Mono-ha
もの派のアーティスト
もの派は1960年代末から1970年代初頭の日本で、石、木、鉄、ガラス、綿などの素材を大きく加工せず配置し、物と空間の関係を提示した潮流です。
Artists
1 ARTISTSもの派について
OVERVIEWもの派(Mono-ha)は、1968年頃から1970年代前半の日本で展開した美術の潮流です。石、木、鉄板、ガラス、綿、紙、土などを大きく加工せず、互いに接触させたり、立てかけたり、置いたり、吊ったりすることで、物と物、物と空間、物と鑑賞者の関係を前景化しました。関根伸夫、李禹煥、菅木志雄、小清水漸、吉田克朗、榎倉康二、高山登、成田克彦らが主要な作家として挙げられます。
「もの派」は、作家たちが宣言を掲げて結成した正式なグループ名ではありません。1970年代初頭、彼らの作品を批判的・便宜的にまとめる呼称として使われ始め、その後、美術史上の名称として定着しました。したがって、全員が同じ理論や方法を共有していたわけではなく、作家ごとの差異を保ったまま理解する必要があります。
もの派の重要性は、「何か新しい形を作ること」から距離を取り、すでに存在する物質や場所の関係をそのまま露出させようとした点にあります。ミニマリズム、ポスト・ミニマリズム、アルテ・ポーヴェラ、ランド・アートなどと同時代的な問題を共有しながら、日本独自の思想的・社会的背景の中で成立しました。
1968年 — 《位相—大地》が示した転換
もの派の出発点として最も頻繁に挙げられるのが、関根伸夫が1968年に発表した《位相—大地》です。地面に円筒形の穴を掘り、その土をすぐ隣に同じ大きさの円筒として積み上げた作品でした。
そこでは、新しい素材を持ち込んで彫刻を作ったのではありません。もともとそこにあった土を移動させ、空洞と塊という二つの状態へ変換しました。
作品は展覧会終了後に埋め戻され、土地は元の状態へ戻されました。物として永続する彫刻ではなく、ある場所で一時的に生じた関係そのものが作品になった点で、当時の日本美術に大きな衝撃を与えました。
「位相」とは何だったのか
《位相—大地》の「位相」という言葉には、ある物が形を変えても関係や構造を保つという数学的・哲学的な発想が背景にあります。
穴と土の円柱は、一方が「欠如」であり、もう一方が「存在」です。しかし両者は同じ土から生まれ、体積として対応しています。
関根は彫刻を一つの独立した物体として作るのではなく、物質が別の状態へ移ること、その変化を場所の中で経験させることを重視しました。
李禹煥 — もの派を理論化した存在
韓国生まれで日本を拠点に活動した李禹煥は、もの派の中心的な理論家として大きな役割を果たしました。彼は関根伸夫の《位相—大地》に注目し、1969年頃から評論を通して、作家が世界へ新しい物を付け加えるという近代的な制作観を批判しました。
李が重視したのは、石、鉄板、ガラス、ゴムなど異なる物質を組み合わせ、それぞれが持つ性質と関係をそのまま現すことでした。
作者が物を完全に支配して形を作るのではなく、物同士の「出会い」が起こる条件を整える。ここで作家の役割は、創造者から媒介者へと変化します。
「作る」ことから「出会わせる」ことへ
近代美術では、芸術家は素材へ形を与え、新しい作品を作る存在として考えられてきました。もの派は、この前提そのものを疑いました。
自然石を削って彫刻にするのではなく、石をそのまま置く。鉄板を複雑な形へ加工するのではなく、石と接触させる。ガラスを装飾するのではなく、別の物質との緊張関係を作る。
そこで重要になるのは、それぞれの物が単独で何を意味するかではなく、複数の物が同じ場所でどのような関係を生み出すかです。
李禹煥《現象と知覚》
李禹煥の初期立体作品では、石、鉄板、ガラス、ゴムなどが最小限の操作によって組み合わされました。《現象と知覚》の一部では、石の重さによってガラスが割れたり、ゴム面が変形したりします。
作品の形は、作者が彫刻的に造形した結果ではなく、重量、圧力、素材の硬さ、脆さといった物理的な条件から生まれます。
石とガラスは単なる象徴ではなく、「重い」「硬い」「割れる」という現実の性質を持った物として関係します。見る人は、その関係から目に見えない力まで意識することになります。
《Relatum》 — 関係そのものを作品にする
李は後に、自らの三次元作品を《Relatum》という共通タイトルで呼ぶようになります。「Relatum」は、関係を結ぶ項を意味する哲学的な語です。
石と鉄板、物と床、物と空間、作品と鑑賞者は、それぞれ独立しているようでありながら、同じ場の中で相互に影響し合います。
作品の中心が単独の物体ではなく、複数の存在の間に生まれる関係へ移ったことを、このタイトルは明確に示しています。
菅木志雄 — 「状況」を作る
菅木志雄は、木材、石、金属、ロープ、枝、板などを使い、空間全体に広がる作品を制作しました。彼の作品では、物体一つ一つより、それらが置かれた「状況」が重要です。
床に物を並べる、壁と壁の間へ木材を渡す、空間をロープで結ぶなど、簡単な操作によって建築と物質の関係を変化させます。
作品を見ることは、中央に置かれた彫刻を眺めることではありません。鑑賞者自身がその状況の内部へ入り、物の間を移動しながら全体を経験します。
「依存」と「支持」
もの派の作品では、物が別の物へ寄りかかったり、支えられたり、緊張状態を保ったりする構造が頻繁に現れます。
石が鉄板を押さえる、木材が壁へ立てかかる、ロープが複数の物を引き合う。こうした関係では、一つの要素を取り除けば全体の状態が変わります。
作品は独立した物の集合ではなく、相互依存する関係として成立します。そこに重力、床、壁、距離といった普段見過ごされる条件も現れてきます。
小清水漸 — 木を「素材」に戻す
小清水漸は、木、石、鉄などを使い、それぞれの素材が持つ性質へ注意を向けました。木材を切断し、内部の断面を見せる作品では、加工された製品としての木ではなく、物質としての木そのものが前景化します。
木は家具や建築を作るための材料になる以前に、密度、繊維、色、重さを持った存在です。
小清水の作品は、素材を「何かを表現するための手段」として使うのではなく、素材そのものを観察する方向へ鑑賞者を導きます。
吉田克朗 — 物と物の接触
吉田克朗は1969年前後、石、木材、鉄板などを組み合わせた作品を制作しました。異なる素材を単純に接触させ、重さや表面の差を強く意識させます。
彼は関根伸夫《位相—大地》の制作にも関わり、もの派形成期の作家たちと近い環境で活動していました。
その後は版画や絵画へ展開しますが、物の表面や現実との距離を検討する姿勢は、後の制作にも別の形で継続していきました。
榎倉康二 — 身体と場所の境界
榎倉康二は、壁、床、木材、布、油などを使い、身体と空間の境界を探りました。床や壁の一部へ油を染み込ませる作品では、素材を新しい物体へ加工するのではなく、既存の建築面そのものを変化させます。
見る人は「作品がどこにあるのか」を一瞬では判断できません。壁や床が作品であり、同時に展示空間でもあります。
もの派の中でも榎倉は、物そのものだけでなく、身体が場所へ接触する感覚や境界の問題を強く扱った作家です。
高山登 — 枕木と記憶
高山登は鉄道の枕木などを使い、空間へ大量に配置する作品を制作しました。古い木材には傷、油、汚れ、使用の痕跡が残っています。
枕木は単なる自然素材ではなく、鉄道という近代産業と労働の歴史を持つ物質です。
この点から、もの派を「自然素材をそのまま置く運動」とだけ理解すると、高山の作品が持つ歴史性を見落とします。物はそれぞれ異なる時間と社会的背景を帯びています。
成田克彦 — 木炭という変化した物質
成田克彦は《SUMI》シリーズなどで、木を焼いて作った木炭を展示しました。木炭は自然物のようにも見えますが、火による変化を経た物質です。
黒く焼けた表面、ひび割れ、重量感は、木が別の状態へ変化した痕跡をそのまま示します。
もの派が「無加工の自然物」だけを扱ったわけではなく、物質が変化する過程や状態にも関心を持っていたことが分かります。
自然物と工業素材を分けない
もの派では石や木のような自然物だけでなく、鉄板、ガラス、ゴム、ロープ、コンクリートなど人工的な素材も頻繁に使われます。
自然を純粋なもの、工業素材を人工的で悪いものとして対立させる運動ではありませんでした。
むしろ、異なる来歴を持つ物を同じ場所へ置き、それぞれの性質がどのように現れるかを見ることが重要でした。自然/人工という分類そのものも相対化されます。
「そのまま置いただけ」なのか
もの派の作品は、一見すると石や木をそのまま置いただけに見えることがあります。しかし、完全に無作為に置かれているわけではありません。
どの石を選ぶか、どの鉄板と組み合わせるか、どの距離へ置くか、何に接触させるか、どの空間で見せるかは慎重に決められます。
作者の造形行為を減らす代わりに、「配置する」「関係づける」という判断が重要になります。何もしないのではなく、介入の方法を最小限に変えたのです。
鑑賞者も関係の一部になる
もの派の作品は、正面から一枚の像として見ることが難しいものが多くあります。物同士の距離や空間との関係を理解するには、鑑賞者が周囲を歩く必要があります。
見る位置が変われば、石と鉄板の重なり方、空間の広がり、物の距離も変化します。
李禹煥が強調した「出会い」には、物同士だけでなく鑑賞者と作品の関係も含まれます。作品は見る人の身体がその場へ入ることで、より大きな関係の場になります。
ミニマリズムとの違い
もの派は、単純な構成、工業素材、展示空間への意識などからミニマリズムと比較されてきました。
しかし、ミニマリズムではジャッドの箱のように、規格化された形や明確な構造を人工的に制作することが多くあります。もの派では、石や木の個体差、偶然の接触、既存空間の条件などを積極的に受け入れます。
また、もの派では作品を自律した物体として完結させるより、物と物の「あいだ」、物と場所の関係を開いた状態にすることが重視されました。
ポスト・ミニマリズムとの比較
ポスト・ミニマリズムとは、重力、素材、偶然、空間への関心で強く重なります。ロバート・モリスやリチャード・セラの作品と、もの派の作品には形式上の近さもあります。
しかし、もの派はアメリカ美術の展開を単純に受容したものではありません。1960年代末の日本で、近代化や制作主体のあり方を問い直す中から独自に形成されました。
同時代に世界各地で似た問題が現れたことを確認しつつ、それぞれの地域の思想と歴史を区別して見ることが重要です。
アルテ・ポーヴェラとの比較
アルテ・ポーヴェラも石、木、布、鉄などを使い、完成された工業製品や伝統的な彫刻から距離を取りました。
両者は素材を重視する点で近い一方、アルテ・ポーヴェラでは歴史、神話、政治、身体、エネルギーなど、物に複数の文化的意味を重ねる作品が多く見られます。
もの派では、意味を象徴的に加えるより、物をそれ自体として現前させ、物同士の関係を経験させる方向がより強く現れました。
ランド・アートとの比較
ランド・アートとは、土地、石、時間、場所への関心を共有します。《位相—大地》も実際の地面を掘削したという点ではランド・アートと比較できます。
しかしアメリカのランド・アートには、大規模な重機で地形を変える作品も多くありました。もの派の多くは、より限定された介入によって、物質や場所がすでに持つ状態を見せようとします。
土地を巨大な造形物へ変えるというより、土地や物へ注意を向ける条件を作る点に違いがあります。
日本文化で説明しすぎない
もの派は海外で紹介される際、禅、東洋思想、日本的自然観と安易に結びつけられることがあります。確かに李禹煥の理論には東アジア思想との接点がありますが、それだけで運動全体を説明することはできません。
作家たちは戦後日本の急速な工業化、都市化、学生運動、万博をめぐる議論、国際的な現代美術の動向の中で活動していました。
「日本人だから自然を尊重した」という説明に還元すると、もの派が近代美術の制作概念そのものへ向けた批判性を見失います。
大阪万博と同時代の日本
1970年の大阪万博は、「人類の進歩と調和」を掲げ、戦後日本の技術発展を象徴する巨大イベントとなりました。
同じ時期、もの派の作家たちは、新しい技術で未来的な形を作る方向とは逆に、石、木、土、鉄板など最小限の物質関係へ向かっていました。
これは単純な反技術運動ではありませんが、進歩や大量生産を当然視する社会の中で、「作ること」「新しさ」「人間による支配」を問い直した点は重要です。
1970年東京ビエンナーレとの接点
1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」は、当時の日本美術にとって重要な国際展でした。カール・アンドレ、ダニエル・ビュレンなど海外作家とともに、小清水漸や榎倉康二ら日本の若い作家も参加しました。
展覧会タイトルが示すように、完成された造形物より、物質、プロセス、空間、場所の関係が国際的に大きな問題となっていました。
もの派は孤立した国内現象ではなく、こうした国際的な転換と同時進行していたことが分かります。
作品は同じように再制作できるのか
もの派の作品には、展覧会終了後に解体され、後年に再制作・再設置されるものがあります。自然石や木材が当時とまったく同じでない場合、何をもって同じ作品とするかが問題になります。
重要なのが特定の石そのものなのか、それとも石と鉄板の関係や設置条件なのか。作品ごとに答えは異なります。
この問題は、物体より「関係」や「状況」を重視したもの派だからこそ生じる保存上の課題であり、インスタレーション・アートの再制作問題ともつながります。
写真だけでは見えないもの
もの派の作品は、記録写真では非常に簡素に見える場合があります。石と鉄板、木とロープという構成だけを見れば、「何が重要なのか分からない」と感じることもあります。
しかし実際の空間では、物の大きさ、重さ、距離、床との接触、鑑賞者の身体との比率が強く作用します。
作品の意味が視覚的な形だけにないため、写真だけでは空間の緊張や身体感覚を失いやすい美術でもあります。
「物」そのものではなく「物のあいだ」へ
もの派の歴史的な重要性は、石や木を加工せず展示したことだけではありません。美術作品の中心を「作られた形」から、「物と物、物と場所、物と身体がどのように関係しているか」へ移したことにあります。
関根伸夫は土地の状態を反転させ、李禹煥は石と鉄、ガラスなどの出会いを理論化し、菅木志雄は空間全体を状況として扱い、小清水漸や吉田克朗は素材と接触の条件を、榎倉康二や高山登は身体、場所、痕跡の問題へ展開しました。
ミニマリズム、ポスト・ミニマリズム、アルテ・ポーヴェラ、ランド・アートと比較されながらも、もの派はそれらの日本版ではありません。1960年代末の日本から、「人間が世界を作り変える」という近代的な制作観を問い直し、すでに存在する物と世界の関係へ目を向けた独自の美術だったのです。