1993–2003
Internet Artとデジタル・ネットワーク
net.art、ブラウザ、オンライン空間
1990年代半ば、コンピューターの画面上に新しい美術空間が生まれました。それはデジタルで描いた画像を表示するための画面ではなく、リンクをクリックし、別のサーバーへ移動し、ページが読み込まれ、ときにはエラーが起きるWorld Wide Webそのものでした。作品は美術館の開館時間に関係なく、URLへ接続すれば世界の別の場所から見ることができます。
1993年4月30日、CERNがWorld Wide Webのソフトウェアを公共利用へ開放し、同年にはNCSA Mosaicのようなグラフィカル・ブラウザが普及し始めます。数年後にはJODI、Olia Lialina、Vuk Ćosić、Heath Bunting、Alexei Shulginらが、ブラウザ、HTML、リンク、フォーム、URL、電子メールといったWeb固有の仕組みを作品の素材として使い始めました。後に「net.art」と呼ばれるこの動向は、統一された様式や正式な集団ではなく、新しく生まれたネットワーク環境をどう美術として扱うかを試した複数の実践でした。
しかしInternet Artの歴史は、作品の見た目だけでは理解できません。Rhizomeのようなメーリングリスト、documenta Xのウェブサイト、ZKM《net_condition》、Whitney Museumのartportなど、作品を流通・展示・保存する新しい制度も同時に作られていきます。そしてネット作品が美術館へ入ると、「作品はどこにあるのか」「ブラウザが古くなったらどう保存するのか」「誰でもアクセスできる作品を誰が所有するのか」という、従来の美術では想定されていなかった問題が現れました。
本記事では、1993年のWebの公共化から2003年のRhizomeとNew Museumの制度的接続までを一つの区切りとして、初期Internet Artがブラウザを新しい画面に変えただけでなく、作者、作品、展示、鑑賞、収蔵、保存の関係そのものをどう変えたのかを追います。
CONTENTS
- Internet Artとは何を指すのか
- デジタル美術とInternet Artは同じではない
- InternetとWorld Wide Webを区別する
- 1993年 — Webが公共利用へ開かれる
- MosaicとグラフィカルなWeb
- ブラウザが作品の額縁ではなくなる
- 「net.art」という名称
- net.artは正式な集団ではない
- 初期net.artとヨーロッパのネットワーク
- JODI — ウェブサイトを壊れた機械のように見せる
- 1995年《Automatic Rain》とjodi.org
- 画面の裏にコードがある
- エラーを失敗ではなく表現にする
- Olia Lialina — ブラウザで物語を作る
- 1996年《My Boyfriend Came Back from the War》
- ブラウザのフレームを物語の編集に使う
- 「ネットの言語」を探す
- Heath Bunting — リンクそのものを素材にする
- 1998年《_readme》
- URLは場所であり作品名にもなる
- Alexei Shulgin — ウェブの機能部品を美術に変える
- 1997年《Form Art》
- 同じ作品でもブラウザによって見た目が変わる
- Cornelia Sollfrank — 美術館のネット美術コンペをハックする
- 《Female Extension》が問うもの
- 生成する作者と選ぶ作者
- 1996年Rhizome — メーリングリストが美術制度になる
- 作品と議論が同じネットワークを流れる
- 1999年Rhizome ArtBase
- 1997年documenta XとInternet Art
- 展覧会のウェブサイトも展示空間になる
- Vuk Ćosić — ネットの歴史をネット自身で保存する
- コピーは盗用なのか保存なのか
- 1997年《The Web Stalker》 — ブラウザそのものを作り直す
- Mark Napier《The Shredder》
- インターフェースは中立ではない
- 1998年FloodNet — ネットワークを抗議の場にする
- activismとartの境界
- 1999年ZKM《net_condition》
- ネット上にある作品を美術館でどう展示するのか
- 1999年《The Net.Art Browser》
- 1994年《The World’s First Collaborative Sentence》
- 2000年Whitney Biennialにnet art部門
- 2001年Whitney artport
- Gate Pages — 美術館サイトの入口を作家へ渡す
- 2001年SFMOMA《010101: Art in Technological Times》
- 2001年Whitney《Data Dynamics》
- 2002年Whitney Biennial — Internet Artが多様化する
- Lisa Jevbratt《1:1》
- ページからデータベースへ
- ウェブサイトからネットワーク型ソフトウェアへ
- Internet Artはなぜ保存が難しいのか
- リンク切れも作品の変化なのか
- 一つの作品に複数の「variant」がある
- 古いブラウザごと再現する
- スクリーンショットだけでは残らないもの
- 作者はどこまで作品を支配できるのか
- 無料でアクセスできる作品をどう所有するのか
- 美術館はInternet Artを取り込んだのか、それとも変えられたのか
- 2003年RhizomeとNew Museum
- 「英雄時代」という物語に注意する
- Web 2.0以前のInternet Art
- 1993–2003年に何が変わったのか
- Internet Artが残したもの
- 次の時代へ — 映像インスタレーションと映画の展示空間化
- 参考資料・出典
Internet Artとは何を指すのか
1990年代半ば以降、インターネット、とりわけWorld Wide Webそのものを制作の場とする作品が現れました。ここで重要なのは、完成した絵画や写真をウェブサイトに掲載することではありません。HTML、ハイパーリンク、ブラウザ、URL、電子メール、サーバー、ネットワーク上の通信といった仕組み自体を作品の素材にすることです。
Whitney Museumは、1990年代半ばのWorld Wide Webの普及によって、デジタル美術に「net art」という新しい表現領域が生まれたと振り返っています。作品は展示室に置かれた物体ではなく、ネットワークへ接続したコンピューターからアクセスされ、その都度ブラウザ上で実行されるものになりました。
デジタル美術とInternet Artは同じではない
コンピューターを使った美術は1990年代に始まったわけではありません。1960年代からコンピューター・グラフィックスやアルゴリズムによる作品が制作され、1970–80年代には映像、通信、電子メディアを使った実験も広がっていました。
Internet Artの特徴は、コンピューターを制作道具として使うだけではなく、作品の存在そのものがネットワークへ依存している点にあります。作品を閲覧するには、ブラウザや通信回線が必要であり、リンク先やサーバーが変化すれば作品の状態も変わります。この依存関係そのものが新しい美術史上の問題になりました。
InternetとWorld Wide Webを区別する
InternetとWorld Wide Webは同じものではありません。インターネットは複数のコンピューター・ネットワークを接続する通信基盤であり、電子メールやファイル転送などはWeb以前から存在していました。World Wide Webは、そのネットワーク上でHTML文書をURLとリンクによって相互接続し、ブラウザから閲覧できる仕組みです。
初期のnet.artではウェブページだけでなく、電子メール、メーリングリスト、チャット、ファイル転送なども利用されました。それでも1990年代半ばにWebが爆発的に普及したことで、ブラウザの画面が新しい制作・鑑賞空間として特に大きな意味を持つようになります。
1993年 — Webが公共利用へ開かれる
World Wide Webは1989年、CERNのTim Berners-Leeによって提案されました。CERNによれば、1990年末までに最初のウェブサーバーとブラウザが動作し、1991年にはソフトウェアが外部へ公開され始めます。
大きな転換点は1993年4月30日でした。CERNはWebの主要ソフトウェアを公共利用へ開放し、誰でも使用、複製、改変、配布できる条件を整えました。1993年末には500を超えるウェブサーバーが確認され、翌年にはその数が急増していきます。Internet Artが成立するための公共的な技術基盤が、この時期に急速に整いました。
MosaicとグラフィカルなWeb
同じ1993年、University of IllinoisのNCSAがMosaicブラウザを公開しました。NCSAはMosaicを、一般利用者にWebを広げた最初の人気グラフィカル・ブラウザとして位置づけています。
文字だけではなく、画像を含むウェブページを比較的容易に閲覧できるようになったことで、Webは研究者の情報共有システムから、視覚文化の場へ急速に変化します。作家にとってブラウザは、既存作品を紹介するカタログではなく、それ自体を構成できる新しい画面になりました。
ブラウザが作品の額縁ではなくなる
初期のInternet Artでは、ブラウザは絵画を囲む額縁のような中立的な器ではありませんでした。文字の表示、背景色、リンクの色、フレーム、スクロールバー、ボタン、読み込み速度、エラーメッセージなど、ブラウザ固有の要素がそのまま作品になります。
このことは写真や映像をデジタル化して画面で見ることとは異なります。作品の外側だと思われていたインターフェースや通信環境が、作品内部へ入り込みました。
「net.art」という名称
1990年代半ば、「net.art」というドットを含む名称が使われるようになります。Rhizomeの歴史資料では、この表記はPit Schultzが1995年の展覧会で用い、その後Vuk Ćosićらによって広められたと整理されています。特に1996年5月にĆosićがLjubljanaで開いた《Net.Art Per Se》は、初期のネット作家たちが集まる重要な機会になりました。
ただし「net.art」はInternet Art全体と完全に同義ではありません。特定の時期に活動した作家、メーリングリスト、展覧会、東欧・西欧をまたぐネットワークと強く結びついた歴史的な名称です。
net.artは正式な集団ではない
JODI、Olia Lialina、Vuk Ćosić、Heath Bunting、Alexei Shulginらは、しばしば「net.artの作家」としてまとめられます。しかし統一された宣言、会員制度、共通様式を持つ正式な集団だったわけではありません。
彼らの作品には、ブラウザやHTMLそのものを素材にする、著作権や作者性を揺さぶる、美術館制度から距離を取る、オンラインのコミュニケーションを制作の一部にするといった共通点が見られます。それでも各作家が扱った問題と方法は大きく異なります。
初期net.artとヨーロッパのネットワーク
初期net.artの歴史は、Silicon ValleyやNew Yorkだけを中心に語ると見えにくくなります。Ljubljana、Moscow、Amsterdam、London、Hamburgなど、ヨーロッパ各地のメディア・ラボ、文化機関、メーリングリストが重要な役割を果たしました。
冷戦後の1990年代、東欧と西欧を結ぶ文化ネットワークが再編される中で、インターネットは地理的中心から離れた作家が直接交流し、作品を発表する手段にもなりました。従来の美術市場や雑誌を経由しなくても、URLを知らせれば作品へアクセスできるという条件が、新しい国際的な場を作りました。
JODI — ウェブサイトを壊れた機械のように見せる
Joan HeemskerkとDirk PaesmansによるJODIは、1990年代半ばからインターネットを使った作品で知られるようになりました。MoMAはJODIを、インターネットのために作品を制作した最初期の作家の一組として位置づけています。
JODIのウェブ作品では、意味不明な記号、点滅する文字、激しい画面の切り替わり、エラーのような表示が現れます。通常のウェブデザインが「情報を分かりやすく届ける」ことを目標にするのに対し、JODIはその分かりやすさを意図的に崩しました。
1995年《Automatic Rain》とjodi.org
RhizomeのNet Art Anthologyは、JODIの《Automatic Rain》を1995年の作品として保存しています。同時期に始まったjodi.orgでは、画面に現れる文字や図形が正常なウェブページなのか、コンピューターが故障したのか判別しにくい状態が作られました。
この経験は、画像を見るというより、コンピューターの内部で何か異常が起きているように感じさせます。ウェブページが透明な情報伝達手段ではなく、コードによって構成された不安定な表面であることを露出させました。
画面の裏にコードがある
ウェブページは、画面に見えている画像や文字だけでできているわけではありません。HTMLなどのコードをブラウザが解釈し、画面として表示しています。初期のWebでは「ソースを表示」することで、利用者が比較的容易にページのコードを読むことができました。
JODIはこの二重構造を積極的に利用しました。整然としたコードが美しい画面を作るという関係を崩し、ソースコードと画面表示の双方を視覚的素材として扱います。作品を見ることと、システムの裏側を覗くことが重なりました。
エラーを失敗ではなく表現にする
コンピューター・インターフェースでは通常、エラーは修正すべき問題です。しかしJODIをはじめとする初期net.artでは、文字化け、誤動作、読み込みの失敗、予測できない移動が表現として利用されました。
この姿勢は「技術を正しく使う」ことから距離を取ります。企業がユーザーに快適で一貫した操作を提供しようとする一方で、作家は不具合や混乱から、コンピューターが別の使われ方をする可能性を見いだしました。
Olia Lialina — ブラウザで物語を作る
Olia Lialinaは、映画批評や映像文化の経験からインターネットへ移り、1996年に《My Boyfriend Came Back from the War》を公開しました。Rhizomeはこの作品を、初期WebにおけるHTMLの芸術的利用を代表する作品の一つとして位置づけています。
JODIが画面の秩序を破壊する方向へ進んだのに対し、Lialinaはリンク、画像、文字、ブラウザのフレーム機能を使い、ネットワーク固有の物語形式を探りました。
1996年《My Boyfriend Came Back from the War》
《My Boyfriend Came Back from the War》は、戦争から帰還した男性と恋人のぎこちない再会を、白黒画像と短い文章で描く作品です。観客がリンクをクリックするたびにブラウザ画面が複数のフレームへ分割され、会話、記憶、疑い、結婚の提案などが断片的に展開します。
Rhizomeの保存資料によれば、作品は入れ子状のフレームを使い、クリックするほど画面が細かな区画へ分かれていきます。一本道の映画や小説とは異なり、観客がどこをクリックするかによって読む順序と画面構成が変化します。
ブラウザのフレームを物語の編集に使う
1995年にNetscape Navigatorへ導入されたフレーム機能は、一つのブラウザ画面の中へ複数のHTML文書を表示するための仕組みでした。Lialinaはそれを単なるウェブデザインの便利な機能としてではなく、映画の編集に似た構成原理として使いました。
ある画像が残ったまま隣に別の文章が開き、さらにその区画が分割されていくため、過去と現在、発言と記憶が同じ画面上へ並びます。ブラウザそのものがモンタージュ装置になります。
「ネットの言語」を探す
Lialinaは1997年のインタビューで、ネット上にあるものはネット固有の言語を話すべきだという趣旨の考えを示しました。重要なのは、映画や印刷物をそのままオンラインへ移植するのではなく、リンク、フレーム、ブラウザ、ユーザー操作といったWeb固有の性質から表現を作ることでした。
この問いは初期Internet Art全体に共通します。「コンピューターで何を描くか」ではなく、「ネットワークだからこそ何ができるのか」が問題になりました。
Heath Bunting — リンクそのものを素材にする
Heath Buntingは、インターネット以前から通信、都市空間、個人情報、移動を扱ってきた作家です。初期のウェブ作品では、特別な画像や高度なプログラムより、リンクやアドレスといったネットワークの基本構造を利用しました。
その方法は、インターネットを仮想的な別世界として扱うより、電話、住所、交通、身分証明、公共空間とつながる社会インフラとして見る方向へ進みます。
1998年《_readme》
Rhizome ArtBaseに保存されている《_readme》(1998)は、文章のほぼすべての単語をリンクにした作品です。Rhizomeは「各単語がリンクであり、各単語が一つのサイトである」と簡潔に説明しています。
文章を読む行為と、別サイトへ移動する行為が分離できなくなります。一つのページが完結した作品なのではなく、外部のWeb全体を取り込みながら、その都度異なる経路を作る作品です。
URLは場所であり作品名にもなる
Internet Artでは、作品は「どこにあるのか」という問いが複雑になります。サーバーはある国に設置され、作者は別の国に住み、観客はさらに別の場所からURLへアクセスできます。
URLは作品への住所であると同時に、作品のアイデンティティの一部にもなりました。ドメイン名が失効したり、サーバーが移転したりすると、同じデータが残っていても作品の意味やアクセス方法が変わります。
Alexei Shulgin — ウェブの機能部品を美術に変える
Alexei Shulginは1990年代のMoscowを拠点に、オンラインのコミュニケーション、作者性、ウェブ・インターフェースを扱いました。1997年の《Form Art》は、初期Internet Artの形式的な実験を代表する作品です。
作品に使われるのは、フォーム、チェックボックス、ラジオボタン、入力欄、ボタンなど、本来はアンケートや注文、データ入力のために設計されたHTMLの部品です。
1997年《Form Art》
《Form Art》では、通常なら何かを入力・送信するためのフォーム部品が、機能目的から切り離されて画面上へ配置されます。Rhizomeは、もっとも官僚的で実用的なWeb要素を、遊戯的・美的な要素へ変換した作品と説明しています。
ここではWebの「内容」ではなく、Webを操作するための規格そのものが見られます。絵具やキャンバスの代わりに、ブラウザ標準のボタンと入力欄が構成要素になります。
同じ作品でもブラウザによって見た目が変わる
《Form Art》は、閲覧するOSやブラウザの違いによってフォーム部品の形や大きさが変化します。作家がすべてのピクセルを固定するのではなく、作品の一部をブラウザの実装へ委ねています。
これは保存上も重要です。2026年のブラウザで開いた《Form Art》と、1997年のNetscapeで開いた作品は同じデータを読んでいても外観が異なります。「正しい作品の姿」を一つの画像だけで固定できない問題が生まれました。
Cornelia Sollfrank — 美術館のネット美術コンペをハックする
1997年、Hamburger Kunsthalleによるネット美術コンペ《Extension》に対し、Cornelia Sollfrankは《Female Extension》という介入を行いました。彼女はコンピューターで自動生成したウェブ作品を、複数の架空の女性作家名義で大量に応募しました。
Rhizomeに保存された当時の資料によれば、127件の応募が実在しない女性作家の名義で生成され、美術館と報道機関は当初それを実在の応募者として扱いました。
《Female Extension》が問うもの
《Female Extension》は、単にコンペを騙すいたずらではありませんでした。ネット上では誰が男性か女性かをどのように確認するのか、作者の身份はどこまで作品評価へ影響するのか、そして美術館がネット美術を従来の審査・賞・作家制度へ回収できるのかを問いました。
Sollfrank自身は後年、ネット美術が本来持つ制度外的な可能性を、美術館がコンペ形式で取り込もうとすることへの介入だったと説明しています。ネットワークは作品を発表する新しい場であると同時に、美術制度そのものをハックする場にもなりました。
生成する作者と選ぶ作者
《Female Extension》から発展したnet.art generatorでは、検索結果やネット上の素材をプログラムが組み合わせ、新しいHTMLページを自動生成します。Rhizomeのアーカイブは、このプロジェクトが作者性と真正性の問題を提起したと整理しています。
作家が一つずつ画像を作るのではなく、生成ルールや検索方法を設計し、結果をプログラムへ委ねる。Internet Artは、作者を「完成形を直接作る人」から「条件を設計する人」へ変える系譜とも接続しました。
1996年Rhizome — メーリングリストが美術制度になる
1996年、アーティストのMark TribeはRhizomeを設立しました。Rhizomeの公式資料によれば、出発点はオンラインで活動する初期作家たちを含むメーリングリストでした。
美術館の建物や印刷雑誌ではなく、電子メールを通じて作家、キュレーター、批評家、プログラマーが情報を共有する。展覧会情報、議論、作品URL、批評がネットワーク上で流通し、そのコミュニケーション基盤自体が新しい美術制度の役割を果たしました。
作品と議論が同じネットワークを流れる
従来の美術では、作品は展覧会で見て、批評は後から雑誌で読むことが一般的でした。初期Internet Artでは、作品のURLと、それについての議論が同じメーリングリストやウェブ上をほぼ同時に流れました。
作家が批評へ直接返信し、他の作家がコードを引用し、作品を複製・改変することも容易です。制作、展示、批評、コミュニティの境界が近づきました。
1999年Rhizome ArtBase
Rhizomeは1999年にArtBaseを設立しました。現在のArtBaseは、net artを中心にソフトウェア、コード、ウェブサイト、動画、ゲーム、ブラウザなどを含むborn-digital作品の大規模アーカイブへ発展しています。
設立当初から、作家が作品をRhizomeのサーバーへ複製して保存する方法と、作家自身が管理する外部URLへリンクする方法を併用していました。これはネット作品が一つの物体として美術館の倉庫へ収められないことへの実践的な回答でした。
1997年documenta XとInternet Art
1997年のdocumenta Xは、Internet Artが国際的な大規模展へ入る重要な節目でした。documentaの公式記録は、この回が当時のnet artを扱い、Heath BuntingやJoachim Blank/Karl Heinz Jeronらを紹介したことを記しています。
またdocumenta Xは、documenta史上初めて専用ウェブサイトを制作した回でもありました。展覧会の情報をWebへ掲載するだけでなく、JODI、Bunting、Antoni MuntadasらのプロジェクトがウェブサイトとCD-ROMに組み込まれました。
展覧会のウェブサイトも展示空間になる
documenta Xでは、会場へ行けない観客もウェブサイトから作品や資料へアクセスできました。これは単なる広報ページ以上の意味を持ちます。作品の一部がインターネットに存在するなら、「展覧会へ行く」とは物理会場を訪れることだけではなくなります。
同時に、美術館・国際展がネット上へ作品を置くことで、自由なネット文化を再び制度の選択と枠組みの中へ取り込むことにもなります。この緊張関係は初期net.artの重要なテーマでした。
Vuk Ćosić — ネットの歴史をネット自身で保存する
Vuk Ćosićは、net.artという名称の普及に関わった作家の一人で、ASCII文字による映像変換や、ネット文化そのものを題材にした作品を制作しました。
1997年の《Documenta Done》は、documenta X終了後にそのウェブサイトのデータを複製し、自分のサーバーで公開したプロジェクトとして知られています。Rhizomeはこの作品をNet Art Anthologyで保存し、初期Internet Artにおけるコピー、所有、制度的記憶の問題を示す作品として扱っています。
コピーは盗用なのか保存なのか
デジタル・データは、複製しても元のファイルが減りません。この性質は、唯一の原作品を中心にしてきた美術制度と衝突します。
ウェブサイトをコピーする行為は、著作権の侵害にも、批評的な盗用にも、失われる情報を残す保存行為にもなり得ます。《Documenta Done》のような作品は、誰が展覧会の記録を所有し、制度が削除した後のデータを誰が残すのかという問題を早い段階で浮上させました。
1997年《The Web Stalker》 — ブラウザそのものを作り直す
1997年、I/O/Dは《The Web Stalker》を発表しました。通常のブラウザが画像と文章を「ウェブページ」として整えて見せるのに対し、この作品はリンク構造やHTMLの関係を別の方法で可視化しました。
Internet Artはブラウザで作品を見るだけでなく、ブラウザという道具そのものを作り替える段階へ進みます。利用者がWebをどのように理解するかは、Internet ExplorerやNetscapeの設計によって既に方向づけられていることが意識されました。
Mark Napier《The Shredder》
Mark Napierも1995年からWeb専用作品を制作し、1998年に《The Shredder》を発表しました。Whitneyはこの作品を、ウェブページを解体する「alternative browser」として位置づけています。
利用者がURLを入力すると、通常のレイアウトでページを表示する代わりに、HTML、画像、文字などが別の視覚構成へ分解されます。ウェブサイトの「本来の見え方」が固定されたものではなく、ブラウザがコードをどう解釈するかによって作られていることが分かります。
インターフェースは中立ではない
ブラウザや検索エンジンは、巨大なネットワークを人間が扱える形へ整理します。そのため便利ですが、何を見せ、どの順序で移動させるかという設計思想も持っています。
代替ブラウザを作る作品は、その設計を別の形へ置き換えることで、日常的に使っているインターフェースが唯一の自然な形ではないことを示しました。ネットワークの表面を設計すること自体が、美的・政治的な問題になります。
1998年FloodNet — ネットワークを抗議の場にする
Internet Artは形式実験だけではありませんでした。1998年、Electronic Disturbance TheaterはFloodNetを使い、Zapatista運動を支持するオンラインの抗議行動を組織しました。Rhizomeの保存記録では、FloodNetは1998年の作品・行動としてアーカイブされています。
多くの参加者が同時に特定サイトへアクセスする仕組みを使い、ネットワーク上の「座り込み」に似た行為を試みました。ここではブラウザと通信は鑑賞装置ではなく、政治的な行為を実行する道具になります。
activismとartの境界
FloodNetのような実践をどこまで「美術」と呼ぶかは議論があります。目的は美術館で鑑賞されることより、現実の政治状況へ介入することにありました。
しかし1990年代のネット文化では、アート、ハッキング、メディア活動、政治運動、ソフトウェア開発が同じネットワークを共有していました。Internet Artの歴史を美術館に収蔵されたウェブページだけに限定すると、この混交した文化を見失います。
1999年ZKM《net_condition》
1999年9月から2000年2月にかけて、KarlsruheのZKMで《net_condition》が開催されました。ZKMはこの展覧会を、単なる「net artのためのnet art」ではなく、ネットワーク技術と社会が相互に条件を作り合う状況を扱うものとして説明しています。
インターネットは作品を配布する新しい道具であるだけでなく、通信、商業、労働、情報、公共性の条件を変えつつありました。展覧会は「net artを美術館で展示できるのか」という問いそのものを前面に出しました。
ネット上にある作品を美術館でどう展示するのか
ウェブ作品は、本来なら自宅や学校、職場など好きな場所からアクセスできます。それを美術館へ持ち込むと、パソコンを台の上に置き、観客が順番に操作するという奇妙な状況が生まれます。
このとき展示されているのはコンピューターなのか、画面なのか、URLなのか、サーバー上のデータなのか。Internet Artは、美術館が長く前提としてきた「作品は展示室へ運べる物体である」という考えを根本から揺さぶりました。
1999年《The Net.Art Browser》
《net_condition》のためにJeffrey Shawが制作した《The Net.Art Browser》では、モニターが美術館の壁に設置されたレール上を移動し、壁面に記された作家名とURLの位置で停止します。観客が選ぶと、その作家のウェブサイトがモニターへ表示されます。
ZKMは、この装置によって通常は個人的に行うWeb閲覧が公共のパフォーマンスへ変わり、ウェブサイトが絵画のように壁へ位置づけられると説明しています。作品の所在がネットなのか展示室なのかという矛盾を、装置そのものが可視化しました。
1994年《The World’s First Collaborative Sentence》
Douglas Davisの《The World’s First Collaborative Sentence》は、1994年に開始された共同参加型のウェブ作品です。利用者は終わりのない一つの文章へ、自分の文字や画像を追加できます。
Whitney Museumは1995年にこの作品を収蔵し、同館最初のInternet Art作品としています。個人作家の作品を一点購入する通常の収蔵とは異なり、作品は不特定多数の参加者によって増え続けます。誰が作者なのか、どこで作品が終わるのかという考えも変わりました。
2000年Whitney Biennialにnet art部門
2000年Whitney Biennialでは、net artが明確な部門として組み込まれました。Whitneyの旧artportアーカイブには、Mark Amerika、Fakeshop、Ken Goldberg、RTMark、John F. Simon Jr.、Annette WeintraubらのInternet Artが記録されています。
これはInternet Artが周辺的なオンライン文化から、アメリカ美術を代表する大規模美術館の現代美術調査へ入った重要な出来事でした。同時に、美術館がどの作品を「Internet Artの代表」として選ぶのかという新しい制度化も始まります。
2001年Whitney artport
2001年3月、Whitney Museumはartportを立ち上げました。現在も続くこのプロジェクトは、Internet Artとデジタル美術のためのオンライン・ギャラリーであり、美術館がウェブ作品を委嘱、展示、記録するための独自の場です。
美術館の公式ウェブサイトが、開館時間やチケット情報を伝えるだけでなく、それ自体を展示空間として使う。これは物理館とオンライン展示の関係を大きく変えました。
Gate Pages — 美術館サイトの入口を作家へ渡す
artportでは2001年から2006年まで、毎月一人の作家が「Gate Page」を制作しました。Gate PageはWhitneyのウェブサイトから作家自身のサイトやプロジェクトへ接続する入口として機能しました。
美術館が作品を自分のサーバー内へ完全に囲い込むのではなく、外部のWebへ観客を送り出す設計です。リンクすることそのものがキュレーションになります。
2001年SFMOMA《010101: Art in Technological Times》
2001年、San Francisco Museum of Modern Artは《010101: Art in Technological Times》を開催しました。SFMOMAによれば、展覧会はデジタル技術によって変化する美術、建築、デザインを扱い、約35組の作家・デザイナーを紹介しました。
重要なのは、展覧会が美術館のギャラリーとオンラインの双方で展開されたことです。2001年1月1日に5つのウェブ委嘱作品がオンラインで公開され、3月から物理会場で展示が始まりました。オンライン部分が展覧会の付録ではなく、展覧会そのものの一部になっています。
2001年Whitney《Data Dynamics》
同じ2001年、Whitneyでは《Data Dynamics》が開催されました。この展覧会はInternet Artの重要な問題として、絶えず変化するデータや情報をどのように可視化し、そこをどう移動するかに焦点を当てました。
初期net.artがHTMLとブラウザの表面を強く意識していたのに対し、2000年代初頭には、ネットワークの背後を流れるデータ、地図、データベース、検索、リアルタイム情報が作品の中心へ入ってきます。
2002年Whitney Biennial — Internet Artが多様化する
2002年Whitney BiennialでもInternet Artは独立した選出部門を持ちました。Whitneyの説明では、代替ブラウザ、ハイパーテキスト的な物語、ネットワーク型ソフトウェア、データ可視化、データベース、ゲーム、エージェント技術、オンライン・コミュニティなど、多様な形式が含まれていました。
数年前まで「ウェブページを作品にできるか」が新しい問いだったのに対し、2002年にはInternet Art内部だけでも複数のジャンルを区別する必要が生まれていました。
Lisa Jevbratt《1:1》
Lisa Jevbratt/C5の《1:1》(1999)は、2002年Whitney Biennialで紹介された作品の一つです。IPアドレスを収集し、Webを巨大な数値空間として可視化しました。
普段の利用者は、検索エンジン、ポータル、ドメイン名を通じてWebを移動します。《1:1》ではその分かりやすい表面を外し、IPアドレスというネットワークの別の地理を見せます。Whitneyは、この作品を地図とインターフェースの区別を崩す試みとして説明しています。
ページからデータベースへ
1990年代半ばのWebでは、一つ一つの「ホームページ」が基本的な単位として強く意識されていました。しかし検索エンジン、動的ページ、データベースが普及すると、画面は固定された文書ではなく、アクセスするたびに生成される結果へ変わっていきます。
美術もその変化を取り込みました。作品は作家が用意したページを順番に見るものから、観客の入力や外部データによってその都度異なる画面を生成するシステムへ広がります。
ウェブサイトからネットワーク型ソフトウェアへ
2002年Whitney Biennialは、ブラウザ内だけで完結しない「networked software art」も紹介しました。ソフトウェアをコンピューターへダウンロードし、インターネットからデータを取得して動作する作品です。
これによってInternet Artの境界はさらに曖昧になります。作品がウェブページである必要はなく、ネットワークへ接続するゲーム、アプリケーション、可視化ソフトもInternet Artの文脈へ入るようになりました。
Internet Artはなぜ保存が難しいのか
油彩画なら、支持体や顔料の劣化を管理しながら物体を保存できます。Internet Artでは、作品データが残っていても、それを動かすブラウザ、OS、プラグイン、通信方式、外部サービスが失われれば作品が機能しません。
さらに外部サイトへのリンクは切れ、ドメインは失効し、サーバー側のプログラムも更新されます。ネットワークに接続していること自体が作品の条件であるため、作品の外部環境まで保存対象になります。
リンク切れも作品の変化なのか
ウェブ作品が外部サイトへリンクしている場合、そのリンク先は作家が管理しているとは限りません。数年後にページが消えたり、まったく別の所有者へ移ったりすることがあります。
では、切れたリンクを当時のアーカイブへ差し替えるべきなのか、それともリンクが切れた現在の状態も作品史として残すべきなのか。保存は単純な修復ではなく、どの時点のネット環境を再現するのかという解釈になります。
一つの作品に複数の「variant」がある
Rhizome ArtBaseは、ネット作品を単一で自己完結した物体として扱うことが難しいため、同じ作品の異なる実装や保存状態を「variant」として記録しています。
作家自身が更新した版、Rhizomeが保存した静的コピー、古いブラウザで動かすエミュレーション版などを、一つの作品に関連する複数の状態として残します。これは「原作品/複製」という二分法では捉えにくいInternet Artの性質に対応した保存モデルです。
古いブラウザごと再現する
Rhizomeは、古いソフトウェア環境をオンラインで再現するエミュレーションも利用しています。《Form Art》のように、ブラウザ標準部品の外観そのものが作品の一部である場合、最新ブラウザでページだけを表示しても当時の経験は再現できません。
そのため1990年代のNetscapeや古いOSに近い環境まで含めて作品を動かします。保存対象が画像やHTMLファイルから「作品が実行される環境」へ広がりました。
スクリーンショットだけでは残らないもの
スクリーンショットは、ある瞬間のWeb作品の外観を記録するには有効です。しかしリンクをクリックすること、画面が変化すること、データが読み込まれる時間、エラー、音、外部サイトとの接続までは保存できません。
Internet Artでは、完成した一枚の画面より、操作によって状態が変わる過程が重要な場合があります。そのため保存には、画面記録、コード、ネットワーク通信、ブラウザ、作品説明など複数の資料が必要になります。
作者はどこまで作品を支配できるのか
ネットワーク作品では、ブラウザ開発者、サーバー管理者、通信事業者、リンク先の運営者、参加者など、作者以外の多くの主体が作品の状態へ影響します。
そのため作者がすべてを決定した固定作品という考えが弱くなります。これはRelational Aestheticsで共同制作や観客参加が広がった同時期に、デジタル領域でも作者性が分散していたことを示します。
無料でアクセスできる作品をどう所有するのか
Internet Artは、誰でも同じURLへアクセスできることが多く、作品を一点だけ所有する従来の市場モデルと相性が悪いように見えました。しかし実際には、美術館による収蔵、限定版、証明書、サーバー、ソースコード、契約などを通じて所有形態が作られていきます。
Whitneyが1995年に《The World’s First Collaborative Sentence》を収蔵した事例は、作品が公開されたままでも美術館が保存責任や所有権を持ち得ることを早い段階で示しました。アクセス可能性と所有は、必ずしも同じ問題ではありません。
美術館はInternet Artを取り込んだのか、それとも変えられたのか
1997年documenta X、1999年《net_condition》、2000年Whitney Biennial、2001年artportと《010101》を並べると、わずか数年でInternet Artが大規模美術制度へ入っていったことが分かります。
しかしそれは一方的な制度化ではありません。美術館も、オンライン展示、ウェブ委嘱、ソフトウェア保存、ネットワーク保守といった新しい仕事を引き受ける必要がありました。Internet Artが美術館へ入っただけでなく、美術館の「展示」「収蔵」「保存」の定義も変化しました。
2003年RhizomeとNew Museum
2003年、RhizomeはNew Museumのaffiliate in residenceとなりました。1996年にメーリングリストとして始まったネットワーク型の組織が、New Yorkの現代美術館と制度的に接続したことは、Internet Artの位置づけの変化を象徴しています。
初期net.artが従来の美術館や市場から距離を取る自由なネット文化として語られた時期から、デジタル作品を長期的に保存・研究・委嘱する制度を作る段階へ移っていきました。
「英雄時代」という物語に注意する
1995–99年頃のnet.artは、後にインターネット美術の「heroic period」と呼ばれることがあります。企業プラットフォームが現在ほど支配的ではなく、小規模な個人サイトや独自ドメインを作りやすかったことから、自由な開拓期として記憶されやすいためです。
しかし初期Webも完全に平等な空間ではありません。コンピューターと通信回線へのアクセス、言語、技術知識、地理的条件には大きな差がありました。また早い段階から通信企業、商業ブラウザ、美術制度がネット文化へ関与しています。過去を無条件に自由な時代として理想化することには注意が必要です。
Web 2.0以前のInternet Art
本記事で扱った1990年代のInternet Artでは、作家が自分のサーバーやドメインを持ち、HTMLを直接書き、独自サイトを構築することが一般的でした。観客も複数の小さなサイトをリンクからリンクへ移動します。
2000年代半ばになると、ブログ、YouTube、Facebookなど大規模プラットフォームがWeb利用の中心へ入り、作品の制作・流通条件が変化します。作家は独自のウェブ空間を一から作るだけでなく、既に存在する企業プラットフォームの規則、アルゴリズム、利用者文化を素材にするようになります。
1993–2003年に何が変わったのか
1993年、CERNがWorld Wide Webを公共利用へ開き、Mosaicのようなグラフィカル・ブラウザが普及し始めました。数年後にはJODIがコードとエラーを視覚表現へ変え、Olia Lialinaがブラウザのフレームから物語を構成し、Alexei Shulginがフォーム部品を作品へ変換します。Vuk Ćosić、Heath Bunting、Cornelia Sollfrankらは、コピー、リンク、作者性、美術制度そのものをネットワークから問い直しました。
1996年のRhizomeは、作品を発表するだけでなく、それについて議論するオンライン・コミュニティを形成しました。1997年documenta X、1999年ZKM《net_condition》を経て、Internet Artは国際展と美術館へ本格的に入り始めます。一方、その過程では「ネット上にある作品を展示室でどう見せるのか」という矛盾が表面化しました。
2000年Whitney Biennialにnet art部門が設けられ、2001年にはWhitney artportとSFMOMA《010101》がオンライン展示を美術館プログラムの中核へ組み込みました。2002年Whitney Biennialでは代替ブラウザ、データベース、ネットワーク型ソフトウェアなど形式が多様化します。2003年にRhizomeがNew Museumと制度的に接続した頃には、Internet Artは一時的な新奇な現象ではなく、保存、収蔵、研究を必要とする現代美術の領域として認識されていました。
Internet Artが残したもの
Internet Artの最大の変化は、作品を「画像」や「物体」だけで考えられなくしたことです。URL、リンク、通信、ブラウザ、ソフトウェア、ユーザー、サーバー、更新、停止といった関係の全体が作品になり得ます。
現在では、美術館のウェブサイト、ソーシャルメディア、オンライン展示、AI、ゲーム、仮想空間などが日常化し、デジタルと非デジタルを明確に分けること自体が難しくなっています。しかし、その条件を美術として最初期に集中的に検討した1990年代のInternet Artは、ネットワーク社会で作品がどこに存在し、誰が作り、誰が保存するのかという現在も続く問いの出発点になりました。
次の時代へ — 映像インスタレーションと映画の展示空間化
インターネットがブラウザとネットワークを新しい展示空間へ変えていた同じ1990年代後半、美術館の内部では映画や映像の見せ方にも大きな変化が起きていました。映像はスクリーン一枚を正面から見る形式だけでなく、複数の投影、暗室、建築、鑑賞者の移動を組み込むインスタレーションへ拡張します。
次の記事では、1995–2005|映像インスタレーションとMoving Image — Douglas Gordon、Steve McQueen、Tacita Dean、映画と展示空間として、映画館と美術館の境界、時間、ループ、複数スクリーン、フィルムとビデオ、Turner Prize以後の映像作品の位置づけを追います。
参考資料・出典
本ページは、美術館、研究機関、メディア・アート機関、公式アーカイブ等を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。Internet Art、net art、net.art、New Media Artを完全な同義語とは扱わず、それぞれが用いられた歴史的文脈を区別しています。また初期net.artを統一された正式な運動としてではなく、1990年代のネットワーク上で形成された複数の実践と人的ネットワークとして記述しています。原文の全文翻訳ではありません。
- CERN — The birth of the Web
- CERN — Licensing the Web
- National Center for Supercomputing Applications — A Legacy of Innovation / NCSA Mosaic
- Whitney Museum of American Art — Histories of the Digital Now
- The Museum of Modern Art — JODI
- The Museum of Modern Art — JODI, My%Desktop, 2002
- Rhizome Net Art Anthology — JODI, Automatic Rain, 1995
- Rhizome — Speaking in Net Language: My Boyfriend Came Back from the War
- Rhizome ArtBase — Olia Lialina, My Boyfriend Came Back From the War, 1996
- Rhizome ArtBase — Heath Bunting, _readme, 1998
- Rhizome ArtBase — Alexei Shulgin, Form Art, 1997
- Rhizome — Interview with Cornelia Sollfrank / Female Extension
- Rhizome Archive — Female Extension, 1997
- Rhizome — About / organizational history
- Rhizome ArtBase — About / archive and preservation history
- documenta — documenta X, 1997
- documenta — documenta X website and CD-ROM, 1997
- Rhizome Net Art Anthology — Vuk Ćosić, Documenta Done, 1997
- Whitney Museum of American Art — Mark Napier
- Rhizome Net Art Anthology — Electronic Disturbance Theater, FloodNet, 1998
- ZKM | Center for Art and Media — net_condition, 1999–2000
- ZKM — Jeffrey Shaw, The Net.Art Browser, 1999
- Whitney artport — Collection / Douglas Davis, The World’s First Collaborative Sentence
- Whitney artport — Whitney Biennial 2000 and 2002 Net Art selections / Data Dynamics
- Whitney Museum of American Art — artport
- San Francisco Museum of Modern Art — 010101: Art in Technological Times, 2001
- Whitney artport — Lisa Jevbratt/C5, 1:1, 1999
- Rhizome ArtBase — User Guide / artworks and variants
- Rhizome — ArtBase Archive: Context & History / digital preservation
- Rhizome — Digital preservation software / ArtBase, Conifer, oldweb.today
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY