200–843
キリスト教の神は誰なのか
イエス、十字架、聖母マリアから読み解く宗教美術の歴史
ヨーロッパの教会に入ると、十字架、十字架にかけられた男性、赤ちゃんを抱く女性、翼のある天使たちの姿が目に入ります。美術館にも、同じ人物や場面を描いた絵画が数え切れないほどあります。しかし、キリスト教に馴染みがない人にとっては、誰が神で、なぜその人たちが描かれているのか、すぐには分からないかもしれません。
十字架は神なのでしょうか。十字架にかけられた男性は、神なのでしょうか。日本で「マリア様」と呼ばれる女性も神なのでしょうか。マリアが抱いている赤ちゃんは誰なのでしょうか。そもそもキリスト教でいう「神」とは、誰のことなのでしょうか。西洋美術を知るには、こうした基本的な疑問を解きほぐすところから始めるのが自然です。
最初に大切なことを整理すると、主流のキリスト教は唯一の神を信じる宗教です。イエス・キリストは人間であり神でもあると信じられ、十字架はイエスの死を象徴します。聖母マリアはイエスの母であって、神ではありません。ただし、これだけでは、なぜ教会が数多くの人物像で満たされているのかを説明できません。
キリスト教は、古代のユダヤ教から、神以外のものを神として礼拝してはならないという戒めを受け継ぎました。旧約聖書には偶像を造って拝むことを禁じる言葉があります。それなのに、3世紀頃にはキリスト教徒は地下墓所や集会所に聖書の物語を描き、4世紀以降には教会の壁をモザイクや絵画で飾るようになりました。宗教画像を肯定する人と、それを偶像崇拝に近い危険な行為と考える人との議論も続きました。
8〜9世紀のビザンティン帝国では、その対立が聖像破壊運動として表面化します。754年の会議では宗教画像の崇敬を否定する立場が示され、787年の第2ニカイア公会議では崇敬が認められました。争いはその後も続き、843年に聖像崇敬が再確立されます。何を描いてよいのか、どのように画像に向き合うのかという問題が、宗教美術のあり方を左右したのです。
この記事は、初めに神、イエス、十字架、聖母マリア、聖人の違いを解説します。その後、旧約聖書の偶像崇拝の戒め、初期キリスト教の壁画や彫刻、教会建築、イコン、聖像破壊運動へと順に進みます。信仰の教えは、その宗教の内部で何が信じられているのかとして紹介し、歴史資料で確認できる出来事と区別します。宗教を信じるかどうかとは別に、西洋美術を読み解くための歴史として理解できるように構成します。
CONTENTS
- キリスト教でいう「神」は、いったい誰なのか
- イエス・キリストとは誰か。「キリスト」は名字なのか
- イエスは神なのか。それとも人間なのか
- 父・子・聖霊とは何か。三人の神がいるのか
- 十字架は神なのか。なぜ教会の中心にあるのか
- 人が付いた十字架と、何も付いていない十字架は違うのか
- なぜ処刑されたイエスが、救い主として信じられるのか
- 「マリア様」は神なのか。聖母マリアとは誰か
- マリアを「神の母」と呼ぶのは、マリアも神だからなのか
- マリアに抱かれた赤ちゃんは誰なのか。「聖母子像」の読み方
- 聖人、天使、ヨセフ、マグダラのマリアも神ではないのか
- キリスト教美術を見るとき、何を手掛かりにすればよいのか
- そもそも、偶像崇拝とは何か
- 旧約聖書・新約聖書とは何か
- 唯一神を信じるのに、なぜキリストの姿を描けるのか
- 聖母マリアや聖人は「別の神」なのか
- ユダヤ教では、すべての絵が禁止されていたのか
- 1〜2世紀のキリスト教徒は、どこで集まっていたのか
- 3世紀頃|ローマの地下墓所に描かれた絵
- 「善き羊飼い」は、なぜ初期のキリスト像になったのか
- 240年頃|ドゥラ・エウロポスの教会堂と洗礼室
- 壁画だけではない|石棺の浮彫と初期キリスト教彫刻
- 初期キリスト像は、イエス本人の肖像写真ではない
- 313年|キリスト教の公認は、美術をどう変えたのか
- 教会堂の「バシリカ」は、どこから来たのか
- モザイクはなぜ教会に広がったのか
- 宗教画は、文字を読めない人に教えるためだけだったのか
- イコンとは何か|単なる絵とどう違うのか
- 聖遺物・聖人崇敬と宗教画像
- 6世紀|シナイ山の聖カタリナ修道院に残るイコン
- 東西のキリスト教世界では、画像の扱いが同じだったのか
- なぜ宗教画像が大きな争いの対象になったのか
- 8世紀|聖像破壊運動はどのように始まったのか
- 聖像を否定した人々は、何を問題にしたのか
- 画像を擁護した人々|ダマスコのヨハネと受肉の考え方
- 754年|ヒエレイアの会議は画像を否定した
- 787年|第2ニカイア公会議は何を決めたのか
- 「礼拝」と「崇敬」は何が違うのか
- 815〜843年|聖像破壊運動の再燃と終結
- 画像は本当にすべて破壊されたのか
- 843年以後|宗教画像の形式と教会空間はどう変わったのか
- 宗教画・彫刻・教会建築は、同じ問題なのか
- 16世紀にも宗教画像は争われた
- なぜこの歴史が西洋美術を理解する鍵になるのか
- 主な出来事(年表)
- 次の記事へ — 教会はなぜ美術の中心になったのか
- 参考資料・出典
キリスト教でいう「神」は、いったい誰なのか
教会に入ると、長いひげの男性、十字架にかけられた人、幼子を抱く女性、翼のある人物など、さまざまな姿が描かれています。それらがすべて「神」なのかと疑問に思うかもしれません。最初に覚えておきたいのは、主流のキリスト教は、一人の神だけを信じる一神教だということです。キリスト教徒にとって神は、世界と人間を造り、人間の歴史に関わると信じられている存在です。教会に多くの人物像があるからといって、たくさんの神々を信仰しているわけではありません。
この信仰の出発点は、古代イスラエルのユダヤ教にあります。ユダヤ教の人々が信じる唯一の神を、初期キリスト教徒も神として信じました。日本語の聖書で「主」や「神」と訳される存在です。キリスト教は、別の新しい神を一から作った宗教ではありません。ただし、イエスを神の子であり救い主と信じたことから、ユダヤ教とは異なる神の理解を発展させました。
ここで重要なのは、主流のキリスト教では、イエス・キリストも神だと信じられていることです。イエスは約2000年前に実在し、ローマの支配下で十字架刑に処されたユダヤ人でした。しかしキリスト教徒は、イエスを単なる人間や宗教の指導者ではなく、神の子であり、神であると同時に人間でもある存在として信じています。この二つの側面が、キリストを描いた宗教画を理解するための大切な前提になります。
それでは、父なる神とイエスという二人の神がいるのでしょうか。キリスト教ではそう考えません。「父なる神」「子なるイエス・キリスト」「聖霊」は、互いに区別されながらも別々の三つの神ではなく、唯一の神であると信じられています。この教えを三位一体と呼びます。初めて聞くと難しく感じられるかもしれませんが、まずは「イエスも神とされる一方、神が何人もいるわけではない」という点を押さえておくと、教会の絵画や彫刻を理解しやすくなります。
一方、聖母マリアはイエスの母であり、神ではありません。聖人や天使も神とは区別されます。また、十字架そのものが神なのでもありません。十字架はイエスの処刑と、キリスト教徒が信じる救いを象徴するものです。教会には多くの人物や象徴が描かれていますが、そのすべてが神として礼拝されているわけではないのです。まずこの違いを知ったうえで、イエス、三位一体、十字架、聖母マリアの意味を順に見ていきましょう。
(参照:バチカン|三位一体と唯一神)
イエス・キリストとは誰か。「キリスト」は名字なのか
イエスは、1世紀前半、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ地方とその周辺で活動したユダヤ人の宗教的指導者です。ガリラヤのナザレと結びつく人物として知られ、神の国について語り、弟子たちを集めたと伝えられています。紀元30年頃、エルサレムでローマの総督ポンティウス・ピラトゥスの下、十字架刑によって処刑されました。歴史学で検討されるイエスの生涯と、キリスト教徒がイエスをどう信じるかは、分けて考える必要があります。
「キリスト」は姓ではありません。ギリシア語で「油を注がれた者」を意味する言葉に由来し、ヘブライ語の「メシア」に対応します。古代イスラエルでは、王などが油を注がれて特別な役割に就くという伝統があり、やがて神に選ばれた救い主への期待と結びつきました。「イエス・キリスト」とは、イエスという人物を救い主(キリスト)と認める、信仰を含んだ呼び方なのです。
イエスの死後、弟子たちは、イエスが死から復活したと信じ、その教えを伝えました。これがキリスト教の成立と広がりにつながります。西洋美術の「キリスト像」は、実在した人物の姿を記録するためだけのものではなく、「この人物は誰なのか」という信仰上の理解を示す画像でもありました。
(参照:バチカン|イエス・キリストの神性と人性)
イエスは神なのか。それとも人間なのか
ここがキリスト教を初めて学ぶ人にとって、最も混乱しやすい点かもしれません。主流のキリスト教の教えでは、イエスは本当に人間であり、同時に本当に神でもあるとされます。「半分が人間、半分が神」という意味ではありません。イエスは人として生まれ、食べ、苦しみ、死を経験しました。そのイエスが神の子として人間の世界に現れた、というのが信仰の中心です。
「神の子」という表現は、父なる神に人間と同じ意味で妻がいて、子どもをもうけたという説明ではありません。イエスを神と深く結びつく存在として理解する宗教上の呼び方です。神が人間として生まれ、目に見える姿を取ったことは「受肉」と呼ばれます。後の宗教画像をめぐる議論では、この受肉が決定的に重要になりました。
歴史家はイエスが生きた時代や処刑について資料から検討できますが、「神である」「復活した」といった主張は、信仰の内容として紹介する必要があります。宗教画を理解するために信仰を共有する必要はありません。画家や注文主が、イエスを神と人間の両方として理解していたことを知れば、作品の意味を読み取る手掛かりになります。
(参照:バチカン|イエスは真の神であり真の人間であるという教え)
父・子・聖霊とは何か。三人の神がいるのか
キリスト教では「父と子と聖霊の名によって」という言葉が使われます。父は「父なる神」、子は「神の子であるイエス・キリスト」、聖霊は神が働き、人々に関わる存在として語られる「聖霊」です。主流のキリスト教は、この父・子・聖霊を区別しながら、神はただ一つであると告白します。この考えを三位一体と呼びます。三つの神々をまとめて一組とする多神教の仕組みではありません。
「父」と「子」という言葉が使われても、人間の親子関係をそのまま当てはめることはできません。三位一体は古代のキリスト教徒の間でも議論を重ねた教義であり、とりわけ4世紀の公会議を通して表現が整理されました。初めて触れる人が、すぐに完全に理解できなくても不思議ではありません。まず「キリスト教では、イエスを神とは別の第二の神として数えているわけではない」という点を押さえれば十分です。
美術作品では、聖霊が鳩によって表されることがあります。また後世には父なる神が老人の姿で描かれる例もあります。しかし、鳩そのものが神という意味でも、絵画が神の実際の容貌を記録したという意味でもありません。何をどのように形にしてよいかという問題は、まさに宗教画像をめぐる歴史の一部なのです。
(参照:バチカン|三位一体の教え、アメリカ正教会|受肉と神の表現)
十字架は神なのか。なぜ教会の中心にあるのか
十字架そのものは神ではありません。もともとはローマ世界で使われた処刑の道具であり、イエスが十字架刑によって処刑されたことから、キリスト教の重要な象徴になりました。現在、教会の屋根や祭壇の上、信者の首飾りにまで十字架が見られるのは、単に建築物を飾るためではありません。イエスの死を思い起こし、信仰の中心的な出来事を示すためです。
キリスト教徒は、イエスの死を単なる敗北として理解しません。人間の罪、赦し、神による救いと結びつけ、さらにイエスの復活を信じることで、死を越えた希望として解釈しました。これは宗教上の意味づけであり、処刑という歴史上の出来事と、救いの意味をめぐる信仰上の説明は区別されます。十字架が人々にとって大切なのは、木材や金属という物質そのものが神だからではなく、そこに結びついた出来事と信仰のためです。
ただし、十字架を敬うことと偶像崇拝をどう区別するかは、キリスト教の歴史の中で議論されてきました。また、最初期からすべての教会で十字架が現在と同じように飾られていたわけではありません。十字架の図像と、その扱い方にも歴史があります。
(参照:バチカン|キリストの死と受肉、メトロポリタン美術館|十字架と聖像をめぐる論争)
人が付いた十字架と、何も付いていない十字架は違うのか
教会で見る十字架には、大きく分けて、十字の形だけを示すものと、十字架にかけられたイエスの身体を表すものがあります。後者は「十字架上のキリスト像」あるいは「磔刑像」と呼ばれ、ラテン語に由来する「クルシフィクス」という名でも知られます。十字架に付いている人物は、神とは別の誰かではなく、処刑されたイエスを表しています。
この二つの形は、死と復活をめぐる信仰の異なる側面を強調することがあります。身体が描かれた像は、イエスの苦しみや人間としての死を目に見える形で伝えます。一方、身体のない十字架もイエスの死を象徴しますが、復活による希望をより強く連想させる使われ方があります。ただし「カトリックは必ず身体付き、プロテスタントは必ず身体なし」と機械的には分けられません。教派、地域、時代によって実際の使用は異なります。
西洋絵画で十字架上のイエスの頭上に「INRI」という文字がある場合、それはラテン語の「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」の頭文字です。福音書が伝える、イエスの罪状を記した掲示に由来します。足元に嘆く女性たちや弟子が描かれる作品もあります。このような細部を読めるようになると、磔刑図は単なる苦しむ人物の絵ではなく、特定の物語と信仰を表す絵画だと分かります。
なぜ処刑されたイエスが、救い主として信じられるのか
キリスト教の中心には、イエスが十字架で死んだ後、復活したという信仰があります。福音書には、イエスが葬られ、三日目に復活したと信じる弟子たちの物語が記されています。十字架と復活は別々の飾りの題材ではなく、一つの信仰の中で強く結びつく出来事です。キリスト教徒は、イエスの死を人間の罪を担う行為として、復活を死に対する勝利と新しい命の希望として理解してきました。
西洋美術では、こうした信仰がさまざまな場面に分けて描かれます。イエスが十字架にかけられる「磔刑」、十字架から下ろされた遺体を抱きかかえる「哀悼」、墓を訪れる女性たち、復活したキリストなどがその例です。作品を見たときに、死の場面なのか、復活の場面なのか、あるいはその後の出来事なのかを見分けることが、内容を理解する第一歩になります。
これらの場面が実際に超自然的な出来事として起きたかどうかを、美術史の記事が証明することはできません。重要なのは、画家や注文主、鑑賞者の多くがその物語を真実として信じ、その信仰を建築や画像を通じて表現してきた歴史です。
「マリア様」は神なのか。聖母マリアとは誰か

聖母マリアは、キリスト教の教えでは神ではなく、イエスの母である人間です。新約聖書の福音書に登場し、イエスを産み育てた母として重要な位置を占めます。日本でよく聞く「マリア様」は親しみや敬意を込めた呼び方です。「聖母」「聖マリア」「聖母マリア」「聖処女マリア」なども使われますが、どの言葉も別の女神の存在を示しているわけではありません。
キリスト教の伝統では、マリアは神の呼びかけを受け入れ、イエスを産んだと信じられています。天使ガブリエルがマリアにイエスの誕生を告げる「受胎告知」は、その出来事を描く有名な画題です。作品に翼のある天使と若い女性が向かい合い、鳩が現れる場合、女性はマリア、天使はガブリエル、鳩は聖霊を表すことがあります。この「受胎告知」と、実際に赤ちゃんが生まれた「降誕」は異なる場面です。
カトリックや東方正教会ではマリアが特別に敬われますが、神として礼拝される存在とは区別されます。マリアへの祈りをどのように理解するかにはキリスト教諸教派の違いもあります。西洋美術にマリア像が多いことは、マリアを神として信じる宗教だったという意味ではなく、イエスの母として信仰と祈りの中で重要な役割を与えられてきたことと関係します。
(参照:バチカン|マリアへの崇敬と神への礼拝の違い、メトロポリタン美術館|聖母マリアの信仰と図像)
マリアを「神の母」と呼ぶのは、マリアも神だからなのか
キリスト教美術には、マリアを「神の母」と呼ぶ説明があります。ギリシア語では「テオトコス」といい、「神を産んだ方」を意味します。これだけを聞くと、マリアが神よりも上位の存在であったり、マリア自身が神だったりするように感じるかもしれません。しかし、この称号の焦点はマリアの神性ではなく、マリアから生まれたイエスが何者なのかという問題にあります。
主流のキリスト教は、イエスを人間であると同時に神でもあると信じます。そのため、人間としてのイエスを産んだマリアを「神の母」と呼びます。マリアが神を創造したという意味でも、父なる神を産んだという意味でもありません。431年のエフェソス公会議は、イエスについての教義をめぐる論争の中で、この呼び名を重要なものとして確認しました。
「神の母」という称号を知ると、なぜ聖母子像でマリアが立派な玉座に座り、幼いイエスを抱いているのか理解しやすくなります。絵画は単なる母子の肖像ではなく、イエスが人間として生まれたという信仰、そして神であるという信仰の両方を示そうとしているのです。
(参照:バチカン|「神の母」の意味、メトロポリタン美術館|431年のエフェソス公会議と聖母像)
マリアに抱かれた赤ちゃんは誰なのか。「聖母子像」の読み方
美術館で女性が幼い子どもを抱く絵画を見るとき、それがキリスト教の主題であれば、多くの場合、女性は聖母マリア、赤ちゃんは幼いイエスです。この組合せを「聖母子像」と呼びます。西洋美術史で頻繁に登場する「マドンナ」は、聖母マリアを指す呼び名です。「マドンナと幼子」「聖母子」「聖母子と聖人たち」といった作品名は、まず誰が描かれているのかを教えてくれます。
聖母子像には、母と子の親密さが強調されたものもあれば、マリアが王座に座り、幼子イエスが人々を祝福する威厳ある姿で描かれるものもあります。幼子が小さな大人のように見える作品があるのは、画家の技術不足だけで説明できません。幼い姿でありながら、救い主としてのイエスの権威を同時に表そうとする図像上の目的もありました。
ビザンティン美術でよく見られる「ホデゲトリア型」では、マリアが片手で幼子を抱き、もう一方の手でイエスを指し示します。マリア自身が救いの目的地なのではなく、イエスが救いへ導く存在であることを示す姿勢と理解されてきました。一方、頬を寄せ合う「エレウサ型」では母子の愛情が強調されます。同じ二人でも、身体の向きや視線、手の動きが作品の意味を変えるのです。
(参照:メトロポリタン美術館|聖母子イコンの図像を読み解く、メトロポリタン美術館|聖母子像の形式と絵画)
聖人、天使、ヨセフ、マグダラのマリアも神ではないのか
西洋の宗教画には、イエスと聖母マリア以外にも多くの人物が登場します。「聖人」は、特別な信仰や生涯を送ったとして教会で敬われる人物です。たとえば使徒ペトロやパウロ、殉教者などが描かれます。聖人は信仰の模範として尊敬される存在ですが、唯一神とは区別されます。「天使」は神の使者として聖書や伝統に登場する存在であり、翼のある姿はその役割を表すための美術上の表現です。天使も独立した神ではありません。
マリアの夫として登場するヨセフは、イエスを育てた人物です。父なる神そのものではありません。さらに「マグダラのマリア」は、イエスの弟子として新約聖書に登場する女性で、イエスの母である聖母マリアとは別人です。同じ「マリア」という名前があるため、作品を見るときに混同しやすいところです。図像の主題を知るには、人物の名前だけでなく、描かれた出来事や持ち物も手掛かりになります。
カトリックや東方正教会では聖人への崇敬や取り次ぎの祈りが行われますが、聖人を神と同じように礼拝することとは区別されます。その区別に異議を唱えたキリスト教徒もおり、後の宗教改革では画像や聖人崇敬への態度が大きな論争の対象になります。したがって「教会に像がある」ことだけで、そこに何人の神がいるかを数えることはできません。
(参照:メトロポリタン美術館|聖人と天使の図像、アメリカ正教会|イコンと聖人)
キリスト教美術を見るとき、何を手掛かりにすればよいのか
聖書の物語を知らなくても、宗教画の基本的な手掛かりを知れば、作品を見始めることができます。人物の頭の周りに描かれた円形の光は「光輪」と呼ばれ、聖なる人物を示すために使われます。十字架の形が入った光輪は、特にキリストを表す画像でよく見られます。ただし、図像の決まり方は時代と地域によって異なり、光輪のある人物が必ずイエスというわけではありません。
十字架にかけられた人物はイエスを、幼い子を抱く女性は聖母子を、翼のある使者は天使を表すことが多くあります。鳩は聖霊、子羊はキリストの象徴として用いられることがあります。聖書や巻物を持つ人物は教師・伝道者としての性格が強調され、鍵を持つ人物は使徒ペトロを示す場合があります。どの記号も一つの固定的な意味だけで使われるわけではなく、画面全体の出来事と合わせて読むことが大切です。
そして最も重要なのは、「この絵には何が描かれているか」だけでなく、「なぜ人々はそれを教会や墓、祈りの場所に置いたのか」を考えることです。イエスの肖像、十字架、聖母子、聖人は、単なる飾りの図柄ではありません。見る人に物語を思い出させ、祈りを助け、共同体が信じることを示すために使われてきました。ここから、画像を作りながら偶像崇拝を警戒したキリスト教の長い歴史へ進みます。
そもそも、偶像崇拝とは何か
「偶像」は、神や神聖なものをかたどった像を指す言葉として使われます。ただし、「像があること」と「その像そのものを神として扱うこと」は同じではありません。古代地中海世界では、人々はさまざまな神々の像を神殿に置き、供物や祈りをささげました。ユダヤ教の伝統から見れば、唯一の神以外を神として礼拝することが重要な問題でした。
旧約聖書の「出エジプト記」20章では、ほかの神々を信じず、偶像を造ってひれ伏し、仕えてはならないと命じられています。そこで禁止されるのは礼拝の対象としての偶像ですが、何をどこまで「偶像」と見なすかは簡単ではありませんでした。神そのものを形にしようとすることと、ある歴史上の人物や物語を描くことを同列に扱ってよいのか。この問いが、後のキリスト教美術をめぐる論争の出発点となります。
旧約聖書・新約聖書とは何か
初めて西洋美術に触れる人にとって、「旧約聖書」「新約聖書」という言葉も分かりにくいかもしれません。キリスト教の聖書は、大きくこの二つの部分から成ります。旧約聖書は、古代イスラエルの歴史、律法、預言、詩などを含み、キリスト教がユダヤ教から受け継いだ聖典です。ユダヤ教でも関連する聖典が重視されますが、書物の順序や範囲、解釈は伝統によって異なります。
新約聖書は、イエスの生涯と教えを伝える福音書、使徒たちの活動、初期キリスト教徒の手紙などを含みます。キリスト教では、旧約聖書の唯一神への信仰を受け継ぎつつ、イエスをキリスト、すなわち救い主として信じます。したがってキリスト教美術を理解するには、ユダヤ教から受け継いだ偶像崇拝への警戒と、イエスを中心とする新しい信仰の両方を知る必要があります。
唯一神を信じるのに、なぜキリストの姿を描けるのか
ここまで見てきたように、キリスト教ではイエスを人間であると同時に神であると信じます。目に見えない神を人間が勝手に形にしてよいのかという問いに対して、聖像を擁護した人々は「神の子は、現実に人間として生まれ、人々から見える身体を持った」と答えました。この神が人間になったという教えを「受肉」と呼びます。
見えない神を想像して像を作ることと、人間として生きたイエスの姿を描くことは同じではない、というのが彼らの説明です。ただし、イエスが神であり人間でもあるという教義を、絵画がどう正確に表せるのかという難問は残りました。聖像を否定する人々は、画像がイエスの神性と人性を正しく表せないことも問題にしました。
したがって聖像論争は、単に画像を好きか嫌いかという対立ではありません。そもそもイエスとは誰なのか、神と人間はどう結びつくのかというキリスト教の中心的な教えとも関係していました。
(参照:アメリカ正教会|受肉と聖像、メトロポリタン美術館|聖像をめぐる神学上の論争)
聖母マリアや聖人は「別の神」なのか
西洋美術に頻繁に登場する聖母マリアは、キリスト教の信仰においてイエスの母として敬われる人物です。「聖母」という呼び名から女神のように感じるかもしれませんが、キリスト教がマリアを、唯一神とは別の神として信じているわけではありません。「聖人」も同様で、信仰の模範として特別に記憶される人々であり、神そのものではありません。
画像の前でマリアや聖人に祈りを求めることと、マリアや聖人を神として礼拝することは区別されます。しかし、この違いが見た目だけで理解できるとは限りません。絵に向かって祈る人を見たとき、「絵を神として拝んでいるのではないか」という疑問が生じるのは自然なことです。ここに、偶像崇拝をめぐる議論の難しさがあります。
ユダヤ教では、すべての絵が禁止されていたのか
「ユダヤ教は画像を全面禁止し、キリスト教は画像を許した」と対比すると、歴史を単純化しすぎてしまいます。実際、現在のシリアにあるドゥラ・エウロポスの3世紀のユダヤ教会堂では、聖書の物語を描いた大規模な壁画が発見されています。後の時代の会堂にも、象徴的な文様や人物像を含むモザイクが残っています。
これは、ユダヤ教の偶像崇拝をめぐる戒めが消えていたという意味ではありません。画像をどう理解するか、どのような場所で何を描くかについて、地域や時代、共同体によって異なる実践があったことを示しています。キリスト教美術も、画像をめぐる多様な古代の宗教文化の中で生まれました。
1〜2世紀のキリスト教徒は、どこで集まっていたのか
キリスト教が成立した1世紀、信徒たちには、後の大聖堂のような建物はありませんでした。都市に暮らす信者が個人の家に集まり、祈り、教えを聞き、食事や儀礼をともにすることがありました。初期のキリスト教共同体は地域によって異なり、建物や儀礼も徐々に形成されていきます。
この時代のキリスト教画像は、後の時代に比べて残存例が限られています。そのため、「初期キリスト教徒は全員が画像を拒否していた」「最初から教会が宗教画で埋め尽くされていた」と断定することはできません。現存する遺物が増える3世紀頃になって、宗教画像がどのような場で用いられたのかを、より具体的に確認できるようになります。
3世紀頃|ローマの地下墓所に描かれた絵
初期キリスト教美術を知る重要な場所の一つが、ローマのカタコンベです。カタコンベとは地下に広がる埋葬施設を指します。すべてがキリスト教徒専用だったわけではなく、何より墓所であって、「迫害を避けるために日常的に秘密礼拝を行った地下教会」と一括りにするのは正確ではありません。
その壁画には羊を抱く羊飼い、祈るように両手を上げた人物、ヨナなど旧約聖書の場面が現れます。死を前にした人々が、救済や復活への希望を表そうとしたと理解されています。これらは現代の美術館で鑑賞するための絵とは異なり、埋葬と追悼、共同体の信仰生活に結びついた画像でした。
「善き羊飼い」は、なぜ初期のキリスト像になったのか
初期キリスト教美術には、肩に羊を担ぐ若い羊飼いの姿がよく登場します。「善き羊飼い」と呼ばれる図像です。新約聖書では、イエスが自らを羊飼いにたとえ、失われた羊を見つける話も語られます。キリスト教徒は、羊を守り連れ戻す姿に、救い主への希望を重ねることができました。
一方、羊飼いの図像そのものはキリスト教以前のギリシア・ローマ美術にも見られました。初期キリスト教美術の図像は、ある日突然、まったく新しい形として生まれたのではありません。すでに社会で知られていた人物像や表現を受け継ぎ、キリスト教の物語に結びつけて使ったのです。羊飼いの図像が常にキリストを表すわけではないため、制作場所や周囲の図像を合わせて読む必要があります。
240年頃|ドゥラ・エウロポスの教会堂と洗礼室
現在のシリアに位置するドゥラ・エウロポスでは、普通の住宅を改造した3世紀のキリスト教集会所が発見されています。およそ240年頃に使われた建物で、外から見れば一般の家と大きく変わらず、内部には集会のための空間と「洗礼室」がありました。洗礼とは、水を用い、キリスト教信仰に入ることを示す重要な儀礼です。
その洗礼室には「善き羊飼い」、病人の癒やし、水上を歩くキリストなどが描かれていました。水に関係する物語や救済の場面が選ばれたことは、洗礼という場所の機能と深く関係すると考えられます。画像は単なる装飾ではなく、その場所で行われる儀礼とともに意味を持っていたのです。
ここには同時代のユダヤ教会堂もあり、そちらの壁にも聖書物語の人物が描かれていました。この発見から、3世紀のユダヤ教徒とキリスト教徒が画像をどう使っていたかを、実物から比較できるようになりました。なお、個々の壁画がどの物語を描いたのかには、研究上の異説もあります。
壁画だけではない|石棺の浮彫と初期キリスト教彫刻
宗教画像は平面の絵だけではありません。キリスト教徒の墓に用いられた石棺(サルコファガス)には、聖書の場面やキリストの奇跡を浮彫にした例が残っています。石棺とは遺体を納める石造りの棺で、古代ローマの彫刻技術が使われました。3〜4世紀のキリスト教彫刻は、こうした葬送文化の中で重要な役割を担いました。
後の西ヨーロッパの教会では、聖人の立像や十字架像など立体的な宗教彫刻も発達します。ただし、最初期の石棺彫刻と中世の教会彫刻を、そのまま同一の宗教実践として扱うことはできません。画像を作る技術があったことと、その画像を宗教的にどのように扱ったかは、分けて考える必要があります。
初期キリスト像は、イエス本人の肖像写真ではない
最初期のキリスト像には、ひげのない若者として表されたものがあります。後世に広まる長い髪とひげを持つ威厳ある姿だけが、初めから決まっていたわけではありません。キリスト教美術の図像は、古代ローマの哲学者像、皇帝像、羊飼い像など、既存の視覚表現を使いながら発展していきました。
そのため、古いキリスト像を見て「イエスは実際にこの顔をしていた」と考えることはできません。歴史上の人物の容貌を直接伝える資料ではなく、信者たちがキリストを何者として理解し、何を伝えようとしたのかが表れた画像なのです。美術史は、画像の見た目だけでなく、その画像を必要とした社会も調べます。
313年|キリスト教の公認は、美術をどう変えたのか
313年、皇帝コンスタンティヌスとリキニウスは、キリスト教徒を含む人々が望む宗教を信仰できることを認め、迫害で没収された教会財産を返す方針を示しました。これは313年に帝国住民が全員キリスト教徒になったという意味ではありません。しかし、皇帝の保護と資金が教会へ向かうようになったことは、建築と美術にとって大きな変化でした。
以前は住宅を改造した比較的小規模な集会所が多かったのに対し、4世紀にはローマ、エルサレム、ベツレヘムなどで大きな教会堂が建設されます。壁や天井にはモザイク、壁画、装飾が施され、儀礼に使う品々も豪華になりました。信仰の場が都市の中で大きな存在感を持つようになり、宗教画像の制作規模も変わっていったのです。
教会堂の「バシリカ」は、どこから来たのか
バシリカはもともと古代ローマで公共の集会や裁判、商業などに用いられた大きな長方形の建築形式を指しました。キリスト教徒はこれを礼拝に適した形へ発展させ、中央の広い空間、列柱、建物の奥の祭壇周辺などを組み合わせていきます。古代の神殿建築をそのまま複製したのではなく、多くの人が集まる新しい宗教活動に合う形式を選んだと理解すると分かりやすいでしょう。
教会は、何かを眺めるためだけの美術館ではありません。そこでは祈り、聖書の朗読、歌、洗礼、聖餐などの儀礼が行われます。建築の中で人々がどこに立ち、どこへ視線を向け、どの画像をどの場面で見るのか。そうした動きによって、絵画やモザイクの意味も変わってきます。
モザイクはなぜ教会に広がったのか
モザイクとは、色のついた石やガラスなどの小片を並べて画像や模様を作る技法です。古代ローマでは床などの装飾として広く使われていましたが、キリスト教の大きな教会では壁や天井にも用いられました。光を受けるガラス片や金色の背景は、神聖な空間を印象づけるうえで効果的でした。
たとえばラヴェンナの教会群には、6世紀の皇帝や宗教的な場面を描いたモザイクが残っています。こうした画像は、キリスト教の教えを語るだけでなく、皇帝の権威や教会の位置づけを示すこともありました。美術は信仰を表現すると同時に、政治や共同体の秩序とも結びついていたのです。
宗教画は、文字を読めない人に教えるためだけだったのか
宗教画像の役割として、よく「文字の読めない人に聖書を教えるため」と説明されます。確かに、絵は聖書物語を視覚的に伝える手段でした。6世紀末から7世紀初頭の教皇グレゴリウス1世の書簡も、教会の画像を学びの助けとする立場を伝えています。
ただし、画像の意味を教育だけに限ることはできません。死者を記憶し、救済を願うための画像もあれば、神聖な人物の存在を感じ、祈りを向けるための画像もありました。豪華なモザイクは、教会の威信や寄進した人々の願いを表すこともありました。絵の前で何が行われたか、その画像がどこに置かれていたかを考えなければ、役割を十分に理解できません。
イコンとは何か|単なる絵とどう違うのか
「イコン」はギリシア語で「像・画像」を意味する言葉に由来します。今日では、とくにキリスト、聖母マリア、聖人などを表す東方キリスト教の宗教画像を指すことが多く、木の板に描いた絵がよく知られています。しかしビザンティンでは、壁画、モザイク、象牙彫刻、金属工芸、織物など、さまざまな素材で聖なる画像が作られました。
イコンは、単に人物の外見を記録した肖像画とは異なる働きを持ちます。信者はそこに表されたキリストや聖人を思い起こし、祈りをささげました。画像と画像が表す相手との間にどのような関係があるのかが大切で、同時に、この関係を認めることこそ偶像崇拝ではないかという批判も起きたのです。
聖遺物・聖人崇敬と宗教画像
古代末期から中世にかけて、キリスト教社会では殉教者や聖人の墓、ゆかりの地、遺骨や身の回りの品などを大切にする実践が発達しました。こうした物を「聖遺物」と呼びます。聖人の墓を訪れる巡礼や、聖遺物を納める容器の制作は、建築と美術を発展させる一因になりました。
イコンもまた、神聖な人物を身近に感じさせるものとして用いられました。しかし、聖遺物と画像は同じものではなく、その扱いをめぐる理解も時代や地域で異なります。画像は「飾りだから意味がない」とも、「画像そのものが神だ」とも単純に片づけられません。この中間にある宗教的な実践が、聖像論争の背景を成しました。
6世紀|シナイ山の聖カタリナ修道院に残るイコン
現在のエジプト、シナイ半島にある聖カタリナ修道院には、6世紀にさかのぼる重要な宗教画像が伝わっています。木の板に絵の具を用いて描かれたキリスト像や、聖堂のモザイクなどは、8〜9世紀の聖像論争以前にどのような画像が作られていたかを知る手がかりです。
教会や修道院に画像が残るということは、過去の信仰の姿を研究できるということでもあります。ただし、現在残っている作品だけから「当時どこでも同じ画像が使われていた」とは言えません。戦争、建築の改修、損壊、保存環境、後の聖像破壊などによって、多くの作品が失われたからです。
東西のキリスト教世界では、画像の扱いが同じだったのか
ローマ帝国の東方と西方には言語や政治の違いがあり、キリスト教の儀礼や美術にも地域差が生まれました。東方ではギリシア語の神学とイコンの文化が強く発展し、西方ではラテン語の伝統の中で、教会の壁画、彫刻、祭壇の装飾が展開していきます。ただし、8〜9世紀に現代の「東方正教会」と「カトリック」が最初から完全に分かれていたと考えるのは正確ではありません。
ビザンティン帝国で画像をめぐる政策が変化した時期にも、ローマを含む西方では宗教画像が作られ続けました。したがって「キリスト教全体が一斉に画像を禁止した」と説明することはできません。西洋美術史を理解するには、どの地域の、どの時代のキリスト教について話しているかを区別する必要があります。
なぜ宗教画像が大きな争いの対象になったのか
神聖な人物の画像が広がると、人々はその前で祈り、接吻し、灯火をともすなど、敬意を表すようになりました。画像を通じて神や聖人を思う行為と、画像という物体そのものを拝む行為との境界は、見る人によって違って見えます。偶像崇拝を禁じる聖書の戒めを重視する人々には、こうした実践が大きな問題となりました。
対立の背景には神学だけでなく、帝国の政治、皇帝と教会の権威、戦争や社会の不安などもありました。ただし「皇帝が財宝を奪うため画像を禁じた」「イスラム教の影響だけが原因だった」と一つの理由に決めることは、研究の現状に合いません。争いの始まりや広がりを伝える史料には、後世の脚色が含まれる可能性も指摘されています。
8世紀|聖像破壊運動はどのように始まったのか
「聖像破壊運動」は英語ではイコノクラスムと呼ばれ、文字どおりには「画像を壊すこと」を意味します。ビザンティン帝国の8世紀から9世紀にかけて、宗教画像の使用や崇敬をめぐる政策と議論が繰り返し変化しました。一般に720年代から787年を最初の段階、815年から843年を再燃した段階として説明します。
昔からの説明では、皇帝レオン3世が726年または730年に宮殿の門からキリスト像を取り外したことが始まりとされてきました。しかし、近年の研究では、この有名な物語の史料的根拠に疑問が示されています。したがって「726年に皇帝がすべての画像を壊す命令を出し、帝国内の絵が一斉に失われた」という説明は避けるべきです。画像への批判がどのように政治的な政策となったのかは、なお慎重に研究されています。
聖像を否定した人々は、何を問題にしたのか
聖像を否定する立場の人々は、神を物質の形に閉じ込めることへの警戒を重視しました。とくにキリストを描く場合、その絵は神としてのキリストを描いているのか、それとも人間としての姿だけを描いているのか、という難しい問いが生じます。神と人間の両方の性質を持つとするキリスト教の教えを、画像で適切に表せるのかが論争になりました。
彼らにとって、十字架や聖餐(パンとぶどう酒を用いてキリストの死と救いを記念する儀礼)は重要でしたが、キリストや聖人の肖像画像を崇敬することには反対する立場がありました。したがって「聖像を否定した人は、すべての美術や装飾が嫌いだった」と理解するのも正確ではありません。争われたのは、とくに神聖な人物像と、それに向けられる敬意でした。
画像を擁護した人々|ダマスコのヨハネと受肉の考え方
画像を擁護した代表的な神学者の一人が、8世紀に活動したダマスコのヨハネです。彼は、神が目に見えない存在であることを認めながら、神がイエス・キリストとして人間の姿をとったのなら、キリストの人間としての姿を描くことには意味があると論じました。ここで重要になるのが、冒頭で説明した「受肉」という考え方です。
画像擁護派にとって、木や絵の具そのものが神なのではありません。画像に示された人物を思い起こし、その人物へ敬意を向けるために画像を用いるのです。この考えは、後に公会議で示される「礼拝」と「崇敬」の区別につながりました。もっとも、画像を通じて聖なる存在へ近づけるという説明自体を、画像否定派は問題にしていました。
754年|ヒエレイアの会議は画像を否定した
皇帝コンスタンティノス5世の時代、754年にヒエレイアで宗教画像を否定する会議が開かれました。ここではキリストや聖人を表す画像の崇敬が批判され、十字架などが重視されます。皇帝が関わる宗教問題が、教会の方針や人々の礼拝のあり方に直接影響したことが分かります。
ただし、この会議の決定がキリスト教世界のすべての地域で受け入れられたわけではありません。東方の帝国と西方の教会の立場は必ずしも同じではなく、画像への態度も一様ではありませんでした。その後、754年の方針を覆す会議が開かれることになります。
787年|第2ニカイア公会議は何を決めたのか
787年、皇后イレネの主導で第2ニカイア公会議が開かれ、宗教画像を教会や家庭などに置き、敬意を表すことを認めました。ここでの中心的な論点は、「礼拝」と「崇敬」の区別でした。神そのものにささげる礼拝と、画像が表すキリストや聖人へ向けた敬意を同じものとは考えない、という立場です。
公会議は、画像に向けられる敬意は、最終的にはその画像が表す人物へ向かうと説明しました。たとえば聖母マリアの画像を大切にすることは、板や絵の具を神として扱うことではなく、マリアという人物への敬意だと考えます。しかし、この説明に納得しない人々もいました。787年の決定は後の宗教美術に大きな影響を与えましたが、争いがこの年に完全に終わったわけではありません。
「礼拝」と「崇敬」は何が違うのか
ここは日本語では特に誤解されやすいところです。日常語の「拝む」「礼拝する」「敬う」は、場面によって近い意味に聞こえます。しかし787年の公会議では、神だけに向ける礼拝と、聖なる画像に示す敬意を、意識的に区別しました。宗教画像を支持する教会の立場では、画像そのものが神になったり、木や石に神が閉じ込められたりするわけではありません。
とはいえ、これは「画像の前で行う行為はすべて偶像崇拝ではない」と無条件に決めた、という意味でもありません。祈りを向ける対象は何か、画像をどう理解するかという問いは、信者たちの実践の中で常に重要でした。また、後のキリスト教諸教派の間でも、この区別をどこまで認めるかについて意見が分かれます。
815〜843年|聖像破壊運動の再燃と終結
787年に宗教画像の崇敬が認められた後も、ビザンティン帝国では政治状況が変わると、画像を否定する政策が再び進められました。815年に始まった第二段階の聖像破壊運動は、約30年にわたって続きました。実際の取り締まりの強さには時期や地域で差があり、すべての画像が例外なく破壊されたわけではありません。
843年、皇后テオドラが関わる政権の下で聖像崇敬が再び認められ、ビザンティンにおける主要な聖像論争は終結に向かいます。この出来事は東方教会の伝統で「正教の勝利」として記憶されました。現在も東方正教会では、その記念が宗教暦の中に受け継がれています。
画像は本当にすべて破壊されたのか
聖像破壊運動という名前からは、帝国内にあった宗教美術が一つ残らず壊されたように感じられるかもしれません。しかし、画像をめぐる方針や実際の取り締まりには地域差があり、シナイ山などには聖像論争以前の画像が残りました。壁画の塗りつぶしや画像の置き換えが確認される場所もありますが、同じことが帝国全土で同程度に起きたとは限りません。
もう一つ注意すべきなのは、私たちが読む史料の多くが、後に画像擁護派の立場から書かれたものであることです。画像否定派の議論は、批判する側の文章を通じて伝わる場合も多くあります。戦争や火災、通常の建て替えで失われたものも含め、作品が残らない理由をすべて聖像破壊に帰すことはできません。
843年以後|宗教画像の形式と教会空間はどう変わったのか
聖像崇敬が再確立された後、ビザンティンではキリスト、聖母マリア、聖人などの画像が、教会内部で一定の位置と関係を持つ形で配置されるようになっていきます。ドームや壁面、祭壇周辺など、建築の場所に応じて主題を組み合わせる方法が発展しました。
同じ聖なる人物の姿が繰り返し描かれるのは、画家が自由に創意を発揮できなかったから、というだけではありません。信者が誰を見ているかを分かるようにし、過去から続く聖像の伝統を受け継ぎ、信仰の中で共通の意味を持たせようとする理由もありました。もちろん、その範囲の中でも素材、色彩、構図、筆致などは時代と地域によって変化しています。
宗教画・彫刻・教会建築は、同じ問題なのか
偶像崇拝をめぐる争いは、特に宗教画像に向けられる敬意を問題にしました。しかし西洋美術史には、画像を使うことの是非とは別に、誰が教会を建て、誰が作家に注文し、どのような儀礼に作品が使われたのかという問題があります。教会の柱、窓、祭壇、壁画、彫刻は、単独の美術作品というよりも、宗教空間を作る要素でした。
東方と西方では、同じキリスト教でも、宗教画像の素材や形式、彫刻の位置づけが異なって展開しました。古代末期のモザイクと中世の石造彫刻、後の祭壇画を、一つの理由だけで説明することはできません。これらの制作を支えた資金、職人、注文主、教会組織の歴史については、別の記事で詳しく扱います。
16世紀にも宗教画像は争われた
8〜9世紀の聖像論争が終わっても、キリスト教における画像の問題が永久に解決したわけではありません。16世紀の宗教改革では、聖母や聖人の像、教会装飾をどう扱うかが改めて大きな争点になりました。ルター派の一部は教育的な画像の使用を認めましたが、改革派の一部は聖像をより厳しく批判しました。
一方、カトリック教会は宗教画像の意義を改めて示しました。これによって、地域ごとに教会内部の見た目が大きく異なる状況が生まれます。つまり、私たちが現在見る「キリスト教美術」は一種類ではありません。時代や教派による違いを知ると、西洋美術の多様性が理解しやすくなります。
なぜこの歴史が西洋美術を理解する鍵になるのか
西洋美術史では、作品を「美しい」「写実的だ」「構図が優れている」という視点から見ることがよくあります。しかし古代から中世の宗教画像は、そもそも美術館に置かれる独立作品として作られたとは限りません。墓に描かれた羊飼い、洗礼室の壁画、教会のモザイク、聖人のイコンは、それぞれ異なる場所で、異なる行為とともに使われていました。
そして、人の姿を描くことが宗教的に正しいのかという論争は、絵が制作される条件そのものを変えることがありました。何を描くかだけでなく、画像にどんな力や意味を認めるか、画像と見る人はどう関係するかが問われていたのです。宗教を知らずに図像だけを見ると見落としてしまうこの問題は、今日の美術における「イメージとは何か」という問いにもつながっています。
主な出来事(年表)
- 1世紀 — ユダヤ教の伝統の中でキリスト教が成立する。
- 2〜3世紀 — ローマの地下墓所などに初期キリスト教画像が残る。
- 240年頃 — ドゥラ・エウロポスのキリスト教集会所の洗礼室に壁画が描かれる。
- 313年 — ローマ帝国でキリスト教を含む信仰の自由と教会財産の返還が認められ、教会建築への皇帝の支援が進む。
- 4〜6世紀 — 大規模な教会建築、壁画、モザイク、イコンの制作が発展する。
- 6世紀 — シナイ山の聖カタリナ修道院で、後に残る重要な宗教画像が制作される。
- 720年代以降 — ビザンティン帝国で宗教画像の崇敬をめぐる対立が深まる。始まりの経緯には議論がある。
- 754年 — ヒエレイアの会議で聖像崇敬を否定する立場が示される。
- 787年 — 第2ニカイア公会議が宗教画像の崇敬を認め、神への礼拝と画像への敬意を区別する。
- 815年 — ビザンティン帝国で画像を否定する政策が再び始まる。
- 843年 — 聖像崇敬が再確立される。
次の記事へ — 教会はなぜ美術の中心になったのか
本記事では、キリスト教が画像をどう考え、画像をめぐってどのような対立を経験したのかを扱いました。しかし、画像を描いてよいという考えが広がっただけでは、巨大な教会堂や数多くの宗教美術が生まれた理由を説明できません。教会建築に資金を出した皇帝や司教、修道院、寄進者、そこで働いた職人たち、そして礼拝での作品の使われ方を知る必要があります。
続編では「なぜ教会は西洋美術の中心になったのか」をテーマに、教会建築、モザイク、壁画、彫刻、写本、祭壇画が、どのような社会的な仕組みで作られたのかを詳しく考えます。
参考資料・出典
本記事は、バチカンの教理文書、東方正教会による教義説明、イェール大学美術館のドゥラ・エウロポス発掘資料、メトロポリタン美術館の初期キリスト教美術・ビザンティン美術研究、Cambridge University Pressの史料研究などを照合し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。冒頭では神・イエス・十字架・聖母マリアなどの基本的な関係を、特定の信仰への賛同を前提とせず説明しています。教会側の信仰理解と、歴史学が確認する出来事を区別し、聖像破壊運動の開始時期や破壊の範囲については研究上の不確実性を明示しました。
- バチカン|カトリック教会のカテキズム:唯一神と三位一体
- バチカン|カトリック教会のカテキズム:イエス・キリストの受肉
- バチカン|カトリック教会のカテキズム:「神の母」の意味
- バチカン|カトリック教会のカテキズム:聖母マリアへの崇敬
- アメリカ正教会|神の受肉と宗教画像
- アメリカ正教会|イコンの意味と教会における役割
- メトロポリタン美術館|聖母マリアの信仰と美術
- メトロポリタン美術館|聖母子イコンの構図と図像
- メトロポリタン美術館|聖人・天使の美術
- 米国カトリック司教協議会 — 出エジプト記20章(偶像崇拝に関する戒め)
- イェール大学美術館 — ドゥラ・エウロポスのキリスト教建築と壁画
- イェール大学美術館 — ドゥラ・エウロポス遺跡の調査
- メトロポリタン美術館 — Jewish Art in Late Antiquity and Early Byzantium
- メトロポリタン美術館 — Icons and Iconoclasm in Byzantium
- メトロポリタン美術館 — Iconoclasm(論争と史料上の問題)
- メトロポリタン美術館 — The Late Roman World(教会建築とモザイクの発展)
- メトロポリタン美術館 — Age of Spirituality: A Symposium(初期キリスト教美術)
- メトロポリタン美術館 — Pilgrimage in Medieval Europe
- メトロポリタン美術館 — Saint Catherine’s Monastery, Sinai
- メトロポリタン美術館 — Icons and Iconoclasm(初期聖像と843年以後)
- Smarthistory — Byzantine Iconoclasm and the Triumph of Orthodoxy
- Cambridge University Press — Byzantine Style, Religion and Civilization(初期聖像破壊説への史料批判)
- Cambridge University Press — Byzantium in the Iconoclast Era, c.680–850(研究書の構成・論点)
- バチカン — Duodecimum Saeculum(787年公会議の礼拝と崇敬の区別)
資料確認日:2026年10月8日 / ART LIBRARY
