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Art History

1939–1970

モダニズム批評の時代

グリーンバーグの隆盛と限界

クレメント・グリーンバーグ「デュシャンについて」(artcoefficient)

20世紀の美術史を考えるうえで、クレメント・グリーンバーグ(1909–1994)は重要な批評家です。1939年に前衛芸術と大衆文化の関係を論じ、1940年代にはジャクソン・ポロックらを高く評価し、1950年代から60年代には近代絵画が「平面性」を自覚していく歴史を提示しました。その判断は美術館、画廊、展覧会、若い批評家たちにも影響を与え、戦後アメリカ美術の評価を形づくる力となりました。

グリーンバーグの考え方が注目された背景には、第二次世界大戦を挟んでニューヨークの美術環境が大きく発展したことがあります。ヨーロッパから移住した芸術家との交流、抽象表現主義の登場、画廊と美術館の活動が、作品を新しい歴史の中へ位置づける言葉を求めていました。グリーンバーグはその要請に応え、色、形、支持体、絵具という絵画の基本的な条件から、何が新しいのかを明快に説明しようとしました。

1955年の「アメリカ型絵画」論、1960年の「モダニズムの絵画」、1964年の「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」展は、その影響力の大きさを示す節目です。同じ時代に、ローゼンバーグは制作の行為を、スタインバーグは絵画と情報の関係を重視する別の批評を発展させました。ラウシェンバーグやジョーンズ、ポップアート、ミニマリズムの作品は、絵画と彫刻の境界や、日常の画像が美術へ入る意味を問い始めます。

この記事では、グリーンバーグの批評がどのように生まれ、なぜ権威を持ち、1970年頃までに何が変化したのかを追います。作品の選別によって見落とされた芸術家と、スミスの彫刻表面に実際の改変を加えさせた事件も詳しく検討します。彼の理論は作品の見方を鋭くする方法を残しました。同時に、その理論で理解しやすい作品と、説明しにくい作品があることも明らかになりました。批評家の歴史をたどることで、美術史が芸術家の制作だけで完成するものではなく、作品を見て選び、評価し、語る人々の活動によって形づくられていることが分かります。

美術の評価を変えた批評家

1930年代末から1970年頃までをたどると、作品そのものと、それを重要な美術として位置づける言葉が相互に作用していたことが見えてきます。

美術史を形づくる「批評」という仕事

画家が新しい作品を発表したとき、その意味や価値がすぐに決まるわけではありません。批評家は展覧会を訪れ、過去の作品と比較し、何が変わったかを文章にして読者へ届けます。その言葉は画廊の活動や美術館の収集と結びつき、ある表現が「同時代の重要な問題」として理解される過程に関わります。

クレメント・グリーンバーグ(1909–1994)は、そうした批評の影響力を考えるうえで欠かせない人物です。ポロックを早くから評価し、抽象表現主義を近代絵画の歴史へ位置づけ、次の世代の色面絵画を後押ししました。彼の活動を知ることは、作品を見る基準がどのように作られるのかを知ることにつながります。この時代には、今日重要とされる画家の評価がまだ定まっておらず、批評家がどの展覧会を取り上げるか自体が紹介の機会を左右していました。現在の美術史の並びがどう成立したのかを考える出発点です。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

ブロンクスに生まれたグリーンバーグ

グリーンバーグは1909年、ロシアから移住したユダヤ系家庭にニューヨークのブロンクスで生まれました。シラキュース大学を卒業した後、1930年代には税関の仕事に就きながら文学や政治思想、美術に関心を広げます。美術学校で絵画技法を修めた画家出身の批評家という経歴ではありません。

1930年代後半、ニューヨークでは公共事業による芸術家支援や、ヨーロッパの前衛芸術をめぐる議論が盛んでした。グリーンバーグもハンス・ホフマンの話を聞くなどして近代美術への理解を深め、文学や社会を論じる知識人の世界から美術批評へ入っていきます。後の形式論の背景には、こうした社会と思想への関心がありました。ブロンクスはマンハッタンの北に位置するニューヨーク市の行政区です。移民の家庭で育ち、文芸雑誌を通じて思想を学んだ経歴は、批評の文章が美術だけで閉じていなかった理由を理解する手がかりにもなります。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

1939年を起点とする理由

本記事が1939年から始まるのは、グリーンバーグが「アヴァンギャルドとキッチュ」を発表し、美術と大衆文化の関係を明確な問題として示した年だからです。欧州ではナチス・ドイツの侵攻によって第二次世界大戦が始まり、ソ連の文化政策も強い統制下にありました。芸術の自由を論じることは、政治権力や社会の変化を考えることと深く結びついていました。

グリーンバーグの理論は、以後30年ほどの間に大きく発展します。初期の文化批判から1940年代の具体的な展覧会評、1960年の平面性の理論、1964年の展覧会企画へと進みます。影響力が高まる過程と、それに対する批判が現れる過程を同じ時間軸で追っていきます。同じ1939年には、ヨーロッパの近代芸術を紹介する展覧会がニューヨークの美術館で開かれていました。美術の中心が移り始めた状況と、グリーンバーグが批評を始めた時期は重なっています。(参照:『美学』|初期グリーンバーグと社会批判)

1939年|前衛芸術と大衆文化

最初の代表的な論考は、絵画の形式を語る以前に、文化が社会のなかでどのように生産され、消費されるかを問うものでした。

『パーティザン・レビュー』と当時の政治

1939年の論文「アヴァンギャルドとキッチュ」は、知識人誌『パーティザン・レビュー』に発表されました。同誌にはスターリン主義を批判する左派の書き手が集まり、ファシズムの台頭と大衆向け文化の拡大を背景に、芸術が政治とどう関わるべきかを議論していました。そこで前衛芸術の自律性が重要な主題になります。

美術史ではグリーンバーグを「形式だけを見る批評家」と紹介することがあります。1939年の文章を当時の論争に戻して読むと、芸術の自律性が社会への無関心と同義だったとは言えません。日本語で発表された近年の研究も、初期の思想を反スターリン主義と資本主義社会への批判の文脈から検討しています。誌面で争われたのは、政治に奉仕する宣伝と、芸術の独自の探究をどう両立して考えるかという問題でした。作品の内容だけでなく、作者がどのような自由を持てるかという条件も問われています。(参照:『美学』|初期グリーンバーグと社会批判)

アヴァンギャルドは何を守ろうとしたか

グリーンバーグが用いた「アヴァンギャルド」は、既成の理解や即効的な感動から距離を取り、芸術の方法そのものを探究する前衛を指します。彼は、前衛芸術が社会の外に存在できると考えたわけではなく、社会の圧力のもとでも表現の独立性を保つ必要があると論じました。

抽象絵画の難しさも、ここから違う意味を持ち始めます。明快な物語を提供する代わりに、色、形、絵具、平面の関係を作品の中心へ移す。鑑賞者は画面を丁寧に見る必要があります。グリーンバーグはその経験に、前衛芸術が独自の価値を維持する可能性を見いだしました。鑑賞者にとって理解しにくい作品が、社会に対して批判的な力を持ち得るのか。グリーンバーグの文章は、そうした難問へのひとつの回答でもありました。後の抽象絵画擁護へ続く基本的な考えがここで現れています。(参照:MoMA|「アヴァンギャルドとキッチュ」を考える)

キッチュという言葉の射程と問題

グリーンバーグが「キッチュ」と呼んだのは、よく知られた表現の型や感情的な効果を反復し、多くの人が短時間で理解できるよう作られた文化でした。映画、印刷物、絵画など媒体を問わず、受け手へ決まった反応を促す仕組みを問題にしています。大量生産と大衆消費の発展が、この論考の重要な背景でした。

その分類には、芸術を享受する人々の階層差をどう扱うかという難しい問題もあります。大衆的な表現にも独創性や批評性は存在し、1960年代のポップアートは商業的な画像を美術の中心へ持ち込みました。1939年の分類を知っておくと、後のウォーホルやリキテンスタインが批評の世界に生み出した変化を理解しやすくなります。キッチュを考える際には、商業的な流通と芸術的な質を混同しない視点も必要です。1960年代のポップアート以降、この境界についての論争は一層具体的になり、グリーンバーグの初期論考も新たに読み直されます。(参照:『美学』|初期グリーンバーグと社会批判)

1940年|絵画は何を固有の手段とするか

1940年の論考で、文化政治をめぐる問いは、絵画・彫刻・文学などの表現方法を分けて考える理論へ進みました。

「新しいラオコーンに向けて」の発表

グリーンバーグは1940年、『パーティザン・レビュー』に「新しいラオコーンに向けて」を発表しました。題名は、絵画と詩の関係を論じた18世紀のレッシングの著作を踏まえています。絵画が物語を語り、文学が視覚的な描写を追うように、芸術は長く他の表現の効果を取り入れてきました。

グリーンバーグは、この関係を歴史的に見直し、近代芸術では各分野が自分の手段を検討する動きが強まったと考えました。ゲティ研究所には論文の草稿が残され、後年の研究によって文章が形づくられる過程も検討されています。完成した理論にも、執筆時の試行錯誤があったことを示す資料です。論文草稿の研究は、芸術の境界を考える議論が最初から単純な図式で完成していたわけではないことも示しています。批評文の成立を資料から検討することは、理論を生きた歴史として読むことにつながります。(参照:ゲティ研究誌|「新しいラオコーンに向けて」草稿研究)

絵画、彫刻、文学を分けて考える

物語の展開を時間のなかで読む文学と、目の前に広がる色や形を一度に見る絵画とでは、鑑賞の条件が異なります。グリーンバーグは、ある芸術が他の芸術の効果を再現する方向から、自分の表現手段を深く掘り下げる方向へ進むと考えました。この整理は後に「媒体固有性」と呼ばれる議論につながります。

例えば絵画が彫刻のような立体感を描写することより、色の配置や画面の平面性を強く意識させることに向かう、といった説明です。実際の作品には物語や空間表現が残り続けます。彼の理論は複雑な歴史から一本の傾向を取り出し、何が近代絵画の発展を支えたのかを示そうとするものでした。絵画にとって文学的な内容が消えるという予言として読むと、現実の美術史とのずれが生まれます。重要なのは彼が、視覚芸術の評価に際して、画面をどのように組み立てたかという問題を強く前面に出したことです。(参照:ゲティ研究所|グリーンバーグ資料目録)

マネからキュビスムへつながる歴史

グリーンバーグは、マネの平坦な画面、印象派の筆触、セザンヌの構成、キュビスムの浅い空間などを、絵画が支持体と視覚の条件へ自覚的になっていく流れとして理解しました。この整理によって、見た目の大きく異なる作品が一つの近代絵画史として結びつきます。抽象絵画も、突然現れた奇妙な新様式という説明から解放されました。

この歴史の描き方には、対象や物語を描き続けた作家、異なる地域の美術、政治的な表現が見えにくくなるという問題もあります。グリーンバーグは、近代絵画のあらゆる側面を等しく扱うより、彼が重要と判断した変化を選び出しました。その選択の明快さが、後に強い影響力を生みます。このような歴史観によって、抽象絵画の作品を社会的な題材の有無から解放して考えることが可能になりました。形や色を作品の核心として扱う批評は、戦後の美術教育でも大きな影響力を持つことになります。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

1942–1945年|現場で作品を評価する

理論家としての仕事と並び、展覧会を見て個々の作家に評価を与える活動が始まります。

『ネイション』の美術批評家となる

1942年、グリーンバーグは雑誌『ネイション』の美術批評を担当し、ニューヨークの展覧会について継続的に執筆するようになりました。この仕事では歴史の理論だけを語ることができません。新しい作品を実際に見て、まだ評価の定まっていない作家について、作品の強さや弱さを判断する必要があります。

当時のニューヨークではヨーロッパから亡命した芸術家が活動し、美術館や民間画廊が戦時下でも展覧会を開いていました。グリーンバーグはその場の作品と接触しながら、後に抽象表現主義と呼ばれる世代の変化を同時代の読者へ伝えます。雑誌の短い批評の積み重ねが、数年後には歴史的な評価へつながっていきました。評論が後から一冊の本に集められる場合とは異なり、週刊誌の展覧会評は開催中の展覧会に応答する文章です。そこでの決断には、作品の将来を知ることができない時点での評価という緊張感がありました。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

1943年|初個展のポロックを論じる

1943年、ペギー・グッゲンハイムの画廊「アート・オブ・ディス・センチュリー」でジャクソン・ポロックの初個展が開かれました。グリーンバーグは同年11月27日付『ネイション』で、ポロックの作品を取り上げています。MoMAが再録した当時の文章では、神話的なイメージと抽象が入り交じる制作に、個性的な構成と力強い色彩を認めています。

この時期のポロックは、1947年以降に有名になる滴下技法をまだ確立していませんでした。グリーンバーグが注目したのは、のちに代表的な様式となる作品の完成形ではなく、画面の中で新しい絵画が形成されつつある可能性でした。現在の名声をいったん離れ、1943年の作品を当時の視点で読むための貴重な記録です。1943年の展評に残る作品名を調べると、後年のポロックの代表的な抽象とは異なる世界が見えてきます。初期の神話的な形と画面全体の動きを、批評家がどのように受け止めたかが分かります。(参照:MoMA|ポロックへの同時代批評集)

1945年|ポロックを世代の先頭へ置く

1945年の二度目のポロック個展について、グリーンバーグはさらに高い評価を書きました。ミロ以降の重要な画家になり得ると論じ、彼を同世代でとりわけ優れた存在として扱います。この評価は、まだ国際的な名声を得ていなかった画家についての大胆な判断でした。

ポロックの活動を支えたのは、リー・クラスナー、グッゲンハイム、画廊関係者、友人や他の批評家を含む広いネットワークです。グリーンバーグの役割は、その中で作品の重要性を言語化し、近代絵画史の長い流れに結びつけたことにあります。批評の力が具体的な作家の受容に働いた早い事例でした。作品を支援した画廊と批評家の関係を区別することも重要です。作品を展示する機会と、その作品の意味を論じる言葉は、それぞれ異なる形で画家の活動を支えていました。(参照:MoMA|ポロックへの同時代批評集)

戦後ニューヨーク|批評と美術界の仕組み

絵画が知られるためには展覧会、販売、収蔵、雑誌が必要でした。グリーンバーグの影響も、その仕組みの中で育ちます。

画廊、美術館、雑誌がつくる評価の場

ペギー・グッゲンハイムの画廊、ベティ・パーソンズの画廊、ニューヨーク近代美術館などは、戦後の新しい作家を紹介する場となりました。作品を発表する場所が増え、展覧会評が雑誌で読まれ、収集家が購入することで、評価は少しずつ広がります。グリーンバーグもこうした活動に継続して接していました。

現在では美術館の代表作として知られる絵画も、当初は限られた画廊で紹介された新作でした。作品の革新性が人々に伝わるまでには、写真、評論、実見の機会が必要です。批評家が書いた文章は、作品を多くの観客へ結びつける一つの通路として機能していました。美術館の収蔵は作品を長期的に保存し、次世代へ示す制度的な働きも持ちます。雑誌の評価、展覧会、収集という別々の活動が重なることで、一時的な話題だった作家が美術史の重要人物へ変わる場合があります。(参照:スミソニアン|グリーンバーグ文書群)

冷戦の始まりと文化の自由

第二次世界大戦の終結後、アメリカとソ連の対立は文化領域にも及びました。抽象絵画や前衛芸術をめぐる議論は、芸術家の自由、国家による統制、国際的な文化発信と交差します。グリーンバーグは早くから反スターリン主義の知識人と関わり、1950年には「文化の自由のためのアメリカ委員会」に参加しました。

この組織の活動や冷戦下の文化外交は、後の研究でさまざまな観点から検討されています。グリーンバーグの作品評価を国家の文化政策と一対一で結びつける説明には慎重さが必要です。彼の批評上の判断、当時の政治状況、文化を支えた組織や資金の歴史を、それぞれ確かめることが重要になります。ここで文化の自由という言葉が使われるとき、誰の自由が守られ、誰が支援を受けられたかという問いも生まれます。冷戦期の美術を理解するには、批評家の主張と当時の制度の仕組みの双方が必要です。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

「質」を判断する批評家の立場

グリーンバーグは絵画史の明快な理論を持つと同時に、個々の作品を見たときの「質」の判断を重視しました。何が新しいのかという歴史的な説明と、実際に作品が優れているかという評価を結びつけようとしたのです。そのため同じ傾向の抽象絵画でも、作品ごとに厳しい差をつけました。

美的な質には単純な測定方法がありません。判断する人の経験と知識が根拠になり、その評価を他人にどれほど説得的に伝えられるかが問われます。批評家の判断が美術界で広く参照されるほど、評価の根拠や、特定の作家に注目が集中することへの批判も生まれます。この判断が人々に受け入れられたのは、作品を継続的に見て比較していた実践にも支えられていました。評価が個人的であるという問題と、長年の観察が判断を鋭くするという点を併せて考えたいところです。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

1952年|ローゼンバーグとの異なる読み

同じ新しいアメリカ絵画を、別の批評家はまったく違う観点から説明しました。

「アクション・ペインティング」の登場

1952年、批評家ハロルド・ローゼンバーグは『ARTnews』誌に「アメリカのアクション・ペインターたち」を発表しました。画面を、あらかじめ決めた像を再現する場所というより、画家が行為を行う場として捉える考え方です。この文章を通して「アクション・ペインティング」という名称が広まりました。

グリーンバーグの批評では、完成した絵画の線や色の関係、平面性、歴史的な位置が重視されます。ローゼンバーグは、画家が画面へ向かい、決断を重ねる制作の行為そのものに強く注目しました。両者の違いを知ると、抽象表現主義を読む方法が一つに限られていなかったことが分かります。ローゼンバーグが用いた「場」という考えは、絵画を制作後の物として見るだけでは分からない緊張を捉えます。批評家たちの意見が異なることで、一つの作品が持つ複数の側面が浮かび上がりました。(参照:MoMA|抽象表現主義)

ポロックの画面を二つの視点から見る

1948年のポロック《Number 1A, 1948》には、白や黒、褐色、銀色などの線が画面の隅々まで重なっています。伝統的な風景画のような明確な中心や奥行きを設定せず、画面全体に視線が移動する構成です。グリーンバーグの読みでは、こうした全面的な関係が近代絵画の平面性をさらに進めた成果として重要になります。

同じ画面をローゼンバーグの観点から見ると、床に置いたキャンバスの周囲を歩き、塗料の流れや身体運動を用いる制作が見えてきます。作品には鑑賞後に読み取れる形式と、制作時の出来事という複数の側面があります。二つの批評はそれぞれ異なる側面を明らかにしました。《Number 1A, 1948》では、滴る塗料のほかに手形も確認できます。身体の痕跡と画面全体の構成が同時に存在する作品は、二つの批評を比較するうえで格好の具体例です。(参照:MoMA|ポロック《Number 1A, 1948》)

批評の競合が生んだ豊かな議論

批評家が作品の意味を説明する言葉は、作家自身の制作理由と完全には一致しません。ポロックも自らの材料や動きについて語り、画廊や写真家は別の仕方で制作を伝えました。そこへグリーンバーグとローゼンバーグの異なる解釈が加わり、同じ絵画が複数の論点を生み出します。

当時の論争を追うことで、絵画が作家の心情を直接伝えるものとしてだけ受け取られていたわけではないことが分かります。形式の歴史、身体の行為、象徴的な内容、美術市場での評価が並行して存在していました。グリーンバーグの強みと限界を考えるためにも、競合した批評を読むことが欠かせません。完成した画面だけを見て生まれる解釈と、制作過程の映像や証言によって得られる情報には違いがあります。ポロックに関する論争は、作品をどのような資料から理解するかという問題も含んでいました。(参照:MoMA|ポロックへの同時代批評集)

1955年|「アメリカ型絵画」の歴史的位置

戦後アメリカ絵画の重要性を論じた1955年の長文は、グリーンバーグの歴史観が成熟した節目となりました。

「アメリカ型絵画」を読む

1955年、グリーンバーグは『パーティザン・レビュー』に「アメリカ型絵画」を発表しました。現代の読者はボストン大学の雑誌アーカイブで当時の紙面を確認できます。彼が問うたのは、抽象絵画が戦後アメリカでなぜ新しい段階へ進み、欧州の美術と比べてどのような成果を上げたのかということでした。

文章では、長く継承されてきた絵画の慣習が、近代に入って少しずつ検討されてきたと論じられます。アメリカの新しい抽象は、その検討を鋭く進めているという見方です。作品を国籍の誇りだけで評価するのではなく、近代絵画が引き受けてきた問題を更新している点に価値を見いだしました。当時の掲載誌には、作品をめぐる評論が社会のなかでどのように読まれていたかという手がかりが残っています。現在の再録文だけでなく初出の紙面を確認すると、その時代の議論へ近づけます。(参照:ボストン大学|グリーンバーグ「アメリカ型絵画」原文)

ヨーロッパとの連続性をどう描いたか

グリーンバーグは、マネから印象派、セザンヌ、キュビスムへ至るヨーロッパ近代絵画の成果を高く評価しました。ポロックやデ・クーニング、ロスコ、ニューマンらについても、そうした歴史との関係で考えています。新しいアメリカ絵画は、過去を切り捨てた表現というより、近代美術が育ててきた課題に新しい回答を与えるものとして位置づけられました。

この歴史観には、絵画の発展を一本の線として描ける魅力があります。同時に、その線から外れる作品や地域が周辺へ押しやられる可能性も生じます。どの先行作品を重視し、どの画家を後継者として選ぶかは、批評家による選択です。グリーンバーグはその選択を明確に示すことで、強い説得力を持ちました。この連続性の考えは、ヨーロッパ美術の影響を受けて発展したアメリカの絵画をどう位置づけるかという課題への回答でもありました。政治的な国際関係と、美術の造形的な系譜を区別する視点が必要です。(参照:ボストン大学|グリーンバーグ「アメリカ型絵画」原文)

同時代から寄せられた異論

「アメリカ型絵画」論には発表当時から反応がありました。『パーティザン・レビュー』の同年後半の号には、彼の説明や判断の仕方に異議を唱える投書が掲載されています。抽象絵画が重要になっていた時代でも、その価値を誰がどう決めるのかについて合意があったわけではありません。

グリーンバーグは個々の作品を厳しく評価する文章を通して、作家の優劣や歴史的な位置を示しました。その明快さが読者を引きつけると同時に、判断が個人の好みを超えた普遍的な基準として提示されることへの疑問も呼びました。批評家の権威が高まる過程には、こうした反論がすでに伴っていました。誌面には論考をめぐる意見の相違が残ります。ある批評家の説明が後に古典的な理論として扱われても、発表当時にはすでに別の見方が存在していたことを、こうした一次資料は教えてくれます。(参照:ボストン大学|「アメリカ型絵画」への同時代の反応)

色面絵画へ向かう新しい関心

1950年代、グリーンバーグの評価は身振り的な抽象の成果を踏まえ、色と支持体の関係を改めて考える作品へ向かいます。

ヘレン・フランケンサーラーの制作

ヘレン・フランケンサーラーは1950年頃にグリーンバーグと知り合い、戦後ニューヨークの画家たちと交流を深めました。1952年の《山と海》では、大きな生キャンバスを床に置き、薄めた油絵具を流して布に染み込ませています。絵具の広がりは輪郭線だけで区切られず、キャンバスの素材と色が密接につながっています。

色が画面を覆う厚い層として盛り上がる作品と比べると、布の地と色面が一体となる感覚が強く現れます。フランケンサーラー自身の制作には風景の記憶、流れる絵具、偶然のにじみといった関心がありました。グリーンバーグは、その多面的な作品から、絵画の平面性と色彩の可能性を特に高く評価しました。フランケンサーラーの作品を見ると、色は布の繊維へ浸透し、画面の周縁ににじみを残します。流動する絵具と作者の判断が重なって成立したことが、色面の自由な形から伝わります。(参照:MoMA|ヘレン・フランケンサーラー)

1953年|ルイスとノーランドのアトリエ訪問

1953年4月、グリーンバーグはワシントンからニューヨークを訪れたモーリス・ルイスとケネス・ノーランドを、フランケンサーラーのアトリエへ案内しました。ハーシュホーン美術館の資料は、そこで彼女の染み込み絵画を見たことが、ルイスの成熟した制作へ向かう重要なきっかけとなったと説明しています。

画家たちは作品を目の前にして、絵具の薄め方や流し方、布の扱いを考えることができました。グリーンバーグの影響は、すでに書かれた文章を読むことだけで成立していたのではありません。作家同士を引き合わせ、制作過程に関心を持つ人が直接作品を見る機会を作ったことも、歴史的な役割の一つです。三人の画家を結びつけた訪問は、当時のニューヨークの小さな人的なネットワークが、新しい絵画の方法を広げた具体例です。歴史上の技法の交流は、展覧会を見る経験や実際の会話によっても進みました。(参照:ハーシュホーン美術館|モーリス・ルイス)

絵具の重力と薄い色面

ルイスはその後、キャンバスを立てかけて薄い絵具を流し、重力による広がりを生かした作品を発展させました。画面に残る色の帯や流れは、筆で輪郭を整えた形とは異なる動きを持ちます。ノーランドも色彩と構成を研究し、標的状の同心円や明快な帯を用いた作品へ進んでいきます。

両者の絵画は、フランケンサーラーの方法をそのまま複製したものではありません。それぞれが絵具の扱いと画面構成を独自に発展させました。グリーンバーグの批評は、三人に共通する平面性と色彩の問題を浮き彫りにしました。制作の物質的な違いを見ながら読むと、批評上の分類と個々の作品の豊かさの両方が見えてきます。ハーシュホーン美術館は、ルイスの大作の保存研究も進めています。薄く流した絵具と巨大な布の関係を理解することは、作品の美的な評価だけでなく、材料の劣化や長期保存を考えるうえでも重要です。(参照:ハーシュホーン美術館|ルイスの絵具と重力)

1960年|「モダニズムの絵画」の理論

1960年の論考は、それまでの批評を「自己批判」という考えから組み直し、戦後の近代絵画論を代表する文章となりました。

近代絵画を自己批判の歴史として捉える

グリーンバーグは1960年、「モダニズムの絵画」を発表しました。ここでは近代美術を、各芸術が自分の手段を用いて、自分自身の可能性と限界を検討する過程として考えます。絵画は、絵画を成立させる条件を調べることで、その表現が持つ独自の価値を明らかにしようとするという見方です。

こうした説明によって、さまざまな時代の画家の実験が一つの近代美術史へ結びつきます。画家がみな同じ理論を知って制作したという意味ではありません。後から作品を比較する批評家が、そこに共通した変化を見つけて整理したのです。この論考は1960年の初出後も改稿されながら読まれ、グリーンバーグの代表的な理論となりました。「モダニズムの絵画」は初出後も複数の版で読まれてきました。文章の成立年と、現在引用される版が同じとは限らないため、歴史的な議論では発表時期と改稿の経緯を確認する必要があります。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

カントの哲学を手がかりにする

「モダニズムの絵画」でグリーンバーグは、哲学者イマヌエル・カントの批判哲学を例に挙げています。カントが理性の能力を理性そのものによって検討したように、近代芸術も自分の方法によって自分を吟味する、と説明しました。外から与えられた規則に従うより、自分が何によって成立しているかを明確にすることが重視されます。

絵画であれば、色、画面、線、支持体、視覚的な経験がその検討の対象になります。この比喩は、近代絵画の歴史に哲学的な一貫性を与えました。同時に、作家が実際に何を考えていたかと、後から組み立てた理論上の流れとを分けて読むことが必要です。カントの哲学を例にすることで、絵画についての議論が近代思想の大きな流れの中へ置かれます。この理論的な飛躍こそが、個別の展覧会評を超えたグリーンバーグの影響を支えた重要な要素でした。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

作品を新しくすることと伝統の関係

グリーンバーグは近代美術を、単に古い芸術を破壊して新しい表現へ置き換える過程としては考えませんでした。絵画が長い歴史のなかで蓄積してきた優れた成果へ応答しながら、不要になった慣習を検討することが、近代絵画の更新だと説明しています。彼にとって革新は、過去との対話を含む行為でした。

この考え方は、ポロックをミロやキュビスムと結びつけ、ロスコやニューマンの色面を、それ以前の絵画の問題として読む姿勢にも現れます。近代絵画を学ぶうえで有効な歴史の見取り図を与えると同時に、複数の変化を一つの方向へ整理する力も持っていました。各時代の画家が引き継いだものと変えたものを比較する読み方は、美術史を学ぶ際の基礎的な方法でもあります。その歴史を一つの方向だけで説明しすぎないことが、同時代の多様性を理解するための課題になります。(参照:ボストン大学|グリーンバーグ「アメリカ型絵画」原文)

平面性とは何か

グリーンバーグの理論でもっとも広く知られる「平面性」は、作品がどのように見えるかを具体的に考える手がかりです。

画面は奥行きの錯覚を持つ平らな面

伝統的な西洋絵画では、遠近法や陰影を使って、平らな支持体の奥に空間が存在するかのような錯覚を作ってきました。グリーンバーグは近代絵画が、そうした空間を描きながらも、画面が平面であることを鑑賞者に強く意識させる方向へ進んだと論じました。

例えばキュビスムでは、人物や静物を分解して浅い奥行きに再構成します。モンドリアンの格子では、色面と線の関係が画面の端まで広がります。ポロックの線は、明確な前景と背景を作る代わりに、面の全域へ重なっていきます。見た目の異なる作品に、平面という条件を意識させるという共通点が見えてきます。平面性を重視する見方は、奥行きの表現を単純に古いものとして排除するための考え方ではありません。画面の奥行きがどのように成立し、鑑賞者が何を先に意識するかを検討する方法として読むと理解が深まります。(参照:ナショナル・ギャラリー|1950年以降の美術資料)

平面性は奥行きを完全に消すことか

グリーンバーグは、物理的な平面だけが優れた絵画の条件になると説いたわけではありません。「モダニズムの絵画」では、支持体に最初の線を引いた時点で、視覚的な奥行きが生まれると認めています。彼が重視したのは、実際に身体が入り込めそうな立体的な空間の錯覚と、眼が感じる浅い視覚的な奥行きとの違いです。

ロスコの色面は、輪郭が揺らいで背景から少し浮くように見えることがあります。ニューマンの垂直帯も、単純な境界線でありながら周囲の色面との距離を感じさせます。奥行きがあるかないかを二分する説明より、どのような種類の視覚的空間が生まれているのかを見ると、平面性の議論が具体的になります。ロスコの矩形を近くで見ると、縁の色が柔らかく混ざり、背景と前景の関係が安定しません。こうした経験を「奥行きがなくなった」と要約するより、どのような奥行きが残されているかと考える方が作品に近づけます。(参照:ナショナル・ギャラリー|1950年以降の美術資料)

眼で経験する空間への関心

グリーンバーグは、色や線の視覚的な関係によって現れる「眼で感じる空間」に強い関心を持ちました。厚い絵具が盛り上がると、鑑賞者は物質の手触りや彫刻的な量感を想像できます。薄く染み込んだ色や、画面全体に広がる線は、触れる感覚より眼の中で起こる関係を前面に出す場合があります。

その観点が、フランケンサーラーやルイス、ノーランドの色面絵画への評価につながりました。作品の物質性を無視してよいという意味にはなりません。支持体と絵具の使い方が実際の視覚経験を生み出しています。理論を作品へ当てはめるときには、その色面がどんな材料と操作によって成立したかまで見ることが大切です。画面を見たときの光や色の印象も、絵具の濃度や支持体の表面によって変わります。グリーンバーグの理論を手がかりにしながら、実際の作品が持つ物質的な条件まで目を向けると、鑑賞に厚みが生まれます。(参照:ハーシュホーン美術館|モーリス・ルイス)

媒体固有性が生み出した強さと限界

絵画に固有の条件を問う方法は、作品を厳密に読む手がかりになると同時に、他媒体と交わる表現を扱う際の課題も生みました。

「媒体固有性」という評価軸

絵画、彫刻、写真、文学には、それぞれ異なる素材と経験の条件があります。グリーンバーグは近代美術の発展を、各分野が自分の特性を明らかにしていく歴史として説明しました。この考えは、後に「媒体固有性」と呼ばれる議論の中心になります。

例えば絵画で描かれた物語の面白さだけを見るなら、文学との比較で十分かもしれません。グリーンバーグの方法は、絵画という形で成立しているからこそ生じる色や画面の問題を見逃さないよう促しました。作品を前にして形式を詳しく観察する態度には、現在でも学ぶ価値があります。媒体ごとの特性に注目する批評は、映像や写真など別の技術が広がる20世紀において、絵画が何を担い得るのかという問いにも応答していました。そうした背景を押さえると、平面性という議論がなぜ切実だったのかが分かります。(参照:ゲティ研究所|グリーンバーグ資料目録)

理論は実際の画家の仕事をどう扱うか

1948年のデ・クーニング《Painting》は、黒と白の複雑な形が重なり、人体や物体に見える断片が現れては消える作品です。具象と抽象が往復する画面を、平面性へ向かう歴史だけで説明しきることは難しいでしょう。それでもグリーンバーグの批評は、作品の視覚的な構造や筆触を詳しく見るための言葉を提供します。

画家の制作は、一つの理論が想定する方向より多くの問題を抱えています。絵具の重ね方、修正、人物表現、記憶、主題、制作環境が重なり合います。グリーンバーグの解釈を重要な一つの視点として読み、作品がそれを超えて示す内容も見ていくことが、実際の鑑賞には役立ちます。デ・クーニングの画面は、作者が何度も描き直しながら形を探していた過程を想像させます。絵画の価値を形式の発展だけに限定せず、制作過程に生じた判断を追う視点も作品の理解を深めます。(参照:MoMA|デ・クーニング《Painting》)

記述が制作上の規範になるとき

グリーンバーグは、近代絵画がどのように展開してきたかを説明しようとしました。その歴史の中で、特定の方向の作品を優れていると評価すれば、若い作家には「これから絵画はこう進むべきだ」という指針として受け取られる場合があります。批評の記述と、制作上の規範が近づく問題です。

歴史を説明することと、作家に制作方法を命じることは同じではありません。実際の美術界では、批評家の言葉が展覧会の選考や市場の評価と結びつき、次の世代に影響を与えます。理論がどのように書かれ、誰によってどのように使われたのかを分けて考えると、その力の大きさを具体的に理解できます。美術館やギャラリーがその理論に合う作品を選んで展示すれば、観客の目にも「これが現在の美術の中心だ」という印象が生まれます。思想としての理論と、実際の制度で果たした役割の両方を確かめたいところです。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

1961–1964年|批評が展覧会になる

グリーンバーグの影響は雑誌の評価を超え、本の出版と美術館の企画を通じて広く知られるようになりました。

1961年『芸術と文化』の出版

1961年、グリーンバーグは主要な文章をまとめた『芸術と文化――批評集』を出版しました。1939年の大衆文化をめぐる論考から、同時代の絵画評論までが一冊の本として読めるようになります。個別の展覧会への評価が、近代美術をどう理解するかという継続的な思想として提示されたことが重要です。

雑誌に掲載された文章は、発表時の展覧会や社会の状況に応答しています。それらをまとめた本が大学や美術館で読まれると、文章は特定の出来事を越えて長く参照される基礎文献になります。グリーンバーグの考え方が「形式主義的なモダニズム論」として広く共有されるうえでも重要な出版でした。まとまった著作として流通することにより、同時代の批評家の判断は後世の学生や研究者にも届くようになります。出版物が作品の価値を伝えるという、もう一つの美術史の制度的な側面が見えてきます。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

1962年「抽象表現主義以後」を問う

1962年の「抽象表現主義以後」でグリーンバーグは、すでに高く評価されていた抽象表現主義の成果を踏まえ、次の絵画がどのように発展できるかを論じます。かつて新しかった力強い筆触や画面いっぱいの身振りも、多くの人が模倣するようになると一つの慣習へ変わっていきます。

グリーンバーグは、定着した表現を繰り返すことより、色や画面に残された別の可能性へ関心を向けました。これが、薄い色面、はっきりした輪郭、広い視覚的空間を持つ絵画を次の動きとして見る判断につながります。彼の批評が過去の作品を保存するだけでなく、次の発展方向を強く選び出していたことが分かります。「次の絵画」を見つけようとする行為は、それまで支持してきた作家の表現も再評価することにつながります。優れた新しさが様式として定着すると、批評家はその後の発展をどう測るかという問題に直面します。(参照:シカゴ大学出版局|グリーンバーグ批評集)

1964年「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」展

1964年4月23日、ロサンゼルス郡立美術館で、グリーンバーグが企画した「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」展が開幕しました。展覧会は同年6月7日まで開催され、その後ミネアポリスのウォーカー・アート・センターとトロントへ巡回しています。スミソニアンに残るカタログ記録から会期と企画者を確認できます。

展覧会では、抽象表現主義の重厚な筆触から距離を取り、色面の明快さや開放感を追究する画家たちが一つの傾向として紹介されました。批評家が名称を与えて作品を並べると、それまで個別に制作してきた作家たちの仕事が、観客に一つの新しい歴史として見えてきます。1964年展にはアメリカとカナダで活動する画家が参加しました。巡回先で観客が作品を直接比較できたことも、この名称が広まるうえで重要でした。展覧会は、批評の考えを空間の中で示す方法となったのです。(参照:スミソニアン|1964年展のカタログ記録)

色面絵画と展覧会の選択

1964年展をよく見ると、歴史の方向を示す批評と、それぞれ異なる目的で制作する画家の仕事との関係が見えてきます。

色を画面へ広げる画家たち

フランケンサーラー、モーリス・ルイス、ケネス・ノーランドの作品には、広い色面を重要な要素とする共通点があります。フランケンサーラーの色は布地へ浸透し、ルイスの色は重力に従って長く流れ、ノーランドの色は標的状の円や帯など明確な構成として展開します。同じ「色面絵画」という呼び名でも、画面に向かう方法は大きく違います。

グリーンバーグの批評は、その違いを踏まえながら、色を通した新しい視覚経験を一つの歴史として結びつけました。美術館で作品が並ぶと、観客は共通点を直感的に感じ取れます。その結果、画家がそれぞれ行っていた実験を、一つの時代の傾向として理解する視点が広がりました。色の広がりや輪郭の扱いは、支持体との関係を考えるうえで共通の話題になります。作品に近づき、線と面の端を見比べると、同じ抽象画でも塗り方や形の生まれ方が大きく異なることが分かります。(参照:ハーシュホーン美術館|モーリス・ルイス)

色面絵画とハードエッジの広がり

1964年展で扱われた新しい抽象には、にじむ色面だけでなく、はっきりした境界を持つ幾何学的な作品もありました。色を薄く広げる方法と、輪郭の正確さを強調する方法の双方に、従来の身振り的な筆触から距離を取る動きが見いだされたのです。

「ポスト・ペインタリー」という名称は、絵具を塗る行為が終わったという意味ではありません。絵具の厚い盛り上がりや情動的な筆触を画面の主役にする慣習の後で、何が可能かを探るという主張です。ワシントンやカナダを含むさまざまな地域の画家が、同じ展覧会にまとめられました。大規模な展覧会で一つの傾向として作品を見る経験は、個別の作家のアトリエで作品を見る経験とは異なります。批評上の名前が発表の場を得ることで、芸術運動の輪郭が社会に共有されていきます。(参照:スミソニアン|1964年展のカタログ記録)

画家の独自性と批評上の分類

グリーンバーグがまとめた作品群は、画家自身が同じ宣言に賛同して制作した団体の活動ではありません。フランケンサーラーが風景の記憶や絵具の流れを追い、ノーランドが色の配置と幾何学を追究していたように、制作の起点は作家ごとに異なります。

批評は共通点を見つけることで歴史を分かりやすくします。分類が定着すると、作家の作品のうち、その分類に当てはまる側面だけが強く知られる可能性もあります。作品の見た目だけでなく、制作の条件や画家の言葉、同時代の受容を読み合わせることが、批評の力を理解するうえで重要です。作品の歴史を理解するには、分類が役立つと同時に、分類からこぼれる表現を確認することも有効です。グリーンバーグが強調した形式以外に、作家の素材への関心や制作上の実験もあったことを見ておきたいところです。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|戦後抽象絵画と所蔵)

グリーンバーグの影響を受けた批評家たち

1960年代の批評には、グリーンバーグの方法を継承し、さらに発展させようとする書き手が現れました。

批評の方法が次世代へ受け継がれる

グリーンバーグの批評の特徴は、作品の色、構図、材料、空間の関係を綿密に観察し、過去の絵画と比べることにあります。この方法は1960年代、マイケル・フリードやロザリンド・クラウスら若い批評家に影響を与えました。スミソニアンの人物資料にも、当時の彼らとの関係が記録されています。

作品の形式を詳しく記述することは、作家の伝記や社会的な話題から一度距離を取り、目の前の画面から議論を始める方法でもありました。そこには強い分析力があります。さらに、その訓練を受けた人々が別の作品へ向き合うとき、以前の評価軸では説明しにくい新しい問題も明らかになっていきました。作品の形式を論じる伝統は、グリーンバーグの考え方を批判した美術史家にも共有されました。影響力は主張への賛同だけで測られるものではなく、その問いが後の議論の基礎として残ることにも現れます。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

マイケル・フリードと新しい絵画の擁護

マイケル・フリードは、1960年代にフランク・ステラ、ケネス・ノーランド、ジュールズ・オリツキーらの作品を論じました。画面の形や内部構成を厳密に読み、その経験が絵画としてどのように成立するかを考えます。グリーンバーグのモダニズム理論を受け継ぎながら、自分の言葉で分析を発展させた批評家です。

フリードにとって、作品が観客にどう現れるかは重要な問題でした。画面の形、色の関係、見る経験の集中が、作品の価値を成立させます。その議論は、やがて展示空間と鑑賞者の身体を強く意識させるミニマリズムとの論争へ向かいます。フリードの文章を読むと、個別の色面や構成を細かく述べる記述が、作品の評価を支えることが分かります。その厳密さが、ミニマリズムとの論争でさらに先鋭化しました。(参照:シカゴ大学出版局|マイケル・フリード『芸術と客体性』)

アンソニー・カロの彫刻と媒体の問題

グリーンバーグの影響は絵画に限られませんでした。1960年代、彫刻家アンソニー・カロの溶接した金属による抽象彫刻も、批評家たちにとって重要な対象になります。カロは台座を離れ、床に置かれた色付きの金属部材の関係によって、空間の広がりを見せました。

フリードはその彫刻を高く評価し、部材の配置が一つの造形的な関係として立ち上がることを重視します。同時代には、より単純な工業製品的形態を用いるミニマリズムの彫刻も展開しました。立体作品をどのような経験として見るかという問題は、1960年代の批評を分ける大きな論点になっていきます。カロの彫刻は鉄の部材が互いに関係し合う作品であり、彫刻という媒体の可能性を考える好例です。同時代には工業製品の反復を用いた立体作品も広がり、彫刻のあり方をめぐる議論は一層活発になりました。(参照:シカゴ大学出版局|マイケル・フリード『芸術と客体性』)

1960年代|絵画と日常の境界が動く

グリーンバーグが各芸術の固有の手段を重視するあいだに、多くの作家は日用品や印刷物を作品へ持ち込みました。

ラウシェンバーグのコンバイン

ロバート・ラウシェンバーグの「コンバイン」は、絵具のある画面へ新聞、写真、布、寝具、剥製などの現実の物を組み込んだ作品です。壁に掛ける絵画でありながら、床や実空間へ突き出す要素を持つ場合もあります。画面は色や線の関係を示すと同時に、都市生活から来た情報や物の集積にもなります。

この作品を絵画固有の平面性だけで評価すると、新聞や布をなぜ必要としたのかという問いが残ります。現実の物が画面へ入ることで、制作と生活、絵画と彫刻、画像と物体の関係そのものが主題になります。グリーンバーグの歴史モデルが扱いにくい重要な作品群でした。印刷物や物体を持ち込む方法は、画面を情報が行き交う場所として考える視点へつながります。こうした作品を評価する言葉は、1960年代後半のスタインバーグの議論で新たな展開を見せました。(参照:ラウシェンバーグ財団|研究文献とスタインバーグ)

ジャスパー・ジョーンズの国旗と記号

ジャスパー・ジョーンズの《旗》は、木製支持体に布や新聞、蝋を混ぜた絵具を重ね、アメリカ国旗の形を描いた作品です。表面の素材や平らな構図は、絵画という物のあり方を強く意識させます。同時に、国旗は誰もが知っている社会的な記号であり、画面の外にある意味を作品へ持ち込んでいます。

そのため《旗》では、形と色を純粋な視覚関係として見ることも、国家の記号として読むこともできます。ジョーンズの作品が示したのは、絵画の形式を追究することと、日常社会の意味を扱うことが一つの画面で重なり合う可能性でした。形式を優先する美術史の説明に、別の問いを生み出した作品です。《旗》は、見る人が知っている図柄を用いることで、絵画を一枚の画像と考えるか、物体として扱うかという問題も生み出します。見慣れた記号を描くことが、絵画についての根本的な問いになっています。(参照:ナショナル・ギャラリー|1950年以降の美術資料)

ポップアートが大衆文化を取り込む

アンディ・ウォーホルは商品パッケージや映画スターの写真を反復し、ロイ・リキテンスタインは漫画の網点と輪郭線を大画面の絵画へ変えました。広告や新聞、映画という大衆文化が、美術館で鑑賞される作品の中心的な素材になります。1939年にグリーンバーグが前衛とキッチュを区別して考えた状況とは、大きく異なる展開でした。

ここで扱われた大衆文化のイメージには、複製、商品価値、消費、作者性についての問いが含まれていました。商業的な画像を利用しながら、その仕組みを美術の側から考えさせる作品が生まれたのです。1960年代の新しい表現を読むには、絵画の内部の形式に加え、画像が社会で流通する方法も必要になります。印刷や写真の技術が広がった社会では、画像が繰り返し現れること自体が日常的な経験になります。ポップアートはその環境と密接に関わり、モダニズム批評が外側に置いた世界を再び美術の議論へ呼び込みました。(参照:MoMA|「アヴァンギャルドとキッチュ」を考える)

ミニマリズムとの対立

1960年代半ば、作品の存在する実空間と鑑賞者の移動を重視する美術が、モダニズム批評に新しい課題を突きつけました。

作品と展示室を一緒に経験する

ドナルド・ジャッドやロバート・モリスらの作品では、単純な箱状の構造、反復する部材、工業素材などが使われます。形の数を減らして作品を明快にする方法であり、観客が作品の周囲を歩き、距離を変えることで見え方が変わります。展示室の床、壁、光、身体の大きさが鑑賞経験に関わります。

この考え方は、絵画を一枚の画面として見るだけの経験とも、台座上の彫刻を閉じた形として眺める経験とも異なります。作品が独立した美的関係として完成しているというモデルに対し、周囲の環境を含む経験を作品の中心に置く傾向が強まりました。鑑賞者が歩くことで作品の見え方が変わると、時間も作品経験の一部になります。ミニマリズムをめぐる論争は、造形物としての作品と、それを見る身体の関係をどう考えるかという問いでした。(参照:ナショナル・ギャラリー|1950年以降の美術資料)

1967年フリード「芸術と客体性」

1967年、マイケル・フリードは『アートフォーラム』誌に「芸術と客体性」を発表しました。彼はミニマリズムの作品が、鑑賞者との距離や展示空間、時間の経過に強く依存することを「演劇性」という言葉で批判しました。作品の内部で成立する充実した経験を守ろうとする、モダニズム的な立場からの論争です。

シカゴ大学出版局が刊行するフリードの批評集にも、この論文が主要な文章として収録されています。グリーンバーグの考え方は1960年代に影響力を失い始めると同時に、フリードらの文章を通してさらに鋭く理論化されました。激しい対立が起こったこと自体、複数の評価基準が同時に存在した時代を示しています。フリードの立場を知ることで、ミニマリズムが単に形を単純にした美術として受け止められていたわけではないことが分かります。批評家同士の強い意見の差が、作品の新しさをめぐる議論を発展させました。(参照:シカゴ大学出版局|マイケル・フリード『芸術と客体性』)

絵画と物体の境界をめぐる争点

ミニマリズムの作品では、工場で作られたような整った形や、見る人の身体を基準とした大きさが重要です。それをグリーンバーグ的な「絵画」「彫刻」という媒体の区別へ当てはめると、作品が何を問いかけているかを捉えにくくなります。物体としてそこにあること自体が、作品の目的の一部だからです。

フランク・ステラの黒い絵画や変形キャンバスも、絵画がどこまで物体に近づけるかを考えさせました。作品が薄い平面なのか、厚みを持つ物なのか、空間をどのように占めるのか。新しい芸術は、媒体を分ける線そのものへ関心を向けていきました。ステラの作品では、画面の形が描かれた線や色の位置と緊密に結びついています。絵画の端や厚みを考えることが、作品の内部と外部をどこで分けるかという問題につながっていきました。(参照:MoMA|フランク・ステラ)

別の基準を求めた批評

新しい作品を説明するために、1960年代末には美術批評の基本的な枠組みも問い直されます。

1968年|レオ・スタインバーグの講演

美術史家レオ・スタインバーグは1968年、ニューヨーク近代美術館で「別の評価基準」と題する講演を行いました。後に1972年の著作へ発展したこの議論は、グリーンバーグのモダニズム論とは違う角度から20世紀美術を見るための試みです。ラウシェンバーグの作品のように、外部から来た画像や情報を積み重ねる絵画を重要な例として取り上げます。

グリーンバーグが絵画の平面性から近代美術を考えたのに対し、スタインバーグはその平面が何を受け取る場所となっているかを問い直しました。議論の焦点を変えることで、以前の基準で周辺に置かれがちだった作品が、美術史の中心的な事例として見えてきます。「別の評価基準」という題名は、当時のモダニズムの基準を知っている読者にとって鮮やかな問題提起でした。批評は何を基準に作品を見るのか、その基準は新しい作品によって変更され得るのかを問いかけています。(参照:ハーバード大学|スタインバーグのフラットベッド論)

「フラットベッド・ピクチャー・プレーン」とは

スタインバーグは、机や印刷機の台のように、物や情報を置くための水平な面を手がかりに「フラットベッド・ピクチャー・プレーン」という概念を示しました。風景画のように人が正面から見る世界を描く平面から、写真、文字、書類、物が集まり蓄積される平面へと、絵画の性格が変化したと考えます。

ラウシェンバーグの作品では、画面は自然をのぞく窓というより、都市から受け取った情報を組み合わせる作業台のように働きます。絵画が平らであることの意味も変わります。グリーンバーグの「平面性」を引き継ぐ言葉を使いながら、作品の外部世界との関係へ視点を広げた議論でした。机や印刷機の台という比喩は、画面が人間の視野を写す場所から、画像や文字が置かれる場所へ変化したことを説明します。日常の情報環境と絵画がどう交わるかを考えるうえでも重要な発想です。(参照:ハーバード大学|スタインバーグのフラットベッド論)

評価基準の複数化が意味すること

スタインバーグの議論は、グリーンバーグが示した歴史の見取り図に対し、別の可能性を明らかにしました。作品が新聞や写真を貼り付ける理由、絵画と情報の関係、見ることと読むことの重なりなどを、新たな評価の対象にできます。

同時期には、ポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアル・アート、パフォーマンスなど、多様な制作が展開していました。芸術の発展を一つの本流へ整理する見方と、作品ごとに必要な基準を探る見方が並ぶようになります。批評の言葉自体が更新されることも、現代美術の歴史の一部です。複数の基準が並び立つことによって、作品が多様な歴史の中に位置づけられるようになります。その一つ一つがどんな作品を説明しやすくし、どんな作品を見落としやすいのかを確かめる姿勢が大切です。(参照:シカゴ大学出版局|スタインバーグ『別の評価基準』)

1970年頃|隆盛から相対化へ

グリーンバーグの批評は、戦後美術の一時代を形づくりました。1970年頃には、その理論と判断をめぐる状況が大きく変わっていました。

なぜグリーンバーグの権威は揺らいだのか

1950年代から1960年代初頭、グリーンバーグは現代絵画を評価する最も影響力の大きい批評家の一人でした。ポロックを高く評価した実績、近代絵画を一貫した歴史として説明する理論、展覧会企画や作家紹介を通した働きが、その権威を支えました。

1960年代末には、ラウシェンバーグやポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアル・アートなどが、美術の主要な動きとなります。彼の理論では中心に置きにくい作品を、別の批評家たちが積極的に評価し始めました。グリーンバーグの影響が消えたというより、美術の価値を説明する唯一の有力な物語としては機能しにくくなったことが大きな変化です。現在でもグリーンバーグの理論は近代美術史の重要な資料として読まれています。強い影響力を持った時代の事情と、後に批判が生まれた理由の双方を理解することで、その文章を歴史的に位置づけられます。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

ロザリンド・クラウスと批評の世代交代

ロザリンド・クラウスは、1960年代にグリーンバーグやフリードのモダニズム批評から影響を受けた批評家の一人です。その後、写真、彫刻、複製技術などへ視野を広げ、1970年代にはグリーンバーグとは異なる歴史の説明を発展させました。批評方法を学んだ次世代が、その限界を見いだすという変化が現れます。

グリーンバーグの批評は新しい作品に厳密な言葉を与えたため、継承する側にも強い訓練を残しました。同時代の芸術が変化すると、後継者たちは以前の理論を補い、時には批判する必要に直面します。影響力の大きな思想ほど、次の世代の批判によって姿を変えていくことが分かります。若い批評家たちの変化は、作品の評価が完成した制度として固定されることの難しさを示しています。美術史は時代ごとに書き換えられ、過去の作品から新たな価値が発見されることがあります。(参照:スミソニアン美術史資料館|グリーンバーグ略歴)

1974年の彫刻改変論争と、現在読む意味

1970年より後の出来事ですが、デイヴィッド・スミスの彫刻をめぐる論争はグリーンバーグの権威を考えるうえで重要です。スミスの死後、遺産管理に関わったグリーンバーグは、白く塗られた彫刻5点から塗装を取り除かせました。彼はそれを作者の意図に近づける処置と判断しましたが、作家の死後に作品の状態を変える権限が問われました。

保存研究では、当時の支持者や反対者の主張、材料の状態、作者の意図をめぐる資料が検討されています。美術批評の影響が大きくなるほど、作品の見方だけでなく、作品そのものをどう扱うかという倫理的問題も生じます。グリーンバーグの歴史は、作品を評価する言葉の力と、その判断の限界を学ぶために今も重要です。この論争は1970年までの本筋より後に起こりましたが、作品の状態を決める権限が誰にあるのかという問題を鮮明にしました。現代の美術館で重視される作品保存と来歴研究にもつながる問いです。(参照:オックスフォード大学|デイヴィッド・スミス彫刻の改変研究)

批評が見落としたもの|美術史の選別と排除

女性抽象芸術家の制作と評価の隔たり

1950年代のニューヨークで抽象絵画を制作していたのは、ポロックやデ・クーニング、ロスコのような男性画家たちだけではありません。リー・クラスナー、ジョアン・ミッチェル、ヘレン・フランケンサーラー、グレース・ハーティガン、エレイン・デ・クーニングなど、多くの女性芸術家がそれぞれの方法を探っていました。クラスナーは1940年代後半の「リトル・イメージズ」で微細な筆触や書字的な構成を発展させ、ミッチェルは大きな画面に色彩と動勢を組み立てました。作品の充実に比べ、同時代の展覧会、画廊契約、報道、評論での扱いには差が存在しました。

ホイットニー美術館の研究は、抽象絵画の市場が成立するにつれて、収集家や美術館が少数の作家へ注目を集中させ、女性芸術家による独自の抽象表現が美術史上で軽視されていったことを指摘しています。そこではグリーンバーグも、抽象美術に理解を示した批評家として登場します。彼を当時の性差別の唯一の原因とみなす根拠はありません。検討すべきなのは、批評、販売、収蔵の機会が連動し、誰の作品が「新しいアメリカ絵画」の代表として記録されたのかという過程です。強い批評的評価は重要な作家を可視化する力を持ち、選ばれなかった制作を歴史の後景へ押しやる力も持っていました。(参照:ホイットニー美術館|アメリカの女性抽象芸術家の歴史)

ノーマン・ルイスと抽象絵画の歴史

ノーマン・ルイス(1909–1979)は、1940年代後半に具象的な社会主題から抽象的な画面へ向かい、同時代のニューヨークの画家たちと交流していました。ニューヨーク近代美術館の作家解説によれば、1946年からウィラード画廊で作品を発表し、1950年のスタジオ35で行われた芸術家討論にも参加しました。この討論に参加した黒人芸術家はルイス一人でした。彼が活動していたハーレムの芸術家組織や黒人文化の歴史と、抽象画家としての仕事は、同じ人生の中にあります。

グリーンバーグの形式主義は、画面の色彩、線、構成を細かく論じる方法を提供しました。その評価の枠組みでは、作品と作家の社会的位置を取り上げる必然性が弱まりやすくなります。近年の研究は、ルイスの抽象絵画に含まれる黒人文化、社会的暴力、都市生活の手がかりを読み直し、「普遍的な視覚経験」を中心にした批評が何を見落としてきたかを検討しています。ルイスの経歴をグリーンバーグ一人が妨げたと断定することはできません。美術史が選別した作品群に立ち戻り、その外側で同時に制作されていた作家の存在を確かめることが必要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|ノーマン・ルイス)

形式の普遍性という理念が持つ偏り

グリーンバーグは優れた絵画の価値を、物語の説明や作家の出自から距離を取った美的経験の中に求めました。この姿勢は、政治的な立場や国籍によって作品の価値が決められることを警戒する意味を持ちます。1939年の「アヴァンギャルドとキッチュ」には、政治体制や商業文化が芸術へ圧力を加える社会への批判が含まれていました。作品の視覚的な質を真剣に判断する方法には、今も重要な意義があります。

その「普遍的な眼」が、実際にはどの作家の経験を基準としていたのかという問題は残ります。美術史家の研究では、媒体の純粋性や抽象表現主義の普遍主義が、黒人芸術家の文化的・政治的な経験を評価する際にどのように働いたかが検討されています。ルイスやウィフレド・ラムの作品を歴史的背景と切り離して形式だけで読むと、その画面がどのような社会から生まれたのかが見えにくくなります。グリーンバーグの批評の強みは形式の精緻な観察にあり、その限界は形式以外の問題をどこまで価値判断に含められるかに現れました。(参照:オックスフォード大学出版局|グリーンバーグのモダニズムと脱植民地化の美術史)

批評家の権威|評価が制作と制度に届くとき

批評文、紹介、収集という複数の役割

グリーンバーグの影響力は、書いた評論が読まれたことによって成立しただけではありません。画家が誰と出会うか、どの作品が収集家や美術館へ紹介されるか、どの作品が展覧会へ選ばれるかという実際の活動にも関わっていました。1953年にモリス・ルイスとケネス・ノーランドをヘレン・フランケンサーラーのアトリエへ案内した出来事は、批評家が制作上の変化を生む人的な経路に参加していたことを示します。1950年代以降、グリーンバーグは色面絵画を評価し、その成果を過去のモダニズム絵画の系譜の中へ位置づけていきました。

この働きには、十分に知られていなかった作品を人々へ届ける積極的な役割があります。同時に、作品を評価する人物がその作品を見せる機会を組織すると、審美的な判断と美術界での機会配分が重なっていきます。画家たちは独自の研究を持って制作しており、グリーンバーグがその仕事を代わりに作ったという説明は適切ではありません。評価の言葉と実際の紹介が同じ人物に集まることで、批評家の好みが美術史を編成する力を持つようになったことが重要です。(参照:スミソニアン美術史資料館|クレメント・グリーンバーグ文書、略歴)

画家自身の選択と批評家の期待

フランケンサーラーは《山と海》(1952年)で、薄めた油絵具を未処理のキャンバスに流し込み、にじみと色の重なりによって独自の空間を作りました。彼女の制作には、訪れたノバスコシアの風景の記憶や水彩画的な感覚など、画家自身の具体的な経験が含まれています。グリーンバーグはその表現を、絵画の平面性や視覚性が進む歴史として高く評価しました。画家の制作と批評家の解釈が重なり合いながら、別々の関心も持っていたことが分かります。

グリーンバーグの理論が強くなると、画家の実践は絵画史の「正しい発展」を証明する作例として読まれやすくなります。本人が取り組んでいた記憶、身体、素材の偶然や、具体的な生活の感覚は、批評の中心から外れる場合があります。批評が描く一つの方向と、制作が含んでいる複数の問題との距離を考えることは、グリーンバーグの長所と短所を評価するうえで欠かせません。(参照:スミソニアン美術史資料館|クレメント・グリーンバーグ文書、略歴)

「私には分かる」という判断の権力

グリーンバーグが大切にした「質」の判断は、作品を実見したときの経験に基づいています。理論に当てはまる作品なら無条件に優れているとしたわけではなく、個々の絵画の出来栄えを見分けようとしました。この批評姿勢は、目の前の作品を細部までよく見る態度を育てました。厳しい選別が説得力を持つのは、実際の作品に触れた経験と明確な評価を示していたからです。

難しさは、その判断を誰が検証し、異なる見方をどう扱うかにあります。すぐれた批評家として認められるほど、個人の好みと芸術の普遍的な質との境界が曖昧になることがあります。グリーンバーグ自身の理論に沿わない新しい作品が現れたとき、別の批評家が独自の評価基準を提示したのは自然な展開でした。そして、彼が親しく支持してきた彫刻家デイヴィッド・スミスの遺作へ直接介入した事件では、批評家の判断が実物の作品を変える力へ踏み込んでいきます。(参照:スミソニアン美術史資料館|クレメント・グリーンバーグ文書、略歴)

デイヴィッド・スミス|彫刻の色は何を担っていたか

溶接された鉄と、絵画から来た色彩

デイヴィッド・スミス(1906–1965)は、鉄を溶接して幾何学的な形や人物を思わせる彫刻を作った芸術家です。1920年代末には絵画を学び、後に鉄を使うようになっても、形を色彩から切り離して考えてはいませんでした。溶接した部品を空間へ配置し、表面に何層もの塗料を重ねて仕上げる方法は、彫刻と絵画を横断する彼自身の制作の一部でした。野外に置かれた作品は光や天候によって見え方が変わり、塗装には金属を保護する物質的な役割もありました。

保存修復研究者リチャード・マルホランドによれば、スミスは塗料の下地から仕上げまで多層の工程を重視し、工業製品よりも丁寧な塗装を作品に施すことがありました。色は彫刻に最後に添える装飾の一つとして済ませられる要素ではありません。塗料の厚み、光沢、筆の痕跡、風景との関係が造形全体へ関わっていました。グリーンバーグがスミスの作品を熱心に支持したことと、作品に塗られた色をどう評価したかを分けて見ると、後の事件がなぜ重大だったのかが具体的に理解できます。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

グリーンバーグが問題視した色の使用

グリーンバーグはスミスの彫刻を戦後アメリカの重要な成果として評価した批評家の一人でした。その関係は20年以上続き、友人としても作品の制作や発表へ関わっていました。ところが、スミスが彫刻の表面へ色を塗ることについては、繰り返し否定的な見方を示していました。保存修復研究には、1951年にグリーンバーグが、スミスから贈られた多色の彫刻を黒く塗り直す許可を求めた手紙や、1964年にスミスの色彩使用の成果を疑問視した文章が紹介されています。

この対立は、グリーンバーグの美学と深く関わっていました。鉄の形と周囲の空間によって成り立つ彫刻に対して、塗られた色が別の効果を加え、形の明瞭さを損ねると感じていたのです。スミス自身は色の重なりと物質的な表面を重要な制作要素として扱っていました。二人の見解の違いは美術批評として議論できるものです。批評家が作品を好まないことと、その表面を作品の所有者や管理者として変更することの間には、決定的な距離があります。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

1961–1963年、白い状態で残された彫刻

スミスは1961年から1963年にかけて制作した複数の大型鉄彫刻を白く塗り、ニューヨーク州ボルトン・ランディングの屋外へ置いていました。彼が1965年に亡くなった後、これらの作品の一部は白いまま残されます。遺産管理側の記録では、亡くなった時点で白い塗装をまとっていた作品は8点とされます。そのうち5点が後に塗装を取り除かれることになりました。たとえば1962年作《Primo Piano III》には、1970年2月に白い状態で撮影された写真と、1973年1月に塗装が取り去られ錆びた状態を記録した写真が残っています。

スミスが白を完成色と考えていたかについては慎重な検討が必要です。1963年にロバート・マザウェルとヘレン・フランケンサーラーへ送った手紙では、下塗りされた彫刻に白を塗った後で、さらに色を重ねる意向を記しています。完成までの途中段階だった可能性が高い作品でも、白い絵具そのものは作家の手による制作過程の一部でした。最終形が未確定であることと、すでに存在する表面を取り除いてよいことは、別の問題として考えられます。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

塗装除去事件|批評家の判断が作品を変えた

1970年代初頭、白い塗装を剥がす

スミスの死後、遺産管理執行人の一人となったグリーンバーグは、白く塗られた彫刻の一部について、塗装を除去するよう指示しました。保存修復研究によれば、スミスの助手だったレオン・プラットに塗料を取り去らせ、しばらく金属を錆びさせた後、表面を保護する処理を行わせたのです。この工程はスミスが別の彫刻群で採用していた仕上げ方法に近く、グリーンバーグは作者の作品へ勝手に新しい色を塗ったのではありません。作者が残した白い塗装を剥がし、露出した鉄を錆びさせて表面を仕上げ直したことが問題の核心です。

写真記録から、少なくとも《Primo Piano III》は1970年2月には白く、1973年1月には塗装のない錆びた状態になっていたことが分かります。制作中に作家が選んだ塗装工程を、亡くなった後に別の人物が変更した事実は消えません。色彩への評価が厳しかったグリーンバーグ自身がこの作業を決めたことは、批評的な好みを作品の物質的な姿へ及ぼしたのではないかという強い疑問を生みました。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

グリーンバーグ側の説明と、残された資料

グリーンバーグの説明では、白い塗装は劣化が進んだ仮の下塗りであり、スミスはそれを最終形として残すつもりではなかったとされます。本人がまだ制作を続けていれば、白を取り去り、金属の性質を生かした仕上げに進んだだろうという理解です。彼が長年スミスの制作を知っていたこと、スミスが別の作品で錆と保護塗装を用いたことを支持材料としました。当時の批評家や美術館関係者にも、この解釈を支持する人々がいました。

重要な反証として、スミス本人が1963年に、下塗りの上へ白い塗料を重ね、さらに色を塗るつもりだと説明した手紙があります。保存調査でも、実際の下塗りと白い塗装の層は区別されています。白い部分が未完成の段階にあったとしても、作家が自ら施した塗料には制作過程を示す意味がありました。グリーンバーグが主張した「作者の意図」と、記録から確認できる作者の作業のあいだには隔たりが存在します。さらに、共同執行人のロバート・マザウェルと弁護士アイラ・ロウは、この処置について事前に相談を受けていなかったと研究で報告されています。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

1974年、クラウスが公然と批判する

1974年、『Art in America』誌の9–10月号で批評家ロザリンド・クラウスは「Changing the Work of David Smith」を発表し、スミスの作品の表面が改変されていたことを問題にしました。グリーンバーグの後の世代にあたり、初期にはその形式主義から影響を受けていたクラウスが、作家の死後に行われた具体的な物質的変更を批判したことには、大きな意味がありました。論争の対象は批評文の好みや評価順位から、作家本人が制作した作品の現存する状態へ移っています。

クラウス側から見れば、作家が白く塗った表面を取り除けば、そこに刻まれていた制作の痕跡も失われます。作品の管理を委ねられた人物が、その権限を根拠に作品へ介入してよいのかという問題です。当時の論争にはグリーンバーグを擁護する立場も存在しました。研究者マルホランドは、双方の主張を紹介したうえで、批評家自身の造形上の判断を、故人の確定的な意思として扱う難しさを指摘しています。(参照:ノーサンブリア大学|リチャード・マルホランド、デイヴィッド・スミス彫刻の改変と修復(2014年))

論争の帰結|辞任、再修復、作品保存の倫理

支持と反論が分かれた理由

塗装除去が明らかになると、スミスの作品を知る美術関係者のあいだでも意見が分かれました。ニューヨーク近代美術館で絵画・彫刻部門の責任者だったウィリアム・ルービンらは、スミスが白い塗装を好まなかったという自身の記憶からグリーンバーグの判断を擁護しました。別の関係者は、作者が到達するはずだった完成形を推測するより、最後に残された作品の状態と制作の痕跡を尊重すべきだと考えました。彫刻家ビヴァリー・ペッパーは、芸術家が到達した最終結果とともに、その研究の途中段階にも価値があると問いかけています。

その対立を考えるうえで、スミスが1960年に、ある所有者によって自身の彫刻から塗装が除去されたことを公然と批判した記録も重要です。スミスは一方で、別の作品には塗装をやり直すための指示も残していました。屋外彫刻の塗膜は傷みやすく、修理や塗り直しが必要になる場合があります。個々の作品に残された証拠と作者の判断を見極めずに、一つの仕上げ方法をすべてへ適用することが問題になります。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

1979年の辞任と1997年の再修復

論争はグリーンバーグの権威に深い傷を残しました。彼は1979年にデイヴィッド・スミスの遺産管理執行人を辞任し、その後、作品の管理にはスミスの娘たちが関わるようになります。遺産管理側は、改変を受けた作品を、スミスの死去時により近い白い状態へ戻す方針を選びました。1997年の再修復では、元の塗膜の残留物を分析し、白い塗装を持ったまま保存されていた関連作品も調べたうえで、新しい塗料によって白い表面が再現されました。

修復家アラン・ファランツの検討では、グリーンバーグによる錆と保護塗装の処理が、スミス自身が別の作品で用いた工程と一致する部分も確認されています。それでも、もともとの白い塗装を除去した結果、スミスの手によるその塗膜を完全に取り戻すことはできません。再修復で見た目を近づけることは可能でも、作品がたどった物質的な歴史を巻き戻すことはできないのです。(参照:リチャード・マルホランド|デイヴィッド・スミス彫刻の改変と作者の意図(研究論文))

批評と管理の境界|作家の意思を誰が語るのか

この事件の問題は、グリーンバーグという一人の批評家の性格を評価して終わるものではありません。批評家が作品の美しさや完成度について強い意見を持つことは、美術批評の重要な役割です。遺産を管理する立場でその好みを実物に反映させれば、批評と作品保存の境界が失われます。グリーンバーグはスミスの仕事を長く擁護し、彼の制作を近代彫刻の歴史へ位置づけました。その大きな功績と並んで、作家の死後に作者の手が加わった表面を取り去らせた行為は、厳しく検証され続ける必要があります。

現代の保存修復では、色の層、塗り重ね、劣化、記録写真、作者の手紙、過去の処置の履歴など、異なる証拠を照合して判断します。スミスの作品の場合、白い表面は未完成の可能性を残しながら、作者が実際に到達した制作段階を伝えています。再修復後の白は、保存資料にもとづいて再現された新しい塗膜です。どの状態を重視するかについて研究上の議論は続きます。この複雑さを含めて説明することが、グリーンバーグの限界を正面から扱う美術史の記述になると考えられます。(参照:ノーサンブリア大学|リチャード・マルホランド、デイヴィッド・スミス彫刻の改変と修復(2014年))

年表|グリーンバーグと近代美術批評

作品の制作と批評の発表は、互いに影響しながら進みました。主な出来事を時間の流れに沿って整理します。1970年以降の二項目は、批評家の権威を考えるための後日談です。

  1. 1909 ニューヨークのブロンクスにクレメント・グリーンバーグが生まれる。
  2. 1930 シラキュース大学を卒業。
  3. 1939 『パーティザン・レビュー』に「アヴァンギャルドとキッチュ」を発表。
  4. 1940 「新しいラオコーンに向けて」を発表。『パーティザン・レビュー』の編集にも携わる。
  5. 1942 『ネイション』で定期的に美術展評を担当し始める。
  6. 1943 ポロックの初個展を批評し、その可能性を高く評価する。
  7. 1945 ポロックの個展に対してさらに強い支持を表明。
  8. 1947 ポロックが滴下・流し込みによる絵画を本格的に展開する。
  9. 1948 ニューマン《Onement I》、デ・クーニング《Painting》などが制作される。
  10. 1950 フランケンサーラーとグリーンバーグが知り合う。
  11. 1952 フランケンサーラー《山と海》。ローゼンバーグが「アメリカのアクション・ペインターたち」を発表。
  12. 1953 グリーンバーグがルイスとノーランドをフランケンサーラーのアトリエへ案内。
  13. 1955 「アメリカ型絵画」を『パーティザン・レビュー』に発表。
  14. 1960 「モダニズムの絵画」を発表。
  15. 1961 批評集『芸術と文化』を出版。
  16. 1962 「抽象表現主義以後」を発表。
  17. 1964 ロサンゼルスで「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」展を企画、巡回。
  18. 1967 フリードが「芸術と客体性」を発表し、ミニマリズムを批判。
  19. 1968 スタインバーグがニューヨーク近代美術館で「別の評価基準」を講演。
  20. 1960年代末 ポップアート、ミニマリズム、コンセプチュアル・アートなどの展開によって批評の基準が複数化。
  21. 1970年頃 グリーンバーグの批評は重要な参照点であり続けながら、同時代美術の評価を主導する独占的な位置を失っていく。
  22. 1974(後日談) デイヴィッド・スミスの彫刻の塗装除去をめぐる論争が表面化する。
  23. 1979(後日談) グリーンバーグがスミス作品の遺産管理執行人を辞任。
  24. 1997(後日談) デイヴィッド・スミス遺産管理側が、塗装除去を受けた彫刻の白い塗膜を資料と残留物分析に基づき再修復。

まとめ|作品を見る基準を問い直す

この批評家の影響を考えるには、優れた画家を早くから評価した眼と、自分の価値判断を作品に対して強く行使した姿勢をともに検討する必要があります。女性・黒人芸術家を含む同時代の幅広い制作が、少数の作家を中心とする歴史に整理された過程も重要です。1970年代のスミス彫刻の塗装除去では、批評家の美的判断が作者の死後の実物に及びました。保存研究が示すように、その処置は作家の意図をめぐる論争と再修復につながっています。

グリーンバーグは1939年、前衛芸術と大衆文化の関係を政治や社会の問題として考え始めました。1940年代には実際の展覧会で新しい画家を評価し、1950年代にはアメリカの抽象絵画をヨーロッパ近代美術の歴史へ位置づけます。1960年の「モダニズムの絵画」は、近代絵画を平面性や自己批判の歴史として説明し、1964年の展覧会は、次の世代の抽象を一つの傾向として広く見せる役割を果たしました。

その影響力は、絵画の見た目を説明する言葉に加え、画家を紹介する行為、作品を並べる展覧会、画廊や美術館との関係から生まれました。批評家が一つの歴史を示すと、ある作品の価値が明確になると同時に、その歴史から外れる作品も生じます。1960年代後半、ラウシェンバーグやポップアート、ミニマリズムが広がり、作品を理解するための評価基準は複数になりました。

現在グリーンバーグを読む意義は、彼の判断をそのまま正解とすることにあるというより、作品の形式を徹底して観察し、その価値を歴史の中で説明しようとする方法を学ぶことにあります。そして、その方法が何を明らかにし、何を見えにくくしたのかを確かめることも大切です。美術の歴史は作品とともに、作品を見るための言葉が変わり続ける歴史でもあります。

参考資料・出典

本記事はグリーンバーグの同時代の評論、美術館の作品資料、大学・研究機関の収蔵記録、現代の美術史研究を参照して構成・執筆しました。本文中の各小節末尾から、対応する主な参照資料を確認できます。資料確認日までに公開されていた一次資料と研究を区別し、批評家の主張と後年の歴史的評価を照合しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY