1967–1973
美術館の外へ広がる芸術、大地と自然を作品にする
ランド・アートの誕生
草原を何度も歩いて、地面に一本の線をつくる。広大な台地を巨大な重機で掘り下げ、地形そのものを彫刻に変える。湖の岸辺に石や土を積み上げ、水面へ向かって大きな渦巻きをつくる。1960年代後半、こうした作品がアメリカや英国で生まれました。自然の風景や大地を制作の場とするこれらの試みは、やがて「ランド・アート」と呼ばれるようになります。
美術作品と聞くと、額縁に収められた絵画や、美術館に展示された彫刻を思い浮かべる人が多いでしょう。ランド・アートの芸術家たちは、作品をつくる場所そのものに目を向けました。土や石、草木、水など、そこに存在するものを使い、ときには地面を掘り、自然の中を歩く行為そのものを作品にしました。作品の大きさも、手で持てるものから、歩いて移動しなければ全体を把握できないものまで、さまざまです。
その先駆的な作品の一つが、英国のリチャード・ロングによる《歩行によってつくられた線》(1967年)です。ロングは草地の上を繰り返し往復し、踏み倒された草によって現れた一本の線を写真に残しました。特別な材料も大がかりな設備も使わず、自分の身体と歩く行為によって作品を成立させたのです。自然の中に残された線は、やがて草が元に戻れば消えてしまいます。そうした一時的な変化も、作品を考えるうえで重要になりました。
アメリカでは、さらに大規模な制作が進みます。マイケル・ハイザーはネバダ州の台地から大量の土砂を取り除き、巨大な切り込みをつくる《ダブル・ネガティヴ》(1969年)を制作しました。ロバート・スミッソンは1970年、ユタ州のグレートソルト湖に《スパイラル・ジェティ》を築きます。湖へ伸びる渦巻き状の作品は、水位の変化によって水没したり、再び姿を現したりします。芸術家が形をつくり、自然がその姿を変えていくという、従来の彫刻とは異なる時間の流れが作品に入り込んでいました。
こうした動きが生まれた背景には、1960年代の現代美術の大きな変化がありました。アメリカではミニマリズムによって、彫刻の単純な形と、それが置かれる空間の関係が注目されていました。同じ頃、作品が完成するまでの行為や素材の変化、芸術家の考えそのものを重視する試みも広がります。ランド・アートは、そうした探究を実際の風景へと広げました。1968年にはニューヨークのドワン・ギャラリーで《Earth Works》展が開かれ、翌1969年にはコーネル大学で《Earth Art》展が開催されます。大地を使った新しい芸術が、美術界でも広く認識され始めました。
ランド・アートの作品には、独特の鑑賞方法も生まれました。遠く離れた土地につくられた巨大な作品を見るには、実際に現地へ足を運ぶ必要があります。短い期間しか存在しない作品や、歩いた痕跡だけを残す作品もあります。そのため、写真や映像、地図、文章が重要な役割を担いました。作品を自然の中で体験することと、その姿を記録によって知ることが、密接に結びついていきます。また、土地を大きく改変する制作は、自然環境や土地の利用について考えるきっかけにもなりました。
本記事では1967年から1973年を中心に、ランド・アートがどのように生まれ、現代美術の可能性を広げていったのかを18の章に分けてたどります。アメリカの壮大な大地を使った作品から、英国の歩行や自然の中に残す小さな痕跡まで、代表的な芸術家と作品を具体的に紹介します。展覧会や写真による記録、自然と作品の関係にも目を向けながら、美術館の外へ踏み出した芸術家たちが、芸術のあり方をどのように変えたのかを見ていきます。
CONTENTS
- 美術館の外で、何が芸術になったのか
- 1960年代の美術は、なぜ屋外へ向かったのか
- 1967年、リチャード・ロングが草地に一本の線を残す
- ロバート・スミッソンが発見した郊外と地質の時間
- 1968年、《Earth Works》展が新しい作品を紹介する
- ウォルター・デ・マリアは距離と大地を彫刻に変える
- マイケル・ハイザーが地面を削ってつくった彫刻
- 1969年、コーネル大学の《Earth Art》展
- 1969年、テレビ画面がランド・アートの展示室になる
- 英国のランド・アートを形づくった歩行と痕跡
- 歩く芸術家たちと、風景の中で行われる小さな行為
- 雪や海岸を使ったヨーロッパと北米の実験
- ロバート・スミッソン《スパイラル・ジェティ》の誕生
- ナンシー・ホルトが風景を見る方法を変える
- 大地を使った芸術が国境を越えて広がる
- 写真、映像、地図は作品とどう関わったのか
- 自然環境、土地の利用、作品の保存を考える
- 1972–1973年、最初の時代はどこへ向かったのか
- 略年表
- まとめ — 美術館の外へ広がった芸術
- 参考資料・出典
美術館の外で、何が芸術になったのか
「ランド・アート」という言葉が指すもの
「ランド・アート」は、1960年代後半から広がった、土地や風景を制作に深く関わらせる美術の総称です。地面を削って巨大な空間をつくる作品もあれば、草地を繰り返し歩いて残す線、雪の上に描く模様、石を並べる行為もあります。自然の素材を利用する場合も、建設機械や工業製品を持ち込む場合もありました。作品の外見だけを見て共通の型を探すと、多様な試みが見えにくくなります。共通していたのは、芸術の形が作品を置く場所や、そこで起こる出来事によって変わるという発想でした。
当時は「アースワークス」「アース・アート」「環境芸術」などの名称も用いられました。1968年にニューヨークで開かれた《Earth Works》展と、翌年コーネル大学で開催された《Earth Art》展は、その重なりを示す歴史的な例です。後世に「ランド・アート」とまとめられた作家たちが、同じ宣言を掲げて一斉に活動を始めたわけではありません。まず、実際に何が制作されたのかを見ていくことが、この動向を理解する入口になります。(参照:リチャード・ロング公式サイト|作品と制作の考え方)
大地が彫刻の素材にも展示場所にもなる
伝統的な彫刻では、石や木材などを加工して形をつくり、その完成品を別の場所に設置することができます。ランド・アートの一部では、地面そのものを掘ったり盛り上げたりしたため、作品を制作場所から切り離すことが難しくなりました。ネバダ州の台地につくられたマイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》では、谷を隔てて向かい合う二つの掘削部分と、その間の空間までが作品です。台地の起伏や地質が造形の前提になっています。
観客が作品を経験する方法も変わりました。展示室の中を数歩移動して見る彫刻とは異なり、広大な土地の作品を知るには、険しい道を移動し、風や気温を感じながら歩く時間が必要です。ある地点では全体を眺められても、別の地点では地面の一部しか見えません。大地を素材として扱うことは、鑑賞者自身がその場所に身を置くという条件を、美術の一部に取り込むことでもありました。(参照:ロサンゼルス現代美術館|《ダブル・ネガティヴ》)
大規模な工事から小さな痕跡まで
英国のリチャード・ロングが1967年に制作した《歩行によってつくられた線》は、広い草地の中へ一本の細い線が伸びる写真として知られています。制作に必要だったのは、同じ場所を何度も歩く自身の身体でした。巨大な石を積み上げたり地形を掘り返したりせず、草が踏み倒された状態を残したのです。土木工事の規模によって作品の価値が決まるなら、この作品をランド・アートの重要な起点として説明することはできません。
ハイザーの掘削とロングの歩行には、土地との関わり方の大きな違いがあります。前者は大規模な施工によって残存する地形を変え、後者はすぐに消える程度の変化をつくります。さらに写真や文章だけで作品を伝える実践も登場しました。どれも、彫刻を長く残る独立した物体として考える慣習を揺さぶりました。鑑賞者は形の大きさだけでなく、どのような行為が、その場所で、どれほどの時間をかけて行われたのかを考えるようになります。(参照:スコットランド国立美術館|《歩行によってつくられた線》)
1960年代の美術は、なぜ屋外へ向かったのか
ミニマリズムが変えた彫刻と空間の関係
1960年代のアメリカでは、単純な立方体や板、規則的に並ぶ部材を用いるミニマリズムが広がりました。幾何学的な彫刻は、作品の表面に作者の感情や物語を描き込むことより、その大きさ、周囲の空間、見る人の位置関係を強く意識させました。鑑賞者が動くたびに作品の見え方が変わるという経験は、美術館の展示室そのものを造形の条件として捉える考えにつながっていきます。
ロバート・モリスはこうした議論の中心人物の一人でした。彼は幾何学的な立体から、柔らかなフェルトが重力によって垂れ下がる作品や、土と廃材がまとまりなく積まれた作品へと制作を広げます。完成した形をあらかじめ厳密に決めることから、素材が置かれた結果を受け入れる方法への変化です。屋外の土地へ向かった作家たちも、重力、広さ、地形を造形の条件として受け止めるようになりました。(参照:ディア美術財団|ロバート・モリス《無題(土)》)
素材の変化や制作行為を作品に取り込む
同じ時期には、素材を切る、落とす、積む、流すといった過程そのものを重視する制作が現れました。これらはポスト・ミニマリズムやプロセス・アートと呼ばれる動向と関係しています。モリスがフェルトや工場の廃材を用いた作品では、布がどのようにたわむか、複数の素材がどのように接触するかによって展示の姿が変わります。制作を終えても、物質は周囲の条件に反応し続けます。
ランド・アートにおいても、掘り取った土砂の量、長い距離を歩くために要した時間、雨や風による変化などが重要になりました。自然素材への関心は、美しい景色を再現したいという願いだけから生まれたものではありません。作家は物質が持つ性質と自分の行為を組み合わせ、計画と偶然が交差する状況をつくりました。この点で、展示室内の実験と屋外の大地での制作には明確なつながりがあります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロバート・モリス《無題》)
都市と産業の時代に見つめ直された風景
第二次世界大戦後のアメリカでは、高速道路網の整備や自動車による移動が広がり、都市の郊外にも工事現場や産業施設が増えていました。西部の広い土地は、芸術家にとって人の手が加わっていない自然だけを意味したわけではありません。採石場、道路、塩湖、造成地など、人間の開発と地質の長い歴史が重なる場所も、重要な制作の舞台になりました。
ニューヨークとロサンゼルスを行き来する画商ヴァージニア・ドワンは、こうした作品を支援しました。国立美術館の研究資料は、航空交通や州間高速道路の発達によって作家や画商が以前より活発に移動できるようになったことにも注目しています。遠隔地で制作する発想は、移動手段、資金、土地の使用条件、重機を操作する技術など、当時の社会の具体的な仕組みに支えられていたのです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート)
1967年、リチャード・ロングが草地に一本の線を残す
《歩行によってつくられた線》はどんな作品か
1967年、当時ロンドンのセント・マーティンズ美術学校で学んでいたリチャード・ロングは、英国の草地で同じ経路を何度も行き来しました。踏みつけられた草が周囲とは異なる向きに倒れ、地面にまっすぐな線が現れます。ロングはそれを白黒写真で記録しました。写真には手前から奥の樹木へ向かって伸びる細い線が写り、下部には作品名と「ENGLAND 1967」という記載があります。写真として見ると静かな風景ですが、その線は歩いた身体の動きによって生まれています。
大地を彫刻へ変えるために特別な道具を用いなかった点が、当時として際立っていました。鑑賞者は残された一本の線を見ながら、何度も往復する作家の行為と、歩くことで積み重なる時間を想像します。線ができたあとも草は生きており、やがて元の姿へ戻っていきます。作品をつくる行為、短時間だけ存在する痕跡、後に残る写真という三つの要素が結びついていました。(参照:スコットランド国立美術館|《歩行によってつくられた線》)
歩くことが彫刻の制作になるまで
ロングが自分の制作を説明するときには、場所、時間、距離、測定という言葉がたびたび登場します。行き先と道順を決め、ある区間を歩くことにより、通常なら移動の手段である行為が作品の中心になります。屋外で石を並べる場合にも、用いる素材はその土地にあるものが基本です。歩くことと、道中で形をつくることは、自然の中で作業を行う身体によって結ばれています。
こうした制作は、鑑賞者の前で完成品を作り上げる伝統的な彫刻とも異なる体験をもたらしました。ロングが一度通った場所には、目で確認できる痕跡が残らない場合もあります。それでも、定めた経路を歩いたという事実、そこから得られた言葉や地図、写真は作品の一部になります。美術館に置かれる物体を制作の唯一の成果とする考えが揺らぎ、身体を動かした行為そのものへ新しい価値が認められるようになりました。(参照:リチャード・ロング公式サイト|歩行による芸術)
一時的な作品を写真で残す意味
《歩行によってつくられた線》は、1967年の草地そのものを今日まで保存した作品ではありません。現地に現れた変化は短命で、鑑賞できる形としては写真と文字が残りました。スコットランド国立美術館はこの作品を写真として収蔵し、その来歴や技法を記録しています。自然に生じた痕跡が写真に置き換えられることで、遠く離れた観客も一つの制作行為を知ることができるようになりました。
写真は現地の代用品というだけではありません。どの角度から撮るかによって線の存在感は変わり、画面の中では草地を横切る一本の形として明確に見えてきます。鑑賞者はそこに刻まれた時間を想像しつつ、写真という独立した画面を見ています。ランド・アートの初期から、屋外で何かをつくることと、その出来事をどのような画像で共有するかという問題は分かちがたく結びついていたのです。(参照:スコットランド国立美術館|《歩行によってつくられた線》)
ロバート・スミッソンが発見した郊外と地質の時間
1967年《パセーイクの記念碑》とありふれた風景
1967年9月30日、ロバート・スミッソンはニューヨークからニュージャージー州パセーイクへ出かけ、橋、配管、工事中の構造物などをカメラで撮影しました。この旅を題材にした文章と写真は、同年の『アートフォーラム』誌に掲載されます。「記念碑」と呼ばれた対象は、歴史的人物の銅像でも由緒ある建物でもなく、工業化した郊外に見られる何気ない設備でした。スミッソンは名前の付け方と写真の構図を通して、目立たない場所を新しい鑑賞の対象へ変えました。
普段なら通り過ぎてしまう風景を、あえて記念碑として眺めると、建設途中の構造物にも過去と未来が感じられます。完成したばかりの施設でさえ、やがて古くなり、風化し、別の用途へ変わるかもしれません。スミッソンが注目したのは、風景の中に積み重なる人間の活動と、物事が時間の中で変化していく姿でした。写真、旅行記、命名が組み合わされたこの実践は、後の土地を使った制作の出発点として重要です。(参照:ホルト/スミッソン財団|《パセーイクの記念碑》)
崩れ、混ざり、堆積していく「エントロピー」
スミッソンの文章には、「エントロピー」という概念が繰り返し現れます。秩序ある状態が時間の経過や物理的な過程によって変わり、元どおりに戻すことが難しくなるという考えに関心を寄せたのです。彼は白砂と黒砂を混ぜる砂場の例を通して、一度生じた変化が簡単には取り消せないことを論じました。川の浸食、岩石の風化、人工的な地形の崩壊なども、この関心と重なります。
1968年の論考「精神の堆積――大地のプロジェクト」で、スミッソンは地層や侵食を、人間の思考や制作を理解するための言葉として使いました。大地は完成された一枚の風景ではなく、古い層と新しい層が重なり、絶えず変わるものとして見られています。そのため、作品を設置後も同じ状態で保持するという彫刻の常識は再検討されます。後の《スパイラル・ジェティ》で湖水や塩の作用が重要になる背景には、この時間への関心がありました。(参照:ホルト/スミッソン財団|「精神の堆積」)
1968年、石と地図で屋外と画廊を結ぶ《ノンサイト》
1968年の《ノンサイト》連作では、スミッソンは採石場や郊外の土地から石、砂などを持ち帰り、幾何学的な容器に入れて画廊に置きました。《フランクリン、ニュージャージーのノンサイト》では、現地の石灰岩を入れた構造物と、採取場所を指し示す写真や地図が組み合わされています。展示室の中にある石は、離れた土地を物質的に示し、地図は実際の採取場所へ鑑賞者の想像を導きます。
画廊の作品を見るだけでは採石場の地形や空気を十分に知ることはできず、採石場へ行っても画廊の容器はそこにはありません。スミッソンは両者の距離を作品の重要な仕組みにしました。建物の内側と外側をつなぐ関係を作り出すことで、芸術作品がどこに存在するのかという問いを生んだのです。ランド・アートの作家が美術館の外へ向かった時期に、スミッソンは美術館と遠隔地を往復する独自の方法も発展させていました。(参照:ホルト/スミッソン財団|1968年《ノンサイト》の研究)
1968年、《Earth Works》展が新しい作品を紹介する
ヴァージニア・ドワンと芸術家を支える仕組み
1968年10月、ニューヨークのドワン・ギャラリーで《Earth Works》展が開かれました。画商ヴァージニア・ドワンはロサンゼルスとニューヨークで画廊を運営し、ミニマリズムや概念芸術など、当時新たに広がっていた表現を積極的に支援していました。作品が巨大になり、土地の確保や工事の費用を必要とすると、芸術家の構想だけで制作を実現することは難しくなります。資金提供者と実務的な協力者の存在が、土地を用いた作品の成立に重要な意味を持ちました。
ドワンは、後にハイザーの《ダブル・ネガティヴ》、スミッソンの《スパイラル・ジェティ》などの制作も支えました。画廊を舞台とする展覧会と、遠隔地で行われる土木工事が同じ人脈で結ばれていたことは、ランド・アートの成立を考えるうえで欠かせません。美術館の外へ制作の場が広がる過程は、支援や作品発表の仕組みまで含めた変化だったのです。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート)
画廊で大地の作品を見せるという課題
広い土地に刻まれた形を、都市の展示室にそのまま運び込むことはできません。《Earth Works》展では、作家たちはさまざまな方法で屋外の構想や素材を紹介しました。地面を扱う作品の提案、写真、図面、実際の土など、展示の形態は一つに限定されませんでした。観客にとっては、完成された彫刻を順に眺める展覧会というより、これまで美術の対象として考えられてこなかった規模や場所を想像する機会でした。
画廊で展覧会が開かれたこと自体も重要です。作家が都市の展示制度から距離を取ろうとしても、作品を批評家や観客に知らせる場所は必要でした。作品が現地に残る場合、写真や文章は画廊で鑑賞者と作品を結ぶ役割を持ちます。美術館を出ていくことと、その成果を美術館や画廊を通して伝えることは、初期のランド・アートでは同時に進んでいました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート)
ロバート・モリス《無題(土)》が室内へ持ち込んだ大地
《Earth Works》展で展示されたロバート・モリスの《無題(土)》(1968年)は、土、泥炭、油、廃材などを床に積み重ねた作品です。整えられた輪郭を持つ彫刻とは異なり、集まった物質の塊は不規則な形をしています。土の質感や雑多な材料がそのまま現れ、展示室の床が素材の重みを受ける場所になります。ここでは大地を遠くから鑑賞する風景として描く代わりに、実際の物質を美術の空間へ持ち込んでいます。
この作品は、美術館の外につくられる作品だけがランド・アートの歴史を構成しているわけではないことを教えます。1968年の制作と、後年に再制作・展示された形態は、ディア美術財団の所蔵情報でも区別されています。変化しやすい材料を用いる作品では、当時の出来事と現在見ることのできる作品の姿を分けて考える必要があります。作品の物質的な性質だけでなく、保存や再展示の方法も新しく問われるようになりました。(参照:ディア美術財団|ロバート・モリス《無題(土)》)
ウォルター・デ・マリアは距離と大地を彫刻に変える
1968年《ミュンヘン・アース・ルーム》
ウォルター・デ・マリアは1968年、ミュンヘンの画廊に大量の土を敷き詰める《アース・ルーム》を制作しました。室内に土が広がると、絵画や彫刻を置くために用意された床が、そのまま作品の表面になります。観客は土の色や匂い、部屋の境界を意識し、視覚だけで作品を理解することが難しくなります。美術館の外に向かう実践と並行して、大地を展示室の内部へ移動させる試みが成立していたのです。
現在ニューヨークで公開されている《ニューヨーク・アース・ルーム》は1977年に制作された別の作品です。1968年のミュンヘン版から続く一連の展開に位置づけられます。制作年代を区別すると、1960年代末に作家が既に屋内と屋外の境界を実験していたことが明確になります。土を運び込むという一見単純な操作が、展示室をどのように使い、どこまでを作品と考えるのかという問題を生み出しました。(参照:ディア美術財団|《ニューヨーク・アース・ルーム》と先行作品)
《マイル・ロング・ドローイング》と砂漠の二本の線
同じ1968年、デ・マリアはカリフォルニア州モハーヴェ砂漠に《マイル・ロング・ドローイング》を制作しました。地面に長い二本の平行線を引き、紙に収めることが一般的だった「線を描く」という行為を広大な土地へ移した作品です。線は一マイルという長さを持ち、観客が一地点に立って全体を細部まで見ることはできません。長さを数字で知ることと、自分の身体で移動して経験することの差が、作品の重要な要素になります。
砂漠はここで、絵の背景として使われたのではありません。線を引く場所の広さと平坦さ、まわりに広がる視界が作品の形を決めています。二本の線は地面に残された図形であると同時に、測定された距離を感じさせる仕組みでした。絵画や素描の大きさを拡張することは、紙や額縁の外にある時間、移動、天候を、鑑賞体験へ取り込むことにもつながりました。(参照:ディア美術財団|デ・マリア《ライトニング・フィールド》と初期作品)
作品を訪れる時間が鑑賞の一部になる
デ・マリアの屋外作品では、作品がどこにあるかを調べ、現地へ向かい、広い場所を歩くまでが鑑賞と深く関わります。都市の展示室なら短い時間で複数の作品を見ることができます。遠隔地の作品では、訪問そのもののために大きな時間を確保しなければなりません。地平線や空の明るさも変化するため、同じ形を見ても、時刻や天候によって受け取る印象が変わります。
デ・マリアはその後、ニューメキシコ州の《ライトニング・フィールド》(1977年)など、場所と時間を厳密に組み合わせる作品を制作しました。これらは今回の対象期間の後に成立した作品ですが、1968年の実験を理解する手がかりになります。砂漠に線を引くという早い段階の試みから、自然環境の中で長い時間を過ごすことを重視する制作へ、関心が発展していったのです。(参照:ディア美術財団|デ・マリア《ライトニング・フィールド》と初期作品)
マイケル・ハイザーが地面を削ってつくった彫刻
土砂を取り除くことから生まれる形
マイケル・ハイザーは、彫刻をつくるために素材を付け加える代わりに、大地の一部を取り除く方法を探りました。1960年代後半、アメリカ西部を制作の場として選び、地面に印を付けたり、掘削によって空白を生み出したりする実験を重ねます。削られた部分の深さや幅、残された土地との関係が作品の形を決めるため、彫刻の内部と外部を簡単に分けることができません。土地の固さや地層の状態を知ることも、制作上の重要な条件でした。
この方法では、作業を進めるための重機や人手が必要になります。美術の制作が、土木工事の技術と結びついた点も新しい出来事でした。作家の手の動きが直接作品の表面に残るという従来のイメージから、作家が地形を構想し、施工を指示し、出来上がる空間を判断する制作へと役割が広がります。土地そのものを彫刻の材料として見ることは、素材と作家の関係を大きく変えました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート)
1969年《ダブル・ネガティヴ》の巨大な切り込み
《ダブル・ネガティヴ》は、ネバダ州モルモン・メサの台地に二つの大きな溝を刻んだ作品です。ロサンゼルス現代美術館の公式記録では制作年を1969年とし、全長約457メートル、幅約15メートル、深さ約9メートルの規模と、約24万トンに及ぶ岩石や土砂の移動を記録しています。台地の縁には自然にできた谷があり、掘られた二つの溝はその谷を挟んで向き合っています。観客は巨大な切り込みを見ながら、その間に実体のない一本の線が続くように感じます。
この作品には、中心に置かれた彫像や建造物がありません。目に見えるのは取り除かれた部分の両側に残る崖であり、彫刻を成立させているのは、いわば空間そのものです。谷を越えて全体の関係を捉えるには、見渡せる場所へ移動するか、写真で全体像を確認する必要があります。地面を「削ったあとの空白」が彫刻となる発想は、素材の量や物体の輪郭で作品を理解してきた見方を大きく変えました。(参照:ロサンゼルス現代美術館|《ダブル・ネガティヴ》)
土地から動かせない作品をどう見るのか
《ダブル・ネガティヴ》が刻まれた台地は、その場所から別の展示室へ運べません。観客は実物を見たいと思えば、ラスベガスから離れたネバダの土地へ向かう必要があります。険しい未舗装路を通って現地へたどり着き、二つの溝の関係を自身の足で確かめます。切り込みの内部と上部では視界がまったく異なり、写真で知っていた幾何学的な形が、自分の身体を取り囲む具体的な地形に変わります。
作品は1985年にヴァージニア・ドワンからロサンゼルス現代美術館へ寄贈されました。美術館が所蔵していても、作品はネバダ州の土地に残り続けています。そのため所蔵とは建物の中で保管することだけを意味せず、土地へのアクセス、現地環境、長期的な管理を考えることになります。移動できない彫刻が美術館のコレクションへ入ったことは、現代美術における収蔵の考え方にも変化をもたらしました。(参照:ロサンゼルス現代美術館|《ダブル・ネガティヴ》)
1969年、コーネル大学の《Earth Art》展
芸術家が作品を持ってくる代わりに現地で制作する
1969年2月、ニューヨーク州イサカのコーネル大学で《Earth Art》展が開かれました。企画を担ったのはウィロビー・シャープで、ロバート・スミッソン、デニス・オッペンハイム、リチャード・ロング、ヤン・ディベッツ、ハンス・ハーケ、ロバート・モリスらの作家が関わりました。作品をあらかじめ完成させて美術館へ搬入する慣行から、作家が大学や周囲の土地へ出向き、そこで作品をつくる方法へと展示の考え方が広がります。
この展覧会で重要だったのは、屋外だけが作品の場になったわけではないことです。大学構内の水辺や美術館内の空間も、作家の行為によって変化しました。冬の雪や氷、持ち込まれた土、大学施設の構造といった条件が制作へ入り込みます。展示期間の前後を含め、作家が場所を選び、何をどのように行うかを決める過程そのものが、展覧会の内容になっていきました。(参照:コーネル大学|1969年《Earth Art》展の記録)
異なる国と方法の作家が集まった意味
《Earth Art》の参加者は、共通の素材を使って同じ形の作品をつくったわけではありません。スミッソンは塩や地質への関心を持ち、オッペンハイムは氷や土地の境界を扱い、ロングは歩く行為を通じて作品を成立させました。ハーケは生物や自然環境が相互に作用する仕組みに関心を寄せ、ディベッツは写真の見え方を操作しました。多様な活動が「大地」をめぐる一つの展覧会に集まったことが、この時代の広がりを示しています。
コーネル大学の記録には、当時の展示写真や、学生たちが制作に協力したことを伝える資料が残っています。大学の美術館が作家たちの実験の場になったことは、画廊で作品を販売する場合とは異なる制作条件を生みました。建物の中外で続いた試みを横断して見ると、ランド・アートは特定の地域の大規模彫刻だけに限られた活動ではなく、制作場所の使い方を広く変える運動だったことが分かります。(参照:コーネル大学|1969年《Earth Art》展の記録)
短期間しか残らない作品を記録する
雪や氷を用いた作品は、気温が上がれば姿を変えます。室内に持ち込まれた土や塩の配置も、会期を終えると撤去される場合があります。《Earth Art》の関係資料が現在重要な理由の一つは、こうした作品の実際の姿を、写真などの記録によって確かめられる点にあります。制作の当事者や学生たちが残した記録は、個々の作家の作品歴だけでなく、1969年の展覧会がどのように成立したかを伝えています。
美術館の仕事も変わりました。完成した作品を展示するだけでなく、制作する場所や材料を用意し、進行を助け、短命な作品の経過を記録する役割が加わります。観客が会期中に経験した出来事と、後世の研究者が写真を通して知る展覧会は、同じものではありません。その違いを見据えて資料を残すことが、ランド・アートを美術史として語るための基盤となりました。(参照:コーネル大学図書館|1969年《Earth Art》展の写真資料)
1969年、テレビ画面がランド・アートの展示室になる
ジェリー・シュムのテレビ展覧会《Land Art》
1969年4月15日、ドイツでジェリー・シュムが企画した《Land Art》がテレビ放送されました。シュムはテレビの画面そのものを作品発表の場とする「テレビ・ギャラリー」を構想し、各地の芸術家と協力して映像を制作しました。放送局から家庭の受像機へ映像が届くことで、砂漠や海岸など遠く離れた場所で行われた行為を、都市の展示室へ足を運ばずに見ることが可能になりました。
この企画の新しさは、既にある彫刻をテレビで紹介する一般的な番組とは異なり、作品を映像で示すことを前提に企画された点にあります。野外で制作された出来事が、撮影と編集によってひとまとまりの鑑賞経験として組み立てられます。土地を使った作品が広がった時代に、作品を届ける方法も同時に考え直されたのです。シュムの実験はランド・アートと映像芸術の歴史を結ぶ重要な出来事となりました。(参照:ZKM|ジェリー・シュムとテレビ・ギャラリー)
八人の作家が示した風景への異なる関わり方
テレビ展《Land Art》では、リチャード・ロング、バリー・フラナガン、デニス・オッペンハイム、ロバート・スミッソン、マリヌス・ブーゼム、ヤン・ディベッツ、ウォルター・デ・マリア、マイケル・ハイザーの八人が紹介されました。参加者の活動地域も手法も一様ではありません。英国での歩行や石の配置、オランダの海岸での実験、アメリカの砂漠での大規模な行為が、同じテレビ番組の中で続けて映し出されました。
こうした編成は、後にランド・アートと呼ばれる実践の広さを強く印象づけました。視聴者は一つの土地に赴いて作品を鑑賞する代わりに、遠く離れた複数の現場を映像によって移動します。自然の風景にどの程度介入したのか、身体がどのように動いたのか、カメラが何を切り取ったのかを比較できるようになりました。テレビで映された映像は、単なる補助資料を超えて作品の受け取られ方を形づくる役割を持っています。(参照:クレラー=ミュラー美術館|テレビ展覧会《Land Art》)
記録映像と映像作品の境界が変わる
テレビ展に参加した作家たちの行為を考えるとき、現地で行われた制作と、視聴者が画面で経験した内容を完全に重ねることはできません。映像には長さ、画面の枠、撮影する位置があります。海岸を歩く人物の姿も、機械が地面を動かす過程も、撮影された順序や時間の長さを通して初めて一つの作品として観客に届きます。シュムの撮影方法は、こうした時間の構成を意識したものでした。
テレビという大衆的な媒体を使ったことにも意味があります。画廊では作品の所有や販売が大きな役割を果たしますが、放送は同時に多くの家庭へ届きます。シュムと協力者たちは1970年にも別のテレビ展《Identifications》を実施しました。これらの試みは長く続きませんでしたが、土地を使う作品、行為、映像、公開の方法を結びつけ、誰がどのような形で芸術を経験できるのかという問題を浮かび上がらせました。(参照:ZKM|ジェリー・シュムとテレビ・ギャラリー)
英国のランド・アートを形づくった歩行と痕跡
リチャード・ロングにとって風景を歩くとは
リチャード・ロングは、歩くという日常的な行為を継続的な制作方法として発展させました。道のりを決め、ある時間をかけて歩き、その場所で石や枝を並べる。ときには歩いた経路や距離を地図や文章にして示す。こうした作品では、風景を見渡して美しい眺めを選ぶことより、自身がその場所をどのように通過したのかが重要になります。歩く速度や疲労、時間の経過は、画面の外にある制作の条件です。
ロングが石を円形や線状に並べるときにも、単純な幾何学形態と現地の素材が組み合わされています。整った円を作ろうとしても、石の形や地面の凹凸によって線は少しずつ不規則になります。その土地にあるものを使うことで、作品は風景の中へ置かれると同時に、その場所の特徴を受け取ります。地形を大幅に変えずに制作する姿勢は、米国の巨大な掘削作品と並ぶもう一つの重要な方向でした。(参照:リチャード・ロング公式サイト|歩行による芸術)
石の円や線が持つ単純さと固有性
ロングは1970年代に入ると、石や木片を円形や線状に配置する仕事を広げ、屋外と展示室の両方で制作しました。円や直線そのものは、どこでも認識できる単純な形です。けれども、屋外で拾った石を置けば大きさも色も揃わず、置かれた土地の凹凸が輪郭を変えます。誰でも知っている幾何学的な形と、場所ごとに異なる自然素材が重なることによって、作品の姿が生まれます。
英国政府美術コレクションの解説によれば、ロングは歩行を通じた制作から、展示室に石や木を配置する作品や泥を使う絵画へと方法を発展させていきました。野外で活動する作家が、その後ずっと美術館を離れたわけではないことが分かります。歩いた行為を写真や文字で示す作品と、持ち運べる素材を展示室に並べる作品は、自然と身体の尺度を考えるという関心によって結びついていました。(参照:英国政府美術コレクション|リチャード・ロング)
地図や文字が歩いた時間を伝える
歩いた距離や日数、道順を作品として示す場合、完成後の物体がほとんど残らないことがあります。ロングは、地図や簡潔な文章を通して、歩いたという事実を観客に知らせました。記録された距離を読むと、見る人は歩くために要した時間を想像できます。地図の一本の線には、道の傾きやその日の気温は直接示されていませんが、作品が特定の場所と結びついていることは伝わります。
こうした作品を展示室で見る観客は、自分自身では歩かなかった経路を、写真、文字、地図によってたどることになります。作家の体験を観客が完全に再現するというより、別の場所に生じた行為を想像する仕組みです。身体の経験と、情報を読む経験が組み合わされることで、従来の彫刻では扱いにくかった時間や移動を美術の主題にすることができました。そこには概念芸術とつながる考え方も見られます。(参照:リチャード・ロング公式サイト|歩行による芸術)
歩く芸術家たちと、風景の中で行われる小さな行為
リチャード・ロングと英国の同世代作家たち
ロングが学んだセント・マーティンズ美術学校には、従来の彫刻から離れ、新しい素材や身体を使う制作を探る学生や若手作家が集まっていました。バリー・フラナガンなどの同世代の作家も、1960年代後半の実験に加わっています。ロングの歩行作品を一人だけの突然の発明として眺めるより、当時の英国で彫刻という分野の境界が広がっていた状況から見ると、歴史的な背景が理解しやすくなります。
英国での実践がすべて軽い痕跡だけだったわけではありません。素材を置く、移動させる、風景の中に一時的な形を作るなど、活動の方法には幅がありました。大地を掘り返す米国の実践と比較するときには、国ごとの特徴を一つの決まった型として扱うより、各作家が身体の動きや制作場所をどのように選んだのかを具体的に見ることが重要です。(参照:英国政府美術コレクション|リチャード・ロング)
ハミッシュ・フルトンが重視した歩くという経験
英国のハミッシュ・フルトンも、歩行を自身の芸術の中心に据えていった作家です。歩いた道のりを写真や言葉で伝える実践は、ロングの作品との共通点を持ちます。風景を見るために移動する行為が、作品の成立に欠かせないという考え方です。フルトンは1973年、英国を南北に歩く長い旅を終え、以後の作品を自ら経験した歩行だけから生み出すという方針を定めました。歩行の経験と、それを伝える作品を独自の方法で発展させていったのです。
こうした制作をランド・アートの歴史へ含めると、土地の形を変えることだけでは説明できない可能性が見えてきます。歩いた場所で物理的な造形を残す場合と、歩いたことを写真や文字に託す場合では、現地に残る変化の大きさが異なります。どちらも風景の中で身体が過ごした時間を重要視しています。1960年代末から1970年代初頭には、彫刻を何かを建造する仕事から、場所を経験する行為へと広げる考えが形成されていました。(参照:ギャラリー・トーマス・シュルテ|ハミッシュ・フルトンの作家声明)
屋外の作品と概念芸術が重なる地点
歩くことを作品にすると、観客は完成品の形だけを見て作品を理解することが難しくなります。制作の場所、行為の規則、通過した距離を説明する言葉が重要になるからです。例えば、決められた経路を歩いたという作品なら、実際に地面に何も残っていなくても、その行為が行われたという情報が作品の成立を支えます。どこまでが物体で、どこからが考えや情報なのかという問いは、同時代の概念芸術とも深く関わっています。
ランド・アートと概念芸術は、完全に別々の集団から発達したものとして理解するより、共通する問題を異なる制作方法で探っていたと考えると分かりやすくなります。図面、地図、写真、説明文は、実行された作品を伝えることも、これから実行される構想を示すこともあります。英国の歩行作品は、身体の現実的な移動と、頭の中で読み解く情報とのつながりを示す重要な例です。(参照:リチャード・ロング公式サイト|歩行による芸術)
雪や海岸を使ったヨーロッパと北米の実験
デニス・オッペンハイム《アニュアル・リングス》
デニス・オッペンハイムは1968年、《アニュアル・リングス》で木の年輪に似た同心円状の形を、雪の積もった土地に描きました。制作場所はアメリカとカナダの国境付近で、国家の境界と時間帯の区切りが交差する場所です。メトロポリタン美術館の資料では、雪を掘り分けることによって木の成長を示す形を大きく引き伸ばし、土地に刻んだことが説明されています。
木の年輪は、一本の樹木が生きてきた時間を表すものです。それを国境付近の雪の上へ移すことで、自然の時間と人間が決めた境界や時刻が同じ風景に重なります。雪の形は気候によって変わり、永久に保存されるものではありません。作品の写真や地図を見ながら考えると、地理的な場所、時間の測り方、自然の変化が、一つの制作行為によって結びついていることが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|オッペンハイム《アニュアル・リングス》)
ヤン・ディベッツが写真の遠近法を操作する
オランダのヤン・ディベッツは、土地に形をつくる行為と、カメラによってそれがどう見えるかという問題を組み合わせました。1960年代後半の《遠近法の修正》と呼ばれる作品群では、現実の空間に置かれた図形を、撮影位置から見たときだけ整った形に見えるよう操作します。ニューヨーク近代美術館には、1969年制作の《Perspective Correction – Square on Wall》などが収蔵されています。
ここで作品は、地面や壁に置かれた形と、写真に写った形との関係によって成立します。実際にその場所へ立つと歪んで見える図形が、特定の角度から撮影した写真では正方形として整って見えることがあります。自然を写すカメラは中立な道具なのかという問題も浮かび上がります。土地や空間を対象にする新しい美術の中には、土砂を大きく動かすこととは異なる、見る仕組みを変える実験が含まれていました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ディベッツ《遠近法の修正》)
自然と人工の仕組みを扱うハンス・ハーケ
ハンス・ハーケは1960年代から、水、空気、植物などが周囲の環境と影響し合う仕組みを作品に取り入れました。1967年には、土を入れた容器に草を育てる《グラス・キューブ》などを発表しています。透明な容器や規則的な形は工業製品を思わせますが、その中では植物が生きて成長し、時間とともに状態を変えます。作家がすべての変化を手で作り込むことなく、環境が作品へ作用する点に特徴がありました。
ハーケも1969年の《Earth Art》展に参加しました。こうした作品を見ると、自然を扱う現代美術の関心は、広い土地で何かを掘ったり積んだりすることだけに限られていなかったと分かります。生物、気温、湿度、物理的な変化など、環境の中で起こる関係そのものが観察の対象になっていました。屋外の地形を変える実践と、展示室に生きた仕組みを持ち込む実践は、同じ時代の重要な問題意識を共有していたのです。(参照:MITリスト・ヴィジュアル・アーツ・センター|ハンス・ハーケ1967年の活動)
ロバート・スミッソン《スパイラル・ジェティ》の誕生
1970年、グレートソルト湖に現れた渦巻き
1970年、スミッソンはユタ州のグレートソルト湖の北東岸、ロゼル・ポイント付近に《スパイラル・ジェティ》を制作しました。黒い玄武岩や土を湖へ運び出し、岸から水面へ渦巻き状に伸びる大きな道を築いた作品です。ディア美術財団によれば、全長は約457メートル、幅は約4.6メートルに及びます。写真では地面に描かれた明快な渦巻きとして見えますが、実際には大量の岩石を運搬する作業によって成立した巨大な立体です。
渦巻きは見る人を中心へ向かって歩かせる形をしています。外側から内側へ進むと、最初に眺めていた湖岸の風景が別の角度で見えてきます。中心に到着しても遠くの空や水面が広がり、鑑賞者の身体が作品の尺度を確かめることになります。航空写真の明快な図形と、現地で石の上を歩く不均一な感触には大きな差があります。スミッソンは、その両方の見え方が成立する場所と形を選んだのです。(参照:ディア美術財団|《スパイラル・ジェティ》)
玄武岩、塩、水位の変化が作品をつくり続ける
《スパイラル・ジェティ》には、黒い玄武岩、土、湖水、析出した塩の結晶が関わっています。自然環境の中に築かれた渦巻きは、完成後も周囲の湖から影響を受けました。水位が上がれば水に沈み、低くなれば再び姿を現します。塩の結晶が岩の表面を覆うこともあり、制作時の色と形がいつまでも同じ状態で続くわけではありません。湖と作品の関係そのものが、時間の中で変化していきます。
スミッソンがこれまで論じてきた風化や堆積の考えは、この作品で目に見える形になりました。一般的な建造物なら、崩壊を防ぎ、完成時の形を守ることが大きな課題になります。《スパイラル・ジェティ》では、変化する環境に作品を置くこと自体が発想の中心にあります。どのような変化を受け入れ、どこから修復が必要になるのかという判断は、後に作品を管理する人々にとって重要な問題となりました。(参照:ホルト/スミッソン財団|《スパイラル・ジェティ》)
大地の作品と映画、文章が一つの構想をつくる
《スパイラル・ジェティ》について語るときは、湖の中につくられた渦巻きとともに、スミッソン自身が制作した同名の映画や文章も重要になります。映画には現地の岩石や水面、工事の過程、上空から見た渦巻き、作品の上を移動する作家の身体などが登場します。文章では地質、歴史、科学的な知識が結びつき、作品を単なる巨大な幾何学形態として見る方法を超える視点が与えられます。
遠隔地に存在する作品をどのように伝えるかという問題に、スミッソンは自ら複数の媒体で取り組みました。空から眺めた渦巻きの写真を知っていても、それだけで映画や現地の歩行経験が置き換わるわけではありません。反対に、現地へ行っても作品に関わる文章や映像の意味が消えることはありません。ひとつの作品が大地、映画、文章を通して多層的に成立するという考えは、ランド・アートの歴史を理解する重要な鍵になります。(参照:ディア美術財団|《スパイラル・ジェティ》)
ナンシー・ホルトが風景を見る方法を変える
1969年《トレイル・マーカーズ》と道をたどる写真
ナンシー・ホルトは1969年、英国南西部ダートムーアの道を歩き、岩につけられたオレンジ色の目印を写真に撮りました。ハイキングをする人が道に迷わないよう設けられた印を追って、視線を地面へ向けながら進んでいく作品が《トレイル・マーカーズ》です。広大な風景の眺望を見せる写真とは異なり、目の前に現れた小さな丸印が次の一歩の方向を示します。作品を見る人は、写真を一枚ずつたどりながら、歩く人の視線の動きを想像します。
この写真群は1969年の旅行中に撮影され、現在知られる20点の組作品としては2012年に作家自身がまとめました。撮影年と組作品としての成立年を区別することで、資料の来歴も明確になります。ホルトは風景に新しい印を設置したのではなく、既にある目印を選び、撮影することで作品化しました。自分の身体が土地を移動する過程と、カメラで何を見るかという選択が制作の中心になっています。(参照:ホルト/スミッソン財団|《トレイル・マーカーズ》の研究)
《ロケーター》で視界を切り取る
1971年、ホルトは《ロケーター・イン・ウィンドウ》を制作しました。金属製のパイプを通して窓の外を見ると、視野の一部だけが円形に切り取られます。鑑賞者はふだんなら何気なく見渡している景色の中から、パイプが示す狭い範囲だけに注目することになります。カメラのレンズが周囲の風景を画面の枠へ収めることに関心を持っていたホルトは、その仕組みを実際に覗き込める彫刻へと展開させました。
この作品はニューヨークのアトリエでの経験から生まれています。遠く離れた自然の中だけでなく、都市の窓や建物の一部も、見る方法によって新しい対象になります。パイプの向きと鑑賞者が立つ位置が決まれば、視界の内容も大きく制限されます。作品を前にして景色を眺めるのではなく、どこからどの範囲が見えるのかを自分の身体で確かめる。ホルトはそうした鑑賞の条件を彫刻へ変えたのです。(参照:ホルト/スミッソン財団|《ロケーター・イン・ウィンドウ》)
1973年に始まる《サン・トンネルズ》の構想
ホルトは1973年から1976年にかけて、ユタ州の砂漠に《サン・トンネルズ》を構想・制作しました。完成した作品は、四本の大きなコンクリート製円筒を配置し、夏至と冬至の日の出や日の入りに合わせて太陽が見えるよう設計されています。円筒の側面には星座をもとにした穴が開けられ、内部へ差し込む光が時間とともに移動します。広い空と太陽の動きが、作品の構造を通して体験されます。
本記事の対象期間である1973年には、その構想が始まった段階に注目します。完成年を1973年とする説明では、制作過程の長さが見えなくなります。ホルトにとって、見る方向を限定する仕組みは《ロケーター》から続く重要な探究でした。そこに太陽や星の位置、季節の変化を組み合わせることによって、身体で確かめられる視線の範囲と、天文学的な大きさの時間が一つの彫刻へ重ねられていきました。(参照:ホルト/スミッソン財団|《サン・トンネルズ》)
大地を使った芸術が国境を越えて広がる
1969年《態度が形になるとき》と作品の制作過程
1969年、スイスのベルン・クンストハレでハラルド・ゼーマンが企画した《When Attitudes Become Form(態度が形になるとき)》展が開かれました。タイトルが示すのは、完成された作品の見た目だけでなく、作家の考え、行為、素材への働きかけが芸術の形になるという発想です。同展には土地や場所への働きかけを行う作家も関わり、ミニマリズム以後に広がる実験を国際的に紹介する機会となりました。
この展覧会はランド・アートだけを対象とするものではありませんでした。素材を変化させる制作、概念を示す作品、展示場所に直接手を加える試みなどが同時に紹介されました。ランド・アートがほかの動向とどのような問題を共有していたかを考えるうえで、重要な背景となります。作品が完成品の輸送だけで成立する従来の展覧会の仕組みは、制作行為そのものが展示の一部になることで大きく変化していました。(参照:ベルン・クンストハレ|1969年の展覧会記録)
1970年の東京ビエンナーレ《人間と物質》
1970年には東京ビエンナーレ《人間と物質》が開催されました。批評家の中原佑介が企画を担い、日本と海外の作家による同時代の実験を紹介した重要な展覧会です。作品を固定した物体として見る考えから、素材、場所、行為、人間と物質の関係を探る方向へ広がっていた美術の状況を、日本で共有する機会となりました。ヨーロッパやアメリカの動向は、日本の「もの派」などと同時代の問題として比較されるようになります。
ランド・アートの歴史をアメリカの西部に限って説明すると、このような国際的な交流が見えにくくなります。各地の作家が同じ方法を採用したという意味ではありません。土地や物質のあり方を考える問題が、展覧会、図録、写真、批評を通じて異なる地域の美術に関わっていったのです。東京ビエンナーレは、日本の同時代美術を世界の動向と結びつけて考えるための節目でもありました。(参照:東京ビエンナーレ|1970年《人間と物質》の歴史)
1971年《ブロークン・サークル/スパイラル・ヒル》
1971年、スミッソンはオランダのエメン近郊の採砂場で《ブロークン・サークル/スパイラル・ヒル》を制作しました。これは同年の野外展覧会《Sonsbeek buiten de perken》に際して実現した作品です。水辺の輪郭を半円状に変える部分と、螺旋状に登る道を備えた丘の部分から成り、採砂場に残る氷河由来の巨礫も作品の中心に取り込まれています。人工的に掘られた地形と、古い地質の痕跡がひとつの場所に重なります。
この作品は、アメリカの砂漠で生まれた造形方法を単純にヨーロッパへ移したものとしては捉えきれません。オランダ特有の水辺の地形や産業活動の歴史が、作品を成立させる重要な条件になっています。湖に伸びる形と丘を登る経路では、観客が場所を経験する方法も異なります。1960年代末に発達した土地を使う芸術が、1970年代初めには複数の地域の地質や産業史を取り込むようになったことが分かります。(参照:ホルト/スミッソン財団|《ブロークン・サークル/スパイラル・ヒル》)
写真、映像、地図は作品とどう関わったのか
現地へ行けない人に作品を伝える写真
ランド・アートの多くは、都市から離れた土地に設置されていたり、短期間しか存在しなかったりします。そのため、ほとんどの人が作品を最初に知るのは写真や図版を通じてです。《ダブル・ネガティヴ》の二つの溝の関係も、《スパイラル・ジェティ》の渦巻きも、上空や遠くから撮った写真によって形が分かりやすくなります。美術館の図録や雑誌に掲載される画像が、実物を見たことのない人々の作品理解を支えてきました。
写真は作品を一枚の図形として示す力を持ちます。その力には、現地で経験する距離、足元の起伏、天候の変化などを伝えきれない側面もあります。航空写真で渦巻きの全体を理解することと、石の上を歩いて中心へ進むことは別の経験です。ランド・アートを知るときには、写真が何を明確にし、どのような感覚を画面の外へ残すのかを意識することが重要になります。(参照:ディア美術財団|《スパイラル・ジェティ》)
記録写真そのものが作品となる場合
ロングの《歩行によってつくられた線》は、写真の存在が作品の受容に深く関わる例です。草地の上につくられた線は長く残らず、写真と文字が後世へその行為を伝えています。ホルトの《トレイル・マーカーズ》では、目印を順番に追った写真の組み合わせ自体が、鑑賞者の視線を動かす作品となりました。こうした写真は、完成した巨大彫刻を後から撮った記録とは成立の仕方が異なります。
スミッソンの《ノンサイト》では、写真は地図や石と組み合わされ、展示室から離れた場所を指し示します。どの写真も同じ役割を担っていると考えると、作品を成り立たせる構造が見えにくくなります。写真が一時的な行為の証拠になる場合、写真の構図自体が作品の中心になる場合、地図や物質とともに場所を示す場合があるのです。この違いが、ランド・アートと写真の関係を理解する手がかりになります。(参照:スコットランド国立美術館|《歩行によってつくられた線》)
画廊、美術館、出版物を介して作品が広がる
屋外に残される作品には、絵画のように梱包して販売し、購入者の部屋へ運ぶことができないものがあります。それでも作品を社会へ伝えるためには、発表の場所や批評が必要です。ドワン・ギャラリーの展覧会、コーネル大学の企画、テレビで放送された《Land Art》は、それぞれ異なる方法で遠隔地の作品と観客を結びつけました。写真、図面、文章、映像は、作品の内容を知るための重要な手段となります。
これらの媒体は、制作を支える資金や作品の評価とも関係します。画商や収集家は、現地へ運べない作品の企画や制作を支援し、その内容を写真や資料で共有しました。美術館は記録と資料を収集し、後の展示や研究に利用します。美術館の外へ出た芸術は、展示制度との関係を新しい形で結び直していったのです。作品が置かれる場所と、作品を社会へ伝える場所が分かれることは、現代美術の発表方法を大きく変えました。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート)
自然環境、土地の利用、作品の保存を考える
人の手が加わった風景も制作の舞台だった
初期のランド・アートは、手つかずの自然の中にだけ生まれたわけではありません。スミッソンはニュージャージー州の工業化した郊外や採石場を訪れ、オランダでは採砂場を制作場所に選びました。《スパイラル・ジェティ》の周囲にも、地質の歴史と人間の活動が重なっています。土地を舞台とする作品を考えるときには、その場所がどのように使われてきたのかという歴史を知ることが重要です。
自然の地形と人間が作った設備は、実際の風景の中で入り交じっています。採石場は岩石を取り出すことで姿を変え、人工湖や道路も長い時間の中で風化していきます。作家はその変化を新しい造形へ取り込みました。こうして考えると、ランド・アートは都市文明から離れて自然を賛美するという単純な物語には収まりません。産業によって変えられた土地や、そこで作用し続ける物質に注目する実践でもありました。(参照:ホルト/スミッソン財団|《ブロークン・サークル/スパイラル・ヒル》)
大規模な掘削と環境への影響
土地を作品にする方法には、自然との関係について異なる考え方が含まれています。ハイザーの作品は大量の土砂を動かし、地形を長く変化させました。ロングの歩行では、草地に生じる変化は比較的小さく、短期間で消えていきます。同じランド・アートという名前のもとで紹介されていても、土地への影響や制作規模は大きく異なります。現在、これらの作品を見るときには、どのように土地を使ったかという具体的な条件も検討する必要があります。
同時代には環境そのものへの関心を正面から扱う作家も現れました。アグネス・デネスは1968年に《Rice/Tree/Burial》の初期の行為を実施し、植物の成長、人間による介入、埋められた言葉を組み合わせました。これは後の環境芸術の歴史を考える手がかりになります。地形を巨大な彫刻へ変える仕事と、生態系や環境問題を主題とする仕事は、隣り合う時代に生まれながら、それぞれ異なる問題に向き合っていたのです。(参照:アグネス・デネス公式サイト|《Rice/Tree/Burial》)
変化し続ける作品を美術館はどう守るのか
大地につくられた作品には、浸食、植物の成長、水位の変動、気候の変化などが日々作用します。《スパイラル・ジェティ》は、制作当時の低い水位の中で建設され、その後、水面の下に沈んだ時期を経て、2002年以降は再び見える状態が続きました。ディア美術財団は作品を管理し、2012年からは航空写真によって変化を継続的に記録しています。保存とは、単に完成直後の姿を再現することに限られません。
作品の変化をどこまで受け入れるのか、来訪者がどの範囲まで立ち入れるのかといった問題も生まれます。たとえば現地の石を持ち帰れば、作品の物質そのものが失われます。ほかの植物や地面を傷つける行為も、周囲の環境に影響します。芸術家が変化を制作の条件に取り込んでいた場合、保存する人々はその考えを理解しながら管理する必要があります。ランド・アートは、完成後にも長く判断が続く芸術なのです。(参照:ディア美術財団|《スパイラル・ジェティ》)
1972–1973年、最初の時代はどこへ向かったのか
1972年以降も続いた大規模な制作
1970年代初頭には、土地を使った作品の規模や構想がさらに広がっていきました。ハイザーは1972年にネバダ州で長期にわたる《シティ》の制作を開始し、広大な土地に複数の構造物を築く計画へ進みます。1960年代末の一時的な実験から、長期の資金調達、施工、管理を必要とする大きな事業へ発展した例です。ドワンのような支援者の存在も引き続き重要でした。
その頃には、ロングは歩行と石を使う作品を続け、ホルトは見る仕組みを用いた砂漠での作品を構想し始めていました。大地を作品として扱う方法は、単一の方向へまとまることなく広がります。巨大な土木的作品をつくること、歩く行為を続けること、太陽の移動を作品に取り込むことは、それぞれ異なる問題を深める道筋でした。初期の数年間に生まれた発想が、各作家の長期的な制作の核になっていきます。(参照:ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート)
1973年《アマリロ・ランプ》とスミッソンの死
スミッソンが最後に手がけた大地の作品が、テキサス州の《アマリロ・ランプ》です。乾いた湖のそばで、岩と土による曲線状の傾斜路をつくる構想でした。1973年7月20日、制作中の現場を上空から調査・撮影していたスミッソンは、小型飛行機の墜落事故で亡くなりました。同乗していた操縦士ゲイル・レイ・ロジャーズと写真家リチャード・I・カーティンも犠牲になっています。
作品はその後、ナンシー・ホルト、リチャード・セラ、トニー・シャフラジが地元の作業者たちと協力し、スミッソンの構想に従って完成させました。作品の制作には芸術家本人だけでなく、場所を提供する人、建設に携わる人、記録を残す人が関わっていたことが、この経緯からも分かります。1973年はスミッソンの死という歴史的な節目であり、ランド・アートの最初の時期をひとまず区切って考える一つの理由になります。(参照:ホルト/スミッソン財団|《アマリロ・ランプ》)
ランド・アートがその後の美術に残したもの
1967年の草地に残された一本の線から、1973年の《アマリロ・ランプ》までをたどると、美術の形と制作場所をめぐる考えが短い期間に大きく広がったことが分かります。歩いた行為だけを残す作品、巨大な岩石を使う作品、都市の展示室へ土を運び込む作品、写真やテレビを通して初めて観客へ届く作品が、同じ時代に現れました。土地そのものの条件を理解し、そこに働きかけることが、芸術制作の一つの方法として確立されていきます。
この流れは1973年で終わったわけではありません。ホルトの《サン・トンネルズ》は1976年に完成し、デ・マリアの《ライトニング・フィールド》は1977年に実現します。ロングも歩行を中心とした活動を続け、土地と鑑賞者の関係を探る制作は各地へ広がりました。現在では写真、保存記録、環境への配慮を通して作品を見ることも一般的です。ランド・アートの成立は、芸術がどこに存在し、どのような時間の中で生き続けるのかという問いを、美術史の中心へ押し広げた出来事でした。(参照:ディア美術財団|《スパイラル・ジェティ》)
略年表
1967年から1973年までの主な作品、展覧会、発表の動きを年代順にまとめました。制作年と後年の公開・収蔵年が異なる作品については、本文の説明を参照してください。
- 1967年 リチャード・ロングが草地を歩いて《歩行によってつくられた線》を制作する。
- 1967年9月 スミッソンがニュージャージー州パセーイクを訪れ、都市郊外の風景を撮影する。
- 1967年12月 スミッソンのパセーイク訪問をめぐる文章が『アートフォーラム』誌に発表される。
- 1968年 スミッソンが《ノンサイト》の連作に取り組み、屋外と画廊を結びつける。
- 1968年 オッペンハイムが国境付近の雪を用いた《アニュアル・リングス》を制作する。
- 1968年 デ・マリアがモハーヴェ砂漠で《マイル・ロング・ドローイング》を制作する。
- 1968年 デ・マリアがミュンヘンで最初の《アース・ルーム》を制作する。
- 1968年10月 ニューヨークのドワン・ギャラリーで《Earth Works》展が開かれる。
- 1969年2月 コーネル大学でウィロビー・シャープ企画の《Earth Art》展が開かれる。
- 1969年 ハイザーがネバダ州に《ダブル・ネガティヴ》を制作する。
- 1969年 ベルン・クンストハレで《When Attitudes Become Form》展が開かれる。
- 1969年4月15日 ジェリー・シュムのテレビ展覧会《Land Art》がドイツで放送される。
- 1969年 ナンシー・ホルトが英国で《トレイル・マーカーズ》の写真を撮影する。
- 1970年 スミッソンがグレートソルト湖に《スパイラル・ジェティ》を制作する。
- 1970年 東京ビエンナーレ《人間と物質》が開催される。
- 1971年 ホルトが《ロケーター・イン・ウィンドウ》を制作する。
- 1971年 スミッソンがオランダで《ブロークン・サークル/スパイラル・ヒル》を制作する。
- 1972年 ハイザーがネバダ州で《シティ》の制作を始める。
- 1972年 ホルトが視界を限定する《ロケーター》の展開を続ける。
- 1973年 ホルトが《サン・トンネルズ》の構想と制作に向けた検討を進める。
- 1973年7月20日 《アマリロ・ランプ》の制作途中、スミッソンが飛行機事故で亡くなる。
- 1973年 ホルトらがスミッソンの構想を引き継ぎ、《アマリロ・ランプ》を完成させる。
- 1973年 ハミッシュ・フルトンが長距離歩行を経て、歩行体験に基づく作品だけを作る方針を定める。
まとめ — 美術館の外へ広がった芸術
1967年から1973年にかけて、芸術家たちは作品をつくる場所と、作品を経験する方法を大きく広げました。英国のリチャード・ロングは草地を歩くことで一本の線を残し、アメリカのマイケル・ハイザーは広大な台地から土砂を取り除きました。ウォルター・デ・マリアは砂漠に長い線を引くとともに、画廊へ大量の土を持ち込みました。ロバート・スミッソンは地質と時間への関心を、湖の中へ伸びる渦巻きや、採石場の地形を使った作品に結びつけています。
そこには、自然に対する単一の考え方や共通の制作規則があったわけではありません。土地を大きく改変する人、歩く行為を重視する人、写真によって見方を変える人が、同じ時代に異なる可能性を探りました。ナンシー・ホルトの作品が示すように、風景の中で何を見るのか、視線をどこへ向けるのかという問いも、彫刻の重要な主題へ広がっていきます。
ランド・アートは大地に残された巨大な形だけで成立しているわけでもありません。写真、映画、地図、テレビ番組、展覧会などによって作品は共有され、遠隔地の制作が美術史に記録されました。さらに美術館や財団は、移動できず、自然とともに変わる作品を長期にわたって管理する課題へ向き合っています。美術館の外へ踏み出した芸術家たちの仕事は、作品の場所、時間、身体、保存について考える新しい視点を残しました。
参考資料・出典
本記事は、美術館、大学、作家財団、作家本人の記録、展覧会の公式資料をもとに、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。作品の制作年、後年の再展示・収蔵・再構成を区別し、各小節末尾から主な根拠資料へアクセスできるようにしています。
- リチャード・ロング公式サイト|作品と制作の考え方
- スコットランド国立美術館|《歩行によってつくられた線》
- 英国政府美術コレクション|リチャード・ロング
- ホルト/スミッソン財団|《パセーイクの記念碑》
- ホルト/スミッソン財団|1968年《ノンサイト》の研究
- ホルト/スミッソン財団|「精神の堆積」
- ワシントン・ナショナル・ギャラリー|ドワン・ギャラリーとランド・アート
- ディア美術財団|ロバート・モリス《無題(土)》
- ニューヨーク近代美術館|ロバート・モリス《無題》
- ディア美術財団|《ニューヨーク・アース・ルーム》と先行作品
- ディア美術財団|デ・マリア《ライトニング・フィールド》と初期作品
- ロサンゼルス現代美術館|《ダブル・ネガティヴ》
- コーネル大学|1969年《Earth Art》展の記録
- コーネル大学図書館|1969年《Earth Art》展の写真資料
- ZKM|ジェリー・シュムとテレビ・ギャラリー
- クレラー=ミュラー美術館|テレビ展覧会《Land Art》
- メトロポリタン美術館|オッペンハイム《アニュアル・リングス》
- ニューヨーク近代美術館|ディベッツ《遠近法の修正》
- MITリスト・ヴィジュアル・アーツ・センター|ハンス・ハーケ1967年の活動
- ディア美術財団|《スパイラル・ジェティ》
- ホルト/スミッソン財団|《スパイラル・ジェティ》
- ホルト/スミッソン財団|《トレイル・マーカーズ》の研究
- ホルト/スミッソン財団|《ロケーター・イン・ウィンドウ》
- ホルト/スミッソン財団|《サン・トンネルズ》
- ベルン・クンストハレ|1969年の展覧会記録
- 東京ビエンナーレ|1970年《人間と物質》の歴史
- ホルト/スミッソン財団|《ブロークン・サークル/スパイラル・ヒル》
- アグネス・デネス公式サイト|《Rice/Tree/Burial》
- ホルト/スミッソン財団|《アマリロ・ランプ》
- ギャラリー・トーマス・シュルテ|ハミッシュ・フルトンの作家声明
- アムステルダム国立美術館|1969年《Land Art》放送図録
- ナショナル・ギャラリー|オッペンハイム《アニュアル・リングス》
- ホルト/スミッソン財団|《アマリロ・ランプ》制作記録
資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY