1919–1924
パリ・ダダからシュルレアリスムへ
夢、無意識、自動記述
ダダからシュルレアリスムへ。
美術史では、この二つの運動が連続して並べられることがよくあります。
しかし実際には、ダダがある日終わり、翌日からシュルレアリスムが始まったわけではありません。
1919年から1924年のパリでは、同じ詩人や芸術家がダダのイベントに参加しながら、同時にその方法だけでは満足できなくなっていきました。
破壊。
挑発。
ナンセンス。
偶然。
それらを使って既存の文化を壊した後、その先に何を作るのか。
アンドレ・ブルトン(André Breton, 1896–1966)を中心とする若い詩人たちは、別の問題へ進みます。
夢。
無意識。
自由連想。
自動記述。
偶然の出会い。
通常の合理的な思考では取り出せないものを、制作の方法にできないか。
1924年、ブルトンは『シュルレアリスム宣言』を発表します。
しかしその考えの多くは、すでに1919年から数年間にわたる実験の中で準備されていました。
CONTENTS
- 1919年 — 『リテラチュール』と新しい世代
- 「シュルレアリスム」という言葉は先に存在していた
- ブルトン — 戦争、精神医学、自由連想
- 『磁場』— 自動記述の実験
- 自動記述は「完全な無意識」ではない
- 1920年、ツァラがパリへ
- パリ・ダダ — イベント、騒音、挑発
- ピカビア — ダダを固定しない
- 1921年「バレス裁判」— ダダ内部の亀裂
- 否定だけではなく、何かを探す
- マックス・エルンスト — コラージュが夢のような像になる
- デ・キリコ — 夢ではないのに夢のような空間
- 1921年エルンスト展 — パリの詩人たちとの接続
- 1922–1923年「眠りの時代」
- デスノス — 言葉を意識の統制から外す
- 1922–1923年 — ダダとの決裂
- 1923年「髭の心臓の夕べ」
- 文学から視覚芸術へ
- アンドレ・マッソン — 線を先に走らせる
- 1924年『シュルレアリスム宣言』
- シュルレアリスムは何を目指したのか
- シュルレアリスム研究所 — 夢と偶然を収集する
- 『シュルレアリスム革命』— 運動を組織する
- ダダとシュルレアリスムは何が違うのか
- 1919–1924年に何が変わったのか
- 次の時代へ — シュルレアリスムの絵画
- 参考資料・出典
1919年 — 『リテラチュール』と新しい世代
1919年、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーは、パリで雑誌『Littérature(リテラチュール)』を創刊しました。
Bibliothèque nationale de Franceは、ブルトンが1919年にアラゴン、スーポーとともにこの雑誌を創刊したことを、後のシュルレアリスム形成の重要な出発点として位置づけています。
題名だけを見ると、非常に保守的です。
「文学」。
しかし内容は、既存の文学制度を守るものではありませんでした。
ロートレアモン。
アルチュール・ランボー。
ギヨーム・アポリネール。
ダダ。
同時代の前衛。
さまざまな文章を掲載しながら、若い詩人たちは「文学とは何か」を作り直そうとしていました。
ここで中心になったのは、一つの新しい文体を発明することではありません。
人間の思考を、意識的な編集や常識からどこまで解放できるのか。
その問いが次第に強くなります。
「シュルレアリスム」という言葉は先に存在していた
ブルトンが「シュルレアリスム」という語を発明したわけではありません。
ギヨーム・アポリネールが1917年に「sur-réalisme」「surréaliste」という語を用いていました。
MoMAは、アポリネールが1917年のバレエ《パラード》に関する文章や、戯曲《ティレジアスの乳房》でこの語を使用したことを、後にブルトンらが採用する「シュルレアリスム」という名称の前史として紹介しています。
ただし、1917年のアポリネールと1924年のブルトンが、この言葉をまったく同じ意味で使ったわけではありません。
ブルトンは既存の名称を受け取り、それを夢、無意識、自動記述を中心とする新しい運動の名前として再定義しました。
美術運動の名称は、最初から完成した意味を持つとは限りません。
同じ言葉が、別の世代によって別の概念へ作り替えられることがあります。
ブルトン — 戦争、精神医学、自由連想
ブルトンはもともと医学を学んでいました。
第一次世界大戦中、軍の医療施設で精神的な症状を抱える兵士たちと接し、精神医学や当時の心理学的な方法に関心を深めます。
BnFは、ブルトンが戦時中に精神症状を持つ兵士たちと接し、自由連想の方法を試みたこと、1916年頃からフロイトの考えに関心を持つようになったことを紹介しています。
これは後のシュルレアリスムにとって重要です。
通常の文章では、書く前に考えます。
何を言いたいか。
どう構成するか。
どの言葉が適切か。
その判断によって、思考は整理されます。
しかし、その整理される前に現れる言葉には何があるのか。
意識的な判断を遅らせれば、通常なら抑えられてしまう連想やイメージが出てくるのではないか。
この考えが、自動記述へつながります。
『磁場』— 自動記述の実験
1919年5月から6月頃、ブルトンとスーポーは共同で文章を書く実験を行いました。
その成果が、1920年に出版された『Les Champs magnétiques(磁場)』です。
BnFの資料は、『磁場』の主要部分が1919年に自動記述の実験として書かれ、1920年にAu Sans Pareilから刊行されたことを確認しています。
方法は、通常の共同執筆とは違いました。
テーマを決めて話し合い、文章を推敲するのではない。
できるだけ速く書く。
出てきた言葉をすぐに判断しない。
論理的につながらなくても止めない。
一つのイメージから、別のイメージへ移る。
すると文章には、通常の文学では避けられるような奇妙な接続が現れます。
物と物。
身体と言葉。
風景と感情。
遠く離れたものが、説明なしに並びます。
Centre Pompidouの年表は、『磁場』を自動記述を用いて書かれた最初期のシュルレアリスム作品として位置づけています。
自動記述は「完全な無意識」ではない
自動記述について、「何も考えず、完全な無意識状態で書いた」と説明すると単純すぎます。
BnFが保存する『磁場』の草稿研究では、ブルトンとスーポーの文章に後から移動や修正が行われたことが確認されています。
つまり、最初の生成段階では意識的な統制をできるだけ弱めようとしても、その後に作者の判断が完全に消えたわけではありません。
これはアルプの「偶然コラージュ」と似た問題です。
偶然だけ。
無意識だけ。
作者だけ。
実際の制作はそのどれか一つではなく、複数の力が混ざります。
重要なのは「純粋な自動状態」を完全に達成したかではありません。
通常なら制作から排除される偶然や連想を、意図的に制作方法へ入れたことです。
1920年、ツァラがパリへ
1919年末、チューリヒ・ダダの中心人物トリスタン・ツァラがパリへ移ります。
ブルトン、アラゴン、スーポーらは当初、ツァラを歓迎しました。
1920年になると、パリではダダの公開イベントが相次ぎます。
Centre Pompidouの年表には、パリでダダのイベント、雑誌、宣言が集中的に現れた1920年の活動が記録されています。
ツァラ。
ブルトン。
スーポー。
アラゴン。
ポール・エリュアール。
フランシス・ピカビア。
ジョルジュ・リブモン=デセーニュ。
ジャン・アルプ。
多くの作家が、一時的に同じ「ダダ」の周辺へ集まりました。
パリ・ダダ — イベント、騒音、挑発
1920年3月、パリのThéâtre de l’Œuvreで大規模なダダの夕べが行われました。
同年5月には、クラシック音楽の演奏会場として知られるSalle Gaveauで「Festival Dada」が開催されます。
Centre Pompidouによれば、そこではブルトン、スーポー、エリュアールの寸劇、ツァラの演劇、偶然の法則を使った音楽、ピカビアによる巨大な舞台装置など、文学・音楽・演劇・視覚芸術が同じイベントへ組み込まれました。
ダダの目的は、完成した名作を静かに見せることではありません。
観客を刺激する。
怒らせる。
笑わせる。
混乱させる。
予定された「文化的な振る舞い」を壊す。
作品と宣伝、演劇とスキャンダルの境界がなくなります。
しかしこの方法は、やがてブルトンらに一つの疑問を生みます。
否定と破壊を続けるだけで、その先へ進めるのか。
ピカビア — ダダを固定しない
フランシス・ピカビアは、パリ・ダダでも重要な存在でした。
ニューヨーク、バルセロナ、チューリヒ、パリを移動しながら、雑誌『391』を発行し、機械図、文章、宣言、イベントを通してダダ的な活動を続けます。
ピカビアの特徴は、特定の運動や様式に長く固定されないことです。
キュビスム。
抽象。
機械イメージ。
ダダ。
その後には再び具象的な絵画。
1921年、ブルトンがダダへ倫理的・社会的な方向を与えようとした「バレス裁判」に対して、ピカビアは距離を置きました。
MoMAのダダ・シンポジウム資料では、ピカビアが「ダダに裁判所ができた」と皮肉り、運動から離れていった経緯が紹介されています。
制度を壊すために始まったダダが、新しい制度になり始める。
この矛盾は、パリ・ダダ内部の対立を大きくします。
1921年「バレス裁判」— ダダ内部の亀裂
1921年5月、ブルトンらは作家モーリス・バレスを被告に見立てた模擬裁判を開催しました。
バレスは若い頃には反体制的な作家として知られていましたが、その後ナショナリズムや愛国主義へ接近していました。
ブルトンは、この変化を「精神の犯罪」として裁く形式を作ります。
ここには、ダダ的な演劇性があります。
本物の裁判ではありません。
しかし同時に、ただのナンセンスでもありません。
何が許されるのか。
知識人は社会に対して責任を持つのか。
価値判断そのものを議論する。
MoMAのダダ研究は、この「バレス裁判」をパリ・ダダ最初の大きな内部亀裂の一つとして位置づけています。
ツァラはダダが裁判のような道徳的判断へ向かうことに抵抗し、ピカビアも離れていきます。
ブルトンが求めていたものは、次第に「何でも否定するダダ」と違うものになっていました。
否定だけではなく、何かを探す
ダダは、既存の美術や社会の価値を破壊するうえで非常に強力でした。
しかしブルトンにとって、破壊は最終目的ではありませんでした。
合理主義を疑う。
常識を疑う。
文学的な美しさを疑う。
そこから先へ進み、意識によって抑圧されてきた別の思考領域を積極的に探そうとします。
夢。
無意識。
偶然の一致。
突然の連想。
社会的な規範から外れた欲望。
つまり、ダダが「これは信用できない」と破壊した場所に、シュルレアリスムは「では別の現実はどこにあるのか」という問いを置きます。
この違いが1921年以降、次第にはっきりしていきます。
マックス・エルンスト — コラージュが夢のような像になる
この転換に視覚芸術の側から大きな影響を与えたのがマックス・エルンストでした。
ケルン・ダダ期のエルンストは、科学図鑑、機械カタログ、教育用図版などを切り取り、互いに関係のないものを組み合わせたコラージュを制作しました。
Metropolitan Museum of Artは、エルンストが1919年に雑誌でジョルジョ・デ・キリコの作品を見たことを、その後の夢のようなイメージ形成に重要な経験として挙げています。
エルンストのコラージュでは、素材そのものは非常に現実的です。
正確な機械。
精密な人体。
植物。
建築。
しかしそれらの組み合わせは現実には存在しません。
だからこそ、夢のように見えます。
「曖昧に描く」ことで夢を表すのではありません。
むしろ、極めて明確な像同士を不可能な関係で結びつける。
この方法は、後のシュルレアリスムに大きな可能性を示しました。
デ・キリコ — 夢ではないのに夢のような空間
ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888–1978)の1910年代の形而上絵画も、後のシュルレアリストたちに強い影響を与えました。
空っぽの広場。
長く伸びる影。
古典彫刻。
列車。
アーケード。
マネキン。
一つ一つは現実に存在するものです。
しかし、それらの関係が説明されません。
時間が止まったような都市空間に、互いに無関係なものが置かれる。
Metropolitan Museum of Artは、初期シュルレアリストがデ・キリコを高く評価し、その不合理で謎めいた物体の配置を重要な先駆として見ていたことを説明しています。
ここでも、夢を描くために必ずしも幻想的な筆遣いは必要ありません。
現実的に描かれたものの「関係」を変えるだけで、現実は異様になります。
1921年エルンスト展 — パリの詩人たちとの接続
1921年、ブルトンはパリのAu Sans Pareilでマックス・エルンストのコラージュ展を企画し、カタログ序文を書きました。
Centre PompidouとMetropolitan Museum of Artの資料は、この展覧会がエルンストとパリの詩人たちを結ぶ重要な出来事だったことを示しています。
ブルトン、アラゴン、エリュアールらは、エルンストのコラージュに、自分たちが言葉で行おうとしていたことと近いものを見ました。
離れた言葉を突然つなぐ。
離れた画像を突然つなぐ。
そこから、作者が最初から計画できなかった新しいイメージが生まれる。
文学と視覚芸術の間に、共通する方法が見え始めます。
1922年、エルンストはパリへ移住しました。
ダダのコラージュが、シュルレアリスムの視覚言語へ入り込んでいきます。
1922–1923年「眠りの時代」
1922年から1923年頃、ブルトン周辺では催眠や半睡眠状態を利用した実験が行われました。
Centre Pompidouは、この時期を「époque des sommeils(眠りの時代)」として紹介しています。
参加者は暗い部屋などで意識状態を変え、通常の理性的な判断から離れた言葉やイメージを記録しようとしました。
霊媒や自動筆記など、当時のスピリチュアリズムの実践も、彼らにとって重要な参照でした。
ただしブルトンらが求めていたものは、単純な超自然現象の証明ではありません。
人間の意識が通常とは異なる状態になったとき、どのような言葉やイメージが出てくるのか。
自分の中に、自分が意識的には知らない思考があるのではないか。
自動記述が机の上で行う実験なら、催眠的な「眠り」は身体と意識状態を使った実験でした。
デスノス — 言葉を意識の統制から外す
ロベール・デスノス(Robert Desnos, 1900–1945)は、「眠りの時代」で特に強い能力を示した人物として知られています。
半睡眠状態で話し続け、質問に答え、文章や言葉を即興的に作る。
ブルトンはその流暢さに強い関心を持ちました。
後のシュルレアリスムにとって、この実験が示したのは、「作者が考えてから言葉を作る」という順序を変えられる可能性です。
言葉が先に出る。
作者はその後で、それが何を意味するかを見る。
これは通常の創作観を反転させます。
作品は、作者がすでに知っている考えを表現するものではない。
制作を通じて、作者自身が知らなかったものを発見することができる。
シュルレアリスムの自動性は、この「制作=発見」という考えへつながります。
1922–1923年 — ダダとの決裂
1922年、ブルトンは「現代精神の方向と防衛を決定するための国際会議」を構想しました。
芸術や文学のさまざまな前衛を集め、今後の方向を議論しようとする試みでした。
しかしツァラはこれに反発し、会議は実現しませんでした。
ブルトンにとって、前衛は単なる否定やスキャンダルから次の段階へ進む必要がありました。
ツァラにとって、そのような「方向を決める」行為こそダダの自由を制度化する危険を持っていました。
対立は個人的な不仲だけではありません。
「前衛運動は何をすべきか」という考え方の違いでした。
破壊を続けるのか。
それとも、新しい思考の方法を組織するのか。
パリ・ダダは内部から分裂していきます。
1923年「髭の心臓の夕べ」
1923年7月6日、ツァラはパリのThéâtre Michelで「Soirée du Cœur à barbe(髭の心臓の夕べ)」を開催しました。
Centre Pompidouによれば、音楽、詩、舞踊、映画、ツァラの演劇などを組み合わせた大規模なイベントでした。
しかしこの夜は、ダダ側とブルトン周辺との対立が暴力的な衝突へ発展します。
ポール・エリュアールがツァラを殴り、会場は混乱しました。
この出来事は、パリ・ダダの最終局面を象徴するものとしてしばしば扱われます。
ダダが「終わった日」を一日だけ決めることはできません。
しかし1923年頃には、ブルトン、アラゴン、エリュアールらの関心は明らかに別の方向へ移っていました。
その方向に、翌年「シュルレアリスム」という名前が与えられます。
文学から視覚芸術へ
初期シュルレアリスムは、まず文学から形成されました。
自動記述。
夢の記録。
連想。
言葉の実験。
Metropolitan Museum of Artは、初期のシュルレアリスト詩人たちが、絵画や彫刻は制作に時間がかかるため、自動記述のような即時的な思考の記録には向かないのではないかと考えていたことを指摘しています。
しかし視覚芸術を無視していたわけではありません。
デ・キリコ。
ピカソ。
デュシャン。
ピカビア。
エルンスト。
彼らの作品に、通常の現実をずらす方法を見ていました。
1924年前後になると、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロら若い画家とも接触し、シュルレアリスムが視覚芸術へ広がる条件が整い始めます。
アンドレ・マッソン — 線を先に走らせる
アンドレ・マッソン(André Masson, 1896–1987)は、第一次世界大戦で重傷を負った後、1920年にパリへ戻りました。
1920年代前半、彼のアトリエにはミロや作家たちが集まるようになります。
Centre Pompidouは、1924年頃のマッソンを、視覚芸術における自動的な線の初期実験を行った重要な作家として紹介しています。
方法は、自動記述に近い発想です。
何を描くかを最初に決めない。
手を動かす。
線が現れる。
その線の中から、後になって人物や動物、風景の断片を見つける。
「イメージを考えてから描く」のではなく、
「描くことでイメージを発見する」。
ここで文学の自動記述が、視覚芸術の制作方法へ変換され始めます。
ただし、Centre Pompidouが指摘するように、完全に純粋な自動描画だけで作品が成立したわけではなく、その後の意識的な構成も含まれていました。
1924年『シュルレアリスム宣言』
1924年、ブルトンは『Manifeste du surréalisme(シュルレアリスム宣言)』を出版しました。
Metropolitan Museum of Artは、この出版をシュルレアリスムがパリで正式に成立する象徴的な出来事として位置づけています。
ブルトンはそこで「シュルレアリスム」を、自動的な精神活動によって、理性による統制や美的・道徳的な配慮から離れ、思考の実際の働きを表そうとするものとして定義しました。
ここまで来ると、自動記述は単なる文章技法ではありません。
人間の思考についての考え方そのものになります。
意識だけが人間ではない。
夢もある。
欲望もある。
無意識の連想もある。
偶然に見える出会いもある。
それらを「非現実」として排除せず、日常的な現実と同じように扱う。
そこから、より広い現実――「sur-réalité(超現実)」を探ろうとしました。
シュルレアリスムは何を目指したのか
「シュルレアリスム」という言葉から、現実離れした幻想画を想像することがあります。
しかし初期の考えは少し違います。
夢の世界へ逃げるのではありません。
現実と夢を分離している境界そのものを疑う。
理性的な意識だけを「現実」と呼ぶ必要があるのか。
夢で経験したこと。
突然思いついた言葉。
意味のないように見える偶然。
無意識の欲望。
それらも、人間が実際に経験している現実ではないか。
Centre Pompidouはシュルレアリスムを、ダダの破壊と反抗を受け継ぎながら、無意識、夢、偶然、自動性によって想像力の根本を再構築しようとした運動として説明しています。
否定の先に、別の認識方法を作ろうとしたことが重要です。
シュルレアリスム研究所 — 夢と偶然を収集する
1924年10月11日、パリのグルネル通り15番地に「Bureau de recherches surréalistes(シュルレアリスム研究所)」が開設されました。
Metropolitan Museum of Artによれば、ここはシュルレアリスムに関心を持つ人々が訪れ、夢の記録、偶然の出来事、発見物、証言などを持ち寄る場所として機能しました。
これは画廊ではありません。
絵画を売る場所でもありません。
むしろ研究室に近い発想です。
夢を集める。
偶然を記録する。
奇妙な出来事について話す。
言葉を集める。
通常なら個人的で価値がないとされる経験を、集団で調査する。
Metは、この研究所の目的の一つを「生活を再分類する」ことだったと紹介しています。
シュルレアリスムは、作品制作だけの運動ではなくなります。
日常生活そのものを別の方法で読むための実験になります。
『シュルレアリスム革命』— 運動を組織する
1924年12月、雑誌『La Révolution surréaliste(シュルレアリスム革命)』第1号が刊行されました。
Metropolitan Museum of ArtとMoMAの資料は、この雑誌を1924年から1929年まで刊行されたシュルレアリスム初期の中心的な出版物として位置づけています。
誌面には、文学だけでなく、
夢。
アンケート。
写真。
自動記述。
犯罪。
精神医学。
芸術作品。
政治的・社会的な声明。
などが並びます。
雑誌という形式自体が、異なる現実を一つの場所へ集める装置になります。
ここでも、シュルレアリスムは「ある特徴を持つ絵画のスタイル」ではありません。
文学、芸術、心理、社会を横断する運動として組織されました。
ダダとシュルレアリスムは何が違うのか
両者には多くの共通点があります。
合理主義への不信。
偶然。
既存の芸術制度への反発。
雑誌とイベント。
異なるメディアの混合。
同じ人物が両方に参加した場合も多くあります。
そのため、完全に切り分けることはできません。
それでも大きな違いを一つ挙げるなら、方向性です。
ダダは、既存の価値が成立しないことを暴露する力を持っていました。
芸術とは何か。
合理性とは何か。
文化とは何か。
それらを笑い、壊し、否定する。
シュルレアリスムは、その破壊の後に別の現実を探そうとしました。
夢。
無意識。
欲望。
自動性。
偶然。
そこから、人間の経験をより広く捉え直す。
ただし、この違いも絶対ではありません。
ダダにも創造的な実験はあり、シュルレアリスムにも破壊的・反抗的な側面があります。
二つの運動は、対立しながら連続しています。
1919–1924年に何が変わったのか
この5年間で、前衛美術の問いは大きく変わりました。
作品を作る前の思考過程そのものが問題になった。
自動記述では、完成した文章より「どのように言葉を発生させるか」が重要になります。
無意識が制作の資源になった。
意識的な判断だけを作者の中心と考えなくなりました。
偶然が破壊だけでなく、発見の方法へ変わった。
偶然に出会った物や言葉から、新しい意味を探します。
コラージュの意味が変わった。
エルンストは、異なる図版の接続から夢のような像を作りました。
芸術と心理的経験の境界が薄くなった。
夢や催眠状態の記録も、制作の一部になります。
運動が「作品の集まり」から「思考を研究する集団」へ変わった。
1924年の研究所や雑誌は、シュルレアリスムを一つの生活実験として組織しました。
そして最大の変化は、前衛が「新しい形を作る」だけでなく、
人間が世界を認識する方法そのものを変えようとしたことです。
次の時代へ — シュルレアリスムの絵画
1924年の段階では、シュルレアリスムはまだ文学的な運動としての性格が強くありました。
しかしその直後、視覚芸術が急速に重要になります。
アンドレ・マッソンは自動描画を進めます。
ジョアン・ミロは現実の形を記号のようなイメージへ変えます。
マックス・エルンストは1925年にフロッタージュを発見し、木目や葉などの偶然の模様から像を引き出します。
マン・レイは写真による実験を続けます。
ルネ・マグリットは、写実的に描かれた物同士の関係をずらす方向へ進みます。
サルバドール・ダリは少し遅れて1929年にグループへ入り、極端に明晰な写実技法を使って非合理な像を作ります。
同じ「シュルレアリスム」でも、作品の見た目は大きく異なります。
自動性を使う画家。
夢のような空間を精密に描く画家。
偶然の物質から像を発見する画家。
写真を使う作家。
オブジェを組み合わせる作家。
次の記事では年代を重ねながら、1924–1929|シュルレアリスムの絵画 — 自動性、夢、偶然の像として、マッソン、ミロ、エルンスト、マン・レイ、マグリットらの異なる方法を詳しく見ていきます。
参考資料・出典
本ページは、美術館・研究機関・図書館が公開する作品、作家、出版物、展覧会資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。
- Bibliothèque nationale de France — André Breton (1896–1966)
- Bibliothèque nationale de France — L’écriture surréaliste / Les Champs magnétiques
- Bibliothèque nationale de France — Les Champs magnétiques, édition originale, 1920
- Centre Pompidou — Dada
- Centre Pompidou — Dada à Paris : manifestations et festivals
- The Museum of Modern Art — Does Dada Dissolve into Surrealism?
- The Metropolitan Museum of Art — Max Ernst: A Retrospective
- The Metropolitan Museum of Art — Surrealism
- Centre Pompidou — Surrealism
- Centre Pompidou — Dessin automatique
- The Museum of Modern Art — André Breton
- The Metropolitan Museum of Art — Bureau de Recherches Surréalistes
- The Museum of Modern Art — Surrealism: Library Highlights
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY