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Art History

1916–1918

ダダの誕生

チューリヒとニューヨーク

1916年、ヨーロッパでは第一次世界大戦が続いていました。

機関銃。

重砲。

毒ガス。

鉄道。

大量動員。

科学、産業、国家組織が生み出した近代的な技術と合理性は、同時に巨大な殺戮のシステムとして働いていました。

この状況の中で、「合理的な社会」「進歩」「文化」といった価値そのものを信用できないと感じる芸術家たちが現れます。

彼らが作ったものは、一つの新しい画風ではありませんでした。

意味の通らない詩。

偶然によって作られるコラージュ。

新聞や日用品。

仮面をつけたダンス。

挑発的な雑誌。

そして、工場で作られた既製品そのもの。

後に「ダダ(Dada)」と呼ばれる動きです。

ダダには一つの中心地があったわけではありません。

1916年のチューリヒで「Dada」という名称を掲げたグループが形成される一方、ニューヨークではそれ以前からマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビア、マン・レイらが、後に「ニューヨーク・ダダ」と呼ばれる実験を独立して進めていました。

二つの都市の出発点は違います。

しかし、どちらにも共通する問いがありました。

そもそも「芸術」と呼ばれているものを、そのまま信じてよいのか。

第一次世界大戦とダダ

MoMAはダダを、第一次世界大戦の暴力のただ中で生まれ、社会を戦争へ導いた政治、社会制度、文化的価値、そして「合理的思考」そのものへ疑いを向けた運動として説明しています。

これは重要です。

ダダの「意味不明さ」は、ただふざけていたからではありません。

合理的に組織された国家や技術が世界規模の戦争を生み出している。

それならば、合理性、秩序、常識、文化的権威をそのまま信じること自体がおかしいのではないか。

その疑いから、意図的に非合理なものを作る。

意味の通らない言葉。

偶然。

ナンセンス。

既製品。

粗末な材料。

笑い。

挑発。

これらは、社会が「価値がある」と決めてきたものに対する反応でした。

ただし、ダダを「戦争に反対した一枚岩の平和運動」と単純化することもできません。

参加者の思想、政治的立場、制作方法は大きく異なります。

共通していたのは、既成の価値体系をそのまま受け入れない態度でした。

1916年、チューリヒ

第一次世界大戦中のスイスは中立国でした。

そのためチューリヒには、戦争を避けて移動してきた亡命者、芸術家、知識人、政治活動家などが集まっていました。

1916年2月5日、ドイツ出身の作家ヒューゴ・バル(Hugo Ball)と歌手・詩人エミー・ヘニングス(Emmy Hennings)は、シュピーゲルガッセ1番地に「キャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)」を開きます。

やがてそこへ、トリスタン・ツァラ、ジャン/ハンス・アルプ、マルセル・ヤンコ、リヒャルト・ヒュルゼンベックらが集まりました。

MoMAは、キャバレー・ヴォルテールを1916年のチューリヒ・ダダの中心として位置づけています。

重要なのは、ここが通常の画廊ではなかったことです。

絵画を見るために静かに歩く場所ではありません。

酒を飲み、音楽を聴き、詩人が叫び、ダンサーが踊り、観客が反応する。

作品と観客が同じ時間を共有する場所でした。

キャバレー・ヴォルテール — 展覧会ではなく「出来事」

キャバレー・ヴォルテールでは、実験詩、音楽、ダンス、朗読、仮面、絵画、パフォーマンスが同じ夜に並びました。

カンディンスキー、ピカソ、マリネッティら既存の前衛作家の作品や文章も紹介されました。

つまりダダは、何もないところから突然生まれたわけではありません。

表現主義。

キュビスム。

未来派。

抽象芸術。

実験詩。

それまでの前衛を吸収しながら、さらに制度や意味そのものへの批判へ進みました。

キャバレーで重要なのは、完成した作品だけではありません。

声。

身体。

衣装。

観客の反応。

騒音。

その場で起きる失敗や混乱。

それらすべてが一つの「出来事」になります。

後のパフォーマンス・アートやイベント的な美術を考える際にも、キャバレー・ヴォルテールは重要な前史になります。

「ダダ」という名前

「Dada」という語がどのように選ばれたのかについては、複数の証言があり、単一の起源を確定することは難しいとされています。

辞書を無作為に開いて見つけたという有名な逸話がありますが、参加者自身による後年の説明にも違いがあります。

確かなのは、1916年中に「Dada」という語がチューリヒのグループの名称、出版物、イベントの中で使われ始めたことです。

この言葉には、明確な理論的意味があるわけではありません。

むしろ、その曖昧さが便利でした。

何かを正確に定義する言葉ではない。

国籍にも特定の芸術様式にも固定されない。

「ダダとは何か」と聞かれても、一つの答えを返せない。

その不確定性そのものが、運動の性格とよく合っていました。

ヒューゴ・バル — 言葉から意味を外す

ヒューゴ・バルは、キャバレー・ヴォルテールで「音響詩(sound poetry)」を朗読しました。

通常の詩では、言葉には意味があります。

文章を読み、内容を理解する。

バルはそこから意味を外します。

既存の言語に存在しない音節を組み合わせ、声の響き、リズム、呼吸そのものを詩にする。

有名な朗読では、円筒状の衣装や大きな襟を身につけ、身体の動きまで含めて音響詩を演じました。

MoMA所蔵の《Phantastische Gebete(幻想的な祈り)》は、ヒュルゼンベックの音響詩とアルプの木版画を組み合わせた1916年の出版物で、キャバレーで行われた実験が本という形式にも広がったことを示しています。

ここで問われているのは、詩の内容だけではありません。

言葉は意味を伝えなければ言葉ではないのか。

声だけでも芸術になり得るのか。

文学の基本単位そのものが分解されています。

マルセル・ヤンコ — 仮面が身体を変える

ルーマニア出身のマルセル・ヤンコ(Marcel Janco, 1895–1984)は、キャバレーのパフォーマンスのために仮面を制作しました。

厚紙、新聞紙、糸、絵具など、軽く安価な材料が使われました。

MoMAが所蔵する1917–18年頃のヤンコの仮面について、当時の参加者は、仮面を身につけると身体の動きそのものが変化したと記録しています。

仮面は、完成した彫刻として台座へ置かれるためだけのものではありません。

顔へ装着される。

踊る。

声を発する。

衣装と結びつく。

作品が身体を動かし、身体が作品を変える。

「美術作品を見る」という関係から、「作品を使って出来事を起こす」という関係へ移っています。

ゾフィー・トイバー — ダンス、工芸、抽象

ゾフィー・トイバー=アルプ(Sophie Taeuber-Arp, 1889–1943)も、チューリヒ・ダダの中心的な人物でした。

彼女は画家だけではありません。

ダンサー。

テキスタイル作家。

人形制作。

家具。

建築的な内装。

幾何学的抽象。

MoMAは、トイバー=アルプがキャバレー・ヴォルテールで仮面や衣装を身につけて踊る一方、織物や刺繍など応用芸術と絵画・彫刻の境界を横断していたことを強調しています。

これはダダにとって重要です。

「純粋美術」と「工芸」。

絵画と衣服。

作品と身体。

高級な素材と日用品。

それまで別々に扱われていた領域を混ぜる。

ダダは、何を芸術と呼ぶかだけでなく、美術の内部にある階層そのものも揺らしました。

アルプ — 作者の判断を偶然へ渡す

ジャン/ハンス・アルプ(Jean / Hans Arp, 1886–1966)は、1916–17年頃に「偶然の法則に従って配置された」コラージュを制作しました。

MoMA所蔵の《Untitled (Collage with Squares Arranged according to the Law of Chance)》では、青と白の紙片が画面に配置されています。

作品の由来について、友人ハンス・リヒターは、アルプが紙片を床へ落とし、その偶然できた配置を作品へ取り入れたと伝えています。

この方法の狙いは、芸術家の判断を減らすことです。

通常、画家は考えます。

この形を右へ置く。

この色を大きくする。

ここを美しく整える。

アルプは、その「作者がすべて決める」という仕組みに偶然を入り込ませました。

第一次世界大戦によって人間の合理的判断そのものへの信頼が揺らいだ状況で、偶然は意図的な反合理主義の方法になります。

「偶然」は本当に作者を消したのか

ただし、「紙を落として、そのまま一切触らず貼った」と単純化するのも正確ではありません。

MoMAはアルプの偶然コラージュを詳しく調査し、接着の痕跡や比較的整った構成から、作者が配置を調整した可能性も指摘しています。

つまり重要なのは、作者を完全に消したかどうかではありません。

制作の出発点に、自分では制御できない出来事を入れたことです。

偶然に任せる。

その結果を見る。

必要なら選択する。

作者の意図と、作者の外から入ってくる出来事を共同させる。

この発想は、後のシュルレアリスムの自動記述、ジョン・ケージ、戦後美術などへさまざまな形で引き継がれていきます。

雑誌と印刷物 — ダダは紙の上でも広がる

ダダは、キャバレーの一夜だけで終わる運動ではありませんでした。

印刷物が重要な役割を持ちます。

1916年には雑誌『Cabaret Voltaire』が刊行されました。

ツァラはその後、『Dada』誌を編集します。

詩。

木版画。

声明。

異なる言語。

実験的なタイポグラフィ。

雑誌は複数の作家を一つの紙面へ集め、都市を越えて運動を広げることができます。

未来派も宣言や新聞を積極的に使っていましたが、ダダでは印刷物自体がさらに断片的で不安定な造形になります。

意味と意味を衝突させる。

異なる言語を並べる。

文字を視覚素材として扱う。

作品、文章、宣伝の境界が薄くなっていきます。

もう一つの出発点 — ニューヨーク

チューリヒでキャバレー・ヴォルテールが始まる前後、ニューヨークでも別の前衛的なネットワークが形成されていました。

マルセル・デュシャン。

フランシス・ピカビア。

マン・レイ。

アルフレッド・スティーグリッツ。

ウォルターとルイーズ・アレンスバーグ。

ベアトリス・ウッド。

彼らは1915年頃から交流し、雑誌、展覧会、物体、写真、機械イメージを通して美術の制度を揺さぶりました。

注意したいのは、彼らが1915年の時点で「ニューヨーク・ダダ」という正式なグループを結成していたわけではないことです。

活動はチューリヒ・ダダとは独立して始まり、後に美術史上「ニューヨーク・ダダ」とまとめて呼ばれるようになりました。

チューリヒが戦争とヨーロッパ文化への反発からキャバレー的な集合を作ったのに対し、ニューヨークでは「美術作品とは何か」という制度的・概念的な問いが特に強くなります。

デュシャン — 美術品を作らずに美術を問う

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887–1968)は、1912年の《階段を降りる裸体 No.2》でキュビスムの周辺にいました。

しかしその後、油彩絵画そのものから急速に距離を取ります。

デュシャンが問うようになったのは、「どう新しく描くか」ではありません。

もっと根本的な問題でした。

人間は、なぜある物を芸術だと判断するのか。

MoMAはデュシャンの活動を、作品の手作業的な技巧や視覚的な美しさより、選択や思考によって美術の範囲を拡張したものとして位置づけています。

その最も重要な方法が「レディメイド」です。

レディメイド — 「作る」から「選ぶ」へ

1913年、デュシャンは自転車の車輪をスツールの上へ取り付けました。

1914年には、市販の瓶乾燥器を購入します。

1915年、ニューヨークでは雪かきを吊り下げ、《In Advance of the Broken Arm》と名づけました。

こうした工業製品や日用品を、デュシャンは「レディメイド(readymade)」と呼ぶようになります。

これは彫刻を作る方法として考えると奇妙です。

彫っていない。

粘土で形を作っていない。

鋳造していない。

すでに存在するものを選んだだけです。

しかし、その「選ぶ」という行為を作品の中心へ置くと、問題が変わります。

作品の価値は、作者の手作業にあるのか。

美しさにあるのか。

唯一性にあるのか。

それとも、ある物を別の文脈へ移し、「これを作品として見る」と提示する行為にもあり得るのか。

デュシャンは、美術制作の中心を手から判断へ移しました。

ピカビア — 人間を機械として描く

フランシス・ピカビア(Francis Picabia, 1879–1953)は、1910年代半ばに機械の図版を利用した作品を制作します。

歯車。

プラグ。

カメラ。

電気回路。

工業製品の図解のようなイメージを使いながら、人間や人物関係を「機械の肖像」として表す。

たとえば写真家アルフレッド・スティーグリッツをカメラのような機械として表現する。

人間の顔を似せて描く従来の肖像画とは正反対です。

未来派も機械を称揚しました。

しかしピカビアの機械には、未来派のような英雄的な賛美だけではなく、冷笑や性的な暗示、ナンセンスが混ざっています。

機械化された近代を礼賛するのではなく、人間そのものが機械の部品のようになっている世界を皮肉に扱う。

同じ「機械」を使っても、未来派とダダでは態度が大きく異なります。

マン・レイ — 絵画、物体、写真の境界

マン・レイ(Man Ray, 1890–1976)は、1915年にニューヨークでデュシャンと出会い、密接に交流するようになります。

1916年の《The Rope Dancer Accompanies Herself with Her Shadows》では、踊る人物の動きをもとにした色面と機械的な形が組み合わされています。

MoMAはこの作品を、ダダにおけるコラージュ、偶然、アッサンブラージュの展開と関係する作品として紹介しています。

マン・レイはその後、既製品を組み合わせた物体、写真、映画などを横断していきます。

彼にとっても、特定のメディアに忠実であることは重要ではありませんでした。

アイデアに応じて、絵画、写真、物体を使い分ける。

これは、ダダ以後の20世紀美術でますます一般化する態度です。

アレンスバーグ・サークル — 美術館の外のネットワーク

ニューヨークの前衛活動を支えた重要な場所の一つが、ウォルターとルイーズ・アレンスバーグ夫妻の住居でした。

そこにはデュシャン、マン・レイ、ピカビアをはじめ、作家、批評家、コレクターらが集まりました。

Metropolitan Museum of Artは、デュシャンがアレンスバーグ夫妻と親しく交流し、夫妻の近代美術コレクション形成にも深く関わったことを紹介しています。

ここで分かるのは、前衛美術が美術館だけで作られていたわけではないことです。

私邸。

小さな雑誌。

写真家のギャラリー。

友人同士の会話。

こうした非公式なネットワークから、新しい美術の考え方が生まれます。

ダダは、作品の形式だけでなく、作品が生まれ流通する場所も従来の制度からずらしました。

1917年《泉》— 無審査展の制度を試す

1917年、ニューヨークに「独立芸術家協会(Society of Independent Artists)」が設立されました。

デュシャンも設立メンバーの一人でした。

協会は「審査なし、賞なし」を掲げ、会費を支払った会員であれば作品を出品できるという制度を採用しました。

デュシャンは、その制度そのものを試します。

衛生陶器店で購入した男性用小便器を横向きにし、「R. Mutt 1917」と署名しました。

題名は《Fountain(泉)》。

MoMAの2026年デュシャン資料およびMetropolitan Museum of Artの研究資料によれば、この作品は1917年4月の第1回独立芸術家協会展へ提出されました。

しかし協会の理事たちは、作品を展示しませんでした。

「すべての会員が出品できる」と言いながら、小便器は芸術として認められなかった。

デュシャンは理事を辞任します。

《泉》は、作品であると同時に、展覧会制度そのものへのテストになりました。

「R. Mutt」が選んだものは作品なのか

《泉》について最も重要なのは、「小便器が美しいか」という問題ではありません。

デュシャンは、既製品に芸術的な技巧を加えていません。

工場で大量生産されたものです。

しかも日常生活では、美術館とはまったく異なる用途を持っています。

それを向きを変え、題名を付け、展覧会へ提出する。

MoMAはレディメイドについて、作者の手による制作技術ではなく、既存の物を選択し提示するという行為によって美術の境界を拡張したものと説明しています。

ここで「作者」という概念が変わります。

作品を物理的に作った人が作者なのか。

それとも、その物を選び、別の文脈へ移し、別の見方を発生させた人も作者なのか。

アルプが「偶然」に制作判断の一部を渡したのと同じ時期、デュシャンは「制作」という行為自体を最小限へ減らしました。

《泉》が残ったのは「物」ではなく写真と議論だった

1917年の《泉》のオリジナルは、その後失われました。

現在、美術館で見る《泉》は後年制作されたレプリカです。

では、なぜ失われた作品が20世紀美術史の中心的な作品になったのでしょうか。

一つの理由が、写真と出版です。

アルフレッド・スティーグリッツは、《泉》を撮影しました。

その写真は、デュシャン、マン・レイ、ベアトリス・ウッドらが関わった雑誌『The Blind Man』第2号に掲載されます。

同誌には「The Richard Mutt Case」と題した短い文章が掲載されました。

National Gallery of Artが引用するその文章では、Muttが小便器を自分で製作したかどうかは重要ではなく、彼がそれを「選んだ」ことが核心だと論じられています。

つまり《泉》という作品は、物体だけで成立していません。

提出。

拒否。

写真。

雑誌。

議論。

その一連の出来事が作品の歴史を作りました。

これは「作品とは物体そのものだけなのか」という問題にもつながります。

チューリヒとニューヨークは何が違ったのか

チューリヒとニューヨークの活動は、後からまとめて「ダダ」と呼ばれます。

しかし性格はかなり違います。

チューリヒでは、言葉、身体、パフォーマンスが中心だった。

キャバレー、音響詩、仮面、ダンス、偶然、雑誌。

戦時下のヨーロッパから逃れてきた国際的な集団が、合理性そのものに疑いを向けました。

ニューヨークでは、美術制度と物体の定義への問いが強かった。

レディメイド、機械イメージ、小雑誌、写真。

特にデュシャンは、「何を作るか」より「何を芸術と呼ぶのか」という問いへ進みます。

ただし両者には共通点もあります。

技巧だけを芸術の価値にしない。

作者の完全な統制を疑う。

日用品や安価な素材を使う。

雑誌やイベントを作品と同じくらい重視する。

既成の文化的権威を挑発する。

ダダは、同じスタイルではなく、こうした態度によってつながっていました。

ダダは一つの様式ではない

ダダの作品だけを並べると、統一感がないように見えます。

アルプの抽象コラージュ。

ヤンコの粗い仮面。

トイバー=アルプの幾何学。

ピカビアの機械図。

デュシャンの小便器。

マン・レイの絵画や物体。

見た目だけでは「同じ運動」とは思えません。

それでよいのです。

ダダは、一つの絵画様式を広める運動ではありませんでした。

むしろ「様式を共有しなければ運動にならない」という前提さえ疑いました。

MoMAもダダを、1916年から1920年代半ばにかけてチューリヒ、ニューヨーク、ベルリン、ケルン、ハノーファー、パリなど複数の都市で異なる形を取った国際的な動きとして説明しています。

都市が変われば、ダダも変わります。

1918年 — ダダが別の都市へ移動する

チューリヒのキャバレー・ヴォルテールは長く続いた施設ではありませんでした。

しかしダダの考えは、人の移動と出版物によって別の都市へ広がります。

1917年から1918年頃、ヒュルゼンベックはベルリンへ戻り、ダダを紹介します。

ベルリンでは第一次世界大戦末期からドイツ革命期の政治状況と結びつき、チューリヒよりも直接的な社会・政治批判へ進みました。

フォトモンタージュ。

新聞。

広告。

政治家の写真。

軍人。

都市の大量印刷物。

ハンナ・ヘーヒ、ラウール・ハウスマン、ジョン・ハートフィールド、ジョージ・グロスらは、こうした素材を切り貼りして新しい視覚言語を作ります。

ケルンではマックス・エルンストとヨハネス・バーダー/バールゲルトらが別のダダを展開し、ハノーファーではクルト・シュヴィッタースが「メルツ」という独自の活動を始めます。

つまり1918年以降、ダダは一つの運動として統一されるのではなく、さらに地域ごとに分岐していきます。

1916–1918年に何が変わったのか

ダダの初期段階で変わったのは、「奇妙な作品が増えた」ということではありません。

作者がすべてを決める必要がなくなった。

アルプは偶然を制作へ導入しました。

作品を手で作る必要さえなくなった。

デュシャンは既製品を選び、別の文脈へ置きました。

作品は物体だけでなくなった。

キャバレーでのパフォーマンス、雑誌、写真、論争そのものが運動を形成しました。

高価で永続的な材料を使う必要がなくなった。

新聞、厚紙、日用品、工業製品などが美術へ入ります。

芸術の価値基準そのものが作品の主題になった。

「これは美しいか」だけではなく、

「なぜこれは芸術なのか」

「誰が芸術だと決めるのか」

「展覧会は何を排除するのか」

という問いが前面へ出ました。

この変化は、その後の20世紀美術に非常に長く残ります。

次の時代へ — ベルリン、ケルン、ハノーファー

1918年、第一次世界大戦が終結します。

しかしヨーロッパ社会は安定しませんでした。

革命。

政治的衝突。

インフレーション。

復員兵。

新しい大衆新聞。

広告。

写真。

ベルリンのダダイストたちは、この戦後都市の視覚そのものを作品へ取り込みます。

そこで中心になる技法の一つが「フォトモンタージュ」です。

新聞や雑誌から写真を切り取り、異なる身体、機械、政治家、文字を組み合わせる。

キュビスムのコラージュが紙片を絵画へ導入したところから、ダダでは大量印刷された現実のイメージを切断し、政治的な武器として再配置するところまで進みます。

一方、クルト・シュヴィッタースは街で拾った切符、紙屑、包装紙を使い、「メルツ」という独自の世界を作ります。

次の記事では、1918–1922|ドイツのダダ — フォトモンタージュ、政治、メルツとして、ベルリン、ケルン、ハノーファーを分けながら詳しく見ていきます。

参考資料・出典

本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、作家、展覧会資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY