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Art Quiz

美術は、疑問から面白くなる。絵画の見方から、作家たちの不思議な行動まで。楽しく学べる1問1答。
気になった問いを入口に、美術の世界をめぐってみませんか?

1916–1924 | ダダの美術史クイズ!

Q. ダダは、なぜ第一次世界大戦のさなかに生まれたの?

1916年、第一次世界大戦が続くヨーロッパで、戦争を逃れた芸術家や詩人たちが中立国スイスのチューリヒに集まりました。彼らが活動の拠点としたのが、ヒューゴ・バルとエミー・ヘニングスが始めた「キャバレー・ヴォルテール」です。ここでは絵画の展示とともに、詩の朗読、音楽、即興の舞台が入り交じる催しが行われました。

参加者たちは、科学や文明が進歩しても大規模な殺し合いを止められなかった社会に強い不信感を抱いていました。国や権威が掲げる立派な言葉、芸術の格式、理屈の通った表現を揺さぶろうとしたのです。騒がしく、時にはふざけて見えるダダの活動には、戦争を生んだ時代への真剣な抗議がありました。 (参照:MoMA|What Is Dada? / チューリヒ観光局|Dada in Zurich)

Q. 「ダダ」って、どういう意味なの?

「ダダ」という言葉の由来には、いくつもの説明が伝わっています。辞書を偶然開いて見つけたという話もあれば、フランス語で子どもの木馬を指す言葉だったという説明もあります。活動の中心にいたトリスタン・ツァラたちは、この短く、意味が定まりにくい音を新しい運動の名前として使いました。

普通、美術の運動名は作風や理念を説明する手がかりになります。ダダの場合は、名前の曖昧さ自体が大切でした。何かを立派に定義し、整った体系に収めようとする態度を茶化すような響きがあります。意味をひとつに固定できない名前は、既成の決まりに疑問を向ける彼らの活動によく似合っていたのです。 (参照:MoMA|Dada)

Q. キャバレー・ヴォルテールでは、何をしていたの?

1916年のチューリヒにあったキャバレー・ヴォルテールは、舞台と集会の場を兼ねた小さな空間でした。ヒューゴ・バルの朗読、エミー・ヘニングスの歌、トリスタン・ツァラの詩、マルセル・ヤンコの仮面など、さまざまな表現が同じ場所に集まりました。客席が騒がしくなることもあり、現在の静かな美術館とはずいぶん違う雰囲気だったようです。

ダダの参加者にとって、作品は壁に掛ける絵や台座に置く彫刻に限られませんでした。声を出すこと、仮装すること、人を驚かせること、仲間と一緒に何かを起こすことも表現の一部でした。その後のパフォーマンス・アートを考えるときにも、この場所での実験は重要な出発点のひとつになります。 (参照:MoMA|Artistic Collaboration / チューリヒ観光局|Dada in Zurich)

Q. 意味のわからない詩を読むことにも、意味があるの?

ヒューゴ・バルらは、普通の文章として意味を読み取れない音の連なりを声に出す「音声詩」を試みました。単語が物事を説明する役割から離れると、言葉の響きや強さ、リズムが前面に現れます。舞台での身振りや衣装も加わり、朗読は言葉を使った一種の出来事になりました。

彼らは、政治家の演説や新聞の言葉が戦争を正当化していく時代を生きていました。だからこそ、言葉がいつも明快な意味を伝えるという考えを疑い、文法や文章の順序まで崩してみたのです。わからない音に耳を澄ます体験は、普段は当たり前だと思っている言葉の仕組みを、別の角度から感じさせます。 (参照:MoMA|Word Play / チューリヒ観光局|Dada in Zurich)

Q. デュシャンは、なぜ便器を作品として出品したの?

1917年、マルセル・デュシャンは市販の男性用小便器を横向きに置き、「R. Mutt 1917」と記して《泉》と名づけました。出品先はニューヨークの独立美術家協会の展覧会です。この展覧会は審査で作品を選別しない方針を掲げていましたが、《泉》は展示を認められませんでした。デュシャンはその判断に抗議しました。

この出来事が投げかけたのは、作品を芸術として受け入れる基準を誰が決めるのか、という疑問です。美しい形を手で作り出す代わりに、既製品を選び、題名を付け、展覧会に持ち込む。その行為が美術の常識を揺さぶりました。1917年の現物は失われ、現在は当時の写真や後年の複製を通して知られています。 (参照:フィラデルフィア美術館|Marcel Duchamp and the Fountain Scandal)

Q. 買ってきた物を置くだけで、美術作品になるの?

デュシャンが「レディメイド」と呼んだのは、すでに製造され、生活の中で使われている物を選び、新しい文脈に置く方法です。例えば《自転車の車輪》では、自転車の車輪と椅子を組み合わせました。雪かき用のシャベルを選んだ作品もあります。作家の手先の技術以上に、何を選び、どう提示するかが制作の中心に移ります。

この方法によって、鑑賞する人は「何が作られているか」と同時に「どうしてこれが展示されているのか」を考えることになります。道具としての役割から離れた物は、見慣れた姿のまま別の問いを生み出します。レディメイドは、のちのコンセプチュアル・アートにも大きな影響を与えました。 (参照:MoMA|Marcel Duchamp and the Readymade)

Q. デュシャンは、なぜ《モナ・リザ》にひげを描いたの?

デュシャンは1919年、レオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》の複製画像に口ひげとあごひげを描き加え、《L.H.O.O.Q.》という題名を付けました。題名のアルファベットをフランス語で続けて読むと、性的な冗談を連想させる音になります。誰もが知る名画に、いたずら書きと語呂合わせを重ねた作品です。

《モナ・リザ》はすでに権威ある名画として広く知られ、複製画像も流通していました。デュシャンはその「有名な作品」の複製を材料にし、美術の権威や名作への敬意をユーモアで揺さぶりました。作品を作ることに、元の画像を選び、少し手を加え、別の意味を生み出す方法があると示したのです。 (参照:フィラデルフィア美術館|Marcel Duchamp)

Q. ハンナ・ヘーヒは、なぜ写真を切り貼りしたの?

ベルリンで活動したハンナ・ヘーヒは、新聞や雑誌から政治家、機械、広告、女性の写真などを切り取り、ひとつの画面に組み合わせました。こうした方法は「フォトモンタージュ」と呼ばれます。1919〜20年ごろの代表作《台所包丁で切り裂かれたダダ》では、ばらばらの顔や文字が複雑に入り交じり、当時のドイツ社会の混乱を映し出しています。

雑誌に載っている写真は、もともと商品や権力者の印象を伝えるために作られたものです。ヘーヒはそれを切り離し、予想外の相手と並べることで、写真が持つ意味を変えました。女性に期待された役割や、政治と大衆文化の関係も問い直しています。切って貼る行為が、社会を批評する鋭い表現になったのです。 (参照:MoMA|Hannah Höch / MoMA|Hannah Höch’s Fortuitous Beauty)

Q. ベルリンのダダは、なぜ政治的な作品が多いの?

チューリヒのダダが詩や舞台で既成の価値観を揺さぶったのに対し、戦後のベルリンでは、政治家や軍隊、報道への直接的な批判が前面に出ました。敗戦後のドイツでは革命や政争が続き、社会の秩序も大きく変化していました。ジョージ・グロスやジョン・ハートフィールドらは、新聞の写真や風刺画を使って権力者を攻撃しました。

1920年の「第1回国際ダダ見本市」では、作品が壁を埋め、軍人を風刺する人形まで天井から吊るされました。きれいな作品を静かに鑑賞する展覧会というより、観客の常識を挑発する空間です。同じ「ダダ」の名前でも、活動した都市によって表現の方向はさまざまでした。 (参照:MoMA|Dada / MoMA|Hannah Höch)

Q. 偶然にまかせて作ったものも、作品になるの?

ダダに参加したジャン・アルプは、紙をちぎって散らし、その偶然できた配置を作品に取り入れました。《偶然の法則に従って配置された正方形によるコラージュ》では、大小の色紙が画面に置かれています。画家が最初からすべての形や位置を決める方法から、一歩離れた制作です。

第一次世界大戦を経験したアルプたちにとって、人間の理性や判断力は、無条件に信頼できるものではありませんでした。だからこそ偶然という別の働きに目を向けたのです。作品をよく見ると、並び方には整った部分もあり、制作上の判断も残っています。偶然を受け入れながら、どこまで作家が手を加えるかという問題も、この実験の面白さです。 (参照:MoMA|ジャン・アルプ《偶然の法則に従って配置された正方形によるコラージュ》)

Q. クルト・シュヴィッタースは、なぜごみや切符を作品にしたの?

ドイツのハノーファーで活動したクルト・シュヴィッタースは、使い終えた切符、包み紙、印刷物の切れ端、木片などを集め、絵画のような画面に組み合わせました。彼は自分の作品を「メルツ」と呼んでいました。既製の素材を使う点ではダダと近く、身の回りのありふれた物に新しい役割を与える方法を探っていました。

切符には移動した経験が、広告の断片には街の暮らしがしみ込んでいます。色や形を組み立てるだけでなく、素材が以前どこにあったかを想像させるところも魅力です。やがてシュヴィッタースは部屋全体を使う大規模な「メルツバウ」へ制作を広げました。日常生活のかけらが作品になり、ついには空間そのものを変えていったのです。 (参照:MoMA|Kurt Schwitters: Merz Picture 32 A)

Q. ダダは、シュルレアリスムにどうつながったの?

1920年代初頭のパリでは、ダダの活動に参加していたアンドレ・ブルトンらが、言葉の実験や偶然の働きにさらに関心を深めていました。ブルトンは1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表し、夢や無意識、理性に縛られない思考を探る運動を明確にしていきます。ここからシュルレアリスムが広がりました。

ダダは戦争を生んだ社会や芸術の権威を挑発し、既成の秩序を壊す実験を重ねました。シュルレアリスムは、その経験を受け取りながら、夢や無意識を通して新しいイメージを生み出そうとしました。両者に関わった作家もいますし、活動した時期も一部重なります。続けて読むと、ひとつの運動から別の探求が生まれる美術史の流れが見えてきます。 (参照:ポンピドゥー・センター|シュルレアリスム / MoMA|What Is Dada?)

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