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Art History

1945–1965

戦後ヨーロッパの人間像

ジャコメッティとフランシス・ベーコン、身体、距離、叫び、空間

第二次世界大戦後のヨーロッパ美術を、抽象絵画が具象を追い越していく物語としてだけ見ると、同じ時代に人間の身体を執拗に見続けた作家たちの重要性が見えにくくなります。ParisのAlberto GiacomettiとLondonのFrancis Baconは、その代表的な二人です。Giacomettiは人間を極端に細くし、Baconは肉体を押しつぶすように変形しましたが、どちらも「人間像を捨てる」方向には進みませんでした。

ただし、この二人を一つの運動として扱うことはできません。GiacomettiはSwiss-bornの彫刻家で、戦前にはCubismやSurrealismを経て、1935年以降はモデルを見て頭部と身体を作り直す研究へ戻りました。BaconはIreland生まれでLondonを拠点とした画家で、ほとんど正式な美術教育を受けず、写真、新聞、映画、古典絵画の複製を素材にして人物像を組み立てました。二人の間に共通の宣言や共同活動があったわけではありません。

それでも並べて見る価値があります。戦後の抽象が「絵画や彫刻は現実の人物を再現しなくても成立する」という可能性を拡張した時代に、二人はむしろ具象を手放さず、「人間は本当にどう見えるのか」「身体を画面や空間へ置くとはどういうことか」という問いを徹底しました。具象を守ったのではなく、具象そのものを壊して作り直したのです。

Giacomettiの問題は距離でした。目の前の人物を触れられる量塊として作ると、自分が実際に見ている人物とは違ってしまう。遠くに立つ人は視覚の中では非常に小さく、身体の幅は消えかけ、頭部や目だけが強く残る。彼はその経験を彫刻へ移そうとした結果、戦時中には指先ほどの小像を作り、戦後には逆に等身大でありながら極端に細い立像へ進みました。

Baconの問題は像の衝突でした。彼は友人を描く場合でもモデルを目の前に置くことを好まず、写真を使いました。Eadweard Muybridgeの連続写真、Sergei Eisenstein《戦艦ポチョムキン》の映画スチル、Diego Velázquez《教皇インノケンティウス10世》の複製、動物写真、新聞写真が一つの画面で混ざります。写真を写すのではなく、複数の像をぶつけることで、生身の人間以上に強い「感覚の事実」を作ろうとしました。

二人の空間も対照的です。Giacomettiの人物は広い台座や広場の上にぽつんと立ち、他者とすれ違いながら接触しません。Baconの人物は透明な箱、円形の囲い、暗い室内、カーテンのような線の中へ押し込まれます。一方は距離によって孤立し、もう一方は近すぎる閉鎖空間によって孤立する。その違いは、戦後の「孤独」や「存在」という抽象的な言葉だけでは説明しきれない、具体的な造形の差です。

また、二人を第二次世界大戦の「トラウマの表現」と一括することにも注意が必要です。Baconの《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》は1944年に制作され、1945年のLondonで初公開されました。Giacomettiは戦時中Switzerlandで制作し、1945年にParisへ戻ります。戦争は両者が活動した歴史的条件ですが、細い人物や歪んだ顔をすべて「戦争の傷」と説明すれば、実際の制作方法、視覚研究、古典作品との関係、私生活、写真、彫刻技法が消えてしまいます。

Giacomettiの戦後作品はJean-Paul Sartreによって実存主義と結びつけられました。1948年New YorkのPierre Matisse Galleryで開かれた戦後初の個展に、Sartreは《La Recherche de l’absolu》を書き、人間を「距離において」作る彫刻として解釈しました。この文章は戦後Giacometti像を決定的に形作りますが、Giacomettiの作品を哲学の図解へ還元すべきではありません。Egyptian sculpture、モデルとの長時間の制作、台座、石膏の表面、視線の研究も同じくらい重要です。

Baconも長く「戦後の不安」「恐怖」「叫び」の画家として読まれてきました。それは作品の一面を捉えていますが、肉体の変形だけを心理的苦悩として読むと、写真の切り抜き、画面上の事故、無地の色面、古典絵画の引用、同性愛が犯罪化されていたBritainの社会、友人や恋人との関係が見えにくくなります。彼自身は悲劇的な物語を説明するより、絵画が観客へ直接感覚を作用させることを重視していました。

この記事では1945年から1965年を中心に、Giacomettiの《Walking Man》《The Nose》《The Square》《Women of Venice》、Annette、Diego、Isaku Yanaiharaの肖像、そしてBaconの《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》《Painting 1946》、教皇像、Muybridgeを用いた男性裸体、《Man in Blue》、1962年の大三連画までを追います。二人を似ていると証明するのではなく、違いを並べることで、戦後ヨーロッパで人間を表すことがどれほど多方向へ開かれていたかを見ていきます。

CONTENTS

  1. まず、二人は同じ運動ではない
  2. 抽象の時代になぜ人物を残すのか
  3. 戦後の身体は一つではない
  4. Giacometti — Surrealismの後から考える
  5. 1935年 — 「頭部」が未解決になる
  6. 「知っている人」ではなく「見えている人」
  7. 戦時中のGeneva
  8. 消えそうな小像
  9. マッチ箱で持ち帰れる大きさ
  10. 1945年Parisへ戻る
  11. 《Woman with Chariot》
  12. モデルと記憶を往復する
  13. 1946年の肖像
  14. 1946年に見た死
  15. 《The Nose》1947
  16. 何度も作り直された《The Nose》
  17. 《Man Pointing》1947
  18. 《Walking Man》1947
  19. Egyptian sculptureの記憶
  20. 粗い表面
  21. 光が身体を作る
  22. 1948年Pierre Matisse Gallery
  23. Sartre《The Search for the Absolute》
  24. 「実存主義の彫刻家」というラベル
  25. 彫刻に「距離」を固定する
  26. 台座も作品になる
  27. 人物と台座の比率
  28. 《Three Men Walking》1948
  29. 《The Square》1948
  30. 街路で見た人間
  31. 歩く男/立つ女
  32. 立つ女性
  33. 頭は石、女性は木
  34. 23平方メートルのatelier
  35. 狭いatelierから広大な空間を作る
  36. 粘土、石膏、bronze
  37. 石膏は単なる途中段階ではない
  38. Diego Giacometti
  39. Annette Giacometti
  40. Annetteを「muse」だけにしない
  41. Annetteの肖像
  42. 肖像は心理描写ではない
  43. 目
  44. Jean Genet
  45. 「死者を見守る番人」
  46. Isaku Yanaihara
  47. 終わらないpose
  48. 「見える通りに頭を写す」不可能性
  49. 実物と記憶を交互に使う
  50. Giacomettiの絵画
  51. 1956年Venice Biennale
  52. 一体から複数の状態を残す
  53. seriesは単なる複製ではない
  54. 正面性
  55. Chase Manhattan Plaza計画
  56. New Yorkを見ずにNew Yorkの広場を考える
  57. 1959–60年の《Walking Man》
  58. 実現しなかったmonument
  59. 1962年Venice Grand Prize
  60. 1965年の大回顧展
  61. 1966年の死
  62. Francis Bacon — 別の人間像へ
  63. 《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》1944
  64. 1945年4月の初公開
  65. 三連画という形式
  66. Crucifixionを構造として使う
  67. Furies
  68. 《Painting 1946》
  69. 「鳥を描こうとした」という回想
  70. 偶然を受け入れる
  71. 肉と屠殺
  72. 1948年MoMA収蔵
  73. 未下塗り面のcanvas
  74. 消しにくい支持体
  75. 1948–49年《Head》series
  76. 《Head VI》1949
  77. Velázquez《Pope Innocent X》
  78. 原画を見ないという選択
  79. 複製画像から絵画を作る
  80. 《Battleship Potemkin》の叫ぶ看護婦
  81. 口はなぜ重要なのか
  82. 叫びは物語の説明ではない
  83. 透明な「檻」
  84. space-frameは輪郭でも建築でもない
  85. 1949年、人間のfigureが中心になる
  86. Eadweard Muybridge
  87. 写真をそのまま写さない
  88. 動物写真
  89. 《Study of a Baboon》1953
  90. South Africaへの訪問
  91. 《Two Figures》1953
  92. 同性愛が犯罪化されていたBritain
  93. 「暗号化された同性愛」だけではない
  94. Peter Lacy
  95. 《Man in Blue》1954
  96. 密室と同性欲望
  97. suitの人物
  98. 1953年のPope series
  99. 一枚で解決しない
  100. 写真を「資料」として破壊する
  101. John Deakin
  102. モデルへの向き合い方の正反対
  103. 1954年Venice Biennale
  104. 1956年Self-Portrait
  105. Van Gogh series 1957
  106. 失われた原画を複製から変奏する
  107. Soutineへの関心
  108. 1958年Marlborough Fine Artへ
  109. 1961年7 Reece Mews
  110. 「混沌」が画像を生む
  111. 約7,000点のstudio資料
  112. 過去の美術を複製で集める
  113. Baconの資料庫にGiacomettiもいた
  114. 1962年Tate retrospective
  115. 《Three Studies for a Crucifixion》1962
  116. 大きな三連画
  117. 1962年とPeter Lacyの死
  118. 1963年George Dyer
  119. 知人の顔
  120. 写真が作る距離
  121. 《After Muybridge》1965
  122. 《Crucifixion》1965
  123. 距離のGiacometti、接近のBacon
  124. 細さと肉
  125. 目と口
  126. 広場と檻
  127. bronzeとcanvas
  128. 生身のmodelとphotograph
  129. memoryとreproduction
  130. 偶然と修正
  131. 制作時間
  132. seriesという方法
  133. 古典美術を捨てない
  134. EgyptとVelázquez
  135. 「具象への回帰」ではない
  136. 「感情を歪めたExpressionism」でもない
  137. 戦争は単一原因ではない
  138. 「存在」という言葉を受容史として読む
  139. ParisとLondon
  140. Britainの具象
  141. Parisの具象
  142. Venice Biennaleという国際舞台
  143. New Yorkとの関係
  144. museumが代表作を作る
  145. 作家自身の写真像
  146. atelier神話をそのまま信じない
  147. 制作は完全に単独ではない
  148. Baconの額装とglass
  149. Giacomettiは観客の歩行を作品へ入れる
  150. Baconは観客を画面の外に固定する
  151. 動く身体
  152. 静止する身体
  153. 孤立
  154. 「普遍的人間」という言葉に注意する
  155. Giacomettiのgendered types
  156. Baconのsexualityを周辺化しない
  157. 暴力
  158. 美しさの再定義
  159. 「似ている」とは何か
  160. 「事実」を作り直す
  161. 戦後Europeを二人だけで代表させない
  162. 1945–1965年の流れ
  163. ART HISTORYとしてのまとめ
  164. 次へ — Nouveau Réalisme、Yves Klein、ZERO
  165. 参考資料・出典

まず、二人は同じ運動ではない

GiacomettiとBaconには共通のグループ、宣言、展覧会運動はありません。この記事で二人を並べるのは、戦後に人間像を捨てなかった二つの異なる方法を比較するためです。

抽象の時代になぜ人物を残すのか

1940年代後半から1950年代にはAbstract Expressionism、Art informelなど非具象的な作品が国際的に注目を集めました。その環境で人物を描くことは保守的な選択とは限らず、人物という最も古典的な主題をどこまで変えられるかという急進的な実験にもなりました。

戦後の身体は一つではない

戦後EuropeにはGiacomettiとBaconのほか、Jean Dubuffet、Germaine Richier、Lucian Freud、Frank Auerbachら、それぞれ異なる身体像が存在します。したがって「戦後の人間像」を一つの不安な表情へまとめることはできません。

Giacometti — Surrealismの後から考える

Giacomettiは1930年代前半にSurrealismへ参加し、《Suspended Ball》《The Palace at 4 a.m.》などで重要な存在になりました。しかし1935年頃、再びモデルを前にして頭部を作ることへ向かったことでSurrealist groupから離れます。

1935年 — 「頭部」が未解決になる

Fondation Giacomettiは、頭部、とくに目を生涯の中心問題として位置づけています。Giacomettiにとって頭は古典的で簡単な主題ではなく、目の前の人間が生きているという事実をどう形にできるかという未解決の問題でした。

「知っている人」ではなく「見えている人」

人物の鼻や頬の構造を知識で再現するのではなく、実際の視覚経験を作りたいと考えました。似顔絵としての正確さより、ある距離から一瞬に見える頭部の大きさ、目の位置、空間との関係が重要になります。

戦時中のGeneva

Paris占領期、GiacomettiはSwitzerlandへ移り、Genevaを中心に制作しました。そこで作られた人物像は次第に小さくなり、最終的には非常に小さな彫刻へ縮小します。

消えそうな小像

Fondation Giacomettiの資料によれば、彼は遠くに見えた人物を「その距離で見えた大きさ」にしようとして彫刻を縮めました。細部を見ようと近づくほど全体が失われるため、視覚上の距離を保とうとすると像が小さくなったのです。

マッチ箱で持ち帰れる大きさ

戦後Parisへ戻る際、小さな作品をマッチ箱に入れて運んだという逸話が伝えられています。事実の細部以上に重要なのは、戦前には物体として存在感のあるSurrealist sculptureを作った作家が、戦争期には消失寸前の人間像へ到達したことです。

1945年Parisへ戻る

Giacomettiは戦後Parisへ戻り、46 rue Hippolyte-Maindronの小さなatelierで制作を再開しました。ここから、戦時中の極小像とは別のかたちで「遠くに見える身体」を等身大へ引き延ばすような人物像が現れます。

《Woman with Chariot》

Fondation Giacomettiは1944–45年の《Woman with Chariot》を、戦後の立像へつながるprototypeとして位置づけています。友人Isabelの記憶から作られ、直立する女性が垂直の軸として空間へ現れます。

モデルと記憶を往復する

Giacomettiはモデルを長時間見ながら制作しましたが、記憶から作ることも頻繁に行いました。目の前の観察と、離れた後に残る像の両方を行き来することが重要でした。

1946年の肖像

1946年にはMarie-Laure de Noailles、Simone de Beauvoir、ResistanceのHenri Rol-Tanguyなどを制作しました。重要人物を大きく記念碑化するのではなく、小さな頭部にも強い存在感を与えました。

1946年に見た死

Fondation Giacomettiは、Giacomettiが1921年と1946年に人の死を目撃し、その視覚的記憶が強く残ったと記録しています。死体の開いた口、後ろへ倒れた頭、骨ばった身体は、その後の《The Nose》などを考える一つの背景になります。

《The Nose》1947

《The Nose》では開いた口の頭部が檻のような枠から突き出し、長い鼻が外側へ伸びます。頭部を一つの閉じた量塊として作るのではなく、部分だけが異常に強調され、周囲の空間へ侵入します。

何度も作り直された《The Nose》

Fondation Giacomettiによれば《The Nose》は数年にわたり繰り返し修正されました。これは「一瞬の表現」を固定した作品ではなく、正しい大きさと比率を探して何度もやり直した研究の結果です。

《Man Pointing》1947

戦後の代表的な等身大像の一つでは、細い身体が片腕を横へ伸ばし、もう一方の腕を別方向へ開きます。人物の肉量は減っているのに、指し示す身振りによって周囲の空間が作品へ取り込まれます。

《Walking Man》1947

1947年、Pierre MatisseからNew York個展を提案されたことを契機に、Giacomettiは等身大の《Walking Man》を制作しました。細い脚が前後へ開き、身体の表面は粗く、光を細かな凹凸で受けます。

Egyptian sculptureの記憶

Fondation Giacomettiは《Walking Man》の姿勢にEgyptian artの影響を指摘しています。GiacomettiはLouvreや書籍で古代Egyptの立像を繰り返し見ており、戦後の人物像は「古典から断絶した新しさ」だけでは説明できません。

粗い表面

細い人物像はsmoothなbronzeの棒ではありません。粘土やplasterを付け、削り、刻んだ凹凸が残り、光の方向によって像が震えるように見えます。

光が身体を作る

量塊を大きくする代わりに、細い表面が光を断片的に反射します。人物が固定された塊ではなく、見る位置と照明によって現れたり消えたりする視覚像になります。

1948年Pierre Matisse Gallery

1948年1月、Giacomettiは1934年以来となる大規模な個展をNew YorkのPierre Matisse Galleryで開きました。戦前のCubist・Surrealist worksと新しい細い人物像が同じ空間に展示され、米国の観客は大きな変化を目撃します。

Sartre《The Search for the Absolute》

この展覧会catalogueにJean-Paul Sartreが文章を寄せました。Sartreは、Giacomettiが人間を触れられる彫刻物としてではなく、実際に見える距離の中で作っていると論じ、戦後の受容を決定的に方向づけます。

「実存主義の彫刻家」というラベル

Sartreの文章は重要ですが、それによってGiacomettiを「孤独な人間を表す実存主義作家」とだけ説明するのは狭すぎます。作品の形は、哲学以前に視距離、モデル観察、彫刻材料、古代美術研究という具体的な問題から生まれています。

彫刻に「距離」を固定する

通常の彫刻は観客が近づけば大きく見え、離れれば小さく見えます。Giacomettiは人物をすでに遠く見える形にしておくことで、観客が近づいても「遠くにいる感じ」が消えない像を作ろうとしました。

台座も作品になる

Giacomettiは台座を単なる展示器具として扱いませんでした。Fondation Giacomettiが説明するように、人物と同じ粗い表面で台座を作り、人物と空間の距離を調整する重要な部分へ変えました。

人物と台座の比率

小さな人物を大きなbaseへ置けば、周囲に広大な空間が生まれます。逆に細い等身像を小さなbaseへ立てると、不安定な垂直性が強調されます。scaleは身体そのものだけでなく周囲の余白を作る方法でした。

《Three Men Walking》1948

複数の細い男たちが同じsquare baseを歩きますが、互いに会話したり触れたりはしません。都市の歩行者を思わせる一方、人物間の距離そのものが主題になります。

《The Square》1948

数人の人物が広い台座上を異なる方向へ移動し、すれ違います。一つの物語場面ではなく、街角で他人同士が一瞬だけ同じ空間を共有するような関係です。

街路で見た人間

Fondation Giacomettiは、歩く人物の一部がcafé terraceなどから偶然見た通行人の視覚経験へ結びついていると説明しています。彫刻は英雄的な行進ではなく、日常の遠景にいる匿名の人間を基礎にしています。

歩く男/立つ女

戦後Giacomettiでは、歩く男性像と正面を向いて直立する女性像という型が繰り返されます。これは単純な男女の本質を示すものではなく、彼が選んだ二つの姿勢の体系として見る必要があります。

立つ女性

女性像は両脚を閉じ、正面を向き、木の幹のように垂直に立つ場合が多くあります。歩行する男性像とは異なり、動かないことによって周囲の空間を強く緊張させます。

頭は石、女性は木

Fondation Giacomettiは、彼が頭部とstone、立つ女性とtreeを対応させたと説明しています。人間像を自然から切り離された形としてではなく、同じ成長と消滅の過程に置いていました。

23平方メートルのatelier

46 rue Hippolyte-Maindronのatelierは約23平方メートルしかなく、設備も簡素でした。Giacomettiは1926年から1966年までこの小さな場所を使い続け、大作もここで作りました。

狭いatelierから広大な空間を作る

巨大なstudioを持たなくても、台座上の距離や人物の縮尺によって広場や遠景を作ることができました。物理的な制作空間の狭さと、作品が生む心理的な広さは反比例しています。

粘土、石膏、bronze

Fondation Giacomettiによれば、人物を粘土でmodelingし、plasterへ移し、その表面をknifeやsharp toolで再加工する方法を多用しました。bronzeへcastする一方、plaster自体を展示し、時に彩色することも好みました。

石膏は単なる途中段階ではない

bronzeが完成品、plasterが準備物という単純な序列ではありません。Giacomettiはplaster表面の白さ、修正跡、柔らかさを重要視し、展覧会にもそのまま出しました。

Diego Giacometti

弟Diegoは最も長くポーズを取り続けたモデルの一人であり、atelierで制作を支える存在でもありました。大量の頭部・胸像を通して、同じ顔を見ても「完全には捉えられない」という問題が繰り返されます。

Annette Giacometti

Annette Armは1946年からParisでGiacomettiと暮らし、1949年に結婚しました。Diegoと並んで最も多く描かれ、彫られたモデルの一人です。

Annetteを「muse」だけにしない

Annetteは大量の制作を支えたモデルであるだけでなく、Giacomettiの死後にatelierの壁、家具、道具を保存し、作品資料を守りました。現在のInstitut Giacomettiによるatelier再構成もその保存活動なしには成立しません。

Annetteの肖像

1950年代のAnnette像では、身体が細い線のように立ちながら、顔の周囲には何度も修正した痕跡が集中します。全身の輪郭より、目と頭部に生命の密度を集める制作が見えます。

肖像は心理描写ではない

Fondation Giacomettiは、彼の肖像をモデルの性格説明ではなく「他者性」の翻訳として説明しています。笑顔や感情表現を強めず、目の前にいる他者を最後まで完全には把握できない状態を残します。

目

Giacomettiにとって目は人物が生きていると感じる中心でした。頭部全体を正確に作るより、視線がどこに存在するかによって像全体の生命感が変わります。

Jean Genet

Giacomettiは1954年頃からJean Genetと親しくなり、1957年までmodeling sessionsを行いました。Genetは1957年に《L’Atelier d’Alberto Giacometti》を書き、Sartreとは別の角度からatelierと彫刻を言語化しました。

「死者を見守る番人」

Genetは後に《Women of Venice》を死者を見守る番人のように記述しました。これは作品の唯一の意味ではありませんが、同時代の文学者が細い立像へ死と存在を読み込んだ重要な受容例です。

Isaku Yanaihara

Japanese philosopher Isaku Yanaiharaは1955年にGiacomettiと知り合い、1956年から1961年まで複数回長期にわたってmodelとなりました。Sartre、Genet、Camusの研究者で、《L’Étranger》の日本語訳も行った人物です。

終わらないpose

Yanaiharaは長時間のsittingを記録し、artistとmodelが互いに消耗するほど制作が続いたと書いています。Giacomettiは完成へ近づくより、見れば見るほど修正が必要になると感じました。

「見える通りに頭を写す」不可能性

Fondation GiacomettiはYanaihara seriesを、Giacomettiが「頭を見える通り正確に写す」試みを極限まで進めたものと説明しています。その結果、正確さは写実的な完成ではなく、何度も描き直された線の密度として現れます。

実物と記憶を交互に使う

1956年のYanaihara肖像の一部は、モデルが日本へ帰った後にmemoryから完成されました。観察と記憶は対立せず、同じ人物を捉える二つの方法として行き来します。

Giacomettiの絵画

彫刻だけでなくpaintingでも、人物の周囲に何重もの枠線が引かれ、atelierの空間が斜線で組み立てられます。人物を背景から切り抜くのではなく、見る位置を何度も探る痕跡が画面全体に残ります。

1956年Venice Biennale

GiacomettiはFrench Pavilionに出品し、《Women of Venice》seriesのplasterを六点展示しました。後世にはbronze版が有名ですが、最初の発表では白いplasterの連続として見せられたことが重要です。

一体から複数の状態を残す

David Sylvesterの証言によれば、Giacomettiは同じclay figureを数日かけて変形し、その途中段階をDiegoにplaster castさせました。《Women of Venice》は別々の人物のportraitではなく、一つの制作が変化した複数の状態でもあります。

seriesは単なる複製ではない

各《Woman of Venice》は高さ、厚み、表面が異なります。同じ型を量産したeditionではなく、変形の過程で別々の状態が保存されたseriesです。

正面性

《Women of Venice》は周囲を回って量塊を楽しむtraditional sculptureとは異なり、正面またはprofileから強い像を作ります。身体が空間へ広がるより、薄い垂直面のように立ちます。

Chase Manhattan Plaza計画

1958年末、GiacomettiはNew YorkのChase Manhattan Bank Plazaに設置するmonument projectへの参加を依頼されました。巨大なstanding woman、walking man、地面近くのlarge headという三つのmotifを広場へ配置しようとします。

New Yorkを見ずにNew Yorkの広場を考える

Giacomettiは当時United Statesを訪れたことがなく、architect Gordon Bunshaftから送られた寸法と模型を基に広場を想像しました。実際の都市空間を知らずに、自分のatelier内でscaleを検討した点が興味深いところです。

1959–60年の《Walking Man》

Chase Manhattan計画を契機に、Giacomettiは再び等身大以上の歩行像を制作しました。《Walking Man I》《II》など、現在最もよく知られるfiguresはこの公共彫刻計画から生まれています。

実現しなかったmonument

最終的に計画は広場へ設置されませんでした。しかし依頼がなければ生まれなかった大型figuresは独立作品として残り、未実現の公共計画が作家の代表作を生む逆説的な結果になりました。

1962年Venice Grand Prize

1962年、GiacomettiはVenice Biennaleで彫刻部門のGrand Prizeを受けます。戦後初期には「異様に細い人物」として現れた像が、1960年代初頭には国際的なcanonの中心へ入ったことを示します。

1965年の大回顧展

1965年にはTate、MoMA、Louisiana Museumで大規模retrospectiveが開かれました。Giacometti自身もTate展の準備に関わり、生前に戦前から戦後までの長い仕事が一つの歴史として整理されました。

1966年の死

この記事の中心期間は1965年までですが、Giacomettiは翌1966年1月にSwitzerlandで亡くなります。1965年の複数の大回顧展は、結果的に生前最後の大規模な国際的総括となりました。

Francis Bacon — 別の人間像へ

BaconはGiacomettiのように「見える距離」を彫刻へ移そうとはしませんでした。彼は複数の写真、映画、古典絵画を衝突させ、人物を画面の中で歪ませることで、見る者へ直接的な感覚を与えようとしました。

《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》1944

三枚一組のorange地に、口を開いた灰色の生物が置かれます。Baconは後にこれらをAeschylus《Oresteia》のFuriesと結びつけて説明し、1944年作を自分の成熟したcareerの出発点として重視しました。

1945年4月の初公開

作品は1945年4月LondonのLefevre Galleryで初公開され、Europeで戦争が終結する直前の観客に強い衝撃を与えました。後世にはHolocaustや戦争の恐怖と結びつけて読まれますが、Bacon自身が特定の戦争事件を図解した作品ではありません。

三連画という形式

三つのpanelを横に並べる形式は宗教画の歴史を想起させますが、Baconは物語を順番に説明しません。三枚の像を同時に見せ、差異と反復を一つの視野へ置きます。

Crucifixionを構造として使う

Baconは宗教的信仰を表明するためではなく、Crucifixionという歴史的に強い構図を、人間の身体、暴力、苦痛を扱うための枠組みとして利用しました。

Furies

1944年のcreaturesにはGreek tragedyのFuriesのイメージが重なります。Christian iconographyとGreek tragedyを混ぜることで、一つの宗教物語へ限定されない暴力の像を作りました。

《Painting 1946》

1946年作ではumbrellaの下にほとんど顔の見えない人物が立ち、背後に屠殺されたanimal carcassが開かれ、周囲に肉片、柵、microphonesを思わせる形が集まります。戦後Baconの代表作として1948年MoMAに収蔵されました。

「鳥を描こうとした」という回想

Baconは後に、最初は鳥が地面へ降りる絵を描いていたが、制作中のaccidentから現在のimageへ変わったと語りました。MoMAのX線調査では下層に大きな変更があることは確認されましたが、単純な一つのbird imageがそのまま隠れているわけではなく、本人の回想も批判的に読む必要があります。

偶然を受け入れる

Baconは完全な下絵に従うより、paintが偶然作るmarkを利用しました。ただし偶然に任せ切るのではなく、残すmarkと消すmarkを厳しく選び、偶発性を構成へ取り込みます。

肉と屠殺

Baconの作品では屠殺された肉と人間身体がしばしば近づきます。《Painting 1946》ではcarcassが祭壇画やCrucifixionを思わせる位置に置かれ、肉の物質性と権力的な人物像が同じ画面へ重なります。

1948年MoMA収蔵

Alfred H. Barr Jr.の時代にMoMAが《Painting 1946》を取得したことは、Baconの国際的評価に大きな意味を持ちました。Londonで活動する若いfigurative painterが、戦後New Yorkの主要museumへ早期に入った例です。

未下塗り面のcanvas

1940年代後半、Baconはcanvasの未下塗り面へpaintする方法を使い始めました。公式biographyによれば、Monte Carloでprimed canvasを使い切り、裏側へ描いたことからその吸収性と抵抗を気に入り、生涯続けます。

消しにくい支持体

生canvasへ染み込むpaintは修正しにくく、一つのmarkの危険性を高めます。Baconにとってこの取り返しのつかなさが、制作の緊張を生む条件になりました。

1948–49年《Head》series

《Head I》から《Head VI》へ続くseriesでは、頭部が暗い背景から出現し、口、歯、耳、肩が断片的に見えます。figure全体より、身体の一部分が画面の中心へ集約されます。

《Head VI》1949

《Head VI》はVelázquezの《Pope Innocent X》を参照した初期の重要作です。紫の衣と椅子の構造が教皇像を示しながら、顔は叫びへ崩れます。

Velázquez《Pope Innocent X》

Baconはこの17世紀のportraitを何十回も変奏しました。公式siteによれば1946–71年に30点を超える作品で参照し、教皇像は権威と肉体の不安定さを同時に扱う器になります。

原画を見ないという選択

1954年にRomeへ行った際も、BaconはVelázquezの原画を見に行きませんでした。複製を通して知ることが、色やdetailを自由に変形する余地を与えたと考えられます。

複製画像から絵画を作る

Baconにとってart historyはmuseumで原画を忠実に学ぶことだけではありませんでした。booksやphotographic reproductionsを切り抜き、折り、汚しながら別のimageへ変えることが制作の中心になります。

《Battleship Potemkin》の叫ぶ看護婦

Eisensteinの1925年filmに登場する、破損した眼鏡をかけ口を大きく開く女性のstillはBaconの重要資料でした。この叫びとVelázquezのPopeが融合し、「screaming pope」という新しいimageが生まれます。

口はなぜ重要なのか

Giacomettiが目へ生命の中心を求めたのに対し、Baconでは口が強く現れます。歯、舌、暗い口腔は、人間を言語的な主体というより肉体として感じさせます。

叫びは物語の説明ではない

誰がなぜ叫んでいるかを特定できない場合が多く、画面は事件説明になりません。Baconは特定のnarrativeより、開いた口のimageそのものが観客へ与える感覚を利用しました。

透明な「檻」

Baconの人物はしばしば白や黄色の細い線で描かれたbox状の空間へ入ります。これは現実の部屋を正確に描くperspectiveではなく、figureを背景から切り離し、身体を閉じ込めて見せる舞台装置です。

space-frameは輪郭でも建築でもない

箱は実体の壁ではなく透けており、figureと観客の間に曖昧な距離を作ります。人物を保護しているようにも、監禁しているようにも見え、空間の意味を固定しません。

1949年、人間のfigureが中心になる

Francis Bacon Estateは1949年を、人間像が作品の主要subjectとして明確に定着した年と説明しています。以後、動物やlandscapeも描きますが、人間の身体・頭部が長く中心に残ります。

Eadweard Muybridge

Muybridgeの《The Human Figure in Motion》はBaconにとって身体の「辞書」のような資料でした。歩く、走る、格闘する、屈むといった連続動作を写真が細かく分解しており、figureを再構成する素材になります。

写真をそのまま写さない

BaconはMuybridgeの一枚を忠実にpaintingへ移しません。異なる写真の姿勢を組み合わせ、身体をねじり、背景を取り除き、自分の空間へ置くことで原資料から離れます。

動物写真

《Animals in Motion》やMarius Maxwellの野生動物写真もBaconの重要sourceでした。人間と動物を別々のcategoryにせず、口、四肢、運動の似た身体として扱うことがあります。

《Study of a Baboon》1953

MoMAによれば、この作品のbaboonはMaxwellの写真集をsourceにしています。柵が前後関係を曖昧にし、動物が閉じ込められているのか、観客の側が囲いの中にいるのか判然としません。

South Africaへの訪問

1951年と1952年、Baconは母親や姉妹を訪ねてSouthern Africaへ旅しました。野生動物が草原を動く姿を見た経験も、1950年代初頭のanimal worksへ重なります。

《Two Figures》1953

二人の裸体男性がbed上で組み合う姿はMuybridgeのwrestlersを基礎にしています。しかし格闘の動作をsexual intimacyへ変換し、写真資料を個人的で社会的に危険なsubjectへ変えました。

同性愛が犯罪化されていたBritain

England and Walesで男性同士の私的な同性愛行為が部分的に非犯罪化されるのは1967年です。《Two Figures》1953はそれ以前に描かれており、male intimacyを明確にpaintingへ持ち込むことには当時の法的・社会的緊張がありました。

「暗号化された同性愛」だけではない

Muybridgeのwrestler imageが同性愛表現を社会的に見えにくくする役割を持った可能性はありますが、作品はsexualityだけで説明できません。運動する二つの身体が一つの塊へ融合する造形的な問題も中心です。

Peter Lacy

1950年代のBaconはPeter Lacyと激しい関係を続け、LondonとTangierを行き来しました。公式biographyはその関係を破壊的でもあったと記述していますが、作品を私生活の直接的な日記へ還元しないことが重要です。

《Man in Blue》1954

七点からなるseriesでは、暗い空間にsuit姿の男性が現れます。人物はbarやhotelを思わせる環境へ置かれ、顔は光の中で崩れ、匿名の近代的な都市人として見えます。

密室と同性欲望

Barbicanはこのseriesを、1950年代Britainにおけるmale same-sex desireとcloseted lifeの文脈で再検討しています。BaconがImperial Hotelに滞在していた時期のsocial settingも、作品の孤立した男性像を考える背景になります。

suitの人物

suitは権力者やbusinessmanの社会的な外見を与えますが、顔と身体は絵具によって不安定になります。公共的な役割を示す服装と、崩れていく個人の肉体が対立します。

1953年のPope series

1953年、Baconは教皇像を集中的に制作しました。MoMAの《Study for Portrait VII》はseriesの中で比較的落ち着いた像から叫びへ変化する流れを示し、同じsourceを反復すること自体が制作方法でした。

一枚で解決しない

BaconもGiacomettiも同じsubjectを何度も作りました。ただしGiacomettiが一人のmodelを見直す反復を行う一方、Baconは同じimage sourceを別canvasで変奏することが多く、反復の方法は異なります。

写真を「資料」として破壊する

Baconのstudioに残った写真は折れ、切れ、paintで汚れ、床に踏まれていました。Hugh Lane Galleryのarchiveは、写真が保存対象ではなく制作中に何度も扱われる物質だったことを示します。

John Deakin

1960年代以降、Baconは友人のJohn DeakinにLucian Freud、Isabel Rawsthorne、Henrietta Moraes、George Dyerらを撮影させました。親しい人であっても、本人を座らせるよりphotographを見て描くことを好みました。

モデルへの向き合い方の正反対

Giacomettiは何時間もmodelを目の前に座らせ、見れば見るほど分からなくなる状態を受け入れました。Baconは同じ部屋にmodelがいると描きにくいと考え、写真の方が自由に変形できるとしました。二人の具象は、観察方法からして正反対です。

1954年Venice Biennale

BaconはBen Nicholson、Lucian FreudとともにBritish Pavilionへ出品しました。戦後Britainの異なる方向を一つの国家展示で見せる機会となり、Baconの国際的な評価を広げました。

1956年Self-Portrait

Baconの現存するself-portraitは1950年代半ばから増えます。自分の顔であっても鏡に忠実な写実を目指すのではなく、写真や記憶、paintのaccidentを通して形を崩します。

Van Gogh series 1957

1957年にはVan Gogh《The Painter on the Road to Tarascon》を基にしたseriesで、1950年代前半の暗い色調から強いred、yellow、greenへ転換しました。Baconが一つの固定styleに留まらなかったことがよく分かります。

失われた原画を複製から変奏する

Van Goghの原画は第二次世界大戦中に失われたとされ、Baconはreproductionを通して制作しました。ここでも「原作を目の前で見る」ことより、既にimageとして流通しているものを作り替える方法が選ばれています。

Soutineへの関心

公式biographyは1957年の粗いimpastoと強い色にVan GoghだけでなくChaïm Soutineへの関心も指摘しています。戦後Baconを完全に孤立した天才とせず、過去と近代のpaintingへ広く接続して見る必要があります。

1958年Marlborough Fine Artへ

Baconは1958年にHanover GalleryからMarlborough Fine Artへ移り、国際市場での販売・展覧会体制が大きく整いました。反制度的に見える作品も、gallery networkによって世界へ流通しました。

1961年7 Reece Mews

Baconは1961年にSouth Kensingtonの7 Reece Mewsへ移り、死去までここを主要atelierとしました。約4×6mの小さな部屋にはbooks、newspapers、photographs、paint materialsが大量に積み重なります。

「混沌」が画像を生む

Baconは雑然としたstudioがimageを生むと考えていました。資料は分類棚から一枚ずつ取り出されるのではなく、床に散乱したimage同士の偶然の接触から新しい組み合わせが起こります。

約7,000点のstudio資料

死後、studio移設時には約7,000点のobjectsが記録されました。これは1965年以後の資料も含みますが、Baconが生涯にわたりphotographic imageやprint reproductionを物質的に蓄積していた事実を示す重要なarchiveです。

過去の美術を複製で集める

Hugh Lane Galleryのstudio archiveにはVelázquez、Rembrandt、Michelangelo、Degas、Rodin、Van Gogh、Picasso、Giacomettiなどのbooksや切り抜きが残っています。Baconは古典と現代を同じimage bankの中で扱いました。

Baconの資料庫にGiacomettiもいた

Hugh Lane GalleryはBaconのstudioにGiacomettiを含む過去・同時代作家の資料があったと記録しています。ただし、これだけでBacon作品をGiacomettiの直接影響として説明することはできません。

1962年Tate retrospective

1962年、BaconはTate Galleryで大規模retrospectiveを開きます。若い時期の作品を大量に破棄していたため、1944年以後の作品がほぼcareerの起点として提示され、現在まで続くBacon像が強く形成されました。

《Three Studies for a Crucifixion》1962

1944年から約18年後、Baconは大画面の三連画でCrucifixionへ戻ります。人物と肉塊が広い色面の中へ置かれ、三連画は以後の主要形式になります。

大きな三連画

1960年代の三連画では各panelが人間の身体を超える大きさを持ち、観客は一つのimageを見るより三つの空間の前を移動します。写真をsourceにしながら、最終的な鑑賞体験は非常に身体的です。

1962年とPeter Lacyの死

Tate retrospectiveの時期に、長年関係のあったPeter LacyがTangierで亡くなりました。この出来事はBaconの私生活に大きな影響を持ちますが、同年の全作品を喪失の象徴として一括して読むべきではありません。

1963年George Dyer

1963年頃からGeorge DyerがBaconのpartnerとなり、多数のportraitに登場します。1960年代には叫ぶ匿名的figureだけでなく、友人や恋人の顔を繰り返すportraitが中心になっていきます。

知人の顔

BaconはLucian Freud、Isabel Rawsthorne、Henrietta Moraes、Dyerら近しい人物を何度も描きました。個人的な親密さがあるからこそ、写実的な似顔ではなく変形しても人物が消えないと考えていました。

写真が作る距離

親しい相手を写真から描くことは、感情的な近さと制作上の距離を同時に作ります。Giacomettiがmodelとの対面を極限まで長引かせたのとは逆に、Baconは不在の身体をimageとして操作しました。

《After Muybridge》1965

1965年作では、水を捨てる女性と四つ這いの子どもという異なるMuybridge sourceを一枚へ組み合わせました。連続写真の科学的な分解を、身体が円環的な構造の中を動く奇妙なsceneへ変えています。

《Crucifixion》1965

1965年にもBaconはCrucifixionを主題に大作を制作しました。宗教的物語を信仰告白として再現するのではなく、解体された身体を扱う歴史的構造として使い続けます。

距離のGiacometti、接近のBacon

Giacomettiのfigureは遠くへ退き、身体の幅が消えます。Baconのfigureは観客へ近く、肉、口、歯、皮膚が圧迫感を伴って現れます。同じ「孤独な人間像」でも視覚の作り方は正反対です。

細さと肉

Giacomettiは身体から量塊を削り、線に近づけます。Baconは身体を太らせ、潰し、捻り、肉の塊へ近づけます。人間像を変形する方向そのものが対照的です。

目と口

Giacomettiにとって生命は目に集中し、頭部の視線が人物全体を成立させました。Baconでは口、歯、叫びが強く、身体が言語以前の生物として現れます。

広場と檻

Giacomettiの人物は広いbaseの上を歩き、空間が余り続けます。Baconの人物は透明なboxやcircleへ入れられ、空間が身体へ迫ります。余白と閉塞という二種類の孤立があります。

bronzeとcanvas

Giacomettiは粘土、plaster、bronzeという立体の工程でfigureを作り、光が表面を変化させます。Baconは未下塗りcanvasへoil paintを染み込ませ、平面上でfigureを傷つけるように作りました。materialの違いが身体像の違いに直結します。

生身のmodelとphotograph

Giacomettiはmodelの身体が目の前にいる時間を制作の中心へ置き、Baconはphotographによる不在を好みました。両者とも「現実から描く」作家ですが、現実への接続方法は真逆です。

memoryとreproduction

Giacomettiはmodelを見た後のmemoryを使い、Baconは既に印刷されたreproductionを使います。一方は視覚経験が身体内部に残った像を、もう一方は社会に流通するimageを加工しました。

偶然と修正

Baconは偶然生まれたpaint markを利用し、失敗するとcanvas自体を破棄することもありました。Giacomettiは同じ作品を削っては付け、途中状態をcastし、終わりのない修正を続けました。

制作時間

Baconには短期間に一気に完成した作品もあり、1962年の大三連画は集中的な制作で知られます。Giacomettiは一人のmodelへ何年も戻り、時間を積層しました。ただし両者とも「即興」と「長期研究」の一語では説明できません。

seriesという方法

二人は一作で問題を終わらせず、Pope、head、walking figure、standing woman、portraitを繰り返しました。seriesは商品として同じものを反復するのではなく、見るたびに解決が崩れるため再制作する方法でした。

古典美術を捨てない

戦後の新しさを求めながら、GiacomettiはEgyptian、Etruscan、Greek、Roman sculptureを学び、BaconはVelázquez、Michelangelo、Rembrandt、Van Goghなどを複製から見続けました。前衛は過去を消すことではなく、過去のimageを別の条件で再使用することでもありました。

EgyptとVelázquez

Giacomettiは古代Egyptの正面性と歩行姿勢を現代のfigureへ変換しました。BaconはVelázquezの教皇像を叫ぶfigureへ変換しました。どちらも引用が見える一方、原作の意味と機能を大きく変えています。

「具象への回帰」ではない

二人を抽象美術への反動として扱うと誤解します。彼らは19世紀的な自然主義へ戻ったのではなく、20世紀の写真、映画、Surrealism、抽象、古代美術の経験を通過した後でfigureを再構成しました。

「感情を歪めたExpressionism」でもない

人物の変形を感情表現だけで説明すると、Giacomettiの視距離研究やBaconの写真sourceが消えます。歪みには心理だけでなく、見る方法とmediaの問題が含まれています。

戦争は単一原因ではない

第二次世界大戦は歴史的な環境を決定しましたが、作品の細さや叫びを「戦争を体験したから」と直線的に説明することはできません。個別の制作史は戦前から続き、戦後にも別の要因によって変化しました。

「存在」という言葉を受容史として読む

Sartre、Genet、批評家たちはGiacomettiを人間存在の問題と結びつけました。Baconも「existential」な画家として語られてきましたが、その言葉は作品内部の唯一の意味ではなく、戦後の観客が二人を理解するために使った批評語でもあります。

ParisとLondon

戦後美術史はNew York対Parisの構図で語られがちですが、BaconのLondonも重要な中心でした。ParisのGiacomettiとLondonのBaconを並べると、戦後Europeに複数の具象的な中心があったことが分かります。

Britainの具象

Baconと同時期にLucian Freud、Frank Auerbach、Leon Kossoffらも人間を強く描きました。後に「School of London」という語でまとめられますが、この名称は1970年代の後付けであり、1940–50年代の統一運動名ではありません。

Parisの具象

GiacomettiもArt informelのParisで孤立していたわけではありません。Dubuffet、Fautrier、Germaine Richierらが身体や物質を別の方法で扱い、抽象と具象の境界は現在の教科書ほど明確ではありませんでした。

Venice Biennaleという国際舞台

Baconは1954年British Pavilion、Giacomettiは1956年French Pavilionに登場し、Giacomettiは1962年にGrand Prizeを受賞します。国際Biennaleは、戦後の国別文化政策と個人作家の評価が交差する重要な制度でした。

New Yorkとの関係

Giacomettiは1948年Pierre Matisse Galleryで戦後作品を発表し、Baconは1948年MoMAに《Painting 1946》が収蔵されます。Europeの具象作家も早い時期からNew Yorkのgallery・museum networkへ組み込まれていました。

museumが代表作を作る

Tateによる《Man Pointing》購入、MoMAによる《Painting 1946》取得、1960年代のretrospectivesは、二人を戦後美術の代表へ押し上げました。作品の革新性だけでなく、museum acquisitionと展覧会がcanonを作ります。

作家自身の写真像

Giacomettiの小さなatelierもBaconの散乱したReece Mewsも、photographersによって繰り返し撮影されました。作品だけでなく「制作に没頭するartistのstudio」というimageも、二人の神話を形成しています。

atelier神話をそのまま信じない

狭く粗末なGiacometti studio、混沌としたBacon studioは魅力的な物語ですが、成功後もgallery、foundry、assistant、photographer、dealerという専門networkが制作と流通を支えました。孤独な天才が一人ですべてを作ったという像は修正が必要です。

制作は完全に単独ではない

Giacomettiのbronze castingにはfoundryが関わり、Diegoはplaster castingやatelier作業を支えました。BaconもDeakinにportrait photographsを依頼し、gallery staffやframersと仕事をしました。作者性は強くても、作品の成立は複数の労働に支えられています。

Baconの額装とglass

Baconは作品をglass付きのframeで見せることを好み、絵と観客の間に物理的な隔たりが生まれます。painted cageだけでなく、展示そのものにも距離の層が加わります。

Giacomettiは観客の歩行を作品へ入れる

立体は観客が周囲を移動することで見え方が変わります。とくに広いbase上の複数figuresでは、観客自身の身体が彫刻間の距離を測る基準になります。

Baconは観客を画面の外に固定する

paintingは壁面にあり、観客はfigureの周囲を回れません。その代わり、巨大なpanelとglass反射、強い色面によって観客の身体を正面から圧迫します。

動く身体

Giacomettiのwalking figureは一歩を永遠に固定し、実際には動きません。BaconはMuybridgeの連続動作を一枚へ圧縮し、身体が揺れて見えるbrushworkを作ります。彫刻とpaintingは異なる方法で「運動」を静止させます。

静止する身体

Giacomettiのstanding womenも、Baconのseated popeやMan in Blueも静止しています。しかし静止は安定ではなく、次の瞬間に消えたり崩れたりしそうな緊張を作ります。

孤立

二人のfiguresはしばしば単独ですが、孤立の意味は同じではありません。Giacomettiでは広い空間の中の距離として、Baconでは囲い、bar、roomの閉塞として現れます。

「普遍的人間」という言葉に注意する

Walking Manはしばしば「人類普遍の象徴」と呼ばれますが、その評価は後世の受容です。Baconの歪んだfigureも「人間一般」の苦悩と解釈されますが、同性愛、Londonの生活、特定の友人という具体性を消してはいけません。

Giacomettiのgendered types

歩く男と立つ女という反復にはgenderedな形式化があります。これを自然な男女差とみなすのではなく、作家が戦後作品で作った視覚的な型として批判的に見る必要があります。

Baconのsexualityを周辺化しない

Baconの男性裸体やcoupling figuresを「普遍的苦悩」だけにすると、同性愛が刑事法と社会規範に囲まれていた時代の具体的な身体政治が抜け落ちます。一方、全作品を私生活の暗号へすることも避けます。

暴力

Baconのpaintは身体を切断・変形するように見え、Giacomettiは身体を削り消滅へ近づけます。暴力的な見え方は共通しても、片方は厚い肉の変形、もう片方は物質の減少という反対方向です。

美しさの再定義

二人の作品はtraditional beautyから遠く見えますが、比例や表面、色、間隔は非常に厳密です。美を捨てたのではなく、美が均整や滑らかな仕上げに限定されないことを示しました。

「似ている」とは何か

Giacomettiは顔の正確な輪郭を崩してもmodelの存在を捉えようとし、Baconはphotographを大きく変形しても親しい友人のportraitを成立させました。20世紀のportraitは、写真的な一致だけがresemblanceではないことを示します。

「事実」を作り直す

Baconは後年「fact」を絵画で再発明することを語りました。Giacomettiも知識上の人体ではなく「実際に見えている事実」を追いました。二人にとってrealismは正確な輪郭ではなく、見る経験を再構成することでした。

戦後Europeを二人だけで代表させない

この二人は重要ですが、戦後ヨーロッパの人間像はもっと広い領域です。女性作家、移民作家、東欧、Italy、Germanyなどを含めれば別の身体史が現れます。本記事は一つの強い比較軸であり、全体の代替ではありません。

1945–1965年の流れ

1945年のBacon初公開とGiacomettiのParis帰還から、1948年のNew YorkでのGiacometti再登場とMoMAによるBacon取得、1950年代のwalking figures・Venice Women・Pope・Muybridge・Man in Blue、1962年のGiacometti Venice受賞とBacon Tate回顧展、1965年のGiacometti大回顧展とBaconの大作まで、二つの具象は同時代に別々の速度で成熟しました。

ART HISTORYとしてのまとめ

GiacomettiとBaconを並べると、戦後の具象は「人物を描き続けた保守的な美術」ではなく、人物という形式を根本から作り直した実験だったことが分かります。Giacomettiは視距離、台座、石膏の削り、modelとの終わらない対面から、人間を細い垂直線と遠い視線へ変えました。Baconは写真、film、Velázquez、Muybridge、未下塗りcanvas、偶然のpaint markから、身体を叫び、肉、檻、三連画へ変えました。一方は「見えないほど遠く」、もう一方は「逃げられないほど近く」に人間を置く。その極端な差こそ、1945年以後のEuropeでfigurative artがどれほど豊かな問題を抱えていたかを示しています。

次へ — Nouveau Réalisme、Yves Klein、ZERO

戦後Europeの空白をさらに埋めるなら、次は1950年代後半から1960年代前半へ進み、Yves Klein、Arman、Tinguely、Spoerri、CésarらのNouveau Réalismeと、Germanyを中心に展開したZEROを扱うと、絵画と彫刻から光、空間、行為、日用品へ広がる次の転換がつながります。

参考資料・出典

本ページは、Fondation Giacometti、The Estate of Francis Bacon、Museum of Modern Art(MoMA)、Hugh Lane Gallery、Barbican Centre等の美術館・作家財団・公式アーカイブを中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

Alberto Giacomettiの戦後年譜についてはFondation GiacomettiのBiographyおよびBiographical Timelineを参照し、1945年Paris帰還、1946年の肖像制作、1947年Annetteのatelier移住、1948年Pierre Matisse Gallery個展、1949年Tateによる《Man Pointing》購入、1951年Galerie Maeght、1956年Venice Biennale、1959–60年Chase Manhattan Plaza計画、1962年Venice Grand Prize、1965年London・New York・Humlebaekの大回顧展を確認しました。

Giacomettiの頭部と視距離についてはFondation Giacometti「What is a head?」「Fragments and visions」を参照し、1935年以後のhead研究、人物を見た距離をscaleへ反映する考え、1946年に見た死の視覚的記憶、《The Nose》との関係を扱いました。

戦時中のminiature figuresについてはFondation Giacomettiのvisitor guideおよび展覧会資料を参照し、Genevaで人物像を縮小した理由を「遠くに見えたfigureの視覚経験をscaleに固定する」問題として扱いました。マッチ箱の逸話は同財団もlegendとして紹介しているため、確定的史実とはしていません。

1947年《Walking Man》についてはFondation Giacometti公式作品解説を参照し、Pierre MatisseによるNew York展提案を契機に等身大figureが制作されたこと、Egyptian artの影響、粗いmodelingが光を細かく捉える表面を作ったことを扱いました。

1948年Pierre Matisse Gallery展とJean-Paul Sartre《La Recherche de l’absolu》についてはFondation Giacomettiの展覧会資料を参照し、Sartreがfigureを「距離において」捉える彫刻として論じたこと、その文章が戦後Giacometti受容へ大きく影響したことを扱いました。Sartreの解釈を作品の唯一の意味とはしていません。

《Three Men Walking》《The Square》などについてはFondation GiacomettiのWalking Man展資料と作品databaseを参照し、街路で遠くに見る通行人、複数figure間の距離、1948–50年頃のsquare-base compositionsを扱いました。

GiacomettiのatelierについてはFondation Giacomettiのstudio reconstruction資料を参照し、46 rue Hippolyte-Maindronの約23平方メートルの空間を1926年から1966年まで使用したこと、plaster・clay作品、壁面drawing、家具・toolsがAnnette Giacomettiによって保存されたことを扱いました。

彫刻技法についてはFondation Giacomettiの公式press materialsを参照し、clayでmodelingしたfigureをplasterへ移し、knifeやsharp toolsでplaster表面を再加工したこと、bronze castと並行してplaster自体も展示したことを扱いました。

Annette GiacomettiについてはFondation Giacomettiの作品databaseを参照し、1946年からParisで生活し、1949年に結婚、Diegoと並び最も多くmodelとなった人物の一人であることを扱いました。

Isaku YanaiharaについてはFondation Giacomettiのofficial portrait recordsを参照し、1955年にGiacomettiと出会い、1956、1957、1959、1960、1961年にposeしたこと、21点のpaintingと複数のsculpture・drawingが残ること、長時間のsittingとmemoryからの制作が併存したことを扱いました。

《Women of Venice》についてはFondation Giacomettiの作品databaseを参照し、1956年Venice BiennaleのFrench Pavilionで六点のplasterが展示されたこと、同じclay figureを変形しながら途中段階をDiegoがplaster castしたというDavid Sylvesterの証言、seriesが単なるeditionではなく制作過程の複数状態であることを扱いました。

Chase Manhattan Plaza計画についてはFondation Giacometti「Monument」およびWalking Man関連資料を参照し、1958年末の依頼、1959年のscale検討、standing woman・walking man・large headを広場へ配置する構想、計画が実現しなかった一方で1959–60年の大型Walking Man seriesを生んだことを扱いました。

Francis Baconの1940年代についてはThe Estate of Francis Baconの1940s biographyとpainting chronologyを参照し、1944年《Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion》、1945年Lefevre Galleryでの公開、1946年《Painting 1946》、1948–49年のHead series、1949年人間figureが中心subjectになった流れを扱いました。

《Painting 1946》の制作過程についてはMoMA conservation researchを参照し、Baconが後年「birdを描こうとしていた」と回想したこと、X-radiographyが大幅なcomposition changeを示す一方、単純なbird imageだけでは説明できないことを反映しました。作者の回想と物質調査を区別しています。

Baconの未下塗りcanvasについてはEstateの1940s biographyを参照し、Monte Carlo滞在中にprimed canvasを使い切ったことから裏面へ描き、paintが生地へ食い込む性質を好み、その後も継続したという説明を扱いました。

Velázquez《Portrait of Pope Innocent X》とBaconのPope seriesについてはEstateの1940s・1950s資料とMoMA《Study for Portrait VII》を参照し、Baconがreproductionを収集し1946–71年に30点を超える関連作品を制作したこと、1954年Rome滞在時にも原画を意図的に見なかったことを扱いました。

Eisenstein《Battleship Potemkin》のscreaming nurse、Muybridge《The Human Figure in Motion》と《Animals in Motion》についてはEstate公式資料を参照し、Baconがfilm stillと連続写真を反復的なvisual sourceとして使い、wrestlersを《Two Figures》1953、《Two Figures in the Grass》1954へ、animal photographsをdogやbaboonへ変換したことを扱いました。

《Study of a Baboon》1953についてはMoMA公式作品解説を参照し、Marius Maxwell《Stalking Big Game with a Camera in Equatorial Africa》のphotographをsourceとし、fenceの前後関係を曖昧にしてviewerとanimalの位置を不安定にしたことを扱いました。

Baconの同性欲望表現についてはThe Estate of Francis Baconの《Two Figures》関連資料とBarbican Centre「Postwar Modern」を参照し、1953年《Two Figures》がMuybridgeのwrestlersを同性愛的な身体関係へ変換したこと、1954年《Man in Blue》seriesを男性同性愛が法的・社会的に抑圧されていたBritainの文脈で再検討しました。England and Walesで男性間の私的同性愛行為が部分的に非犯罪化されるのは1967年であり、本記事の中心期間より後です。

Baconの1950年代についてはEstate公式biographyを参照し、1951・52年のSouthern Africa旅行、1953年New York個展、1954年Venice Biennale、1957年Van Gogh series、Tangier滞在、1958年Marlborough Fine Artとの契約を扱いました。

7 Reece MewsについてはEstate公式studio pageとHugh Lane Galleryのstudio archive資料を参照し、1961年から死去まで主要studioとなったこと、約4×6mの部屋にphotographs、books、newspapers、paint materialsが蓄積したこと、死後の移設時に約7,000点のobjectsが記録されたことを扱いました。

Baconと過去の美術との関係についてはHugh Lane Gallery「Francis Bacon and the Art of the Past」を参照し、studio archiveにMichelangelo、Velázquez、Rembrandt、Ingres、Degas、Rodin、Van Gogh、Picasso、Giacometti等の資料が残ることを扱いました。資料の存在を直接的な形式影響の証明とはしていません。

1960年代前半についてはEstate公式1960s biographyとpainting recordsを参照し、1962年Tate retrospective、《Three Studies for a Crucifixion》、1963年George Dyerとの関係開始、友人をJohn Deakinのphotographsから描くportrait practice、1965年《After Muybridge》と《Crucifixion》を扱いました。

本記事ではGiacomettiを「existentialist sculptor」、Baconを「painter of horror」という定型へ還元せず、それらを重要な受容史の一部として扱いながら、制作工程、材料、model・photographとの関係、art historical references、gallery・museum制度、sexuality、public spaceを併せて記述しています。

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY