Post-Internet Art
ポスト・インターネット・アートのアーティスト
ポスト・インターネット・アートはインターネットが特別な場所ではなく日常環境となった後、その画像流通、SNS、複製、物質化の条件を扱う2010年代以降の美術です。
Artists
0 ARTISTSこの芸術運動に登録されているアーティストはまだありません。
ポスト・インターネット・アートについて
OVERVIEWポスト・インターネット・アート(Post-Internet Art)は、2010年代を中心に広く語られるようになった、インターネットが特別な「新技術」ではなく、日常生活や画像文化の前提になった状況から生まれた現代美術の潮流です。ウェブサイト上だけで成立する作品に限らず、ネット上の画像、検索、SNS、ECサイト、3DCG、スクリーンショット、デジタル加工、オンライン流通の感覚を、彫刻、写真、絵画、プリント、インスタレーションなど物理的な作品へ戻す実践も多く含まれます。
代表的に論じられる作家には、Artie Vierkant、Petra Cortright、Jon Rafman、Cory Arcangel、Oliver Laric、Katja Novitskova、DIS、Amalia Ulman、Ryan Trecartin、Josh Kline、Rachel Rose などがいます。ただし「ポスト・インターネット」は一つの宣言や統一様式を持つ運動ではなく、批評家・作家・キュレーターが2000年代末から2010年代にかけて使い始めた、比較的流動的なカテゴリーです。
「ポスト」はインターネットが終わったという意味ではありません。むしろ、インターネットが社会へ深く浸透し、オンラインとオフラインを分けること自体が難しくなった状態を示します。ネット・アートが1990年代にインターネットそのものを新しい制作・展示空間として扱ったのに対し、ポスト・インターネット・アートは、ネット環境によって現実世界の見え方や物の価値、身体、流通、展示、作者性まで変わった後の状況を扱います。
「ポスト」はインターネットの終わりではない
「Post-Internet」という名称は誤解されやすい言葉です。ポストモダンの「ポスト」と同様、単純に「インターネットの後」という年代順の意味ではありません。
インターネットが社会の一部に完全に組み込まれ、オンラインであることを意識しなくても生活がネットワークへ接続されている状態を指します。
スマートフォン、検索、SNS、クラウド、オンラインショッピング、地図、動画配信などが日常化すると、「ネットの中」と「現実世界」を別の領域として考えること自体が不自然になります。
ネット・アートとの違い
ネット・アートでは、ブラウザ、HTML、サーバー、ハイパーリンク、オンライン参加など、インターネットそのものが作品成立の中心でした。
一方、ポスト・インターネット・アートでは、作品が必ずオンライン上に存在する必要はありません。ネットで拾った画像を巨大プリントにしたり、3DCGの感覚を彫刻へ変えたり、ECサイトの商品写真のような見せ方を展示空間へ持ち込んだりします。
インターネットを「展示場所」として使うことより、「インターネットによって形成された知覚や文化」を扱うことが重要になります。
Marisa Olson と「Postinternet」
「postinternet」という言葉は、2000年代後半にアーティスト/批評家Marisa Olsonが、自身の制作やインターネット以後の文化状況を説明するために使ったことが重要な起点の一つとされています。
彼女の議論では、ネット上で行ったリサーチや画像収集が、その後に作る物理的作品へ影響する状況が意識されていました。
つまり作品がオンラインかオフラインかではなく、制作そのものがすでにインターネットによって条件づけられているという考えです。
Gene McHugh と「Post Internet」
批評家Gene McHughは2009年から2010年にかけてブログ形式で「Post Internet」を執筆し、この概念を理論的に広げました。
彼はインターネットを新しい媒体として驚く段階から、インターネットが文化の標準的な条件になった段階への移行を論じました。
そこでは作品の形式より、「ネットワーク化された社会の中で美術がどう存在するか」が問題になります。
画像はまず画面で見られる
2010年代には、多くの美術作品が実物を見る前にオンライン画像として見られるようになりました。
展覧会写真、ギャラリーのウェブサイト、SNS、アートメディア、画像検索を通して、作品はまず小さな画面のJPEGとして流通します。
その結果、作品は「実物としてどう見えるか」だけでなく、「写真に撮ったときどう見えるか」「SNSでどう流通するか」まで意識されるようになります。
展示が「画像を生産する装置」になる
白い展示空間に大きな彫刻や鮮やかな表面を置けば、その展示風景自体が強い画像としてオンラインへ流通します。
つまり展覧会は、現地の鑑賞者のためだけでなく、後から写真を通して見る多数のオンライン観客のための画像生産装置にもなります。
ポスト・インターネット・アートでは、作品とその記録写真のどちらが本体なのか分からなくなるような状況が意識的に利用されます。
Artie Vierkant — 《Image Objects》
Artie Vierkantの《Image Objects》は、ポスト・インターネット・アートを代表する作品群です。
デジタル画像を物理的なオブジェクトとして出力し、その作品を展示空間で撮影した後、展示写真自体をさらにデジタル加工してオンラインで流通させます。
そのため「実物」「作品写真」「加工画像」のどれが最終形なのかを一つに決めることができません。物理的作品とデジタル画像が循環し続けること自体が作品構造になります。
オリジナルとコピーの区別がさらに曖昧になる
アプロプリエーション・アートは1980年代に、既存画像の複製を通してオリジナルとコピーを問い直しました。
ポスト・インターネット環境では、画像は最初からコピー、保存、再投稿、加工されることを前提に流通します。
そのため「コピーした」という行為そのものより、どのバージョンがどのプラットフォームでどう流通し、どこで物理的な価値へ変換されるかが重要になります。
Petra Cortright — ウェブカメラとセルフイメージ
Petra Cortrightは、ウェブカメラ映像、デジタルエフェクト、YouTube、ソフトウェアなどを使った作品で知られています。
初期の映像では、作家自身がウェブカメラの前に座り、簡易なフィルターやアニメーションを重ねます。
高度な映像制作ではなく、家庭用コンピュータとオンライン文化の「普通の使い方」を作品へ取り込むことで、ネット時代の自己像がどのように作られるかを示しました。
「セルフィー」以前から自己像は画面で演じられていた
SNSが一般化する以前から、ウェブカメラやプロフィール画像を通して人は自分を画面上で演じていました。
Cortrightの作品では、その演技が特別なパフォーマンスではなく、日常的なコンピュータ利用の延長として現れます。
この問題は、シンディ・シャーマン以後の演じられた自己像を、ネットワーク化された日常へ接続するものでもあります。
Jon Rafman — Google Street Viewを作品にする
Jon Rafmanは、Google Street Viewに自動記録された画像を探索し、奇妙な場面、事故、人物、風景などを収集した《9 Eyes》で知られています。
これらの画像は作家自身が撮影したものではなく、Googleの撮影システムによって自動的に生成されたものです。
作家の役割はカメラを構えることから、膨大な画像の中を探索し、選び、編集することへ変化します。
「写真家」がカメラを持たない
Google Street View、監視カメラ、衛星画像、SNSなど、現在の社会には人間の写真家が意図しなくても大量の画像が生成されています。
その状況では、写真家や美術家は新しい画像を撮影するより、すでに存在する巨大な画像データベースから何を選ぶかによって作品を作ることができます。
この変化は現代写真における作者性の拡張とも接続します。
Cory Arcangel — 古いデジタル文化を再利用する
Cory Arcangelは、ゲーム機、ソフトウェア、インターネット文化、ポップミュージックなどを素材にしてきました。
既存のゲームカートリッジを改変した作品や、YouTube映像、ソフトウェアを使った作品を通して、デジタル文化の消費と陳腐化を扱います。
最新技術を使うことより、少し古くなったデジタル技術がどのようにノスタルジーや文化的記憶へ変わるかを示した点が重要です。
Oliver Laric — バージョンに終わりはない
Oliver Laricは、オンライン画像、3Dスキャン、複製、リミックス文化を通して、オリジナルとバージョンの関係を探究してきました。
一つの像がコピーされ、加工され、別の文脈へ移されるたびに、新しいバージョンが生まれます。
そこでは「最初の一つだけが本物」という考えより、変形と再流通の連鎖そのものが文化を作るという視点が前面に出ます。
《Versions》— 文化はコピーによって変化する
Laricの《Versions》では、複製、模倣、翻案、修正によってイメージが変化していく過程が扱われました。
インターネットでは、一枚の画像が何度も保存され、トリミングされ、文字を付けられ、ミーム化されます。
コピーは元を劣化させる二次的なものではなく、文化そのものが変化する仕組みとして捉えられます。
Katja Novitskova — ネット画像を物理空間へ出力する
Katja Novitskovaは、動物、科学画像、企業的なグラフィックスなど、オンラインで流通する画像を大型の切り抜きや立体物として展示空間へ持ち込みました。
画面で見ると自然に見える画像が、等身大以上の物体として床に立つと、広告看板やテーマパークの舞台装置のような奇妙な存在になります。
ネット上の画像が物理的なスケールを持ったときに生まれる違和感を作品化しています。
画像検索が新しい「素材庫」になる
かつて作家が資料を探すには図書館、雑誌、写真集などを利用しました。検索エンジン以後は、数秒で世界中の画像へアクセスできます。
その結果、制作の出発点が「目の前の現実を見ること」から「検索結果を見ること」へ移る場合があります。
どの画像が上位に表示されるかは検索アルゴリズムに左右されるため、検索エンジンそのものも視覚文化の形成に大きな力を持ちます。
DIS — ファッション、ストック写真、企業イメージ
DISはアーティスト、編集者、キュレーターによるコレクティブとして、ファッション、ストック写真、広告、ブランディング、オンラインメディアを横断する活動を行いました。
洗練された企業広告のような画像を使いながら、労働、消費、身体、ジェンダー、デジタル文化を扱います。
アート雑誌なのかファッション誌なのか広告なのか判別しにくい見せ方によって、現代の画像がどの制度に属しているのかを曖昧にしました。
ストックフォトの「誰でもない人」
ストックフォトには、会社員、家族、医師、消費者など、特定の人物ではなく「典型的な役割」を示す画像が大量に存在します。
それらは広告や企業サイトで無数に再利用され、現代社会の「普通の人」のイメージを作ります。
ポスト・インターネット・アートは、こうした匿名で大量流通する画像も重要な素材として扱いました。
Amalia Ulman — Instagramをパフォーマンス空間にする
Amalia Ulmanの《Excellences & Perfections》(2014)は、Instagram上で展開された代表的な作品です。
Ulmanは自分自身を使い、若い女性インフルエンサーのような人物像を一定期間演じました。写真、食事、ファッション、身体、美容などの投稿を通して、SNS上の「理想的な自己」がどのように演出されるかを再現します。
作品だと知らずにフォローした人々もいたため、SNS上の自己表象とフィクションの境界が実際の社会関係の中で揺らぎました。
インフルエンサー文化を作品にする
SNSでは、投稿者は写真を選び、加工し、文章を付け、生活の一部だけを公開します。
その結果、「自然な日常」に見える自己像も実際には高度に編集されたイメージになります。
Ulmanはこの構造を作品として演じることで、女性らしさ、成功、美容、階級、フォロワー経済がどのように自己像を作るかを可視化しました。
Ryan Trecartin — 加速したデジタル人格
Ryan Trecartinの映像作品では、人物が高速で話し、デジタル加工された色、声、編集、複数の人格が激しく切り替わります。
YouTube、リアリティ番組、チャット、SNSなどの言語感覚が過剰な形で混ざり、登場人物のアイデンティティも固定されません。
ネット環境で人格がプロフィールやアカウントごとに分裂・編集される感覚を、映像の速度と演技へ変換した作品です。
Josh Kline — テクノロジーと労働
Josh Klineは、3Dスキャン、映像、企業的な展示デザインなどを用い、労働、雇用、監視、テクノロジー、身体を扱ってきました。
未来的で清潔な展示表面の背後に、雇用不安、労働の自動化、企業による身体管理といった問題を置きます。
ポスト・インターネット・アートが単なる「ネットっぽい画像の美学」ではなく、ネットワーク化された経済と労働まで扱いうることを示します。
Rachel Rose — 高解像度画像と身体感覚
Rachel Roseは、デジタル映像、音、建築空間を組み合わせ、知覚、身体、歴史、環境を扱っています。
オンラインで入手した映像、自ら撮影した素材、映画的編集を組み合わせながら、画面上の情報と身体的な展示経験を往復させます。
ポスト・インターネット以後の映像では、「ネットから取った素材」と「現実に撮影した素材」を明確に分ける必要がなくなっていきます。
インターネット美学は一つなのか
2010年代初頭には、クローム、透明素材、グラデーション、3DCG、ストックフォト、企業的デザインなどが「ポスト・インターネットらしい見た目」として流行しました。
しかし、それらの表面的な特徴だけを真似ても、必ずしもポスト・インターネット・アートになるわけではありません。
重要なのは、ネット環境が画像の価値、作者性、身体、労働、制度をどう変えているかという問題を扱っているかです。
「ネットっぽさ」がスタイル化する危険
本来ポスト・インターネットは、インターネットが社会条件になったことを考える批評的な概念でした。
しかし人気が高まると、銀色の表面、3Dプリント、スクリーンショット、企業広告風グラフィックなど、見た目だけが反復されるようになります。
その結果、「ポスト・インターネット」という言葉自体が、批評概念からマーケット上のスタイル名へ変わったという批判も起こりました。
ギャラリー向けの「ネット文化」なのか
初期ネット・アートには、美術館や市場を介さずオンラインで直接作品を公開する理想がありました。
一方ポスト・インターネット・アートでは、ネット文化を参照しながら、物理的な彫刻やプリントとして商業ギャラリーへ戻る作品も多くあります。
そのため「ネットの自由な文化を、高価なギャラリー商品へ変換しただけではないか」という批判もあります。
物理的作品へ戻ることは後退なのか
ネット上の文化を扱いながら彫刻やプリントを作ることは、デジタルからアナログへの後退ではありません。
むしろ、オンライン画像が物理的な商品や展示へ変換される現在の社会構造そのものを反映しています。
ECサイトの商品画像が実物購入につながり、SNS画像が観光や消費を動かすように、オンラインと物理世界は循環しています。
オンライン/オフラインという区別の崩壊
スマートフォン以後、私たちは街を歩きながら地図を見て、店舗で商品レビューを確認し、食事を撮影してSNSへ投稿します。
物理的な行動とネット上の情報は常に接続されています。
ポスト・インターネット・アートは、この状態を「オンラインとオフラインが混ざった」と表現するだけでなく、そもそも両者を別々に考える前提が崩れたと捉えます。
アルゴリズムが「見るもの」を決める
SNSや検索エンジンでは、すべての画像が平等に表示されるわけではありません。
推薦アルゴリズム、検索順位、広告配信によって、利用者が何を見るかが選別されます。
そのため現代の視覚文化を考えるには、画像そのものだけでなく、「その画像を誰に見せるかを決めるシステム」を考える必要があります。
画像の価値は「いいね」の数で測られるのか
SNSでは、画像の反応が「いいね」、再生数、フォロワー数など数値として即座に表示されます。
これは作品の価値が批評文や美術館だけで決まるのではなく、プラットフォーム上の可視性によっても形成される状況を作りました。
ポスト・インターネット・アートは、この新しい価値形成の仕組みと無関係ではありません。
画像は無料でも、注意は商品になる
インターネット上では、多くの画像を無料で見ることができます。しかしプラットフォームは、利用者の滞在時間、クリック、閲覧履歴を広告価値へ変換します。
画像そのものが無料でも、人間の注意とデータが商品化されるのです。
ポスト・インターネット以後の美術では、この「無料の文化」と「巨大な企業収益」が同時に存在する構造も重要なテーマになります。
プラットフォームは新しい美術制度なのか
美術館やギャラリーは、何を展示し、何を価値ある作品として見せるかを選びます。
同様に、Instagram、YouTube、TikTok、検索エンジンなどのプラットフォームも、アルゴリズムによって何が見えるかを決めます。
その意味で、プラットフォームは21世紀の新しい展示制度・流通制度として考えることができます。これは制度批評の問題をデジタル環境へ拡張する視点です。
身体もデータになる
ネットワーク化された社会では、顔、位置、歩数、購買履歴、検索履歴など、身体と行動がデータとして記録されます。
私たちはオンラインでイメージを消費するだけでなく、自分自身もデータの供給者になります。
この問題はポスト・インターネット・アートを、単なる画像文化の話から、監視、労働、身体、企業権力の問題へ広げます。
デジタル・アートとの違い
デジタル・アートは、コンピュータ、コード、センサー、3DCG、データなどデジタル技術を利用する美術の広いカテゴリーです。
ポスト・インターネット・アートは、その技術を使うかどうかだけではなく、「インターネットが社会の前提になった後の文化条件」を扱う概念です。
したがって油彩や彫刻のような非デジタルな物質を使っていても、ネット流通やオンライン画像の感覚を主題にしていればポスト・インターネットの文脈で論じられることがあります。
現代写真との関係
ポスト・インターネット・アートは現代写真とも強く重なります。
Google Street View、SNS、監視カメラ、商品写真など、写真家が撮影していない画像を再利用する実践が増えたからです。
「撮ること」より、「画像がどこから来て、どのように再配布されるか」を考えることが写真の重要な問題になります。
アプロプリエーション・アートとの関係
アプロプリエーション・アートは、既存画像を引用・再撮影することで作者性を問い直しました。
ポスト・インターネット環境では、引用はさらに日常化します。リポスト、スクリーンショット、ミーム、画像検索など、一般の利用者も毎日既存画像を再利用しています。
そのため「引用すること」自体より、画像の流通経路、プラットフォーム、アルゴリズム、権利関係を見ることがより重要になります。
ポストモダニズムとの連続性
ポストモダニズムがオリジナル、作者、純粋な媒体を疑った問題は、ポスト・インターネット環境でさらに加速しました。
画像は常にコピー可能で、作者名を失い、別の文脈へ移動します。複数の媒体を横断することも特別ではありません。
その意味でポスト・インターネットは、ポストモダニズムの問題がデジタル・ネットワークの日常へ浸透した状態として見ることもできます。
保存 — ウェブ作品より簡単になったのか
ポスト・インターネット・アートが物理的な彫刻やプリントへ戻ったからといって、保存が単純になったわけではありません。
作品が特定のウェブサービス、SNS投稿、外部動画、ソフトウェアと関係している場合、そのサービスが終了すると文脈が失われる可能性があります。
作品だけを保存しても、当時のネット環境を保存できなければ意味の一部が失われるという問題があります。
「2010年代のスタイル」で終わったのか
2010年代半ば以降、「ポスト・インターネット・アート」という言葉は以前ほど頻繁には使われなくなりました。
その理由の一つは、ネット環境がさらに当たり前になり、ほとんどの現代美術が何らかの形でオンライン流通、デジタル画像、SNSと関係するようになったことです。
つまり概念が失敗したというより、指摘した条件が一般化しすぎて特別なカテゴリーとして区別しにくくなった面があります。
AI時代にポスト・インターネットをどう読むか
生成AIによって、オンライン上の大量画像を学習したシステムが新しい画像を生成する現在、作者性、引用、データ、オリジナルの問題はさらに複雑になっています。
人間が一枚の画像をコピーするのではなく、巨大な画像集合から統計的な特徴を学習したモデルが像を作ります。
これはポスト・インターネット・アートが扱ってきた「画像はどこから来るのか」「誰が所有するのか」という問題を、新しい段階へ進めています。
ポスト・インターネットが変えた「現実」の見え方
ポスト・インターネット・アートの歴史的な重要性は、ネット上の画像を作品へ使ったことだけではありません。インターネットが現実世界の外部にある別空間ではなく、現実そのものの見え方、価値、流通、身体、労働を組み替えるインフラになったことを美術の問題として示した点にあります。
Vierkantは物理的作品と加工画像の循環を、Cortrightはウェブカメラと自己像を、Rafmanは自動生成されたStreet View画像を、Arcangelはデジタル文化の陳腐化を、Laricは複製とバージョンを、Novitskovaはオンライン画像の物質化を、DISは企業的イメージを、UlmanはSNS上の自己演出を、Trecartinはネットワーク化された人格を、Klineは労働とテクノロジーを作品化しました。
ネット・アート、デジタル・アート、現代写真、アプロプリエーション・アート、制度批評を横断しながら、ポスト・インターネット・アートは「ネットの中の芸術」ではなく、「インターネット以後の世界で芸術を作るとは何か」を問う枠組みとなりました。現在その名称が歴史化しつつあっても、その問題はSNS、プラットフォーム、AI、データ経済の時代へそのまま続いています。