11世紀
石造りの教会を、どうやって建てていたの?
厚い石の壁が何十メートルも続き、頭上には大きなアーチが重なっています。ヨーロッパの古い教会に入ると、これほど大きな建物を、機械のない時代にどうやって造ったのかと驚かされます。石は重く、持ち上げるのも、丸く積み上げるのも簡単ではありません。
11世紀のヨーロッパでは、修道院や司教、王や皇帝の支援を受けて、大きな石造教会が相次いで建設されました。職人たちは石を切り出し、運び、形を整え、木の足場や型枠を使って壁とアーチを組み立てていました。ドイツのシュパイアー大聖堂とイングランドのダラム大聖堂をたどると、実際の工事がどのように進んだのかが見えてきます。
教会は、まず地面の下から建て始めた
CATHEDRAL SPEYER, GERMANY (2021) || CRYPT AND THE TOMB OF EMPERORS AND KINGS ||4K (TitaJoerg)
約 1,000 年の歴史を持つシュパイアー大聖堂と、神聖ローマ帝国の最も重要な皇帝たちの墓と地下聖堂を探索する旅にご参加ください。この印象的なローマ カトリック教会の雰囲気を私たちと一緒に体験してください。シュパイアーの帝国とマリアーデムはシュパイアー大聖堂として知られています。4 つの塔と 2 つのドームを持つバシリカであるシュパイアー大聖堂は、1030 年にコンラート 2 世によって創建され、11 世紀末に改築されました。神聖ローマ帝国時代の最も重要なロマネスク様式の建造物の 1 つです。大聖堂は、約 300 年間、ドイツ皇帝の埋葬地でした。ナポレオンの治世中にクリュニー修道院が部分的に破壊された後、世界で最大の現存するロマネスク教会です。1925 年に教皇ピウス 11 世によって小バシリカの地位に昇格されました。 1981年以来、シュパイアー大聖堂はユネスコの世界文化遺産リストに登録されており、ハーグ条約によって保護された文化財です。建築史において、シュパイアー大聖堂の地下聖堂は中世建築の頂点とみなされています。そのデザインと調和は驚くべきものです。世界最大のロマネスク様式の地下聖堂です。
現在のドイツにあるシュパイアー大聖堂は、皇帝コンラート2世によって1030年に創建されました。中央に長い礼拝空間があり、その両側に通路が並び、奥には祭壇を置く場所が設けられています。遠くからでも見える塔を備えた大規模な建物で、皇帝の権威を示す役割も持っていました。こうした大きな教会を造るには、石工が工事を始めるより前に、建物の形や柱の配置を決める必要がありました。
建設では、まず地面に建物の位置を定め、壁や柱を支える基礎を造りました。基礎とは、地面の下に設ける建物の土台のことです。とくに重い石壁を積む場所では、上からの重さを受け止める頑丈な土台が欠かせません。現在のイングランド北東部にあるダラム大聖堂では、1093年7月29日に基礎を掘り始め、8月11日に最初の石が据えられたことまで史料に残っています。シュパイアー大聖堂の建物を見ると、巨大な建築が地下の土台から積み上げられていることを想像できます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂・コロンビア大学・ロジャー・スタリー|ダラム大聖堂の創建史料と工事の年代)
これだけの石を、どこから運んできたの?
次に必要なのは、大量の石です。石工たちは、石切り場で岩を切り出し、使う場所に応じた大きさや形に加工しました。大きな石を細かく削りすぎずに使える場所もあれば、柱や窓枠、アーチのように、正確な形に整えなければならない場所もあります。現代の電動工具がない時代、石の加工には、のみや金槌などを使う熟練した手仕事が必要でした。
重い石材を遠くまで運ぶのは大仕事です。中世の建築現場では、荷車や船などが利用され、運搬経路は工事の費用にも大きく関わりました。ダラム大聖堂では、近くで採れる砂岩を主要な建材に使えたため、遠方から大量の石を取り寄せる必要がありませんでした。建設史を研究したロジャー・スタリーは、この地元の石材が輸送の負担を軽くしたと説明しています。大聖堂の柱に刻まれた模様まで、こうして運ばれた石から造り出されたのです。(参照:コロンビア大学・ロジャー・スタリー|ダラム大聖堂の建設と石材・カンタベリー大聖堂|中世の石造建築はどのように行われたのか)
高い石の壁は、どうして倒れなかったの?
石を現場に運んだら、基礎の上に少しずつ積み上げていきます。壁の表面には形を整えた石を並べ、内部には比較的小さな石を詰める造り方もありました。石と石の間には、石灰などを使った「モルタル」という材料を入れます。石灰岩などを焼いて作った石灰に砂と水を混ぜたもので、石材の隙間を埋め、壁を一体にする役割を果たします。地域や建物によって、使う石や目地材は異なりました。
11世紀から12世紀の大規模な教会では、分厚い壁と太い柱が建物を支えました。ダラム大聖堂の身廊(入口から祭壇の方へ伸びる中央の広い空間)には、大きな円柱が二列に並んでいます。現在の大聖堂の解説によると、柱は周囲約6.6メートル、高さも約6.6メートルあります。柱の表面には、斜めの線を繰り返したジグザグ模様や、ひし形の彫刻が刻まれています。巨大な石を使いながら、目で見て楽しめる装飾も施されていたのです。ダラム大聖堂の柱の写真を見ると、その厚みと模様を確かめられます。(参照:ダラム大聖堂|大聖堂の石柱と石工の印・イギリス建築史解説|中世の石壁と窓の構造・イングランド歴史遺産協会|歴史的な目地材の材料と施工)
丸いアーチは、落ちずにどう組み立てたの?
石の教会で目立つのが、柱と柱の間や入口の上にかかる半円形のアーチです。よく見ると、一つの大きな石を曲げたのではなく、少しずつ形の違う石が曲線に沿って並んでいます。アーチ用の石は、内側が狭く、外側が広くなるように加工され、隣の石と押し合うことで力を柱や壁へ伝えます。
工事の途中で石が落ちないように、職人たちは最初に木で半円形の支えを組みました。「支保工(しほこう)」または「型枠」と呼ばれる仮の木組みです。その上に石を左右から順に置き、頂点まで組み上げます。石同士がしっかり支え合う状態になってから木組みを外すことで、アーチが自分の重さを利用して立つようになります。頂上の石は「要石(かなめいし)」と呼ばれますが、アーチを支えるのは要石だけではなく、石全体の組み合わせです。
こうした石の加工や木組みの方法は、中世の大聖堂建設を紹介するカンタベリー大聖堂の教材にも図解されています。丸いアーチを繰り返す建築は、後に「ロマネスク様式」と呼ばれる教会の目立った特徴になりました。工事の途中には木が必要でも、完成すると石だけで曲線を保てる。その仕組みが、大きな教会の入口や柱の間を広く開くことにつながりました。(参照:カンタベリー大聖堂|中世の石造建築はどのように行われたのか・メトロポリタン美術館|ロマネスク美術と11〜12世紀の教会建築)
天井まで石にしたら、重すぎなかったの?
教会の天井は、最初からすべて石だったわけではありません。シュパイアー大聖堂は、1030年の創建当初、中央の広い空間を平らな木の天井で覆う教会として建てられました。11世紀後半、皇帝ハインリヒ4世のもとで大規模な改築が進められ、中央の高い天井にも石を組んだ曲面が取り入れられました。こうしたアーチ状の石の天井を「ヴォールト」と呼びます。石の天井は火に強いなどの利点がありますが、木の天井よりも重く、横に押し広げる力を受け止める構造が必要でした。
ダラム大聖堂は1093年に着工し、建設は12世紀まで続きました。現在も見られる天井では、細長い石の帯が交差し、石の曲面をいくつかの区画に分けています。これは「リブ・ヴォールト」と呼ばれる仕組みで、アーチ状の石の骨組みを利用して天井を造る方法です。柱や壁への荷重の伝え方を工夫しながら、大きな空間を石で覆いました。ダラム大聖堂の身廊の写真では、天井の曲線と柱がつながる様子を見られます。
技術は一度で完成したわけではありません。ダラムでは1104年までに祭壇のある東側の部分が使えるようになっていましたが、中央の広い身廊の石天井はその時点では完成しておらず、工事は1133年頃まで続きました。11世紀に始められた計画が、12世紀の工事を通して改良されていったのです。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂・コロンビア大学・ロジャー・スタリー|ダラム大聖堂の創建史料と工事の年代・ダラム大聖堂|世界遺産としての大聖堂)
石工だけでなく、なぜ大工も必要だったの?
石造建築でも、大工の仕事は欠かせません。高い場所で石を据えるには木の足場が必要で、資材を持ち上げる作業には綱や滑車なども使われました。アーチを組むときの仮の木組みや、建物を雨から守る屋根にも木材が必要です。石工は石を切って形を整え、大工は木を組み、作業を指揮する職人は寸法や工程を調整しました。石の教会は、一種類の職人だけでできた建物ではなかったのです。
ダラム大聖堂の柱には、小さな刻み目が残っています。これは石工の仕事を識別する印で、どの職人が関わったのかを知る手がかりです。柱のジグザグやひし形の模様にも、それぞれの石を組み合わせたうえで丁寧に彫る作業が必要でした。また、古い教会の内部は石の灰色一色とは限らず、壁や天井に絵や色彩が施される場合もありました。建築を支える職人と、表面を仕上げる職人の仕事が重なり合っていたのです。(参照:ダラム大聖堂|大聖堂の石柱と石工の印・コロンビア大学・リン・コートネイ|ロマネスク教会の木造天井と屋根・カンタベリー大聖堂|中世の石造建築はどのように行われたのか)
なぜ完成まで何十年もかかったの?
大きな教会には、膨大な量の石と木材、何年にもわたる職人の仕事が必要でした。その費用を出したのは、皇帝や王、司教、修道院などです。ダラムでは1096年に司教ウィリアム・オブ・サン=カレーが亡くなると、修道士たちが一時的に工事費を負担しました。資金が十分でないと工事の進み方も変わります。建設史の研究では、ダラムの工事は約40年間、同じ速さで進んだのではなく、段階を分けて進められたと説明されています。
ダラムでは先に東側の礼拝空間を整え、1104年には聖カスバートの遺物を新しい場所に移しました。人々は建物の一部を使い始めながら、ほかの場所では工事を続けていたのです。建設途中に天井の造り方や装飾の計画が変わることもありました。巨大な教会は、一枚の設計図どおりに一気に完成させたというより、長い年月の中で工夫を重ねながら形になっていきました。(参照:コロンビア大学・ロジャー・スタリー|ダラム大聖堂の創建史料と工事の年代・コロンビア大学・ロジャー・スタリー|ダラム大聖堂の建設と石材)
まとめ
11世紀の石造教会は、地面の下に基礎を造り、石切り場から運んだ石を加工し、モルタルを使って壁と柱を積み上げることで建てられました。丸いアーチには木製の支保工を使い、石同士が押し合って安定する形に組み立てます。高い場所での作業や屋根造りには、石工だけでなく大工の技術も欠かせませんでした。
シュパイアー大聖堂では、もともと木だった天井が11世紀後半に石の天井へ変わり、ダラム大聖堂では建築中に設計を改良しながら12世紀まで工事が続きました。石の教会を見上げるとき、分厚い壁とアーチの間には、石を支える仕組みと、何十年も仕事を引き継いだ人々の技術が重なっています。もっと詳しく知りたい方は、ART LIBRARYの「ロマネスクの形成 — 修道院改革、巡礼、ノルマン世界、石造教会」へ進めます。(参照:メトロポリタン美術館|ロマネスク美術と11〜12世紀の教会建築・ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂・コロンビア大学・ロジャー・スタリー|ダラム大聖堂の建設と石材)