Neo-Dada
ネオ・ダダのアーティスト
ネオ・ダダは1950年代末のアメリカを中心に、日用品、既製イメージ、偶然性を作品へ取り込み、抽象表現主義の純粋主義を揺さぶった潮流です。
Artists
3 ARTISTSネオ・ダダについて
OVERVIEWネオ・ダダは、1950年代後半から1960年代初頭のアメリカを中心に、日用品、新聞、写真、商品イメージ、既製品、偶然性などを作品へ取り込み、戦後美術の方向を大きく変えた潮流です。厳密な組織名ではなく、主にロバート・ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズを中心とする実践を説明するために用いられます。
ネオ・ダダは、抽象表現主義が支配的だった1950年代のニューヨークで、その英雄的な身振りや「作家の内面」を前面に出す絵画観へ距離を取りました。ラウシェンバーグは絵具と日用品を混在させ、ジョーンズは国旗、標的、数字など、誰もがすでに知っている記号を描きました。どちらも作品を「作家の感情の表現」としてだけでは説明できない方向へ進みました。
名称に「ダダ」とあるように、ダダやデュシャンのレディメイドとの連続性は重要です。しかしネオ・ダダは、第一次世界大戦後の反芸術をそのまま繰り返したのではありません。広告、テレビ、雑誌、商品、写真が日常を覆い始めた1950年代アメリカのメディア環境の中で、既製の物とイメージを再び芸術へ導入しました。その実践は、ポップアート、フルクサス、ハプニング、コンセプチュアル・アートへ移る重要な橋渡しとなります。
「ネオ・ダダ」という言葉
「ネオ・ダダ」は、ラウシェンバーグやジョーンズ自身が正式に結成したグループ名ではありません。批評家や美術史家が、彼らの作品と1910〜20年代のダダとの類似を説明するために用いた名称です。
日用品、既製イメージ、偶然性、ユーモア、作者性への疑問など、確かにダダとの共通点はあります。しかし、ダダが戦争やブルジョワ文化への直接的な反抗を強く持っていたのに対し、ネオ・ダダは1950年代のアメリカ社会に流通する物や記号を、より曖昧で冷静な態度で作品へ持ち込みました。
そのため「再びダダをやった」という意味より、ダダの問題を戦後の消費社会とメディア環境の中で再構成したものと考える方が適切です。
抽象表現主義のすぐ隣から始まる
ネオ・ダダは、抽象表現主義を遠くから否定したのではなく、そのすぐ隣から生まれました。ラウシェンバーグもジョーンズも、ポロックやデ・クーニングが大きな影響力を持つニューヨークの美術環境で活動していました。
ラウシェンバーグの作品には、垂らされた絵具や荒い筆触など、抽象表現主義的な要素がしばしば残っています。しかし、その上に新聞、布、写真、標識、家具、動物の剥製まで加わります。
つまり、抽象表現主義の絵画を完全に捨てるのではなく、そこへ現実世界の物を侵入させました。この「絵画の内部に現実を戻す」操作が、1950年代後半の大きな転換となりました。
ラウシェンバーグ《ホワイト・ペインティング》
1951年、ロバート・ラウシェンバーグは白一色のキャンバスからなる《White Paintings》を制作しました。そこには作家の筆触や図像がほとんどなく、白い表面だけが提示されます。
しかし、それは「何もない絵」ではありません。展示空間の光、影、鑑賞者の動き、時間帯によって表面の見え方が変化します。ジョン・ケージはこの作品に強く反応し、沈黙そのものを聴く《4分33秒》を考える上で重要な刺激を受けたとされています。
ここでは作品が作者の内面を一方的に表現するのではなく、周囲の環境を受け取る装置になります。ネオ・ダダにおける「作品と現実の境界を弱める」という考えが、非常に早い段階で現れています。
《消されたデ・クーニングのドローイング》 — 破壊と制作の境界
1953年、ラウシェンバーグはウィレム・デ・クーニングから実際のドローイングを譲り受け、それを長時間かけて消し、《Erased de Kooning Drawing》として作品化しました。
この行為は単純な破壊ではありません。もし自分自身の絵を消しただけなら、既にある作品を壊すことの意味は弱くなります。そこで当時すでに高い評価を受けていたデ・クーニング本人から作品を得て、それを消すことで、「消すことも制作になり得るのか」という問いを成立させました。
作者、オリジナル、破壊、署名、額装という美術制度の条件が一つの作品の中に集約されています。この発想はデュシャンのレディメイド以後の作者性の問題を、戦後ニューヨークで新たに展開したものと見ることができます。
コンバイン — 絵画と日用品を混ぜる
1954年頃からラウシェンバーグは、「コンバイン」と呼ばれる作品群を制作しました。MoMAはコンバインを、絵画に三次元の物体を統合し、美術材料と普通の物、絵画と彫刻、芸術と日常生活の境界を崩す作品群として説明しています。
新聞、布、木片、写真、家具、標識、衣類、動物の剥製などがキャンバスと組み合わされます。それらは完全に彫刻でもなく、平面絵画でもありません。
ラウシェンバーグは、現実世界にある物を絵画の「題材」として描くのではなく、物そのものを画面へ持ち込みました。これはデュシャンの既製品利用とは異なり、既製品と絵画的な筆触が同時に存在する点に特徴があります。
《Bed》 — 私物が絵画になる
1955年の《Bed》では、枕、シーツ、キルトといった実際の寝具が壁に掛けられ、その上に鉛筆や絵具が加えられています。MoMAもこの作品を、ラウシェンバーグが「芸術と生活の間」で活動しようとした代表例として位置づけています。
寝具は本来、横になって使うものです。しかし壁に垂直に掛けられた瞬間、機能を失い、絵画の支持体へ変わります。同時に、キルトの柄や枕の形は消えず、日用品としての記憶を残します。
作品は、絵画なのか家具なのか、私物なのか美術品なのかという境界を曖昧にします。ネオ・ダダの重要な特徴である「カテゴリーを混ぜること」が非常に明確に現れた作品です。
《Monogram》と《Canyon》 — 彫刻でも絵画でもない
ラウシェンバーグの《Monogram》では、アンゴラヤギの剥製がタイヤをまとい、水平に置かれた絵画的な支持体の上に立っています。《Canyon》では、布、写真、紙、絵具などとともにワシの剥製が組み込まれています。
こうした作品は、絵画を見る通常の姿勢を壊します。壁面だけでなく床面や立体物を含み、鑑賞者は複数の角度から作品を見る必要があります。
ここでは、日用品を「美術へ格上げする」というより、絵画・彫刻・廃品・写真といった異なるカテゴリーを同じ状態に置くことが重要です。作品の中に現実の複雑さをそのまま持ち込もうとしたとも言えます。
ジョン・ケージ — 偶然と非意図性
作曲家ジョン・ケージは、ラウシェンバーグやジョーンズの周辺で非常に重要な存在でした。Black Mountain Collegeやニューヨークで交流し、偶然性、沈黙、日常音を作品へ取り込む考えを共有しました。
ケージは、作曲家がすべての音を支配するのではなく、偶然や環境音が作品へ入り込む状況を作りました。この「作者の意図を弱める」考えは、ネオ・ダダの作品にも響いています。
ラウシェンバーグの《White Paintings》が周囲の影や光を受け入れるように、作品は閉じた自己表現ではなく、外部の出来事を受け取る場になります。この考えは後のフルクサスやパフォーマンス・アートにも強くつながります。
マース・カニングハムとの協働
ラウシェンバーグは舞踊家・振付家マース・カニングハムとも長く協働しました。1954年の《Minutiae》では、カニングハムの舞台のために、踊り手が周囲や内部を通り抜けることのできる自立したコンバインを制作しました。
MoMAの資料によれば、この作品はカニングハム、ケージ、ラウシェンバーグがそれぞれ独立して振付、音楽、舞台美術を制作し、それらを上演時に組み合わせるという考えから生まれました。
ここでは舞台美術が背景ではなく、ダンサーと同じ空間を占める物体になります。美術、音楽、ダンスが一つの統一された物語へ従うのではなく、独立した要素が偶然に出会うという方法が重要でした。
ジャスパー・ジョーンズ《Flag》 — 旗なのか、旗の絵なのか
ジャスパー・ジョーンズは、1954〜55年頃からアメリカ国旗、標的、数字、文字などを繰り返し描きました。代表作《Flag》は、国旗を描いた絵画であると同時に、国旗とほぼ同じ構造を持つ物体です。
通常、絵画は「何かを描いたもの」であり、描かれた対象と作品は区別されます。しかし《Flag》では、旗の絵なのか、一枚の旗そのものなのかという区別が曖昧になります。
さらに、誰もが既に知っているイメージを使うことで、作家の個人的な想像力より、「見る」と「知っている」の関係が問題になります。目の前の作品を見る前に、鑑賞者はすでにアメリカ国旗の意味を知っています。
「すでに心が知っているもの」
ジョーンズは、旗、数字、標的のような「すでに心が知っているもの」を選びました。これらは肖像や風景のように描写する必要がなく、形が社会的に共有されています。
そのため作品を見るとき、鑑賞者は絵具の物質と記号の意味を同時に意識します。たとえば数字の「5」は、インクや絵具でできた形であると同時に、数字として読まれます。
この「見ること」と「読むこと」の二重性は、後のポップアートやコンセプチュアル・アートに非常に重要な問題を提供しました。
エンコースティック — 記号を物質に戻す
ジョーンズは、蜜蝋を熱して顔料と混ぜるエンコースティック技法を多くの作品で使用しました。蝋は速く固まり、筆触や新聞紙の断片を表面に固定します。
旗や数字は誰でも知っている平面的な記号ですが、厚い蝋の表面によって物質的な存在感を持ちます。記号を「読む」ことと、表面の質感を「見る」ことが衝突します。
ジョーンズの作品は、ラウシェンバーグほど多くの日用品を付着させなくても、記号と物質を重ねることで、絵画の意味を複数化しました。
ラウシェンバーグとジョーンズの対話
1950年代半ば、ラウシェンバーグとジョーンズはニューヨークで非常に近い関係にあり、互いのスタジオを行き来して作品を批評し合いました。MoMAは、二人が日常世界の記号、イメージ、物質を作品へ統合する新しい方法を互いに促したと説明しています。
ラウシェンバーグが現実の物を作品へ持ち込む一方、ジョーンズは既に社会で共有されている記号を描きました。方法は異なりますが、どちらも「作家の内面から新しいイメージを生み出す」という抽象表現主義的モデルから距離を取りました。
二人の関係は、ネオ・ダダが一人の作家の発明ではなく、同時代の対話と共同環境の中で形成されたことを示しています。
アサンブラージュと日用品
1950年代末から1960年代初頭には、日用品や廃品を組み合わせるアサンブラージュが国際的に注目されました。1961年のMoMA「The Art of Assemblage」展では、ダダ、シュルレアリスムから同時代の作家まで、既製物を使う美術の系譜が大きく提示されました。
ネオ・ダダの作品はこの流れの中心に位置します。工業製品や廃棄物を描くのではなく、物そのものを作品に組み込むことで、美術と日常生活の距離が縮まります。
この考えはその後、彫刻、インスタレーション、環境芸術などへ幅広く展開していきます。
ネオ・ダダからポップアートへ
ネオ・ダダはポップアートの重要な前段階です。ジョーンズが旗や数字を、ラウシェンバーグが新聞、写真、商品、都市の断片を作品へ持ち込んだことで、大衆文化のイメージを美術へ導入する道が開かれました。
ただし、両者は同じではありません。ネオ・ダダでは、日常物や記号の意味が曖昧なまま混在し、作品は何を肯定し何を批判しているのか明確ではない場合が多くあります。
ポップアートでは、広告、商品パッケージ、漫画、スターの写真など、マスメディアのイメージそのものがより明確に主題化されます。ネオ・ダダが開いた「日常世界への扉」を、ポップアートが消費社会のイメージへ大きく広げたと考えることができます。
ハプニングとフルクサスへの接続
ラウシェンバーグ、ケージ、カニングハムらの協働は、作品を固定した物体だけでなく、時間の中で起こる出来事として考える方向を促しました。1950年代末にはアラン・カプローがハプニングを展開し、観客、空間、音、身体を一つのイベントへ組み込みます。
さらに1960年代のフルクサスでは、日常行為、短い指示、音、偶然、ユーモアが作品になります。ケージの考えとネオ・ダダの「芸術と生活の境界を弱める」姿勢は、その重要な背景となりました。
その意味でネオ・ダダは、絵画史の中だけに位置づけるより、戦後美術がオブジェ、音、行為、イベントへ広がる転換点として見る方が適切です。
ダダとの違い
ダダとネオ・ダダは、既製品、偶然性、ユーモア、反芸術的な態度などを共有します。しかし歴史的状況は大きく異なります。
ダダは第一次世界大戦という破局の中で、戦争を生み出した合理主義、国家、ブルジョワ文化への拒否として始まりました。ネオ・ダダが活動した1950年代のアメリカでは、戦後の経済成長、テレビ、広告、商品、雑誌などが日常生活を変えていました。
そのためネオ・ダダは、破壊的な政治宣言を前面に出すより、現実世界にすでにある物やイメージを作品へ静かに持ち込み、その意味を不安定にする方法を取りました。
作品と生活の境界を再び開く
ネオ・ダダの歴史的な重要性は、日用品を作品に使ったことだけではありません。抽象表現主義によって巨大化し、自律した場となった絵画へ、再び現実の物、記号、写真、音、出来事を流れ込ませたことにあります。
ラウシェンバーグは絵画と廃品をコンバインし、ジョーンズは旗や標的という共有記号を絵画へ変え、ケージやカニングハムとの協働は作品を時間と環境へ開きました。そこでは、作者の内面より、作品と外部世界との関係が重要になります。
ダダとレディメイドの問題を1950年代のアメリカで再起動したネオ・ダダは、ポップアート、フルクサス、パフォーマンス・アート、コンセプチュアル・アートへ向かう複数の経路を開きました。1950年代の絵画と1960年代の多媒体的な現代美術をつなぐ、決定的な転換点だったのです。