Art Library

Robert Rauschenberg

ロバート・ラウシェンバーグ

アメリカ / 1925–2008 / ネオ・ダダ/コンバイン/ポップ・アート周辺

Robert Rauschenberg – 2 minutos de arte (LS / Galería)
Robert Rauschenberg’s “Barge” returns to New York(Guggenheim Museum)
Robert Rauschenberg | TateShots (Tate)
ロバート・ラウシェンバーグ | ブライス・マーデンと語るアーティストの見方 (The Museum of Modern Art)
“Robert Rauschenberg: Fabric Works of the 1970s” (The Menil Collection)
Robert Rauschenberg at Gagosian, West 21st Street, New York (Gagosian)
Robert Rauschenberg “Spreads and Scales” Gladstone Gallery in NY 2023 (New York Gallery Walk)

ロバート・ラウシェンバーグ(1925–2008)は、戦後アメリカ美術の流れを大きく変えた美術家です。絵画、彫刻、写真、版画、アーティスト・ブック、舞台美術、ダンス、パフォーマンス、電子技術までを横断しながら、既存の媒体区分を繰り返し揺さぶりました。1950年代半ばに始めた「コンバイン」では、新聞、写真、布、椅子、寝具、タイヤ、剥製など、日常世界にある物を絵画へ直接取り込みます。絵画と彫刻のどちらとも言い切れない作品群は、のちのポップ・アート、アッサンブラージュ、インスタレーションなどへ大きな影響を与えました。

しかし、ラウシェンバーグを「コンバインの作家」だけで理解すると、その後の約50年間が見えません。1951年の《White Painting》では、ほとんど何も描かれていない白い画面を、周囲の光や影を受け取る表面として提示しました。1953年にはウィレム・デ・クーニングの素描を一か月近くかけて消す《Erased de Kooning Drawing》を制作し、同年にはジョン・ケージの自動車のタイヤを版として《Automobile Tire Print》を作ります。1950年代末には新聞や雑誌写真を溶剤で紙へ転写し、1960年代にはシルクスクリーンによってJFK、宇宙開発、報道写真など大量メディアの像を巨大なカンヴァスへ移しました。

さらに、ラウシェンバーグは一人で閉じた制作を理想としませんでした。Black Mountain Collegeでジョン・ケージ、マース・カニングハムらと活動し、長年ダンスの舞台美術・衣装・照明を担当します。1966年にはエンジニアのビリー・クルーヴァーらとExperiments in Art and Technology(E.A.T.)を共同設立し、芸術家と技術者の協働を制度化しました。1984年から91年にはRauschenberg Overseas Culture Interchange(ROCI)を展開し、芸術を国境を越えた対話の手段として扱います。

ラウシェンバーグの制作を貫くのは、特定のスタイルではなく「異なるもの同士を接触させる」ことです。絵具と新聞、抽象表現主義の筆触と広告写真、剥製とタイヤ、ダンサーと電子装置、アメリカの報道画像と旅先の素材。彼は一つの要素を純化するより、互いに無関係に見えるものを同じ場へ置き、意味が固定されない状態を作りました。本人が繰り返し語った「芸術と生活の間で活動する」という考えは、この制作全体を理解する重要な手がかりです。

生涯と制作の変遷

1925年、テキサス州ポート・アーサーに生まれる

ロバート・ラウシェンバーグは1925年10月22日、テキサス州ポート・アーサーにMilton Ernest Rauschenbergとして生まれました。第二次世界大戦期にはアメリカ海軍に入り、神経精神科の技術員として勤務します。除隊後、1947年にKansas City Art Instituteへ入学し、この時期に名前をMiltonからBob、のちRobertへ変えました。1947年末にはパリのAcadémie Julianへ進み、そこでSusan Weilと出会います。

翌1948年、Weilとともにノースカロライナ州のBlack Mountain Collegeへ移り、元BauhausのJosef Albersに学びました。Albersは素材の性質、構造、秩序、厳密な観察を重視し、自由奔放なRauschenbergとはしばしば衝突しましたが、彼は後年Albersをもっとも重要な教師と呼んでいます。素材を何かの「表現手段」としてだけでなく、それ自体の性質から扱う教育は、その後の制作へ長く残りました。

1949年、ニューヨークへ

1949年にニューヨークへ移り、Art Students Leagueで学びながら制作を続けます。当時はJackson Pollock、Willem de Kooning、Barnett NewmanらAbstract Expressionismが急速に中心的位置を占めていました。Rauschenbergも巨大な画面と自由な筆触に刺激を受けましたが、やがて「画家の内面を絵具の身振りによって表現する」という考えから距離を取ります。

彼の関心は、作者の内面よりも外部の世界にすでに存在する物、像、音、偶然へ向かっていきました。Susan Weilとの共同制作では、感光紙の上に人体や物を置いて光を当てるblueprint作品を作り、「描く」以外の方法で像が生まれることを試しました。

1951年、《White Paintings》

1951年には、単一から複数のパネルを白い塗料だけで均質に覆った《White Paintings》を制作しました。図像も表現的な筆跡もほとんどありません。John Cageはこれを光、影、埃など周囲の出来事を受け取る表面として捉え、後の《4’33″》へつながる刺激の一つとして語りました。

「何もない」画面ではなく、環境がそのつど現れる画面です。作家が画面へ意味を詰め込む代わりに、作品の外側にある現実を受け取るというRauschenbergの姿勢が早くも現れています。

1952年、Black Mountain Collegeへ戻る

1952年夏、再びBlack Mountain Collegeへ滞在し、John Cage、Merce Cunningham、Cy Twomblyらとの関係を深めます。Cageが組織した無題のイベント、後に《Theater Piece No. 1》と呼ばれる出来事にも参加しました。詩、ダンス、講義、音楽などが同じ時間に並行して行われ、後のハプニングの先例として知られています。

ここでは音楽がダンスを説明せず、舞台美術も背景に従属しません。複数の出来事が同じ時間と場所に存在する。この考えは、後のコンバインで写真、新聞、絵具、物体を一つの意味へ統合しない方法と深くつながります。

1952–53年、Cy Twomblyとの旅行

Cy Twomblyとともにイタリア、北アフリカを旅行し、写真を撮影するとともに、廃材や小物を集めた《Scatole Personali》などを制作しました。街路や蚤の市で見つけた物を、美術材料との区別なく扱う経験を重ねます。

1953年にニューヨークへ戻ると、木、石、紐、釘などを使う《Elemental Sculptures》を制作します。同じ年、John CageのModel A Fordを使った《Automobile Tire Print》と、Willem de Kooningの素描を消した《Erased de Kooning Drawing》という二つの重要作を作りました。

1954年、コンバインの成立

1954年頃から、カンヴァス上の絵具とコラージュに、木片、布、鏡、日用品などが大きく突き出す作品を作り始めます。SFMOMA所蔵《Collection》は最初期の代表例で、壁掛け絵画の形式を残しながら、画面から物体が前方へ張り出します。

こうした作品をRauschenbergは「Combine」と呼びました。絵画か彫刻かを決める代わりに、二つを文字通り組み合わせた新しいカテゴリーです。新聞、包装紙、写真、布、電球、靴、椅子、タイヤ、剥製までが絵具と並列され、1954年から64年頃までのCombinesは戦後美術の媒体区分を大きく変えました。

1955年、《Bed》

1955年の《Bed》では、自分が使っていた寝具とDorothea Rockburneから受け取ったキルトを支持体にし、鉛筆や絵具を加えて壁へ垂直に掛けました。寝具は絵画になっても「ベッドであること」をやめません。生活用品と美術作品という二つの身分を同時に保っています。

この二重性はRauschenbergの核心です。タイヤや椅子も、作品に取り込まれた瞬間に純粋な造形要素へ変換されるわけではありません。もともとの用途や生活の履歴を残したまま、絵画の中へ入ります。

1955–59年、《Monogram》

《Monogram》は古道具店で見つけたアンゴラ山羊の剥製から始まり、約4年間に三つの状態を経て完成しました。最終形では、タイヤを胴体にはめた山羊が、コラージュと絵具で覆われた水平の台の上に立っています。

Robert Rauschenberg Foundationによれば、Jasper Johnsの助言も受け、最終的に山羊を「絵画」の前ではなく、水平に寝かせた画面の中央へ置きました。絵画を壁に掛けるという前提そのものが崩れ、カンヴァスは山羊が立つ床になります。

1957年、《Factum I》《Factum II》

同じように見える二枚の作品を意図的に制作した《Factum I》《Factum II》では、Abstract Expressionismが重視した「一回限りの自発的な身振り」を検証しました。新聞、写真、絵具の跡を似た位置へ置き、偶発的に見える汚れやドリップまで再演します。

二枚は完全なコピーではありません。似せようとする意識的な作業の中で差が生まれます。自発性とは本当に一度しか起きないものなのか、即興的に見える筆触も再演できるのではないか。Rauschenbergは「真正な身振り」という価値観を揺さぶりました。

1958–60年、ダンテ『神曲』と転写

新聞や雑誌の写真を溶剤で紙へ転写する方法を発展させ、ダンテ『神曲』「地獄篇」34歌の挿絵シリーズを制作しました。古典文学の場面を直接描く代わりに、現代の政治家、スポーツ選手、広告、ニュース写真を転写し、歴史的物語と同時代のメディア像を重ねます。

この技法では、写真は切り抜いて貼られるのではなく、インクだけが紙へ移ります。そのため描線と写真像が同じ表面へ溶け込み、後のシルクスクリーン絵画へつながりました。

1962–64年、シルクスクリーン絵画

1962年から、新聞・雑誌写真をシルクスクリーンへ転写し、巨大なカンヴァスへ印刷する作品を始めます。宇宙飛行士、JFK、ヘリコプター、トラック、都市、名画の複製などが、絵具の筆触と同じ画面に重なります。

《Retroactive I》(1963)ではJFKの写真が中心に大きく現れます。写真は暗殺直前にスクリーン化されており、暗殺後、使用を迷った末に作品へ組み込みました。Andy Warholが一つの像を反復して大量メディアの均質化を強調したのに対し、Rauschenbergは異質な画像を重ね、意味が衝突する状態を残します。

1964年、国際的な評価

1964年6月19日、第32回ヴェネツィア・ビエンナーレでInternational Grand Prize in Paintingを受賞しました。Foundationの年譜によれば、アメリカ戦後美術の国際的な台頭を象徴する出来事として大きな議論を呼びました。

受賞直後、Rauschenbergはニューヨークの助手へ連絡し、スタジオに残っていた約150枚のシルクスクリーン版を破棄するよう依頼しました。成功した技法を反復して自己模倣へ陥ることを避けるためです。市場的に確立したスタイルを維持するより、未知の方法へ移ることを優先しました。

1966年、E.A.T.設立

1966年、エンジニアBilly Klüver、Fred Waldhauer、芸術家Robert WhitmanとともにExperiments in Art and Technology(E.A.T.)を共同設立します。同年の《9 Evenings: Theatre & Engineering》では、多数のBell Laboratoriesの技術者と芸術家が協働し、無線、赤外線映像、センサー、音響制御など当時最先端の技術をパフォーマンスへ取り入れました。

Rauschenberg自身の《Open Score》では、テニスラケットに仕込んだ装置がボールの衝撃を検出し、そのたびに会場の照明が一つずつ消えます。芸術家が完成した技術を単に借りるのではなく、技術者と一緒に仕組みを作ることがE.A.T.の目的でした。

1967年、《Booster》

Los AngelesのGemini G.E.L.で制作した《Booster》では、本人の全身X線写真を6枚つなげ、リトグラフとシルクスクリーンを組み合わせました。高さ約183センチの巨大な版画で、Foundationによれば当時最大の手刷りリトグラフでした。

医学画像、天体図、椅子、幾何学線が同じ紙面に重なり、身体そのものも一つの「見つけられたイメージ」のように扱われます。版画は複製媒体ですが、Rauschenbergにとってコピーは二次的なものではなく、異なる像を組み合わせるための実験装置でした。

1968–71年、《Mud Muse》

《Mud Muse》は、水とベントナイトを入れた大型槽に圧縮空気を送り、周囲の音へ反応して泥が泡立つインタラクティブな作品です。複数のエンジニアと音響担当者との協働によって制作されました。

絵具の代わりに泥、筆の代わりに空気、作者の手の代わりに音へ反応する制御装置が動きます。会場の音が作品の状態を変えるため、完成した一つの形がありません。E.A.T.期の技術と偶然の関係を明確に示す作品です。

1970年、キャプティバへ

1970年末、FloridaのCaptiva Islandへ恒久的な住居とスタジオを構えます。ニューヨークの街路から拾った物が密集するCombinesとは異なり、1970年代には段ボール、紙、布、ロープなど軽く柔らかな素材へ関心が移りました。

《Cardboards》《Venetians》《Hoarfrosts》《Jammers》では、素材が持つ色、折れ、しわ、透過性を活かします。作品の外見は変わりましたが、既存素材の履歴を消さずに使う原理は継続しています。

1979年以降、自分の写真を使う

1979年、Trisha Brown Dance Companyの《Glacial Decoy》の舞台美術で、自身が撮影した白黒写真をスライド投影しました。Foundationによれば、1979年以降は新聞・雑誌の既存画像から離れ、自分で撮影した写真を作品へ使う方向が強まります。

街路、看板、窓、道具、交通、建築など、日常の断片を撮り、それを転写、印刷、コラージュによって再配置します。旅と制作が直接つながり、写真が個人的な画像アーカイブになります。

1984–91年、ROCI

1984年、Rauschenberg Overseas Culture Interchange(ROCI)を国連で発表しました。1985年から90年にかけ、メキシコ、チリ、ベネズエラ、中国、チベット、日本、キューバ、ソ連、ドイツ、マレーシアで展覧会を実施し、1991年にWashingtonのNational Gallery of Artで最終展を開催しました。

ROCIはほぼ自身の資金で運営され、現地で撮影した写真、購入した物、布、金属、地域の技術を使って新作を制作しました。芸術を外交的な対話の手段として考えた大規模な試みでした。一方で、今日からはアメリカの著名作家が他文化を短期間で収集・再構成する文化的非対称性も含め、理想と限界の両方から再検討する必要があります。

2008年、死去

2008年5月12日、FloridaのCaptiva Islandにあるスタジオで死去しました。82歳でした。約60年間の活動で、絵画、彫刻、写真、版画、舞台、テクノロジー、国際交流プロジェクトを横断し続けました。

死後もRobert Rauschenberg Foundationが作品・アーカイブの研究を進めています。2025年の生誕100年には世界各地で30を超える展覧会・関連企画が開催され、2026年まで記念事業が継続しました。

Black Mountain College――アルバース、ケージ、カニングハム

Black Mountain Collegeでの経験は、Rauschenbergに一つの様式を教えたというより、相反する方法を同時に経験させました。Josef Albersは素材、構造、規律を重視し、John Cageは偶然性と非意図的な出来事を作品へ取り込みます。Merce Cunninghamは音楽とダンスを一対一で同期させず、それぞれを独立して同じ時間へ置きました。

Rauschenbergの作品には、その両方があります。Combinesは一見無秩序ですが、物の配置は慎重に調整されています。偶然に見つけた物を使いますが、何を残し、どこへ置くかは判断されます。規律と偶然を対立させず、同じ制作の中に置く態度がここで形成されました。

《White Painting》――何も描かないことで周囲を受け取る

《White Paintings》には図像も筆跡もほとんどありません。しかし「何も描かれていない」から何も起きないわけではありません。鑑賞者の影、窓からの光、展示室の明るさが白い面へ現れます。絵画を作者が情報を入れる容器と考える代わりに、周囲の現実を受け取る表面へ変えました。

初期の《White Painting》の一部は後に別作品へ再利用されました。1968年の展示ではスタジオ・アシスタントBrice Mardenが新しいパネルを制作し、それでも作品年は1951年のまま扱われました。作家本人の筆触より「白く均一なパネルを成立させる考え」が作品の同一性を保つという問題も早くから含まれています。

《Erased de Kooning Drawing》――消すことで作品を作れるか

Rauschenbergは「消すことだけで作品を作れるか」を考え、最初は自分の素描を消しました。しかし、それでは単に描かなかったことと区別できないと考え、当時すでにAbstract Expressionismを代表するWillem de Kooningを訪ね、消すための素描を求めました。de Kooningは意図を理解し、簡単には消えない複数素材を使った素描を渡したとされています。

この作品は「父殺し」や反Abstract Expressionismと説明されることがありますが、SFMOMAは意味を一つに固定していません。Rauschenberg自身はde Kooningを深く尊敬していました。消された紙だけなら何が起きたか分かりません。Jasper Johnsが書いた題名・作者・年のラベルと額装によって、「de Kooningの素描をRauschenbergが消した」という出来事が作品として成立します。

コンバイン――絵画と彫刻の境界をなくす

PicassoやBraqueは新聞紙や壁紙を絵画へ貼り、Duchampは既製品を芸術の文脈へ移しました。RauschenbergのCombinesはその両方を引き継ぎながら、より雑多な現実を一つの画面へ持ち込みます。新聞、包装紙、写真、布、鏡、木、電球、靴、椅子、タイヤ、動物の剥製までが絵具と並列されます。

Metは、Combinesがコラージュを、一つの幻想空間を作る技法から、異質なものを同じ場に置く方法へ変えたと説明しています。作品へ入っても物は元の世界とのつながりを保ち、美術と生活の境界を消すというより、その境界線上で両方を同時に見せます。

《Factum I / II》――「自発的な筆触」は本当に自発的か

1957年の《Factum I》《Factum II》は、ほぼ同じ大きさで、似た新聞切り抜き、赤と黒の筆触、紙片が同じような位置に置かれています。遠目ではコピーに見えますが、見比べると絵具の飛沫、筆の跡、紙の位置が少しずつ異なります。

Rauschenbergは身振りそのものを捨てたのではありません。「この筆跡は作家の唯一無二の内面を直接示す」という説明を疑いました。偶発的に見える形を再演することで、即興と意図、オリジナルと反復の境界を問い直します。

新聞写真を絵画へ――転写とシルクスクリーン

Rauschenbergにとって写真は、絵画に従属する参考資料ではありません。新聞や雑誌から直接像を転写することで、写真特有の網点、ぼけ、反転、断片化を画面へ残しました。描写能力によって飛行機や大統領を再現するのではなく、大量メディアがすでに作った像を移します。

この方法はPop Artと重なりますが、商品記号を明快に提示するより、複数の画像を同時に衝突させる点が特徴です。政治、広告、スポーツ、事故、宇宙開発などが同じ画面へ入り、観客が関係を組み立てる余地を残します。

ラウシェンバーグの作品をどう見るか

Combinesを見るとき、最初から一つの象徴的な意味を探さない方が理解しやすくなります。新聞と絵具、写真と布、動物とタイヤがどのように隣接し、互いを変えて見せているかを見ます。タイヤは円形の造形であると同時に車の部品であり、キルトは色面であると同時に寝具です。造形要素と生活上の履歴を同時に保つことが重要です。

また、作品をRauschenberg一人だけの行為として見ないことも必要です。John Cage、Merce Cunningham、Jasper Johns、Billy Klüver、Gemini G.E.L.の技術者、各地の職人など、多数の他者が制作へ関わります。「誰との協働によって何が可能になったのか」を見ると、Rauschenbergが近代的な孤独な天才像とは異なる制作モデルを作ったことが見えてきます。

主要作品

1951年の《White Painting》から、車のタイヤを版にした《Automobile Tire Print》、消去を制作へ変えた《Erased de Kooning Drawing》、コンバインの《Bed》《Monogram》《Canyon》、抽象表現主義の自発性を検証した《Factum I / II》、報道写真を巨大化した《Retroactive I》、版画技術を拡張した《Booster》、音へ反応する《Mud Muse》、国際文化交流プロジェクトROCIの作品まで、ラウシェンバーグが「異なるものを接触させる」方法をどのように拡張したかを追える11項目を選びました。作品は現在も著作権管理下にあるため、画像は掲載せず、公式所蔵館・Robert Rauschenberg Foundationの情報を中心に構成します。

ホワイト・ペインティング

White Painting / 1951 / 家屋用塗料・カンヴァス / 182.9 × 274.3 cm

San Francisco Museum of Modern Art

白い塗料だけで均一に覆った《White Paintings》の一例。描かれた図像を極端に減らすことで、作品は周囲の光、影、鑑賞者の動きを受け取る表面になります。John Cageにも大きな刺激を与えました。後には助手による再制作も認められ、作品の同一性を作家本人の筆触ではなく構想に置く問題も含んでいます。

所蔵館の作品情報 ↗

自動車タイヤのプリント

Automobile Tire Print / 1953 / 家屋用塗料・20枚の紙、布に貼付 / 41.9 × 726.4 cm

San Francisco Museum of Modern Art

John CageのModel A Fordの後輪へ黒い塗料を塗り、20枚をつないだ長い紙の上を走行して制作したモノプリント。自動車を巨大な版画装置として使い、芸術家の筆跡ではなく工業製品のタイヤと移動の軌跡を作品化しました。

所蔵館の作品情報 ↗

消されたデ・クーニングの素描

Erased de Kooning Drawing / 1953 / 消去された描画の痕跡・紙、額装、ラベル / 作品 64.1 × 55.2 cm、素描部分 35.6 × 27.9 cm

San Francisco Museum of Modern Art

Willem de Kooning本人から受け取った素描を約一か月かけて消去した作品。自分の線を加えるのではなく、他者の既存作品から線を取り除くことで制作が成立するかを試しました。Jasper Johnsが題名・作者・年をラベルに記し、額装と来歴まで含めて作品が成立しています。

所蔵館の作品情報 ↗

ベッド

Bed / 1955 / 油彩、黒鉛・枕、キルト、シーツ、木製支持体 / 191.1 × 80 × 20.3 cm

The Museum of Modern Art, New York

実際の寝具を垂直に壁へ掛け、鉛筆と勢いのある絵具を加えた初期Combine。家庭用品がカンヴァスの代わりになっても、ベッドとしての物質的・身体的な連想を失いません。Abstract Expressionismを思わせる筆触と日常生活の物を直接衝突させています。

所蔵館の作品情報 ↗

ファクタム I/ファクタム II

Factum I / Factum II / 1957 / 油彩、インク、黒鉛、クレヨン、紙、布、新聞、印刷物・カンヴァス / Factum I 155.5 × 91 cm/Factum II 156 × 90.7 cm

The Museum of Contemporary Art, Los Angeles/The Museum of Modern Art, New York

ほぼ同じ構図・画像・絵具の身振りを二枚で再演した対作品。偶然的で一回限りに見える筆触やドリップを意識的に似せることで、Abstract Expressionismが重視した自発的で真正なジェスチャーを問い直しました。

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モノグラム

Monogram / 1955–1959 / 油彩、紙、布、印刷物、金属、木、ゴム、テニスボール・カンヴァス、アンゴラ山羊の剥製、タイヤ、木製台 / 106.7 × 160.7 × 163.8 cm

Moderna Museet, Stockholm

古道具店で見つけたアンゴラ山羊の剥製と自動車タイヤを、水平に置いたコラージュ絵画上へ組み込んだ代表的Combine。約4年間に三つの状態を経て完成しました。絵画を床へ寝かせ、剥製を360度から見られるようにすることで、壁掛け絵画と彫刻の境界を崩しました。

所蔵館の作品情報 ↗

キャニオン

Canyon / 1959 / 油彩、鉛筆、紙、布、金属、段ボール、印刷物、写真、木、鏡・カンヴァス、ハクトウワシの剥製、紐、枕 / 207.6 × 177.8 × 61 cm

The Museum of Modern Art, New York

大型のハクトウワシ剥製が画面から前方へ突き出し、その下に枕が吊られるCombine。国家象徴、古い剥製、都市の廃材、新聞・写真、絵具が同じ作品に共存します。ギリシャ神話のGanymedeとの関連も論じられますが、一つの寓意へ固定できない多義性が特徴です。

所蔵館の作品情報 ↗

レトロアクティヴ I

Retroactive I / 1963 / 油彩、シルクスクリーン・インク・カンヴァス / 213.4 × 152.4 cm

Wadsworth Atheneum Museum of Art, Hartford

John F. Kennedy、宇宙飛行士、パラシュートなど報道・大量メディアの写真像をシルクスクリーンで重ねた代表作。Pop Artと共通する複製技術を使いながら、一つの像を反復するのではなく、異なる情報を同時に衝突させています。

所蔵館の作品情報 ↗

《Bed》――生活用品を壁に掛ける

MoMAの記録によれば、Rauschenbergは当時新しいカンヴァスを買う余裕がなく、夏で使っていなかったキルトを制作支持体に使いました。そこへ枕とシーツを加え、鉛筆と油絵具で描きます。制作理由は非常に現実的ですが、結果は絵画の前提を根本から揺さぶりました。

赤、黄、青の絵具は滴り、勢いよく塗られ、Abstract Expressionismを思わせます。しかしその下には実際に身体が横たわる寝具があります。「身体の身振りを表現する筆触」が、身体の痕跡を直接持つベッドへ置かれることで、抽象表現主義の崇高な身振りと、眠る、汗をかく、休むという日常的身体が同じ作品に重なります。

《Monogram》――ヤギとタイヤを結びつける

《Monogram》は最初から現在の形だったわけではありません。Foundationは、1955–56年、1956–58年、1959年という三段階を記録しています。最初は山羊を垂直の絵画へ取り付けようとしましたが、片側からしか見えないことに不満を持ち、最終的に水平に寝かせた画面へ山羊を置きました。

山羊の胴にタイヤがはまった姿には性的・宗教的・神話的な読みが多数提示されてきました。しかし作品名《Monogram》は、二つの文字を重ねるモノグラムのように、タイヤと山羊が物理的に絡み合った状態から付けられています。一つの意味を説明するより、あり得ない組み合わせそのものを成立させた作品です。

ジャスパー・ジョーンズとの関係

RauschenbergとJasper Johnsは1950年代半ば、同じ建物にスタジオを持ち、互いの作品をほぼ毎日のように見ました。MoMAやFoundationは、この交流が両者をAbstract Expressionismの既存モデルから離れさせる重要な契機だったと説明しています。

Johnsは旗、標的、数字など「すでに知っているイメージ」を描き、Rauschenbergは新聞、物体、写真を作品へ直接入れます。方法は違いますが、作家が内面から新しい形を発明するという考えを共に疑いました。《Monogram》最終形へのJohnsの助言や《Erased de Kooning Drawing》のラベルなど、具体的な協働も残っています。

ダンスとパフォーマンス

Rauschenbergは1954年から64年までMerce Cunningham Dance Companyのresident designerを務め、その後も長く協働しました。舞台装置、衣装、照明を担当し、ときには自ら出演します。CunninghamとCageの方法では、ダンス、音楽、美術を事前に完全同期させず、それぞれが別々に作られ、公演時に同じ時間を共有します。

1963年の《Pelican》では、Rauschenberg自身がローラースケートを履き、背中にパラシュートを付けて動きました。絵画家が舞台美術を提供するだけでなく、自分の身体を使うperformerへ移ります。作品が固定物から出来事へ広がり、後のE.A.T.へつながります。

1964年ヴェネツィア・ビエンナーレ

1964年6月19日、Rauschenbergは第32回Venice BiennaleでInternational Grand Prize in Paintingを受賞しました。Foundationの記録では、この受賞はアメリカ戦後美術の国際的台頭を象徴する出来事として大きな議論を呼びました。展示には1950年代のCombinesから1960年代のsilkscreen paintingsまでが含まれていました。

受賞直後にスタジオのシルクスクリーン版を破棄させたことは、彼の姿勢を象徴しています。すでに市場的・批評的に成功した技法を「自分のスタイル」として繰り返すより、別の方法へ移ることを選びました。

E.A.T.――芸術家と技術者をつなぐ

1966年の《9 Evenings: Theatre & Engineering》では、芸術家とBell Laboratoriesのエンジニアが長期間協働しました。Rauschenbergの《Open Score》ではテニスラケットに装置を仕込み、ボールの衝撃を音として増幅すると同時に、打球ごとに会場照明が消えていきました。

同年9月25日、Rauschenberg、Billy Klüver、Fred Waldhauer、Robert WhitmanはE.A.T.を正式に共同設立します。1969年にはアメリカ内外に40の支部が存在しました。芸術家と技術者が出会える仕組み自体を作った点で、現在のメディア・アートやアート&サイエンスの共同研究につながる重要な先例です。

版画――複製を創造の方法にする

Rauschenbergは1962年にUniversal Limited Art Editionsで本格的にリトグラフを始め、その後Gemini G.E.L.など多数の工房と共同制作しました。彼にとって版画は、すでにある絵画を安価に複製する手段ではありません。写真、文字、版のずれ、透明素材、複数技法を試す研究所でした。

1967年の《Booster》では、全身X線を6枚に分けて撮影し、ほぼ実寸の骨格を紙へ印刷しました。さらに椅子、天文図、線、写真を重ねます。顔の表情ではなく骨格として現れる自画像であり、身体、科学、印刷技術が同じ作品に交差します。

キャプティバ移住――紙と布へ

1970年のCaptiva移住後、作品から都市の新聞や金属スクラップが一時的に減り、段ボール、布、紙、ロープが中心になります。Foundationはこの変化を、環境の変化に伴って「paletteをclearした」と説明しています。

《Cardboards》では配送用段ボールの印刷、折れ、テープ跡をそのまま使い、《Hoarfrosts》では半透明の布へ写真像を転写し、《Jammers》では鮮やかな布を空間へ吊ります。外見はCombinesから大きく変わりますが、素材が元から持つ履歴を消さずに用いる姿勢は同じです。

ROCI――世界を移動しながら制作する

ROCIは、芸術を通じて異なる社会の人々を直接つなぐというRauschenbergの理想から生まれました。1985–90年に10地域を巡り、各地で新作と既存作を組み合わせて展示しました。作品には現地で撮影した写真、購入した布、金属、印刷物、地域の工芸技術が使われます。

FoundationはROCIを人権と表現の自由への長期的な関心として位置づけています。一方、今日から見ると、アメリカの著名作家が各地域を訪れ、短期間で素材や写真を収集し、自分の作品へ取り込む行為には文化的な非対称性もあります。ROCIは国際交流の理想だけでなく、グローバル化前夜の文化交換の複雑さまで含めて考える必要があります。

写真――借りた像から自分で撮る像へ

RauschenbergはBlack Mountain Collegeで写真を学び、1952–53年のヨーロッパ・北アフリカ旅行でも大量に撮影しました。1952年にはMoMAが彼の写真2点を購入しており、美術館による最初の作品取得も絵画ではなく写真でした。

1950–60年代には新聞・雑誌の写真を積極的に利用しますが、1979年以降は自分で撮影した写真が中心になります。旅先の街路、看板、窓、道具、交通、建築を撮り、別の支持体へ転写することで、写真は記録から作品を生成する個人的な画像庫へ変わりました。

2025–26年、生誕100年の再評価

2025年はRauschenberg生誕100年にあたり、Robert Rauschenberg Foundationは国際的なCentennial事業を実施しました。Foundationによれば、2025年から26年にかけて30を超える展覧会・関連企画が世界各地で行われました。

内容はCombinesの再紹介だけではありません。Museum Brandhorst/Museum LudwigではCage、Cunningham、Johns、Twomblyとの関係、Menil Collectionでは1970年代の布作品、Fundación Juan Marchでは写真イメージ、M+ではアジアとの関係など、従来の代表作の陰に隠れた領域が個別に検証されました。2026年にもKunsthalle Kremsなどで企画が続き、FoundationはCentennial Reportを公開しています。

ロバート・ラウシェンバーグは何を変えたのか

絵画を「窓」から「受け皿」へ変えた

伝統的な絵画では、カンヴァスは別の世界を見せる窓として機能してきました。Rauschenbergの画面は、新聞、写真、物、絵具、文字が載る机や掲示板のようになります。現実を描写して表すのではなく、現実の断片そのものを置く。絵画が世界を再現する場所から、世界の物と情報を受け取る場所へ変化しました。

絵画か彫刻かという分類を実際の作品で無効にした

Combine以前にも境界的な作品は存在しましたが、Rauschenbergはそれを短期的な実験ではなく大規模な作品群として展開しました。《Bed》《Monogram》《Canyon》では、媒体分類を決めること自体が意味を失います。この姿勢は、その後のアッサンブラージュやインスタレーション、mixed mediaの一般化へ大きくつながりました。

作者の内面より、世界との接触を重視した

Abstract Expressionismが作家の身振りを中心にした時代に、Rauschenbergは新聞、タイヤ、既成写真、他人の運転、技術者の装置などを作品へ入れました。作品は「私の内側にあるものを外へ表現する」だけではなく、「外の世界と接触した結果」として成立します。

協働を制作の中心へ置いた

Cage、Cunningham、Johns、技術者、版画工房、紙漉き職人、各国の協力者との制作は補助的な活動ではありませんでした。異なる専門性が衝突すること自体を作品生成の方法と考えます。「作家本人がすべてを支配する」という近代的な作者像を弱め、共同制作を20世紀後半美術の重要なモデルへ変えました。

一つの成功したスタイルに留まらなかった

White Paintings、Combines、transfer drawings、silkscreen paintings、performance、technology works、Cardboards、fabric works、ROCI、digital transferと、外見は何度も変わります。そのためRauschenbergを一枚の代表作や一つの運動だけで説明することは難しくなります。

しかし、その変化そのものが一貫しています。未知の素材や技法へ移り、既存の分類が成立しなくなる場所を探すこと。それがRauschenbergの60年間の制作をもっとも強く結びつけています。

略年譜

1925
10月22日、テキサス州Port ArthurにMilton Ernest Rauschenbergとして生まれる。
1940年代
アメリカ海軍に従軍し、神経精神科の技術員として勤務。
1947
Kansas City Art Instituteへ入学。この頃MiltonからBob/Robertへ改名。年末にParisのAcadémie Julianへ留学。
1948
Susan WeilとBlack Mountain Collegeへ。Josef Albersに学び、写真、織物、舞台など複数分野に接する。
1949
ニューヨークへ移住。Art Students Leagueで学ぶ。
1950–1951
Susan Weilとblueprint作品を制作。1951年《White Paintings》《Black Paintings》を開始。Betty Parsons Galleryで初個展。
1952
Black Mountain CollegeでJohn Cage、Merce Cunningham、Cy Twomblyらと交流。後に《Theater Piece No. 1》と呼ばれるイベントに参加。
1952–1953
Cy Twomblyとイタリア、北アフリカを旅行。写真と《Scatole Personali》を制作。
1953
《Automobile Tire Print》をJohn Cageと制作。《Erased de Kooning Drawing》を制作。
1954
最初の本格的なCombinesを制作。《Collection》などで絵画、コラージュ、立体物を統合。
1955
《Bed》《Rebus》等を制作。《Monogram》に着手。Jasper Johnsとの密接な制作交流が続く。
1957
《Factum I》《Factum II》を制作。
1958–1960
新聞・雑誌写真の溶剤転写を使い、ダンテ『神曲』「地獄篇」34歌の挿絵シリーズを制作。
1959
《Monogram》最終形、《Canyon》《Broadcast》などを制作。
1962
ULAEで本格的な版画制作を開始。シルクスクリーンを絵画へ導入。
1963
Jewish Museumで大規模個展。《Retroactive I》を制作。自作performance《Pelican》を初演。
1964
第32回Venice BiennaleでInternational Grand Prize in Painting受賞。受賞後、シルクスクリーン版約150枚を破棄させる。
1966
《9 Evenings: Theatre & Engineering》で《Open Score》を発表。9月25日、Billy Klüver、Fred Waldhauer、Robert WhitmanとE.A.T.を共同設立。
1967
Gemini G.E.L.で《Booster and 7 Studies》を制作。
1968–1971
音へ反応して泥が泡立つ《Mud Muse》をエンジニアとの協働で完成。
1970
FloridaのCaptiva Islandへ恒久的な住居・スタジオを構える。《Cardboards》制作を開始。
1971–1976
《Cardboards》《Venetians》《Hoarfrosts》《Jammers》など、段ボール・紙・布を中心とする作品群を展開。
1975
インドAhmedabadで紙漉き職人と共同制作。
1976
National Collection of Fine Arts(現Smithsonian American Art Museum)で大規模回顧展。
1979
Trisha Brown《Glacial Decoy》の舞台美術に自身の写真を使用。以後、自分の写真を作品へ積極的に導入。
1982–1985
中国で紙、日本・信楽で陶芸と釉薬技術を使った共同制作を行う。
1984
国連でRauschenberg Overseas Culture Interchange(ROCI)を発表。
1985–1990
ROCIをメキシコ、チリ、ベネズエラ、中国、チベット、日本、キューバ、ソ連、ドイツ、マレーシアで展開。
1991
National Gallery of Art, Washingtonで《ROCI USA》を開催。
1993
アメリカ国家芸術勲章を受章。
1997
Solomon R. Guggenheim Museumで大規模回顧展。72歳の誕生日に《Mirthday Man》を制作。
2002
脳卒中を経験。その後も制作を継続。
2005–2006
Metropolitan Museum of Artで《Robert Rauschenberg: Combines》。Combines 67点を集めて再検証。
2008
5月12日、Florida・Captiva Islandのスタジオで死去。82歳。
2016–2018
Tate Modern、MoMA、SFMOMAを巡回する大規模回顧展が開催され、協働を中心に全制作が再検証される。
2025
生誕100年。Robert Rauschenberg FoundationによるCentennialが開始され、世界各地で30を超える展覧会・公演・研究企画が展開。
2025–2026
《Five Friends》《Robert Rauschenberg’s New York》《Fabric Works of the 1970s》《The Use of Images》《Robert Rauschenberg and Asia》など、特定の制作領域に焦点を当てた展覧会が各地で開催。
2026
《Robert Rauschenberg: Image and Gesture》などCentennial関連企画が継続。Foundationが生誕100年事業の総括を公開。

参考資料・出典

本ページはRobert Rauschenberg Foundation、The Museum of Modern Art、San Francisco Museum of Modern Art、The Metropolitan Museum of Art、National Gallery of Artなどの美術館・財団・公的アーカイブ資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY