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1916–1918

ダダの誕生

第一次世界大戦下のチューリヒとニューヨーク

ダダは、第一次世界大戦中の1916年にスイスのチューリヒで形づくられた前衛芸術運動です。詩人や画家、ダンサーたちは、意味の通らない言葉を大声で朗読したり、仮面をつけて踊ったり、偶然できた紙片の配置を作品にしたりしました。彼らが問い直したのは、上手な絵を描く方法に加え、「芸術には決まった形や価値が必要なのか」ということでした。ダダの特徴は、統一した絵画様式よりも、社会の常識や芸術の決まりに挑む多様な実験にあります。

ダダが生まれた背景には、1914年に始まった第一次世界大戦がありました。科学技術や合理的な組織が社会を進歩させると信じられていた時代に、それらの力は大規模な殺戮にも使われていました。戦争を避けて中立国スイスに集まった芸術家たちは、国家や文化の権威、言葉が人々を動員する仕組みに強い疑問を抱きます。1916年2月に開かれた「キャバレー・ヴォルテール」は、その思いを詩、音楽、芝居、絵画によって表現する場所になりました。

同じ頃、アメリカのニューヨークでも、美術の枠組みを揺さぶる活動が進んでいました。マルセル・デュシャンは工業製品を選んで作品として示し、フランシス・ピカビアは人間を機械になぞらえた肖像画を描き、マン・レイは偶然できた形を絵画に取り入れました。ニューヨークの実験はチューリヒの集団とは別の経緯で始まり、後に「ニューヨーク・ダダ」と呼ばれるようになります。二つの都市を見比べると、ダダが一つの技法に限定されない理由が分かります。

この記事では、1916年から1918年までの出来事をたどりながら、芸術家たちが何を作り、どのように発表したのかを具体的に見ていきます。キャバレーの公演記録、当時の雑誌、アルプのコラージュ、トイバーの人形、ピカビアの機械的肖像、1917年の《泉》などを通じ、芸術作品の意味が「完成した物」から、制作の方法、発表する場所、観客との関係へと広がっていく過程を明らかにします。

ダダとは何か――1916年に何が始まったのか

絵画の様式より、芸術の前提を問う運動

ダダと聞いて奇妙な作品を思い浮かべるかもしれません。実際、ダダの活動には、意味の分からない詩、幾何学的なコラージュ、日用品を使った作品、仮面の踊りなどが並びます。それらを同じ色彩や造形の特徴で分類することは難しいでしょう。ダダとは、社会が価値あるものと認めてきた芸術や言葉、権威に、制作や上演そのものによって疑問を差し向ける運動でした。

重要なのは、作品を見る人が慣れ親しんだ判断の基準を揺さぶられることです。画家が美しく整えた構図の代わりに偶然を取り入れ、詩人が意味を伝える語を声や音節へ分解し、作者が自分の手で作った品物の代わりに既製品を示す。それぞれの実践には違いがあります。芸術は誰が、どのような材料と手続きによって成立させるのかという問いが、さまざまな形で現れました。(参照:MoMA|ダダとは何か、MoMA|偶然、コラージュ、アッサンブラージュ、MoMA|デュシャンとレディメイド)

チューリヒから始まる名称と、各地へ広がる活動

1916年、スイスのチューリヒで「ダダ」という言葉が集団の活動を表す名称として用いられました。1916年5月末に出された刊行物『キャバレー・ヴォルテール』にはすでにこの語が登場します。小さな舞台で朗読や音楽、展示を行っていた芸術家たちにとって、名称は個々の表現をまとめ、外部の人々へ活動を知らせる働きを持ちました。

ニューヨークでは、チューリヒの命名以前からデュシャンやピカビア、マン・レイが独自の実験を行っていました。当時は別々の交流の中で活動しており、後の美術史ではそれらが「ニューヨーク・ダダ」として論じられるようになりました。この違いを踏まえることで、ダダの誕生は、複数の都市で進んだ活動の歴史として捉えられます。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、MoMA|ダダとは何か、メトロポリタン美術館|デュシャンとニューヨーク)

なぜ1916年から1918年を見るのか

本記事の中心期間である1916年から1918年は、チューリヒのキャバレー開設から、ギャラリー活動、ツァラの1918年の宣言と雑誌『ダダ』第3号へ続く時期です。舞台上の一夜限りの表現が、印刷された文章や図版によって都市の外にも届く活動へ変化していきます。作者の作品だけでなく、会場、編集者、印刷所、観客が重要な役割を担いました。

同じ三年間のニューヨークを見ると、戦争下の移住と芸術家の交流を背景に、絵画や美術展の制度に対する異なる問いが現れています。1917年の《泉》はその一例です。1918年を区切りにすると、第一次世界大戦の終結と、その後のベルリンやパリなどでの活動の広がりまでを見通せます。ここでは後の展開を先取りしすぎず、運動が立ち上がった現場を詳しく追います。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯)

第一次世界大戦と中立国スイス

近代化への信頼を揺るがした戦争

1914年に始まった第一次世界大戦では、機関銃や重砲、塹壕、鉄道による大量輸送などが組み合わされ、戦闘は大規模で長期化したものとなりました。科学技術や組織力は、生活の向上を支えるものとして称賛されると同時に、多数の人間を殺傷する手段として使われました。人々を戦争に動員する国民国家の言葉や文化にも、芸術家たちは強い不信を抱くようになりました。

ダダの参加者の反応を、技術や理性そのものを一律に否定した思想へまとめると、実際の制作の幅が見えにくくなります。ダダの印刷物は近代的な複製技術に依存し、ニューヨークでは機械の図像も盛んに用いられました。彼らが疑ったのは、進歩を語る社会が抱えた矛盾であり、その矛盾を覆い隠す道徳や権威の働きでした。こうした問題意識が、作品の作り方を変える動機になっていきます。(参照:MoMA|ダダとは何か、メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年)

戦争を逃れた人々が集まるチューリヒ

スイスは第一次世界大戦で中立を維持し、チューリヒには各地から亡命者や学生、作家、政治活動家が集まりました。共通の国籍や母語を持たない人々が顔を合わせる都市では、異なる言語が同じ場で聞かれます。1916年のキャバレー・ヴォルテールも、そのような国際的な交流の条件のもとで成立しました。ドイツ語やフランス語などが、公演と刊行物で併用されていたことは重要です。

中立国スイスでも、出演者や観客の多くは故郷の政治的状況や移動の制約に日々向き合っていました。1916年の冊子『キャバレー・ヴォルテール』でバルは、国境と民族主義を越えて芸術家が集まる独立した場を志向しています。そこで営まれた国際的な共同制作は、戦争が作り出した分断に対する実践でもありました。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、MoMA|ダダと共同制作・パフォーマンス、チューリヒ美術館|ヘニングスの1916年の書簡)

キュビスム、未来派、表現主義の後に

ダダの活動には、戦前の芸術実験の蓄積がありました。ヨーロッパでは、キュビスムが絵画の空間を分解し、未来派が機械や速度を描き、表現主義が感情の強さや歪んだ形を探究していました。詩人たちも言葉の配置や朗読の方法を実験していました。キャバレー・ヴォルテールの催しには、こうした先行する前衛芸術の作品や文章が持ち込まれています。

1916年の刊行物『キャバレー・ヴォルテール』の表紙を覆う帯には、未来派、キュビスム、表現主義という語が掲げられていました。ダダは、既存の前衛から表現上の手段を受け取りつつ、芸術を発表する場や観客への働きかけを強めました。絵を変えるだけでなく、朗読会の秩序、言葉の意味、展覧会における価値判断まで問題にするところに、運動の独自の展開が見られます。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、チューリヒ美術館|スウォツキによる開店ポスター、MoMA|ダダとは何か)

キャバレー・ヴォルテールの開設

バルとヘニングスが1916年2月5日に開いた場所

1916年2月5日、ヒューゴ・バルとエミー・ヘニングスはチューリヒ旧市街のシュピーゲルガッセ1番地で、芸術家が出演する酒場を開きました。二人はドイツの演劇やキャバレー文化に親しみ、詩や歌を舞台で発表する経験を持っていました。店舗は飲食店の一室を利用した小さな空間で、後に「キャバレー・ヴォルテール」として知られるようになります。ダダの出発点は、作品を静かに鑑賞するための美術館とは異なる場でした。

開店前のヘニングスによる1916年の書簡は、彼女が知人の芸術家に連絡し、公演や展示への協力を募っていたことを示します。バルだけを創設者として語ると、このような実務や歌手・詩人としての彼女の働きが抜け落ちます。出演者を集め、会場を続け、観客と向き合うという行為そのものが、ダダの成立にとって必要でした。芸術運動の始まりを、実際に場を運営した人々の仕事から捉えることができます。(参照:チューリヒ美術館|ヘニングスの1916年の書簡、チューリヒ美術館|ヘニングスの詩集1916年、チューリヒ美術館|スウォツキによる開店ポスター)

小さな舞台、観客、展示がつくる空間

キャバレー・ヴォルテールには、小さな舞台とピアノがあり、壁には絵画や版画が掛けられました。観客は飲み物を手に出演者の声や身体の動きに接し、詩の朗読に声を返すこともありました。舞台芸術と展示、会話、騒音が同じ時間に重なっていたのです。『キャバレー・ヴォルテール』の記録に残る会場の描写からは、芸術がその場で生じる出来事として扱われた様子が分かります。

この空間では、作品と観客の関係も変わります。絵画ならば正面から一定の時間眺めることができますが、音響詩や舞踊の動きはその場で消えていきます。笑いや反発が起きれば、出演者の振る舞いにも影響します。ダダの制作を残された物体だけで理解しようとすると、こうした一回性と即興性を見失います。印刷物や日記、ポスターは、当時の出来事を再構成するための貴重な手がかりです。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、MoMA|ダダと共同制作・パフォーマンス、チューリヒ美術館|バル《降誕劇》の台本1916年)

開店ポスターが伝える街と芸術家の活動

ポーランド出身のマルセル・スウォツキは、1916年の開店を知らせるポスターを制作しました。木版による暗く強い明暗の造形は、当時のチューリヒ旧市街や夜の娯楽の雰囲気を思わせます。ポスターはホテル、喫茶店、書店などで宣伝に使われ、キャバレーにまだ足を運んだことのない人々へ催しを知らせました。芸術家たちは舞台に立つだけでなく、そこへ観客を招くための印刷物も作っていたのです。

ポスターの大きさや掲示場所、情報を伝える機能も、その図柄とともに重要です。これらの条件は、運動が街の中でどう存在したかを示します。文字や図版を複製して広めるという制作は、会場に来た人だけが共有できる公演と違い、未知の読者へ届きます。こうした紙の媒体が、後の雑誌や宣言の活動とも結びつきました。(参照:チューリヒ美術館|スウォツキによる開店ポスター、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

声と言葉を作り替えた詩人たち

何人もが同時に語る詩

キャバレーでは、異なる詩人が同じ時間に別々の文章を読み上げる「同時詩」が試されました。聞く人には複数の声が重なって届き、一つの筋道を最後まで追うことが難しくなります。朗読にはリズムや声量の違いがあり、異なる言語の響きが同時に現れる場合もありました。印刷された詩を黙読するときと違い、言葉の意味を理解するだけでは捉えられない経験が生まれます。

ここでは、音が互いに衝突すること自体が構成の一部です。近代都市の騒音や戦時下の情報の錯綜を思わせ、公的な言葉の明瞭さや命令する力に対する違和感も生み出します。1916年の出演者はツァラ、ヒュルゼンベック、ヤンコら多様で、詩の発表は個人の技量を競う時間から共同の実験へ移っていきました。声が重なり合う場は、ダダが集団的な活動だったことをよく示しています。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、チューリヒ美術館|ヒュルゼンベックとアルプ『幻想的な祈り』、MoMA|ダダと共同制作・パフォーマンス)

バルの音響詩と、衣装を着た朗読

ヒューゴ・バルは、通常の単語として意味を持たない音節を並べる「音響詩」を試みました。耳に届く子音や母音、繰り返し、呼吸の間合いを、詩の内容を伝えるための補助から詩そのものへ変えようとしたのです。代表的な朗読をめぐる回想には、円筒形の衣装と大きな襟を身につけ、動きが制限される姿が登場します。言葉の響きと身振りが一体となり、詩人の身体も作品の一部になりました。

この実験は、単純に意味を取り去った遊びとして片づけられません。人を説得し、国民として団結させる言葉が戦争に利用される時代に、語の意味をほどき、聞いたことのない音へ変える行為には文化への批判が含まれていました。バルが担ったのは、詩の形式の更新と、その場にいる人々の聞く習慣を揺さぶることです。朗読はその瞬間の出来事であり、現在伝わる写真や再演は当時の声そのものとは区別して捉える必要があります。(参照:MoMA|ダダと共同制作・パフォーマンス、チューリヒ美術館|バル《降誕劇》の台本1916年、MoMA|ダダとは何か)

《降誕劇》に見える騒音と共同制作

1916年5月末に上演されたバルの実験的な《降誕劇》の台本は、チューリヒ美術館に残されています。キリスト降誕というよく知られた題材が、わずかな言葉とともに、角笛、オカリナ、鞭、シンバル、鍋などの音で演じられる構想でした。出演者ごとの役割も記されており、アルプ、バル、ヘニングス、ヤンコ、ツァラなどが異なる音や動きを分担しています。舞台では物語を説明する台詞と同じほど、音そのものが重要になります。

台本を読むと、一見混乱したように感じる上演にも具体的な準備と分担があったことが分かります。偶然や騒音を重視する芸術であっても、実現には人の協力が必要でした。身近な道具が音を発する装置となり、俳優も詩人も共同で一つの出来事を作る。ダダは完成した芸術品の新しい種類を増やしただけでなく、何を舞台の材料とみなすか、その範囲を広げました。(参照:チューリヒ美術館|バル《降誕劇》の台本1916年、MoMA|ダダと共同制作・パフォーマンス)

ヤンコの仮面と異文化への視線

紙、布、ワイヤーが生む顔の変形

マルセル・ヤンコはキャバレーの舞踊や公演のために仮面を制作しました。厚紙、新聞紙、布、糸、ワイヤーなど軽い材料を組み合わせて顔の表面を立体的に変え、彩色や突き出た部分によって日常的な表情とは異なる姿を生み出しています。MoMAが1917〜18年の作品として扱う《フィルドゥシのための仮面》は、そのような活動を知る手がかりです。作品は人が身につけ、身体とともに動くことを想定した造形でした。

仮面は着用者の視界や動き方にも影響します。顔から突き出す部分や、頭部の重さの偏りによって、普段と同じ姿勢で歩くことが難しくなる場合があります。バルは、ヤンコの仮面を身につけた人々が思いがけない身振りを始めたと回想しています。ここには、造形物が身体へ働きかけ、身体の運動によって作品の効果が変わる関係があります。仮面は舞台の小道具であると同時に、表現を生み出す装置でした。(参照:MoMA|ヤンコ《フィルドゥシのための仮面》1917–18年、チューリヒ美術館|ヤンコ《黒人の歌》ポスター案1916年)

《黒人の歌》のポスター案と上演の記録

ヤンコによる1916年の《黒人の歌》のポスター案は、紙に木炭で描かれ、キャバレーで行われた同名の公演を知らせるために作られました。現存する素描は約73×55センチメートルと比較的大きく、印刷物へ展開することも想定された図柄です。舞台の記録やポスターの存在からは、ダダが詩を読むだけでなく、音楽や動き、視覚的な宣伝を組み合わせていたことが分かります。

この公演の題名には、当時のヨーロッパで用いられていた人種的な呼称が含まれています。記事では史料の題名として紹介し、現代の一般的な表現としては用いません。参加者はアフリカやオセアニアの芸術、詩、音楽から刺激を受けていました。その関心を、植民地主義のもとで形成されたヨーロッパ側の異文化表象と切り離して理解することはできません。資料の背景も含めて作品を見る必要があります。(参照:チューリヒ美術館|ヤンコ《黒人の歌》ポスター案1916年、MoMA|ヤンコ《フィルドゥシのための仮面》1917–18年)

何が新しかったのか、何を借用していたのか

ダダの仮面には、整った西洋の写実的な肖像とは異なる形を求める姿勢が表れています。材料の粗さや強い輪郭、顔の各部を強調する形は、身体の動きと結びついて舞台で効果を発揮しました。参加者にとって、ヨーロッパ以外の造形は既存の美術規範を離れるための手がかりにもなりました。舞台衣装、音楽、仮面をひとまとまりの表現として扱った点は重要です。

現在その歴史を読む際には、引用された文化の固有の意味と、ヨーロッパの前衛芸術家がそれをどのように受け取ったかを区別する必要があります。植民地支配の時代に集められた作品や情報が、異文化の具体的な文脈から離れて「新奇な形式」の供給源とされた側面があるためです。ダダの実験的な成果と、その文化的な条件をともに説明することで、当時の造形をより正確に理解できます。(参照:チューリヒ美術館|ヤンコ《黒人の歌》ポスター案1916年、MoMA|ダダとは何か)

ゾフィー・トイバーの身体と幾何学

ダンサーであり、テキスタイルの教育者でもあった

ゾフィー・トイバーは1915年からチューリヒで身体運動の教育を受け、1916年には工芸学校の織物・刺繍の分野で教える立場にありました。彼女はダダの公演にも参加し、幾何学的な構成と身体の動きを一緒に探究しました。舞台芸術、教育、織物の制作が同じ生活の中で進んでいた点に、活動の特色があります。造形を考えることと、身体を動かすことは彼女の制作の中でつながっていました。

当時の美術制度には、絵画や彫刻を高く置き、織物や刺繍を工芸として扱う区分がありました。トイバーは、布を織る際の縦糸と横糸の関係や、一定の規則に従う形の反復を、抽象的な造形の研究として発展させます。ダダの舞台で踊る身体と、工芸の現場で作られる幾何学は形やリズムを身体で理解する、共通した制作の関心として読むことができます。(参照:チューリヒ美術館|トイバーによる《鹿の王》の人形1918年、MoMA|ダダと共同制作・パフォーマンス)

アルプとの共同制作と、幾何学的な秩序

トイバーとアルプは1915年に出会い、チューリヒで造形実験を重ねました。アルプが偶然によって形を配置する試みで知られるのに対し、トイバーには織物や幾何学的な配置を厳密に組み立てる経験がありました。二人の共同作業は、同じ方法を重ねるというより、異なる制作の知識が交わる機会だったと考えられます。アルプの初期の幾何学的なコラージュにも、この関係を考える余地があります。

幾何学的な抽象は、何かを写実的に描くことを離れて、長さ、角度、反復、間隔を組み合わせる表現です。織物ではそれが手を動かす工程と結びつき、紙の上では色面同士の配置として現れます。二人の共同制作からは、ダダが混乱や偶然を求めるだけでなく、精密な秩序を作る表現とも接していたことが分かります。運動の内部にある多様さを、作品の具体的な作り方から確認できます。(参照:チューリヒ美術館|トイバーによる《鹿の王》の人形1918年、MoMA|アルプ《偶然の法則に従う正方形のコラージュ》)

1918年《鹿の王》――人形劇にも広がった造形

1918年、トイバーはカルロ・ゴッツィの戯曲に基づく人形劇《鹿の王》のため、17体の人形と舞台装置を制作しました。人形の身体は円柱、球、円錐、立方体のような幾何学形から組み立てられ、関節や吊り糸を介して動かされます。人間の自然な肉体をそのまま再現するより、形の組み合わせによって登場人物の特徴と動きを表す仕組みです。現存する当時の写真には、トイバーとアルプが人形とともに写っています。

この公演は1918年の工芸振興に関わる催しのために企画され、ダダのキャバレーとは異なる場所で実施されました。上演は少数回に限られましたが、舞台用の人形を通して抽象形が動きと結びつく重要な実験になりました。写真は公演の記録として貴重であると同時に、それだけでは人形が実際に動いた様子まで分かりません。物体、写真、上演の三つを区別して考えることで、その仕事の広がりが見えてきます。(参照:チューリヒ美術館|トイバーによる《鹿の王》の人形1918年)

アルプのコラージュと偶然の方法

《偶然の法則に従う正方形のコラージュ》

ジャン/ハンス・アルプの《偶然の法則に従って配置された正方形のコラージュ》(1916〜17年)は、青と白の紙片を別の紙に貼りつけた作品です。MoMA所蔵の実物では、長方形に近い紙片が上下左右へ少しずつ角度を変えながら配置されています。画面は人物も風景も描かず、色の違いと切れ目、紙片同士の間隔によって成立しています。ひとつひとつの断片は平面的ですが、重なりや傾きによって視線が移動していきます。

作品名にある「偶然の法則」は、作者がすべてを計算して構図を決める習慣に対する試みを指します。アルプの友人ハンス・リヒターは、紙を破って床に落とし、その配置を作品へ取り入れたという逸話を残しました。人の判断から少し離れた出来事を出発点にするという方法は、ダダが重視した理性的な統制への疑問とも関係します。ここで注目したいのは、形の決定に外からの作用を招き入れた点です。(参照:MoMA|アルプ《偶然の法則に従う正方形のコラージュ》、MoMA|偶然、コラージュ、アッサンブラージュ)

紙を破る、落とす、貼る――素材の具体性

このコラージュでは、形を描く代わりに実際の色紙が使われています。紙片の縁を見ると、切断面が一様ではなく、手で破いた痕跡が残る部分があります。紙の厚さ、繊維の見え方、地の紙との色差が、画面を作る要素です。筆による筆触とは違い、素材を切り離す行為と貼り合わせる行為がそのまま作品の表面へ残ります。キュビスムの貼り紙の技法が、ここでは具象的な図像から離れた形で展開しました。

MoMAは実物の観察に基づき、この作品に使われた紙の質や、比較的秩序だった配置にも注意を向けています。偶然を利用した制作と、素材を選び、完成形を判断する作者の行為は同時に存在していた可能性があります。制作上の「偶然」を、物理的な成り行きだけに支配された完成品と同一視すると作品の複雑さを見逃します。作者の意思と予測できない出来事がどのように交わるのかが重要なのです。(参照:MoMA|アルプ《偶然の法則に従う正方形のコラージュ》、MoMA|偶然、コラージュ、アッサンブラージュ)

偶然を導入しても、作者の判断は残る

アルプの作品を理解するとき、「本当に無作為だったか」という問いは重要です。紙片を落とす場所、どの大きさに破るか、どの配色にするか、最終的にどの位置で貼るか。どの段階にも作者の選択が入り得ます。実際、MoMAは、比較的整然とした構成を根拠に、偶然の結果が完全にそのまま残されたとは断定していません。作品から確認できる特徴と、後年に伝えられた制作の逸話を分けて考える必要があります。

アルプの試みは、絵画における作者の判断を一時的に保留し、予期しなかった形を発見することが制作の方法になった点が新しかったのです。この関心は後の自動記述や偶然を利用する美術にもつながります。ダダの作品を、単純な反芸術の身振りとして覚えるより、制作の中でどのように判断を変えたかを追うと歴史的な意味が見えてきます。(参照:MoMA|アルプ《偶然の法則に従う正方形のコラージュ》、MoMA|偶然、コラージュ、アッサンブラージュ)

「ダダ」という名前とトリスタン・ツァラ

辞書で見つけたという逸話と残された記録

「ダダ」という言葉がどのように選ばれたのかについては、参加者が異なる説明を残しています。辞書を開いて偶然見つけたという話は有名ですが、その時刻や発見者について語られた逸話には冗談も交じっています。チューリヒ美術館の資料は、実際に1913〜14年の時点で「ダダ」を商品名に使った広告があったことまで示し、言葉の由来をひとつの劇的な瞬間へまとめる難しさを明らかにしています。

確認できる重要な節目は、1916年5月末の冊子『キャバレー・ヴォルテール』に「ダダ」の語が登場したことです。名前が公に印刷されれば、舞台に参加していない人もそれを目にできます。特定の流派や国語に結びつきにくい短い語は、意味を尋ねる人を呼び込み、議論を生む力も持ちました。語源の不確かさは、ダダが固定的な定義を嫌う態度とも響き合っています。(参照:チューリヒ美術館|「ダダ」という名称の複数の由来、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

ツァラの朗読、宣言、編集の仕事

ルーマニア出身のトリスタン・ツァラは、ヤンコとともにチューリヒに滞在し、キャバレーの公演に参加しました。詩を読むだけでなく、催しを企画し、声明を書き、雑誌を編集する仕事を重ね、ダダの名称をより広い読者へ届けるうえで中心的な役割を果たします。1916年7月のダダの催しや、1917年に始まる雑誌の刊行は、舞台から文章や印刷物へ運動が展開したことを示しています。

ツァラの宣言には、一定の芸術理論を整然と説明する文章とは異なる、飛躍した言葉や挑発的な断言が現れます。自分の文章を通じて読み手の反応を引き起こすことが、活動の一部でした。1918年の朗読会を知らせるヤンコのポスターからは、イベントの日時や場所を告げる告知自体が造形上の実験になっていたことが分かります。ツァラの仕事は、詩を書くことと運動を組織することを結びつけました。(参照:チューリヒ美術館|1918年のツァラの朗読会ポスター、チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

定義を拒みながら、運動を広める

ダダは明確な定義を嫌うと語られます。実際、ツァラが1918年に発表した宣言では、過去の芸術や固定された価値に対する批判が矛盾や飛躍を交えて語られます。彼は理論を掲げるという形式そのものを利用しながら、読者にその形式を信用してよいのかと問いかけました。何を語っているかに加え、どのように人々へ届くかが重要な表現だったのです。

それと同時にツァラは、執筆依頼や作品の収集、雑誌の発送など、実際の編集業務を進めていました。運動が広がるには、名称が印刷され、作家同士が連絡を取り、読者がそれを手にする必要があります。自由や自発性を強調する活動にも、共同作業と事務的な準備が存在します。チューリヒ美術館に残る出版物やポスターは、ダダを成立させたその両面を伝えています。(参照:チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、チューリヒ美術館|1918年のツァラの朗読会ポスター、チューリヒ美術館|「ダダ」という名称の複数の由来)

1916年の刊行物――舞台の外へ

『キャバレー・ヴォルテール』を実物から読む

1916年5月末にバルが編集した『キャバレー・ヴォルテール』は、32ページ、挿図13点を収めた冊子です。チューリヒ美術館の所蔵本では、アルプがデザインに関わった表紙と、詩や図版が収録されていることを確認できます。舞台のプログラムを記録するだけでなく、前衛の詩人や画家による異質な作品をひとつの冊子へまとめる役割がありました。そこでは文章と画像が、読者の手元で繰り返し読まれる形になります。

同館の資料によれば、冊子はおよそ500部刊行され、ドイツ語とフランス語が使われました。小規模な会場で一夜に集まれる人数と比べれば、複数部の印刷物が持つ広がりは大きいものでした。ダダの初期資料を読む際には、そこにどんな作品が載ったかだけでなく、誰が編集し、どの言語で、どんな紙に刷って配ったかまで見ることが大切です。媒体の作り方そのものが、運動を支える技術だったからです。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

『幻想的な祈り』――音の詩と木版画

1916年刊行の『幻想的な祈り』は、リヒャルト・ヒュルゼンベックの詩とアルプの木版画を組み合わせた小冊子です。16ページほどの本に7点の版画が収められ、言葉を読む経験と抽象的な図版を見る経験が重なります。キャバレーの舞台で激しい口調と身振りによって発表されていた詩は、ページに印刷されることで、遠く離れた人へ届けられる作品に変わりました。版画は手描きの原画から同じ図柄を複数部作れる技法です。

この小冊子が示すのは、ダダの活動が一夜限りの公演と保存可能な印刷物を往復していたことです。舞台では大きな太鼓や声が重要な役割を持ち、紙面では活字の並びと木版の黒い形が読者の目を導きます。同じ詩でも受け取り方は変わり、両方を合わせて運動の活動を理解できます。初期ダダには複数の作家がそれぞれの技術を持ち寄る共同制作が根づいていました。(参照:チューリヒ美術館|ヒュルゼンベックとアルプ『幻想的な祈り』、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

小さな印刷所から生まれた国際的な流通

ダダの刊行物は、小規模な編集と印刷の仕事から始まりました。編集者が作品を集め、印刷所と相談し、資金を工面しながら小冊子や雑誌を制作しました。チューリヒ美術館の資料には、ツァラが資金の不足で刊行間隔が不規則になったと説明した記録があります。印刷紙の色、文字の組み方、挿図の配置は、こうした現実的な制作条件の中で決定されました。

刊行物を国外へ届けるには、言語の違いも考える必要がありました。複数言語を併用することは、新しい読者と接続するための方法であると同時に、誌面で異なる響きや意味を衝突させる造形上の可能性も持っています。作品が展示室から出て、持ち運べる紙の形を取ることによって、ダダはキャバレーに来場できない人々の間にも広がりました。美術運動を理解するには、この出版の仕組みも欠かせません。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、チューリヒ美術館|ヒュルゼンベックとアルプ『幻想的な祈り』)

1917年のギャラリー・ダダ

キャバレー閉鎖から次の活動拠点へ

キャバレー・ヴォルテールは1916年7月に閉じられました。毎晩に近い公演は参加者に大きな負担をかけ、同じ場所で長く活動を続けることは困難でした。その後、チューリヒのダダは別の会場で催しを続け、1917年1月にはパラーデ広場のコライ画廊でダダの展覧会が開かれます。まもなくこの場所は「ギャラリー・ダダ」として使われるようになりました。活動の拠点を変えながら、運動は続いていきました。

活動の場所が変わると、そこで見せられるものも変わります。キャバレーでは舞台を中心に音楽、詩、ダンスが交錯していました。画廊では絵画、版画、刺繍、レリーフなどを比較的落ち着いて見ることができ、別の形式の公演や講演も催されました。ダダの表現が特定の演出方法に固定されていなかったことを、会場の変化がよく示しています。(参照:チューリヒ美術館|リヒターによる1917年ダダ展ポスター案、チューリヒ美術館|スウォツキによる開店ポスター)

リヒターのポスター案が残した証拠

ハンス・リヒターによる1917年の「第1回ダダ展」ポスター案は、チューリヒ美術館が所蔵する重要な資料です。作品の記録からは、展覧会がコライ画廊で開催されたこと、場所が市中心部のパラーデ広場付近であったことが確認できます。現存するポスター案は、芸術家たちが展覧会という制度をどのように使おうとしていたかを考える手がかりです。描かれた図柄や文字は、作品であると同時に、人々へ展覧会を知らせるための情報でもあります。

リヒター自身の活動は、写実的な肖像から、線や色面を整理した抽象的な頭部の表現へと展開していきました。1918年の《ダダの頭部》を見れば、肖像が似せて描くことから形の構成へ近づいた様子が分かります。ダダの画廊活動には、舞台上のナンセンスとともに、抽象造形の研究も存在していました。現存作品を通じて、その多様さを具体的に確認できます。(参照:チューリヒ美術館|リヒターによる1917年ダダ展ポスター案、チューリヒ美術館|リヒター《ダダの頭部》1918年)

展示、舞台、講演を横断する芸術家たち

ギャラリー・ダダでは、視覚作品の展示と並んで、朗読や講演、上演の活動が続きました。展示を行う画廊の仕組みは、作品を長い時間見せるために適しています。舞台でその場限りの反応を生み出すキャバレーと、作品を継続して公開するギャラリーの両方を経験したことによって、ダダの活動は幅を持ちました。芸術家たちは目の前の観客に働きかける方法を変えながら活動したのです。

チューリヒには当時、近代美術を扱う複数の画廊があり、ダダの画廊もその都市の文化の中に位置していました。社会を挑発する活動であっても、場所を借り、展示し、印刷物を配り、観客を招く必要があります。ダダが美術制度と緊張した関係を持ちながら、実際には展示や出版の回路を活用していたことは重要です。制度への疑問と、その制度を利用する行動が同時に存在していました。(参照:チューリヒ美術館|リヒターによる1917年ダダ展ポスター案、チューリヒ美術館|1918年のツァラの朗読会ポスター、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

1918年のツァラと雑誌『ダダ』

雑誌第1号から第3号へ――紙面が変わる

ツァラが編集した雑誌『ダダ』は1917年7月に第1号、同年12月に第2号が出されました。1918年12月の第3号は、それまでより判型が大きくなり、斜めに置かれた行や、ほかの文章と直角になる活字の配置が登場します。チューリヒ美術館に残る第3号は、表紙にヤンコの木版画を用いた16ページの刊行物です。文字を読む方向が一つに定まらない紙面は、内容だけでなく読む身体の動きにも働きかけます。

こうした活字の組み方は、書かれた内容を目で追う行為そのものを変えます。雑誌を開いた読者は、通常の文章の流れから視線を外し、図版と語句の組み合わせを探さなければなりません。紙に印刷された言葉が情報を運ぶだけでなく視覚素材になることは、未来派の出版物にも前例があります。ツァラの『ダダ』では、多言語の原稿、木版画、宣言をひとつの紙面で交錯させる編集がさらに推し進められました。(参照:チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年)

「ダダ宣言1918」が批判したもの

1918年、ツァラは「ダダ宣言1918」を発表しました。その文章は同年12月の『ダダ』第3号の冒頭に掲載されています。宣言は一定の美術理論を示す教科書のようには進まず、独立、矛盾、拒絶を重ねながら、固定された価値や集団の規則に疑問を向けます。宣言という強い形式を用いつつ、読む側が求める統一的な教義を突き崩していくところに、その特異さがあります。

ここで起きているのは、単に新しい造形を勧めることから、社会や文化の価値基準へ直接言葉を向けることへの展開です。ツァラにとって印刷物は、遠くの読者へ問いを届け、議論を起こす舞台でもありました。美術史の中で「ダダ宣言」と呼ばれる文章を読むときには、1918年に実際に発表されたテキストと、その後の記憶や引用を区別する必要があります。現存する雑誌は、文章の置かれた場所と形式を示しています。(参照:チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、チューリヒ美術館|1918年のツァラの朗読会ポスター)

1918年の朗読会と国際的な連絡

1918年夏、ツァラはチューリヒのツンフトハウス・ツア・マイゼンで、自身の朗読会を行いました。ヤンコの制作したポスターは、版画を手彩色したもので、同じ図柄を印刷しながら一枚ごとに異なる色を与えられるものでした。チューリヒ美術館の記録によれば、その会場では約40人の観客を前に詩や宣言が読まれました。後年の回想に見られる騒乱の記述は、同時代の新聞報道と照らし合わせて読む必要があります。

さらに『ダダ』第3号には国外の作家からの寄稿が集められ、ピカビアとの交流も深まりました。国境を越えた連絡は、郵便や出版によって進められ、戦争の時代には複雑な制約にも直面します。チューリヒに集まった少人数の活動が、1918年には国外の詩人や芸術家との関係を強めるまでになったことが、紙面と書簡の記録から分かります。活動の国際化は、書簡や寄稿、出版を積み重ねた結果でもありました。(参照:チューリヒ美術館|1918年のツァラの朗読会ポスター、チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年)

ニューヨークで始まっていた別の前衛

1913年アーモリー・ショーから続く関心

ニューヨークでは1913年のアーモリー・ショーを通じて、ヨーロッパのキュビスムや未来派などが広く知られるようになりました。デュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》も強い反応を引き起こし、同地の美術家や批評家、収集家の間に前衛美術をめぐる議論が生まれていました。ニューヨークのダダ的な実験は、こうした先行する受容と交流の中で独自に形成されたのです。

1915年にデュシャンがニューヨークへ渡ると、彼はすでにアーモリー・ショーで名前を知られた画家として迎えられました。そこで重要だったのは、絵画の新しい様式を発表することにとどまらず、仲間の芸術家や収集家と直接対話できる環境を得たことです。展覧会での評価と、私的な交流の場で進む実験は異なる速さで進みました。この二つの場所を区別すると、ニューヨークの前衛活動の成り立ちが理解しやすくなります。(参照:メトロポリタン美術館|デュシャンとニューヨーク、メトロポリタン美術館|1915年のデュシャンとアレンスバーグ)

写真家スティーグリッツと雑誌『291』

写真家アルフレッド・スティーグリッツの画廊「291」は、ニューヨークで前衛芸術が紹介される重要な場所でした。1915年3月から1916年2月まで刊行された雑誌『291』には、スティーグリッツ、マリウス・デ・サヤス、ピカビアらが関わっています。メトロポリタン美術館が所蔵する実物では、印刷された文字やイメージが従来の雑誌とは異なる配置を取り、紙面自体が造形の実験になっていることが分かります。

雑誌は、遠い都市にいる作家の作品や考えを読者へ届けることができます。同時に、誰が作品を選んで誌面に載せるかという編集行為も、新しい価値判断を生みます。「291」という画廊名が雑誌名になったことは、展示室と印刷物が結びついていたことをよく示します。チューリヒの刊行物と同じように、ニューヨークでも小規模な出版が前衛芸術の交流を支えていました。(参照:メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年、メトロポリタン美術館|ピカビア《ここに、これがスティーグリッツ》)

アレンスバーグ夫妻の住居という交流の場

ウォルターとルイーズ・アレンスバーグ夫妻のニューヨークの住居には、芸術家や詩人、収集家が集まり、作品や新しい美術の考え方が話し合われました。デュシャンは1915年に夫妻と親しくなり、作品の制作と収集に関わる交流を重ねます。マン・レイもその交友関係を通じてデュシャンと知り合いました。画廊の展覧会や雑誌と並び、私的な集まりが美術の新しい動きを支えていたのです。

作品の流通には、芸術家の発表だけでなく、展示する場所、購入する人、紹介する友人が必要です。美術館の制度に疑問を向ける作品も、実際には人と人とのつながりから生まれ、記録されていきました。アレンスバーグ夫妻の住居は、ニューヨークの作家たちにとって考えを試せる環境であり、後の大規模な作品収集とも関係する場所でした。ニューヨーク・ダダの歴史を作家の名前だけで説明しないために重要な存在です。(参照:メトロポリタン美術館|1915年のデュシャンとアレンスバーグ、メトロポリタン美術館|デュシャンとニューヨーク、フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯)

ピカビアの機械的肖像と風刺

《ここに、これがスティーグリッツ》1915年

フランシス・ピカビアは、《ここに、これがスティーグリッツ》(1915年)で写真家を機械の姿に置き換えました。メトロポリタン美術館が所蔵する紙の作品には、写真機の蛇腹を思わせる図柄、印刷された言葉、歯車に似た形が組み合わされています。画面に現れる「IDEAL」という文字は、写真家の目指す理想を連想させます。ピカビアは小型カメラの広告図版を参照し、人間を機械に置き換える奇妙な肖像を構成しました。

この作品の特徴は、広告の図柄を使い、写真家の活動や性格を機械の部品同士の関係として風刺している点です。カメラのような装置は、スティーグリッツが写真を媒体に近代美術を支えたことを示しながら、その活動が行き詰まっているという周囲の見方も暗示します。通常の肖像画が目鼻立ちや表情を通じて人物を表すなら、ここでは機械の機能や言葉の連想が人物の代わりを務めています。(参照:メトロポリタン美術館|ピカビア《ここに、これがスティーグリッツ》、メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年)

工業図版を人物に置き換える発想

ピカビアは1910年代半ば、歯車や滑車、機械装置の図面を使って、人間の身体や人物同士の関係を表しました。機械の部品には、それぞれ決まった用途や動き方があります。彼はそのイメージを肖像や恋愛、性的な暗示と結びつけ、図面が持つ客観的で正確そうな見た目をユーモアへ転じました。作品の形を理解するためには、何の機械に見えるかと同時に、なぜその人物に置き換えられているかを考える必要があります。

この点で、機械の速度や力を称賛したイタリア未来派とは方向が異なります。工業化された社会のイメージを借りながら、その威厳や真面目さを崩し、人間を機械のように描く奇妙さを生み出したのです。科学技術を用いた近代社会を単純に拒むのでも全面的に称えるのでもなく、機械の図像を使って価値観を揺さぶる。その複雑な態度にニューヨークの前衛活動の特色が現れています。(参照:メトロポリタン美術館|ピカビア《ここに、これがスティーグリッツ》、メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年、MoMA|ダダとは何か)

雑誌『291』に置かれた機械と活字

《ここに、これがスティーグリッツ》の図柄は、1915年7〜8月の雑誌『291』の表紙へつながるための下絵として制作されました。メトロポリタン美術館の解説によれば、現存する原画にはインクや鉛筆、貼りつけた印刷物などが使われています。機械のイメージに文字が入り込み、人物を示す情報と風刺が一枚の紙で結びつきます。図版が雑誌に印刷されれば、人物に似せた肖像を超えて、多数の読者へ向けた発言になります。

雑誌を美術作品の外側にある単なる宣伝媒体として考えると、ピカビアの実践を十分に理解できません。誌面上での文字と画像の位置、広告図版の転用、表紙として人の目を引く仕組みも制作の一部でした。都市の大衆的な印刷文化を素材にする態度は、その後のダダや20世紀美術へ続く重要な方法となります。ここでは描く技術と編集・複製の技術が接近していました。(参照:メトロポリタン美術館|ピカビア《ここに、これがスティーグリッツ》、メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年)

マン・レイの絵画と偶然の発見

《綱渡りの踊り手は自身の影を伴う》1916年

マン・レイの《綱渡りの踊り手は自身の影を伴う》(1916年)は、横幅約186センチメートルの大きな油彩画です。画面の上の方には綱渡りをする踊り手が白や灰色の線で描かれ、その下には色の異なる大きな面が広がっています。綱は一本の線として示されるだけでなく、複数の方向へ繰り返され、身体の動きや時間の重なりを感じさせます。画面の主要な部分を占める色面は、踊り手の影を思わせる抽象的な形です。

MoMAの解説によれば、この作品は実際に見た綱渡りの演目を発想のきっかけにしています。マン・レイは踊り手の動きを紙から切り抜く試作を重ね、その際に生じた紙の残り片が床の上で思いがけない形に集まったことに着目しました。彼はその形を影として読み替え、大きな油彩画へ移します。偶然生まれた形が、観察に基づく人物像と同じ画面に置かれたところが作品の特徴です。(参照:MoMA|マン・レイ《綱渡りの踊り手は自身の影を伴う》、MoMA|マン・レイ作品の学芸員解説)

紙の残り片が絵画の主役になるまで

マン・レイが綱渡りの踊り手を紙から切り抜いたとき、最初に意図していたのは人物の形でした。床に残った周囲の紙片は、その目的から見ると余り物です。ところが、その残り片が偶然つくった輪郭を見て、別のイメージを発見しました。MoMAの学芸員による解説では、彼が色紙に移した踊り手の姿より、切り抜いた後に残る余白の形を選んだ過程が詳しく説明されています。

完成した画面では、踊り手の像よりも大きな面積を影のような色面が占めています。人物の動きから出発していながら、見る人の目は形の境界や鮮やかな色彩へ導かれます。絵画の中心と周辺、意図した形と偶然生じた形の役割が入れ替わったのです。作品の制作地はニューヨークです。アルプのチューリヒでの実験と並べると、直接的な影響関係を前提とせずに、二人が同時期に偶然を制作へ取り入れた様子を比較できます。(参照:MoMA|マン・レイ《綱渡りの踊り手は自身の影を伴う》、MoMA|マン・レイ作品の学芸員解説、MoMA|アルプ《偶然の法則に従う正方形のコラージュ》)

絵画を続けながら変わった制作方法

マン・レイは1916年の作品で、紙片の偶然の配置から出発しながら、最終的には油絵具を使って大きなキャンバスへ描き直しています。この違いが重要です。制作の出発点が変わったからといって、画材や完成作品の形式まで同時に変わるとは限りません。彼は絵画という媒体を利用しつつ、構図の決定方法に予測できない出来事を取り入れました。

マン・レイは1920年代に写真やカメラを使わない写真技法でも知られるようになります。1916年の絵画をそれら後年の写真作品と同じ方法で制作したように説明することは避ける必要があります。この時期に確認できるのは、影、余白、偶然の配置に対する継続的な関心です。作品の制作年代を守って見ることで、表現がどのような段階を経て変化したかが分かります。(参照:MoMA|マン・レイ《綱渡りの踊り手は自身の影を伴う》、MoMA|マン・レイ作品の学芸員解説)

デュシャンと「選ぶ」という制作

レディメイドの試みは1916年より前に始まった

マルセル・デュシャンは1913年に自転車の車輪をスツールに取り付け、1914年に市販の瓶乾燥器を入手しました。1915年にはニューヨークで雪かき用のシャベルを選び、《腕の骨折に先立って》という題名を与えています。これらは、工場や商店で作られた日用品を、作品として見る条件の中へ移す試みでした。のちに「レディメイド」と呼ばれる方法は、チューリヒでダダが命名される前から始まっていたのです。

当時は、美術作品の価値を作者の熟練した手作業や美しい仕上がりと結びつける考えが根強くありました。レディメイドでは、何を選び、どう置き、どんな題名を与えるかが重要になります。大量生産された品物でも、選択の行為によって美術の対象として提示されます。そのことが芸術家の仕事をめぐる問いにつながりました。1913年の《自転車の車輪》や1915年のシャベルの現存する展示版には後年の再制作があるため、当初の物体と区別して読む必要があります。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイド、MoMA|デュシャンの作品と活動)

手で作ることと作品を提示すること

レディメイドは、完成した品物がすでに世の中にあることを出発点にします。雪かきのシャベルには本来、雪を除くための柄と金属部分があり、用具としての寸法や形が定まっています。デュシャンがそれを普段とは異なる場所に置き、奇妙な題名をつけると、見る人の意識は道具の用途から、なぜこれが作品として示されたのかという問いへ移ります。物理的な加工の量だけでは説明できない表現が生まれるのです。

彼の方法は、それまでの美術が手による制作を積み重ねてきた歴史と関係しています。作者は絵を描き、彫刻を彫る人であるという考えに対し、選択と提示も作者の行為になり得ることを示しました。デュシャンをダダのすべての活動の代表にしてしまうと、チューリヒの舞踊や詩、共同制作との違いが見えにくくなります。同時代の多様な実践のひとつとしてレディメイドを位置づけることが大切です。(参照:MoMA|デュシャンとレディメイド、MoMA|デュシャンの作品と活動)

1916年末の独立美術家協会と「無審査」

ニューヨークでは1916年末、デュシャンやアレンスバーグらも関わって独立美術家協会が設立されました。協会は1917年4月に大規模な展覧会を計画し、出品作品を審査員が選別しないという方針を掲げました。従来の公募展では、受け入れる作品を選ぶ権限が特定の人々に集中しがちです。無審査の原則は、そうした仕組みを見直し、参加者が幅広い形式の作品を示せるようにする試みでした。

この取り組みは、芸術の自由を掲げる制度が実際には何を作品として認めるのかという問題を含んでいました。どこまでが出品可能か、誰が境界を決めるかは、原則を運用する段階で明らかになります。1917年の《泉》をめぐる出来事は、その矛盾が表面化した例です。作品の受け取り方を考えるには、提出先の展覧会がどのような理念を掲げていたのかを先に押さえる必要があります。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯、メトロポリタン美術館|1915年のデュシャンとアレンスバーグ)

1917年《泉》をめぐる展示と出版

展覧会に提出された小便器と「R. Mutt」

1917年4月、デュシャンは男性用小便器を用意し、向きを変え、「R. Mutt 1917」と署名して《泉》と題しました。作品は独立美術家協会の第1回展へ提出されました。小便器は元来、洗面所などで使う衛生陶器であり、工業的に製作され、日常的な用途を持つ品物でした。題名が付けられ、別の場所に置かれることによって、用途や作者という概念を問い直す対象になりました。

協会は無審査の原則を掲げていたものの、この作品は会場で展示されませんでした。デュシャンはその判断に抗議して協会の役職を辞しました。フィラデルフィア美術館の資料では、アレンスバーグも抗議して辞任したことが記録されています。美術館で見るべきものを誰が決めるのかという問いは、この具体的な制度上の衝突によって可視化されました。作品の形だけを見ても、この出来事の意味は十分に分かりません。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯、MoMA|デュシャンとレディメイド)

『ザ・ブラインド・マン』第2号が何を伝えたか

《泉》の展示が拒まれた後、デュシャンはスティーグリッツに作品を持ち込み、写真を撮影してもらいました。その写真は1917年5月の雑誌『ザ・ブラインド・マン』第2号に掲載されます。誌面には「リチャード・マット事件」を論じる文章も置かれ、既製品を選んで提示すること自体が作品の意味を作るという立場が表明されました。雑誌にはデュシャン、ベアトリス・ウッド、アンリ=ピエール・ロシェらが関わっています。

写真では、展示室に置かれた彫刻のように小便器が台上に据えられ、その背後に別の絵画が見えます。使うための器具は、照明と撮影の配置によって新しい見え方を与えられました。作品が正式な展覧会で展示されなかった後も、写真と文章が別の観客を生みました。出来事が印刷物に残されたことで、その後の議論の条件が整ったのです。出版そのものが、作品の歴史を形づくる重要な活動でした。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯、ワシントン・ナショナル・ギャラリー|スティーグリッツと《泉》)

失われた原作と後年の再制作を区別する

1917年に提出された《泉》の原物は、後に失われました。現在美術館に展示される《泉》の多くは、デュシャンの関与のもとで後年に作られた再制作です。フィラデルフィア美術館は1950年の版を所蔵しており、1917年の原作とその後の版を区別して説明しています。作品の有名な外観を知っていても、目の前の陶器が1917年当時の物体であるとは限りません。

現存する写真、1917年の雑誌、後年の再制作には異なる資料価値があります。写真は当時の物体がどのように置かれたかを伝え、雑誌はそれについて何が論じられたかを示し、再制作は後の時代に作品がどう受容されたかを考える機会になります。この区別はダダの根本的な問いにも関係しています。作品の重要性が唯一の原物だけに依存していたなら、原作が失われた後の《泉》の歴史は説明しにくいでしょう。(参照:フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯、ワシントン・ナショナル・ギャラリー|スティーグリッツと《泉》)

二つの都市を結ぶもの、分けるもの

チューリヒの集団とニューヨークの交友関係

チューリヒでは、バルとヘニングスが運営したキャバレーへ多国籍の芸術家が集まり、「ダダ」という名称を用いた共同活動が形づくられました。音響詩や仮面、踊り、コラージュに加え、1917年以降はギャラリーと雑誌の活動が続きます。ニューヨークでは、1915年頃からデュシャン、ピカビア、マン・レイらが、画廊、私的な集まり、雑誌、展覧会を通じて独自の実験を進めていました。活動が始まった環境には都市ごとの違いがあります。

美術史上、どちらもダダと呼ばれることがありますが、その同時性を考えるには、それぞれの歴史的な経緯が重要です。1916年にチューリヒで命名された活動と、ニューヨークの先行するレディメイドの試みを区別する必要があります。両者に共通していたのは、伝統的な技法や作品の価値を問い直し、印刷物や展示の方法そのものを表現へ取り込む姿勢でした。共通の問いが、それぞれ別の形式で現れたのです。(参照:チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、メトロポリタン美術館|デュシャンとニューヨーク、MoMA|ダダとは何か)

戦争への反応と、美術制度への問いの違い

チューリヒのダダには、戦時下の亡命者たちが国民国家や戦争を支える文化の言葉へ反発した経験が深く関わっています。詩を無意味な音へ分解し、観客が予測できない公演を行うことは、既成の秩序を揺さぶる直接的な手段でした。ニューヨークでは、デュシャンの《泉》が無審査展の運用を問い、ピカビアの機械的肖像が人物表現と工業イメージを結びつけました。活動の中心となる出来事には違いがあります。

その違いを、ヨーロッパは政治的でニューヨークは芸術的だったという二分法で説明することもできません。どちらにも社会や制度への問いがあり、個々の作家の意図はさまざまでした。戦争が与えた影響、観客の構成、利用できた施設や雑誌の環境をたどることで、なぜ異なる制作方法が現れたかが見えてきます。都市の特徴を述べるときは、具体的な作品と活動の根拠に戻ることが大切です。(参照:MoMA|ダダとは何か、メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年、フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯)

1918年に強まったツァラとピカビアの接点

1918年の『ダダ』第3号には、チューリヒ以外の作家の寄稿が集まり、ツァラとピカビアの連絡も深まりました。チューリヒ美術館の資料には、同年のピカビアのスイス滞在が両者の交流に関係したことが記録されています。各都市で別々に始まった活動が、出版と人の移動によって接点を増やしたのです。運動の国際化を語るには、実際に原稿が届き、誌面に載ったという出来事が重要です。

雑誌に文章や図版を載せることは、物理的に離れた作家の実験をひとつの場で読ませる行為でもあります。読者は同じ紙面で、それまで別々の場所に存在した思想や表現の関連を見つけることができます。1918年のダダを考えるときには、チューリヒからニューヨークへ一方向に広がったという単純な図より、出版物と交流によって作られた複雑なつながりとして見る方が史実に近づきます。(参照:チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、メトロポリタン美術館|雑誌『291』1915–16年、チューリヒ美術館|1918年のツァラの朗読会ポスター)

1918年の終わりとダダの歴史的意味

第一次世界大戦の終結と活動の分岐

1918年11月、第一次世界大戦は休戦に至りました。戦争が終結に向かう中で、ヨーロッパ各地の政治と社会も大きく変わっていきます。チューリヒに集まっていた人々の移動や活動場所も変化し、ダダの実験は各地へ異なる形で広がることになりました。ヒュルゼンベックがベルリンでダダを紹介したことは、その後の政治的な活動を考える出発点になります。各都市での展開は1919年以降にさらに複雑になります。

本記事の期間を1918年で区切る意味は、ひとつの活動が完成したというより、最初の試みが別の場所へ向かう段階に到達したことにあります。キャバレー・ヴォルテールの公演、ギャラリー・ダダの展示、ツァラの1918年の宣言、ニューヨークの雑誌や展覧会の試みは、それぞれ次の時代に残る方法を生み出しました。戦後の運動を理解するためにも、初期の活動が持っていた多様さを確認しておくことが大切です。(参照:チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、MoMA|ダダとは何か、チューリヒ美術館|ヒュルゼンベックとアルプ『幻想的な祈り』)

完成品だけで測れない芸術活動

ダダの作品には、現物が失われ、写真や記録だけが残ったものがあります。キャバレーで上演された音響詩はその場の声や空気まで保存できず、1917年の《泉》の原作も現存しません。現在目にできる刊行物、写真、書簡、再制作は、当時の活動を知るための異なる種類の資料です。それらを注意深く読むことで、完成品の外観だけでは見えない制作と受容の歴史が分かります。

また、舞台を整えた人、雑誌を編集した人、版画を刷った人、展覧会を企画した人の働きも重要です。ヘニングスの書簡やツァラの刊行物を読むと、一人の天才的な画家だけでは実現し得ない共同作業が見えてきます。ダダは、作者の手で作られた品物の形に価値を求める習慣を揺さぶると同時に、芸術が生まれ、観客へ届き、歴史として残るまでの過程を考える手がかりを与えました。(参照:チューリヒ美術館|ヘニングスの1916年の書簡、チューリヒ美術館|雑誌『キャバレー・ヴォルテール』1916年、チューリヒ美術館|ツァラ編集『ダダ』第3号1918年、フィラデルフィア美術館|《泉》をめぐる1917年の経緯)

後の美術へ受け継がれた具体的な方法

アルプの偶然のコラージュは、作者が構図を全面的に決める方法への問いを残しました。トイバーの踊りと人形は、幾何学的な形を身体や工芸と結びつけました。マン・レイは絵画の余白から新たな形を発見し、デュシャンは選ばれた既製品によって作品の成立条件を問い直しました。これらの試みは、後のコラージュ、パフォーマンス、オブジェ、コンセプチュアル・アートなどを理解するための歴史的な手がかりとなります。

後の表現への影響を考える際にも、複数の歴史のつながりが重要です。ダダ自身もキュビスム、未来派、表現主義などと接し、既存の技法を異なる目的へ移していました。作品の材料や形、発表の手続き、観客の関わり方を具体的に変えることで、芸術が何を扱えるかという範囲を広げていったのです。その方法を知ることが、20世紀の美術を学ぶうえでの大きな基礎になります。(参照:MoMA|ダダの主要作品一覧、MoMA|偶然、コラージュ、アッサンブラージュ、チューリヒ美術館|トイバーによる《鹿の王》の人形1918年、MoMA|デュシャンとレディメイド)

年表:1916–1918年のダダの歩み

  1. 1913年 ニューヨークのアーモリー・ショーでデュシャンの《階段を降りる裸体 No.2》が話題となり、欧州の前衛美術が注目される。
  2. 1915年 デュシャンがニューヨークへ移り、マン・レイやアレンスバーグ夫妻との交流が始まる。ピカビアが機械的肖像を雑誌『291』へ寄せる。
  3. 1916年2月5日 バルとヘニングスがチューリヒのシュピーゲルガッセ1番地でキャバレー・ヴォルテールを開く。
  4. 1916年春 詩の同時朗読、音響詩、仮面を用いた踊り、朗読会などが行われる。
  5. 1916年5月末 バル編の『キャバレー・ヴォルテール』刊行。「ダダ」という名称が印刷物に現れる。
  6. 1916年7月 キャバレー・ヴォルテールが閉じられる。別会場でダダの催しが続く。
  7. 1916年 ヒュルゼンベックの詩とアルプの版画を収めた『幻想的な祈り』が刊行される。マン・レイが《綱渡りの踊り手は自身の影を伴う》を制作。
  8. 1916年末 ニューヨークで独立美術家協会が結成され、翌年の展覧会へ向けた準備が進む。
  9. 1917年1月 チューリヒのコライ画廊で第1回ダダ展が開かれる。
  10. 1917年春 ギャラリー・ダダが展覧会や公演の活動拠点となる。
  11. 1917年4月 ニューヨークの独立美術家協会展への《泉》の提出と展示拒否が起こる。
  12. 1917年5月 『ザ・ブラインド・マン』第2号にスティーグリッツ撮影の《泉》と擁護論が掲載される。
  13. 1917年7月 ツァラの編集による雑誌『ダダ』第1号が刊行される。
  14. 1917年12月 雑誌『ダダ』第2号が刊行される。
  15. 1918年 ゾフィー・トイバーが人形劇《鹿の王》の人形と舞台を制作し、舞台と幾何学的造形を結びつける。
  16. 1918年夏 ツァラがチューリヒで朗読会を開き、「ダダ宣言1918」を発表する。
  17. 1918年11月 第一次世界大戦が休戦に至る。ダダの活動は各都市で異なる展開へ向かう。
  18. 1918年12月 ツァラ編の『ダダ』第3号に「ダダ宣言1918」が掲載され、紙面設計も実験的なものへ変わる。

まとめ:ダダは芸術の何を変えたのか

ダダは、1916年のチューリヒで舞台、詩、音楽、絵画を横断する活動として成立しました。戦争への不信と、既成の文化や国家主義への反発を背景に、言葉の意味をほどき、観客を巻き込み、偶然や日常の材料を制作へ取り入れました。ヘニングスとバルが開いた小さな場は、ツァラの雑誌編集や1917年のギャラリー活動を通して、より広い交流へ発展していきました。

ニューヨークでは、ピカビアの機械的肖像、マン・レイの偶然を生かした絵画、デュシャンのレディメイドが、別の道筋から芸術の定義へ疑問を投げかけました。1917年の《泉》をめぐる提出、拒否、写真、出版の連鎖は、作品の意味が物体の形だけで決まらず、それを誰がどう提示し、どのように議論したかによっても変わることを示しました。ダダの歴史的な重要性は、一つの新しい画風を確立した点より、芸術が成立する条件を多様な方法で問い直した点にあります。

参考資料・出典

美術館の所蔵作品解説、当時の印刷物・書簡・公演資料、研究機関の記録をもとに執筆しました。各小節の末尾に、その記述を確認できる主要資料へのリンクを設けています。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY