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Art Informel

アンフォルメルのアーティスト

時代:
1940s–1950s
地域:
フランス/ヨーロッパ

アンフォルメルは第二次世界大戦後のヨーロッパで、幾何学的秩序よりも自発的な筆触、物質性、痕跡を重視した抽象表現の広い潮流です。

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アンフォルメルについて

OVERVIEW

アンフォルメル(Art Informel)は、第二次世界大戦後の1940年代後半から1950年代にかけて、フランスを中心とするヨーロッパで広がった非幾何学的な抽象表現の総称です。特定のメンバーによる一つのグループではなく、厚い絵具や傷、染み、擦れ、即興的な線、身体的な筆触などを重視する複数の傾向をまとめるために使われました。ジャン・フォートリエ、ヴォルス、ジャン・デュビュッフェ、ハンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ジョルジュ・マチュー、ジャン=ポール・リオペルらが関連して語られます。

名称を広めたのはフランスの批評家ミシェル・タピエです。1951年の展覧会「Signifiants de l’Informel」や、1952年の著書『Un art autre(もう一つの芸術)』を通じ、幾何学的な構成や既存の形式に従わない戦後の新しい抽象を「アンフォルメル」という概念で捉えました。「informel」は単に「形がない」という意味ではなく、あらかじめ決められた形式や秩序に従わない制作態度を示しています。

同時代のアメリカでは抽象表現主義が発展しており、身振り、偶然、巨大な画面、物質性など多くの共通点があります。しかし、アンフォルメルを「ヨーロッパ版の抽象表現主義」として扱うだけでは不十分です。戦争と占領を直接経験したヨーロッパの社会状況、画面の傷や物質への執着、批評制度、国際展覧会のネットワークなど、異なる背景から形成された戦後抽象でした。

「アンフォルメル」は一つの様式ではない

アンフォルメルという言葉から、共通した画風を持つ芸術家集団を想像すると実態を捉えにくくなります。ヴォルスの細い線と染み、フォートリエの厚い絵具、スーラージュの黒い帯、マチューの高速な身振りは、見た目としてかなり異なっています。

共通していたのは、幾何学的な秩序や事前に決められた構図より、制作中に生まれる痕跡、偶然、素材の抵抗、身体の動きを重視したことです。完成した形を先に設計してから描くのではなく、絵具を置き、削り、流し、その結果に反応しながら画面を作っていきます。

そのためアンフォルメルは、様式名というより、戦後ヨーロッパに現れた複数の非幾何学的抽象を束ねる批評概念として理解する方が適切です。

第二次世界大戦後のヨーロッパ

アンフォルメルが広がった背景には、第二次世界大戦とナチス占領によって破壊されたヨーロッパ社会があります。都市の破壊、大量死、収容所、占領、亡命といった経験は、戦前の進歩主義や合理的秩序への信頼を大きく揺さぶりました。

もちろん、戦争を経験したから抽象的な絵が必然的に生まれた、と単純化することはできません。しかし、整然とした幾何学や理想社会を示す構成より、傷、痕跡、崩れ、物質そのものを前面に出す表現が切実なものとして受け取られたことは重要です。

戦前のシュルレアリスムが無意識や自動性を探究したことも、戦後の自発的な制作へ影響しました。ただしアンフォルメルでは、夢のイメージより、絵具の物質と制作行為そのものがより強く前面に出ます。

フォートリエ《人質》 — 絵具の物質と暴力の記憶

ジャン・フォートリエは、アンフォルメルの重要な先駆者とされる画家です。1943年から1945年頃に制作した《人質》シリーズでは、人間の頭部や身体を思わせる形が、厚く盛り上げられた絵具と不明瞭な輪郭によって表されています。

作品はナチス占領下のフランスにおける処刑や暴力の経験と結びついています。しかし、具体的な事件を写実的に再現するのではありません。白や灰色、淡い色調の厚い表面に、顔のような形が半ば埋もれています。

ここでは絵具の厚みそのものが、傷ついた身体や記憶の層を連想させます。絵画の表面はイメージを載せるだけの支持体ではなく、出来事の痕跡を受け止める物質になります。

ヴォルス — 線、染み、偶然

ドイツ生まれでパリを中心に活動したヴォルスは、戦後ヨーロッパの抽象表現に大きな影響を与えました。水彩や油彩では、細い線が蜘蛛の巣のように交差し、染みや擦れが画面の中で広がります。

彼の作品には、中央に一つの安定した構図を置くより、描く行為の途中で生まれた痕跡が画面全体に残ります。形は何か具体的な対象を示しそうでいて、完全には固定されません。

この不安定さが、後のアンフォルメルにとって重要でした。完成された形を提示するのではなく、形が生まれ、崩れ、別の形へ変化する途中の状態そのものを作品として成立させたのです。

デュビュッフェ — 「きれいな絵画」を拒否する

ジャン・デュビュッフェは、アンフォルメルと重なる文脈で重要な作家です。砂、石粉、タールなどを絵具へ混ぜ、ざらついた表面を作り、落書きのような人物像や都市風景を描きました。

彼は美術学校や美術館によって洗練された「文化的な美」に強い不信を持ち、子どもの絵、精神科患者の制作、独学者の作品などに関心を向けました。そこから「アール・ブリュット」という概念を提唱します。

デュビュッフェをアンフォルメルの一員として完全に固定することはできませんが、絵画を美しいイメージから解放し、素材、傷、粗さ、無名性を価値として扱った点で、戦後ヨーロッパの新しい美術観を代表しています。

マチエール — 表面そのものが意味を持つ

アンフォルメルでは「マチエール」、つまり絵画の物質的な表面が重要になります。厚く盛られた絵具、砂、石膏、布、焦げ、傷などが、描かれたイメージと同じくらい大きな意味を持ちます。

伝統的な油彩では、絵具は人物や風景を表すための手段でした。しかし戦後のマチエール絵画では、絵具が「何かを描くための材料」である以前に、一つの物質として意識されます。

表面の凹凸は光を受け、見る位置によって変化します。鑑賞者は作品をイメージとして読むだけでなく、実際の物体として見ることになります。この物質への関心は、その後の戦後美術に広く引き継がれました。

タシスム — 染みと身振り

アンフォルメルと近い言葉として「タシスム(Tachisme)」があります。「tache」はフランス語で染みや斑点を意味し、1950年代のヨーロッパで、自由な筆触、絵具の染み、滴りによる抽象を説明するために使われました。

タシスムとアンフォルメルの範囲は完全には一致せず、資料によって使い方も異なります。一般には、アンフォルメルがより広い批評概念であり、その内部に身振り的・染み的な抽象としてタシスムを位置づけることができます。

この曖昧さ自体が、戦後ヨーロッパの抽象を一つの様式へまとめることの難しさを示しています。画家たちは共通の宣言より、それぞれ異なる方法で絵画の秩序を崩していました。

ハンス・アルトゥング — 線を身体の痕跡にする

ハンス・アルトゥングは、長い線や鋭いストロークによる抽象絵画で知られています。画面には引っかくような線、束になった黒い筆触、急速な動きを感じさせる痕跡が現れます。

作品は即興的に見えますが、アルトゥングは小さなドローイングやスケッチを拡大して油彩へ移す方法も用いていました。そのため、「自発的な筆触=完全な無計画」という理解は正確ではありません。

重要なのは、完成した形が対象を再現するのではなく、線そのものが身体的な出来事として見えることです。戦後抽象では、筆触が物の輪郭を描く道具から、独立した主役へ変わりました。

スーラージュ — 黒を光として扱う

ピエール・スーラージュは、黒を中心とした絵画で知られます。1940年代末から、大きな黒い帯や筆触を白や明るい背景へ配置し、形の重さとリズムを探究しました。

彼の黒は、暗闇や否定の象徴としてだけ使われているわけではありません。表面の凹凸や光沢によって、黒い絵具そのものが光を反射し、見る位置や照明によって異なる表情を見せます。

後年、スーラージュはこの方向を「ウトルノワール(黒を越えて)」と呼びます。アンフォルメル期から続く物質性への関心が、絵具の表面と実際の光の関係へ展開した例です。

ジョルジュ・マチュー — 公開制作と速度

ジョルジュ・マチューは、高速で大きな線を描く身振り的な抽象によって国際的に知られました。長いチューブから直接絵具を絞り出すなど、短時間で大画面を制作し、その制作過程を観客の前で公開することもありました。

ここでは完成した絵だけでなく、「描くという行為」が見せる対象になります。高速な筆触は書や文字のようにも見えますが、特定の意味を持つ記号ではありません。

マチューの公開制作は、絵画制作をパフォーマンスに近づけました。同時に、戦後美術における「自発性」や「作者の身振り」がどのように演出され、メディアを通して流通したのかを考えるうえでも重要です。

リオペル — 絵具を積み重ねるモザイク状の画面

カナダ出身でパリで活動したジャン=ポール・リオペルは、アンフォルメルやタシスムの文脈で重要な画家です。パレットナイフを使って絵具を厚く置き、小さな色面が密集するモザイクのような画面を作りました。

遠くから見ると全面的な色のリズムが広がり、近くでは絵具の厚みと方向が物質として強く現れます。ポロックのような線の網とは異なり、絵具の塊を積み重ねることでオールオーヴァーな空間を作りました。

リオペルの活動は、アンフォルメルがフランス人作家だけの運動ではなく、戦後パリに集まった国際的な芸術家ネットワークの中で形成されたことも示しています。

抽象表現主義との共通点と違い

アンフォルメルと抽象表現主義は同時期に発展し、自由な筆触、偶然、オールオーヴァーな構成、巨大な画面、絵具の物質性など多くの共通点を持ちます。そのため1950年代から両者は頻繁に比較されました。

しかし、両者を同一視することはできません。抽象表現主義はニューヨークの美術館、画廊、批評、市場、冷戦文化政策の中で強力な制度を形成しました。一方アンフォルメルは、フランスを中心にしながらイタリア、ドイツ、スペインなど複数地域の作家を横断するより緩やかな概念でした。

また、アメリカでは画家の巨大な身体的ジェスチャーが英雄的に語られることが多かったのに対し、ヨーロッパでは傷、崩壊、物質、戦争の記憶といった問題がより強く読まれる傾向があります。ただし、これも絶対的な違いではなく、個々の作家を詳しく見る必要があります。

ミシェル・タピエ — 「もう一つの芸術」を作る批評

ミシェル・タピエは、アンフォルメルを国際的な戦後抽象の枠組みとして広めた批評家です。1952年の『Un art autre』では、既存の美術分類では捉えにくい新しい作品を「もう一つの芸術」として提示しました。

タピエはフランスの作家だけでなく、ポロックやサム・フランシスなどアメリカの作家、日本の具体美術協会などにも関心を向けました。その活動によって、アンフォルメルは単なるフランス国内の様式ではなく、国際的な戦後前衛を結びつける批評ネットワークになります。

ここで重要なのは、芸術運動が作品だけで成立するわけではないことです。批評家が作家を選び、展覧会を企画し、名称を与え、異なる地域の作品を同じ文脈へ置くことで、新しい美術史的カテゴリーが作られます。

日本への紹介と具体美術協会

1950年代後半、タピエは日本を訪れ、具体美術協会の作家たちと交流しました。白髪一雄、元永定正、田中敦子、村上三郎らの活動は、タピエによってアンフォルメルの国際的な文脈と結びつけて紹介されました。

この交流は、具体が海外で知られる重要な契機となりました。一方で、具体の実践を「日本のアンフォルメル」とだけ見ると、1954年の結成以来すでに行われていた屋外展、紙を破る行為、泥を使った制作、電気や水を用いた作品などの独自性が見えにくくなります。

現在では、具体とアンフォルメルの関係を一方向的な影響としてではなく、戦後の国際交流の中で互いがどのように理解・翻訳されたのかという問題として捉えることが重要です。

CoBrAとの違い

同時期のヨーロッパではCoBrAも活動していました。CoBrAの作家たちは、子どもの描画、民俗芸術、神話、動物像などから刺激を受け、強い色彩と即興的な線で半ば具象的な作品を制作しました。

アンフォルメルとCoBrAは、自発性、反アカデミズム、即興的な筆触などを共有しています。しかしCoBrAは1948年に明確な国際グループとして結成され、雑誌や共同制作を行ったのに対し、アンフォルメルは批評家が複数の作家を横断してまとめた、より広い概念です。

またCoBrAには人物や動物のイメージが強く残ることが多く、完全な非具象だけを目指した運動でもありません。見た目の激しさだけで両者を同じものとして扱わないことが重要です。

完成したイメージより、出来事としての絵画

アンフォルメルが戦後美術にもたらした重要な変化の一つは、絵画を「完成したイメージ」ではなく、「制作行為と物質が残した出来事」として見る視点です。

絵具を塗る、削る、垂らす、擦る、傷をつける。その一つ一つの行為が画面に痕跡を残し、最終的な像より制作プロセスが強く意識されます。画面は何かを描いた場所であると同時に、身体と素材が衝突した場所になります。

この考えは、絵画だけにとどまりません。素材、行為、偶然、時間を作品の中心に置く戦後美術へ広くつながり、具体、プロセス・アート、物質的な彫刻やインスタレーションを考える際にも重要な参照点となります。

「形がない」のではなく、形を固定しない

アンフォルメルは日本語で「非定形」などと説明されることがありますが、「何の形も存在しない美術」と理解すると不正確です。実際の作品には線、塊、色面、傷、厚みなど明確な形があります。

否定されたのは、あらかじめ決められた安定した形式です。画面の形を先に設計し、その設計通りに完成させるのではなく、素材と行為の中から形が生まれ、変化することを受け入れました。

抽象表現主義と並行しながら、アンフォルメルは戦後ヨーロッパで、絵画を物質、身体、偶然、痕跡の場へ変えました。そしてタピエの国際的な活動を通じて具体美術協会などとも接続し、戦後美術を一国単位ではなく複数地域の交流として考える重要な契機となったのです。

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