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Relational Art

リレーショナル・アートのアーティスト

時代:
1990s
地域:
フランス/ヨーロッパ

リレーショナル・アートは1990年代に注目され、物体そのものよりも、人と人の関係、参加、交流、社会的状況を作品として構成する実践を指します。

Artists

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リレーショナル・アートについて

OVERVIEW

リレーショナル・アート(Relational Art)は、1990年代のヨーロッパを中心に注目された、人と人との関係、交流、参加、一時的な共同状況そのものを作品として扱う実践を指します。完成した物体を鑑賞者が眺めるのではなく、食べる、話す、集まる、待つ、遊ぶ、交換するなどの行為を通じて作品が成立する点に特徴があります。

この潮流は、フランスの批評家・キュレーター、ニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud)が1990年代に展開し、1998年の著書『Esthétique relationnelle(関係性の美学)』で理論化したことで広く知られるようになりました。リクリット・ティラヴァーニャ、リアム・ギリック、フィリップ・パレーノ、ピエール・ユイグ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、カーステン・ヘラーらが、ブリオーの議論と関連して語られます。

ただし、リレーショナル・アートは作家たちが同じ宣言を掲げて結成した正式な芸術運動ではありません。また「参加者がいる作品」すべてを意味するわけでもありません。パフォーマンス・アート、コンセプチュアル・アート、インスタレーション・アートなどの蓄積を踏まえながら、1990年代の社会環境の中で「作品を物ではなく関係として考える」ことを前景化した美術史上の枠組みです。

作品は「物」ではなく「関係」になる

従来の美術では、作品は絵画、彫刻、写真など、鑑賞者の前に独立して存在する物体として理解されることが多くありました。

リレーショナル・アートでは、その中心が物体から「そこで起きる関係」へ移ります。テーブル、椅子、食事、掲示板、休憩スペースなどが使われても、それら自体が作品の最終目的ではありません。

人が集まり、会話し、同じ時間を過ごす。その一時的な社会状況全体が作品になります。

ニコラ・ブリオーと「関係性の美学」

ニコラ・ブリオーは、1990年代の若い作家たちの実践を説明するために「relational aesthetics(関係性の美学)」という概念を提示しました。

彼が注目したのは、作品が独立した美的物体として存在するのではなく、人と人、人と場所、人と制度の間に関係を作る「装置」として機能していることでした。

作品の価値は、形や素材だけでなく、「どのような出会いを可能にするのか」「どのような行動を誘発するのか」という関係の質によって考えられるようになります。

「社会的な間隙」という考え

ブリオーは、資本主義社会の通常の交換関係とは少し異なる、小さな交流の場を作ることに注目しました。

日常社会では、店では商品を買い、職場では労働し、交通機関では目的地へ移動するなど、多くの行動が機能によって規定されています。

リレーショナル・アートは、美術館やギャラリーの内部に、すぐに利益や効率へ回収されない一時的な交流空間を作ろうとします。そこで生まれる会話、滞在、共同作業が作品の中心になります。

リクリット・ティラヴァーニャ — ギャラリーで料理を作る

リクリット・ティラヴァーニャは、リレーショナル・アートを象徴する作家です。1992年、ニューヨークの303 Galleryで発表した《Untitled (Free)》では、ギャラリーの空間を使ってタイ料理を作り、来場者へ無料で提供しました。

通常なら作品が並ぶ展示空間に、調理器具、食材、テーブル、食器が置かれ、観客は作品を見るだけでなく、食べ、座り、他の人と話します。

作品は一皿の料理でも調理器具でもありません。その場に集まった人々の行為と関係が作品として成立します。

《Untitled (Free)》— 「無料」であること

《Untitled (Free)》では、来場者は料理を購入するのではなく無料で食べることができました。

ギャラリーは通常、作品が商品として展示・販売される場所です。その中で食事を無償で共有する行為は、売買とは異なる交換関係を一時的に作ります。

ただし、この「無料の関係」もギャラリー、美術市場、作家の評価と完全に無関係ではありません。この矛盾が、後にリレーショナル・アートへの重要な批判点になります。

食べることは作品鑑賞なのか

ティラヴァーニャの作品では、美術について語らなくても作品へ参加できます。ただ食事をし、誰かと会話し、その場にいるだけでもよいのです。

これは鑑賞者に特別な美術知識を求めないという意味で開かれた形式に見えます。

一方で、実際にその場へ来る人が誰なのか、ギャラリーへ入りやすい人と入りにくい人の差は残ります。「参加可能であること」と「本当に誰でも参加すること」は同じではありません。

鑑賞者は作品の「外」にいない

絵画を見るとき、鑑賞者は通常、作品の外側に立っていると考えられます。

リレーショナル・アートでは、鑑賞者が参加しなければ作品が十分に成立しない場合があります。座る、話す、食べる、何かを交換することで、鑑賞者自身が作品の構成要素になります。

この考えは1960年代以降のパフォーマンス・アートやハプニング、フルクサスにも前史がありますが、1990年代には「参加」そのものが社会関係を作る方法として改めて理論化されました。

フルクサスやハプニングとの違い

1960年代のフルクサスやハプニングも、観客の参加、日常行為、偶然性を重視していました。

そのためリレーショナル・アートだけが「観客参加」を発明したわけではありません。

違いは、1990年代の作家が、参加を前衛的なイベントや芸術と生活の統合だけでなく、現代社会におけるコミュニケーション、サービス、公共空間、ネットワークの問題として扱った点にあります。

リアム・ギリック — 会話を生む構造物

リアム・ギリックは、アルミニウム、色付きパネル、ベンチ、棚、テキストなどを用い、会議室、オフィス、公共施設のような空間を思わせる作品を制作してきました。

作品は単なる抽象彫刻ではなく、人が集まり、座り、議論できる構造として設計される場合があります。

ギリックの関心は、未来の社会や労働、組織、意思決定がどのように構築されるのかという問題へ向かいます。

「会議のような作品」

ギリックの作品では、テーブルやプラットフォームのような構造が置かれていても、そこで何を話すべきかは明確に決められていないことがあります。

その曖昧さによって、作品は完成したメッセージではなく、会話や交渉が起こり得る条件になります。

彫刻が「見る対象」から「社会的な行動のためのフレーム」へ変わる点が重要です。

フィリップ・パレーノ — 作品を共同制作と時間の構成として考える

フィリップ・パレーノは、映像、展示、音、照明、共同制作などを通して、作品がどのように時間の中で経験されるかを探究してきました。

一人の作家が完結した物体を制作するより、他の作家、デザイナー、音楽家、技術者と協働し、展示空間全体を変化する状況として構成します。

作者性を一人へ固定しない点でも、リレーショナル・アート以後の重要な展開を示しています。

ピエール・ユイグ — 展覧会そのものを出来事にする

ピエール・ユイグは、映画、物語、展示、イベント、生物などを組み合わせ、作品と現実の境界を曖昧にしてきました。

彼の作品では、鑑賞者が完成した一つの物体を見るというより、時間の中で変化する環境や出来事へ入っていきます。

リレーショナル・アートとの関係は強い一方、後のユイグの実践は人間同士の交流を超えて、動物、植物、環境、技術を含む複雑な生態系へ拡張しています。

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル — 空間と記憶を共有する

ドミニク・ゴンザレス=フォルステルは、部屋、家具、色、映像、文学的参照などを使い、鑑賞者が滞在できる環境を作ってきました。

作品は物体を強く主張するより、そこにいる人がどのように空間を経験し、記憶や物語を重ねるかを重視します。

展示空間を「物を見る場所」から「一定時間を過ごす場所」へ変える点で、リレーショナルな実践と接続します。

カーステン・ヘラー — 遊びと実験

カーステン・ヘラーは、滑り台、回転装置、光、ゲーム的な装置など、鑑賞者が身体で経験する作品を制作してきました。

参加者は見るだけでなく、滑る、歩く、選択する、方向感覚を失うなど、身体的な行動へ巻き込まれます。

作品は娯楽施設のように見えることもありますが、「美術館で人がどのように行動するか」という通常の規則を変化させる社会的な実験でもあります。

フェリックス・ゴンザレス=トレスは先駆者なのか

フェリックス・ゴンザレス=トレスは、リレーショナル・アートの直接的なメンバーというより、しばしば重要な先駆者として論じられます。

キャンディの山や紙束から鑑賞者が一つずつ持ち帰る作品では、作品の物質が観客との交換によって減少し、再補充されます。

ただし彼の作品にはAIDS危機、愛、喪失、クィアな身体、政治的な公共性という具体的な歴史があり、単に「人々が交流する楽しい作品」としてリレーショナル・アートへ回収するべきではありません。

参加するだけで民主的なのか

リレーショナル・アートは、観客が受動的に作品を見るだけでなく、参加者になるという点で民主的に見えることがあります。

しかし「参加できる」という形式だけで、権力関係が消えるわけではありません。誰が作品を企画し、誰がルールを決め、誰が会場へ来られるのかという差は残ります。

この問題を強く指摘したのが、批評家クレア・ビショップです。

クレア・ビショップの批判

クレア・ビショップは2004年の論考「Antagonism and Relational Aesthetics」で、リレーショナル・アートに対する重要な批判を行いました。

彼女は、「人々の交流が生まれた」という事実だけでは、その作品が政治的・美的に優れているとは判断できないと指摘しました。

重要なのは、どのような関係が生まれたのか、その関係に対立や排除が存在するのか、作品が社会的な矛盾を見えなくしていないかという点です。

「仲良くすること」だけが政治ではない

リレーショナル・アートは、食事や会話など穏やかな交流を重視したため、「理想化されたコミュニティを作っているだけではないか」と批判されました。

現実の社会には、人種、階級、ジェンダー、移民、労働、所有をめぐる対立があります。

その対立を作品から排除して「人々が交流したから成功」と考えると、社会の権力関係を見落とす可能性があります。

トーマス・ヒルシュホルン — 摩擦を含む公共性

ビショップは、リレーショナル・アートへの批判的比較としてトーマス・ヒルシュホルンのような作家を論じました。

ヒルシュホルンは段ボール、テープ、印刷物などを使い、哲学、政治、戦争、メディアを扱う密度の高いインスタレーションを制作します。

地域住民と関わるプロジェクトも行いますが、参加者同士が必ず調和することを目的とはしません。摩擦や不均衡を残したまま公共的な場を作る点が重要です。

サンティアゴ・シエラ — 不平等をそのまま見せる

サンティアゴ・シエラは、労働者や移民などに報酬を支払い、単調な作業や身体的な行為を依頼する作品を制作してきました。

これらは「参加型」ですが、参加者と作家の関係は平等ではありません。むしろ労働市場、階級、不平等を意図的に露出させます。

その実践には倫理的批判も強くありますが、「参加=良い関係」という前提を壊した点で、リレーショナル・アートを考える際の重要な対照になります。

ソーシャリー・エンゲージド・アートとの違い

リレーショナル・アートは、後のSocially Engaged Art、Social Practice、Participatory Artなどと関連しますが、同じものではありません。

リレーショナル・アートは主に1990年代のギャラリーや美術館を中心とする一時的な交流の場を理論化した文脈です。

一方、ソーシャリー・エンゲージド・アートには、地域社会と何年も協働し、教育、福祉、都市政策、環境など具体的な社会課題へ関わる実践も多く含まれます。

「関係」をどう評価するのか

絵画なら構図や色、彫刻なら素材や形を分析できます。では、人々の関係そのものが作品の場合、何を基準に評価すればよいのでしょうか。

参加人数なのか、会話の深さなのか、政治的効果なのか、参加者の満足なのか、美術史的な新しさなのか。

リレーショナル・アートが残した最大の問題の一つは、「作品が物でなくなったとき、美術批評は何を評価するのか」という問いです。

ギャラリーは本当に公共空間なのか

ティラヴァーニャの作品のように、人が自由に食事や会話をする場は公共的に見えます。

しかし商業ギャラリーは私的な空間であり、美術業界のネットワーク、立地、文化資本によって参加者がある程度限定されます。

「誰でも来られる」という形式上の開放性と、「実際に誰が居心地よく参加できるか」は区別して考える必要があります。

制度批評との関係

リレーショナル・アートは制度批評と共通する部分があります。

どちらも美術作品を独立した物体としてだけ見ず、ギャラリー、美術館、観客、経済、展示制度との関係を問題にします。

ただし制度批評が美術館や市場の権力構造を暴くことを重視したのに対し、リレーショナル・アートでは、その制度内部に一時的な交流や別の使い方を作る方向が強く現れました。

コンセプチュアル・アートから何を受け継いだのか

コンセプチュアル・アートは、作品の価値を物質的な完成度からアイデアへ移しました。

リレーショナル・アートはその考えをさらに進め、作品を「アイデアを示す物」から「実際に人間関係を起こす状況」へ移します。

物体がなくても作品は成立できるという1960〜70年代の成果が、1990年代には社会的な時間と関係へ展開したと考えることができます。

インスタレーション・アートとの関係

リレーショナルな作品の多くは、インスタレーション・アートの形式を使います。

テーブル、椅子、照明、映像、音、建築的構造によって空間全体が設計され、その中で人が行動します。

ただしインスタレーションが必ずしも参加や交流を目的とするわけではありません。リレーショナル・アートでは、空間が人間関係を生み出す装置として使われる点が特徴です。

1990年代のカフェ文化と都市空間

リレーショナル・アートが登場した1990年代には、カフェ、クラブ、ラウンジ、共同オフィスなど、人々が一時的に集まり交流する都市空間が文化的に大きな意味を持つようになりました。

美術館やギャラリーの内部にも、休憩、会話、イベント、ショップなど、展示を見る以外の機能が増えていきます。

作品と社交空間の境界が曖昧になるリレーショナル・アートは、こうした都市文化の変化とも無関係ではありません。

インターネット以前の「ネットワーク」

1990年代はインターネットが一般社会へ普及し始めた時期でもあります。

リレーショナル・アートの多くは物理的な場で人を集めましたが、その背景には「ネットワーク」「接続」「コミュニケーション」が社会の重要な価値になる時代状況がありました。

この問題は、次に展開するネット・アートとは異なる方法で、1990年代美術における関係性への関心を示しています。

サービスは芸術になり得るのか

料理を提供する、誰かを案内する、会話の場所を作るといった行為は、通常なら「サービス」と呼ばれます。

リレーショナル・アートは、こうしたサービス的な行為を作品へ取り込みました。

その結果、「作品を作る労働」と「接客やケアの労働」の違いは何か、誰がその労働を担っているのかという新しい問題も生まれます。

「参加」という言葉に隠れる労働

観客が作品へ参加するとき、その行為は自由な遊びのように見えます。しかし、イベントを準備し、食事を作り、清掃し、設備を管理する人々の労働も必要です。

リレーショナル・アートへの後の批判では、参加の楽しさだけでなく、その場を維持する見えにくい労働や制度的支援も検討されるようになりました。

関係を作品にするなら、その関係を支える労働まで含めて考える必要があります。

市場で売れない作品は市場の外にあるのか

一時的な食事や会話は、絵画のようにそのまま所有することができません。

しかし、リレーショナルな作品も指示書、契約、写真、映像、再演権などによって美術館やコレクションへ組み込まれることがあります。

「物がないから市場の外」という単純な関係ではありません。コンセプチュアル・アートと同様、非物質的な作品にも所有と再演の制度が形成されます。

作品を再演すると同じ関係が生まれるのか

リレーショナルな作品を別の美術館で再演した場合、同じ料理、同じ家具、同じ指示を使っても、集まる人は異なります。

つまり物理的な形式を再現できても、社会関係そのものを完全に複製することはできません。

この点で作品は楽譜やプロトコルに近く、毎回異なる状況として更新されます。

「小さなユートピア」は可能なのか

ブリオーの理論では、作品が社会全体を一度に変革する巨大な革命を目指すのではなく、小規模で一時的な関係のモデルを作ることが重視されました。

ギャラリーの数時間だけでも、普段とは異なる人間関係を試す。そこに社会的な可能性を見る考えです。

一方で、その「小さなユートピア」が美術界内部の限られた参加者だけに開かれているなら、どこまで社会的意味を持つのかという批判が残ります。

リレーショナル・アート以後

2000年代以降、「リレーショナル・アート」という名称自体は1990年代ほど頻繁には使われなくなりました。

しかし、ワークショップ、共同制作、地域プロジェクト、参加型展示、食事、教育プログラムなど、人間関係を作品の一部にする方法は現代美術で一般化しています。

その意味で、リレーショナル・アートは一時的な流行として終わったというより、「作品と観客の関係をどう設計するか」という問題を現代美術の標準的な課題へ変えたと考えることができます。

「関係」を作品にしたことで、何が変わったのか

リレーショナル・アートの歴史的な重要性は、観客参加を発明したことではありません。フルクサス、ハプニング、パフォーマンス、コンセプチュアル・アートなどにすでに存在していた参加の問題を、1990年代の社会と美術制度の中で「人間関係そのものを作品として評価する」という形に再編したことにあります。

ティラヴァーニャは料理と滞在を、ギリックは会話を誘発する構造を、パレーノやユイグは共同制作と時間を、ゴンザレス=フォルステルは共有される空間を、ヘラーは身体的な遊びと実験を作品へ組み込みました。

フルクサス、パフォーマンス・アート、コンセプチュアル・アート、インスタレーション・アート、制度批評を受け継ぎながら、リレーショナル・アートは「作品を物ではなく関係として考えたとき、その質をどう判断するのか」という難しい問いを残しました。この問いは、参加型アートやソーシャリー・エンゲージド・アートが広がった現在にも続いています。

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