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Art Quiz

美術は、疑問から面白くなる。絵画の見方から、作家たちの不思議な行動まで。楽しく学べる1問1答。
気になった問いを入口に、美術の世界をめぐってみませんか?

1915–1930 | ロシア構成主義の美術史クイズ!

Q. ロシア構成主義の作家たちは、なぜ絵を「構成する」と考えたの?

ロシア構成主義では、形や色、材料を組み合わせる行為そのものが重視されました。人や風景を写し取る代わりに、線、平面、立体がどのような関係を作るかを実験したのです。この考えが広まった背景には、1917年のロシア革命がありました。新しい社会には新しい芸術が必要だと考えた作家たちは、作品を個人の感情の表現として扱うだけでなく、生活や生産にも役立つものにしようとしました。「構成」という言葉には、形を実際に作り出す姿勢が込められています。

1920年にモスクワで設立された芸術文化研究所では、新しい芸術の原理をめぐる議論が続きました。1921年3月、アレクサンドル・ロトチェンコやワルワラ・ステパノワらは「構成主義者第一作業部会」を結成します。彼らは、作品を何かの絵に似せるより、素材や仕組みを考えて作ることを重視しました。構成主義は、革命後の社会を自分たちの手で組み立てようとする芸術の実験でした。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロトチェンコと新しい文化機関)

Q. タトリンの《コーナー・反レリーフ》は、なぜ部屋の角に張られているの?

ウラジーミル・タトリンの《コーナー・反レリーフ》(1914年)は、金属板や木材、ワイヤーなどを使い、二つの壁が交わる角に張り渡した作品です。画面に絵の具で立体感を描くのではなく、実際の材料が空間の中で引っ張り合っています。金属の硬さとワイヤーの張力が目に見えるので、形がどのように成り立っているかを想像できます。部屋の角も作品の一部になり、壁に掛ける絵や台座に置く彫刻とは違う鑑賞体験が生まれました。

この作品は1915年、ペトログラードで開かれた前衛美術展「0.10」で公開されました。タトリンはそれ以前から、紙、ガラス、石膏、木、金属といった異なる素材を組み合わせる試みを続けていました。作品の見どころは、材料が持つ柔らかさや硬さ、軽さや重さが、そのまま形に表れていることです。壁と壁の間にできる緊張まで利用した表現は、後の構成主義へつながります。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・反レリーフ》)

Q. 高さ400メートルを目指したタトリンの塔は、なぜ実現しなかったの?

タトリンが1919〜20年に構想した《第三インターナショナル記念塔》は、鉄とガラスで高さ約400メートルに達する巨大な塔でした。斜めの柱を中心に、二重のらせんが空へ伸びる姿が特徴です。内部には会議や情報発信のための空間を置き、幾何学的な部屋がそれぞれ異なる速さで回転する計画でした。政治のための建物を、革命後の社会の変化を示す動く建築にしようとしたのです。

タトリンは1920年に仲間や学生と木製模型を作りました。塔はロシア革命後の新しい国際的な社会を象徴する構想でしたが、実物の建設には至りませんでした。約400メートルという高さに加え、回転する内部施設や複雑な鉄骨構造を実現するには、膨大な資材と技術が必要でした。内戦後の厳しい経済状況も建設を難しくしました。後年、多くの美術館が模型を再制作しているのは、実際に建てられなかった計画そのものが、20世紀建築の大胆な想像力を伝えているからです。(参照:テート|タトリンの塔の模型と再制作研究)

Q. ポポーワの《絵画的建築》は、なぜ板を積み重ねたように見えるの?

リュボーフィ・ポポーワの《絵画的建築》(1917年)では、斜めになった色の面が幾重にも重なり、板や壁が空間の中で交差しているように見えます。人物も風景も登場しません。ポポーワは、形の重なりだけで奥行きや動きを感じさせる絵を作ろうとしました。赤や黄色などの力強い色彩と、傾いた四角形の関係が、建物を組み立てる作業のような印象を生んでいます。題名の「建築」も、形を構成する考え方を示しています。

ポポーワは1912〜13年にパリでキュビスムを学び、イタリアで未来派の作品にも接しました。1916年にはマレーヴィチのシュプレマティスムに関わり、抽象的な形を探究します。《絵画的建築》は、さまざまな前衛芸術から刺激を受けながら独自の表現へ進んだ時期の作品です。ポポーワは後に舞台装置や布の模様も手がけ、平面上の構成を実際の生活空間へ広げていきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポポーワ《絵画的建築》音声解説)

Q. ロトチェンコの吊り彫刻は、なぜ一枚の木の板から作れるの?

ロトチェンコの《空間構成第12号》(1920年頃)は、輪が幾重にも重なった軽やかな彫刻です。大きさの異なる楕円形が空中に浮かんでいるように見えますが、もとは一枚の合板でした。ロトチェンコは板に同心状の切り込みを入れ、切り出した帯を回転させながら広げて、立体を作りました。木を削り出して重い塊を残す代わりに、切り抜かれた空間と輪の関係を作品にしたのです。空気が動くと彫刻もゆっくり揺れ、見え方が変わります。

ニューヨーク近代美術館の所蔵作には、合板とワイヤーが使われ、一部にアルミニウム色の塗料が残っています。ロトチェンコは、色つきの照明を当てて反射や影を生み出すことも考えていました。形を決めるために幾何学的な規則を利用した点には、構成主義が科学や技術に寄せた関心が表れています。台座を離れて宙に浮く彫刻は、ものの重さより空間と動きを感じさせる作品になりました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロトチェンコ《空間構成第12号》)

Q. ロトチェンコは、なぜ赤・黄・青だけを描いて「絵画は終わった」と言ったの?

1921年、ロトチェンコは赤、黄、青をそれぞれ一色で塗った三枚の絵を発表しました。題名は《純粋な赤》《純粋な黄》《純粋な青》です。風景や人物はもちろん、色同士の組み合わせによる構図もありません。絵画を極限まで単純にしたこの三点を通して、彼はこれ以上、絵画の形を減らすことはできないという結論を示しました。

三枚は同年、モスクワで開かれた展覧会「5×5=25」に出品されました。五人の芸術家が五点ずつ作品を発表した展覧会で、ポポーワやステパノワも参加しています。このころ構成主義の作家たちは、展示室で鑑賞する絵から、生活の中で使うものの制作へ関心を移していました。ロトチェンコもその後、写真、広告、雑誌、舞台などへ活動を広げます。「絵画は終わった」という言葉は、すべての画家への禁止ではなく、彼自身が新しい制作へ進む決意を示すものとして読むことができます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロトチェンコと絵画の終わり)

Q. ポポーワは、なぜ劇場の舞台に工場の機械のような装置を作ったの?

ポポーワが1922年に手がけた舞台『堂々たるコキュ』では、木組みを思わせる枠や斜めの板、回転する部分などが舞台を構成していました。写実的な家の壁や背景画を置く代わりに、俳優が動くための仕組みを目に見える形で作ったのです。演出家フセヴォロド・メイエルホリドの実験的な演劇にとって、舞台装置は物語を飾る背景から、身体の動きや劇のリズムを生み出す装置へ変わりました。

ポポーワは、斜線や平面を重ねる抽象絵画を長く探究してきました。舞台の仕事では、絵の中に描いた形が実際の高さや重さを持ち、人の動きに関わるようになります。装置と衣装、照明、音楽、俳優の身体が一緒に働く空間を目指した点に、構成主義らしさがあります。1921年には仲間とともに伝統的なイーゼル絵画からの転換を表明し、その後は舞台、印刷物、織物などの実用的なデザインを中心に活動しました。絵画の実験が劇場で立体化した例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ポポーワ回顧展・舞台美術)

Q. ステパノワのスポーツウェアは、なぜ大きな縞模様なの?

ワルワラ・ステパノワの《スポーツウェアのデザイン》(1923年)には、大胆な線や色面を組み合わせた服が描かれています。目立つ縞模様には、装飾以外の役割も考えられていました。競技する人の動きが分かりやすくなり、チームごとの違いも一目で識別できるからです。ステパノワは、服を身体の動きに合わせて設計する道具として捉えました。着る人が何をするのかを出発点に、形や色を決めようとしたのです。

ステパノワは構成主義の雑誌『レフ』で、仕事着の設計についても論じました。衣服の縫い目や裁断の仕組みを明快にし、工業生産に適したものを作ろうと考えていました。彼女は労働用の服にも関心を持ち、スポーツでは色や記号による識別を重視しています。図案として残ったものも多く、すべてが大量生産されたわけではありません。生活を変えるデザインへの具体的な提案です。(参照:ガレージ現代美術館|ステパノワのスポーツウェア案)

Q. ポポーワは、なぜ抽象画のような模様を布に印刷したの?

ポポーワの《幾何学模様のデザイン》(1923〜24年)には、青い円弧、赤い三角形、黒い形などが繰り返し配置されています。方眼の上に図形を重ねた下絵を見ると、模様が計画的に組み立てられていることが分かります。ポポーワは1923年からモスクワの第一国立捺染工場で、実際に布へ印刷するためのデザインを始めました。抽象絵画で試した色と形を、衣服や室内で使われる布の模様へ発展させたのです。

織物の模様は、同じ図柄を連続して印刷することで広い面を覆います。絵画のように一枚ごとに構図を決める仕事とは違い、反復しても美しく見える組み合わせや製造方法を考える必要があります。ポポーワは、丸や三角形の向きと色の関係を利用して、動きのある図案を作りました。美術館に展示される一点の絵から、多くの人の日常へ届く製品へ。彼女の織物デザインは、構成主義が掲げた芸術と生産の結びつきを具体的に示しています。(参照:メトロポリタン美術館|ポポーワ《幾何学模様のデザイン》)

Q. ロトチェンコは、なぜ飛行機会社の便箋までデザインしたの?

ロトチェンコが1923年にデザインした国営航空会社ドブロリョートの便箋には、飛行機を斜めに配置した力強い図案が使われています。機体を横から静かに見せるより、斜めに飛ぶ姿で速度や新技術の印象を伝えようとしたのです。ロトチェンコはこの会社のために、ロゴ、広告、包装、ポスター、事務用品などさまざまなものを制作しました。会社の名前や活動を知ってもらうために、文字と図形を分かりやすく組み合わせています。

革命後のロシアでは、工業や交通を新しい社会の基盤として発展させようとしていました。1920年代初めには限定的に民間企業の活動も認められ、国営企業も自分たちの事業を宣伝する必要がありました。ロトチェンコは広告の仕事を、構成主義の形と色を社会の中で働かせる機会と捉えました。芸術家が工業製品や企業の情報を伝える仕事に参加した、当時の新しい職能を示す例です。(参照:メトロポリタン美術館|ロトチェンコ《ドブロリョートの便箋》)

Q. ステンベルク兄弟の映画ポスターは、なぜ眼鏡の中にも文字があるの?

ウラジーミルとゲオルギーのステンベルク兄弟が1928年に制作した映画『第十一年』のポスターでは、大きな眼鏡をかけた人物の顔が目を引きます。レンズの中には機械の光景が映り、映画の題名も繰り返し入っています。文字はポスターの説明として添えるものから、絵と一体になって視線を動かす材料へ変わりました。

『第十一年』はジガ・ヴェルトフが監督した、1917年のロシア革命から十一年後の産業や農業の進歩を記録する映画です。眼鏡に映る機械は、人の目とカメラのレンズを重ねる工夫にもなっています。映画は当時、広い人々へ情報を届ける重要な媒体でした。ステンベルク兄弟は写真を利用したように見える画面を、石版印刷の版面に手で描いて制作しました。映画の内容を紹介しながら、ポスター自体も新しい視覚の体験にしたところに、構成主義のグラフィック表現の力があります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ステンベルク兄弟《第十一年》ポスター)

Q. ロトチェンコは、なぜ真上から中庭の写真を撮ったの?

ロトチェンコの写真《デモの準備》(1928〜30年)は、モスクワの中庭を高い場所から見下ろした作品です。建物の暗い形と明るい地面が大きな模様を作り、その中に人々や細かな物の姿が見えます。見慣れた中庭が、まるで抽象的な図形のように見えるのは、撮影位置が大きく変わったためです。ロトチェンコは自宅のバルコニーから身を乗り出すようにして撮影し、普段は気づきにくい空間の形を写真にしました。

彼は1925年ごろから、建物を真上や真下、斜めの位置から写す実験に取り組んでいました。当時の人々にとって、こうした視点は新鮮で、ものの見方を変える力がありました。絵画や立体で追究した斜めの線と幾何学的な構成が、カメラを通して身近な街に見いだされたのです。ロトチェンコは、どこから見るかによって日常の光景が驚くほど変わることを示しました。構成主義の実験が写真へ広がった一例です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロトチェンコ《デモの準備》)

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