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1969–1979

美術史の中で見過ごされてきた女性たちが、芸術のあり方を変えていく

フェミニスト・アートの誕生

美術館で西洋美術史の展示を見ると、時代を代表する画家や彫刻家の名前には男性が数多く並んでいます。女性芸術家の姿が少ないのは、なぜでしょうか。女性が作品を制作してこなかったからでしょうか。1970年代のアメリカでは、この疑問を出発点として、美術史の書き方から作品の作り方、美術館の仕組みまでを問い直す動きが広がりました。後に「フェミニスト・アート」と呼ばれる、多様な芸術家や研究者たちの活動です。

彼女たちが問題にしたのは、才能のある女性が十分に評価されていないという状況でした。絵画を学ぶ機会を得られたのか。個展を開催できたのか。作品を購入する美術館があったのか。批評家が作品を取り上げ、歴史として記録してきたのか。芸術の価値は、作品を見るだけで決まるものではありません。作品が人々に届くまでの多くの条件を、あらためて考える必要がありました。

1969年にはニューヨークで女性芸術家の集団が結成され、1970年には美術館の展示における女性の少なさを訴える行動が起きました。1971年、美術史家リンダ・ノックリンは「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」と問い、芸術教育や職業上の機会の歴史を分析しました。この問題は、美術館に飾られる人の数を増やす活動と、美術史を成り立たせてきた基準そのものを見直す活動を結びつけていきます。

同じ頃、ロサンゼルスではジュディ・シカゴやミリアム・シャピロが新しい芸術教育を試み、1972年には一軒の家を展覧会に変えた《ウーマンハウス》が生まれました。ニューヨークでは女性芸術家自身が運営するA.I.R.ギャラリーが設立されます。芸術家たちは、自分の経験を作品にすることと、作品を発表する場所を自分たちで作ることを同時に進めました。

作品の形も大きく広がります。布や刺繍を絵画へ取り入れたシャピロ、育児の記録を作品として提示したメアリー・ケリー、台所の道具を使って家庭の役割を問い直したマーサ・ロスラー。さらにシカゴは《ディナー・パーティー》で、歴史の中で十分に顕彰されてこなかった女性たちのために巨大な食卓を作りました。どの作品も、身近な題材から美術史の大きな問題へとつながっています。

活動する女性たちの考え方は、初めからひとつにまとまっていたわけではありません。フェイス・リングゴールドら黒人女性芸術家は、人種と性別の両方に関わる問題へ向き合いました。女性の身体を積極的に表す作家と、女性という存在が社会の中でどのように形作られるかを分析する作家もいました。「女性のための芸術」という共通の言葉の中に、異なる立場や経験が存在していたのです。

本記事では1969年から1979年までのアメリカを中心に、この動向を18の章に分けてたどります。美術史になじみのない読者にも、具体的な作品と出来事から出発して、その変化の意味が伝わるように整理しました。女性芸術家の歴史を知ることは、私たちが普段、美術館で何を当たり前だと考えているかを見つめ直すことにもつながります。

女性芸術家は、なぜ美術史から見えにくかったのか

「フェミニスト・アート」はどのような美術なのか

フェミニスト・アートという言葉は、特定の絵柄や技法を表しているわけではありません。1970年代のアメリカでは、絵画を描く人、映像を制作する人、街頭で抗議する人、美術学校の授業や画廊を作る人が、それぞれの方法で女性の置かれた状況を問い直しました。作品の外見は大きく異なっていても、何が芸術と認められ、誰がそれを発表できるのかという共通の問題を抱えていたのです。

この時代の活動を理解するには、「女性が芸術を作り始めた」という話から離れる必要があります。女性は何世紀にもわたって作品を制作してきました。歴史に記録される条件や、専門教育を受ける機会、作品を展示する場所が不均等だったため、彼女たちの存在は一般的な美術史の中で見えにくくなっていました。フェミニスト・アートは、その仕組みを分析しながら、新しい制作と発表の方法を実際に作っていった動向です。(参照:ナショナル・ギャラリー|女性と美術の歴史)

「優れた作品」の評価を誰が決めていたのか

美術館に作品が飾られるまでには、作家を知る批評家、作品を購入する収集家、展示を企画する学芸員、歴史を書く研究者など、多くの人が関わっています。1970年代の女性芸術家たちは、この選択の積み重ねに注目しました。ある作家が美術史に登場しないのは、作品の質だけで説明できるのでしょうか。本人が活動していた時代に展覧会へ参加できたか、作品が収集され保存されたかによって、後世に残る資料の量まで変わります。

これまで当然とされていた評価の基準を、作品の外側にある教育や経済の問題から考え直す姿勢が生まれました。そこには、美術館に女性の作品を増やすという目標と、美術館が価値を決める方法自体を検証するという目標がありました。二つの方向は、その後の運動の中で繰り返し交差していきます。(参照:ナショナル・ギャラリー|女性と美術の歴史)

女性の歴史を取り戻すことと、新しい作品を作ること

この運動には、異なる時間の向きがあります。過去へ向かう活動では、忘れられた女性芸術家を調べ、美術学校や公的な注文制作に参加できなかった歴史を明らかにしました。現在へ向かう活動では、制作する女性が自分の経験から主題を選び、展示や出版を実現できる環境を作ろうとしました。美術史研究と同時代の作品制作が、互いを支える関係になっていたのです。

女性の身体、家庭、育児、服飾、工芸に関わる題材が注目されるのも、この文脈から理解できます。何を「重要な主題」として扱うかという判断自体に、長い歴史があります。そうした主題を作品の中心に据えることは、制作の可能性を広げると同時に、美術館や批評の価値基準を揺さぶることでもありました。(参照:ナショナル・ギャラリー|女性と美術の歴史)

1969年、美術館に抗議する女性芸術家たち

ウーマン・アーティスツ・イン・レヴォリューションの結成

1969年、ニューヨークで「ウーマン・アーティスツ・イン・レヴォリューション」(W.A.R.)が結成されました。美術館の運営や芸術家の権利をめぐって活動していたアート・ワーカーズ・コアリションの女性部門を母体とする集団です。スミソニアン協会に残された記録には、フェイス・リングゴールドやナンシー・スペロ、ジャクリーン・スカイルズらの参加と、声明、抗議資料、出版物が記録されています。

当時はベトナム戦争への反対や公民権運動を背景に、美術館に対しても社会的な責任を求める声が高まっていました。女性芸術家たちは、こうした改革運動の内部でも自分たちの要求が十分に扱われていないと感じていました。美術制度の改善を訴える集団の中から、女性の展示機会や職業上の地位を固有の課題として取り上げる活動が現れたことに意味があります。(参照:スミソニアン美術文書館|W.A.R.の歴史資料)

1970年、ホイットニー美術館への抗議

1970年には、批評家ルーシー・リパード、フェイス・リングゴールド、ポピー・ジョンソン、ブレンダ・ミラーらが、女性芸術家の参加が少ないホイットニー美術館の年次展を問題にしました。アド・ホック女性芸術家委員会は、学芸員への働きかけに加え、女性の出品比率を引き上げるよう求める行動を展開しました。リパードは後年の聞き取りで、展示室に「女性を50%に」と記した卵や未使用の生理用品を置いたことを振り返っています。

この行動は、どの作品が優れているかという抽象的な議論を、展覧会に誰が選ばれたかという確認可能な問題へ引き戻しました。リパードの証言によれば、美術館側は女性作家のアトリエを訪問するなど、一定の反応を示しました。美術館の運営方針そのものが芸術家による抗議の対象になったという点で、当時進んでいた制度批判とも接点があります。(参照:スミソニアン美術文書館|ルーシー・リパードの証言)

女性の作品を知るための資料を作る

展覧会への抗議を準備した人々は、もう一つの問題に直面しました。女性芸術家の名前を挙げようとしても、十分な情報が集まらなかったのです。リパードは、作品のスライドを集める登録活動がこの時期に始まり、後には多数の女性芸術家の作品資料へ発展したと証言しています。見えにくくなっていた存在を記録し、学芸員や批評家が参照できる形にすること自体が改革でした。

資料を整える取り組みと並行して、リパードは1971年にオールドリッチ美術館で《26人の現代女性芸術家》展を企画します。ニューヨークで個展を開いた経験がないことを選考条件とし、既存の画廊から注目されにくかった人々へ発表の場を作りました。女性の活動を「発見する」作業は、その存在を伝えるための仕組みを新しく整える作業でもあったのです。(参照:スミソニアン美術文書館|ルーシー・リパードの証言)

1971年、リンダ・ノックリンが美術史の問いを変える

「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」

1971年、美術史家リンダ・ノックリンは『ARTnews』に「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」と題する論考を発表しました。挑発的な題名は、女性の才能を疑う問いをわざと引き受けるところから始まります。ノックリンが調べたのは、才能の生まれつきの差より、芸術家として活動するための教育、経済的支援、専門的な人脈、作品を発表する機会が、歴史的にどう配分されていたかという問題でした。

例えば、後世に「巨匠」と呼ばれる人々は、多くの場合、幼い頃から修業を積み、仕事の注文を得て、作品が保存される機会に恵まれていました。同じ道筋へ進めない人が多くいた社会で、最終的に残された作品数だけを比較しても、制作能力の公平な評価にはなりません。ノックリンの文章は、女性芸術家の問題を個人の努力から制度の歴史へ移した点で転換点となりました。(参照:スミソニアン|リンダ・ノックリンへのインタビュー)

人体を描く訓練と、美術学校への入学制限

ヨーロッパの美術教育では、長く人体の素描が重要な位置を占めました。歴史画や大規模な人物画を制作するためには、実際の人体を観察して骨格や筋肉の構造を理解する訓練が求められました。ところが女性は、多くの時代や地域で男性裸身モデルを使った授業への参加を制限されていました。芸術家になる入口で、将来の制作領域が狭められていたことになります。

こうした条件の下では、権威ある大画面の歴史画を描く経験や、公的な注文を得る機会にも格差が生じます。優れた技術を持つ女性が存在した事実と、教育上の障壁があった事実は同時に成り立ちます。ノックリンの研究が促したのは、個々の逸話を集めることに加え、何を学べるかを決めていた規則そのものを美術史の資料として読むことでした。(参照:ナショナル・ギャラリー|女性と美術の歴史)

「天才」という物語の裏にある条件

美術史の入門書には、ひとりの天才が新しい表現を生み出し、次の世代へ影響を与えたという物語がしばしば登場します。この説明は作品の独創性を伝えるうえで便利です。同時に、弟子として工房へ入ること、展覧会に出品すること、購入者と出会うことなど、才能が社会の中で活動へ結びつくための条件を見えにくくします。ノックリンは、その条件を研究の中心に据えました。

この視点は女性の歴史を調べるときだけに役立つものではありません。階級や地域、民族的な背景によって教育や発表の機会が異なる場合にも応用できます。1970年代のフェミニスト美術史が残した大きな成果の一つは、作品の変遷とともに、作品が歴史へ登録される過程を調べる研究方法を広めたことでした。(参照:スミソニアン|リンダ・ノックリンへのインタビュー)

同じ時代に活動した黒人女性芸術家たち

フェイス・リングゴールドの絵画と社会運動

フェイス・リングゴールドは、1960年代から人種差別や社会の暴力を絵画の主題として扱っていました。女性の展示機会を増やす活動にも加わり、1970年には娘のミシェル・ウォレスとともに、黒人美術の解放を求める女性の集団を結成しました。1971年にはケイ・ブラウン、ディンガ・マッキャノンらと、黒人女性芸術家の集団「ホエア・ウィ・アット?」を生み出しています。

こうした活動から見えてくるのは、女性の芸術家がすべて同じ問題を抱えていたわけではないという事実です。リングゴールドたちは主流の美術館で黒人として周縁化される経験と、改革運動の内部で女性として軽視される経験の双方に向き合っていました。性別の問題を考えるときに、人種や教育、生活の条件を分けてしまうと、彼女たちの活動を十分に説明できません。(参照:ニューヨーク近代美術館|フェイス・リングゴールド)

独自の展示機会を生み出す「ホエア・ウィ・アット?」

「ホエア・ウィ・アット?」という名称は、自分たちが美術の世界でどこに位置しているのかを問う呼びかけとしても読めます。集団の形成には、白人男性が中心の美術館に加え、黒人芸術の運動や白人女性が目立つフェミニスト運動の中で、黒人女性自身の活動の場を確保する必要がありました。共同で展覧会を行うことは、作品を見せる実務的な方法であると同時に、誰が芸術家として知られるのかを変える行為でした。

この流れを押さえると、フェミニスト・アートの歴史をロサンゼルスのジュディ・シカゴたちだけの物語として読むことが難しくなります。ニューヨークには別のネットワークと別の要求があり、それらは同じ時代を共有しながら異なる経験から形成されました。記事全体を理解するための重要な視点です。(参照:ニューヨーク近代美術館|フェイス・リングゴールド)

社会を描くことと、発表する場所を作ること

リングゴールドは1972年、アメリカ社会で起きた人種差別と暴力の歴史を地図に書き込んだ版画《ユナイテッド・ステイツ・オブ・アッティカ》を制作しました。地図という見慣れた形式を通して、通常の愛国的な国土像とは異なる歴史を示す作品です。彼女はこの時期、刑務所に収容された女性たちへの美術教育にも関わっており、制作と社会参加をつなげていました。

フェミニスト・アートを理解するには、女性の身体や家事の表現だけを見るのでは十分ではありません。社会の暴力や歴史を描く絵画を制作しながら、誰が描き、誰に作品を見せられるのかという条件を変える活動も、1970年代の重要な実践でした。リングゴールドの経歴は、表現方法と社会的な活動を一体として考える手がかりになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|フェイス・リングゴールド)

女性の経験から始まる新しい美術教育

1970年、フレズノのフェミニスト・アート・プログラム

1970年、ジュディ・シカゴはカリフォルニア州フレズノで、女性だけを対象とする実験的な美術教育を始めました。当時の美術学校では、教員や参照される巨匠の多くが男性で、専門家として活動する女性に期待される役割も限定的でした。シカゴは、学生たちが他者の評価を気にして主題を選ぶ状況から距離を取り、自分自身の経験と向き合う教育環境を作ろうとしました。

授業では、学生たちが制作場所を整える作業にも関わりました。建物を改修し、工具を使い、共同で活動する環境を作ること自体が、従来の芸術教育の枠を広げる実践でした。完成した作品の技法だけを教える授業から、制作を可能にする生活と共同作業の条件まで考える授業へ、焦点が移っていきます。(参照:ジュディ・シカゴ公式サイト|制作年譜)

個人的な経験を共有する「意識化」の方法

プログラムの特徴の一つは、少人数で経験を語り合う「意識化」と呼ばれる方法を制作に取り入れたことです。家庭での役割、仕事、恋愛、結婚、身体に関する経験を話し、それぞれが個人的だと思ってきた困難に共通する社会的な条件を探ります。人前で語りにくかった話題が、作品の主題として検討されるようになりました。

この教育方法からは、女性の身体や生活の経験を直接表現する作品が多く生まれました。同じ時代の女性芸術家すべてが、そのような主題を選んだわけではありません。フェミニスト・アートの教育上の革新は、女性が何を描くべきかを一つに定めたことより、学生が自分の主題を選ぶ過程を、社会の価値観と結びつけて考える場を作ったことにあります。(参照:ジュディ・シカゴ公式サイト|制作年譜)

1971年、シカゴとミリアム・シャピロが共同指導する

1971年、シカゴはカリフォルニア芸術大学に活動を移し、画家ミリアム・シャピロとフェミニスト・アート・プログラムを共同で指導しました。シャピロは既に抽象絵画の制作歴を持ち、学校教育と自身の表現の両面で変化を模索していました。異なる世代の二人が共同で教えることで、既存の美術教育に参加する方法と、その枠組みを変える方法の両方が試されました。

学生たちは絵画や彫刻の個人制作に加え、空間全体を変える共同プロジェクトに取り組みました。この活動から1972年の《ウーマンハウス》が生まれます。教室で語られた経験が、一軒の家の部屋や家具、衣服、生活用品を使った作品へ展開していく過程は、フェミニスト・アートが教育と制作を切り離さなかったことを示しています。(参照:カリフォルニア芸術大学|フェミニスト・アート・プログラム)

1972年《ウーマンハウス》が生まれる

一軒の家を丸ごと展覧会へ変える

1972年、ロサンゼルスの空き家を利用した《ウーマンハウス》が公開されました。シカゴとシャピロの指導のもと、学生や協力者たちが老朽化した住宅を改修し、台所や浴室、寝室などをそれぞれ異なる作品の場へ変えました。カリフォルニア芸術大学の記録では、17室を持つ住宅が利用され、1972年1月30日から2月28日まで一般公開されたことが確認できます。

通常の美術館では、作品の周囲に余白を設け、鑑賞者が一つずつ眺めることが想定されます。《ウーマンハウス》では、鑑賞者は住宅の中を歩き、家庭生活に結びついた場所を順番に体験します。美術作品と、それを取り囲む空間の区別が変わりました。建物そのものが、女性に割り当てられてきた家庭での役割を考えるための構造になっていたのです。(参照:カリフォルニア芸術大学図書館|《ウーマンハウス》の記録)

なぜ台所や浴室が芸術の主題になったのか

台所や浴室は、絵画史の中ではしばしば背景として描かれてきました。日々そこで行われる掃除、調理、身体の手入れには時間も労力もかかりますが、その仕事の多くは家の中に隠れ、芸術の主題として高く評価されてきたわけではありませんでした。《ウーマンハウス》は、その空間を作品の中心へ移しました。

家庭内の行為を目に見える形にすることは、家事を美しいものとして賛美することと同じではありません。繰り返される作業や期待される振る舞い、身体に関する規範を作品として示し、鑑賞者に考えてもらうことが目指されました。私的な空間を展覧会へ変えたことで、日常生活の仕組みが公共の場で語られるようになったのです。(参照:ゲティ研究所|女性の建物とフェミニスト芸術教育)

作品を共同制作した学生たちの存在

《ウーマンハウス》は、シカゴとシャピロだけで完成させた作品ではありません。学生や招待された芸術家たちがそれぞれの部屋や上演を担当し、作業や準備を分担しました。後に有名になった指導者の名前だけで記憶すると、作品を実際に作った多くの人々の試みが見えにくくなります。共同制作の過程は、芸術家一人の独創性を中心に語る美術史への問いともつながっています。

全員が同じ発想で参加したわけでもありません。家庭を象徴的な空間として扱う人もいれば、そこで感じてきた不満や不安を直接的な形にする人もいました。ひとつの住宅に異なる作品が共存することは、女性の経験が一種類にまとめられないという事実を、展覧会の構成そのもので示していました。(参照:カリフォルニア芸術大学図書館|《ウーマンハウス》の記録)

《ウーマンハウス》の作品を具体的に見る

《月経の浴室》が示した身体の扱われ方

ジュディ・シカゴの《月経の浴室》では、清潔に整えられた白い浴室の中に、生理用品や血の痕跡を思わせる物が配置されました。普段は人目から隠される身体の現象が、公開された展覧会の中で直接的に扱われます。壁や便器などの見慣れた設備は、家庭生活の一部であると同時に、何を人前に見せるべきかという社会的な判断を浮かび上がらせる装置になりました。

この作品が問いかけるのは、身体を美しく描く方法というより、身体の現実がどのように語られてきたかという問題です。女性の裸体は長く美術の重要な題材でしたが、月経のような日常的な経験は主題となる機会が限られていました。絵画の中で理想化される身体と、現実の生活で扱われる身体との隔たりが、浴室という場所で示されました。(参照:メトロポリタン美術館|ミリアム・シャピロ《バルセロナ・ファン》)

《台所》と《卵から乳房へ》

《ウーマンハウス》の台所では、ロビン・ウェルシュの空間構成とヴィッキー・ホジェッツの《卵から乳房へ》が組み合わされました。台所の中で、食物を想起させる卵の形が乳房の形へと変化していくように配置されます。調理と栄養、出産や授乳に結びつく身体的な連想が、普段は合理的な家事のためにある場所に重ねられました。

鮮やかな色彩と反復する形態には、装飾的な楽しさもあります。その見た目の奥には、女性の身体が家庭の仕事や養育の役割と結びつけられてきた歴史があります。料理をする場所が、社会から女性に期待されてきた役割の展示空間へ変わることで、日常の景色の意味が揺らぎます。(参照:ゲティ研究所|女性の建物とフェミニスト芸術教育)

部屋を巡る鑑賞と、記録映像の役割

《ウーマンハウス》では、各部屋の設置作品に加えて、演劇的な上演も行われました。鑑賞者は単一の作品の前に立つのではなく、住宅内を移動してさまざまな声に出会います。家の中では当たり前とされてきた行為が、目の前で演じられ、観客の視線にさらされます。絵画、立体作品、演劇の区別を越える展覧会形式が生まれました。

住宅を使った展示は期間を終えると解体されます。現在、その姿を知る手がかりの多くは写真や記録映像に残されています。ヨハンナ・デメトラカスが撮影した映像も、その経験を後世へ伝える資料になりました。作品が一時的な空間に存在していたからこそ、誰が何を記録し、どの部屋の姿が後に語り継がれるのかという問題も残ります。(参照:カリフォルニア芸術大学図書館|《ウーマンハウス》の記録)

1972年、女性たちは自分たちの画廊を作る

ニューヨークに誕生したA.I.R.ギャラリー

1972年、ニューヨークでA.I.R.ギャラリーが設立されました。バーバラ・ズッカーとスーザン・ウィリアムズの構想から始まり、ナンシー・スペロ、ハーモニー・ハモンド、ハワーデナ・ピンデルらを含む女性芸術家が共同で運営しました。スミソニアン協会は、アメリカで最初の女性芸術家のための非営利・芸術家自主運営の画廊と位置づけています。

画廊に所属して個展を開くことは、作品が批評家や収集家の目に触れる重要な道筋でした。その機会を持ちにくい女性たちは、既存の画廊に認められるのを待つ代わりに、自分たちで場所を借り、展覧会を企画し、運営を担う方法を選びました。作品を作ることに加えて、作品が社会へ届く仕組みを作ることが活動の中心へ入っていきます。(参照:スミソニアン美術文書館|A.I.R.ギャラリーの沿革)

異なる表現を持つ芸術家が共存する場所

A.I.R.の参加者は共通の作風を掲げていませんでした。ハワーデナ・ピンデルは抽象と制作工程を探究し、ナンシー・スペロは紙に描かれた人物像と言葉を用い、ハーモニー・ハモンドは繊維や立体作品へ関心を広げていました。そこに共通していたのは、女性にふさわしい一つの絵柄を示すことより、自分たちの多様な作品を継続的に発表できる環境を確保する必要でした。

会員は展覧会の準備、運営、宣伝を分担しました。1976年にはフランスの女性芸術家による展覧会も企画し、地域を越えた交流へ活動を広げています。A.I.R.の歴史を見ると、フェミニスト・アートの成果が作品だけで数えられないことが分かります。そこには、運営の仕組み、協力関係、国際的な情報交換の場を持続させる仕事が含まれていました。(参照:スミソニアン美術文書館|A.I.R.ギャラリーの沿革)

自主運営が生んだ自由と負担

自主運営の画廊では、出品作家が展覧会の内容を自分たちで決められます。画商の判断に依存する部分が小さくなり、販売しやすい作品ばかりを選ぶ必要も減ります。実験的な表現や、当時の市場で評価されにくかった作品を発表するための重要な条件でした。これは制度を批判すると同時に、別の制度を実際に作ってみる試みでもあります。

その活動には、賃料や広報、展示作業を引き受ける負担もありました。ハーモニー・ハモンドの聞き取りでは、子育てと収入のための仕事、制作時間を調整する難しさが語られています。女性芸術家を支える新しい画廊の運営にも、時間と労力が必要でした。その事実まで含めることで、芸術の「自由」が生活の条件と深く結びついていることが見えてきます。(参照:スミソニアン美術文書館|ハーモニー・ハモンドの証言)

1973年、ロサンゼルスに「女性の建物」が生まれる

フェミニスト・スタジオ・ワークショップの設立

1973年、ジュディ・シカゴ、デザイナーのシーラ・レヴラント・ド・ブレットヴィル、美術史家アーリーン・レイヴンは、ロサンゼルスにフェミニスト・スタジオ・ワークショップを設立しました。専門技術の習得と、自分自身の経験を作品として考える教育を組み合わせる独立した学校です。同年11月には、活動の拠点となる「ウーマンズ・ビルディング」が開設されました。

名称は、1893年のシカゴ万国博覧会で女性の仕事や文化を紹介するために設けられた建物を踏まえています。そこでは制作場所と教室、発表場所を同じ建物の中に集めることが試されました。芸術家として生きていくための知識や協力関係まで共有する拠点を作ろうとしたことに、この計画の特色があります。(参照:スミソニアン美術文書館|ウーマンズ・ビルディング資料)

教育・展示・出版を一つの拠点でつなぐ

ウーマンズ・ビルディングには、講座や展覧会の会場に加えて、書店や女性団体の活動拠点も入りました。後には映像制作やグラフィックデザインに関わる活動も発展します。美術学校で技術を学んだ後、別の場所で発表先を探すという従来の道筋を組み替え、学習から制作、公開までを身近な関係として扱いました。

ポスターや雑誌のデザイン、印刷、映像の編集は、美術運動の情報を社会へ伝えるためにも重要でした。絵画や彫刻が美術館へ届くのを待つ活動と並んで、一般の人々が手に取れる媒体を制作する実践が進みます。広報や記録を担う仕事もまた、運動を継続するための創造的な活動として位置づけられるようになりました。(参照:スミソニアン美術文書館|ウーマンズ・ビルディング資料)

制度を変えることと、制度を作ること

ウーマンズ・ビルディングは大学の内部にある実験的な授業から、独立した活動拠点を作る段階へ進んだ例です。美術館に女性の作品を展示するよう求めるだけで、十分な変化が生まれるとは限りません。教育の方針、企画の決定方法、働く人々の関係を別の形で試すことができる場所が必要とされたのです。

この施設も、日々の運営費や人員の確保といった現実的な課題から自由ではありませんでした。スミソニアンに残る記録には、会議議事録、予算、教育計画、展覧会の準備文書まで保存されています。完成作品とともに、芸術活動を可能にする管理や教育の仕事を歴史資料として残した点も、その重要な遺産です。(参照:ゲティ研究所|女性の建物とフェミニスト芸術教育)

布や刺繍は、なぜ絵画より低く評価されてきたのか

ミリアム・シャピロが絵画へ持ち込んだ布

ミリアム・シャピロは1970年代、抽象絵画の制作を続けながら、布地、レース、ハンカチ、壁紙を思わせる模様を画面に取り込むようになりました。これらはそれまで家庭生活や手仕事と結びつけられ、美術館では絵画や彫刻と別の分類に置かれることが多かった素材です。シャピロは、そこに含まれる色彩や装飾、手仕事の歴史を、現代絵画の中心で扱おうとしました。

例えば1979年の《バルセロナ・ファン》では、扇の形と鮮やかな布の模様が組み合わされ、画面は抽象的な色彩構成であると同時に、衣服や室内装飾を思わせる物質的な存在になっています。メトロポリタン美術館は、シャピロの実践を美術と工芸、純粋芸術と応用芸術の厳しい序列を問い直す仕事として位置づけています。(参照:メトロポリタン美術館|ミリアム・シャピロ《バルセロナ・ファン》)

「フェマージュ」という制作方法

シャピロは、女性の手仕事の歴史に結びつく素材や技法を用いたコラージュ的な制作を「フェマージュ」と呼びました。布を縫い合わせたり、型紙を重ねたり、装飾を貼り合わせたりする行為が、抽象絵画の制作方法として再び捉えられます。重要なのは、家庭で使われてきた物の見た目を絵画へ引用するだけでなく、それらを作ってきた人々の技能と時間を認めることでした。

絵画の表面にレースや布を取り付けると、色や形のほかに、触感、繊維の厚み、使用されてきた生活用品の記憶が入ります。見る人は、それを幾何学的な構図として感じることも、手仕事の集積として受け取ることもできます。現代絵画の形式と、長く美術史の周縁に置かれてきた素材が、ひとつの画面で交わるのです。(参照:メトロポリタン美術館|ミリアム・シャピロ《バルセロナ・ファン》)

装飾の再評価とパターン&デコレーション

シャピロの作品は、1970年代半ば以降の「パターン&デコレーション」と呼ばれる動向へつながっていきました。大きな画面に花柄や繰り返し模様、布地や工芸の技法を大胆に取り入れる作家が現れます。装飾が軽いものと見なされがちだった近代美術の価値基準を再検討する流れでした。シャピロにとって、その問題は女性の仕事の歴史とも密接に結びついていました。

模様や工芸の再評価には複数の動機があり、参加作家の考え方も同じではありませんでした。イスラム圏やアジアの装飾文化から学ぶ作家、絵画を色彩的に豊かにしようとする作家、性別に結びつけられた手仕事を検証する作家がいます。本記事ではシャピロをフェミニスト・アートの文脈から読み、次の記事でこの美術動向を独立して掘り下げます。(参照:メトロポリタン美術館|ミリアム・シャピロ《バルセロナ・ファン》)

美術史の有名な作品を、女性芸術家たちで作り替える

メアリー・ベス・エデルソン《最後の晩餐》への介入

メアリー・ベス・エデルソンは1972年、《生きているアメリカの女性芸術家たち/最後の晩餐》を発表しました。レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》をもとに、キリストと使徒の顔を当時活動していた女性芸術家の肖像に置き換えた作品です。美術史上もっともよく知られる男性中心の集団像の中に、現代の女性芸術家たちが並びます。

肖像を置き換えるという操作は単純ですが、鑑賞者に大きな問いを投げかけます。私たちは、歴史を代表する人物が男性で構成されている絵を、どれほど自然なものとして見てきたのでしょうか。古典的な図像を借りたことで、女性が中心に並ぶとそれが新鮮に感じられるという、見る側の習慣が浮かび上がります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|エデルソン《最後の晩餐》)

既存のイメージを使うことで見える権威

エデルソンは新しい集合肖像画をゼロから描く方法も選べました。彼女が有名な宗教画の構成を用いたことで、作品が持つ権威の由来そのものが問題になります。美術史に繰り返し掲載される作品の図像は、多くの人の記憶に残り、何が重要な絵なのかという感覚を形作ります。その構図の登場人物だけを変えると、権威あるイメージの中で誰が可視化されているのかが分かります。

同時代の女性芸術家の名前や顔を並べたこの作品は、忘れられた存在を知るための一覧にもなります。美術の制度を批判することと、別の歴史を書き込むことがひとつの画面で行われています。後の引用芸術と共通する方法を持ちながら、女性の芸術家が誰であるかを具体的に示した点に、この作品の独自性があります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|エデルソン《最後の晩餐》)

一人ずつの作品を知る入口としての集合像

集合写真や名簿には、ひとつの限界があります。参加した女性たちの名前が見えたとしても、その全員が同じ種類の作品を作っているように受け取られることがあります。エデルソンの作品が興味深いのは、女性芸術家を可視化するための共同体的なイメージでありながら、そこで示された一人ひとりの制作はまったく異なっているという点です。

絵画を続ける人、映像を作る人、素材を研究する人、政治的な表現を試みる人が、同じ構図へ集められています。鑑賞者は既存の美術史の象徴的な画面を見直すと同時に、そこに登場した作家の実際の作品へ関心を向けることができます。失われていた名前の存在を伝え、その先に個別の制作を読む入口を作るという役割も持っていました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|エデルソン《最後の晩餐》)

メアリー・ケリーは、育児をどのように作品にしたのか

1973–1979年《ポスト・パータム・ドキュメント》

アメリカ生まれで当時イギリスを拠点に活動していたメアリー・ケリーは、1973年に息子が生まれたことを契機に、《ポスト・パータム・ドキュメント》の制作を始めました。1979年まで続いたこの作品は、母子の関係と子どもの言語習得、育児を行う母親の経験を、多数の記録や図表、文章によってたどるものです。個人的な出来事を、美術館で鑑賞するための資料の集合として構成しました。

ケリーは、母子を美しい姿として描く伝統的な母子像とは異なる方法を選びました。成長の過程で生まれる小さな変化、言葉を覚える瞬間、親子が少しずつ別の存在になっていく感覚に注目します。作品は感情を説明する日記でもあり、記録を比較する研究のようにも見えます。育児が思考の対象であり、長い時間を必要とする仕事でもあることが現れています。(参照:ゲティ研究所|メアリー・ケリーのアーカイブ)

使用済みのおむつが作品になった理由

作品の初期には、子どもが使ったおむつの内張りの汚れや、授乳や食事の記録も扱われました。美術館の展示室でこうした資料を見ると、生活の中ではごく普通に存在するものが、そこでは場違いに感じられるかもしれません。ケリーはその違和感を利用し、知的な研究の対象として認められる経験と、家庭内で見過ごされる仕事との境界を示しました。

育児の作業には、洗い、記録し、繰り返し世話をする時間が必要です。概念芸術でよく使われる記録や一覧表の方法を用いることで、ケリーは家庭内の仕事を細かく観察できる対象に変えました。何を扱えば芸術と認められるのかという問いが、素材の新しさを越えて、生活のどの部分を真剣に考えるかという問題へ広がります。(参照:ゲティ研究所|メアリー・ケリーのアーカイブ)

概念芸術と、母親という存在の関係

ケリーは精神分析や言語に関する理論を参照し、子どもが成長するなかで母子の関係が変わっていく過程を検討しました。作品には感情や不安も含まれていますが、それらを単純に「母性の本質」としてまとめていません。親子は別々の主体として変化し、母親自身もその関係の中で考え続ける存在として描かれます。

ゲティ研究所は、この作品が概念芸術の一見すると非個人的な記録の方法へ、育児という性別によって分担が偏りやすい経験を持ち込んだ点を重要視しています。図表や文章という冷静な形式と、親子の個人的な関係が重なっているのです。女性の経験を扱うフェミニスト・アートの中でも、ケリーは理論と記録を通して表現を組み立てた作家でした。(参照:ゲティ研究所|メアリー・ケリーのアーカイブ)

1975年、台所の道具が激しい身振りに変わる

マーサ・ロスラー《台所の記号論》

マーサ・ロスラーの《台所の記号論》(1975)は、約6分の白黒映像です。ロスラーはエプロンを着けて台所に立ち、料理番組の司会者のように調理器具をひとつずつ紹介していきます。道具はアルファベットの順番に登場します。見慣れた家庭向けテレビ番組の形式を借りながら、ロスラーの動作は次第に鋭く、攻撃的になっていきます。

視聴者は料理が完成するのを期待しますが、画面に現れるのは器具を振り回し、動作そのものを誇張する人物です。包丁や麺棒は料理を助ける便利な道具であると同時に、家庭で女性に期待される役割を象徴する物にも変わります。よく知っている動作が少し変わるだけで、日常の景色が緊張を帯びて見えてきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロスラー《台所の記号論》)

料理番組の明るい語り口を裏返す

1960年代のアメリカでは、テレビが家庭生活の理想像を広く伝える媒体でした。料理番組は手順を分かりやすく説明し、家事の技術を魅力的に見せます。ロスラーはその形式を借りたため、視聴者は自然に彼女の説明を聞こうとします。ところがその動作は、家庭の仕事へ向けられた不満や抑圧を表すように変化します。そこで初めて、明るい家事のイメージが何を隠しているのかが意識されます。

この映像の鋭さは、料理を嫌う女性という人物像を描くことに尽きません。女性が家庭でどのように振る舞うべきかが、テレビや言葉によって繰り返し教えられる仕組みを示した点にあります。ロスラーは料理番組そのものの構造を作品へ取り込み、役割を演じる身体を鑑賞の対象にしました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロスラー《台所の記号論》)

アルファベットという規則と、身体の感情

《台所の記号論》には、AからZまで道具を示すという明快な規則があります。規則を先に設定して行為を進める点では、同時代の概念芸術にも近い構造です。その順序の中へ、感情を帯びた身振りが入り込んでいきます。文字という規則的な記号と、身体が発する怒りや緊張が一つの映像でぶつかり合います。

この作品を見ると、言葉や映像の中で作られる「主婦」という役割が、日々の所作にも関係していることが分かります。台所を家庭の中の自然な居場所として映すテレビの形式を使いながら、その場の意味を揺さぶる。映像という媒体を選んだこと自体が、当時の大衆文化への批評になっていました。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロスラー《台所の記号論》)

1974–1979年《ディナー・パーティー》

歴史上の女性たちを招く巨大な食卓

ジュディ・シカゴが1974年から1979年にかけて制作した《ディナー・パーティー》は、フェミニスト・アートの代表的な作品です。大きな三角形の食卓が置かれ、各辺に13人分、合計39人分の席が設けられています。食卓の席には歴史や神話に登場する女性たちのための皿や布が用意され、その下の床にはさらに999人の名前が記されています。ブルックリン美術館は、合計1,038人の女性を顕彰する作品として紹介しています。

ヨーロッパ美術の歴史では、宴席や歴史的な会合の中心人物として男性が描かれることが多くありました。シカゴは、誰が招かれ、誰の名前が残されるのかという問題を食卓の形式へ変えました。鑑賞者は単に巨大な物体を見るだけでなく、一人ひとりの席に込められた歴史を知ろうとすることになります。(参照:ジュディ・シカゴ公式サイト|《ディナー・パーティー》)

39人の席と、床に刻まれた999人の名前

《ディナー・パーティー》の席には、女性たちの生涯や功績に関連する意匠が施されています。器皿の形や色、布の刺繍や模様がそれぞれ異なり、時代を越えた女性たちの歴史が視覚的な違いとして現れます。食卓の下に配置された999人の名前は、よく知られた少数の人物の周囲に、さらに多くの活動した女性がいたことを示しています。

この作品の強い印象は、歴史を一度に見渡せる大きさにもあります。芸術家が一人の人物を顕彰する彫像を作る代わりに、多数の女性の名を集め、それぞれに場所を与えました。その方法には、歴史上の女性の実績を調べる研究、象徴的な食卓の構想、布や陶器を制作する手仕事が組み合わされています。作品は記念碑であり、歴史に触れるための入口でもあります。(参照:ブルックリン美術館|《ディナー・パーティー》の構成)

刺繍と陶芸が記念碑の中心になる

《ディナー・パーティー》では、刺繍や織物、陶芸などの技術が大規模に使用されました。これらは長く家庭生活や装飾の技法に分類され、伝統的な絵画や彫刻と異なる扱いを受けることがありました。シカゴは、女性が歴史的に担ってきた手仕事の形式を作品の中心へ据えることで、何を偉大な芸術として記念するのかという問題を素材から問い直しました。

制作には数多くの協力者が参加しました。シカゴの公式年譜は、研究者を含む約400人が制作に携わったと説明しています。巨大な作品の完成は、構想した芸術家の仕事とともに、調査、陶芸、針仕事、組み立てなどを担当した人々の長い労働によって支えられています。女性の歴史を顕彰する作品の制作方法にも、共同作業という重要な要素がありました。(参照:ジュディ・シカゴ公式サイト|制作年譜)

女性の身体をどう表すかという議論

《ディナー・パーティー》の皿が巻き起こした論争

《ディナー・パーティー》の皿には、花や蝶、女性器を想起させる形が多く見られます。シカゴは女性の身体と結びつく形態を積極的に使い、それまで隠されがちだった身体を肯定的なイメージとして示そうとしました。作品の公開当時、こうした図像は大きな反響を呼びました。身体を堂々と示すことに解放的な意味を見いだす人々がいた一方で、別の考え方も生まれました。

女性の身体に共通する形を、女性全体の象徴として使うことはできるのでしょうか。生き方や文化的な背景、身体に対する考え方が異なる女性たちの経験を、ひとつの形で代表させることへの疑問もありました。フェミニスト・アートの内部で、女性の経験を見えるようにする方法そのものが議論の対象となっていきます。(参照:ジュディ・シカゴ公式サイト|《ディナー・パーティー》)

シカゴとケリーの作品が示す異なる考え方

シカゴの《ディナー・パーティー》では、女性の身体を想起させる視覚形態が大きな役割を果たします。これに対し、メアリー・ケリーの《ポスト・パータム・ドキュメント》は、記録や言葉、親子の関係の変化を通して女性の経験を扱いました。二人はどちらも当時の美術から見過ごされていた問題を主題にしましたが、作品を形作る考え方は大きく異なっています。

この違いをたどると、フェミニスト・アートを一つの様式として捉えることの難しさが分かります。身体を直接示すことが重要な作家もいれば、身体について語る言葉や社会的な関係を分析する作家もいました。互いに異なる表現が同じ時代に生まれ、時には論争することで、女性とは誰を指すのかという問い自体が深まっていったのです。(参照:ゲティ研究所|メアリー・ケリーのアーカイブ)

女性の身体を「見る」ことと、「見られる」こと

女性の身体は長く西洋絵画の主要な題材でした。神話や宗教、肖像、裸婦の表現の中で、鑑賞される対象として繰り返し描かれてきました。1970年代の女性芸術家たちは、そのような歴史を背景に、自分自身の身体をどのような立場から示すのかを考え始めました。見られる側に置かれていた存在が、画面や映像を作る側へ回ることで、既存の表現の意味が変わっていきます。

エデルソンが有名な宗教画の人物を女性芸術家へ置き換えた方法も、この問題につながります。重要な人物として誰が描かれ、誰が視線を集めるのかを変えるからです。身体の表現は見た目の問題であると同時に、その像を作る権限の問題でもありました。1970年代の多様な実践は、この二つを同時に考えるための手がかりになります。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|エデルソン《最後の晩餐》)

芸術家は社会の問題へ、どのように関わったのか

スザンヌ・レイシーの公共空間での実践

スザンヌ・レイシーは、女性の経験を展示室の内部に限らず、都市や公共空間で扱うパフォーマンスを展開しました。1977年の《スリー・ウィークス・イン・メイ》では、ロサンゼルスで起きた性暴力の記録や地図、公開行事などを通して、個々の女性の被害が社会的な問題であることを可視化しようとしました。美術作品を見る場所が、展覧会場から人々の生活する都市へ広がっていきます。

そこで重要になるのは、芸術家が出来事を一人で表現することに加え、情報を集め、協力者を募り、観客が考える場を組織することです。街頭や公共施設を使うことによって、作品に偶然接する人々や、社会の問題に直接関係している人々とも関わるようになります。フェミニスト・アートの活動が、展示制度を越えて社会のコミュニケーションの方法へ及んでいたことが分かります。(参照:ゲティ研究所|レイシーとラボウィッツの公共パフォーマンス)

1977年《イン・モーニング・アンド・イン・レイジ》

同じ1977年、レイシーはレスリー・ラボウィッツとともに《イン・モーニング・アンド・イン・レイジ》をロサンゼルス市庁舎で実施しました。女性への連続殺人事件をめぐる報道と社会の反応に抗議するため、黒い衣装と赤い布を用いた集団のパフォーマンスが行われました。記録写真には、大きな衣装を着た女性たちが階段に並び、報道陣の前で発言する様子が残されています。

この作品では、悲しみを表す身体的な演出と、社会へ向けて明確に訴える言葉が結びついています。美術館に収蔵される物体の制作とは異なり、その日の出来事、参加した人々、写真や映像による記録が作品の歴史を構成します。フェミニスト・アートが美術界の改革から公共の問題へ活動領域を広げたことを示す事例です。(参照:ゲティ研究所|レイシーとラボウィッツの公共パフォーマンス)

家事、育児、仕事を社会の問題として考える

フェミニスト・アートが社会へ関わる方法は、公共空間での大規模なパフォーマンスに限りませんでした。育児のために制作時間を確保できないこと、家事が当然の仕事として無償で引き受けられていること、職場で女性に特定の役割が割り当てられていることも、作品や共同活動の主題になりました。ウーマンズ・ビルディング周辺では、育児や働く女性の経験から出発する集団も活動しました。

ここで重要なのは、誰が芸術家として制作できるのかという問いが、生活の時間と労働の分担に関係していることです。画材や制作場所があっても、作品を作る時間を持てなければ継続的な活動は難しくなります。1970年代の女性芸術家たちは、芸術の制度に加え、そこへ参加するために必要な暮らしの条件まで視野に入れていました。(参照:ゲティ研究所|女性の建物とフェミニスト芸術教育)

女性自身が美術批評や出版の場を作る

1977年創刊の雑誌『ヘレシーズ』

1977年、ニューヨークでフェミニストの芸術・政治雑誌『ヘレシーズ』が創刊されました。準備は1970年代半ばから進められ、ルーシー・リパード、ハーモニー・ハモンド、ミリアム・シャピロ、ジョイス・コズロフら多くの女性が参加しました。美術雑誌の批評が作家の評価に強い影響を与える時代に、自分たちで文章を発表し、問題を提起できる媒体を作ることが目指されました。

雑誌では、女性の作品を紹介することに加え、政治、家族、性、芸術労働、人種差別など、互いに結びつく問題が取り上げられました。作品を説明する言葉を持つことは、作品を展示する場所を持つことと同じくらい重要です。どの作家の仕事が語られ、何を重要な問いとして設定するかという批評の働きまで、自分たちで担う活動が進みました。(参照:ラトガース大学|雑誌『ヘレシーズ』の資料)

毎号異なる人々が編集する仕組み

『ヘレシーズ』は、号ごとに異なる編集集団を作る方法を採用しました。全体の運営を支える人々がいる中で、その号の主題に関心を持つ参加者が編集に加わり、文章や図版を集めます。ラトガース大学の資料によれば、同誌は1977年から1993年までに27号を刊行し、レズビアンの芸術、老い、人種差別など、多様なテーマを扱いました。

この編集の方法には、一人の代表が運動全体の意見を決めることを避け、異なる人々の関心を紙面へ反映させようとする考えがありました。もちろん、掲載する人や内容を選ぶ編集上の判断が消えるわけではありません。雑誌を継続するための運営と、多様な意見が集まる場を維持する仕事が、活動の大きな部分を占めていました。(参照:ラトガース大学|雑誌『ヘレシーズ』の資料)

作品、批評、資料を自分たちで残す

展覧会が終わると、そこで交わされた議論や制作した作品の記録は散逸しやすくなります。『ヘレシーズ』のような出版物は、同時代の言葉や主張を資料として残す役割も持ちました。また、女性の作品をスライドで記録する活動や、ウーマンズ・ビルディングでの映像記録は、後に美術史を研究するための基礎資料となっています。

女性が見過ごされてきた歴史への批判を、将来の研究者が確認できる記録へ変えること。これはフェミニスト・アートの重要な成果です。いま私たちが1970年代の活動を学べる背景には、作家の制作だけでなく、議事録を保管し、展覧会資料を整理し、文章を編集した多くの人々の仕事があります。(参照:ラトガース大学|雑誌『ヘレシーズ』の資料)

1977–1979年、運動は何を変えたのか

1977年「フェミニスト・アートとは何か?」

1977年、ロサンゼルスのウーマンズ・ビルディングでは、「フェミニスト・アートとは何か?」という問いに対する芸術家の回答を集めた展覧会が開かれました。ルース・イスキン、ルーシー・リパード、アーリーン・レイヴンらが企画し、女性芸術家たちへ一枚の紙に自分の考えを表すよう呼びかけました。スミソニアン協会によれば、200人を超える芸術家が文章や絵、コラージュなどで応じました。

運動が数年にわたって続いた後にも、その意味を一つの答えへまとめられなかったことが興味深い点です。参加者の制作方法も生活の条件も多様で、女性とは誰を指すのか、芸術を変えるとは何かという問いにも違いがありました。展覧会は統一した宣言を示す場というより、同じ名前のもとに異なる考えが存在していることを可視化する場になりました。(参照:スミソニアン美術文書館|1977年「フェミニスト・アートとは何か?」)

1979年、《ディナー・パーティー》の公開と社会的な反響

1979年、《ディナー・パーティー》はサンフランシスコ近代美術館で初公開されました。シカゴの公式資料によれば、会期中には多くの人々が訪れ、作品は美術館の外にも広く知られるようになりました。1970年代初頭に女性芸術家の展示機会が限られていると訴えられていた状況から、女性の歴史を顕彰する巨大な作品が注目を集める段階へ進んだことが分かります。

この時点で、フェミニスト・アートの活動には、教育機関、自主運営の画廊、出版物、批評、映像記録、共同制作の経験が蓄積されていました。作品が有名になることと、美術界の不均等な仕組みが解消されることは同じではありません。1980年代以降も、誰が歴史に残るのかという問題は継続します。1970年代の大きな変化は、作品と制度を同時に変えようとする方法が形成されたことにあります。(参照:ジュディ・シカゴ公式サイト|制作年譜)

フェミニスト・アートが美術史に残したもの

1969年から1979年を振り返ると、この動向は女性の作品を増やす取り組みから始まり、作品を評価する基準、生活と芸術の関係、教育、展示や出版の仕組みまで問いを広げました。ノックリンが美術史の前提を分析し、リングゴールドが複数の社会的な問題へ向き合い、シャピロが布や装飾の価値を問い直し、ケリーやロスラーが家庭生活を新しい方法で作品化しました。互いに異なる実践が、美術の可能性を広げていったのです。

次の時代には、装飾や工芸を現代絵画の中心へ置くパターン&デコレーション、写真や大衆メディアの女性像を扱う作家たち、1980年代のゲリラ・ガールズなどへ問題が引き継がれます。今日、作品の作者だけでなく教育や展示の条件を考えたり、家庭の経験を芸術の主題として捉えたりできる背景にも、1970年代に積み重ねられたこれらの試みがあります。(参照:ナショナル・ギャラリー|女性と美術の歴史)

略年表

以下は、1969年から1979年にかけてアメリカで起きた主な出来事を、記事の内容に沿って整理したものです。複数の活動が同時に進んでいたことも読み取れます。

  • 1969年 ニューヨークでウーマン・アーティスツ・イン・レヴォリューション(W.A.R.)が結成される。
  • 1970年 ジュディ・シカゴがフレズノで女性のための実験的な美術教育を始める。
  • 1970年 ホイットニー美術館の年次展で女性の展示機会を求める抗議が展開される。
  • 1970年 フェイス・リングゴールドらが黒人女性芸術家のための活動を始める。
  • 1971年 リンダ・ノックリンが「なぜ偉大な女性芸術家はいなかったのか?」を発表する。
  • 1971年 ルーシー・リパードが《26人の現代女性芸術家》展を企画する。
  • 1971年 シカゴとシャピロがカリフォルニア芸術大学で共同教育を行う。
  • 1971年 リングゴールドらが「ホエア・ウィ・アット?」を形成する。
  • 1972年 《ウーマンハウス》がロサンゼルスで公開される。
  • 1972年 ニューヨークでA.I.R.ギャラリーが設立される。
  • 1972年 メアリー・ベス・エデルソンが《生きているアメリカの女性芸術家たち/最後の晩餐》を発表する。
  • 1973年 ウーマンズ・ビルディングとフェミニスト・スタジオ・ワークショップが設立される。
  • 1973年 メアリー・ケリーが《ポスト・パータム・ドキュメント》の制作を開始する。
  • 1974年 ジュディ・シカゴが《ディナー・パーティー》の制作を始める。
  • 1975年 マーサ・ロスラーが《台所の記号論》を制作する。
  • 1975年頃 『ヘレシーズ』刊行へ向けた集団の活動が始まる。
  • 1976年 「フェミニスト・アートとは何か?」を問う回答募集が進められる。
  • 1977年 フェミニスト芸術・政治雑誌『ヘレシーズ』が創刊される。
  • 1977年 ウーマンズ・ビルディングで「フェミニスト・アートとは何か?」展が開かれる。
  • 1977年 スザンヌ・レイシーらがロサンゼルスで公共空間のパフォーマンスを展開する。
  • 1978年 ジュディ・シカゴが《ディナー・パーティー》の制作を支える非営利組織を設立する。
  • 1979年 《ディナー・パーティー》がサンフランシスコ近代美術館で初公開される。
  • 1979年 ケリーが《ポスト・パータム・ドキュメント》を完成させる。

まとめ — 女性芸術家たちは何を変えたのか

1969年から1979年のフェミニスト・アートは、作品の新しい見た目をひとつ生み出した運動としては捉えきれません。美術史から見えにくくなってきた女性芸術家の存在を検証し、教育や展示の機会を広げ、家庭や身体の経験を作品の主題にする活動が、同時に進んだ十年間でした。どこで学び、どこに作品を見せ、誰にその価値を語ってもらうのか。芸術を成り立たせる条件そのものが変化の対象になったのです。

《ウーマンハウス》の各部屋、《ディナー・パーティー》の食卓、ケリーの育児記録、ロスラーの映像、リングゴールドの絵画は、造形的な方法も思想も異なります。その違いがフェミニスト・アートを理解する手がかりになります。表現の方法を新しくすること、歴史を読み直すこと、活動するための組織を作ることが、互いに影響しながら進みました。

続く1970年代半ば以降には、装飾や工芸を現代絵画の中心へ置くパターン&デコレーションが展開し、1980年代には写真や広告表現を使って女性像を問い直す作家たちが現れます。本記事で見た歴史は、その後の美術が何を主題として扱い、誰に向けて発表できるのかを考えるための重要な基盤になっています。

参考資料・出典

本記事は、美術館、大学、作家の公式記録、研究機関が公開する当時の文書と聞き取りをもとに、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しました。1970年代アメリカの複数の活動を一つの作風へ単純化せず、作品・教育・美術史研究・組織づくりの関係をたどっています。各小節の末尾には、さらに内容を確認できる参照資料を示しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY