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1945–1965

戦後パリとロンドンの具象美術

ジャコメッティとベーコン、人間の存在をめぐる表現の革新

1945年、戦争が終わったヨーロッパで、人間の姿をどのように描き、彫刻にできるのかという問いがあらためて浮上しました。ニューヨークでは抽象表現主義が形成され、パリではアンフォルメルの絵肌や物質が新しい可能性を開いています。同じ時期、アルベルト・ジャコメッティは人間を細い立像へと削り込み、フランシス・ベーコンは写真や古典絵画の像を組み替え、肉体を激しく変形させました。二人の仕事は、具象表現が戦後にも実験の中心であり続けたことを示しています。

ジャコメッティはパリを拠点としたスイス出身の彫刻家です。1930年代にシュルレアリスムの重要な作家として活動した後、モデルを見て頭部を作る研究へ戻りました。戦争中にスイスで作った極小像は、1947年の《歩く男》や1948年前後の広場の彫刻へつながります。彼が追い求めたのは、人体の正確な寸法より、特定の距離から人がどのように見え、そこに存在していると感じられるかという経験でした。

ロンドンのベーコンは、ベラスケスの《教皇インノケンティウス10世》、エイゼンシュテインの映画、マイブリッジの連続写真、動物の写真などを使って人物像を作り替えました。画面に置かれた人体は、写真の記録性から出発しながら、顔や四肢が崩れ、鮮烈な色面や細い枠線とぶつかります。彼の制作には、絵具による偶発的な変化、三連画、同時代の男性同士の親密さをめぐる社会的条件も深く関わっていました。

二人をひとつの流派として扱うことはできません。モデルを長時間見続けたジャコメッティと、親しい人物ほど写真を使って描いたベーコンは、制作の出発点から大きく異なります。本記事では1945年から1965年にかけての主要作品をたどり、彫刻の台座、石膏と青銅、写真の折り目、キャンバスの表裏、展示空間、作家を支えた人々まで確認します。戦争や実存主義という時代の大きな言葉に加え、作品を実際に成立させた選択と工程に目を向けます。

戦後の具象が切り開いた新しさは、人物の形を大胆に変えたことと、見る者がそこに感じる人間の存在とを結びつけた点にあります。ジャコメッティの人物像はサルトルの実存主義と結びつけて解釈され、ベーコンの絵画は写真や古典絵画を組み替えることで肉体の感覚を強く伝えました。記事ではこの二つの方向を、写真が広く流通した時代、古代エジプト美術やベラスケスとの対話、戦争をめぐる受容の歴史から詳しく検討します。

CONTENTS

  1. 戦後のヨーロッパで、人間を表すこと
  2. 写真と新しい具象表現|見える姿から、感じられる存在へ
  3. ジャコメッティがシュルレアリスムから持ち帰った問題
  4. ジュネーヴの小さな人物像
  5. 1945年のパリ帰還から細長い立像へ
  6. 1947年の《歩く男》と《指さす男》
  7. 《鼻》——人体の部分が周囲の空間へ侵入する
  8. 1948年ニューヨーク個展とサルトルの批評
  9. サルトルと戦後パリの実存主義|他者、距離、自由
  10. 広場の彫刻——歩く人と立つ人
  11. 粘土・石膏・青銅——作品を作る手と支える人
  12. 頭部と肖像——身近な人を描き直す
  13. 文学者との交流と矢内原伊作の長いポーズ
  14. 1956年《ヴェネツィアの女たち》——変化する一体を連作にする
  15. 1959〜1965年——公共彫刻と国際的評価
  16. フランシス・ベーコン——1944年の三連画
  17. 《Painting 1946》——像が変わる制作の現場
  18. ベーコンの素材——下地、絵具、褪色
  19. 1948〜49年の頭部連作と教皇像
  20. 古典美術を組み替える|古代エジプトからベラスケスへ
  21. エイゼンシュテインの映画と「叫び」のイメージ
  22. 透明な枠と無地の背景——ベーコンの空間
  23. マイブリッジと動く身体の写真
  24. 動物の身体から人間を見る
  25. 男性同士の親密さと1950年代の社会
  26. 1954〜1958年——世界へ広がるベーコンの仕事
  27. 7 Reece Mews——画像に囲まれた制作室
  28. 友人の写真から肖像を描く
  29. 1962年テート回顧展と大三連画
  30. 1963〜1965年——親しい人々と新しい大画面
  31. 心理・感覚・戦争|二人の具象をどう読み解くか
  32. 二人の身体はどのように空間を変えたか
  33. 肖像、制作時間、材料を比較する
  34. 戦後の身体をめぐる批評と社会的な問題
  35. 1945〜1965年の戦後具象をどう受け取るか
  36. 年表|1935–1966
  37. まとめ|戦後の人間像が拓いたもの
  38. 参考資料・出典

戦後のヨーロッパで、人間を表すこと

抽象と具象が同時に進んだ時代

1940年代後半の美術は、抽象表現主義がニューヨークで発展し、パリではアンフォルメルが広がる転換期でした。絵画は対象を再現する役割から離れ、色、線、素材そのものを探究するものとして語られます。その時代にジャコメッティとベーコンは、顔、手足、胴体という古くからの主題を制作の中心に置き続けました。

二人の造形を見れば、人間を表す方法も大きく変わっていたことが分かります。細い彫刻も、輪郭の崩れた絵画も、伝統的な写実から離れた研究の結果です。具象という分類の中にも、視覚の距離や画像の複製、素材の反応をめぐる新しい問題が生まれていました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

戦争という歴史と、個別の制作史

ベーコンが1944年に制作した三連画は、翌1945年春、戦争が続くロンドンで初めて展示されました。ジャコメッティは戦時中ジュネーヴで制作を続け、1945年秋にパリのアトリエへ戻っています。二人の転換は、同じ戦争の時代と隣り合わせに進みました。

それぞれの方法は戦前からの関心とも連続しています。ジャコメッティの頭部研究は1935年頃に始まり、ベーコンの人物表現には古典絵画や写真文化が流れ込んでいました。作品から感じられる不安や痛みを歴史に結びつける際にも、いつ、何を参考に、どの材料で作ったかという制作の具体性が重要です。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|生涯と制作)

同じ人間像に見えるものの違い

ジャコメッティの立像は、歩道や広場に現れた通行人のように、鑑賞者から一定の距離を保ちます。ベーコンの人物は、画面内の枠や狭い部屋へ置かれ、身体の変形が近くに迫ってくるように感じられます。細い人体と厚い肉体という外見上の違いは、空間の作り方にも及びます。

記事では、ジャコメッティが物を削り、台座や余白を使って距離を作る方法と、ベーコンが写真や絵具を重ね、枠線や色面で人を囲む方法をそれぞれ追います。共通の哲学を先に与えるより、作品に近づくことで二人が残した異なる問いが見えてきます。(参照:バービカン・センター|戦後英国美術の展覧会資料)

写真と新しい具象表現|見える姿から、感じられる存在へ

写真が普及した時代の「写実」

19世紀に普及した写真は、人の顔や身体、街路の光景を細部まで記録する強力な手段となり、20世紀には雑誌や新聞、映画の画像が社会に大量に流通しました。1940年代の画家や彫刻家は、すでに写真による人物像が身近に存在する環境で制作しています。この変化は、具象美術が何を表現できるかを問い直す背景の一つになりました。

カメラの画像もレンズ、撮影位置、露光、切り取り方、印刷方法によって変わります。写真が現実を完全に写し取るという前提は、美術史上の事実として置くことができません。ジャコメッティとベーコンに共通するのは、写真を上回る「正確さ」を競う姿勢より、視覚や感覚に生じる人物の存在を、彫刻や絵画の固有の方法で成立させようとしたことです。(参照:MoMA|ジャコメッティ回顧展図録・視覚と写真の違い)

ジャコメッティが写真に見いだした限界

ジャコメッティがモデルを見るとき、顔の細部が分かる距離と、人物の全身が一つの像として感じられる距離は一致しませんでした。遠くに立つ人物は視覚の中で小さくまとまり、実物の人体を知識どおりに形作ると、彼が見た像から離れてしまいます。戦時中の極小像も戦後の細長い立像も、この観察上の問題を追究する中から生まれました。

MoMAの展覧会図録は、カメラが距離感を変えてしまうことに触れながら、ジャコメッティの目標が人の目に見えた姿を精密に捉えることにあったと説明しています。彼のいうリアリティは心の内部を直接取り出した像というより、見る人と見られる人が一定の距離を隔てて出会う、その視覚的な経験に根ざしています。(参照:MoMA|ジャコメッティと視覚の探究)

ベーコンにとって写真は、変形の出発点だった

ベーコンは人物を描くために写真を積極的に集め、折り曲げ、切り抜き、絵具で汚した画像を制作室に残しました。写真家ジョン・ディーキンが撮影した友人の肖像、マイブリッジの連続写真、映画の場面写真、古典絵画の複製が、彼の画面で結びつきます。写真は彼が避けるべき写実の象徴というより、絵画へ持ち込む身体の姿勢や構図を得るための豊かな材料でした。

フランシス・ベーコン・エステートが公開する研究では、写真から選んだ形が作品に取り込まれながら、絵具の重なりと変形によって元の画像とは異なる感覚が生まれる過程が示されています。ベーコンの新しい具象は、写真と絵画を切り離して成立したのではなく、写真を使い、写真に残された情報を大きく組み替えることで発展しました。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|写真と絵画の制作研究)

外見の一致と、人がそこにいる感覚

ジャコメッティの肖像では、顔の輪郭が実際のモデルと完全には一致しなくても、視線と頭部の位置が人物の存在感を強く支えます。ベーコンの肖像では、写真に残る顔の特徴が大胆に崩されても、知人の姿として認識できる部分が残ります。二人が求めた類似は、寸法や輪郭の単純な一致を超えるものでした。

この意味で「外見以上のリアリティを捉える」という表現には根拠があります。ジャコメッティでは視覚的な距離と他者の存在、ベーコンでは肉体と絵具が呼び起こす感覚が中心です。「心理的リアリティ」という言葉はベーコンを論じる手がかりの一つになりますが、二人の制作全体を一つの内面表現に統一するより、それぞれの方法を明確にする方が作品に近づけます。(参照:MoMA|ジャコメッティの作品と類似の探究)

ジャコメッティがシュルレアリスムから持ち帰った問題

1935年、再びモデルの前に座る

ジャコメッティは1930年代前半、《吊られた球》や《午前4時の宮殿》などの作品によってシュルレアリスムの一員として知られていました。物体同士の奇妙な関係や欲望の象徴を扱った後、1935年頃には、生身のモデルを見ながら頭部を作り直す作業へ向かいます。この変化はシュルレアリストの集団との関係にも断絶を生みました。

本人にとって頭部は、すでに解決済みの古典的な題材ではありませんでした。目の位置や顔の大きさが少し変わるだけで、そこにいる人物の存在感が変わる。よく知る顔を繰り返し作りながら、見えているものを捉えきれないという難しさが、生涯の課題になっていきます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

古代彫刻と、実際の人間の見え方

ジャコメッティは古代エジプトやメソポタミアの彫刻を熱心に研究しました。前を向いて直立する像、片脚を踏み出す姿勢、強い正面性は、戦後の人物像にも響いています。古代の彫刻は、身体の正確な解剖学とは異なる方法で、人物を空間に成立させていました。

過去の彫刻を調べることと目の前のモデルを観察することは、ジャコメッティの中で並行していました。1947年の《歩く男》に見える片脚を出した姿勢には、長い彫刻史との関係も読み取れます。戦後の新しい像は、シュルレアリスム以前から続く古代美術への関心も含んで形成されました。(参照:ジャコメッティ財団|《歩く男》展)

目を作るという終わらない課題

頭部の制作でジャコメッティがとりわけこだわったのは目でした。顔の各部分が寸法として正確でも、目に生命の気配が現れなければ人物に見えない。弟ディエゴや身近な人々の肖像を作り続けたのは、知識として知る顔と、ある瞬間に見えている顔との隔たりを繰り返し確かめるためでもありました。

画家が人物を見つめるとき、視線は顔全体から目へ、さらに輪郭へと移動します。ジャコメッティの素描や絵画に重なる数多くの線は、その観察の移動を示しています。頭部の彫刻も一度形を決めれば終わるものではなく、削る、付け足す、再び見るという作業を積み重ねてできています。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|肖像の研究)

ジュネーヴの小さな人物像

1942〜1945年、戦時中のスイス

ジャコメッティは戦時中の1942年から1945年まで、主にジュネーヴで生活しました。パリのアトリエは弟ディエゴが守り、本人は限られた環境で小さな人物像の研究を続けます。作るたびに像が小さくなる経験は、単に制作のための空間が狭かったという事情から説明できるものではありません。

遠くにいる人が見える大きさを捉えようとすると、彫刻としての人体も小さくなっていく。顔の形を確認しようと近づけば、今度は遠くに見えた人物の全体像が消えます。視覚が対象と結ぶ距離を、手に取れる小像として定着させようとしたところに、この時期の特殊な小ささがあります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|生涯と制作)

極小像と大きな台座の関係

戦争末期に近づくにつれ、ジャコメッティの人物像には指先ほどのものも現れます。大きな台座に小さな人が置かれると、周囲の何もない部分まで空間として感じられます。作品の寸法は小さくても、鑑賞者はその人物が遠くにいるかのような印象を受けます。

戦後の細長い等身大像にも、人物の周囲の空間を造形するという課題は残りました。小さな像の研究は、大きな像へ進むための単純な下絵という以上の意味を持っています。人体の絶対的な大きさを決める前に、人がどの距離で現れるかを考える方法がここで培われました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|生涯と制作)

《荷車の女》と記憶から作る身体

1944〜45年頃の《荷車の女》は、友人イザベルの記憶に基づいて作られた立像です。身体は垂直に伸び、足元の装置や台座によって人物がひとつの軸として見えます。モデルの実物が目の前にないときにも、ジャコメッティは強い視覚的な印象をもとに制作できました。

後にアネットや矢内原伊作をモデルにするときも、実物を長時間見ることと、離れてから記憶で再構成することを往復します。ジャコメッティの写実性は、目の前の物を機械的に写し取る方法ではなく、見る経験そのものを探り直す過程から生まれています。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

1945年のパリ帰還から細長い立像へ

小さなアトリエで再開した制作

1945年9月、ジャコメッティはパリへ戻り、モンパルナスのイポリット=マンドロン通り46番地のアトリエで制作を再開しました。約23平方メートルの部屋には、石膏像、粘土、道具、書物が集まり、壁にも線や像が描かれていきます。彼は国際的な名声を得てからもこの場所で仕事を続けました。

仕事場の物理的な大きさと、作品が表現する空間の広さには興味深い開きがあります。テーブル上の小像も、大きな人物像も、同じ場所で何度も作り直されました。アトリエの壁は制作の記録であり、後年まで残った石膏や家具を含め、彼の造形方法を知るための貴重な資料となっています。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|アトリエの再現)

遠くの通行人が等身大になる

戦後のジャコメッティは、街路で見かける人物や通りを歩く人の印象をもとに、背の高い人物像を制作するようになります。足と胴が引き伸ばされ、身体の幅は驚くほど細くなります。1947年頃の作品は、戦時中の極小像から一見正反対の方向へ進んだようにも見えます。

その変化には、ある距離から捉えた身体を彫刻として成立させるという共通の関心があります。人間の大きさを戻しても、奥行きや重量感を従来の人体彫刻のようには増やさない。正面の細いシルエットと削り取られた肉によって、遠景にいた人物の像を近くへ移したような視覚が生まれました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

1946年の頭部と死の記憶

1946年頃には頭部や断片的な身体を扱う作品も多く作られました。ジャコメッティの伝記資料には、1921年と1946年に他者の死に立ち会った経験が、その後の視覚の捉え方に強く残ったことが記されています。開いた口や頭部の不安定な姿勢も、こうした記憶と関連づけて考察されています。

身体の一部分だけが強い存在感を持つことは、実際に作られた形や大きさによっても確かめられます。死の体験に触れる際には、作品の記憶への接続を示す記録と、作者が形を修正し続けた制作工程の両方を見ることが大切です。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

1947年の《歩く男》と《指さす男》

《歩く男》の一歩が持つ緊張

1947年の《歩く男》では、一歩を踏み出した人物が前後へ脚を開き、細い胴体を垂直に保っています。像は動き続ける途中のように見えますが、彫刻としては完全に停止しています。ジャコメッティは身体の解剖学的な厚さを削ぎ落とし、それでも歩行の方向と人体の存在感が失われない形を探りました。

この姿勢には古代エジプトの立像との関係もあります。足の位置や直立する軸が彫刻史とつながりながら、表面には強い凹凸が残ります。後の1959〜60年の《歩く男》もよく知られていますが、1947年の作品を見れば、この主題が戦後の早い段階ですでに成熟していたことが分かります。(参照:ジャコメッティ財団|《歩く男》1947年)

《指さす男》は空間へ腕を伸ばす

1947年の《指さす男》では、細長い人物が腕を横へ広げ、手の先が周囲の空間を示しています。立像そのものは非常に細くても、指の方向へ視線が導かれるため、作品が占める範囲は身体の輪郭より広く感じられます。小さな動作が彫刻全体の空間的な緊張を決めています。

歩く男が前後の距離を意識させるのに対し、指さす男は左右や外側への広がりを作ります。どちらも人体の量塊を減らしながら、その人物が空間にどのように関与するかを変えた彫刻です。動かない像が、観客の身体と視線を動かす仕組みがここで明確になります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

粗い表面は「未完成」の表情ではない

細い立像の肌理には、粘土を足した跡、削った跡、鋭い道具で刻んだような凹凸が残っています。滑らかな青銅の人体とは異なり、照明の角度が変わると細かな明暗が生まれ、身体が揺らぐように見えます。制作の手つきが残る表面は、人物の不安定な存在感を支えています。

鋳造後のブロンズ像には、もともとの石膏や粘土の痕跡も引き継がれます。人体をどこまで細くできるかという問題と、どのような表面ならその身体がそこに立って見えるかという問題は結びついています。滑らかに整えるだけが完成の条件ではなくなりました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

《鼻》——人体の部分が周囲の空間へ侵入する

檻と頭部と異様に長い鼻

《鼻》には、開いた口を持つ頭部と、そこから極端に伸びた鼻があります。頭部は枠の内側につり下がり、鼻の先端がその境界を越えて外へ突き出します。人体の一部分が枠を貫くことで、頭部の内部と周囲の空間の間に奇妙な緊張が生まれています。

胴体を持たない頭は生々しい物として迫り、細い鼻は空間を測る直線のようにも機能します。彫刻の内部だけで像が完結せず、枠の外側まで含めて作品を見ることになります。ベーコンの檻状の空間を考える際にも、比較できる重要な作品です。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|《鼻》の制作史)

1947年の発表後も続いた修正

《鼻》は1947年頃の作品として紹介されますが、ジャコメッティ財団の詳しい研究によれば、複数の状態が存在し、発表後にも改作が続きました。1948年のアトリエ写真には、後に知られる形と異なる口や枠の状態も記録されています。現在見られる像を単一の制作瞬間へ結びつけることはできません。

ジャコメッティは、作品の大きさ、開口部、鼻の突出量を調べ続けました。ひとつの完成形が突然思いつかれたという物語よりも、複数の状態を比べていくと、彫刻を空間にどう置くかという問題が見えてきます。作品は時間をかけて修正される研究の場でした。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|《鼻》の制作史)

人物の不安と造形上の発明

開いた口や枠は死や拘束を想起させます。ジャコメッティの戦後作品はしばしば実存主義や戦後の喪失感から読まれ、こうした解釈にも一定の歴史的背景があります。作品に近づくと、口の大きさ、鼻の方向、頭部と枠の距離が、特に強い視覚的効果を生んでいることに気づきます。

意味を考えることと、彫刻の構造を観察することは両立します。《鼻》では一本の突起によって閉じた枠が破られ、人物が外の空間と結び直されます。ジャコメッティの制作は、人間像に付随する象徴だけでなく、人と空間の関係を組み替える方法としても読めます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|《鼻》の制作史)

1948年ニューヨーク個展とサルトルの批評

ピエール・マティス画廊での転機

1948年初め、ニューヨークのピエール・マティス画廊でジャコメッティの戦後作品を紹介する個展が開かれました。展覧会には以前のシュルレアリスム作品と新しい立像が並び、観客は同じ作家の表現が大きく変わったことを知りました。戦後のパリを拠点とする彫刻家が、アメリカの画廊制度によって国際的に知られていく重要な機会でもありました。

画廊主との関係は、作品の制作や鋳造、紹介する順序に影響しました。ジャコメッティの表現を完全に孤立したアトリエの出来事として語ると、国外へ作品が届く仕組みが見えにくくなります。画廊と批評家の働きが、戦後の彫刻に対する見方を形成していきました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

サルトルの「絶対の探求」

個展の図録にはジャン=ポール・サルトルが「絶対の探求」を寄稿しました。サルトルは、彫刻を単に手で触れられる物体として見るのではなく、ジャコメッティが人間を「ある距離で見える姿」として成立させようとした点に注目しました。この文章は、細い人物像を読み解く代表的な批評となりました。

作品が持つ距離を哲学的に言語化したことは、ジャコメッティの国際的な受容を助けました。同時に、サルトルが重視した実存や他者との関係は、当時の批評家の視点として捉えられます。彫刻には古代美術への研究、材料の扱い、造形上の選択が重なっており、哲学的解釈と並行して見ることができます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

「実存主義の彫刻家」という呼び名

ジャコメッティの立像は、戦争後の孤独や不安、人間存在の脆さを表す作品として広く紹介されました。広い台座の上で離れて立つ人物たちは、他者と触れ合えない人間像にも見えます。そうした批評が作品の印象を強めたことも、戦後美術史の一部です。

ところが立像の距離や細さは、1930年代以来の視覚研究から連続して生まれています。作品の受容と制作の経緯を区別して追うことで、ジャコメッティの彫刻を哲学の例示以上のものとして理解できます。強い批評の言葉が何を見せ、何を見えにくくしたかも考える必要があります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

サルトルと戦後パリの実存主義|他者、距離、自由

1945年のパリで広がった実存主義

第二次世界大戦が終わったパリでは、自由、責任、他者との関係、人間の生き方をめぐる議論が大きな関心を集めました。ジャン=ポール・サルトルは1943年に『存在と無』を刊行し、1945年10月29日にはパリで講演「実存主義はヒューマニズムである」を行っています。講演は1946年に刊行され、実存主義を専門的な哲学の議論から広い文化の場へ知らせる契機となりました。

サルトルの実存主義では、人間はあらかじめ完成した本質を与えられた存在として扱われません。人は具体的な状況の中で選択し、行為し、他者との関係の中で生きる存在として考えられます。戦争と占領を経た社会にとって、この哲学は自由と責任を考え直す言葉となりました。美術作品もまた、この時代の思想を背景として読み解かれていきます。(参照:フランス国立図書館|1945年の講演と実存主義の受容)

1948年、サルトルが彫刻の「距離」を論じる

1948年、ジャコメッティはニューヨークのピエール・マティス画廊で戦後の個展を開き、サルトルは図録へ「絶対の探求」を寄稿しました。サルトルは、彫刻家が人体を手で触れられる物体として作るだけでなく、ある場所から眺めたときに現れる人物の姿を形にしたことに注目しました。距離が変わってもなお遠くにいるように見える細い立像は、見ることの条件自体を彫刻へ取り込んでいると解釈されたのです。

この文章でサルトルは、人物が他者の視線に現れる姿を重視しています。そこでは彫刻を見る観客も、人物から切り離された中立の視点に立つことはできません。人と人が同じ世界に存在し、互いを離れた場所から見るという状況が、ジャコメッティの造形を通して浮かび上がります。これが当時の実存主義的な読解の核心の一つでした。(参照:ジャコメッティ財団|サルトル「絶対の探求」解説・1948年)

彫刻の形と、実存主義による意味づけ

《指さす男》や細長い立像は、個人を特定しにくい姿、消えそうな厚み、孤立した配置によって、存在の脆さを感じさせます。MoMAは《指さす男》の解説でサルトルの批評を紹介し、戦争を経た人々の身体や存在を思わせる解釈が当時すでに語られていたことを記しています。作品の中に歴史的な意味を見いだした批評が、その後のジャコメッティ像を強く形作りました。

ジャコメッティ自身は1935年頃から、モデルを見て頭部を捉える困難に向き合っていました。彼の制作上の問いは、実存主義が戦後に広く知られる前から続いています。サルトルの批評は彫刻を理解する新しい道筋を開いた歴史的文献であり、制作の全工程を説明する設計図という位置づけには収まりません。(参照:MoMA|《指さす男》とサルトルの実存主義的解釈)

ボーヴォワール、アネット、思想家たちとの実際の交流

サルトルの周囲にはシモーヌ・ド・ボーヴォワールをはじめ、戦後の思想と文学を担う人々がいました。ジャコメッティ財団の1948年個展に関する資料は、ボーヴォワールが1946年にアネット・アルムと親しくなり、彼女のパリでの生活を支えていたことも紹介しています。アネットは後にジャコメッティの妻となり、長く重要なモデルを務めました。

ボーヴォワールは1949年に『第二の性』を刊行し、アネットの証言も研究の背景に関わりました。彫刻家と哲学者が同じ時代に活動していたという関係に加え、実際に交わされた人間関係の広がりが確認できます。こうした交流を知ると、戦後パリの美術と思想が互いに接近していたことが具体的になります。(参照:ジャコメッティ財団|ボーヴォワールとアネットの交流)

「実存主義の彫刻家」という評価の広がり

1948年のサルトルの文章以後、ジャコメッティの彫刻は、孤独、不安、自由、他者との隔たりをめぐる戦後の思想と結びつけて紹介されてきました。ジャコメッティ財団自身も、この批評を中心資料として、実存主義的な視点から作品を再検討する展覧会を開催しています。こうした受容の歴史は、戦後の具象彫刻が哲学的な問いを担う作品として広く読まれたことを示します。

それと同時に、細くなる人体の寸法、古代彫刻の影響、粘土や石膏の削り跡、台座と人物の比率は、作品そのものに備わる造形上の問題です。実存主義が付与した意味と、作家が制作中に取り組んだ具体的な課題を重ねて読むことで、哲学と美術史の両方からジャコメッティの重要性を理解できます。(参照:ジャコメッティ財団|「絶対的人間性」展と実存主義)

広場の彫刻——歩く人と立つ人

《広場》と都市の距離

1948年前後に制作された《広場》では、複数の細い人物がひとつの平たい台座を共有します。互いに近づいていても、目を合わせたり手を触れたりする様子はありません。通りや広場で知らない人同士がすれ違う瞬間のような関係が、彫刻の配置として現れています。

台座は小さな街区のように見え、人物間の余白が作品の中心になります。観客は一体の人物を眺めるだけでなく、複数の身体の間を目で行き来します。人の不在によって感じられる距離まで立体作品に組み込まれたところに、ジャコメッティの独自性があります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

《歩く三人の男》の異なる方向

《歩く三人の男》でも細い人物たちは同じ足場に存在し、それぞれ異なる方向を向いています。歩行の身振りは似ているのに、集団として一つの行動をしているわけではありません。人物が同じ空間を共有しているという事実が、かえって個々の存在を際立たせます。

立像を孤独の象徴として読むこともできますが、ここでは同時に人の移動と配置が精密に検討されています。公共空間に現れる他者が、どこを向き、どの距離で見えているか。その関係が鑑賞者の立ち位置を変えるたびに組み直されます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

男性は歩き、女性は立つという反復

ジャコメッティの成熟期には、男性像が歩き、女性像が正面を向いて直立するという構成が繰り返されました。この反復は、身体の形と動作について二つの異なる研究が進んだことを示しています。歩行像では前後の方向と細い足の緊張が強く、女性像では垂直の軸と正面性が際立ちます。

今日この分類を見ると、男性に移動、女性に静止を与えた表現上の選択としても考えられます。人物の造形上の効果を確認すると同時に、その繰り返しがどのような性別のイメージを生み出したかを検討することにも意味があります。(参照:ジャコメッティ財団|《歩く男》展)

粘土・石膏・青銅——作品を作る手と支える人

石膏の修正跡がそのまま残る

ジャコメッティは粘土で形を立ち上げ、石膏に移し、さらに石膏の表面を刃物や道具で削り直しました。石膏像は青銅鋳造のための途中段階にもなりますが、彼は石膏そのものを大切にし、展示することもありました。白い表面に残る削り跡や加筆は、制作が終わらず続いているかのような印象を生みます。

鋳造された作品は長期保存に適していても、制作の過程を知るには石膏や粘土の状態が欠かせません。石膏の表面を観察することで、人体がどこまで削られ、どの部分に物質が残されたのかを読み取れます。財団がこれらを保存し、研究してきた意義もここにあります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|アトリエの再現)

弟ディエゴの手と鋳造の現場

弟ディエゴ・ジャコメッティは最も長くモデルを務めた人物の一人で、アトリエでの実務も支えました。金属の芯材を用意し、石膏型を作るなど、制作の工程にも関わっています。とりわけ1956年の《ヴェネツィアの女たち》では、一つの粘土像の状態を順次石膏へ移す過程に彼の協力がありました。

完成した青銅像に署名される作家名はひとつでも、その成立には鋳造所や手伝う人々の技術が重なります。ジャコメッティが作品の造形を決定した事実と、複数の人々が制作と保存を支えた事実を併せて見ると、個人作家の神話では捉えきれない制作の実像が現れます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

アネットが守ったアトリエの痕跡

アネットはモデルとして制作に関わり、1949年にジャコメッティと結婚しました。彼の死後にはアトリエの壁や家具、道具、石膏像などを保管し、その仕事が後年の研究と再現展示を可能にしました。現在のジャコメッティ財団が紹介するアトリエ再現にも、アネットの保存活動が大きく寄与しています。

作家の周囲にいた人物を単に「ミューズ」と呼ぶと、制作に要した時間や、死後に記録を守った働きが見えにくくなります。アネットとディエゴは、作品のモデルであると同時に、作品が現在まで伝わるための重要な担い手でした。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|アトリエの再現)

頭部と肖像——身近な人を描き直す

ディエゴという繰り返されるモデル

ジャコメッティは弟ディエゴの顔を長年にわたって何度も描き、彫りました。最もよく知る人物であっても、目の前にいるときの姿を完全に固定することは難しい。頭部や胸像を繰り返し修正する過程には、人物についての記憶と、その瞬間に目へ入ってくる印象との違いが現れています。

肖像の価値は、本人の顔の特徴をどれほど写真のように再現したかだけでは測れません。同じ人物の像が少しずつ異なるのは、観察が常に変わるからです。削られた顔の周囲に残る物質の厚みや、目が集中する場所によって、見る人にはその人物が強く現れます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|肖像の研究)

アネットの肖像に集まる線

アネットの肖像では、身体の輪郭を簡潔に捉える一方で、顔や目の周囲に複雑な線や修正が集まります。絵画では頭を囲む線が何重にも重なり、周囲の空間まで揺れ動くように見えます。単なる顔の記録に収まらないのは、画家が見ている位置そのものを画面に残すためです。

彫刻と絵画の違いも興味深いところです。彫刻では物質を付け足したり削ったりしながら顔を作り、絵画では描いた線を新しい線で修正します。見続けることと作り直すことが両方の媒体に通っています。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|肖像の研究)

肖像における「似ている」の意味

ジャコメッティの肖像は、モデルの心理を表情として読み取らせる方向へ向かいません。目が見る側と交わるか、顔がどの距離にいるように見えるかという問題によって、人物の存在を強く感じさせます。表面的な似顔の正確さと、相手がそこにいると感じる強さは必ずしも一致しません。

画家の側が相手をよく知っているからこそ、見慣れた顔の意外な部分に気づくこともあります。肖像の反復は、モデルを理解し尽くした結果というより、他者の姿を最後まで捉えようとする作業の継続として見ることができます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|肖像の研究)

文学者との交流と矢内原伊作の長いポーズ

ジャン・ジュネが書いたアトリエ

作家ジャン・ジュネは1950年代にジャコメッティと親しく交流し、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』を執筆しました。サルトルが人間の存在や距離を哲学的に論じたのに対し、ジュネの文章にはアトリエで見た物や制作の身振りへの感受性があります。ジャコメッティの彫刻が多くの文学者を引きつけたことも、同時代の受容史の特徴です。

こうした文章は美術館や画廊で作品を見る観客に、形の背後にある経験の言葉を与えました。文学者の視点と実際の造形を照らし合わせることで、ひとつの人物像が複数の解釈を呼び起こしてきたことが分かります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

矢内原伊作との対話と肖像制作

日本の哲学者・矢内原伊作は1955年にジャコメッティと知り合い、1956年以降、何度も長期間モデルを務めました。矢内原はフランス文学や哲学を研究し、制作の様子を文章にも残しています。画家とモデルの関係は、ポーズを指示されて座るだけのものから、会話と観察が何度も交差する時間へ広がりました。

ジャコメッティは描いた頭部の比率を何度も直し、完成が近づくほど新たな違和感に気づきます。モデルが帰国した後に記憶から描き続けた作品もあり、実物を見ることと不在の相手を思い出すことが、同じ肖像制作を構成しました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期と矢内原伊作)

肖像の完成が遅れる理由

長い制作時間は、単に細部を丁寧に描き込むためのものではありません。何度も同じ顔を観察するたびに、鼻、目、顔の幅、背景との距離が違って見える。形を直すことによって、以前正しいと思った像が崩れます。この繰り返しは人物の捉えにくさを示しつつ、視覚に対する非常に厳密な研究にもなっています。

ジャコメッティはこうして、像に達する過程を完成作品の表面へ残しました。描き直された線は迷いの痕跡であると同時に、目の前にいる人を見続けた時間の記録です。写真の複製を自由に組み替えるベーコンとは、ここで制作の条件が大きく分かれます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

1956年《ヴェネツィアの女たち》——変化する一体を連作にする

ヴェネツィア・ビエンナーレでの石膏像

1956年、ジャコメッティはヴェネツィア・ビエンナーレのフランス館に《ヴェネツィアの女たち》の石膏像六体を展示しました。直立する女性像は、わずかに違う背丈や胴体の厚み、表面の形を持ちながら、よく似た正面性を示します。後年は青銅版でも知られていますが、当初の発表が石膏だったことは重要です。

白い石膏は光を細かく受け、削った跡や手直しが青銅とは異なる鮮明さで見えてきます。像を並べると、人間の姿が一つの完成形に落ち着くのではなく、同じ主題の周囲で何度も揺れ動いていることが感じられます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

粘土像を変えて、その途中段階を保存する

ジャコメッティが一つの粘土像を少しずつ変形させ、手応えを得た段階で弟ディエゴに石膏型を取らせたという、デイヴィッド・シルヴェスターの証言が伝わっています。財団は写真や作品ごとの差から、すべてが一体の粘土像から生まれたかには検討の余地があるとしています。複数の状態を残す方法は、同じ型による単純な量産とは異なります。

見る側はどの像が「正解」なのかを簡単には決められません。ある作品では肩が薄く、別の作品では胴が重くなり、足元と台座も違います。各像は変化の過程を別々の完成作として保持しているため、比較すること自体が鑑賞の重要な経験になります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

《レオーニの女》が示す長期間の改作

関連する《レオーニの女》にも、数年にわたる大規模な修正が残っています。財団の研究では、古い写真と現在の石膏像を照合することで、足元や台座、彩色の変更を追跡しています。1947年頃に始まった作品も1950年代の展示を経て形が変わり、ひとつの制作年だけから現在の姿を説明できない場合があります。

彫刻は制作室を出た瞬間に完全に固定されるものという通念に対し、ジャコメッティの仕事は継続的な改作を示します。残存する型や石膏の状態、写真の記録を見比べることは、作品を一つのイメージとして見ること以上に豊かな制作史を教えてくれます。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|《レオーニの女》変遷)

1959〜1965年——公共彫刻と国際的評価

チェース・マンハッタン広場の構想

1958年末、ジャコメッティはニューヨークのチェース・マンハッタン銀行前の広場に設置する記念碑を構想するよう依頼されました。建築家ゴードン・バンシャフトから広場の寸法を受け取り、大きな立つ女、歩く男、地面に近い頭部を組み合わせる計画を立てます。当時のジャコメッティはアメリカへ渡った経験がなく、図面や模型から場所を想像しました。

これまで台座の上で縮尺を研究していた人物が、実際の都市空間に置かれることを想定して巨大化します。広場そのものが人物同士の関係を生む場となり、彫刻の周りを歩く人々まで作品経験の一部になる構想でした。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|記念碑構想)

1959〜60年の《歩く男》と未実現の計画

この仕事から1959〜60年の《歩く男 I》《歩く男 II》などの大型作品が生まれました。身体の細さは1947年の人物像とつながりながら、実際の広場に立つことを想定した大きさになります。最終的にチェース・マンハッタンの記念碑計画は実現しませんでした。

実現しなかった依頼であっても、制作された人物像は独立した作品として残りました。公共空間へ向けた要求が、アトリエ内の造形を変え、のちの代表作を生み出したことになります。作品の歴史を考える際、完成した展示だけでなく、実現しなかった計画にも注目する意味があります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|記念碑構想)

ビエンナーレの賞と1965年の回顧展

1962年、ジャコメッティはヴェネツィア・ビエンナーレで彫刻部門の大賞を受けました。1965年にはロンドンやニューヨークなどで大規模な回顧展が開かれ、生前の仕事が国際的に整理されていきます。1940年代には奇妙なほど細い像だった作品が、現代彫刻の重要な到達点として認識されるようになりました。

美術館の展示、画廊からの紹介、批評家の言葉が積み重なって、現在のジャコメッティ像が形づくられました。この評価の歴史は、制作が一人のアトリエで完結していたという印象を修正してくれます。彼が亡くなるのは翌1966年です。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|生涯と制作)

フランシス・ベーコン——1944年の三連画

《磔刑図の基部にいる人物のための三習作》

1944年の《磔刑図の基部にいる人物のための三習作》は、オレンジ色の地に灰色の異様な生物を配した三連画です。首が長く伸びたような姿、開いた口、折れ曲がった胴体は、人間や動物のどちらか一つに落ち着きません。三枚が横に並ぶことで、それぞれの姿が互いに響き合い、強い印象を作ります。

支持体は一枚の大きな布ではなく、ファイバーボード三枚です。粗い面の色と生物の身体が鋭く対立し、後のベーコンが繰り返す人体の変形や三連画の構成がすでに現れています。本人は後年、この作品を成熟した仕事の出発点として重視しました。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《磔刑図の基部にいる人物のための三習作》)

1945年の初公開と戦争の時代

作品が初めて一般に展示されたのは、1945年4月のロンドンのルフェーヴル画廊でした。ヨーロッパで戦争が終わる直前の時期で、異様な生物像は当時の観客に強い衝撃を与えました。のちにこの三連画は、戦争の暴力と結びつけて語られることになります。

ベーコンは三つの生物をギリシャ悲劇『オレステイア』に登場する復讐の女神たちと関連づけてもいました。題名にある磔刑も、宗教的物語を直接描写したものというより、苦痛や暴力を表すための強い造形的な枠組みになっています。歴史的状況と文学的な参照が複数重なった作品です。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代の絵画)

なぜ三枚を並べるのか

三連画はキリスト教の祭壇画の形式を思い起こさせます。ベーコンはその形式を受け継ぎながら、中央と両側で一つの事件を順番に語る方法から離れました。三つの独立した姿を同時に見ることで、差異と反復が鑑賞者の視野の中に生まれます。

後の1962年や1965年の大三連画では、同じ形式がさらに巨大な寸法で用いられます。ベーコンにとって三枚組は、何かを説明するための便利な順序以上に、一つの人物や身体の状態をひとつの絵に閉じ込めずに考えるための方法でした。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《磔刑図の基部にいる人物のための三習作》)

《Painting 1946》——像が変わる制作の現場

傘、人物、肉塊の不可解な集まり

《Painting 1946》では、傘の下に顔の見えにくい人物がいて、背後に大きな屠殺された肉が開かれています。周囲には柵や幕のようなものがあり、人物は権威を持つ人にも、身を隠している人にも見えます。肉と人間を同じ空間に置くことで、身体が社会的な存在でありながら、傷つきうる物質でもあることが浮かびます。

傘や幕は画面を整理する幾何学的な形としても働き、肉塊の複雑な質感と衝突します。作品は戦争や死を思わせますが、特定の事件を説明する図解にはなっていません。異なる断片が同時に現れることで、観客がすぐには解決できない感覚を生み出します。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《Painting 1946》)

鳥を描いていたという回想とX線調査

ベーコンはこの絵について、当初は野原へ降りる鳥を描こうとしていたものの、制作中に像が大きく変わったと後年語りました。MoMAが公開した保存修復研究は、X線調査で下層の形や構図の変更を検討し、画面が一度の決断によって成立したのではないことを示しています。

作者の記憶は制作過程を知る重要な証言であり、物質調査による結果と照らすことで、その語りの複雑さも見えてきます。偶然が作品を作ったという逸話だけでは捉えられない、何度も塗り直し、像の関係を変えた時間が画面の内部に存在しています。(参照:MoMA|《Painting 1946》の保存修復研究・前編)

1948年のMoMA収蔵が持った意味

《Painting 1946》は画商エリカ・ブラウセンの手に渡り、1948年10月にニューヨーク近代美術館(MoMA)が購入しました。ロンドンで活動していた若い画家の強烈な具象作品が、戦後アメリカの有力美術館に収蔵されたことは、ベーコンの評価にとって重要な転機でした。

このような収蔵を通して、ベーコンの仕事はイギリス国内の特殊な表現という枠を越え、国際的な現代美術の中で比較されるようになります。作品自体の力と、画商や美術館が作品を紹介し保存する働きが合わさって、今日の代表作の位置づけが成立しました。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《Painting 1946》再展示)

ベーコンの素材——下地、絵具、褪色

《Painting 1946》は下塗りされた画布

ベーコンが後年よく使った技法として、キャンバスの未下塗り面に描く方法が知られています。作品ごとに材料を確かめると、より複雑な制作の実態が見えます。MoMAの保存修復研究によれば、《Painting 1946》は白い油性下地のある麻布の側に描かれ、油絵具とパステル状の材料が併用されました。

同じ作家の作品でも、支持体の準備や絵具の種類は一定ではありません。人物や肉塊の厚い油絵具と、背景の明るい色の部分では物質的な構造が異なります。ベーコンの表現を考える際、画面の見た目から技法を一律に推測するより、具体的な作品の調査を参照する方が正確です。(参照:MoMA|《Painting 1946》の保存修復研究・後編)

不安定な背景色と保存修復の問題

《Painting 1946》のピンクや紫を含む背景には、砕いたパステルまたは顔料を薄く混ぜて塗った部分があります。MoMAは、その層が油性下地への密着に弱く、剥落や光による褪色を起こしやすいと説明しています。作品の色は制作直後から変化の危険を抱えていました。

保存修復研究からは、絵画が発表時と同じ見た目を恒久的に保つわけではないことが分かります。鑑賞者が今日見る色と、ベーコンが作ろうとした色の間には時間の隔たりがあります。作家の表現を理解するために、材料の性質と変化の歴史も重要な資料になります。(参照:MoMA|《Painting 1946》の保存修復研究・後編)

未下塗り面への描画と修正の難しさ

ベーコンは1940年代後半、下塗りされた布の裏側、つまり未下塗りの麻布に描く方法へ向かいました。本人の伝記では、モンテカルロ滞在中の制作を契機に、裏側の吸収性を気に入った経緯が紹介されています。絵具が生地に入り込むと、その部分を滑らかに消して描き直すことは難しくなります。

修正しにくさは、一度置いた絵具の跡に強い緊張を生みます。写真から取り込んだ像を変形する自由と、物質に触れた瞬間の取り返しのつかなさが同時に存在していました。この方法は後年にわたって重要になりますが、すべての作品に同じ下地と同じ操作が使われたということではありません。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代)

1948〜49年の頭部連作と教皇像

《Head》連作が切り出した顔

1948年から1949年にかけて、ベーコンは頭部を中心にした連作を制作します。暗い画面の中から耳や肩、口や歯が断片的に現れ、顔全体の輪郭は崩れます。頭部だけを近くで捉える形式によって、人間の身体の一部分に強い注意が集まります。

細い線や幕のような形が、人物を背景から分離しながら、同時に像を不安定にしています。全身像を描く前に、顔がどう成立し、どこで消えてしまうのかを調べた研究とも言えます。ジャコメッティが頭部を長年彫り続けたことと比べると、二人の違いがいっそう明確です。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代の絵画)

《Head VI》とベラスケスの教皇

1949年の《Head VI》は、ベラスケスの《教皇インノケンティウス10世》に基づく初期の重要作です。高位聖職者の服装や椅子の構造が残る一方、顔は大きく開いた口を中心に変形されています。宗教的権威を示す伝統的な肖像画から、個人の身体が崩れていくような像が生まれました。

ベーコンはこの教皇像の写真複製を集め、長年にわたって何十点もの変奏を制作しました。過去の作品を引用することは、単なる美術史への敬意以上の意味を持っています。すでに強いイメージとして知られた顔を使うことで、その像を変形したときに生まれる変化がより鮮明になります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代の絵画)

1953年《Study for Portrait VII》

1953年の《Study for Portrait VII》も、教皇像をもとにした人物研究に属します。椅子や縦の構造が画面を囲み、人物はそこから現れたり溶けたりするように見えます。教皇という題材が持つ権威は残りながら、顔の表面はひとつの安定した人格を示すことから離れます。

同じ原作を参照しても、ベーコンは毎回異なる構図と表面を試しました。頭部だけを強調する作品、身体まで見せる作品、叫びが強く出る作品があり、教皇像の意味は一つに固定されません。繰り返し描くことで新しい絵画上の問題を発見していったことが分かります。(参照:MoMA|《Study for Portrait VII》1953年)

古典美術を組み替える|古代エジプトからベラスケスへ

ジャコメッティと古代エジプトの立像

ジャコメッティは古代エジプトの彫刻を長年研究し、書籍の図版を模写しながら姿勢や人体の表し方を考えていました。1932年の《歩く女》には、前へ出した脚と静止した上半身を結びつける古代的な立ち姿がすでに見られます。この造形上の関心は、戦後の《歩く男》にも引き継がれました。

ジャコメッティ財団は1947年の《歩く男》について、古代エジプト美術からの影響を明記しています。現代の街を歩く人を見た経験と、古代の人物像が持つ正面性や歩行の姿勢が交差したところから、新しい彫刻の形式が生まれました。彼の独創性は過去の彫刻を一度捨ててから得られたものではなく、古代の造形を現代の視覚経験の中で作り直したことにもあります。(参照:ジャコメッティ財団|《歩く男》1947年と古代エジプト美術)

古代の顔や目から、現代の肖像へ

ジャコメッティは古代エジプトの頭部や肖像を繰り返し模写しました。財団がルーヴル美術館と共同開催した展覧会では、書記像、アマルナ時代の造形、ファイユームの肖像などを手がかりに、古代美術と作家自身の彫刻・素描が比較されています。特に目の周囲へ生命の感覚を集中させる姿勢は、彼の頭部研究を理解する重要な鍵です。

1950年代のディエゴやアネットの肖像では、顔を捉えようとする線や彫りの痕跡が幾重にも重なります。古代美術に見いだした正面性や永続性と、刻々と変化する目の前の人物を捉えようとする試みが同じ制作に存在しています。過去の造形を現代の肖像の問題へ変換することが、ジャコメッティにとって重要でした。(参照:ジャコメッティ財団・ルーヴル美術館|ジャコメッティと古代エジプト)

ベーコンとベラスケス《教皇インノケンティウス10世》

17世紀のスペイン絵画を代表するディエゴ・ベラスケスは、1650年頃に教皇インノケンティウス10世の肖像を描きました。ベーコンはその複製画像を長年見続け、1949年の《Head VI》や1953年の教皇像などで構図を変奏しています。椅子へ座る人物、紫や暗色の衣、垂直の線、開いた口は、歴史上の教皇像を別の緊張を持つ人物へ変えました。

原画が属するバロック期の肖像画では、衣装や椅子、身振りが人物の社会的な地位や権威を示します。ベーコンの変奏では、権威を示す姿勢を残しながら、人物の身体と顔が絵具の変形によって不安定になります。古い肖像の構造を借りて、新しい身体像を作った点に革新がありました。「バロック絵画を解体して戦争の傷を描いた」と直接結びつけるより、作品上で確認できる変形の過程を丁寧に追う方が正確です。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1953年の教皇像)

複製画像と映画が、古典絵画を別の像へ変えた

ベーコンはベラスケスの教皇像を原画から直接写し取る方法を選びませんでした。複製写真を通じて歴史上の作品へ接近し、映画『戦艦ポチョムキン』で眼鏡が壊れた女性が叫ぶ場面など、別の画像を組み合わせて考えました。教皇の口が開くことで、伝統的な権威の肖像に生身の肉体を思わせる強い感覚が加わります。

映画や写真の引用は、完成した画面の意味を一つに決めるための暗号とは限りません。エステートが公開する研究では、複製画像の一部を選び、変形し、原資料の物語から切り離す制作方法が示されています。古典と新しい複製メディアを同じ作業台に置いたことが、ベーコンの具象表現を特徴づけています。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|複製写真から絵画への変形)

ゴッホやスーティンへもつながる造形上の対話

ベーコンの過去の美術への関心はベラスケスに限られていません。1957年にはゴッホの失われた《タラスコンへ向かう画家》の複製を基に連作を制作し、強い色彩と筆触へ表現を広げました。シャイム・スーティンによる肉の描写や絵具の力強い扱いも、ベーコンの作品を考える際に重要な比較対象となります。

エステートが紹介する展覧会研究は、スーティンの屠殺された肉の絵画とベーコンの身体表現とのつながりを検討しています。過去の美術を選び取り、写真を媒介にしながら異なる材料感や構図へ変える方法は、単なる古典作品の引用を超えていました。戦後の具象表現は、長い美術史との継続的な対話からも生まれています。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|スーティンとベーコンの比較展)

エイゼンシュテインの映画と「叫び」のイメージ

『戦艦ポチョムキン』の看護婦

ベーコンが繰り返し参照した映像の一つに、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925年)があります。オデッサの階段で眼鏡を破損し、口を開ける女性の映像は、教皇像や頭部の変奏に重ねられました。映画の一場面が、何年も後の絵画を作るための材料となっています。

写真や映画の断片は、元の物語の中では瞬間的に現れるものです。ベーコンはそれを切り出し、長時間見られる絵画へ移しました。観客が映画の前後関係を知らなくても、開いた口の形や身体の緊張は強い印象を残します。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代の絵画)

歯、舌、暗い口腔の造形

ベーコンの叫ぶ頭部では、口の内部が暗い穴のように描かれ、その周りに歯や唇が強調されます。目や鼻といった顔の部分が溶けても、開いた口は残ることがあります。人間の顔を言語や理性の主体として見る感覚が揺らぎ、身体そのものの物質性が前へ出ます。

何を叫んでいるのか、そもそも苦痛の声なのかは画面から確定できません。叫びは特定の心理や事件を説明する符号だけではなく、描かれた口を通して観客に直接作用する視覚的な形となっています。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代の絵画)

原画に会わず、複製から新しい像を作る

ベーコンは1954年にローマを訪れた際、ベラスケスの原作を見に行きませんでした。彼にとって作品の複製は、色や輪郭を記憶の中で変え、別の像へ移すための重要な入口でした。絵画を学ぶことが必ずしも原画の前でその形を忠実に分析することと一致しない例です。

複製画像は、画面を切り抜いたり折ったり重ねたりできます。古典絵画の像と映画の顔が並び、新しい身体が生まれる。ベーコンのアトリエに大量の写真や印刷物が残された理由も、こうした画像の扱い方から理解できます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

透明な枠と無地の背景——ベーコンの空間

人物を囲む線は建物の壁なのか

教皇像や《Man in Blue》の人物は、細い線で作られた四角形や奥行きのある枠に囲まれることがあります。線は檻や舞台を思わせますが、実際の壁やガラスを再現するものとは限りません。背景から人物を浮かび上がらせ、どこに体が置かれているかを際立たせる装置として働いています。

透明な線の中には空間があるようにも見え、同時に平面的な図形にも見えます。人体の激しい変形を囲いの整った形と対置することで、身体の不安定さがさらに強く感じられます。ベーコンは人物だけでなく、周りの空間そのものを作り替えていました。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代の絵画)

鮮烈な背景色が身体を孤立させる

1950年代のベーコンは、暗い室内と同時に、赤やオレンジ、青などの広い単色面も使うようになります。人物が置かれた空間には具体的な家具や風景がほとんどなく、体の輪郭が色の広がりと直接ぶつかります。色が人物を包み込む場合も、突き放す場合もあります。

背景を省略することによって、画面に出ている人物の形がどれほど特異かが浮かびます。観客が日常の部屋としてすぐ理解できる場所を少なくし、身体と色面の緊張を成立させる点は、具象画と抽象画の境界を考えるうえでも興味深い方法です。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代の絵画)

額縁のガラスと見る側の距離

ベーコンは多くの絵画をガラス付きの額縁で展示することを望みました。作品表面と鑑賞者の間にガラスが入ると、描かれた人物に触れることはできず、展示室の光や鑑賞者の姿が反射することもあります。画面内の枠と、現実の展示装置が重なったような経験になります。

ガラスを画家の意図ひとつで完全に説明することは難しいものの、見る側との距離を作る重要な条件であることは確かです。ジャコメッティの彫刻を周囲から見られる経験と比べると、額装の選択もまたベーコンの人物像の受け止め方を左右しています。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|7 Reece Mewsのアトリエ)

マイブリッジと動く身体の写真

連続写真が分解した身体の動作

エドワード・マイブリッジの連続写真は、歩く、走る、格闘する、屈むといった動作を細かな瞬間に分解しました。ベーコンはこうした写真を繰り返し参照し、人物のポーズを作る手がかりにしています。写真が一瞬の動作を止めたところから、絵画で新しい動きの印象を生み出すことができました。

元の写真には、一続きの運動を分析する科学的な目的がありました。ベーコンはその形を切り離し、体の一部分をねじり、別の場面へ置きます。記録の正確さを求めた写真が、絵画では予想外の姿を作るための材料に変わります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1940年代の絵画)

1953年《Two Figures》の二つの裸体

1953年の《Two Figures》では、二人の男性の身体が寝台の上で重なり合っています。構図にはマイブリッジの格闘する男性たちの写真との関係が認められます。元の連続写真が示す運動を、画面では二つの身体が激しく触れ合う姿へと変換しているのが重要です。

腕や脚が重なり、どちらの身体に属するのか簡単に分からない場所もあります。人物を独立した二体として切り離すより、接触によって生まれた一つの塊を描いています。抽象的な絵具の痕跡と、具体的な身体の緊張が同じ画面に存在します。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

運動を静止させることの逆説

マイブリッジの写真は複数の瞬間を並べることで運動を可視化しました。ベーコンは異なるポーズの要素を一枚へ凝縮し、動きの前後が同時に起きているような身体を描きます。筋肉が連続して動いた記憶が、引き伸ばされた腕や曖昧になった輪郭に残っているようにも見えます。

写真が止めた運動を絵画で再び動かすという発想は、ベーコンの具象が写実の延長に収まらないことを示します。1947年のジャコメッティの《歩く男》も動く身体を停止させますが、青銅の立像と絵具の像では運動を感じさせる仕組みが大きく異なります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代の絵画)

動物の身体から人間を見る

ヒヒの写真が画面へ入る

1953年の《Study of a Baboon》は、野生動物の写真資料をもとに制作された作品です。MoMAはマリウス・マクスウェルによる動物写真との関係を説明しています。描かれたヒヒは柵のそばに置かれ、体の輪郭や周囲の空間が曖昧になっていきます。

柵がどちら側にあるかによって、動物が閉じ込められているのか、観客が囲われた側にいるのかという感覚が変わります。人物像を囲む細い枠と共通する方法が、動物画にも現れています。人間と動物を隔てる境界を揺らす題材として、動物の身体は重要でした。(参照:MoMA|《Study of a Baboon》1953年)

アフリカ南部への旅行と写真資料

ベーコンは1951年と1952年にアフリカ南部を訪れ、野生動物に関心を深めました。現地で見た動物の動きと、後に手に取る写真集の図版は、異なる仕方で制作に取り込まれています。画家が実際に目撃した経験と、印刷された画像の扱いが重なっていることが分かります。

人間を描くための人体資料と同じように、動物の四肢や開いた口、姿勢も造形の資源になりました。ベーコンの絵画では生物学的な分類が安定せず、人間の顔にも動物的な形が現れます。この変化は、暴力の比喩だけでなく、身体を形として捉え直す研究からも理解できます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

屠殺された肉と生きた身体

《Painting 1946》に現れた肉塊は、その後のベーコンでも繰り返される題材です。屠殺場を思わせる肉は、生きている身体と死んだ物質の距離を近づけます。人体が社会的な役割を持ち、服を着て椅子に座る姿と、筋肉や肉の塊として存在する姿が一つの画面で結びつきます。

ベーコンの絵を肉体の恐怖だけで捉えると、背景と身体の色の組み合わせ、複数の像を重ねる構成の精密さが見えにくくなります。絵画に描かれた肉は、古典的な宗教画や静物画の歴史とも関係しながら、現代の身体を考えるための重要な造形要素でした。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《Painting 1946》)

男性同士の親密さと1950年代の社会

法制度の中で描かれた《Two Figures》

1953年に《Two Figures》が制作されたイギリスでは、男性同士の性行為は厳しい刑事法と社会規範の下に置かれていました。イングランドとウェールズで成人男性同士の私的な行為が部分的に非犯罪化されるのは1967年です。二つの男性裸体が接触する像は、そのような歴史的条件の中で発表されました。

この文脈は作品の重要な側面です。同時に、重なり合う人体の運動、形の混合、写真資料からの変換も画面を成立させています。社会的な読みと造形上の分析を並行させることで、作品が持つ複数の層を理解できます。(参照:バービカン・センター|戦後英国美術の展覧会資料)

ピーター・レイシーとの関係

1950年代のベーコンはピーター・レイシーと長く関係を持ち、ロンドンとタンジールを行き来しました。その関係には激しい衝突や不安定さもあり、画家の生活史を考えるうえで重要です。作家の私生活に関する記録は、人物画が作られた時代の状況を知る手がかりになります。

親しい関係の体験が個々の作品にどう関わったかは、作品ごとの資料に基づいて考える必要があります。ベーコンの描いたすべての歪みを恋愛関係の記号として読むより、写真や古典絵画、絵具の操作が同時に作用していたことにも注目したいところです。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

《Man in Blue》の匿名の男性

1954年の《Man in Blue》連作では、暗いホテルやバーを思わせる空間に、スーツを着た男性が現れます。顔は崩れ、身体は濃い青に包まれています。制服のような服装は社会的な役割を与えますが、人物の個人的な感情や背景をはっきり説明しません。

同時代の男性同士の出会いや欲望の文化に触れながら読むと、匿名的な人物が閉じた空間にいることの重みが増します。人物が置かれた枠の厳密さや、青い色面と顔の対立も作品の強い効果を作っており、社会史と絵画の問題が交差しています。(参照:バービカン・センター|戦後英国美術の展覧会資料)

1954〜1958年——世界へ広がるベーコンの仕事

1954年ヴェネツィア・ビエンナーレ

1954年、ベーコンはベン・ニコルソン、ルシアン・フロイドとともにヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館で紹介されました。抽象に近い表現、濃密な具象、人物の変形という違う方法が同じ国別展示へ置かれたことで、当時のイギリス美術が一つの画風に収まらないことが可視化されました。

国際ビエンナーレは作品を国外の観客へ示し、批評家や美術館へつなぐ場所でもありました。ベーコンはロンドンを基盤にしながら、同じ時期からヨーロッパとアメリカで紹介される存在になっていきます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

1957年のゴッホによる変奏

1957年、ベーコンはゴッホの《タラスコンへ向かう画家》をもとに連作を作りました。元の絵は戦争中に失われたとされ、ベーコンは複製された画像をもとに制作しました。これらの作品では鮮烈な赤や黄、緑が現れ、暗い教皇像を中心とする時期とは違う画面が広がります。

過去の作品を使うことが、ベーコン自身の色彩や絵具の扱いを更新する契機になりました。ヴェラスケス、マイブリッジ、ゴッホという異なる資料がそれぞれ別の形で働いており、参照元をひとまとめに「影響」と呼ぶだけでは制作の過程は見えません。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

1958年、画廊の変更と国際市場

1958年、ベーコンはハノーヴァー画廊からマールボロ・ファイン・アートへ取り扱い先を移しました。新しい画廊との関係は展覧会、販売、国際的な紹介の仕組みに影響します。孤独なアトリエで作った作品も、作品を運び、展示し、収集家へ紹介する人々によって世界へ届きます。

画廊による作品の選択や、美術館の収蔵が、現在ベーコンの代表作と考えられる作品群を形づくってきました。作品の強さと、それを支える制度の歴史を併せて見ることで、作家の名声の形成をより立体的に理解できます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代)

7 Reece Mews——画像に囲まれた制作室

1961年に移った小さなアトリエ

1961年、ベーコンはロンドンのサウス・ケンジントン、7 Reece Mewsに移りました。比較的小さな制作室には、本、雑誌、写真、絵具、画材が大量に集積し、床に重なっていきます。画家はこの場所を長く使い続け、晩年まで多くの作品を制作しました。

散乱したアトリエはベーコンを象徴する写真として有名になりました。その魅力的な印象の背後には、実際に何を集め、何を使い、どう扱ったかという記録があります。死後に移設・調査されたアトリエからは約7,000点の物品が記録されました。その作業はアトリエを単なる伝説的な場所から、制作過程を研究できる資料の集積へ変えました。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|7 Reece Mewsのアトリエ)

折れた写真、汚れた図版が果たした役割

ベーコンは写真や印刷された図版を折り、切り、床に置き、絵具で汚すことがありました。複製画像は清潔な参考資料として保管されるだけではなく、制作中に直接触れられる物でした。写真の傷や折り目によって図像が分断され、予想外の部分が強調されることもあります。

画像をどのように扱ったかを知ることで、絵画の人物像が写真を忠実に引き写すことで生まれたという説明から先へ進めます。複製の人物は折り目を持つ紙になり、その後、絵具によって画面の身体へ作り替えられます。(参照:ヒュー・レーン美術館|ベーコンと過去の美術)

美術史の図版も同じ部屋にある

アトリエの資料にはベラスケス、レンブラント、ミケランジェロ、ゴッホなど過去の作家と、同時代の作品の複製が残っています。ベーコンは古典と現代を異なる棚へ整理するより、同じ画像の集まりとして繰り返し見ていました。ジャコメッティの作品に関する資料もそこに含まれます。

アトリエで資料が存在することだけで、特定の絵画に直接影響したと断定することはできません。資料と作品を照合すれば、ある構図や動作、色の使い方がどのように変えられたかを調べられます。この慎重な比較が、複製画像を用いる制作を理解する鍵になります。(参照:ヒュー・レーン美術館|ベーコンと過去の美術)

友人の写真から肖像を描く

ジョン・ディーキンに依頼した撮影

ベーコンは友人や恋人を描く際、写真家ジョン・ディーキンが撮影した写真を数多く使いました。ルシアン・フロイド、イザベル・ローソーン、ヘンリエッタ・モラエス、ジョージ・ダイアーらの顔や身体が、写真を経由して絵画へ移されます。画家は相手がアトリエにいる状態より、写真を見ながら描く方を好むと語っています。

親しい人物の写真を使うことは、対象への感情的な近さと制作上の距離を同時に生みます。本人を見ていると生じる気遣いや会話から離れ、画像を折り、切り、変形しても、人物の存在を画面に残そうとしました。これは長時間モデルと対面するジャコメッティの方法と強く対照をなします。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代)

変形しても人物が消えない肖像

ベーコンの肖像では、目と鼻の位置がずれ、顔の肉が流れたように見えても、知っている人物の姿として認識できる場合があります。輪郭の一致を弱めながらも、頭部の向き、姿勢、顔の特徴を残すことで、親しい相手の強い印象を作り出します。

この方法における「似ている」は、写真の情報を正確に保つことと異なります。相手についての記憶、絵具の偶然、複製写真の構図が衝突する中で、画家が求めた人物の存在感が生まれます。ジャコメッティの肖像とも共通する問いですが、そこへ到達する工程は異なります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代)

写真が生む自由と写真からの距離

写真は瞬間を止め、すでに平面へ切り取られた像を提供します。ベーコンはその画像を使うことで、モデルが動いたり、描かれている本人が反応したりする状況から距離を取ることができました。同時に、写真の中の身体は画家の手によって大きく変わります。

写真が正確な資料であるほど、その姿を崩す行為には強い変化が生じます。ベーコンは写真を最終的な正解とするより、絵画で新たな身体の感覚へ至るための装置として扱いました。作品の制作は、像を参照することと、その像を変えることの両方から成り立っています。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代)

1962年テート回顧展と大三連画

《Three Studies for a Crucifixion》1962年

1962年、ベーコンはロンドンのテート・ギャラリーで大規模な回顧展を開きました。その開催に合わせて完成させた《Three Studies for a Crucifixion》は、各画面がおよそ2メートルの高さを持つ三連画です。1944年の三枚組に比べて人物も空間も大きく広がり、観客はひとつの絵の前に止まるだけでは全体を見通せません。

肉体の断片、寝台、人物、広い色面が三つの画面に配置され、宗教画の磔刑を思わせる題名が付けられています。ベーコンは磔刑という主題を、幅広い感情や感覚を置くことのできる強い構造として重視しました。具体的な物語を順番に説明するための三連画とは、異なる使い方です。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《磔刑のための三習作》1962年)

左パネルの塗り直しが明らかにする制作

ベーコンのカタログ・レゾネに関するエステートの解説では、1962年の三連画の左パネルが、いったん淡い色で描かれた後、同年3月に大きく塗り直された経緯が紹介されています。巨大な画面も、最初から完全に決まった構成へまっすぐ進んだものではありません。

絵具を重ねるたびに、人物と背景の関係が変化します。完成した画面からは見えにくい試行錯誤を、写真や資料から確かめられることには大きな意味があります。偶然の痕跡を生かしながら、厳しい選択と改変を繰り返す画家の実像がここに現れます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1962年の三連画の研究)

回顧展が作る「1944年からの作家像」

ベーコンは若い頃の多くの絵を自ら破棄し、1944年の三連画を重要な出発点として扱いました。1962年のテート回顧展でも、その後の作品が中心となり、現在よく知られる作家像が明確になっていきます。作品を捨てるという本人の行動も、残る作品の歴史を決める要因でした。

展覧会で何を見せるか、どの時期を始まりとするかによって、観客が理解する作家の歴史は変わります。美術館は作品を保管するだけでなく、作品群の並びによってその重要性を説明する場所でもあります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代)

1963〜1965年——親しい人々と新しい大画面

ジョージ・ダイアーが作品に現れる

1963年頃からベーコンの生活と絵画にジョージ・ダイアーが重要な存在として現れます。ダイアーは恋人としても肖像のモデルとしても知られ、以後のベーコンは特定の友人や親しい人物を繰り返し描きます。宗教的な権威を示す教皇像や匿名的な男性だけでなく、よく知る顔が主要な題材になっていきました。

肖像は、本人が近くに座っていたことの記録とは限りません。写真をもとに描かれた顔は、記憶や感情を含みつつ大きく変形されます。人物をよく知ることと、写真の像を自由に扱うことが両立していました。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代)

1965年《After Muybridge》

1965年の《After Muybridge》では、マイブリッジの異なる身体写真に由来する人物が、一つの奇妙な場面に組み合わされます。連続写真に含まれた運動は元の科学的な配列から離れ、絵画独自の空間と時間の中へ移されました。身体の関係は写真的な記録の説明から大きく変わっています。

ベーコンは写真に依存する画家と見える一方、その写真をどこまで作り変えられるかを繰り返し検証していました。1960年代に入っても、写真が人体を分解する方法と、絵具が人体を結び直す方法との間で、新しい組み合わせを探し続けていたのです。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代の絵画)

1965年《Crucifixion》への再訪

1965年にもベーコンは磔刑を題材とした大きな三連画《Crucifixion》を制作しました。1944年から続く題材は、宗教画の具体的な場面を再現するより、身体の傷つきやすさ、吊られた肉の重さ、複数の像が同時にある状況を考える枠組みとして生き続けています。

画家は同じ題名へ何度も戻りながら、作品の色、規模、身体の姿を更新しました。ひとつの主題から離れられなかったという説明より、歴史的に強い形を持つ図像を何度も組み替え、新しい絵画へ作り直した過程として捉えることができます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代の絵画)

心理・感覚・戦争|二人の具象をどう読み解くか

「人間の内面」という言葉が捉える部分

ジャコメッティの人物には孤独や存在の不安を感じる鑑賞者が多く、サルトルも彫刻を人間の実存や他者との関係から解釈しました。ベーコンの歪んだ顔や叫び、肉体の表現には、恐怖や欲望、苦痛を読み取ることができます。「心理的・哲学的なリアリティ」という言葉は、こうした作品の受け止められ方を説明するうえで意味を持ちます。

制作の中心へ目を向けると、ジャコメッティは人間が見える条件を、ベーコンは身体の画像と絵具の働きを追究していました。内面を写し取るという一つの目的が二人を結びつけていたことを示す資料は確認できません。作品が鑑賞者に生じさせる心理的な感覚と、作家自身が解こうとした造形上の課題を並べて記述することで、主題をより具体的に理解できます。(参照:ジャコメッティ財団|戦後作品と実存主義的解釈)

ベーコンの身体は感情の図解を超える

ベーコンは口を開いて叫ぶ人物、ねじれた胴体、格闘するように重なり合う身体を描きました。そうした像は強い感情を喚起しますが、誰が何を感じているのかを具体的な物語として説明する構図にはなっていません。彼が関心を向けたのは、絵画という物質を通して、鑑賞者に直接届く感覚を成立させることでした。

ベーコン・エステートが紹介する研究では、身体が激しく変化したように見える絵画にも、画像の選択、形の組み立て、偶然の効果を調整する判断が働いていたことが論じられています。人物の苦悩をそのまま吐き出した絵と考えると、写真の参照、色面の構成、造形上の工夫が見えにくくなります。心理的な読みを深めるためにも、絵具がどのように作用しているかを見る必要があります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|制作方法と感覚の構成)

第二次世界大戦と「傷ついた人間像」という解釈

1945年のヨーロッパには、占領と戦闘の記憶、強制収容所の映像、都市の破壊、戦後の生活再建という現実がありました。MoMAが2015年に開催した「Soldier, Spectre, Shaman」展も、戦争の前後に人間の身体を扱った美術家たちの表現を、創造と実存の危機に対する多様な応答として考察しています。ジャコメッティの細い人体は、この歴史の中で人間の脆さを表す像として受容されてきました。

1944年のベーコンの三連画も、1945年春にロンドンで公開されたことで、戦争終結直前の時代の空気と強く結びついて記憶されています。そこに戦後の不安や暴力を読み取ることには美術史的な根拠があります。作品の成立には、戦争以前からの制作上の関心、古典絵画、写真や映画の資料が重なっていました。歴史的な受容と個々の作家の制作過程を併せて扱うことが大切です。(参照:MoMA|「兵士・亡霊・シャーマン」戦争と身体をめぐる展覧会)

ベーコンと実存主義——思想的な類似と実際の関係

ベーコンの人物には孤独、死、肉体の不安定さが現れるため、後世の展覧会や批評では実存的な不安と結びつけて解釈されてきました。1950年の《磔刑の断片》についてエステートが紹介する作品研究も、二つの像が存在を賭けて争っているように見えると論じています。こうした評価はベーコンの受容史を考えるうえで重要です。

ジャコメッティにはサルトルが1948年の個展図録へ批評を寄せたという具体的な出来事があります。ベーコンの場合、同じ形でサルトルの思想を制作の指針にしたことは確認できません。二人の作品をともに「実存主義的」と呼ぶときは、批評における類似と、実際に確認できる人物・思想のつながりを区別して考える必要があります。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《磔刑の断片》1950年の作品研究)

伝統を引き継ぎ、具象の新しい可能性を作る

1945年以後に抽象絵画が大きく展開したことは、人物を主題とする美術の意味を変えました。ジャコメッティは古代エジプトの立像を研究し、現実の人物との距離を彫刻に取り込みました。ベーコンはベラスケスの教皇像を写真と映画のイメージに結びつけ、身体を変形させました。過去の美術を深く知りながら、制作するための条件を組み替えた点に、二人の革新が見られます。

その結果、人間の姿は、顔の輪郭を正確に再現するための対象から、他者をどう見るのか、身体をどう感じるのか、絵や彫刻が現実にどう働きかけるのかを考える場へ広がりました。この変化こそ、戦後パリとロンドンの具象美術を西洋美術史の重要な出来事として位置づける理由の一つです。(参照:ジャコメッティ財団|古代美術の現代的な受容)

二人の身体はどのように空間を変えたか

ジャコメッティの距離とベーコンの接近

ジャコメッティの立像を見ていると、近づいても人物が遠くにいるような感覚が残ります。身体の細さと周囲の空間の広がりによって、鑑賞者と像の距離が強調されます。ベーコンの人物は肉や歯、肌の変形が画面いっぱいに迫り、狭い枠に囲まれることで強い近さを感じさせます。

ここで重要なのは、両者を「遠い/近い」という言葉の組み合わせに閉じ込めることより、その感覚がどう造形されたかです。一方は立体の寸法と台座、削られた表面によって、もう一方は絵具の質感、色面、描かれた枠によって、観客の身体と像の関係を作りました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|記念碑構想)

ジャコメッティの目とベーコンの口

ジャコメッティの肖像では、目の位置や視線が人体全体の存在感を左右します。ベーコンの教皇像では、口が強烈な形として画面に現れ、歯と暗い口腔が他の部分を押しのけることがあります。どちらも顔の一部分を強調しますが、その部位が画面にもたらす効果は大きく異なります。

頭部を細く削っても目が残れば人物として現れ、顔を大きく変形しても口が強く開けば身体的な緊張を感じます。二人の造形は、人間の全身を安定した比例で描くことから距離を取り、どの部分が人物の存在を成立させるのかという問題を突き詰めました。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|肖像の研究)

広場と檻——周囲の空間の異なる役割

ジャコメッティの広場では、複数の人物の間に余白があり、その空間を観客が頭の中で歩けます。ベーコンの描いた枠は透明であっても人物を囲い、画面の外へ出て行くことの難しさを感じさせます。双方とも人物の周りを単なる背景として扱っていません。

彫刻の空間は観客が実際に移動して測ることができ、絵画の空間は平面上に作られた関係として経験されます。二人の作品を並べることで、媒体が違うと人間像と周囲の世界の結びつけ方も変わることが見えてきます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1950年代の絵画)

肖像、制作時間、材料を比較する

目の前のモデルと写真のモデル

ジャコメッティはディエゴ、アネット、矢内原伊作を長時間見続け、顔の印象が変わるたびに線や物質を修正しました。ベーコンは友人や恋人を知りながら、写真を主要な手がかりとして描く方法を選びました。両者の違いは、見ている人と描く人が同じ場所にいるかどうかに深く関わっています。

同じ「肖像」というジャンルの内部でも、モデルとの距離はさまざまです。写真がない方が正しいという価値判断はここでは役立ちません。観察の時間を長く引き伸ばす制作と、複製画像を自由に変形する制作のそれぞれが、人物の存在を表す別の可能性を開いています。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期と矢内原伊作)

削り続ける石膏と偶然を残す絵具

ジャコメッティは彫刻を付け足しては削り、場合によって途中の状態を別の型として残しました。ベーコンは絵具が思わず作った跡を取り込み、反対にうまくいかない絵を破棄することもありました。二人とも初めに完成形を決めて機械的に進める制作から離れています。

偶然の痕跡は、何も考えずに作ることと同じではありません。どの痕跡を残し、どこを直し、いつ止めるかが重要です。石膏と油絵具という異なる材料が、作者の判断と予想外の結果をそれぞれ画面や立体の中に残します。(参照:MoMA|《Painting 1946》の保存修復研究・前編)

何度も作り直される連作の意味

ジャコメッティは《ヴェネツィアの女たち》のように、一つの像の変化を複数の状態で残しました。ベーコンは教皇像や磔刑を繰り返し描き、毎回別の構図と色彩を試みました。どちらもひとつの作品によって課題を完全に解決することを最終目標としていません。

連作を見ると、代表的な一作だけでは分からない変化が現れます。ある状態から次へ移る理由、作者が残した部分と壊した部分を比べることで、作品は完成した結果であると同時に、制作が続いていく時間の記録であることが分かります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)|成熟期の作品)

戦後の身体をめぐる批評と社会的な問題

「人間一般」という言葉が見えなくするもの

ジャコメッティの細い立像は、戦後を生きる普遍的な人間の象徴として紹介されることがあります。ベーコンの変形した肉体も、人間の不安や苦痛を示す像として広く語られてきました。こうした批評は作品が長く受け継がれる理由の一部を説明しています。

その普遍性だけで話を終えると、歩く男性と立つ女性というジャコメッティの反復や、同性愛が法的に抑圧されていたベーコンの社会的条件が見えにくくなります。人間についての大きな言葉と、個々の作者の生活や社会制度を、複数の尺度として重ねて考える必要があります。(参照:バービカン・センター|戦後英国美術の展覧会資料)

性別と身体の扱いを現在から読む

ジャコメッティの成熟した彫刻では、男性の歩行と女性の静止が繰り返し選ばれました。ベーコンは男性同士の接触や親しい男性の顔を描き、伝統的な男性肖像の権威をも崩していきました。同じ「人間像」を扱う作品でも、描かれる身体には性別や欲望の歴史が存在します。

歴史的な作品に現代の言葉だけを当てはめると、当時の複雑な状況を取りこぼすことがあります。制作年、展覧会、批評、法制度を確認しながら作品の見え方を検討することで、各作家の造形と社会的な条件を具体的に結びつけられます。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代)

アトリエ神話と美術館の評価

ジャコメッティの狭いアトリエとベーコンの散乱した制作室は、二人の天才性を象徴する写真として流通してきました。作品は確かにそのような場所で作られています。そこから国外へ届くまでには、石膏型を作る人、写真を撮る人、画商、保存担当者、美術館が関わりました。

作家を独立した存在として称賛することと、作品を支えた労働や制度を記録することは両立します。どの作品が代表作として知られるようになったかも、収蔵や回顧展の歴史と結びついています。制作と評価の双方を知ることで、二人の仕事の豊かさがより鮮明になります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|アトリエの再現)

1945〜1965年の戦後具象をどう受け取るか

パリとロンドンに並行して生まれた新しさ

戦後美術史では、パリからニューヨークへの中心移動が重要な出来事として語られます。同じ時期、パリのジャコメッティとロンドンのベーコンは、異なる場所で人間の姿を追究し続けました。美術の中心をひとつに決める視点を広げると、国際的に並行していた多様な実験が浮かび上がります。

ジャコメッティは1948年にニューヨークの画廊で発表し、ベーコンの《Painting 1946》も同年にMoMAへ収蔵されました。二人はヨーロッパに制作の場を置きながら、すでに戦後の国際的な美術制度と結びついていました。パリとロンドンの具象作品を、アメリカ抽象表現主義の周辺として扱うだけでは説明できない理由です。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|《Painting 1946》再展示)

周囲にいたほかの具象作家

戦後ヨーロッパの具象はジャコメッティとベーコンだけから成るものではありません。パリではジェルメーヌ・リシエ、ジャン・デュビュッフェ、ジャン・フォートリエが身体や物質を探り、ロンドンではルシアン・フロイドやフランク・アウエルバッハらが人物を描き続けました。作品の違いを比べることで、具象の歴史がより広く見えてきます。

今回の二人を並べるのは、ヨーロッパ全体を二人に代表させるためではありません。異なる媒体と制作方法から身体を組み立てた二つの例として捉えることで、ほかの作家の作品を見る際にも、その技法と表現上の問題に目を向けやすくなります。(参照:アルベルト・ジャコメッティ財団|作家略歴)

具象表現が残した問い

ジャコメッティは人間を視覚の中でどの距離に捉えるかを彫刻へ移し、ベーコンは印刷された像を崩しながら身体の強い感覚を絵画へ作り直しました。両者は人物を描き、彫るという長い歴史の中で、従来の比例や仕上げ、物語を変えていった作家です。

1945〜1965年の戦後具象を理解すると、抽象と具象を優劣や新旧の関係として並べるだけでは見えなかった問いが現れます。人間はどのように見えるのか。人物を表すためにどの資料を選び、どこまで変形できるのか。どの材料と空間によって、像が生きた存在として感じられるのか。その探究が、この時代の重要な成果でした。(参照:フランシス・ベーコン・エステート|1960年代の絵画)

年表|1935–1966

作品と展覧会の変化が並行していたことを見渡せるよう、戦前の起点を含めて主な出来事を整理しました。

  1. 1935 ジャコメッティがモデルを見て頭部を作る研究へ本格的に戻る。
  2. 1942 ジャコメッティがジュネーヴで制作を続け、戦時中の極小像を追究する。
  3. 1944 ベーコンが《磔刑図の基部にいる人物のための三習作》を制作する。
  4. 1944–1945 ジャコメッティが《荷車の女》を制作する。
  5. 1945年4月 ベーコンの1944年の三連画がロンドンのルフェーヴル画廊で公開される。
  6. 1945年9月 ジャコメッティがパリのアトリエへ戻る。
  7. 1945年10月 サルトルがパリで「実存主義はヒューマニズムである」を講演する。
  8. 1946 サルトルの講演が刊行される。
  9. 1946 ベーコンが《Painting 1946》を制作する。
  10. 1946–1947 ジャコメッティが細長い人体像と頭部の研究を深める。
  11. 1947 ジャコメッティが《歩く男》《指さす男》《鼻》などを発表・制作する。
  12. 1948年初め ジャコメッティの個展がニューヨークのピエール・マティス画廊で開かれ、サルトルの文章が図録に掲載される。
  13. 1948 ジャコメッティが複数人物を広い台座に置く作品を発展させる。
  14. 1948年10月 MoMAがベーコンの《Painting 1946》を購入する。
  15. 1948–1949 ベーコンが《Head》連作を制作する。
  16. 1949 ベーコンが《Head VI》を制作し、教皇像の変奏を展開する。
  17. 1949 ジャコメッティがアネットと結婚する。
  18. 1951–1952 ベーコンがアフリカ南部を訪れ、野生動物にも関心を深める。
  19. 1953 ベーコンが《Two Figures》《Study of a Baboon》《Study for Portrait VII》などを制作する。
  20. 1954 ベーコンがヴェネツィア・ビエンナーレのイギリス館に参加し、《Man in Blue》連作を制作する。
  21. 1955–1956 ジャコメッティが矢内原伊作との交流を深め、長い肖像制作を始める。
  22. 1956 ジャコメッティが《ヴェネツィアの女たち》の石膏像をビエンナーレで発表する。
  23. 1957 ベーコンがゴッホの《タラスコンへ向かう画家》をもとに連作を制作する。
  24. 1958 ベーコンがマールボロ・ファイン・アートへ画廊を移す。
  25. 1958年末–1959 ジャコメッティがチェース・マンハッタン広場の記念碑構想に取り組む。
  26. 1959–1960 ジャコメッティが大型の《歩く男》像を制作する。
  27. 1961 ベーコンがロンドンの7 Reece Mewsへアトリエを移す。
  28. 1962 ジャコメッティがヴェネツィア・ビエンナーレで彫刻部門大賞を受賞する。
  29. 1962 ベーコンがテート回顧展に合わせて《Three Studies for a Crucifixion》を制作する。
  30. 1963 ジョージ・ダイアーがベーコンの肖像制作の重要な対象になる。
  31. 1965 ジャコメッティの大規模な回顧展がロンドンやニューヨークなどで開かれる。
  32. 1965 ベーコンが《After Muybridge》《Crucifixion》などを制作する。
  33. 1966 ジャコメッティが死去する。

まとめ|戦後の人間像が拓いたもの

アルベルト・ジャコメッティとフランシス・ベーコンは、人間の身体を描き、彫るという長い歴史の中で、別々の問題へ進んでいきました。ジャコメッティは人物を見る距離、石膏に残る修正の跡、台座と人体の比率から、他者がそこにいるという感覚を追究しました。ベーコンは写真や映画、過去の絵画の複製、絵具の不安定な反応から、人物の肉体を変形させました。二人の作品には、戦争の時代を生きた人間像として読まれてきた歴史があります。同時に、その形は長い観察、材料実験、美術史上の引用、親しい人々との関係から生まれています。

1945年から1965年の美術を見るとき、抽象絵画の拡大と並行して、具象を通して視覚や身体そのものを問い直す研究が続いていたことは欠かせません。ジャコメッティとベーコンの違いを保持することで、人間という主題が持つ可能性と、美術作品がそれを成立させる多様な方法を理解できます。

参考資料・出典

ジャコメッティ財団およびアルベルト・ジャコメッティ財団(チューリヒ)の作品記録、フランシス・ベーコン・エステートの作品総目録・作家年譜、MoMAの作品保存修復研究などを参照して構成しました。作品の制作年や展覧会年は各所蔵館・財団の記録に基づいています。制作工程や作品の意味を考察する部分では、確認できる史実と、作品の造形に対する解釈が区別できるように記述しました。

主要参照資料は以下のとおりです。各小節の最終段落にも、その論点に関連する資料へのリンクを付けています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY