1917年
トイレの便器を作品にするって、どういうこと?
美術館で、トイレにあるはずの便器を見かけたら、「どうしてこれが美術作品なの?」と驚くかもしれません。1917年、フランス出身の芸術家マルセル・デュシャンは、店で売られていた男性用の小便器を《泉》という題名で展覧会に提出しました。
デュシャンが試したのは、便器を美しく見せることではありません。作家が自分の手で作らなかった物でも、選び、作品として示すことで美術になるのか。さらに、何を美術と認めるかは誰が決めるのか。《泉》をめぐる出来事から、その問いをたどってみましょう。
《泉》は、どんな作品なの?
《泉》に使われたのは、白い陶器でできた男性用の小便器です。デュシャンは市販の製品を通常の使い方とは違う向きに置き、「R. Mutt 1917」と署名して《泉》と名づけました。便器としての役割を離れたことで、見慣れたはずの物が、何のために置かれているのか分からない物に変わります。
サンフランシスコ近代美術館の《泉》の作品ページで実物の形を見てみてください。写真に写っているのは後年の版ですが、デュシャンが作品として示した物の特徴を確かめられます。便器の曲線を美しいと感じるかどうかより、いつもの使い道を取り去られた物を前に「これは作品なのか」と考えることが、この仕事の出発点です。(参照:サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版・ニューヨーク近代美術館|デュシャンとレディメイド)
「審査なし」の展覧会で、なぜ展示されなかったの?
1917年4月、ニューヨークでは独立美術家協会による最初の展覧会が開かれました。協会は「審査なし・賞なし」を掲げ、会費を支払った会員の作品を展示する方針でした。デュシャン自身も運営に加わっており、従来の展覧会より開かれた場を目指していました。
そこに「R. Mutt」の名で提出された《泉》を、運営側は会場に展示しないと決めました。小便器を美術作品として受け入れられなかったのです。審査をしないはずの展覧会で、作品としてふさわしいかどうかの判断が行われたことになります。
ここで問題になったのは、便器が上手に作られているかどうかではありませんでした。作家が作品として提出した物を、主催者が「それは美術ではない」と退けたことです。デュシャンの試みは、美術作品の範囲だけでなく、それを決める権限にも疑問を向けました。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の出来事・サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版)
自分で作らないのに、どうして作品になるの?
デュシャンは、絵を描いたり石を彫ったりする代わりに、すでに作られた日用品を選び、それを作品として提示しました。こうした方法を「レディメイド」と呼びます。1913年にはスツールに自転車の車輪を取り付けた《自転車の車輪》を、1914年には瓶を乾かすための金属製の器具を作品として選んでいました。
レディメイドでは、作家の仕事が、材料を加工する技術から、何を選び、どのような場所に置き、どう名づけるかという判断へ移ります。デュシャンは、きれいだから選ぶ、醜いから選ぶという好みからも距離を置こうとしていました。作品の価値を美しさや手仕事の巧みさだけで決める考え方に、別の可能性を示したのです。
とはいえ、作家が「これは美術だ」と言えば、誰もが必ずそう認めるという話ではありません。実際に《泉》は展示を拒否されました。デュシャンが始めたのは、日用品を差し出すことで、私たちが何を根拠に美術と判断しているのかを考えさせる試みでした。(参照:ニューヨーク近代美術館|デュシャンとレディメイド・ニューヨーク近代美術館|レディメイドとは)
展示されなかった《泉》は、どうやって知られるようになったの?
《泉》は1917年の展覧会場では展示されませんでした。それでも、写真家アルフレッド・スティーグリッツが作品を撮影し、その写真が同年5月の雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載されました。誌面には「リチャード・マット事件」と題した文章もあり、展示拒否への反論が示されています。
その文章は、物を本人の手で作ったかどうかより、ありふれた物を選び、新しい題名と見方を与えたことに意味があると主張しました。実物を展覧会で見られなかった人にも、写真と文章を通して《泉》の姿や問題提起が伝わったのです。
1917年の《泉》そのものは、ほどなく所在が分からなくなりました。今、私たちが当時の姿を知るうえで、スティーグリッツの写真は欠かせない記録です。美術館での展示ではなく、雑誌に載った写真と議論が、作品の歴史をつなぐ役割を果たしました。(参照:M+|雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号・フィラデルフィア美術館|《泉》と雑誌による議論・フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版)
いま美術館にある《泉》は、1917年の便器なの?
現在、美術館に収蔵されている《泉》の多くは、後から作られた版です。デュシャンは1930年代後半から、小型の複製を自作の作品集《トランクの箱》に取り入れました。さらに1950年には、画商シドニー・ジャニスがパリで中古の小便器を入手し、デュシャンがそれを承認して「R. Mutt 1917」と署名しました。これがフィラデルフィア美術館にある1950年版です。
一方、サンフランシスコ近代美術館にある1964年版は、画商アルトゥーロ・シュヴァルツの企画により、職人たちが新たに製作した公認の複製です。1917年には「作家自身が作らなかった」ことが問題になった作品を、今度は職人がわざわざ作り直している。この少し不思議な経緯も、《泉》という作品の面白いところです。
同じ《泉》でも、フィラデルフィア美術館の1950年版とサンフランシスコ近代美術館の1964年版では、物そのものの来歴が違います。1917年の実物が失われても、題名や発想、写真の記録、そしてデュシャンが認めた後年の版によって、《泉》は紹介され続けました。その経緯からは、「同じ作品」とは何を指すのかという新たな問いも生まれます。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版・サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版・ニューヨーク近代美術館|レディメイドの複製について)
なぜ《泉》は、今も美術の歴史で語られるの?
《泉》が注目されるようになったのは、1917年の騒動だけが理由ではありません。後年の再制作版は展覧会で紹介され、1950年版はジョン・ケージやロバート・ラウシェンバーグら、次の世代の芸術家も目にしました。市販の物を選ぶだけで作品を成り立たせようとした発想は、その後の美術にも影響を与えていきます。
美術作品には、作家の手仕事や美しい形が必要なのか。作品の価値は物そのものにあるのか、それとも選び方や考え方にもあるのか。《泉》が投げかけた問いは、物よりも発想を重視する後の美術にもつながりました。だからこそ、便器という意外な材料だけでなく、作品をめぐって生まれた議論そのものが、現在も取り上げられているのです。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》1950年版・サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版・ニューヨーク近代美術館|デュシャンとレディメイド)
まとめ
デュシャンが便器を作品として提示したのは、その形を美しい彫刻として見せるためではありません。すでにある物を選んで《泉》と名づけ、展覧会に提出することで、何を美術作品と呼び、誰がそれを決めるのかという問いを生み出しました。
展示を拒否された《泉》は、写真と雑誌で記録され、後の再制作や展覧会を通して次の世代へ伝わりました。美術には、絵を描いたり物を作ったりするだけでなく、見慣れたものに新しい問いを生み出す方法もある。その変化を具体的に示したのが《泉》です。
レディメイドが生まれた背景や、その後の美術への広がりは、ART LIBRARYの専門記事「マルセル・デュシャンとレディメイド — 《泉》はなぜ美術の常識を変えたのか」でさらに詳しく読むことができます。(参照:ニューヨーク近代美術館|デュシャンとレディメイド・サンフランシスコ近代美術館|《泉》1917/1964年版)