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1915–1922

ロシア構成主義の成立

タトリン、革命、物質と生産

1915年、ロシアの画家ウラジーミル・タトリンは、木材や金属、ワイヤーなどを組み合わせ、壁の角へ張り出す奇妙な立体作品を発表しました。板は曲がり、ワイヤーには張力がかかり、作品の周囲の空間までが構造の一部になります。絵具で物の姿を描くことから、実際の材料で形を作ることへ。美術の制作方法が大きく変わろうとしていました。

この実験が進んだロシアでは、1917年に革命が起こります。新しい社会を作ろうとする動きの中で、芸術家たちは作品をどう作るかに加え、芸術をどこで、誰のために使うのかを考え始めました。美術館で鑑賞する絵画から、教育、舞台、衣服、印刷物、建築、産業のための設計へと関心が広がっていきます。

こうした変化を代表するのが、タトリン、アレクサンドル・ロトチェンコ、リュボーフィ・ポポーワ、ワルワラ・ステパノワらです。彼らはそれぞれ異なる経験から構成の原理を研究し、1921年には「構成主義者第一作業部会」が成立しました。構成主義は幾何学的な形が並ぶ独特の造形で知られています。その背景には、材料の性質を理解し、社会の中で使われる物を作ろうとする具体的な実践がありました。

この記事では、1915年のカウンター・レリーフから1922年の演劇や出版までを、作品を実際に見るようにたどります。何がどの材料でできているのか、どのように組み立てられているのか、そこから何が変わったのか。制作の手順と歴史的な出来事を結びつけながら、ロシア構成主義の成立を18章で解説します。

構成主義を理解するための出発点

1915年、ロシア前衛に現れた二つの方向

1915年のペトログラードでは、マレーヴィチの《黒の正方形》とタトリンの立体的な構成物が、同じ前衛美術の現場に登場しました。マレーヴィチは白い地に幾何学形を置き、絵画を身の回りの物体の再現から解き放とうとします。タトリンは木材や金属、ワイヤーを実際に組み合わせ、作品を壁から現実の空間へ伸ばしました。二人の仕事には、20世紀美術が進み始めた二つの方向が端的に表れています。

例えば、画面上に描かれた金属板と、作品に実際に取り付けられた金属板では、鑑賞者が受け取る情報が違います。実物の板には重さがあり、曲げ方によって張力が生じ、光の角度によって表情が変わります。タトリンはこうした物理的な条件を、作品を成立させる重要な要素にしました。ここから、形の美しさと同じくらい、形がどう作られ、何によって支えられているかが問題になります。(参照:MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成、ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》)

「構成主義」という名称が定着するまで

1915年の段階では、タトリンのレリーフ、ポポーワの抽象絵画、ロトチェンコの造形研究は、それぞれ独立した活動として進んでいました。革命後の1921年、モスクワの芸術文化研究所で構成主義者第一作業部会が結成され、共通の研究課題と集団活動が明確になります。

そのため、構成主義には二つの意味が重なっています。初期の立体や抽象作品にさかのぼって用いられる美術史上の広い呼称と、1921年前後に参加者自身が掲げた具体的な活動方針です。さらに生産主義へ進む作家、独立した造形芸術を続ける作家も現れました。年代によって言葉の使われ方が変わることを押さえると、構成主義の歴史をより正確に理解できます。(参照:MoMA|ロトチェンコ年譜と1921年の作業部会、MoMA|構成主義の概説)

作品から生活へ向かう歴史の見取り図

この記事で扱う1915年から1922年の約七年間は、三つの段階に分けて見ると理解しやすくなります。最初はタトリンのレリーフに代表される、現実の材料と空間を使った実験。続いて1917年の革命と、芸術家が教育や研究機関、行政へ参加した時期。そして1921年以降、構成主義者が生産や日常生活に向けた設計を本格的に議論し始める時期です。

作家たちが選んだ方法は多様でした。ロトチェンコは絵画を徹底的に研究した末に、その終点を宣言しました。ポポーワは画面の構成原理を舞台へ移し、そこで初めて人間の身体に触れる構造を作ります。作品と社会の接点を増やす方法は、作家ごとに異なっていました。各作品の見た目と制作方法を確かめながら、その差をたどります。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」)

タトリンの実験とキュビスムからの刺激

パリで見た、絵画の外へ広がる作品

ウラジーミル・タトリンは1910年代前半、画家としての活動を続けながら、絵画の表面から実際の物体へ関心を移しました。彼はパリでピカソの組み立て作品を目にし、紙や絵具で形を再現することと、木片や金属を組み合わせて形を作ることの間に、新しい可能性を見いだします。ピカソのキュビスムでは、新聞紙や壁紙の断片を画面へ貼り付け、絵画の中へ現実の物を持ち込んでいました。

タトリンが着目したのは、その先です。例えば木材を用いるなら、木目を絵具で似せて描く代わりに、板を切って、取り付けて、板同士の関係を作ることができます。こうして作品は、対象の見え方を描き直す研究から、材料の性質を試しながら形を作る研究へと移動しました。ピカソの経験をきっかけにしながら、タトリンは彫刻と絵画の従来の区分を大きく揺さぶる方法に進みます。(参照:MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

1914年頃の絵画的レリーフ

タトリンの初期の「絵画的レリーフ」は、木、紙、金属片、石膏、ガラスなど、手触りや光の反射が異なる材料を組み合わせていました。見慣れた立体彫刻のように一塊の人物や動物を彫り出すのでも、油絵の具で立体感を作るのでもありません。複数の材料がどこで接し、どの程度突出し、周囲に影を落とすかを実物で示す作品です。

素材を変えると、画面に起こることも変わります。ガラスには透過や反射があり、金属は薄くても曲げ方で強さが生まれ、木片は切断面と木目を持ちます。これらの差を消して滑らかな仕上げに統一するのではなく、差が見えるまま組み立てる。初期のレリーフには、後の構成主義で重要になる「材料の特性を制作の出発点とする」という姿勢がすでに表れています。(参照:MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成、ロシア美術館|カウンター・レリーフと展示空間)

作品を「組み立てる」という発想

絵画では、完成した表面を前から見るだけで、画面を支える仕組みを意識しないことが多いでしょう。タトリンの作品では、何を取り付け、どこを引っ張り、どの部材で支えているのかという関係が、表に現れています。鑑賞者は完成した形に加え、形が成立する条件も見ることになります。

ここで「構成する」という言葉が具体的な意味を持ち始めます。材料を組み合わせるという単純な作業の中に、力の向き、重力への対応、部品の固定方法、素材の加工性が含まれます。後の構成主義者たちは、こうした問題を理論的に整理し、作品制作を設計や技術の仕事へ近づけていきました。タトリンの早い時期のレリーフは、その問題が生まれる現場だったのです。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

カウンター・レリーフが変えた空間

《コーナー・カウンター・レリーフ》を実際に見る

ロシア美術館が所蔵する《コーナー・カウンター・レリーフ》は1914年の作品で、木、銅、鉄、ワイヤーなどが使われています。鉄や銅の板は独立して空中に浮かぶように見え、細いワイヤーが部材を引っ張りながらその位置を保ちます。材料の硬さと柔らかさ、重さと張力がひとつの関係を作っています。人物や風景に似せた形を探すより、部材がどう結びついているかに目を向けると作品の面白さが見えてきます。

この立体の重要な特徴は、二面の壁が接する角を利用していることです。作品の一部が壁から壁へと張られ、建物そのものが支持構造に参加します。展示場所の形と作品が切り離せないということは、鑑賞者の周囲の空間も作品の一部になり得るということです。ロシア美術館は、この作品が1915年の「0.10」展で公開されたことも記録しています。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、ロシア美術館|カウンター・レリーフと展示空間)

壁、隅、空気が作品に参加する

従来の浮彫は壁や板の正面に像が盛り上がる形式で、絵画と同じように主な視線の方向が決まっています。タトリンが空間の角を使うと、作品を見るために正面を探すこと自体が難しくなります。壁の交点から延びる部材に近づき、横に動くにつれて、板の重なりやワイヤーの角度、向こう側の空間の見え方も変わります。

作品の内部が空洞であることにも意味があります。空気のある場所が空白として残るからこそ、ワイヤーの張りや板の方向が読み取れます。物体に詰まった量感を与える伝統的な彫刻から、物体同士の間に生じる空間を作る方向へ。こうした転換は、同時代の構成彫刻だけでなく、のちの展示空間の考え方にもつながっていきます。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

残された作品と、失われた作品

初期のレリーフやカウンター・レリーフは、写真や図版で知られる作品も多く、現存するものと再制作されたものを区別して見る必要があります。材料を固定する実験的な制作は、長期保存を最優先とした伝統的なブロンズ彫刻とは条件が違います。作品が壊れやすく、政治的・社会的な変動の中で散逸することもありました。

この点で、ロシア美術館の所蔵作品の情報は大切です。実際の材料や大きさ、制作年を確認できるため、写真から想像した「工業的な彫刻」という印象を具体的な制作へ戻せます。またMoMAの《Counter-Relief》という作品記録には1914〜15年頃の木炭素描が掲載されています。立体の記録と関連する素描を同じ実物として扱わず、どの資料を見ているのか区別して読むことが作品研究の基本となります。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

1915年の「0.10」展で交差した実験

「最後の未来派絵画展 0.10」とは

1915年12月、ペトログラードで開催された「最後の未来派絵画展 0.10」は、ロシア前衛の歴史を語る際に大きな意味を持つ展覧会です。マレーヴィチが《黒の正方形》を含むシュプレマティスムの作品群を発表し、タトリンも立体構成を出品しました。展覧会の名称に「未来派」とあるのは、当時の作家がすでに共有していた革新的な動向を指すためです。出品された作品には、作家ごとに異なる方向が表れていました。

ここでは画家が具象を離れたとき、作品はどのような姿になり得るのかという問いが、実際の展示空間の中で並びました。白い地に幾何学形を置く絵画と、金属・木材・ワイヤーを部屋に張る構成物。両者を同じ場所で見ることによって、近代美術が「対象を描かないこと」からさらに分岐していた状況が見えてきます。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

マレーヴィチの絵画とタトリンの物質

マレーヴィチのシュプレマティスムでは、正方形、十字、帯状の形が白い画面上で関係を結びます。色と形の配置は、地上の物体を描く必要から自由になりました。タトリンの構成物でも、身近な物体の外観を再現する目的は薄れています。それでもタトリンにとって中心的なのは、画面内の見かけの形ではなく、材料同士の現実の関係でした。

両者の違いを比べると、「抽象」という言葉だけで1910年代の作品をまとめられないことが分かります。絵画の形式を保ったまま、視覚の新しい構造を探る方法がありました。立体を空間へ解放し、加工と組み立てそのものを制作の原理にする方法もありました。1915年の出品作は、その二つの可能性が同時に進んだことを示しています。(参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、MoMA|ポポーワ《絵画的建築》)

隅という展示場所が持った意味

「0.10」展の写真では、マレーヴィチの《黒の正方形》は壁の高い角に掛けられています。伝統的なロシアの室内でイコンが置かれる場所を意識した展示として広く知られています。タトリンのカウンター・レリーフも壁の角を利用しますが、その目的は建物の二面を実際の支持体として用いることにありました。同じ角という場所から、文化的な象徴と物理的な構造という異なる発想が生まれたのです。

この比較から、作品の意味は表面の造形だけで決まらないことが分かります。作品をどこに置くか、どのように支えるか、見る人の身体がどの位置にあるか。展示そのものが制作の一部となり、造形の可能性を広げました。その後の構成主義が建築や展示デザインへ関心を移す背景には、こうした早期の空間実験がありました。(参照:ロシア美術館|カウンター・レリーフと展示空間、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

1917年の革命と美術制度

二月革命、十月革命と芸術家たち

1917年、ロシアは二月革命で帝政が崩壊し、十月革命でボリシェヴィキが政権を握るという大きな政治的変化を経験しました。前衛芸術家たちの中には、新しい社会の誕生を自分たちの造形実験と結びつけて考える人々がいました。旧来の美術制度を変え、芸術を教育や社会の活動へ開く可能性が広がったためです。

1917年以前から続く制作を確認すると、構成主義は革命後に突然現れた美術様式という説明では捉えきれません。タトリンのレリーフやポポーワの抽象絵画は、すでに造形の方法を変えつつありました。革命が変えたのは、それらの試みを社会へ結びつける条件です。作家にとって、美術館をどう作り直すか、学校で何を教えるか、働く人が使う物をどう設計するかという問いが現実的な問題になりました。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ポポーワ《絵画的建築》)

人民教育人民委員部と造形芸術部門

新政府の人民教育人民委員部は、革命後の文化政策を担う行政機関として設けられました。造形芸術部門には前衛作家も関わり、美術館や教育機関、作品の購入・収集などが議論されます。ロトチェンコは1919年から1920年頃に美術館行政の仕事にも参加し、首都だけに集中しない新しい美術館ネットワークの形成を目指しました。

MoMAの研究によれば、この取り組みでは現代美術の作品を買い集め、地方の美術館へ配分する計画が進められました。ここで芸術家は、自分の作品を制作する以外にも、何を収集し、どの地域へ届け、どのように展示するかを考える立場になりました。作品が社会に届く仕組みを変えることも、革命後の芸術活動の一部だったのです。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所)

理想と物資不足が共存した時代

新しい芸術を社会へ広げようとする構想は、内戦や経済的混乱という厳しい条件のもとで進みました。建材や輸送手段、制作費を十分に確保することは難しく、大規模な建築案が模型の段階にとどまることもありました。新しい国家のための視覚文化を作るという目標と、現実に利用できる資源との間には大きな隔たりがありました。

この事情を考慮すると、実現していない計画の意味を判断しやすくなります。タトリンの記念塔が建てられなかったこと、後に生産主義を掲げた画家たちがすぐに工場で量産品を作れなかったことには、社会の条件が関係していました。構成主義の歴史には、作品を通して提示された理想と、実用化に伴う具体的な制約の両方が残されています。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、テート|ポポーワの絵画から織物デザインへの転換)

ポポーワ《絵画的建築》が示した転換

1917年の画面に何が見えるか

リュボーフィ・ポポーワの《絵画的建築》(1917年)では、赤や黒、白、灰色、淡い桃色などの大きな色面が、斜めに重ねられています。形の輪郭は明確でありながら、重なりの中に厚みを感じさせます。灰色の面が下から弓なりにのぞく部分には、薄い板が持ち上がっているような感覚が生じます。鋭い角度で配置された色面は、互いを押し合い、画面の外へ伸び出そうとするように見えます。

MoMAは、この作品について、マレーヴィチの非具象的な色面とタトリンのレリーフ構成という二つの実験を結びつけたものと説明しています。油彩による絵画を続けながら、現実の材料が重なり合うような厚みや力を取り込もうとしたのです。抽象絵画の内部で「構築する」という考えを推し進めた代表作といえます。(参照:MoMA|ポポーワ《絵画的建築》)

「建築的」という言葉の意味

題名の「建築的」という語は、形と形の位置関係を組み立て、全体を一つのまとまりとして成立させることへの関心を表しています。絵具で描いた平面であっても、画面の中に重さや釣り合い、接触、前後関係を作り出せます。

ポポーワの作品を見ると、画面上の赤い形は色彩であると同時に、一枚の板のようにも見えてきます。黒い面はその下に入り込み、白い部分は別の面との距離を生みます。色面を単に配置することから、色面同士を構造として結びつけることへ。彼女は後に実際の舞台装置を作るようになりますが、1917年の段階でその発想を絵画の中で十分に実験していました。(参照:MoMA|ポポーワ《絵画的建築》、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」)

マレーヴィチとタトリンの間に位置する制作

ポポーワは1916年にマレーヴィチのシュプレマティスムへ接近し、以前にはタトリンの仕事場でも学んでいました。西ヨーロッパでの経験を通じ、キュビスムや未来派の作品に接していたことも重要です。それぞれの方法を学びながら、彼女はどれか一つを忠実に繰り返す道を選びませんでした。

《絵画的建築》の中には、キュビスムの重なり合う面、シュプレマティスムの非具象的な形、タトリンの立体構成を思わせる物質感が同時にあります。この時期のロシア前衛では、絵画か立体かという区分が作品ごとに揺れ動いていました。ポポーワの仕事は、その境界に生まれた重要な実験です。1921年に彼女がイーゼル絵画から離れるときも、それまでの研究は舞台や織物の設計へ引き継がれていきます。(参照:MoMA|ポポーワ《絵画的建築》、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」)

タトリンの塔――建てることを構想した記念碑

《第三インターナショナル記念塔》の計画

1919年から1920年頃にタトリンが構想した《第三インターナショナル記念塔》は、巨大な螺旋状の骨組みを持つ建築案でした。第三インターナショナルとは1919年に設立された国際共産主義運動の組織です。塔はその活動を象徴し、政治や通信のために使われる建物として計画されました。一般に「タトリンの塔」と呼ばれ、革命後の前衛美術を象徴する構想となっています。

空に向かって伸びる二重螺旋は、外から見ても強い動きを感じさせます。構想では、その内部に異なる形の空間を収め、それぞれが異なる速度で回転する仕組みが考えられていました。建物全体は人々が働く場であると同時に、政治活動と情報伝達を目に見える形で表す装置でもあります。伝統的な記念碑が人物や出来事の記憶を固定するものだったのに対し、この塔は未来に向けた活動を建築の中で動かそうとしました。(参照:MoMA|タトリン《第三インターナショナル記念塔》の1920年資料、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

塔の模型・写真・印刷物をどう読むか

塔の構想は模型、図面、写真、出版物などを通じて知られています。MoMAが所蔵する1920年刊行の資料は、ニコライ・プーニンによる紹介文と塔の図版を含む冊子です。現在よく見かける塔の写真や立体像には、当時の模型を写したものと、後世に作られた再現模型があります。構想の資料と、実際に完成した建築を混同しないことが大切です。

模型の面白さは、巨大な計画を手に取れる規模へ縮めながら、その構造を具体的に想像できることです。螺旋がどのように立ち上がり、内部の空間がどこに収まるのか。図面や模型を見ることで、タトリンが単なる造形の迫力にとどまらず、人間が内部で活動する建築を考えていたことが分かります。立体作品と建築設計を結びつける点で、この計画には特別な意味があります。(参照:MoMA|タトリン《第三インターナショナル記念塔》の1920年資料)

実現しなかった計画が残した問い

《第三インターナショナル記念塔》は完成した建物として存在しません。規模が極めて大きく、当時の経済や技術、資材の条件を考えると実現は困難でした。作品として残されたのは、設計案とそれを伝える模型や出版物です。そのこと自体が、構成主義の理想と革命後の社会状況の隔たりを示しています。

建てられなかった計画にも、美術史上の価値があります。塔は、彫刻の形と建築の機能、技術と政治を一つの提案に結びつけました。近代建築や公共彫刻の可能性を考える人々に、完成品とは別のかたちで影響を与えました。実現の有無とともに、その構想が当時どのような未来像を示し、何を問題にしたかを読むことが重要です。(参照:MoMA|タトリン《第三インターナショナル記念塔》の1920年資料、MoMA|ヴェスニン《第三インターナショナル記念塔の提案》)

同時代の別の構成――ガボとペヴスナー

ガボ《女性の頭》に現れた空間

ナウム・ガボは、タトリンとほぼ同じ時期に、彫刻を中身の詰まった塊から開放する方法を探りました。《女性の頭》は1916年の原型に基づく作品で、複数の薄い面を交差させることで頭部を形づくっています。顔の丸みを一つの外面として再現する代わりに、板の位置と間隔によって頭部の体積を感じさせます。

この方法では、板と板の間にある空気が不可欠です。中身のない場所があるからこそ、正面から見た輪郭も、横から見た空間の広がりも読み取れます。タトリンの素材実験と共通する部分はありますが、ガボは構造を通して空間を視覚化することを強く重視しました。何のために構成するのかという点で、すでに作家間に違いが現れています。(参照:MoMA|ガボ《女性の頭》と初期の構成彫刻、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

1920年の「リアリスティック・マニフェスト」

1920年、ガボとアントワーヌ・ペヴスナーは「リアリスティック・マニフェスト」を発表しました。MoMAは当時の印刷物そのものを所蔵しています。二人は、形や空間を現実のものとして扱い、彫刻を物体の外観の模倣から解放しようとしました。伝統的な量塊や、描写によって作られる遠近感を離れ、実際の空間を構成することに関心を向けています。

この「リアリスティック」という言葉には、作品の中で扱う空間や構造そのものを現実のものとして捉える考え方が表れています。同じように幾何学形を使っていても、ロトチェンコらが後に追究する工業生産への参加とは異なる目的を持っていました。(参照:MoMA|ガボとペヴスナー《リアリスティック・マニフェスト》、MoMA|ガボ《女性の頭》と初期の構成彫刻)

造形の自律性と社会的生産の分かれ道

構成主義という言葉を広く使うと、ガボやペヴスナーもロシアの構成的な彫刻の重要な担い手として位置づけられます。けれども二人は、芸術作品の独立した価値を強く意識していました。タトリン、ロトチェンコ、ガンらが生産や社会的機能を重視していく過程では、こうした立場との違いも明確になります。

例えば、同じ木片や透明な板を使った作品でも、造形と空間の新しい体験そのものを目的にする場合と、将来の建築・製品設計へ向かう研究と考える場合では意味が変わります。ロシア前衛の中には、美術を生活のための技術へ変える動きと、美術の独立した探究を継続する動きが並んでいたのです。(参照:MoMA|ガボとペヴスナー《リアリスティック・マニフェスト》、MoMA|構成主義の概説)

1920年のINKhUK――芸術を研究する場所

芸術文化研究所の成立

1920年、モスクワに芸術文化研究所、通称INKhUKが設立されました。従来の美術学校のように作品の描き方を一方的に教える場というより、絵画や構成の原理を作家自身が共同で検討する研究機関でした。参加者は新しい芸術の性質を話し合い、線、色、面、材料、空間などを分析するための方法を探りました。

ここで芸術の話し合いは、画家の感覚や好みを説明することから、制作に使う要素と、それらの関係を調べることへ進みます。例えば一本の線が画面の中でどう作用するのか、色の違いが形の関係をどう変えるのか、材料そのものはどのように表面を作るのかといった問いです。こうした分析の積み重ねが、1921年の構成主義者第一作業部会の成立へ結びつきました。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ロトチェンコ、1918〜21年の構成の変化)

線・色・面を分けて考える

ロトチェンコは1918年から1921年にかけて、絵画のさまざまな要素を一つずつ取り出す研究を進めました。色を減らし、黒い色面の違いを試し、線そのものの働きに着目します。やがて定規やコンパスを使って直線と円を描き、手の自由な動きを抑えながら画面を構成する方法を探りました。

この過程を追うと、彼が突然「絵画をやめたい」と考えたわけではないことが分かります。絵画の基礎となる面や線、色に立ち返り、それらがどこまで作品を成立させられるのか調べたのです。筆の動きに現れる個性を減らすことには、同じ手順なら誰が行っても再現しやすい構成を目指す意味もありました。芸術を客観的に研究できる活動として捉える意識が表れています。(参照:MoMA|ロトチェンコ、1918〜21年の構成の変化、MoMA|ロトチェンコ回顧展の調査資料)

個人の制作から共同の研究へ

INKhUKで注目されるのは、芸術家たちが共通の言葉と方法を探したことです。完成作を見せ合うだけであれば、一人ひとりの表現の違いを確認する場になります。研究所では、作品を組み立てる原理を互いに説明し、議論を重ねることで、個人の制作の外へ出ようとしました。

討論では意見が鋭く衝突し、抽象絵画を続ける意味や、芸術を工場の生産へ近づけるべきかをめぐって意見が分かれます。こうした衝突から1921年に作業部会が生まれ、構成主義は具体的な立場として言葉を持つようになりました。運動の成立には、実験作品と同じくらい、研究機関での討論が重要だったのです。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ロトチェンコ年譜と1921年の作業部会)

ロトチェンコ《空間構成 第12号》

一枚の合板から立体を作る

ロトチェンコの《空間構成 第12号》は、1920年頃に制作された吊り下げ式の立体作品です。素材は合板、アルミニウム色の塗料、ワイヤー。楕円形の帯が何重にも重なり合い、空間の中に開いた形を作ります。MoMAの作品解説によれば、帯はもともと一枚の合板に同心状の切れ目を入れて作られていました。切り離された部分を回転させ、異なる角度に開くことで、平らな板が三次元の立体へ変わります。

この制作方法を知ると、見た目の複雑さが少し違って感じられます。数多くの独立した部品を彫刻的に組み上げたというより、一枚の板に含まれていた複数の楕円が立体的に展開したのです。作り方そのものが作品に表れ、鑑賞者は構造を目で追うことができます。(参照:MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12号》、MoMA|学習資料「構成と素材」)

動く彫刻と光の反射

この作品は天井から吊り下げられ、わずかな空気の動きでゆっくりと向きを変えます。どの位置から見るかによって帯の重なりが変化し、透けて見える部分と密集して見える部分が入れ替わります。材料の一部に塗られたアルミニウム色の塗料は、光を受けると反射して周囲の印象を変えます。床や壁に落ちる影まで含めて、作品は鑑賞者のいる空間と関係を持ちます。

ロトチェンコは、こうした反射性のある立体に色のついた光を当てる構想も持っていました。静止した物体を一つの角度から眺める彫刻から、空気、光、影、見る位置によって変化する構造へ。彼の立体は、幾何学だけでなく実際の環境に反応する作品としても重要です。(参照:MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12号》、MoMA|学習資料「構成と素材」)

台座を必要としない構造

伝統的な彫刻では、石やブロンズの塊が台座の上に置かれ、重さと安定感が作品の存在を支えます。《空間構成 第12号》には、こうした台座がありません。作品は軽い板とワイヤーによって吊られ、内部は大部分が空洞になっています。重力の作用を受けながらも、見る人には浮かんでいるような感覚を与えます。

この違いは、作品の外見以上に制作の考え方を変えています。必要な材料をできるだけ少なくし、加工の手順を明確にし、形を支える仕組みを見えるようにする。ロトチェンコの方法には、新しい彫刻を作る意欲と同時に、材料の扱いを体系的に研究しようとする姿勢が現れています。(参照:MoMA|ロトチェンコ《空間構成 第12号》、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

構成主義者第一作業部会の成立

1921年3月18日に何が起きたのか

MoMAのロトチェンコ年譜には、1921年3月18日に「構成主義者第一作業部会」が成立したことが記録されています。参加者にはロトチェンコ、ワルワラ・ステパノワ、アレクセイ・ガン、カール・ヨガンソン、コンスタンチン・メドゥネツキー、ゲオルギーとウラジーミルのステンベルク兄弟らがいました。会合はモスクワの芸術文化研究所で行われた研究と討論の延長にありました。

この出来事によって、構成主義は後世の美術史家が作品を分類する名称に加え、作家が実際に参加する集団の活動方針にもなりました。絵画や立体の形を変えるだけでなく、新しい社会にふさわしい制作とは何かという問いを、共同で検討するようになったのです。(参照:MoMA|ロトチェンコ年譜と1921年の作業部会、MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所)

素材、事実としての表面、構造

構成主義者たちが繰り返し考えたのは、材料をどう扱い、形をどのように成立させるかという問題です。例えば、薄い金属板を立てるには固定の方法が必要で、紙を折れば折り目に応じて表面が変わります。こうした物理的な条件を生かすことが、素材の研究です。同時に、作品の表面に現れる痕跡や手触りも重要視されました。

「構成」は、形を整って見えるように配置することよりも、部品と全体がどのように結びつき、支え合うかを考えることへ近づきます。細い棒を並べた作品でも、単に平行線が美しいからという理由と、棒の方向や接続が構造を成立させるからという理由では制作の意味が異なります。ここに構成主義者たちの研究が目指した方向があります。(参照:MoMA|ロトチェンコ、1918〜21年の構成の変化、MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成)

構成を「技術」として学ぶ意義

美術の技術という言葉からは、絵を上手に描く訓練や、彫刻を巧みに仕上げる技量を連想しやすいでしょう。構成主義者が問題にした技術には、材料を選び、加工し、支え、組み合わせ、目的に合った形にする能力が含まれていました。制作は、職人や設計者、技術者の仕事ともつながっていきます。

その意味で、1921年の作業部会は一つの画風を決めるための集団というより、新しい制作の知識を整えようとする試みでした。理論は実験的な制作を通じて形になりました。タトリンのレリーフ、ロトチェンコの空間構成、ポポーワの絵画といった実践の中で生まれた問題を、共有できる方法として整理し始めたのです。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

「5×5=25」展――絵画が到達した場所

1921年秋、五人の作家による展覧会

1921年秋、モスクワで「5×5=25」という展覧会が開かれました。参加したのはアレクサンドラ・エクステル、リュボーフィ・ポポーワ、アレクサンドル・ロトチェンコ、ワルワラ・ステパノワ、アレクサンドル・ヴェスニンの五人です。名称は、各作家が五点を出品することに由来します。展覧会は二部構成で、九月の展示に続き十月には紙作品を中心とする展示も行われました。

重要なのは、この展覧会が画家たちによる絵画の成果発表であると同時に、従来のイーゼル絵画との決別を示す機会にもなったことです。画面上の構成を極限まで追究した結果、その研究を実際の社会で使われるものへ移そうとする動きが強くなります。出品者の経歴と作品を見れば、絵画から生産へという変化が、制作を重ねた作家たち自身の中から生まれたことが分かります。(参照:MoMA|ロトチェンコ年譜と1921年の作業部会、MoMA|1921年「5×5=25」展と絵画の終点)

ロトチェンコの赤・黄・青の三枚

ロトチェンコは「5×5=25」展で、赤、黄、青の三枚の単色画を発表しました。画面には人物や風景、線による構成もなく、一枚のキャンバス全体が一色で覆われています。複数の色を混ぜたり、色を隣り合わせて対比させたりすることさえ行われていません。絵画を成立させる基本的な条件のひとつである色を、ひとつずつ独立して示した形です。

後年ロトチェンコは、この三枚によって絵画の可能性を論理的な終点まで進めたと振り返りました。MoMAはこの展覧会を、絵画の終わりを象徴する出来事として解説しています。正方形や線さえなくした画面に、絵画として何が残るのか。その問いを赤・黄・青の三枚は極端な形で見せています。重要なのは、鑑賞者に何を描いたかを尋ねさせる余地がほぼない点です。(参照:MoMA|1921年「5×5=25」展と絵画の終点、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

「絵画の終わり」という言葉の意味

赤・黄・青の単色画は、ロトチェンコ自身が1921年の制作において従来の絵画研究に区切りをつけ、別の活動へ進む意志を表した作品です。その意志は、生産や設計への転換と結びついていました。

マレーヴィチの《黒の正方形》が、対象を描かない絵画の新たな出発点を示したのと比べると、二人の違いがよく見えます。形式の単純さが似ていても、二人が作品に託した方向は大きく異なっていました。何を描いたかに加えて、その作家がその作品によって次に何をしようとしたのかまで理解することが大切です。(参照:MoMA|1921年「5×5=25」展と絵画の終点、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

「芸術を生活へ」と生産主義の誕生

生産主義は何を目指したのか

1921年前後、構成主義者の一部は、独立した絵画や彫刻の制作から、実際に使われる物を作る仕事へ関心を移しました。この方向は「生産主義」と呼ばれます。作品を一つの完成品として美術館へ置くことに加えて、衣服、印刷物、家具、建築、舞台装置などの設計へ芸術の知識を生かそうという試みです。新しい社会の生活環境そのものを作り変えることが目標でした。

例えば椅子を作る場合、見た目の形だけでなく、材料をどの程度使うか、座る人の身体に合っているか、繰り返し作れるかが重要になります。雑誌の表紙なら、文字の読みやすさや印刷の方法が制作の一部になります。こうした具体的な用途を考えるところに、画面の中で抽象形を配置する仕事との違いがあります。芸術家が持つ造形の知識を、生活の場で働かせようとしたのです。(参照:MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

工場で制作することの難しさ

生産主義の理想を工場で実現するには、多くの課題がありました。当時のロシアでは内戦と経済的混乱の影響が大きく、設備も材料も十分に整っていませんでした。工場の作業工程には、それぞれの技術と制約があります。芸術家の図案を実際に製品へ移すには、作り手との相談や材料の選択、費用と時間の調整が必要でした。

ポポーワが生産との接点を増やそうと模索した過程を扱うテートの研究は、美術学校と産業の間に具体的な連携を作ることが難しかった事情も説明しています。美術と生産をつなぐという理想は、実際の現場に入ることで新たな課題を生みました。その困難も含めて、生産主義の歴史を理解する必要があります。(参照:テート|ポポーワの絵画から織物デザインへの転換、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」)

「芸術家=設計する人」という考え

構成主義者が目指した芸術家像は、絵を巧みに描く人という従来の職業の枠を越えています。布の柄を考える人、舞台で俳優が動く場所を作る人、広告や本の文字を組む人、学校で材料の扱いを教える人。さまざまな仕事の中で、色、形、材料、構成に関する知識を使うことが考えられました。

ここで重要なのは、美術の研究で培った力がそのまま消えたわけではないことです。ポポーワは抽象絵画で重なり合う面を研究し、その知識を舞台装置へ移しました。ロトチェンコも後に、幾何学的な構成や視点の研究を印刷や写真へ展開します。何を作るかが変わると、同じ造形の知識が社会の中で異なる働きを持つようになります。(参照:MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

ポポーワの舞台――1922年《寛大な寝取られ男》

演劇の舞台を一つの構造物にする

1922年、ポポーワは演出家フセヴォロド・メイエルホリドによる《寛大な寝取られ男》の舞台装置と衣装を担当しました。舞台の中央には木製の骨組みや台、階段、車輪などが配置され、俳優が登り降りして演技する場所を作ります。舞台の奥に描かれた家並みや風景が物語の場所を説明する、従来の写実的な背景とは大きく異なりました。

MoMAのポポーワ回顧展は、この舞台を、動き、音楽、光、建築が組み合わさる新しい演劇空間の例として評価しています。木の骨組みはただの装飾ではなく、俳優の身体を受け止め、移動を可能にし、場面の進行に関わる装置です。ポポーワが絵画で考えてきた直線、面、重なりの研究が、実際に使える構造へ変化したのです。(参照:MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、テート|ポポーワの絵画から織物デザインへの転換)

車輪、階段、俳優の身体

舞台に組まれた構造物を想像するとき、大切なのは俳優の身体を一緒に考えることです。階段には登るための高さがあり、足場には立つための広さが必要です。車輪の動きは演技のリズムに関わり、構造物の位置は登場人物同士の距離を変えます。作品の形は、見るためだけの配置から、身体が使うための配置へ移っています。

その意味で《寛大な寝取られ男》の舞台は、初期のカウンター・レリーフとは異なる段階にあります。タトリンの作品では、ワイヤーや板の関係を鑑賞者が眺めました。ポポーワの舞台では、俳優が実際にその構造を使い、動きを作ります。芸術家が考えた形が、誰かの行為の条件になるという経験が実現しました。(参照:MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、テート|ポポーワの絵画から織物デザインへの転換)

図面の上の衣装と舞台上の衣装

ポポーワの《俳優第7番のための生産衣服》は、MoMAが制作年を1922年、作品中の記載年を1921年としている衣装のデザイン画です。作品には色面や直線を組み合わせた人物像が描かれ、衣服の形と俳優の動きが意識されています。紙の上の平面的な図案は、実際の身体に合わせて作る衣装の設計へつながっています。

この作品からは、構成主義が衣服をどのように捉えようとしたかが見えてきます。布は平らな材料ですが、人が着れば曲がり、折れ、身体とともに動きます。衣服の形を設計することは、身体の運動を考えることでもあります。ポポーワは舞台という場で、絵画から出発した色と形の研究を、材料と動きが結びつく仕事へ発展させました。(参照:MoMA|ポポーワ《俳優第7番のための生産衣服》、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」)

ステパノワと身体・衣服の設計

《人物》(1921年)の幾何学的な身体

ワルワラ・ステパノワの《人物》(1921年)では、人間の身体が大きな色面や幾何学的な形として構成されています。胴や手足は自然な筋肉の丸みに従うより、直線や円弧、面の関係によって示されます。それでも画面からは身体が動き出そうとする感覚が伝わります。人物像の内部で、どの部分が曲がり、どの部分が別の方向へ伸びるのかを読み取れるためです。

MoMAはこの作品を構成主義の重要作として所蔵しています。身体を単純な図形へ置き換える試みは、同時代の他の抽象的な人物画とも共通します。ステパノワの場合には、その研究がのちの舞台衣装や機能的な衣服の構想へ続いた点が重要です。画面に描いた身体の構造を、実際に働く身体のための設計へ結びつけていきました。(参照:MoMA|ステパノワ《人物》1921年)

動く人にふさわしい衣服を考える

1920年代初頭、ステパノワは日常の労働や運動に適した衣服のあり方を考え始めます。衣服は装飾だけを見せるものとして作ると、身体の動きを妨げたり、手入れが難しくなったりします。機能を重視する設計では、着る人が何をするのか、どの部分に余裕が必要か、布をどう裁断するかという条件が重要になります。

構成主義者が衣服に向かった背景には、人々の生活で実際に使われ、繰り返し作れるものを設計したいという志向がありました。ステパノワとポポーワはのちに織物の仕事を進め、1923年以降には工場で用いる柄の設計に関わります。その本格的な展開は本記事の対象期間の少し後に始まります。(参照:MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、MoMA|ステパノワ《人物》1921年)

女性作家が担った構成主義の中核

ロシア構成主義の歴史では、タトリンやロトチェンコの名前が先に挙がることがあります。ポポーワ、ステパノワ、エクステルらも、1910年代後半から1920年代初頭にかけて、絵画、舞台、衣服、教育を通じて重要な役割を果たしていました。「5×5=25」展の参加者には女性作家が三人含まれています。新しい美術の方法を作る現場で、彼女たちは中心的な制作を担いました。

彼女たちの仕事を、男性作家が考えた理論を実用品へ応用しただけのものとして扱うと、作品の意味を取り逃がします。ポポーワは絵画の内部で独自の構成を研究し、ステパノワは身体の動きを形式へ変える試みを進めました。舞台や衣服という新しい仕事へ進んだ背景には、それぞれが積み重ねた造形上の探究がありました。(参照:MoMA|1921年「5×5=25」展と絵画の終点、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」)

VKhUTEMAS――美術教育と技術教育の接点

1920年に設立された高等芸術技術工房

1920年、モスクワには高等芸術技術工房、通称VKhUTEMASが設立されました。ここでは絵画や彫刻とともに、建築、金属、木工、印刷、織物など、具体的な材料と技術に関わる教育が行われました。美術作品を作るための技術と、社会で使う物を設計するための技術を、教育の中で結びつけようとした学校です。

ドイツのバウハウスと比較されることも多い教育機関ですが、革命後のロシア社会という固有の環境から生まれました。社会に役立つ制作へ進みたいという芸術家の意欲と、新しい専門職を育てたいという教育の課題が重なっていたのです。学校が存在したことによって、作品だけで表れていた新しい造形の方法が、次の世代へ伝えられる知識になっていきました。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

ロトチェンコが教えた構成の方法

ロトチェンコは1920年頃からVKhUTEMASで教育に携わり、材料や構成に関する実習を指導しました。例えば、一本の金属棒を使ってどのような構造を支えられるか、薄い板の切り方を変えると立体にどんな変化が生まれるかといった課題は、彼自身の《空間構成》ともつながります。個人の作品制作から生まれた方法が、教育の現場で検討できる課題になったのです。

このような教育の意義は、特定の作家の様式を学生に覚えさせることを越えています。材料の条件を確かめ、設計し、実際に組み立て、結果を見て考え直す。その繰り返しによって、制作方法を学べるようになります。構成主義者が「芸術家=設計者」という新しい役割を考えた背景には、こうした教育の変化がありました。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

学校と工場の距離

VKhUTEMASの教育理念は、工場で大量生産する製品の設計とも関係していました。木工や金属加工を学ぶ学生は、実際の材料に触れ、構造を試し、使い手や生産工程を意識することが求められます。絵画で培った比例や色彩の感覚を、家具や器具、印刷物へ移す可能性がここにありました。

その実践を支える産業環境は、革命後の社会の混乱によって限られていました。構想と教育は先へ進み、工場での実用化には時間がかかるという状況が続きます。構成主義の歴史を考える際には、この学校を、理論が社会で用いられるまでの距離を測る場所として見ることもできます。実際に製造された物の数だけでは分からない教育上の成果が、ここに残されています。(参照:MoMA|革命後の美術制度と芸術文化研究所、テート|ポポーワの絵画から織物デザインへの転換)

リシツキーのプロウン――平面から空間へ

《プロウン19D》の複雑な画面

エル・リシツキーの《プロウン19D》は、MoMAが1920年または1921年の作品として所蔵しています。長方形、円、帯状の形などが、異なる方向へ傾いた空間の中に組み合わされ、見る人は画面のどこが手前でどこが奥なのか、一度では判断しにくくなります。使われている材料も多様で、木の支持体の上に絵具やクレヨン、紙、紙やすり、金属箔などが重ねられています。

こうした素材と形の選択は、単純な幾何学模様とは違う体験を生みます。形は図面の部品のようでありながら、視点を変えると奥行きが揺らぎます。画面は平らな作品でありながら、建築的な空間の可能性を想像させます。リシツキーの「プロウン」は、絵画と建築をつなぐための独自の研究として展開しました。(参照:MoMA|リシツキー《プロウン19D》)

「新しいものを確立するための計画」

リシツキーが「プロウン」と名づけた作品群は、ロシア語の略語に由来し、「新しいものを確立するための計画」という意味で説明されています。名称に「計画」という語が含まれるのは、作者が建築の経験を持ち、作品を将来の空間へ向けた研究として捉えていたこととも関係します。

リシツキーはヴィテプスクでマレーヴィチと接し、シュプレマティスムの幾何学的な形を受け継ぎました。そこへ建築的な奥行きや、さまざまな方向へ回転する視点を導入します。白い画面に浮かぶ色面という出発点が、現実の空間で何かを組み立てる考えへ近づいていきました。ここでも、抽象は一つの完成された絵画様式にとどまらず、別の制作へ移動するための手がかりになっています。(参照:MoMA|リシツキー《プロウン19D》)

1922年『二つの四角について』と出版

1922年、リシツキーは『二つの四角について』を出版しました。黒と赤の二つの四角形が地球へ飛来するという物語を、幾何学的な形と大胆な文字の配置によって表した絵本です。MoMAはこの本の各ページを所蔵し、赤い四角と黒い四角が新旧の秩序を象徴することを解説しています。

ここでは四角形や文字の大きさ、印刷された形の動きが、物語を伝える役割を担います。シュプレマティスム的な図形が、見るための絵画から、読むための本へ移されているのです。印刷物は複数部作って流通させることができるため、一点の絵画より広い読者に届きます。構成主義的な視覚が出版や情報伝達へ関わる過程を知るうえで、重要な作品です。(参照:MoMA|リシツキー『二つの四角について』1922年、MoMA|リシツキー《プロウン19D》)

1922年――理論から社会へ

ガン『構成主義』が示した姿勢

1922年、アレクセイ・ガンは『構成主義』という題名の本を刊行しました。MoMAの記録では、活版印刷による表紙を持つ冊子として所蔵されています。ガンは構成主義者第一作業部会にも参加した人物で、作品を制作する方法だけでなく、芸術と社会の関係を理論的に説明しようとしました。

構成主義者にとって、言葉による宣言や出版物は、制作の外側にある説明文という役割にとどまりません。新しい芸術家の働き方を提示し、同じ問題に関心を持つ人々へ考えを広めるための活動でもありました。幾何学的な構成や文字組みを用いた印刷物は、その主張の内容と見た目を同時に伝えることができます。(参照:MoMA|ガン『構成主義』1922年、MoMA|ロトチェンコ年譜と1921年の作業部会)

生産主義へ進む作家、進まない作家

1922年までに、ロシア前衛の作家たちの進路ははっきり分かれ始めています。ロトチェンコやポポーワ、ステパノワは、従来の絵画の外へ活動を広げ、社会で使われる物を作る仕事へ接近しました。リシツキーは出版や展示空間へ進み、ガボは構成彫刻の自律した探究を続けます。タトリンも物質や建築の可能性を独自の方法で探究し続けました。

この違いを整理しておくと、「構成主義」という名前で括られた作家たちの歴史が豊かに見えてきます。幾何学形を使う作品が似ていても、制作の目的が違えば、その後の活動も変わります。ロシア構成主義を一つの画風として覚えるより、作品の原理を社会へどう広げるかという問いを共有した人々の活動として理解する方が、当時の実態に近づきます。(参照:MoMA|ガボとペヴスナー《リアリスティック・マニフェスト》、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、MoMA|ロトチェンコの作品と構成主義)

1915年から1922年を一続きに読む意味

タトリンのレリーフから1922年の出版物や舞台へ至る流れを振り返ると、最初に重要だったのは物をどう再現するかという問題でした。そこから現実の材料をどう使うかという問いが生まれ、形を作る仕組みを研究する活動へ進みます。革命後には、その知識を誰のために使うのかという社会的な問いが加わりました。

この変化が短期間に進んだ背景には、作家たちが絵画、彫刻、建築、教育、印刷などを隔てていた境界を越えようとしたことがあります。材料を組み合わせることから出発した問題が、日常生活を設計することへとつながったのです。構成主義の歴史を知ることは、20世紀の美術とデザインの関係を理解する大きな手がかりになります。(参照:MoMA|幾何学的抽象美術とタトリンの作品形成、MoMA|ポポーワ回顧展と「芸術を生活へ」、MoMA|ガン『構成主義』1922年)

年表:構成主義成立までの歩み

  1. 1913年頃 タトリンがパリでピカソの組み立て作品に接し、立体的な素材実験へ関心を深める。
  2. 1914年 タトリンが木材、金属などを組み合わせたレリーフ、カウンター・レリーフを制作。
  3. 1915年3月 ペトログラードで「トラムウェイV」展が開催され、ロシア前衛の複数の実験が集まる。
  4. 1915年12月 「最後の未来派絵画展 0.10」が開かれ、タトリンの立体構成とマレーヴィチのシュプレマティスムが公開される。
  5. 1916年 ポポーワがシュプレマティスムの作家たちに接近し、《絵画的建築》へつながる実験を進める。
  6. 1916年 ガボが薄い面を組み合わせた《女性の頭》の原型を制作。
  7. 1917年2月・10月 ロシアで二度の革命が起こり、国家と芸術家を取り巻く制度が大きく変化する。
  8. 1917年 ポポーワが《絵画的建築》を制作。
  9. 1918年頃 ロトチェンコが色や線、表面の性質を探る抽象作品の研究を進める。
  10. 1919年 ロトチェンコが美術館行政に関わり、作品収集・地方への配分事業に参加。
  11. 1919〜1920年頃 タトリンが《第三インターナショナル記念塔》を構想し、模型や図版で紹介する。
  12. 1920年3月 モスクワに芸術文化研究所INKhUKが設立される。
  13. 1920年 モスクワに高等芸術技術工房VKhUTEMASが設立される。
  14. 1920年 ガボとペヴスナーが「リアリスティック・マニフェスト」を発表。
  15. 1920年頃 ロトチェンコが《空間構成 第12号》などの吊り下げ立体を制作。
  16. 1920〜1921年 リシツキーが「プロウン」系列を展開し、《プロウン19D》を制作。
  17. 1921年3月18日 芸術文化研究所で構成主義者第一作業部会が成立。
  18. 1921年5月 モスクワの若い芸術家の展覧会で、ロトチェンコの空間構成などが展示される。
  19. 1921年9〜10月 エクステル、ポポーワ、ロトチェンコ、ステパノワ、ヴェスニンが「5×5=25」展に参加。
  20. 1921年 ロトチェンコが赤・黄・青の三枚の単色画を発表。
  21. 1921年末頃 ポポーワらがイーゼル絵画からの転換を表明し、社会的生産へ関心を移す。
  22. 1922年 ポポーワがメイエルホリド演出《寛大な寝取られ男》の舞台装置と衣装を担当。
  23. 1922年 ガンが『構成主義』を刊行。
  24. 1922年 リシツキーが絵本『二つの四角について』を刊行。

まとめ:制作の方法が社会へ広がった七年間

1915年のタトリンのカウンター・レリーフは、材料の性質と展示空間そのものを制作に取り込みました。そこから1917年の革命を経て、美術制度や学校を再編する動きが生まれ、1921年には構成主義者が共同で研究を進める場が形成されます。ロトチェンコの単色画は絵画の研究を極限へ進め、ポポーワはその後の仕事を舞台装置へ移しました。

構成主義が美術史に残したものは、幾何学的な外観とともに、材料を選ぶ、形を組み立てる、使い手や場所を考えるという制作上の態度です。芸術家の仕事が絵画や彫刻から、教育、出版、衣服、建築、工業生産へとつながる過程には、理想と現実の困難が重なっていました。その両方を含む歴史として理解することで、構成主義が20世紀の美術とデザインの分かれ目に位置している理由が見えてきます。

参考資料・出典

本記事は、所蔵作品の記録、当時の出版物、展覧会研究、美術史研究に基づいて構成しました。制作年代や資料の種類については各所蔵館の表記を優先し、作品の見え方に関する説明は実際の材料と構造の情報から独自に記述しています。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY