1966–1972
キャンバスを木枠から外し、絵画の仕組みを問い直す
フランスのシュポール/シュルファス
美術館で絵画を見るとき、私たちは画面に描かれた形や色彩に目を向けます。キャンバスを張る木枠や布の裏側、壁に掛けるための仕組みまで意識する機会は少ないでしょう。1960年代後半のフランスで活動した芸術家たちは、そうした普段は隠れている部分に注目し、絵画の作り方を根本から見直し始めました。
キャンバスを木枠から外して壁に吊るす。木枠だけを立て掛ける。布を折り畳み、切り、染める。網やロープ、既製の模様布を使い、海岸や村の屋外に作品を設置する。それぞれの方法には、絵画が長方形の画面であることや、常に壁に掛けられることへの問いが込められていました。
こうした実践は、1970年に「シュポール/シュルファス」という名前のもとに紹介されます。フランス語で「支持体」と「表面」を意味する言葉です。従来の絵画で一体となっていた布、木枠、色彩、展示の条件を分けて検討し、それらを組み合わせ直すことが、この運動の大きな特徴でした。
中心となったクロード・ヴィアラは、布に同じ形を繰り返し描き、色と素材の違いを浮かび上がらせました。ダニエル・ドゥズーズはキャンバスを支える木枠を作品にし、ルイ・カーヌは布を切ったり、壁と床にまたがらせたりしました。パトリック・セトゥールやノエル・ドラは、既製布の加工や屋外の一時的な行為を通じて絵画を広げました。
背景には、戦後の抽象絵画への問い、南フランスでの作家たちの交流、1968年5月の学生運動と社会的な変化があります。作品制作を一人の天才の感情表現として考える習慣も見直され、素材、操作、労働、流通、美術館の役割を考える議論が生まれました。各作家の考え方には違いがあり、活動は短期間で分裂へ向かいます。
本記事では、1966年頃から1972年頃までの展開を年代順にたどります。具体的な作品を通じて、布、木枠、色、壁、床がどのように扱われたのかを確認し、同時代のミニマリズムやコンセプチュアル・アートとの関係にも触れます。絵画を一度分解することで、芸術家たちが新たに見つけた可能性を考えていきます。
CONTENTS
- 絵画を分解すると、何が見えてくるのか
- 1966年前後、南フランスで始まった実験
- 戦後抽象絵画の先にあった新しい問い
- BMPT、マティス、アンタイから受けた刺激
- 1969年から1970年、運動の輪郭が現れる
- 美術館の壁を離れ、畳んで運べる絵画へ
- クロード・ヴィアラ――同じ形と異なる布
- ダニエル・ドゥズーズ――木枠だけでも絵画になる
- ルイ・カーヌ、セトゥール、ドラ――切る、折る、染める
- パンセマン、ドゥヴァード、ビウレス、アルナル
- 彫刻、色彩、身体に広がる支持体の問題
- 1968年5月、社会の変化と制作の労働
- マルクス主義、言語理論、絵画批評
- 展覧会のビラと内部論争
- 1971年の分裂と、作品を取り巻く制度
- 同時代のミニマリズムやアルテ・ポーヴェラとの関係
- 運動の後――作家たちはどこへ向かったのか
- 絵画の仕組みを問い直した時代の意味
- 年表――運動の形成から再評価まで
- まとめ――絵画の条件をもう一度見る
- 参考資料・出典
絵画を分解すると、何が見えてくるのか
「支持体」と「表面」という二つの言葉
シュポール/シュルファスは、後世の美術史では一つの運動名として整理されていますが、当時から固定された会員制度や統一綱領を持つ組織だったわけではありません。ポンピドゥー・センターが1998年の大規模な回顧的整理で示したように、厳密に「グループの展覧会へ少なくとも一度参加した作家」を挙げる場合には、アンドレ=ピエール・アルナル、ヴァンサン・ビウレス、ルイ・カーヌ、マルク・ドゥヴァード、ダニエル・ドゥズーズ、ノエル・ドラ、トニ・グラン、ベルナール・パジェス、ジャン=ピエール・パンセマン、パトリック・セトゥール、アンドレ・ヴァランシ、クロード・ヴィアラという十二人が中心になります。一方で、ピエール・ビュラリオ、クリスチャン・ジャカール、ジャン=ミシェル・ムーリス、フランソワ・ルーアンなど、非常に近い問題意識を共有しながら正式なグループ展への参加歴が異なる作家もいました。
そのため、シュポール/シュルファスを理解するときに重要なのは「誰が正式メンバーだったか」だけではありません。1960年代半ばからフランス各地で進行していた、絵画の物質性、支持体、反復、非構成的な色彩、屋外展示、地域からの発信といった複数の実験が、どのように接近し、1970年頃に一時的な集合体となり、その後また分岐したかを見る必要があります。名称は明快ですが、その内部には当初から複数の立場が存在していました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
木枠とキャンバスを別々に見る
また「支持体」と「表面」という二語を、作家を二派に分ける分類として理解するのも正確ではありません。たしかにドゥズーズが木枠や格子構造を露出させ、ヴィアラやカーヌが自由な布を扱ったことから、支持する構造と表面を分解するという説明は有効です。しかし実際の制作はもっと複雑で、木枠を維持したビウレスやドゥヴァードも重要なメンバーでした。名称は個々の作家を機械的に分類するためではなく、絵画を成立させる複数の条件を可視化する批評的な装置として理解した方がよいでしょう。
伝統的な油彩画を鑑賞するとき、私たちの視線は描かれた像や色に向かいます。キャンバスを張る木枠、釘、布の裏側、壁との距離には注意を払いません。シュポール/シュルファスは、この不可視化された構造を作品の前面へ引き出しました。木枠をむき出しにする、キャンバスを外す、布を切る、折る、染める、裏返す、床へ垂らす。こうした操作は、完成した絵画に装飾を加えるためではなく、絵画を成立させる制度的な「当たり前」を分解するために行われました。(参照:ポンピドゥー・センター|絵画の素材と支持体)
壁と床が作品の一部になる
布が木枠から外れると、絵画は固定した長方形ではなくなります。重力によってたわみ、壁の形に沿い、床へ折れ曲がり、持ち運ぶときには畳まれる。正面から見る一枚の面だった絵画が、空間と身体に応じて変形する物体になります。反対に木枠だけを取り出せば、それまで絵画の裏に隠れていた構造が前面へ現れます。支持体と表面を分離するという操作は、単なる造形上の奇抜さではなく、絵画がどのような物理的条件と展示習慣によって「絵」に見えていたのかを明らかにする分析でした。
こうして絵画は、像を所有する平面から、空間を占める物体へ変わります。壁と床の境界、室内と屋外、垂直と水平、表と裏が作品の一部になり、展示は作品の後工程ではなく制作の一部になりました。後のインスタレーション美術に近い状況が生まれますが、シュポール/シュルファスの場合、それは絵画を放棄した結果ではなく、絵画を徹底的に検討した結果として生まれたことが重要です。(参照:ポンピドゥー・センター|ドゥズーズ《透明なプラスチックを張った木枠》)
1966年前後、南フランスで始まった実験
運動名ができる前から作家たちは動いていた
シュポール/シュルファスの歴史を1970年から始めると、その核心を見失います。ポンピドゥー・センターの年表が強調するように、作家たちの交流と実験は1960年代前半からすでに始まっていました。モンペリエの美術学校ではビウレス、グラン、ルーアン、ヴィアラらが近い環境を共有し、パリの美術学校でもドゥズーズ、ビュラリオ、ルーアンらのネットワークが形成されていました。さらにニースは、ヌーヴォー・レアリスムやベン、アルマンらの活動とも重なりながら、中央であるパリとは異なる前衛の拠点になっていました。ヴィアラは1966年にニースへ移り、パジェスやセトゥールらとの接触が濃くなります。
この時期にヴィアラは、後に彼の代名詞となる、輪郭の定まらない同一形態を反復して布面へ置く方法を始めます。反復は「個性的な構図」を作るためではなく、画面のどこかを特別扱いせず、支持体全体を均質に占有する方法でした。同じ頃、ルーアンは塗られた布を切り裂いて編み直す「トレサージュ」を進め、ルイ・カーヌは切った紙やスタンプの反復へ向かいます。ドゥズーズは1967年に木枠そのものを露出させ、透明なプラスチックを張った《Châssis avec feuille de plastique tendue》を制作しました。まだシュポール/シュルファスという名称が存在しない段階で、すでに「絵画を構成する部品を露出させる」という考え方は具体的な作品になっていたのです。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
ニース、モンペリエ、セレを結ぶ人々
シュポール/シュルファスはフランスの戦後美術としては珍しく、その形成をパリだけで説明できません。ニース、モンペリエ、セレ、ペルピニャン、南仏の海岸や山間部が重要な舞台になりました。ポンピドゥー・センターの年表では、1966年のセレ近代美術館での《Impact I》が、後のシュポール/シュルファスに関わる作家とBMPT周辺の作家、さらにベンやアルマンまでを一堂に集めた重要な出来事として位置づけられています。こうした展覧会は、首都の画廊や美術館だけが前衛を生み出すという序列を相対化しました。
こうした実験は、何もないところから同時に発生したわけではありません。アンリ・マティスの切り紙絵、ジャクソン・ポロックの床上制作、バーネット・ニューマンやマーク・ロスコの色面、アド・ラインハート、サイモン・アンタイの折り畳み、さらにフランスに紹介されつつあったアメリカの新しい抽象絵画などが、異なる仕方で参照されました。重要なのは、これらの先行例を様式として模倣するのではなく、「絵画はどのように作られ、どのように支持され、どのように見られるのか」という制作条件へ問いを戻したことです。(参照:カレ・ダール美術館|運動の起源1966〜1970年)
暮らしの条件と地方の展示空間
地域性は単なる活動場所の違いではありません。南フランスでの活動は、倉庫や小さな住居、海岸、河原、道路脇、山地など、作品を美術館の白い壁から解放する実践と結びつきました。ヴィアラが木枠を外した布を扱うようになった理由の一つには、狭い住居で大きな張りキャンバスを保管できず、布なら折り畳めるという実際的な事情もありました。美術理論だけでなく、生活条件そのものが新しい形式を生み出した点は重要です。
また、パリ中心の美術制度への距離は、政治的な地域主義とも接続しました。1968年前後のフランスでは、国家や文化制度の中央集権性への批判が広がっていました。シュポール/シュルファスの作家たち全員が同一の地域政治を共有していたわけではありませんが、作品を地方都市や自然環境で発表し、パリの市場や制度に回収される前の関係を模索したことは、運動の重要な特徴でした。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
戦後抽象絵画の先にあった新しい問い
既存の絵画を見直したフランスの作家たち
1960年代フランスで、絵画を続けることは自明ではありませんでした。ヌーヴォー・レアリスムは現実の物体や都市の断片を直接作品へ導入し、イヴ・クラインはモノクロームと身体、空虚、パフォーマンスへ向かい、フィギュラシオン・ナラティヴは政治や大衆文化を再びイメージの領域へ持ち込んでいました。絵画は一方では古い制度に見え、他方では新しいイメージ政治の道具にもなっていました。シュポール/シュルファスは、そのどちらとも異なる方向から絵画を問い直しました。
彼らが行ったのは、絵画を捨てることではなく、絵画から「絵らしさ」を取り除いていくことでした。遠近法、主題、中心構図、筆触による感情表現、額縁、木枠、壁掛けという条件を一つずつ検証し、残るものを確かめる。布そのもの、色そのもの、支持する構造、折る・染める・切る・結ぶという行為が前面に出たのはそのためです。ポンピドゥー・センターがこの動向を、絵画の構成要素を最も基本的な段階から分析する実践的かつ理論的な批判として整理しているのは、この運動が単なる形式遊びではなかったからです。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
アンフォルメルの身振りを見直す
結果として、シュポール/シュルファスは「絵画の死」を宣言した運動というより、死を宣告されつつあった絵画を分解して再起動した運動と見る方が適切です。絵画の権威を守るためではなく、何をもって絵画と呼べるのかを最低限の条件まで戻し、そこから再び可能性を探ろうとしました。
シュポール/シュルファスの反復や機械的な操作には、1950年代の抒情的抽象やアンフォルメルに対する距離もあります。戦後の抽象絵画では、激しい筆触や絵具の痕跡が、しばしば作家の内面、身体、存在の直接的な表現として読まれました。ところが1960年代後半になると、その「自由な身振り」自体が一種の様式や権威になっているのではないかという疑いが生まれます。シュポール/シュルファスの作家たちは、筆触をゼロにするのではなく、筆触が特別な主体の証明として扱われる仕組みを疑いました。(参照:ポンピドゥー・センター|絵画の素材と支持体)
同じ形の反復が生み出す変化
そのため反復、スタンプ、折り畳み、染色、噴霧といった方法が選ばれます。ヴィアラの同一形態、カーヌのスタンプ、ドラの点は、毎回一から「個性的な構図」を生み出すことを拒みます。作家は画面の唯一の支配者ではなく、規則、素材、重力、染み込み、折り目などと共同して結果を生み出す存在になります。これは作者を完全に消すことではありません。むしろ作者の役割を、感情を表出する主体から、条件を設定し工程を実行する者へ変えることでした。
この意味でシュポール/シュルファスの非表現性は、感情を持たない冷たい形式主義とは異なります。色の強さ、布の手触り、身体的な操作は残り続けます。ただ、それらが「作者の魂の痕跡」として特権化されない。作品を見れば、どのような工程が行われ、どのような素材が反応したかをたどることができる。この透明性が、制作を神秘化しないという政治的・理論的姿勢とも結びつきました。(参照:ポンピドゥー・センター|カーヌ《貼り合わせた紙》)
BMPT、マティス、アンタイから受けた刺激
BMPTの反復と、シュポール/シュルファスの物質性
シュポール/シュルファスと並行して、1966年から67年にかけてダニエル・ビュレン、オリヴィエ・モセ、ミシェル・パルマンティエ、ニエル・トロニによるBMPTが、反復的な定型と匿名的な制作を通じて絵画の制度を批判していました。ビュレンの縦縞、モセの黒い円、パルマンティエの水平帯、トロニの一定間隔の筆跡は、作家の個性的表現を最小化し、「作品に何を見るのか」という期待そのものを攻撃しました。シュポール/シュルファスとBMPTはしばしば近接して展示され、初期には人間関係も重なっています。
シュポール/シュルファスの特色は、BMPTとの違いを知ると鮮明になります。BMPTが記号の反復や展示制度の批判へ鋭く進んだのに対し、シュポール/シュルファスの多くの作家は、色、布、染み、折り、表裏、重さ、手触りなど、物質としての絵画により深く関わりました。また、アメリカのミニマリズムと比較される一方、彼らが強く参照したのはフランク・ステラだけではなく、ニューマン、ロスコ、ラインハート、ケネス・ノーランド、ジュールズ・オリツキーなど、色面や平面性をめぐる戦後アメリカ絵画でした。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
折り畳みから絵画を作るサイモン・アンタイ
さらにサイモン・アンタイの存在は決定的でした。アンタイの「プリヤージュ」は、布を折ってから絵具を施し、開いたときに偶然と規則が共存する画面を生みます。シュポール/シュルファスの折る、染める、反復するという実践はアンタイと同一ではありませんが、絵画を正面から筆で構成するのではなく、支持体へ物理的操作を加えることで像を生じさせるという発想を共有していました。
サイモン・アンタイの存在も同様に重要です。アンタイは1950年代末から60年代にかけて、キャンバスを折り、縛り、絵具を施し、再び開くことで、作者が画面全体を統御しない制作方法を確立しました。そこでは折られて隠れた部分と露出した部分の差が画面を生み、構図は作家の主観的な設計ではなく、操作の結果として現れます。ヴィアラ、セトゥール、アルナルらの折りや反復をアンタイから直接導くことはできませんが、「支持体への操作が像を作る」という考え方をフランス国内で先行して示した点は大きいでしょう。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
マティスと戦後アメリカ抽象を読み直す
シュポール/シュルファスをアメリカ美術の輸入として説明すると、フランス内部の重要な系譜が抜け落ちます。とりわけアンリ・マティスの切り紙絵は、色と支持体を別々に考え、切断と配置によって画面を組み立てる先例として大きな意味を持ちました。ポンピドゥー・センターの年表は、1970年にパリのグラン・パレで開催されたマティス回顧展がシュポール/シュルファスの作家たちに決定的な影響を与えたと記しています。マティスの晩年作品では、色は線で囲われた内部を埋めるものではなく、色紙そのものが形であり物質でもあります。この発想は、絵画を色・形・支持体の関係へ分解しようとした若い作家たちにとって、過去の巨匠を再発見する契機になりました。
この系譜を見ると、シュポール/シュルファスは「フランスの伝統を捨ててアメリカ化した運動」でも、「純粋な反アメリカ運動」でもありません。マティス、アンタイ、ポロック、ニューマン、ノーランド、ステラなど、異なる地域と世代の実践を同時に読み替え、そこから自分たちの状況に必要な問いを抽出しました。国際的な抽象の言語を受け取りながら、それを南フランスの素材、政治、展示環境へ接続したところに独自性があります。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
1969年から1970年、運動の輪郭が現れる
1969年《絵画を問う》展とコアラーズ
1969年は、後のシュポール/シュルファスが運動として輪郭を持ち始める決定的な年です。6月、ル・アーヴル美術館で《La Peinture en question》が開かれ、ルイ・カーヌ、ダニエル・ドゥズーズ、パトリック・セトゥール、クロード・ヴィアラが参加しました。ポンピドゥー・センターの教育資料も、この展覧会をシュポール/シュルファスの基礎が示された重要な段階として位置づけています。タイトル通り、問題にされたのは「新しい絵をどう描くか」ではなく、絵画という制度と物体そのものです。
同年7月には南仏の山村コアラーズで屋外展《Coaraze 69》が開かれ、ドゥズーズ、パジェス、セトゥール、ヴィアラ、ヴァランシらが参加しました。ここでは作品は壁に掛けられるのではなく、村落や道路、地面、自然環境の中へ置かれます。ベルナール・パジェスの《La Plaque d'égout》は、現地で見つけた鋳鉄製のマンホール蓋と石を組み合わせたもので、加工された工業物と自然物を関係づけながら、彫刻の台座と永続性を拒みました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
作品を自然の中へ持ち出す試み
コアラーズで重要なのは、自然そのものをロマンティックに賛美したことではありません。作家たちは伝統的な文化施設から離れ、作品が置かれる場所の条件を変えることで、作品と制度の関係を可視化しました。作品を自然へ持ち出すことは、絵画や彫刻を独立した高級物品として展示する仕組みに対する実践的な批判でもありました。その意味で、後のランド・アートと共通する問題を持ちながら、シュポール/シュルファスはあくまで絵画や彫刻の構成条件から出発していた点に特徴があります。
1970年の展覧会へ向かう以前から、南フランスでは絵画を美術館の外へ持ち出す実験が進んでいました。村や道路、海岸での設置は、作品を見る環境を変えると同時に、布や木材が光や風の中でどう振る舞うかを確かめる機会でもありました。こうした実践が、翌年にグループ名が定まる土台となります。(参照:カレ・ダール美術館|運動の起源1966〜1970年)
1970年ARC展で名称が定まる
1970年9月13日から10月15日まで、パリ市立近代美術館のARCで《Support-Surface》展が開催されました。パリ・ミュゼの公式アーカイブによれば、参加作家はクロード・ヴィアラ、ダニエル・ドゥズーズ、マルク・ドゥヴァード、パトリック・セトゥール、アンドレ・ヴァランシ、ヴァンサン・ビウレスの六人でした。この展覧会は、シュポール/シュルファスがパリの美術館空間で初めて共通名のもとに紹介された場として大きな意味を持ちます。
名称を提案したのはビウレスでした。ポンピドゥー・センターの年表によれば、展覧会準備中の1970年8月に「シュポール/シュルファス」という案が示され、カタログ表紙では単数形の《Support-Surface》と記されましたが、作家たちはその後二語を複数形で用いるようになります。名称そのものが作品の構造を説明しています。絵画の背後で見えなくなっていた「支持するもの」と、色や像が現れる「表面」を切り離し、それぞれを研究対象にするという発想です。
1970年の展覧会では、集団の内部にあった立場の違いも表面化しました。会場ではカーヌ、ドゥヴァード、ドゥズーズが署名した「緑のビラ」が配布され、そこには展示が一つの首尾一貫したグループを構成していないという批判が記されていました。つまり、名称が公的に生まれたその場で、すでに内部の違いが可視化されていたのです。シュポール/シュルファスは、共通の宣言に基づく安定した集団というより、同じ問題を異なる立場から争いながら共有した短期的な連合でした。(参照:パリ・ミュゼ|1970年ARC展の公式記録)
美術館の壁を離れ、畳んで運べる絵画へ
1970年夏、海岸や村で展示された作品
1970年夏、ドゥズーズ、パジェス、セトゥール、ヴァランシ、ヴィアラらは、南フランス各地の道路、海岸、採石場、河床、草地、工場などに作品を設置しました。ポンピドゥー・センターの年表には、ニース近郊の道路、ヴォグルニエ公園、ヴィルフランシュ=シュル=メールの湾、マグロンヌの浜辺、オーバイの採石場、セレの村など、多様な場所が記録されています。これらの行為は翌年、ジャン・フルニエによって《Été 70》として写真記録がまとめられました。
ここでは、展示場所が作品の意味を変えます。自由な布は風に動き、ロープや網は地形と絡み、木材や金属は自然の光の中で別の表情を見せる。作品が「どこでも同じように成立する自律した物体」ではなくなり、設置された場所との関係として経験されます。同時に、屋外での一時的な展示は、売買・保管・収蔵を前提とする美術品のあり方とも緊張関係を作りました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
自由な布が変えた展示と運搬
屋外での実践も、画廊や美術館と関係を保ちながら進められました。写真記録は後に展覧会と出版によって美術制度へ戻り、作家たちは画廊とも関係を持ち続けました。シュポール/シュルファスの重要性は、制度の外側に逃れたことではなく、制度を利用しながら、その条件を作品の内部へ持ち込んで可視化した点にあります。
木枠から解放されたキャンバスには、もう一つ実際的で重要な変化がありました。それは、作品を畳み、丸め、運び、別の場所で掛け直せることです。伝統的な大画面は、木枠とともに一つの硬い物体として輸送されます。自由な布はその条件を変え、保管や移動の方法そのものを作品の性質へ近づけます。ヴィアラが狭い住居での保管という実務上の理由から自由布へ向かったという証言は、制作の革新が理論だけで生まれないことをよく示しています。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《網》)
掛け方によって変わる作品の姿
設置のたびに形が変わることも重要です。壁の高さ、床との距離、吊るす位置、折れ方によって、同じ作品でも見え方が変化します。これは作品の同一性について新しい問題を生みます。「作品そのもの」は布なのか、色なのか、特定の設置方法なのか、それとも毎回の展示で更新される関係なのか。シュポール/シュルファスは明確な保存理論を一つに定めたわけではありませんが、その実践は後の美術館に、再展示と作品同一性をめぐる問いを残しました。
また、自由布は絵画と建築の関係も変えます。額装された絵は壁に掛けられても壁とは別の自律した物体として見えますが、布が直接壁へ留められ、床へ垂れ、角をまたぐと、建築が作品の一部として意識されます。絵画は空間の中に置かれるのではなく、空間を測り、覆い、分割する行為になります。後のインスタレーションやサイト・スペシフィックな実践へ直接一本の系譜を引く必要はありませんが、作品と展示場所を分けて考えない態度は確実に共有されています。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
クロード・ヴィアラ――同じ形と異なる布
1966年から続く独特な形の反復
クロード・ヴィアラはシュポール/シュルファスを代表する作家の一人ですが、その作品を「同じ模様を繰り返す抽象画」とだけ理解すると重要な部分を見落とします。1966年頃からヴィアラは、豆や骨、パレットのようにも見える、名称の定まらない形を反復して布面へ置きました。この形は何かを描写する記号ではなく、色、支持体、間隔、反復の差異を見るための単位です。形そのものを固定することで、むしろ毎回変化する色、布の種類、染み込み、配置、展示方法が見えるようになります。
作品を間近で見ると、同じ形の反復よりも、布に色がにじんだ箇所や織り目の違いが目に入ります。1966年の《無題》は木枠に張らない布を用いた作品としてポンピドゥー・センターに収蔵されています。反復する輪郭が、画面の中心や周辺を区別する慣習を変え、布面全体へ視線を導きました。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《無題》1966年)
古い布、網、ロープを絵画へ取り込む
ヴィアラは新品の画布だけでなく、テント地、日よけ、既製布、ロープ、網なども使用しました。ポンピドゥー・センター所蔵の《Filet》では、ココヤシ繊維のロープとタールによる大きな網が、壁面にも床にも置ける柔軟な構造として提示されます。上も下も固定されない網は、絵画とも彫刻とも言い切れず、点、線、面の関係を実際の結び目とロープで構成します。
1970年の《網》はココヤシの繊維でできたロープにタールを用いた大型作品です。縦横の糸が交差する網は、絵画の布を作る繊維そのものを拡大して見せるようにも感じられます。壁に吊るすことも、床に置くこともでき、表面と支持構造を自由に組み替える発想が伝わります。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《網》)
色と素材の差を見せる反復
この柔軟性は、美術品の「正しい向き」や「正しい設置」を相対化します。巻く、畳む、吊るす、広げるという操作が可能になり、絵画は建築から独立した持ち運び可能な皮膜のようになります。一方で、それは決して物質を軽視する概念作品ではありません。染料が布へ滲むこと、繊維が色を吸うこと、古い布に既存の汚れや模様があることなど、支持体の具体的な性質が作品を決定します。ヴィアラにとって反復は、個性を消す手段であると同時に、素材ごとの差異を鮮明にする装置でもありました。
たとえば柄のある古い布に同じ形を重ねれば、下に残る模様と新たに置かれた色が互いに作用します。反復の規則を変えずに、支持体ごとの性質を比較できるのです。ヴィアラの作品が同じ印を使い続けながら多様に見える理由は、この素材と色彩の組み合わせにあります。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《反復》1968年)
ダニエル・ドゥズーズ――木枠だけでも絵画になる
1967年《透明なプラスチックを張った木枠》
ダニエル・ドゥズーズの《Châssis avec feuille de plastique tendue》(1967)は、シュポール/シュルファスの発想を最も明快に示す初期作品の一つです。木製の矩形フレームに透明なプラスチックを張り、それを床に置いて壁へ立て掛ける。通常なら絵画を裏から支える木枠が主役となり、キャンバスの代わりに透明な膜が用いられるため、鑑賞者はその向こう側の壁や空間まで見ることになります。絵画は像を隠し持つ面ではなく、見ることの構造そのものになります。
ポンピドゥー・センターが所蔵するこの作品は、木材と透明なプラスチックから成り、縦約194センチの大きさがあります。木枠を床に置いて壁に立て掛ける展示方法により、鑑賞者は表面そのものと、その向こう側に見える建築空間を同時に意識します。絵画を支える構造が作品の主役になったことが、一目で伝わる例です。(参照:ポンピドゥー・センター|ドゥズーズ《透明なプラスチックを張った木枠》)
絵画の背後に隠れていた構造
ドゥズーズはその後、木枠をさらに単純化した格子や梯子状の構造へ展開します。ここでは「絵画とは平らな布である」という定義さえも揺らぎます。支持構造だけが残れば、それは彫刻のようにも見えますが、出発点はあくまで絵画の内部構造です。つまりドゥズーズは彫刻へ転向したのではなく、絵画の支持体を取り出し、それだけでどこまで絵画の問題を維持できるかを試していました。
普段キャンバスに隠れているのは木枠ばかりではありません。留め具や布を張るための加工、壁との距離も絵画の成り立ちに関わっています。ドゥズーズはその関係を最小限の材料で示し、絵画を見せることと、絵画がどのように成り立つかを見せることを結びつけました。(参照:ポンピドゥー・センター|ドゥズーズ《透明なプラスチックを張った木枠》)
木枠から格子へと続く研究
2026年のパリ市立近代美術館のドゥズーズ展も、彼をシュポール/シュルファスの形成に決定的な役割を果たした作家として位置づけ、伝統的なタブローの構造を解体して支持体そのものへ集中したことを強調しています。制作行為を物質的な工程として捉え、完成した像よりも、その像が成立する条件を問題化した点で、彼の仕事は運動全体の理論的骨格になりました。
ドゥズーズの制作は1967年の一作で完結せず、格子や梯子のような木製の構造を通して、面を支える仕組みを長く探究しました。パリ市立近代美術館の2026年の展覧会も、この初期の転換を重視しています。支持体を主題にすると、絵画が建築や彫刻に近づく可能性も開かれます。(参照:パリ市立近代美術館|ダニエル・ドゥズーズ)
ルイ・カーヌ、セトゥール、ドラ――切る、折る、染める
カーヌの切断とスタンプによる反復
ルイ・カーヌは、シュポール/シュルファスの中でも制作と理論の両方に深く関わった作家です。1966〜67年の大きな紙のコラージュでは、切断した紙を貼り、ピンで留め、支持体そのものを組み直しました。その後の《Tampons》では、同じ語や形をスタンプのように反復し、手描きの筆触に結びついた作家性を弱めます。反復はヴィアラと同様、構図の中心を作らず、表面全体を等価に扱う方法でした。
カーヌの仕事では色彩も重要です。色は描かれた対象を説明するための属性ではなく、布へ染み込み、噴霧され、折りによって失われ、再び筆で加えられる物質的な出来事になります。シュポール/シュルファスはしばしば理論的で禁欲的な運動として語られますが、カーヌの仕事を見ると、色彩の感覚的な強度と理論的分析は対立していません。むしろ色を物質として扱うためにこそ、絵画の構造を解体する必要がありました。(参照:ポンピドゥー・センター|カーヌ《貼り合わせた紙》)
布が床から壁へ続くカーヌの作品
1971年以降の《Toiles sol-mur》では、大きな布を床へ広げて色を噴霧し、折り、切断し、再び展開して壁と床を連続させます。ポンピドゥー・センターが説明するように、カーヌにとって床と壁の関係は、絵画が空間を占有するための重要な戦略でした。布は壁に完全には従わず、床へ折れ曲がることで、絵画が建築との関係の中にあることを強調します。
ポンピドゥー・センターが所蔵する1971年の《切断されたキャンバス》は、油絵具を噴霧し筆で加えた自由な布から成ります。布の一部は壁面を占め、残りは床へ広がります。正面の色面を鑑賞する経験と、実際に布が建築に接する状態が、同じ作品の中に組み合わされています。(参照:ポンピドゥー・センター|カーヌ《切断されたキャンバス》)
模様布と雪――セトゥール、ドラの実験
パトリック・セトゥールは、折り畳み、浸漬、焼却、日光への露光など、単純な操作によって既製布の状態を変える制作を行いました。1968年の作品では、花柄を持つピンク色のプラスチック布を折り、その痕跡そのものを作品にしています。別の「浸し」の系列では、模様布をタール、糊、道路標示用塗料などへ浸し、絵画用の高級材料と日用品・工業材料の序列を崩しました。
セトゥールにとって重要なのは、支持体を中立な白い面として扱わないことです。既製布には最初から色や模様があり、それ自体が文化的な記号を帯びています。そこへ折り、浸し、焦がしといった処理を加えることで、完成された美しい画面を作るのではなく、絵画を成立させている趣味、装飾、格式を戯画化します。ポンピドゥー・センターがその仕事を「絵画と彫刻のパロディ」と説明するのは、彼が単純化と同時に、絵画の権威を少し滑稽なものとして扱っていたからです。
ノエル・ドラは、スタンプ状の点や帯を自由な布へ反復すると同時に、1970年頃から自然環境への介入も行いました。アルプ=マリティームのオティオン山頂では雪面へ色の円を描き、地面へ紙片を配置する《Restructuration》と呼ばれる行為を繰り返します。ここでは絵画の「表面」がキャンバスから雪や風景へ拡張されます。しかしそれは風景を描いた絵ではありません。表面に一時的な差異を作り、時間と気象によって消えるまでを含む行為です。絵画の問題が壁面から土地へ移動した好例といえます。(参照:ポンピドゥー・センター|セトゥール《無題》1968年)
パンセマン、ドゥヴァード、ビウレス、アルナル
パンセマンの六角形とドゥヴァードの色彩
シュポール/シュルファスを「木枠を捨てた絵画」と定義できないことは、ジャン=ピエール・パンセマン、マルク・ドゥヴァード、ヴァンサン・ビウレスを見ると明らかです。パンセマンの《Hexagones collés》(1969)は、紙や布の断片を幾何学的な単位として貼り合わせ、規則的な構造と色の偶発的な広がりを交差させました。反復と幾何学は画面を中立化するように見えますが、染みや色の濃淡はその秩序を乱し、機械的なシステムだけには回収されません。
マルク・ドゥヴァードはさらに興味深い位置にいます。彼はシュポール/シュルファスの主要な理論家でありながら、伝統的な「タブロー=物体」を完全には解体しませんでした。ポンピドゥー・センターは、この点を彼の立場の逆説として明確に指摘しています。ドゥヴァードはノーランド、オリツキー、ステラらの影響を受け、画面の外周から導き出される帯や区画を用いて構成し、色彩そのものの物質性と差異を検討しました。支持体を外すことより、画面の内部構造をどのように非表象的に組織するかが中心でした。(参照:ポンピドゥー・センター|パンセマン《貼り合わせた六角形》)
木枠を残すビウレスと、大きな布を折るアルナル
ヴァンサン・ビウレスも木枠を維持した作家です。1969年の《Sans titre》では、木枠に張られたキャンバスという伝統的形式を保持しながら、色と画面の構造そのものへ集中しました。彼は1970年のARC展に際して「シュポール/シュルファス」という名称を提案した人物でもあります。つまり運動名の提案者自身が、木枠の解体を絶対条件にしていなかったのです。この事実は、シュポール/シュルファスの核心が特定の見た目ではなく、絵画の条件を分析対象へ変えることにあったことを示します。
アンドレ=ピエール・アルナルは1971年頃、巨大な自由布を折り畳み、その状態で塗料を噴霧してから開く「プリヤージュ」を展開しました。ポンピドゥー・センター所蔵《Pliage (Grand triangle bleu et rouge)》では、工業規格の大きな布が使われ、折りの単位は身体の可動範囲と結びついています。布を半分に折り続ける操作は幾何学的である一方、実際には作家が大きな布と格闘する身体的行為です。(参照:ポンピドゥー・センター|ビウレス《無題》)
折り畳む身体、活動を記録する作家
ここでは「構図を考えて筆で描く」という行為が、折る、噴霧する、開くという手続きへ置き換わります。画面の形は事前のイメージではなく、操作の連鎖から生まれます。アンタイとの比較は避けられませんが、アルナルはシュポール/シュルファスの文脈で、布の工業的規格、身体、工程、展示空間をより明示的に結びつけました。
アンドレ・ヴァランシは、ヴィアラ、セトゥール、ドゥズーズらと初期から活動し、1969年のCoaraze展の記録映画を担当するなど、作品だけでなく活動の記録にも関わりました。彼の存在は、シュポール/シュルファスが完成作品だけで成立していたのではなく、展覧会の準備、移動、記録、文章、共同活動によって形作られた運動であることを示します。(参照:ポンピドゥー・センター|アルナル《折り畳み》)
彫刻、色彩、身体に広がる支持体の問題
パジェスとトニ・グランの素材実験
シュポール/シュルファスは「絵画の運動」と説明されることが多い一方、ベルナール・パジェスとトニ・グランの存在によって、彫刻の問題も内部に含まれていました。カレ・ダールが指摘するように、主要作家の多くが絵画領域を自分たちの問題としていたのに対し、この二人は彫刻から同時代の解体へ向かいました。
パジェスは石、煉瓦、木、鉄、波板など、生活や建設現場にある素材をほとんど加工せず組み合わせました。《La Plaque d'égout》では、鋳鉄と石という異質な物質が並べられ、幾何学と不規則、人工と自然、重量と配置の関係がそのまま作品になります。台座を捨て、素材同士の関係だけを提示する方法は、絵画における支持体と表面の分解に対応する彫刻的な実践と見ることができます。(参照:ポンピドゥー・センター|パジェス《マンホールの蓋》)
彫刻と絵画をつなぐ素材の扱い
トニ・グランも木材を切断し、組み、素材の構造を露出させる制作を進めました。彼はグループの理論形成に全面的に参加したわけではなく、自身も一定の距離を保っていましたが、完成された彫刻形態より、素材をどこで切り、どう接続し、どの状態で置くかを問題にした点でシュポール/シュルファスと重なります。この二人を含めることで、運動が単なる「新しい抽象絵画」ではなく、作品を支える物理的条件全体を問い直していたことが明確になります。
シュポール/シュルファスでは、色彩は感情表現のための道具から切り離されました。ヴィアラの反復、カーヌの噴霧、ドゥヴァードの区画、ビウレスの色面、ドラの点、セトゥールの既製布など、色の扱いは作家ごとに大きく異なりますが、共通するのは、色が「何かを描く」ためではなく、支持体に起きる物質的な変化として扱われることです。染料は繊維へ浸透し、噴霧は粒子として広がり、折り目は塗料を遮り、裏面へ滲みます。(参照:カレ・ダール美術館|運動の起源1966〜1970年)
折り目、結び目、染みが伝える制作行為
制作工程が隠されないことも重要です。切断面、折り目、結び目、染み、釘、縫い目、木枠など、通常なら仕上げによって消される痕跡が残されます。完成作品は制作過程を覆い隠す完成品ではなく、「どのように作られたか」を目の前で読めるものになります。これは当時のマルクス主義的な生産論とも結びつき、作品を神秘的な天才の産物ではなく、具体的な労働と操作の結果として捉える考え方を支えました。
同時に身体も消えたわけではありません。筆跡による感情表現を否定しても、巨大な布を折る身体、ロープを結ぶ手、布を床へ広げる動作、屋外へ作品を運ぶ労働は残ります。シュポール/シュルファスは「身体を排除した冷たい抽象」ではなく、身体の表現性を弱める代わりに、身体を作業の尺度として再配置した運動でもありました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
1968年5月、社会の変化と制作の労働
完成作品の背後にある労働を見せる
シュポール/シュルファスの理論では「生産」という語が重要になりました。これは単に作品を作るという意味ではなく、芸術作品も社会の中で生産される物であり、材料、労働、技術、流通、価値付けの仕組みを持つという考え方です。絵画を作者の内面から自然に湧き出すものとして扱うのではなく、どの材料を使い、どの手順を選び、どの場所で発表し、誰がそれを芸術として認定するのかを検討する。マルクス主義的な生産論は、この見方に理論的な言葉を与えました。
作品の工程を隠さないことは、この問題と密接につながります。折り目や縫い目、スタンプの反復、木枠、切断、結び目は、完成品の美しい表面の裏に消されません。鑑賞者は結果だけでなく、どう作られたかを推測できます。これによって芸術家の技能が否定されるわけではありませんが、技能を神秘化する仕組みは弱くなります。芸術家は秘密の技法を持つ職人的天才ではなく、公開可能な操作と判断を積み重ねる生産者として再定義されます。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
芸術の制度と1968年5月の社会運動
制作過程を公開しても、作品が市場で評価される仕組みは残りました。作品が市場へ入り、美術館に収蔵され、作家名によって価値が上がれば、反神秘化の実践そのものが新たな権威を作ります。シュポール/シュルファスはこの矛盾を完全に解消できませんでした。矛盾を抱えたまま作品の生産条件を可視化したことが、1970年代の制度批判や芸術労働をめぐる議論と接続する重要な点です。
シュポール/シュルファスの形成期は、1968年5月のフランス社会の激変と重なります。ナンテール大学から広がった学生運動、パリの街頭闘争、ソルボンヌや美術学校の占拠、全国的なゼネストは、大学、国家、労働、文化制度への信頼を大きく揺さぶりました。美術学校では「民衆工房」がポスターを大量制作し、ルイ・カーヌも1968年5月に装飾美術学校で民衆工房の活動に関わったことがポンピドゥー・センターの年表に記録されています。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
政治的な主張と絵画の実験
シュポール/シュルファスの作品を「五月革命を抽象画で表したもの」と解釈するのは誤りです。作家たちは政治的主題を描くのではなく、芸術の生産と流通の構造そのものを問題にしました。誰が作品を作り、誰が価値を決め、どの場所で展示され、なぜ芸術家の身振りが特権化されるのか。こうした問いは、制度と権威への批判が広がっていた1968年前後の社会状況と共振していました。
また政治的立場も一枚岩ではありません。マルクス主義、毛沢東主義、反中央集権的な地域主義など、作家ごとに関心は異なり、政治活動への距離にも差がありました。ポンピドゥー・センターの資料も、この時代の政治的関与が運動の重要な背景になった一方、それが全作家に同じ程度で共有されていたわけではないと明記しています。したがってシュポール/シュルファスを政治運動として単純化するのではなく、絵画の形式的分析と政治的思考が、緊張を伴いながら接続した場として理解する必要があります。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
マルクス主義、言語理論、絵画批評
制作と理論が結びついた背景
1970年前後のシュポール/シュルファスでは、作品制作と批評理論が密接に結びつきました。背景には、構造主義・ポスト構造主義的な言語論、ルイ・アルチュセールを介したマルクス主義、精神分析、そして雑誌『Tel Quel(テル・ケル)』周辺の思想的影響があります。文学や言語の領域で「表現する主体」や意味の生産過程が問い直されていたのと同様に、絵画でも「天才的な作家が内面を表現する」というモデルが批判されました。
重要なのは、理論が完成した作品を後から説明する付属物ではなかったことです。何を支持体と呼ぶのか、色はどのように物質として機能するのか、制作行為をどのように可視化するのか、作品はどの制度によって商品になるのか。こうした問いが制作の方法そのものを決めました。そのため当時の展覧会では作品と同時に長いテキストやビラが配布され、内部論争も文章として公にされます。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
1971年創刊の『絵画・理論ノート』
1971年、ルイ・カーヌ、マルク・ドゥヴァード、ダニエル・ドゥズーズ、ヴァンサン・ビウレスらは『Peinture, cahiers théoriques』を立ち上げました。ポンピドゥー・センターは、この雑誌を『Tel Quel(テル・ケル)』の理論的影響を造形芸術の領域へ持ち込んだ媒体として位置づけています。マルスラン・プレネらの議論とも深く関わりながら、絵画の物質性、イデオロギー、生産、歴史が論じられました。
理論の重要性が増すにつれ、作家たちの立場の違いも表面化しました。誰の理論を採用するのか、どの政治的立場をとるのか、作品と理論の優先順位をどう考えるかという違いが、制作上の差異以上に大きな対立へ発展していきます。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
理論が制作を刺激し、議論を深める
この雑誌の存在は、シュポール/シュルファスが単に似た見た目の作品を作る集団ではなかったことをよく示しています。作品は「見るもの」であると同時に「考えるもの」であり、制作方法そのものが理論的な命題として扱われました。絵画を切断すること、木枠を露出させること、色を反復することは、形式的な発明であるだけでなく、絵画に付与されてきた価値や主体性を問い直す操作でした。
一方で、理論が強くなるほど、誰の作品がその理論を正しく体現しているのかという排他的な論争も生まれます。シュポール/シュルファスの歴史では、理論は作品を支える共通言語であると同時に、グループを分断する武器にもなりました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
展覧会のビラと内部論争
文章も作品と同じ会場で読まれた
シュポール/シュルファスでは、作品だけを追っても運動の歴史を理解できません。展覧会カタログ、声明文、ビラ、雑誌、公開書簡が、作品と同じくらい重要な役割を果たしました。1970年ARC展では各参加作家の文章がカタログに収められ、同時に「緑のビラ」が会場で配布されました。1971年の分裂時にも、各陣営が立場を示す文書を配布しています。運動の共通性と対立は、展示空間の中で文章としても戦われていました。
この点は、ジェルマーノ・チェラントが外部の批評家として名称と歴史を組織したアルテ・ポーヴェラとの違いを考えるうえでも重要です。シュポール/シュルファスには一人の決定的な命名者・理論家がいたわけではなく、作家自身がテキストを書き、互いの立場を批判し、名称の意味を争いました。そのため美術史家が後から一つの運動へ整理すると、当時の激しい不一致が見えにくくなります。(参照:パリ・ミュゼ|1970年ARC展の公式記録)
同じ運動に集まった作家たちの違い
文章の多さは、作品が言葉なしでは成立しなかったという意味でもありません。ヴィアラの布やドゥズーズの木枠は、理論を読まなくても物理的に経験できます。しかし作家たちは、見ることだけでなく、作品がどのような社会的・歴史的条件に位置するかを言語化する必要を感じていました。作品と文章を二つの別領域に分けず、相互に批判し合うものとして扱ったこともシュポール/シュルファスの特徴です。
シュポール/シュルファスの内部には、少なくとも三つの大きな差異がありました。第一に、絵画をどこまで物理的に解体するかという違いです。ドゥズーズやカーヌが支持体と表面を分離する一方、ドゥヴァードやビウレスは木枠に張られたタブローを維持しました。第二に、理論と制作の関係をどこまで厳密にするかという違い。第三に、政治的な立場や集団活動への関与の度合いです。(参照:パリ・ミュゼ|1970年展覧会カタログ)
「絵画を問い直す」方法をめぐる対立
これらは単なる個性の違いではなく、「シュポール/シュルファスとは何か」という定義そのものに関わりました。たとえば支持体を解体しなければ運動の理念に反するのか。それとも、支持体を維持しながら画面内部の色彩や構成を分析することも同じプロジェクトなのか。自然環境へ作品を持ち出すことと、パリの画廊で理論的抽象画を展示することを同じ運動に含められるのか。こうした問いに統一回答はありませんでした。
むしろ、その矛盾こそがシュポール/シュルファスを興味深くしています。後世から見ると運動名が先に立ち、作品がその名称を説明する例として整理されがちですが、実際には作家たちが互いの差異を激しく議論し続けたために、絵画とは何かという問いが短期間で非常に深く掘り下げられました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
1971年の分裂と、作品を取り巻く制度
ニースで表面化したグループの分裂
1971年はシュポール/シュルファスの頂点であると同時に、分裂の年でした。4月にはパリ国際大学都市の劇場で大規模展が開かれますが、論争の最中でヴィアラは5月3日付の書簡によってグループを離れます。6月にはニース市立劇場で展覧会が開かれ、会場そのものが分裂を可視化しました。アルナル、ビウレス、カーヌ、ドゥヴァード、ドゥズーズがホワイエ側に、ドラ、グラン、セトゥール、ヴァランシ、ヴィアラが客席・舞台側に展示され、それぞれの立場を示す文書が配布されました。
ポンピドゥー・センターの年表によれば、同年8月5日には残ったメンバーによってシュポール/シュルファスの名称を持つ協会が正式登録されますが、運動の実質的な統一性はすでに失われていました。翌1972年頃には、作家たちはそれぞれの制作へ明確に分岐していきます。シュポール/シュルファスという名称の活動期間が短いのは、実験が失敗したからではありません。むしろ共通の問題を極端に追究した結果、差異が隠せなくなったともいえます。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
分裂後の作家と美術制度
その後、ヴィアラは反復形態と色彩を長く展開し、ドゥズーズは支持構造の研究を変化させ、カーヌ、ビウレス、セトゥール、ドラらもそれぞれ別の方向へ進みました。したがって1972年は作家活動の終わりではなく、「一つの運動として語れる期間」の終点です。
シュポール/シュルファスは美術制度を批判しましたが、制度の外部だけで活動したわけではありません。ARCという公的美術館空間で名称が定着し、ジャン・フルニエ、イヴォン・ランベール、ダニエル・タンプロンなどの画廊が作家たちを紹介し、後にはポンピドゥー・センターをはじめとする美術館が作品を収蔵しました。制度批判を制度の外側から行うのではなく、展覧会や出版、画廊を利用しながら、その内部で摩擦を生み出したと考える方が実態に近いでしょう。(参照:ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《網》)
画廊や美術館との緊張関係
1971年、カーヌが自身の個展会場でコンセプチュアル・アートを批判するビラを配布し、翌日に展覧会が外された出来事は、その緊張を象徴しています。作品、画廊、批評、政治的文章が分離せず、一つの場で衝突しました。シュポール/シュルファスでは、展示は作品を売るための中立な容器ではなく、思想と権力関係が表面化する場所でした。
同時に、地方での活動はパリの制度に対する単なる反抗ではなく、異なる発表回路を実際に作る試みでした。美術館が少ない場所、海岸、村、道路、学校、公共空間で発表することで、作品と観客の関係も変わります。フランス戦後美術をパリだけの物語として理解しないためにも、この地域的ネットワークは重要です。(参照:パリ・ミュゼ|1970年ARC展の公式記録)
同時代のミニマリズムやアルテ・ポーヴェラとの関係
イタリアのアルテ・ポーヴェラと共有した関心
シュポール/シュルファスは、ほぼ同時期にイタリアで展開したアルテ・ポーヴェラとしばしば比較されます。どちらも伝統的な美術材料の序列を崩し、木、布、石、ロープ、工業材料などを用い、美術館の壁や完成した物体への依存を弱めました。屋外展示や一時的な設置、素材の具体的性質への関心にも共通点があります。
シュポール/シュルファスを「フランス版アルテ・ポーヴェラ」と考えるのは適切ではありません。アルテ・ポーヴェラでは、火、植物、動物、重力、化学反応、時間、エネルギーなど、作品を変化させる現象そのものが重要な役割を持ちました。それに対してシュポール/シュルファスの中心には、あくまで絵画という制度の構造分析があります。カレ・ダールが指摘するように、パジェスとグランを除く多くの主要作家は、作品がどれほど解体されても自らの問題を絵画領域に置いていました。
また両者の政治性も異なります。アルテ・ポーヴェラではジェルマーノ・チェラントという批評家が名称と国際的枠組みを形成しましたが、シュポール/シュルファスでは作家自身による理論生産と内部論争がより前面に出ます。どちらも1968年前後の制度批判と共鳴しますが、同じ思想や同じ形式へ還元することはできません。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
ミニマリズムと同じ時代に素材を考える
シュポール/シュルファスの簡素な形態、反復、工業的な素材は、アメリカのミニマル・アートと比較されました。ドゥズーズの木枠、パンセマンの幾何学、ドゥヴァードの規則的な画面などには確かに形式的な近さがあります。しかしシュポール/シュルファスでは、布の染み、折り目、既製布の模様、手仕事、屋外での変形など、素材が持つ不均質さが積極的に残されます。工業製品の精密さと非個人的な仕上げを徹底したアメリカのミニマリズムとは、物質に対する態度が異なります。
ミニマリズムでは、単純な形、反復、実際の展示空間に関心が向けられました。シュポール/シュルファスも反復を使いますが、染み込みや折り目など布の個別性を消さず、絵画が成立する条件そのものを調べていきます。似た外観の作品を比べるときには、どの素材をどの操作で扱ったかまで見ることが重要です。(参照:ポンピドゥー・センター|絵画の素材と支持体)
ランド・アート、コンセプチュアル・アートとの接点
屋外での展示やドラの雪上介入はランド・アートとの比較を誘います。巨大な土木的介入や土地そのものの造形が中心だったアメリカのランド・アートに対して、シュポール/シュルファスの屋外実践は、絵画や彫刻を支えていた展示条件を移動させる意味合いが強いものでした。海岸や山に出た後も、彼らの問いは色、支持体、表面、設置の関係へ戻ってきます。
コンセプチュアル・アートとの関係も同様です。テキスト、理論、記録、手続きが重要になり、作品を物体だけで考えない点では重なります。しかしシュポール/シュルファスは物質を消去してアイデアだけを残す方向には進みませんでした。むしろ理論を強く持ちながら、布、木、染料、ロープ、石、色といった物質に執着したことが特徴です。「考えること」と「物を扱うこと」が分離しない点に、この運動独自の強さがあります。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
運動の後――作家たちはどこへ向かったのか
1972年以降、それぞれの絵画へ
1972年頃にシュポール/シュルファスというまとまりが終息した後も、各作家は同じ形式を繰り返したわけではありません。ヴィアラは反復形態を維持しながら支持体と色彩の変化を長期的に追究し、ドゥズーズは木や金属、網状構造などへ支持の問題を広げました。カーヌはやがて人物像や伝統的な主題へ戻り、ビウレスも具象的な風景へ大きく転換します。運動の理論を永続的な規則として守るのではなく、それぞれがそこから離れることも含めて、その後の制作が形成されました。
この変化は、シュポール/シュルファスを「作家の本質を決めた様式」と考えないために重要です。1970年前後の数年間、彼らは共通の問題へ集中しましたが、その問いは最終的な答えではありませんでした。むしろ絵画を一度分解した経験が、その後に再び構図、イメージ、身体、具象を扱う際の基盤になります。ビウレスやカーヌの後年の転換は、初期の実験を否定するものではなく、分析を経た後で絵画へ別の仕方で戻る可能性を示しています。(参照:ポンピドゥー・センター|1982年ヴィアラ展)
1991年、1998年、2017年の再検証
その意味でシュポール/シュルファスは、1970年代初頭に完成した閉じた様式ではありません。活動期間は短くとも、「絵画を一度構成要素へ戻してから考える」という経験が作家たちの長い制作に残り、その後の世代にも参照され続けました。
シュポール/シュルファスは1970〜72年という非常に短い期間に集中的に活動しましたが、その後、フランス現代美術史の重要な節目として繰り返し再評価されました。1991年のサン=テティエンヌ近代美術館での大規模な整理、1998年にポンピドゥー・センターのコレクションを基盤としてジュ・ド・ポームで開催された《Les années シュポール/シュルファス》、2017年のカレ・ダールによる起源の再検証などは、その歴史が後世の展覧会と研究によって繰り返し組み直されてきたことを示します。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
何を運動の歴史として残すのか
この再評価では、誰を「メンバー」として数えるかも変化してきました。五つのグループ展への参加を基準に十二人を挙げる整理もあれば、ビュラリオ、ジャカール、ムーリス、ルーアンら周辺の実践を含めて、より広い「シュポール/シュルファスの時代」として捉える方法もあります。したがって、今日一般化している作家一覧も絶対的な会員名簿ではなく、後世の美術史が作った枠組みの一つです。
それでも運動名が残ったのは、その問いが非常に基礎的だったからでしょう。絵画は何によって支えられているのか。表面とは何か。色はどこに存在するのか。作品は壁に掛けられなければならないのか。制作の痕跡を隠す必要はあるのか。こうした問いは特定の様式が流行遅れになっても消えません。シュポール/シュルファスは一つの見た目を残したというより、絵画を考えるための一連の問いを残した運動でした。(参照:カレ・ダール美術館|運動の起源1966〜1970年)
絵画の仕組みを問い直した時代の意味
作品を成立させる条件が見えるようになる
シュポール/シュルファスの最も大きな成果は、絵画を一つの完成された物体ではなく、複数の条件の関係として考えられるようにしたことです。布、木枠、色、壁、床、重力、身体、展示、輸送、文章、制度。これらのどれか一つだけが絵画なのではなく、その組み合わせによって絵画が成立する。作品を解体したことで、逆に絵画がどれほど多くの条件に依存していたかが見えるようになりました。
この視点は、今日では当たり前に見えるかもしれません。キャンバスを床へ置く、壁から垂らす、布を切る、既製布を使う、絵画と建築の境界を曖昧にする、といった方法は現在広く使われています。しかし1960年代末のフランスでそれを行うことは、絵画を成立させる制度そのものへ手を入れる行為でした。完成品の新奇さより、制作・展示・流通の仕組みを作品の問題へ変えたことに歴史的意義があります。(参照:ポンピドゥー・センター|絵画の素材と支持体)
絵画を分解することで開かれた可能性
同時に、シュポール/シュルファスは「絵画を分析すれば感覚性は失われる」という単純な対立も崩しました。ヴィアラの色彩、カーヌの染み込み、セトゥールの既製布、ドラの雪上の色は、理論的な構造を持ちながら非常に身体的で視覚的です。絵画を解体することは、絵画から色や感覚を奪うことではなく、それらを別の条件で再び立ち上げることでした。
シュポール/シュルファスは、1960年代末のフランスで絵画の伝統を否定した運動であると同時に、絵画を徹底的に信じた運動でもありました。もし絵画が単なる古い制度にすぎないなら、捨てて別のメディアへ移ればよかったはずです。しかし彼らはそうしませんでした。キャンバスを木枠から外し、木枠だけを残し、布を折り、切り、染め、結び、床へ置き、屋外へ運び、それでもなお「絵画とは何か」を問い続けました。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
色、布、木枠、空間をもう一度見る
ヴィアラは反復する形によって構図を解体し、布と色の差異を露出させました。ドゥズーズは支持構造を前面化し、カーヌは床と壁を連続させ、セトゥールは既製布と折り・浸しによって絵画の格式を戯画化しました。ドラは表面を雪や風景へ拡張し、パンセマンは反復する幾何学と色の偶発性を交差させ、ドゥヴァードとビウレスは木枠を保ちながら色と画面構造を分析しました。アルナルは身体的な折りの工程を画面へ定着させ、パジェスとグランは彫刻の側から素材と支持の関係を問い直しました。
彼らを結びつけたのは一つの様式ではなく、完成された美術品の背後に隠れていた条件を表へ出す姿勢でした。1968年前後の政治的混乱、パリ中心の文化制度への反発、戦後アメリカ抽象の受容、BMPTやアンタイとの同時代的な対話、マルクス主義や言語理論をめぐる論争が、その姿勢を加速させました。そして内部対立によって運動は短期間で分裂します。支持体、表面、色、空間、身体、制作、展示を一つの関係として考える視点は、絵画がその後どれだけ拡張しても繰り返し戻ってくる基本問題となりました。シュポール/シュルファスの歴史的な重要性は、新しい「フランス抽象の様式」を作ったことではなく、絵画を成立させる条件そのものを作品にしたことにあります。(参照:ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表)
年表――運動の形成から再評価まで
- 1962〜1965年 サイモン・アンタイの折り畳みを用いた絵画など、支持体に直接操作を加える表現が若い作家たちに参照される。
- 1966年 ヴィアラが木枠に張らない布と反復する形を使う制作を本格化。ニースやモンペリエを中心に交流が広がる。
- 1966年 セレの《Impact I》展で、後のシュポール/シュルファスに関わる作家らが展示する。
- 1967年 ドゥズーズ《透明なプラスチックを張った木枠》。カーヌは紙の切断と再構成に取り組む。
- 1968年 フランス各地で学生運動と労働争議が拡大。絵画の生産や文化制度をめぐる議論も活発化。
- 1968年 ヴィアラがロープや結び目の制作を展開。セトゥールは折り畳んだ既製布を作品に使う。
- 1969年6月 ル・アーヴルで《La Peinture en question(絵画を問う)》展。カーヌ、ドゥズーズ、セトゥール、ヴィアラが参加。
- 1969年7月 南仏のコアラーズで屋外展示《Coaraze 69》を開催。
- 1969年 パンセマン《貼り合わせた六角形》。各作家の技法はさらに多様になる。
- 1970年夏 南フランス各地で屋外展示が行われ、後に《Été 70》として写真記録がまとめられる。
- 1970年9月13日〜10月15日 パリ市立近代美術館ARCで《Support-Surface》展。6人の作品が共通の名称のもとで紹介される。
- 1970年 ヴィアラ《網》。素材の繊維構造と展示方法を問い直す。
- 1971年 『Peinture, cahiers théoriques(絵画・理論ノート)』が創刊される。
- 1971年5月 ヴィアラがグループを離脱し、内部対立が表面化する。
- 1971年6月 ニース市立劇場の展覧会で対立する作家たちが異なる場所に展示する。
- 1971年 カーヌ《切断されたキャンバス》。絵画が壁から床へまたがる。
- 1972年頃 集団としての活動は終息し、各作家が独自の方向へ制作を展開する。
- 1982年 ポンピドゥー・センターでヴィアラの個展が開催される。
- 1991年 サン=テティエンヌ近代美術館で運動の歴史を振り返る展覧会。
- 1998年 ジュ・ド・ポームでポンピドゥー・センターの所蔵作品による《シュポール/シュルファスの時代》展。
- 2017年 ニームのカレ・ダール美術館で《シュポール/シュルファス:起源1966–1970》展。
- 2026年 パリ市立近代美術館でドゥズーズの展覧会が開催され、支持体をめぐる研究が改めて紹介される。
まとめ――絵画の条件をもう一度見る
1960年代後半のフランスで、シュポール/シュルファスに関わった作家たちは、キャンバス、木枠、色彩、空間といった絵画の基本的な条件に目を向けました。ヴィアラは同じ形を反復し、ドゥズーズは木枠を前面へ出し、カーヌは布を切断して床と壁を結びつけました。制作の方法が違っても、完成した絵の外側に隠れていた仕組みを見せるという問題意識が共通していました。
この実践が生まれた背景には、戦後抽象の歴史、アメリカ美術への関心、南フランスの地域的な交流、1968年の社会運動があります。1970年のARC展で名称が定着した後も、作家たちの政治観や理論は一致せず、集団は短期間で分裂しました。絵画をめぐる問題をそれぞれが真剣に追究したからこそ、同じ名前のもとに多様な方向が生まれたといえます。
この時代を経て、絵画は壁に掛かった一枚の長方形としてだけでなく、布の手触り、色の染み込み、折り畳み、運搬、設置、重力、空間との関係から考えられるようになりました。現在さまざまな絵画が持つ自由な支持体や展示方法の歴史をたどるとき、シュポール/シュルファスは重要な出発点の一つです。
参考資料・出典
ポンピドゥー・センターの1998年展覧会資料を歴史的な骨格とし、パリ・ミュゼの1970年ARC展記録、各所蔵館の作品解説、カレ・ダールの展覧会資料を照合しました。運動の参加範囲や作品の成立年には、資料によって定義や区切りに違いがあるため、集団の活動と個々の制作を区別して記述しています。
- ポンピドゥー・センター|シュポール/シュルファスの歴史と年表
- ポンピドゥー・センター|絵画の素材と支持体
- パリ・ミュゼ|1970年ARC展の公式記録
- パリ・ミュゼ|1970年展覧会カタログ
- カレ・ダール美術館|運動の起源1966〜1970年
- パリ市立近代美術館|ダニエル・ドゥズーズ
- ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《網》
- ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《無題》1966年
- ポンピドゥー・センター|ヴィアラ《反復》1968年
- ポンピドゥー・センター|1982年ヴィアラ展
- ポンピドゥー・センター|ドゥズーズ《透明なプラスチックを張った木枠》
- ポンピドゥー・センター|カーヌ《貼り合わせた紙》
- ポンピドゥー・センター|カーヌ《切断されたキャンバス》
- ポンピドゥー・センター|セトゥール《無題》1968年
- ポンピドゥー・センター|ドラ《赤い帯》
- ポンピドゥー・センター|パンセマン《貼り合わせた六角形》
- ポンピドゥー・センター|ドゥヴァード《無題》
- ポンピドゥー・センター|ビウレス《無題》
- ポンピドゥー・センター|アルナル《折り畳み》
- ポンピドゥー・センター|パジェス《マンホールの蓋》
資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY