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201–300

3世紀ローマ帝国の美術

セウェルス朝、石棺と初期キリスト教壁画

3世紀のローマ帝国では、地中海を結ぶ街道や港、各地の都市生活が維持されるなか、皇帝権力と軍の関係が大きく変化しました。世紀の初めには北アフリカ出身のセプティミウス・セウェルスの王朝が続き、ローマでは凱旋門と巨大浴場が造られました。235年以後は皇帝の交代や軍事衝突が頻繁になり、東方のサーサーン朝との戦争、地方勢力の独立、首都の防備が政治課題となります。

都市には神々を祀る神殿、職人や商人の組合が奉納する記念物、家族が死者を埋葬する墓地がありました。石棺の浮彫にはギリシア神話や夫婦の姿が刻まれ、皇帝の肖像は大理石や青銅、貨幣の小さな面に作られています。シリアの交易都市パルミラでは墓碑の彫刻が発達し、ユーフラテス河畔のドゥラ・エウロポスには複数の宗教共同体が建物を改修して礼拝の場所を設けました。

キリスト教徒の地下墓地と集会所に描かれた絵も、こうした都市の建築・葬祭・絵画技法のなかで制作されました。羊を担ぐ若者、旧約聖書の人物、食卓を囲む人々など、同じような形が置かれた場所や注文主によって異なる意味を持ちます。ローマの大きな建築から墓室の小さな壁画まで、出土場所と制作時期を確かめながら、3世紀に残された作品を見ていきます。

セウェルス朝|皇帝家の肖像と戦勝記念碑

203年のセウェルス凱旋門|パルティア戦争を刻む

ローマのフォルムの北西端に立つセプティミウス・セウェルス凱旋門は、203年に元老院が奉献した記念建築です。中央の大きな通路と左右二つの小さな通路が並び、四本のコリント式柱が正面を区切ります。柱の下には捕虜像が刻まれ、通路の上には翼を広げる勝利の女神や河川神が配されています。上部の大きな浮彫板には、パルティアとの戦争で行われた包囲と行進、都市の制圧が密集した人物像として刻まれています。

戦争の場面は地面に近い区画から上へ向かって連なり、群像の輪郭や武具の穴には彫刻用の回転錐による深い陰影が残ります。現存する画面の人物を一人ずつ読み取るのは難しく、古代の記録と実際の地形を照らす研究が進められています。記念門は戦勝した皇帝の姿を都市の往来へ掲げるための建築でした。(参照:コロッセウム考古学公園|セプティミウス・セウェルス凱旋門/コロッセウム考古学公園|凱旋門の浮彫と保存調査)

凱旋門からゲタの名が消された経緯

凱旋門の最上部には長いラテン語の奉献銘文があります。建設当初はセウェルス帝と二人の息子カラカラ、ゲタを記念する内容でした。211年に父が死ぬと兄弟は共同皇帝となり、同じ年にカラカラがゲタを殺害しました。その後、ゲタを記念した銘文は削られ、新しい語句へ改められています。現在の文字を読むだけでも、建物の奉献と後年の政治的な処置を区別できます。

204年のアルジェンタリウス門でも、皇帝一家を描いた浮彫からゲタやカラカラの妻プラウティッラの像が削り取られています。こちらは牛市場に近い組合が奉納した、梁で上部をつないだ門状の建物です。石面の空白は時代の彫刻が未完成だった証拠ではなく、人物の名と姿を公の記憶から消す行為の痕跡として残りました。(参照:コロッセウム考古学公園|セプティミウス・セウェルス凱旋門/ローマ市文化観光局|アルジェンタリウス門の皇帝家浮彫)

皇帝一家の木板円形肖像|削り取られた顔

ベルリン国立博物館に保存される「セウェルス家の円形肖像」は、直径約30.5センチの木板に顔料を塗り重ねた作品です。制作は200年頃と推定され、セウェルス帝と妻ユリア・ドムナ、息子カラカラとゲタを一つの画面に描いています。皇帝と息子たちは金の冠や杖を身に着け、豪華な装いで正面を向きます。木板の絵画で皇帝家の顔がまとまって残った、非常に珍しい現存例です。

絵は3世紀に入ってから手を加えられ、ゲタの顔の部分が意図的に掻き取られています。ベルリンの収蔵情報は、212年のカラカラによるゲタ殺害と、その後の記憶抹消に結びつけています。凱旋門の碑文、組合が作った門、木板肖像では材質も置かれた場所も異なりますが、三つの作品に同じ政治的な変更が刻まれました。(参照:ベルリン国立博物館|セウェルス家の木板円形肖像/ローマ市文化観光局|アルジェンタリウス門の皇帝家浮彫)

ユリア・ドムナとカラカラ|髪と表情の違い

皇妃ユリア・ドムナの肖像では、豊かな髪を左右に大きく広げてから後ろにまとめ、顔を囲む形が特徴となりました。メトロポリタン美術館には200〜210年頃の緑柱石に皇妃の横顔を彫った小さな印章があります。硬い宝石の面に髪の段差と鼻、額の輪郭を彫り、光の当たり方で顔が浮かび上がります。王朝の女性像は大理石の胸像だけでなく、指輪や印章の小さな装飾にも広がりました。

カラカラの大理石頭像は212〜217年頃の制作で、高さ約36.2センチです。短く刈った髪、細かな無精髭、強く寄せた眉と横に向ける視線が、前代の長い巻き毛と豊かな髭の皇帝肖像とは異なります。軍人としての精悍さを示すような公式肖像の形式で、同館の作品はもとは全身像の頭部でした。脚部とみられる断片も伝わり、頭だけを鑑賞する現在の展示とは元の姿が異なります。(参照:メトロポリタン美術館|ユリア・ドムナの緑柱石印章/メトロポリタン美術館|カラカラの大理石肖像)

カラカラ浴場|水、煉瓦、色大理石の公共建築

212〜216年に造られた浴場の平面

ローマの小アウェンティヌス丘に建てられたカラカラ浴場は、212〜216年に施工された大規模な公共施設です。長方形の敷地の中心に広い浴場本体があり、外側には庭や運動場などの施設が並びました。中央の軸には屋外の大きな水泳池、冷水浴の広間、温水浴の室、熱浴室が連なり、その左右に運動と休息のための部屋がほぼ対称に配されています。

広間の高い煉瓦壁はローマン・コンクリートの躯体を支え、上部には大きなアーチと天井の構造が残ります。水温を変える部屋は、歩く人の動線と地中で燃料を使う設備を組み合わせて造られました。日常の入浴から運動、読書、会話まで、多数の市民が時間を過ごすための施設でした。(参照:ローマ市文化観光局|カラカラ浴場の建築)

大理石の壁面と多色モザイク

浴場の床には多色の小さな石片を並べたモザイクが敷かれ、壁には色の違う大理石板が張られていました。運動場付近の床に見られる幾何学模様と人物像は、広い床面を歩いて鑑賞する装飾です。彫像や巨大な柱が立つ空間には、窓から落ちる光が色石の表面に当たり、白い壁土や煉瓦とは異なる質感が生まれました。

ルネサンス以後、多くの石材や彫像が現地から運ばれ、別の建物や博物館に移されました。現在見える煉瓦造の壁は、完成当時の装飾を失った構造の部分でもあります。残存するモザイクと壁の仕上げ跡を照らすことで、浴場内部にあった色彩の配置を部分的に復元しています。(参照:ローマ市文化観光局|カラカラ浴場の建築)

浴場地下の通路とミトラス礼拝所

カラカラ浴場の地下には、熱を送る設備に関わる通路や燃料を運び込むための空間があります。地下施設の一角には、1912年の調査でミトラス神の礼拝所が発見されました。床は白地に黒い帯を組み合わせたモザイクで、長い部屋の両側には儀礼に参加する人が座ったと考えられる台状の設備が残ります。別室には階段を伴う小さな水槽も設けられています。

礼拝所は浴場の壮大な中心広間と同じ敷地に位置しながら、少人数が内部で活動するための空間でした。現在の遺構で確認できる部屋の配置と床材は、信仰の場がどのような広さと設備を持っていたかを伝えます。儀礼そのものの詳しい進行を示す文書は限られ、施設の利用者を特定する調査も続いています。(参照:ローマ市文化観光局|カラカラ浴場地下のミトラス礼拝所)

大理石石棺|神話、夫婦の顔、戦いの群像

セレネとエンデュミオンの石棺|深い彫り

3世紀初頭の「セレネとエンデュミオンの石棺」は、メトロポリタン美術館が所蔵する高さ約72.4センチの大理石作品です。正面中央には月の女神セレネが戦車から降り、右側で横たわって眠る羊飼いエンデュミオンに近づく場面が刻まれています。周辺には眠りを誘うケシを持つ人物が現れ、左右の端には太陽と月の乗り物が配されます。

人物の身体と衣の襞の間を深く掘り下げると、腕や脚が石面から前へ浮き上がり、強い明暗が生まれます。裏側には牧人と牛、馬のいる田園が浅い浮彫で続き、正面と背面で彫りの深さが変えられています。蓋の銘文には亡くなった女性アリアと、石棺を献じた娘アニニア・ヒララの名が刻まれています。神話の場面は具体的な母娘の記念のために選ばれました。(参照:メトロポリタン美術館|セレネとエンデュミオンの石棺)

220年頃の夫婦石棺|未完成の顔が残る

同館の220年頃の石棺蓋には、寝台に寄り添う夫婦像が横向きに彫られています。男性は上半身を起こし、横に座る女性へ身体を寄せます。男性の頭部は顔立ちまで彫り分けられているのに対し、女性の顔は輪郭が整えられた段階で細部が仕上げられていません。注文主が亡くなった後の予定や家族の埋葬順序をめぐる推定は、この違いから生まれています。

石棺を一定の型で作り、死者の顔だけ後から彫り込む工房の仕事では、未完成の部分が制作工程を伝えることがあります。この石棺について同館は男性が先に亡くなり、女性の肖像が完成される機会が訪れなかった可能性を指摘します。彫り残しの位置は実際に観察できます。具体的な注文と埋葬の経緯は銘文や出土地が残るかどうかによって確かめられる範囲が変わります。(参照:メトロポリタン美術館|夫婦像を彫った石棺蓋(220年頃)/メトロポリタン美術館|ローマの石棺彫刻)

工房と石材の流通|ローマ、アテネ、小アジア

2〜3世紀の石棺はローマの工房だけで作られたものではありません。主要な生産地にはローマ、ギリシアのアテネ、小アジアのドキメイオンがあり、地域によって箱の形と装飾の配置が変わりました。ローマ製の多くは長方形の箱で、壁を背に置くため正面と左右の短い面を重点的に彫ります。アテネ製では四面を彫刻で覆い、急な傾斜を持つ屋根形の蓋を組み合わせる例が見られます。

小アジアのドキメイオンの工房では、柱を連ねた建築のように棺の周囲を彫り、柱の間へ男女の立像を置く形式が発達しました。使う大理石の採石場と加工方法は製作地の推定に結びつき、磨き方や背面の仕上げにも違いが残ります。注文主の身分だけでなく、どの工房から完成品や半製品を入手できたかが、石棺の外観を左右しました。(参照:メトロポリタン美術館|ローマの石棺彫刻)

ルドヴィージの戦闘石棺|三段に重なる人物

ローマ国立博物館のアルテンプス宮にある「ルドヴィージの戦闘石棺」は、3世紀中頃に作られた高さ155センチ、長さ273センチ、奥行150センチの巨大な大理石棺です。1621年頃にローマのティブルティーナ門外で見つかり、ルドヴィージ家の収集品となりました。小アジアのプロコネソス産大理石の大きな一塊から彫り出され、正面は三つの高さに分けてローマ軍と敵軍の戦闘を表しています。

最上段には騎馬の将軍とローマ軍の兵士、中段には武器を交える人々、下段には倒れた敵兵が密集しています。将軍の顔の近くには護衛の騎兵や軍旗が重なり、敵兵の身体は折れ曲がって前後に入り組みます。深い浮彫によって腕や馬の頭が背景の石面から離れ、斜めから見ると強い影ができます。側面には青灰色の石の筋が残り、前面ほど彫り込まれていません。(参照:イタリア文化省|ルドヴィージの戦闘石棺)

石棺の将軍は誰か|帰属説と残存顔料

中央の若い将軍を誰とみるかについては、3世紀の皇族や高位軍人を候補とする研究があります。イタリア文化省の調査解説は、デキウス帝の息子ホスティリアヌス、同じく息子のヘレンニウス・エトルスクス、あるいは名の伝わらない上級軍人という説を挙げています。将軍の額には印のような十字形の刻みがあり、その意味も研究対象です。顔立ちだけから一人の実在人物へ確定する資料は見つかっていません。

大理石の表面には古代の彩色が部分的に残っています。ローマ国立博物館とローマ第三大学による保存科学研究は、顔料の痕跡を調べ、白い石として展示される作品が制作時には色を施されていた姿を検討しています。高浮彫の重なりと塗料の配置を合わせて調べることで、戦闘の場面が当時どのように見えたかの復元が進んでいます。(参照:イタリア文化省|ルドヴィージの戦闘石棺/イタリア文化財総合目録|大ルドヴィージ石棺の研究史)

軍人皇帝の肖像とアウレリアヌス城壁

トレボニアヌス・ガルスの青銅立像|古代部と修復部

251〜253年に在位したトレボニアヌス・ガルスを表す青銅立像は、メトロポリタン美術館にほぼ全身の姿で保存されています。高さ約241.3センチの像で、身体にはギリシアの英雄像を思わせる裸の表現が使われ、顔には短い髪と深い皺が彫られています。右腕を上げた姿は、もとは槍を持ち、左腕に短剣を添えていた可能性が同館の調査で指摘されています。

像は19世紀初頭の発見後に何度も修復を受け、肩から垂れる布の部分は近代の補いです。美術館は内部の観察とX線撮影を行い、古代の鋳造部と後世の修復を分けています。現存する立像の少なくとも四分の三ほどは古代の青銅部材と考えられます。皇帝肖像の研究では、頭部の顔立ちと身体の型に加え、修復によって変わった輪郭を確かめる必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|トレボニアヌス・ガルスの青銅立像)

小さな貨幣に刻まれた皇帝の顔

ガルス帝の胸像は貨幣にも刻まれました。同館所蔵の251〜253年の青銅貨では、皇帝の顔が横向きに表され、周囲に姓名と称号が文字の輪を作っています。裏面には女神の像とその名が配され、流通する貨幣の両面が皇帝権力を知らせる小さな媒体となりました。大きな青銅立像と貨幣を比べると、短い髪や頭の輪郭など識別に必要な特徴が、狭い表面へ省略されていることが分かります。

3世紀後半には皇帝が短期間で交代したため、貨幣の肖像と称号を読むことで、どの統治者がいつ権威を掲げたかを追える例が多くあります。貨幣は大量生産される品であり、鋳型の摩耗や打刻のずれも観察できます。彫像で表した理想的な身体と、市場を動く貨幣に刻んだ顔には、同じ皇帝を見せる異なる仕組みがありました。(参照:メトロポリタン美術館|ガルスの青銅貨/メトロポリタン美術館|トレボニアヌス・ガルスの青銅立像)

271年着工のアウレリアヌス城壁|古い建物を取り込む

アウレリアヌス帝は271年頃、拡大したローマを囲む新しい城壁の建設を始めました。全長はおよそ19キロメートルに及び、煉瓦で覆った厚い壁に塔と門が設けられました。初期の壁はおおむね6メートル前後の高さを持ち、上には兵士が歩くための通路がありました。城壁工事は次のプロブス帝の時代にも続き、後世には塔や上部が改修されています。

ティブルティーナ門付近では、1世紀の水道に設けられた記念アーチが、3世紀に新しい城門の一部として取り込まれました。既存の石造建築の周囲へ煉瓦の城壁を継ぎ足し、両側に防御用の塔を置いています。城壁の工法や接合部は、皇帝の名を刻んだ凱旋門とは違う都市整備の状況を物語っています。(参照:ローマ市文化遺産局|アウレリアヌス城壁の構造/ローマ市文化遺産局|ティブルティーナ門/ローマ市文化観光局|アウレリアヌス城壁の建設)

パルミラ|交易都市の墓碑とゼノビアの貨幣

ザブダアテの墓碑|赤い文字と彫り分けた髭

シリア中部のパルミラでは、家族墓の小部屋へ遺体を納め、納骨の窪みを死者の上半身像を彫った石板で閉じました。メトロポリタン美術館のザブダアテの墓碑は、200〜273年頃に位置づけられる高さ約50.2センチ、幅38.7センチの石灰岩浮彫です。男性は頭をわずかに左へ向け、短い巻き毛と菱形に区切られた髭を持ち、衣服の布を左手でつまんでいます。

左側の碑文には本人、父、祖父の名に加え、石板を作らせた兄弟の名がパルミラのアラマイ語で刻まれています。文字の溝には赤い塗料が一部残り、人物像は光の下で石のまま見える顔だけでなく、色のついた文字とともに読まれたことが分かります。髭や服の彫りの形式による年代推定は比較研究に基づく幅を持ち、特定の制作年までは定まりません。(参照:メトロポリタン美術館|ザブダアテの墓碑)

パルミラ肖像の制作年代と発掘記録

パルミラの墓碑には正面向きの人物像が多く、男女の髪形や衣服、首飾り、手の動きが繰り返し現れます。2019年のメトロポリタン美術館の研究図録は、現存する浮彫を比較すると大きく幾つかの時期に分けられること、制作が3世紀前半にも続いたことをまとめています。石灰岩の滑らかな顔と細く刻んだ衣のひだは、似た型を共有しながら個々の死者を区別するために使われました。

19〜20世紀に美術市場へ出た浮彫には、墓室内での元の位置が伝わらない作品も多くあります。出土場所が確かで碑文が読める例は、家族の関係と墓の造りを一緒に考えるために研究されています。石板の用途と展示室での見た目には差があり、墓室を閉じる厚い板としての形も造形の一部でした。(参照:メトロポリタン美術館|『帝国のあいだの世界』研究図録(2019年)/メトロポリタン美術館|彩色のあるパルミラ墓碑)

272年のゼノビア貨幣|王族の肖像と政治的な称号

3世紀後半、パルミラはローマ帝国東方の政治と軍事で力を増し、女王ゼノビアと息子ウァバラトゥスの政権が広い地域へ進出しました。ベルリン国立博物館貨幣室には、272年にエジプトのアレクサンドリアで鋳造されたゼノビアの貨幣が残っています。直径約19〜22ミリメートル、重さ約10.6グラムの青銅貨で、表には冠をつけたゼノビアの横顔、裏には両角杯を持つホモノイアの立像が刻まれています。

同館にはアウレリアヌス帝とウァバラトゥスを両面に記した270〜272年の貨幣もあります。ローマ皇帝とパルミラの支配者をどのように並べるかが時期によって変わるため、貨幣の図柄と称号を使って政治関係の移り変わりが研究されています。ゼノビア本人の容貌を写し取った肖像として見るには、硬貨の形式化された横顔と人物の同定を区別する必要があります。(参照:ベルリン国立博物館貨幣室|272年のゼノビア貨幣/ベルリン国立博物館貨幣室|アウレリアヌスとウァバラトゥス貨幣)

ドゥラ・エウロポス|シナゴーグとミトラス礼拝所

ユーフラテス河畔の都市に残った礼拝施設

現在のシリア東部、ユーフラテス川を見下ろすドゥラ・エウロポスは、ローマ帝国とイラン系王朝の勢力が交わる位置にありました。街路沿いには神殿、軍の施設、商店、住宅が並び、住民の記したギリシア語、ラテン語、パルミラ語などの文書が残っています。20世紀前半のイェール大学とフランスの共同発掘では、シナゴーグ、ミトラス礼拝所、キリスト教徒の集会所が近い地域で発見されました。

3世紀中頃にサーサーン朝の軍が都市を攻めた際、守備側は西側の城壁の内側へ大量の土を盛りました。その工事によって建物の壁画が埋まり、後世の破壊を免れた部分がありました。建物の利用と埋没は別の時点の出来事で、壁画がすべて戦闘直前に描かれたことを示すものではありません。発掘記録から建物の改修段階を追う研究が続いています。(参照:イェール大学美術館|ドゥラ・エウロポス発掘資料/イェール大学美術館|ドゥラのシナゴーグ)

244〜245年のシナゴーグ|聖書の物語を三段に描く

ドゥラのシナゴーグは、もとは住宅だった建物を165〜200年頃までに礼拝の場所へ改め、その後、244〜245年に大きな改修を受けました。後期の年代はアラマイ語の銘文から分かります。中庭から集会室へ入ると、西壁の中央に聖書の巻物を納める場所が設けられ、周囲には彩色した建築模様とざくろ、葡萄などの植物文様が描かれていました。

集会室の四方の壁には、モーセが海を渡る場面、荒野での水の奇跡、ダビデの選び、エステルらに関わる旧約聖書の物語が、上下三段ほどの帯に分けて描かれています。保存されている図像は約58場面で、もとの構成の六割ほどと推定されています。物語の登場人物は正面を向く姿も多く、長い衣と幅のある色面によって、離れた位置から区別できるようになっています。(参照:イェール大学美術館|ドゥラのシナゴーグ)

トーラーの櫃と天井の絵|発見後の移設

シナゴーグの西壁中央には、聖書の巻物を納める窪みを中心とした装飾が残されていました。その上には神殿らしき建物と契約の箱、アブラハムとイサク、七枝燭台が描かれています。どの建物を表した図柄なのかなど、細かな同定には今も議論があります。人物画のある礼拝堂が発見されたことで、古代ユダヤ教の図像の使用を画一的に捉えてきた従来の見方は再検討されました。

天井は木の梁の上に焼いた粘土板を並べて構成され、絵を描いた板の完形品と断片が234点見つかりました。1932〜1933年の発掘後、壁画の原物はダマスカス国立博物館へ移され、現地で制作されたハーバート・グーテの模写はイェール大学に収められました。現在伝わる図像を検討するときは、発見時の写真、模写、保存処置後の原物を区別する必要があります。(参照:イェール大学美術館|ドゥラのシナゴーグ)

ミトラス礼拝所|牡牛の浮彫を繰り返し使う

ドゥラのミトラス礼拝所は、ローマ軍に属するパルミラ人弓兵たちの信仰にも関わる施設でした。最初期の奉納碑文は168〜169年頃にさかのぼり、209〜211年以後に増改築され、240年頃にも部屋が拡張されました。3世紀の壁には、東方風の衣装を着たミトラスが牡牛の背を押さえて首を刺す浮彫が置かれています。傷口の近くに犬が寄り、奉納者を示す人物も刻まれています。

牡牛を刺す場面を彫った二枚の古い浮彫は、後世の改修後も礼拝所の中心に残されました。壁には弓で狩りをするミトラスも描かれています。イェール大学美術館は、古い浮彫が再利用され、新しい壁画が加えられた順序を発掘資料から説明しています。図像の核となる牡牛の場面が続きながら、建物は軍の駐屯状況に応じて形を変えました。(参照:イェール大学美術館|ドゥラのミトラス礼拝所)

ドゥラのキリスト教集会所|改修建築と洗礼室の壁画

住宅の間取りを改めた集会室

ドゥラのキリスト教徒は、住宅として造られた建物を改修して集会に使っていました。中庭に面する隣り合った二室の間の壁が取り払われ、一続きの広間となりました。中庭を挟む別の部屋には水を使う洗礼の設備が設けられ、礼拝の場と儀礼の場が一つの建物に組み合わされています。イェール大学美術館の発掘写真では、列柱状に仕切った洗礼槽の覆いと、その上部の壁画を確認できます。

20世紀の考古学者カール・クレーリングは、建物を232年に建てられた住宅が240年頃に一度に「教会」へ改造された例として整理しました。2024年、考古学者デイヴィッド・K・ペテグリューは古い発掘記録と建材を再検討し、建物自体は2世紀末から3世紀初めに造られ、改修も複数の段階に分かれた可能性を提示しました。建築と宗教的な利用を同じ単一年代へ収める従来の復元に見直しが進んでいます。(参照:イェール大学美術館|ドゥラのキリスト教集会所と洗礼室/『米国考古学誌』|ペテグリューによる建築再検討(2024年))

集会所と住宅の境界をめぐる2024年の議論

同じ2024年、カミーユ・レオン・アンジェロとジョシュア・シルヴァーは、残る壁や床の高さ、入口の通り道、日光の入り方を比較する研究を公表しました。住宅の中庭にあった貯水槽が閉じられ、床が敷き直され、隣室が一つの大きな集会室へ変わった点から、改修後の建物は通常の住宅とはかなり違う使われ方になったと論じています。

二つの研究は、住宅が一度の工事で完成した特別な教会建築へ変わったという古い説明を、それぞれ別の方向から検討しています。ペテグリューは住まいとしての性格が残った可能性も視野に入れ、アンジェロとシルヴァーは改修後の住居機能の縮小を重視しました。壁や床の痕跡は同じでも、当時の部屋がどのように使われたかには考古学上の論点が残されています。(参照:『米国考古学誌』|ペテグリューによる建築再検討(2024年)/『Journal of Roman Archaeology』|アンジェロ/シルヴァー論文(2024年))

洗礼槽の上の善き羊飼いと奇跡の場面

洗礼室の奥では、列柱風に組んだ小さな覆いの下に人が入る大きさの洗礼槽がありました。その上部には肩に羊を担いだ若い羊飼いが描かれ、足元には群れが表されました。後からアダムとエヴァを小さく描き加えた痕跡もあります。近くの壁には、横たわる人を起こすキリストや水上を歩く人物といった場面が描かれています。

発掘では壁画がまとまって残り、1930年代に取り外されてイェール大学美術館へ移されました。絵はキリストの容貌を肖像として精密に伝えるものではなく、洗礼を受ける場所に救済や生命に関わる物語を置くために制作されています。羊飼いの姿はローマの牧歌的な図像にも通じ、宗教儀礼の空間に合わせて選ばれた形と考えられます。(参照:イェール大学美術館|ドゥラのキリスト教集会所と洗礼室)

井戸辺の女性と行列|図像の解釈が分かれる

洗礼室の別の壁には、井戸から水をくむ女性が描かれています。古くから『ヨハネによる福音書』のサマリアの女性とされてきました。上方に並ぶ複数の女性像も、キリストの墓を訪れる女性たちという説明が広まりました。絵具の欠損が多く、残った部分には井戸、水を入れる容器、衣をまとって進む人々の姿が見られます。

マイケル・ペパードは2016年の著書で、井戸辺の女性を受胎告知に関わるマリア、女性の行列を婚礼へ向かう乙女たちとみる説を提示しました。後代のシリアの宗教画像や聖書に登場する乙女のたとえと、画面の人物の服装・持物を照合する方法を取っています。従来説にも物語の構図との対応があり、人物名を直接記した文字がないため、二つの読みが研究で検討されています。(参照:マイケル・ペパード|洗礼室の女性行列の再解釈(2016年)/マイケル・ペパード|井戸辺の女性の再解釈(2016年)/イェール大学美術館|ドゥラのキリスト教集会所と洗礼室)

ローマの地下墓地|壁画と墓室の使われ方

サン・カリスト地下墓地|通路と家族墓室

ローマ郊外では、3世紀にキリスト教徒を含む共同体の地下墓地が拡大しました。アッピア街道沿いのサン・カリスト地下墓地には、狭い通路の壁に遺体を納める横穴が何列も掘られ、ところどころに家族用の小さな墓室が設けられています。3世紀初めにはカリストゥスが墓地の管理に関わったと伝えられ、数人のローマ司教が葬られた区画も残っています。

墓地の通路と墓室は、死者を埋葬して記憶するための空間として利用されました。迫害を逃れて大勢が集会を続けた場所とする説明は、地下墓地の主な用途を十分に表していません。長い通路には多数の埋葬が重なり、墓の銘文や閉鎖板には死者の名前、家族関係、信仰の図柄が残っています。(参照:サン・カリスト地下墓地管理機関|3世紀の墓地と教皇墓所/教皇庁聖考古学委員会|キリスト教地下墓地)

「秘跡の小墓室」|洗礼と食事の場面

サン・カリスト地下墓地の「秘跡の小墓室」と呼ばれる五つの家族墓室には、3世紀初めとされる壁画が残っています。漆喰の上には水に入る人物、食卓と人々、魚やパン、旧約聖書のヨナの場面などが描かれました。小さな墓室の壁を細い線で幾何学的に分け、赤褐色や緑の色を限られた区画に配しています。

管理機関は、水と食事の図像を洗礼と聖餐の象徴として説明しています。ヨナが大魚から救われる物語は、キリスト教徒にとって死からの復活を連想させる主題でした。描かれた一つひとつの食卓を実際にその墓で行われた儀式の記録と考える証拠は限られています。絵は葬送の空間へ選ばれた聖書や救済に関わる場面として扱われています。(参照:サン・カリスト地下墓地管理機関|洗礼と食事の壁画/教皇庁聖考古学委員会|キリスト教地下墓地)

プリシラの地下墓地|女性の祈りと幼子の図像

サラリア街道沿いのプリシラ地下墓地には、家族墓室から発展した地下通路が広がっています。「ヴェールを付けた女性の小墓室」には、両腕を広げて祈る女性や、人生の別の場面を思わせる人物が描かれています。教皇庁の聖考古学委員会は、この墓室の絵を3世紀後半に位置づけています。人物の輪郭と衣服は細く描かれ、墓室の半円形の壁面へ自然に収められています。

別の壁龕には幼子を抱いた女性と、星を指す人物が描かれ、230〜240年頃の作と紹介されています。幼子を抱く人物はマリア、横の人物は預言者バラムという同定が広く使われてきました。壁画には人物名の銘文がなく、神学的な意味づけには図像比較による推定が含まれます。同じ地下墓地に残る壁画でも制作年代が一致するとは限りません。(参照:教皇庁聖考古学委員会|プリシラのカタコンベ/教皇庁聖考古学委員会|プリシラ墓地の制作年代)

ドミティッラ地下墓地|家族墓が変わる

ドミティッラ地下墓地の古い区画には、2世紀末に始まった有力家族の地下墓室が含まれます。フラウィウス家に関わる地下墓室は、当初は伝統的なローマの葬送文化の中で作られ、3世紀には聖書の図像を持つキリスト教徒の埋葬が加わりました。墓室の利用者と装飾が長い時間の中で変化した事例です。

地下墓地では壁画だけでなく、煉瓦や石板で閉じた埋葬穴の配置が残ります。先祖の墓の近くへ新しい葬儀が重ねられ、通路が拡張されました。キリスト教美術の制作を考えるときは、壁画の図像のほかに、誰が墓の区画を使い、どこに新しい部屋が掘られたかも重要な発掘情報になります。(参照:教皇庁聖考古学委員会|ドミティッラのカタコンベ)

墓の画像と宗教的な意味|アウレリ家の地下墓室

1919年発見の地下墓室|二層に残る絵画

ローマのポルタ・マッジョーレ近くでは、1919年に車庫の工事中にアウレリ家の地下墓室が見つかりました。上層の一室と下層にある二つの部屋からなり、壁画と床モザイクが残っています。床にはアウレリウス・フェリキッシムスが兄弟や同じ境遇の解放奴隷のために墓を献じたことが記されています。階段近くの石板には、別の家族が亡くなった娘を記念した文が残ります。

壁画には巻物を読む髭の男性と羊たち、十三人が集まる食卓、馬に乗る人物、神話を思わせる男女の姿などが描かれています。絵具の色と場面の組み合わせは伝統的な神話画に近いところもあり、同時代のキリスト教図像に似る部分もあります。建物は3世紀前半に使われ、後にアウレリアヌス城壁の内側に入ったことで葬地としての扱いが変わりました。(参照:ローマ市文化観光局|アウレリ家の地下墓室)

アダムとエヴァか、ヘラクレスか|図像解釈の境界

アウレリ家の上階の壁画には、蛇を伴う男女の場面があります。最初はアダムとエヴァの絵として説明されることが多く、近年はヘラクレスとヘスペリデスの園の神話と結びつける読みも提示されています。下階の羊と巻物の男性をキリストの教え、十三人の食卓を宗教的な食事と考える説もあります。

どの図柄を宗教的な意味で選んだのかは、人物の持物と隣の場面の関係、銘文の内容によって検討されています。3世紀のローマの墓室には、従来の神話図像と新しい信仰の図像が似た技法で描かれた例があります。アウレリ家の絵が今も研究されるのは、図像の形が分かっていても、注文した人々の信仰を一つに定められる資料が乏しいためです。(参照:ローマ市文化観光局|アウレリ家の地下墓室/教皇庁聖考古学委員会|アウレリ家地下墓室)

略年表|201〜300年の主な出来事

  • 203年|ローマでセプティミウス・セウェルスの凱旋門が奉献される
  • 204年|牛市場近くにアルジェンタリウス門が奉献される
  • 211年|セウェルス帝が死去。カラカラとゲタが共同皇帝となる
  • 212年|ゲタの像と名前の抹消が進み、カラカラ浴場の工事が続く
  • 216年|カラカラ浴場の主要な建物が完成する
  • 220年頃|この頃、夫婦を寝台に表した大理石石棺が作られる
  • 235年|セウェルス朝が終わり、皇帝の交代と軍事紛争が相次ぐ
  • 240年頃|この頃ドゥラ・エウロポスでキリスト教集会所とミトラス礼拝所が改修される
  • 245年|ドゥラのシナゴーグは244〜245年の改修で聖書の壁画を備える
  • 251年|トレボニアヌス・ガルスが皇帝となる。青銅像と貨幣が作られる
  • 256年頃|この頃までにドゥラの礼拝施設が城壁補強の土に埋められる
  • 271年|ローマでアウレリアヌス城壁の建設が始まる
  • 272年|アレクサンドリアでゼノビアの名と肖像を持つ貨幣が鋳造される
  • 273年|アウレリアヌスがパルミラ勢力を制圧し、帝国東方の支配を回復する
  • 284年|ディオクレティアヌスが皇帝となる
  • 293年|四帝統治が始まり、皇帝権力を複数の統治者で分担する体制が整う

まとめ|3世紀の造形と研究の到達点

3世紀のローマ帝国では、皇帝の肖像と戦勝記念碑、都市の浴場、家族の石棺や墓室など、多様な場所に人物像が作られました。セウェルス朝の凱旋門や木板肖像には、ゲタの名前と顔が後から削られた痕跡が残ります。ルドヴィージの戦闘石棺では深い浮彫と彩色が併用され、青銅の皇帝像には近代修復を受けた部分もあります。作品の材料と表面を調べることで、制作時の姿だけでなく、その後の変更も区別できます。

ドゥラ・エウロポスでは、ユダヤ教徒が聖書の物語を壁いっぱいに描き、ミトラス信仰の人々は古い浮彫を再利用しました。キリスト教徒は住宅を改修した集会所に洗礼槽と壁画を設け、ローマの地下墓地には祈る人物やヨナの物語が描かれました。同じ都市や墓地で制作された画像には共有する形があり、それぞれが異なる祭祀や埋葬の場所で使用されていました。

現在の研究では、出土した壁の位置と改修の前後関係、碑文による年代、顔料や修復材の違いが詳しく調べられています。ドゥラの集会所の建設段階をめぐる2024年の研究や、女性の壁画の人物を再解釈した2016年の研究が示すように、同じ遺構にも新しい調査方法と比較資料から別の読みが生まれています。個々の絵の注文主と儀礼の全容には未解明の部分が残り、考古学資料と図像の検討が続いています。(参照:『米国考古学誌』|ペテグリューによる建築再検討(2024年)/『Journal of Roman Archaeology』|アンジェロ/シルヴァー論文(2024年)/マイケル・ペパード|洗礼室の女性行列の再解釈(2016年))

参考資料・出典