が、奥行きを持つ自然空間として丁寧に再現されるのではなく、互いに隣接する色面として配置されています。黄色い木立、鮮やかな緑、青い水面は、現実の色を再現するためではなく、画面全体の関係を作るために選ばれています。
ここで重要なのは、「正しい色」を捨てたことだけではありません。ルネサンス以来の絵画が、画面を奥行きのある世界を覗く窓として扱ってきたのに対して、ナビ派はキャンバスや板がまず平らな面であることを強く意識しました。Metropolitan Museumは、彼らが線遠近法や立体的なモデリングによる奥行きの錯覚を避け、平面的な形と色の関係を重視したと説明しています。
モーリス・ドニ — 絵画はまず平面である
モーリス・ドニは、ナビ派の考えを言葉として整理した重要な存在です。1890年、まだ20歳だったドニは、絵画は軍馬や裸婦や物語を表す以前に、一定の秩序で色が配置された平らな面であるという趣旨の文章を書きました。この考えは、ナビ派だけでなく、その後の近代絵画を説明するうえでも繰り返し参照されることになります。
これは「何も描かなくてよい」という宣言ではありません。ドニ自身は宗教、家族、自然、神話など多くの具体的な主題を描きました。重要なのは、描かれた対象より先に、線、色面、リズム、画面の形そのものが絵画を成立させていると考えたことです。
Musée d’Orsayが紹介する1890年代のドニ作品では、鮮やかな色面、単純化された人物、遠近法の放棄、日本美術やクロワゾニスムの影響が見られます。ナビ派は完全な抽象絵画へ進んだわけではありませんが、再現される対象と、画面そのものの構造を切り離して考える方向を強く押し進めました。
ボナール — 日常生活を色面へ変える
ピエール・ボナールは、室内、家族、食卓、街路、女性、動物など身近な生活を主題としながら、それらを平面的な色彩と装飾的な構図へ変えていきました。ナビ派の仲間からは、日本美術への強い関心から「日本かぶれのナビ」といった意味の呼び名を付けられるほど、浮世絵に影響を受けていました。
画面の端で人物や物が切れる構図、高い視点、大きな余白、輪郭と色面の組み合わせなどには、19世紀末のフランスで広まった浮世絵受容との関係を見ることができます。ただし、ボナールは日本版画の形式を単純にコピーしたのではなく、自分の生活環境を描くための構図法として組み替えました。
またボナールは絵画だけでなく、ポスター、版画、挿絵、装飾パネルにも取り組みました。National Galleryがナビ派について説明するように、彼らはイーゼル絵画だけを高い芸術と考えず、舞台装置、陶器、ステンドグラス、本の挿絵など応用芸術にも積極的に関わりました。
ヴュイヤール — 室内と人物が溶け合う
エドゥアール・ヴュイヤールは、家族や友人が過ごす室内を繰り返し描きました。母親が営んでいた縫製業の環境とも近く、壁紙、衣服、カーテン、家具、布地の模様が画面の中で複雑に重なります。人物は背景から明確に分離されず、室内の模様へ溶け込むように見えることがあります。
National Galleryは、1890年代のヴュイヤールがナビ派の最も進歩的な画家の一人であり、日常的な室内を扱いながら、パターンと歪みによって見た目以上の心理的意味を作り出したと説明しています。つまり、家庭の内部は単なる生活記録ではなく、人間関係や距離感を視覚化する場所になりました。
ヴュイヤールの画面では、遠近法による深い空間より、壁紙、衣服、床、家具が互いに接する平面上のリズムが強く感じられます。人物を描きながら、人物と背景の区別そのものが揺らぐ点に、ナビ派の平面性への関心がよく表れています。
絵画を壁へ戻す — 装飾という考え方
ナビ派にとって「装飾」は、絵画より低いものを意味しませんでした。むしろ絵画を額縁の中に閉じ込められた独立作品から解放し、建築や生活空間と再び結びつける方法として重要でした。
Metropolitan Museumは、ボナール、ヴュイヤール、ドニ、ルーセルらが、特定の室内のために複数枚の大型装飾画を制作したことを紹介しています。ヴュイヤールの《アルバム》連作のように、作品は単体で完結するというより、壁、家具、居住者と共存することを前提として構想されました。
この考え方では、額縁の中に遠近法的な別世界を作ることより、現実の壁面そのものをどう変化させるかが重要になります。平面的な色、反復する模様、大きな人物のシルエットは、室内空間と絵画をつなぐための方法でもありました。
Musée d’Orsayは、ナビ派を近代的な装飾芸術の先駆者として位置づけ、彼らが絵画、屏風、壁面装飾、ステンドグラス、タペストリーなど技法間の境界を横断したことを強調しています。
浮世絵とジャポニスム
ナビ派の造形を考えるうえで、日本の版画は重要な要素です。Musée d’Orsayによれば、彼らは1890年にパリのエコール・デ・ボザールで開催された日本版画展などを通じて浮世絵に強い関心を持ち、その平面的な画像から刺激を受けました。
浮世絵では、西洋の一点透視図法とは異なる空間構成、画面端で対象を切る構図、輪郭線と色面、大胆な余白が用いられていました。ナビ派はそれらをフランスの絵画、ポスター、版画、室内装飾の中へ再構成します。
ただし、日本美術からの影響は単なる形式の借用として見るべきではありません。19世紀末のジャポニスムでは、日本の文化はしばしば西洋側の期待に合わせて選択的に理解されました。ナビ派にとっての「日本」も、実際の日本美術全体ではなく、自分たちが西洋絵画の規範を変えるために見いだした特定の視覚的可能性でした。
ラ・ルヴュ・ブランシュと前衛文化
ナビ派は、美術館やサロンだけで活動していたわけではありません。1890年代のパリでは、文学、演劇、音楽、政治、美術が雑誌や劇場を通じて密接に交流していました。とくに前衛雑誌『ラ・ルヴュ・ブランシュ』と、その発行者であるナタンソン兄弟の周辺は、ボナールやヴュイヤールにとって重要な文化的ネットワークになりました。
ヴュイヤールはタデ・ナタンソンと妻ミシアのために装飾画を制作し、ボナールも同誌のポスターや版画に関わりました。画家は絵画を制作するだけでなく、雑誌の表紙、ポスター、演劇プログラムなど、都市の印刷文化に直接参加していきます。
この環境では「高級美術」と「グラフィックデザイン」を明確に分ける必要がありませんでした。街に貼られるポスターも、個人邸宅の壁画も、雑誌の挿絵も、平面上で色と形を構成する同じ問題として扱うことができました。
ヴァロットン — 木版画と都市の心理
スイス出身のフェリックス・ヴァロットンは、1890年代にナビ派へ加わり、絵画と木版画の両方で独自の表現を展開しました。とくに白と黒を大胆に分割した木版画では、街路、群衆、警察、家庭、男女関係など近代都市の日常を鋭く切り取っています。
細かな陰影で立体感を作るのではなく、大きな黒い面と白い形を組み合わせることで、人物や空間を簡潔に構成しました。この方法は、ナビ派が共有していた平面性への関心と印刷メディアへの関心を非常に明確に示します。
また、ヴァロットンの室内場面では、男女の関係や家庭生活がしばしば不穏な心理劇として描かれます。同じ「日常の室内」でも、ヴュイヤールの親密な模様の世界とは異なる緊張があり、ナビ派が一つの統一された様式ではなかったことがわかります。
象徴主義との関係
ナビ派は象徴主義と強く結びついていました。National Galleryは、セリュジエがゴーギャンから受けた影響を通じて、対象を文字どおりに説明するのではなく、色や形によって精神的・感情的な意味を示す象徴主義的な考えをナビ派へ伝えたと説明しています。
ドニやセリュジエは宗教や精神性を重視し、ランソンは神話的・秘教的なイメージを扱いました。一方、ボナールやヴュイヤールは家庭や街路といった日常的な主題を描きました。そのため「ナビ派=象徴主義絵画」と完全に重ねることはできません。
共通していたのは、見えている世界をそのまま再現することへの不満です。自然の色を変え、空間を平らにし、模様を強調することで、画面は単なる外界のコピーではなく、作家の感覚や観念を構成する場所になりました。
1900年前後・グループの終わりとその後
ナビ派には厳密な組織や統一された宣言があったわけではなく、1890年代を通じてゆるやかに結びついていました。Musée d’Orsayは、彼らが1888年から1900年頃まで比較的一貫したグループとして活動したとしています。世紀転換期になると各作家の方向性は次第に分かれていきました。
ボナールとヴュイヤールは、初期の極端な平面性から少しずつ離れながら、室内、人物、光、色を長く探究しました。ドニは宗教画と壁画へ進み、古典主義への関心を強めます。セリュジエも理論と教育を含む独自の道を歩みました。
しかし、ナビ派が提起した問題は消えませんでした。絵画を奥行きのある窓ではなく平面として扱うこと、色を対象の説明から解放すること、美術と装飾の階層を疑うこと、ポスターや本、舞台、室内を同じ造形活動として扱うこと。これらは20世紀美術とデザインの重要な前提になります。
絵画とデザインの境界をなくす
ナビ派の歴史的な重要性は、一つの特徴的な「ナビ派風」の絵を作ったことだけにありません。彼らは、絵画とは何か、作品はどこに存在するのか、芸術と生活をなぜ分ける必要があるのかという問題を同時に考えました。
ポスト印象派から受け継いだ自由な色彩、象徴主義の内面的な意味、浮世絵の平面性を組み合わせながら、作品をキャンバスだけでなく壁、屏風、ポスター、本、舞台へ展開しました。この横断性は、同時代のアール・ヌーヴォーとも接続します。
ナビ派は短期間で解体した小さなグループでしたが、「絵画は現実をそっくり再現するための窓ではない」という認識と、芸術を生活空間へ広げる姿勢を明確にしました。そのため彼らは、19世紀末の象徴主義的な絵画と、20世紀に進む平面性・装飾・デザインの実験をつなぐ重要な位置を占めています。