Art Library
Art History

1939–1970

クレメント・グリーンバーグ

モダニズム批評の隆盛と限界

ここまでART HISTORYでは、Jackson Pollock、Willem de Kooning、Mark Rothko、Barnett Newman、Clyfford Still、Lee Krasner、Joan Mitchell、Helen Frankenthalerから、Robert Rauschenberg、Jasper Johns、Pop Artへと進んできました。しかし、これらの作品が「重要な美術」としてどのように説明され、同時代の観客へ届いたのかを考えると、作家だけを追うだけでは十分ではありません。批評家、画廊、美術館、展覧会、出版物が、作品の価値を語るための枠組みを作っていたからです。その中心にいた人物の一人がクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909–1994)でした。

グリーンバーグは、単に抽象絵画を好んだ批評家ではありません。1939年の「Avant-Garde and Kitsch」から1960年の「Modernist Painting」まで、近代美術そのものを一つの歴史的論理として説明しようとしました。各芸術が他の芸術から借りた効果を減らし、自分の媒体に固有の条件をより明確にする。絵画なら、矩形の支持体、平面性、色、視覚性といった条件を自覚する。その考えはPollockやColor Field paintingを理解する強力な理論となり、1950年代から60年代に大きな影響力を持ちます。

しかし1960年代には、同じニューヨークでまったく別の作品が急増します。Rauschenbergは絵画へ新聞や寝具を入れ、Johnsは国旗や文字を描き、Warholは写真をシルクスクリーンで複製し、Oldenburgは商品を柔らかい巨大彫刻へ変えました。Minimalismでは作品と観客の実空間的な関係が重視され、Conceptual Artでは物質的な作品そのものさえ中心でなくなります。グリーンバーグが築いた枠組みが「間違いになった」というより、その枠組みだけでは同時代美術全体を覆えなくなっていった。この変化を追うことで、作品の歴史と同時に「美術史を語る方法の歴史」が見えてきます。

CONTENTS

  1. なぜここで批評家の記事を入れるのか
  2. 1939年以前 — 批評家になる前
  3. Partisan Reviewと反スターリニズム左派
  4. 1939年「Avant-Garde and Kitsch」
  5. 初期Greenbergは「政治を無視した形式主義者」ではない
  6. Kitschとは何だったのか
  7. Avant-gardeの自律性
  8. 1940年「Towards a Newer Laocoön」
  9. 各芸術は自分の媒体へ戻る
  10. 絵画に固有なものは何か
  11. 1942年 — The Nationの定期美術批評へ
  12. 1943年 — Pollockを早くから評価する
  13. 1945年 — Pollockを世代の中心へ置く
  14. 批評家は作家を「作った」のか
  15. 理論だけでなく「質」の判断を重視する
  16. 1952年 — Harold Rosenbergという別の読み
  17. 作品の形式か、制作の出来事か
  18. Helen Frankenthalerとの関係
  19. 1953年 — LouisとNolandをFrankenthalerへつなぐ
  20. 批評は文章だけではない
  21. 1955年「American-Type Painting」
  22. アメリカ絵画をヨーロッパ・モダニズムの連続として見る
  23. Color Fieldへ向かう評価軸
  24. 触覚的な厚みより視覚的な広がりへ
  25. 1960年「Modernist Painting」
  26. モダニズム=自己批判
  27. Kantをモデルにする
  28. なぜ「平面性」が重要なのか
  29. 完全な平面を求めたわけではない
  30. Medium specificityという考え
  31. 記述なのか、規範なのか
  32. 1961年『Art and Culture』
  33. 1962年「After Abstract Expressionism」
  34. 1964年《Post-Painterly Abstraction》
  35. 批評家が展覧会で歴史を可視化する
  36. Frankenthaler、Louis、Nolandをどう位置づけたか
  37. 若い批評家へ広がる影響
  38. Michael Fried — Greenbergを継承しながら展開する
  39. 1960年代半ば — Minimalismとの衝突
  40. RauschenbergとJohnsが説明しにくい理由
  41. Pop Artが持ち込んだ外部世界
  42. 媒体の境界そのものが作品になる
  43. 1968年 Leo Steinberg「Other Criteria」
  44. Flatbed picture plane
  45. なぜ「他の基準」が必要になったのか
  46. 一つの本流では説明できない美術へ
  47. 1970年頃 — 影響力が消えたのではなく、独占できなくなる
  48. Rosalind Krauss — 内部からの離反
  49. 後日談:David Smith作品改変をめぐる1974年の論争
  50. 「失墜」と単純化しない
  51. それでもGreenbergを読む理由
  52. 美術史は作品だけでは作られない
  53. 1939–1970年に何が変わったのか
  54. 次の時代へ — Frank Stellaと絵画の反復
  55. 参考資料・出典

なぜここで批評家の記事を入れるのか

Pollockの記事で作品だけを見れば、床に置いたキャンバスへ絵具を流した画家です。しかし1940年代の時点で、その作品が「アメリカ絵画の重要な転換」として理解されるためには、それを言葉にする批評が必要でした。同様に、Frankenthaler、Morris Louis、Kenneth Nolandの絵画が後にColor FieldやPost-Painterly Abstractionという歴史へ整理される過程にも、批評家と展覧会が関与しています。

ここで注意すべきなのは、批評家が作品の価値を一方的に発明するという意味ではありません。優れた作品が存在していても、どの作品同士を比較し、過去の何と接続し、何を新しい問題として見るのかによって、その作品の歴史的位置は変わります。Greenbergはこの「接続の仕方」に極めて大きな影響を与えた人物でした。

1939年以前 — 批評家になる前

Greenbergは1909年にNew Yorkで生まれ、1930年代には詩や文学に関心を持ちながら、連邦政府の仕事にも就いていました。Smithsonian Archives of American Artの資料によれば、彼の本格的な批評活動は1930年代末に始まり、1939年の「Avant-Garde and Kitsch」が広く注目される最初期の重要論文になります。

後世のGreenberg像は抽象絵画の形式主義と強く結びついていますが、出発点は「どの絵画様式が美しいか」という狭い問題ではありませんでした。ファシズム、スターリニズム、大量文化が広がる1930年代末に、高度な文化がどのような条件で存続できるのかという政治・社会的な問題から議論を始めています。

Partisan Reviewと反スターリニズム左派

「Avant-Garde and Kitsch」が掲載された『Partisan Review』は、1930年代末に反スターリニズム的な左派知識人の重要な媒体でした。近年の『美学』掲載研究も、Greenbergの1939年論文を当時の『Partisan Review』内部の人民戦線、スターリニズム、芸術と政治をめぐる議論から切り離して読むべきではないと指摘しています。

つまり、後の形式主義だけを遡って1939年へ投影すると、初期Greenbergの問題設定を狭くしてしまいます。彼が求めた芸術の「自律性」は、社会から逃げることだけではなく、政治権力や市場が分かりやすい効果を要求する状況から、高度な文化を守るための条件として考えられていました。

1939年「Avant-Garde and Kitsch」

「Avant-Garde and Kitsch」は1939年秋、『Partisan Review』第6巻第5号に掲載されました。Greenbergはここで、avant-gardeとkitschを対置し、近代社会の中で前衛芸術がなぜ難解で自己反省的な方向へ進んだのかを説明しようとしました。MoMAも後年、この論文をモダニズムとavant-gardeの関係を考える基本テキストとして取り上げています。

Greenbergにとってavant-gardeは、単に新奇なものを好む集団ではありません。社会の既成価値から距離を取り、芸術そのものの条件へ意識を向けることで文化の水準を維持しようとする実践です。一方kitschは、大量生産社会の中で既成の効果や感情を容易に再生産する文化として批判されました。

初期Greenbergは「政治を無視した形式主義者」ではない

後年Greenbergは、作品の形式的な質を重視し、政治的内容を作品評価から切り離す批評家として知られるようになります。しかし1939年論文の成立事情を見ると、最初から政治を無視していたわけではありません。2024年の『美学』掲載研究は、彼のavant-gardeの自律性が、当時の資本主義社会やスターリニズム的文化政策に対する批判と結びついていたことを示しています。

その後Greenbergの文章から社会分析が徐々に後景化し、媒体や形式の歴史が前面へ出ていきます。この変化自体が重要です。「Greenberg=最初から最後まで同じ形式主義」という固定像より、1930年代末の文化政治的な問題から、1940–60年代のモダニズム理論へ重心が移っていく過程を見る必要があります。

Kitschとは何だったのか

Greenbergがkitschと呼んだものには、商業的大衆文化だけでなく、既成の形式や感情効果を反復し、見る側へ容易な満足を与える文化全般が含まれていました。彼にとって問題なのは「大勢が好きだから悪い」という単純なエリート主義だけではなく、文化が既成の公式によって生産され、受け手自身の能動的な経験を必要としなくなることでした。

ただし、この二分法は後に大きな問題を抱えることになります。Pop Artはまさに広告、漫画、商品イメージといった大衆文化をFine Artへ取り込み、Greenbergが分けようとした領域そのものを混ぜました。1939年に設定されたavant-garde / kitschという境界が、1960年代には作品側から揺さぶられることになります。

Avant-gardeの自律性

Greenbergは、avant-gardeが政治的宣伝や大衆的な娯楽の即効性から距離を取り、芸術の内部問題へ集中することを重視しました。この「自律性」は、やがて彼のモダニズム論の基礎になります。絵画なら、文学的な物語や彫刻的な錯覚を減らし、絵画でしかできない問題へ集中するという方向です。

ここから、モダニズムを「自由に何でもできる状態」ではなく、むしろ自分の条件を厳しく検証する過程として見るGreenberg独自の歴史観が形成されます。新しいものを作るために過去を破壊するのではなく、芸術が芸術であり続けるために不要な慣習を検討し続けるという考えです。

1940年「Towards a Newer Laocoön」

1939年論文の翌年、Greenbergは『Partisan Review』1940年7–8月号に「Towards a Newer Laocoön」を発表しました。Getty Research Instituteに残るGreenberg papersには、この論文の複数の草稿と掲載誌が保存されています。この文章で、後のmedium specificityへつながる議論がより明確になります。

Greenbergは、近代芸術が他媒体の効果を借りることから離れ、それぞれの芸術に固有な手段を検討する方向へ進んだと考えました。絵画が文学的な物語を説明し、彫刻のような立体感を錯覚させるより、色、線、平面といった絵画そのものの条件を前面に出すという歴史です。

各芸術は自分の媒体へ戻る

この考えはしばしば「純粋主義」と呼ばれますが、Greenbergの狙いは、絵画に一つの見た目を強制することだけではありませんでした。音楽、文学、絵画、彫刻が互いの効果を模倣する状態から、それぞれが自分の強みを発見するという歴史的な整理です。絵画は時間的な物語より、一度に見える視覚的な構造を持ちます。

ただし、後から見るとこの考えには大きな排除もあります。RauschenbergのCombineのように、絵画、彫刻、写真、新聞、物体を意図的に混ぜる作品は、「媒体を明確にする」という方向と逆へ進みます。Greenbergの理論が強力だったからこそ、1960年代の媒体横断的な作品との対立もはっきり見えるようになります。

絵画に固有なものは何か

Greenbergが最終的に絵画で最も重視したのは、支持体の平面性でした。色は彫刻や舞台にも存在し、矩形の境界も他の視覚媒体と共有できます。しかし、二次元の表面を基礎条件とすることは絵画に特有だと考えます。そのため近代絵画は、奥に本物の空間があるかのような錯覚を弱め、画面が一枚の平面であることを意識させる方向へ進んだと説明しました。

この歴史観によってManet、Impressionism、Cézanne、Cubism、Mondrian、Abstract Expressionismが一つの連続へ置かれます。作品の見た目は大きく違っても、「絵画が自分の条件をより明確にしていく」という一本の論理で接続できる。Greenbergの批評が強かった理由の一つは、この長い歴史を非常に明快に説明できたことです。

1942年 — The Nationの定期美術批評へ

1942年、Greenbergは『The Nation』で定期的に美術展をレビューするようになります。Smithsonian Archives of American Artの資料や当時の掲載記録から、1940年代を通してNew Yorkの展覧会を継続的に批評していたことが確認できます。ここでGreenbergは理論家だけでなく、実際の展覧会を見て同時代作家を選別する批評家になります。

この「その場で判断する」仕事は、後の歴史記述に大きな影響を与えました。現在では美術館に並ぶ作家も、1940年代には将来の評価が決まっていません。GreenbergはPollock、de Kooning、Arshile Gorky、Robert Motherwellらについて早い時期から評価を書き、その判断が後のNew York Schoolの歴史形成と重なっていきます。

1943年 — Pollockを早くから評価する

1943年、Peggy GuggenheimのArt of This CenturyでPollockの最初の個展が開催されます。同年11月の『The Nation』でGreenbergは、Pollockの大作を未完成さも含めて野心的で独自なものとして取り上げました。MoMAも、Pollockが1940年代初頭から評価を得る過程でGreenberg、Peggy Guggenheim、Betty Parsonsらの支持が重要だったと説明しています。

重要なのは、Greenbergが完成されたdrip paintingを見てからPollockを評価したのではないことです。床上で絵具を流す代表的な方法が確立する1947年より前から、Pollockの作品に他のアメリカ画家とは異なる可能性を見ていました。批評家としての評価能力が後に高く評価された大きな理由の一つです。

1945年 — Pollockを世代の中心へ置く

1945年4月、Pollockの二回目のArt of This Century個展について、Greenbergは『The Nation』で彼を同世代でもっとも強い画家と位置づけ、Miró以後に現れた重要な画家になり得るという非常に高い評価を与えました。後からPollockが戦後アメリカ美術を象徴する存在になることを考えると、この判断はGreenbergの批評家としての名声を大きく支えることになります。

しかし「GreenbergがPollockを発見した」という表現だけでは不十分です。PollockにはLee Krasner、Peggy Guggenheim、Betty Parsons、美術館、他の批評家など複数の支援者がいました。Greenbergの重要性は、そのネットワークの中で作品を近代絵画の長い歴史へ接続し、「なぜ重要なのか」を継続的な批評言語として提示したところにあります。

批評家は作家を「作った」のか

Greenbergほど影響力の大きかった批評家については、「彼が評価したから作家が有名になった」という説明が生まれやすくなります。しかし因果関係を一方向にするのは危険です。Pollockの作品そのもの、美術館の収蔵、画廊の展示、写真や雑誌記事、戦後アメリカの文化状況など、多数の要因が同時に働いていました。

それでも批評が持つ力は無視できません。作品Aと作品Bのどちらを重要だと書くか、それをCézanneやCubismの延長として説明するか、あるいは社会的出来事として説明するかによって、読者が見るものは変わります。Greenbergは作品を作る人ではありませんでしたが、「どの作品をどう見るべきか」という地図を長期間提示できる立場へ近づいていきました。

理論だけでなく「質」の判断を重視する

Greenbergはモダニズムについて強い歴史理論を持っていましたが、自分を理論だけで作品を評価する批評家とは考えていませんでした。彼は繰り返し、個々の作品を実際に見たときのquality、つまり美的な質の判断を重視しました。この点がGreenberg批評の強さであると同時に、後の批判の対象にもなります。

なぜなら「質」は最終的には測定できる数値ではなく、批評家の判断を必要とするからです。理論上は平面性へ進む作品でも、Greenberg自身が質が低いと思えば評価しない。逆に理論に完全に合わなくても優れた作品を認める場合があります。体系的な歴史観と、個人のconnoisseurshipが同時に存在するところに、彼の批評の複雑さがあります。

1952年 — Harold Rosenbergという別の読み

1952年、Harold Rosenbergは『ARTnews』に「The American Action Painters」を発表し、同時代の新しいアメリカ絵画をGreenbergとは異なる言葉で説明しました。Rosenbergにとってキャンバスは、完成された美的関係を構成する場所というより、画家が行為するarenaとして理解されます。この議論から「Action Painting」という名称が広く知られるようになります。

現在「Abstract Expressionism」と一括される絵画の内部でも、批評家によって見ているものが違っていました。Greenbergは作品が絵画史の中でどのような形式的問題を進めたかを重視し、Rosenbergは制作という出来事や行為へより強く焦点を当てました。同じPollockを見ても、どの側面を中心に置くかによって歴史像が変わります。

作品の形式か、制作の出来事か

Pollockのdrip paintingは、GreenbergにもRosenbergにも重要でした。しかしGreenbergの系譜では、all-overな構成、画面の平面性、線と地の関係といった完成作品の視覚的構造が重要になります。一方、Rosenbergの系譜では、床にキャンバスを置き、その周囲を移動しながら描く行為そのものが前面に出ます。

どちらか一方が作品の「正しい意味」だと決める必要はありません。この二つの批評が並んだことで、1950年代の絵画にすでに複数の歴史記述が存在していたことが分かります。ART HISTORYでPollockを「感情の爆発」だけにしなかった理由もここにあります。

Helen Frankenthalerとの関係

MoMAによれば、Helen Frankenthalerは1950年にGreenbergと知り合い、その関係を通してLee Krasner、Willem de Kooning、Jackson PollockらNew York Schoolの作家たちと接触しました。二人は私的にも親しい関係にありましたが、GreenbergがFrankenthalerの作品を同時代の絵画の中で早くから重要視したことも事実です。

ここで公私の関係だけから作品評価を説明するのは適切ではありません。Frankenthalerの《Mountains and Sea》がその後Morris LouisやKenneth Nolandへ具体的な技術的刺激を与えたことは、複数の資料で確認できます。しかし同時に、Greenbergが作家同士を実際に紹介し、その作品を見る場を作ったことは、批評家の影響力が文章に限らなかったことを示します。

1953年 — LouisとNolandをFrankenthalerへつなぐ

1953年4月、GreenbergはWashington D.C.からNew Yorkを訪れたMorris LouisとKenneth NolandをFrankenthalerのスタジオへ連れて行き、《Mountains and Sea》などのstain paintingを見せました。Morris Louisの公式研究サイトとSmithsonian Hirshhorn Museumはいずれも、この訪問をLouisの成熟した制作へ向かう重要な契機として記録しています。

その後LouisとNolandは未処理キャンバスへ薄い絵具を浸透させる方法を独自に発展させます。Greenbergは作品を評論するだけでなく、どの作家に何を見せるかという媒介者でもありました。批評家、作家、画廊、収集家をつなぐ人的ネットワークが、戦後アメリカ美術の形成に実際に作用していました。

批評は文章だけではない

1950年代になるとGreenbergは定期的な展覧会レビューを減らし、講演、展覧会企画、カタログ執筆、美術館や画廊への助言を増やします。彼のアーカイブ資料からも、作家、キュレーター、画商との広範な関係が確認できます。つまり「批評」は雑誌に文章を書く行為だけではありませんでした。

何を展覧会へ入れるか、誰に誰を紹介するか、どの作品を美術館へ勧めるか。こうした判断が複数重なることで、ある美術の流れが可視化されます。Greenbergの権威が大きくなったのは、文章の説得力だけでなく、その判断が実際の制度や人的ネットワークと接続していたためでもあります。

1955年「American-Type Painting」

1955年、『Partisan Review』第22巻第2号にGreenbergは「‘American-Type’ Painting」を発表しました。Boston Universityが公開する同誌の原ページでは、彼が新しいアメリカの抽象絵画を、近代絵画が継承してきた慣習をさらに検討する段階として説明していることを確認できます。

ここでGreenbergは、Pollock、de Kooning、Newman、Rothko、Stillらを単なる「アメリカ独自の新様式」としてヨーロッパから切り離すのではなく、Manet、Impressionism、Cubismなどから続くモダニズム絵画の歴史の中へ位置づけます。アメリカがヨーロッパを否定して突然中心になったのではなく、近代絵画の問題を別の場所で継続したという理解です。

アメリカ絵画をヨーロッパ・モダニズムの連続として見る

この連続性はGreenbergの歴史観の重要な特徴です。Abstract Expressionismを過去との完全な断絶として扱うのではなく、CubismやMatisse、Miróなどが開いた形式的問題をさらに進めたものとして見ます。そのため、革新は過去を忘れることではなく、過去の優れた作品が設定した基準に応答することになります。

1960年の「Modernist Painting」でも、Greenbergはmodernismをruptureではなくcontinuityとして考えました。この点は「avant-garde=伝統破壊」という一般的なイメージと異なります。彼にとって優れた新しさは、過去と無関係な奇抜さではなく、歴史の内部から必然的に見えてくる問題を更新することでした。

Color Fieldへ向かう評価軸

1950年代後半、Greenbergは第二世代の身振り的な抽象表現主義へ次第に批判的になり、Frankenthaler、Louis、Nolandらの色彩を中心とした絵画へ強く関心を持つようになります。SmithsonianのGreenberg biographical noteも、彼が次第にColor FieldとHard-Edgeの画家へ関心を移したことを記録しています。

ここで重要なのは、「筆触が少ないから新しい」といった単純な好みではありません。Greenbergの歴史観から見れば、厚い絵具や身振りが画面上に彫刻的・物質的な効果を作るより、色が支持体と一体化し、視覚的な広がりとして現れる方が、絵画固有の条件をさらに明確にできると考えられました。

触覚的な厚みより視覚的な広がりへ

FrankenthalerやLouisのstain paintingでは、絵具がキャンバス表面へ厚い層として乗るのではなく、布へ染み込みます。これによって色面と支持体の距離が縮まり、物質的な盛り上がりより視覚的な色の広がりが強くなります。Greenbergがこうした作品を高く評価したことは、彼のflatnessとopticalityへの関心と一致しています。

ただし、作家自身の制作理由をGreenberg理論だけへ還元してはいけません。Frankenthalerには風景や記憶があり、Louisには重力と流動する絵具の独自の問題があり、Nolandには色と幾何学の関係があります。Greenbergはそれらの一側面を非常に強い歴史的モデルへまとめたと考える方が適切です。

1960年「Modernist Painting」

Greenbergの理論を最も簡潔に示す文章が、1960年にVoice of AmericaのForum Lecturesとして発表された「Modernist Painting」です。University of Chicago Press刊のCollected Essaysの書誌では1960年の論文として収録され、その後1961年、1965年などに修正版が公刊されたことが確認できます。

この文章でGreenbergは、modernismを各領域が自分自身の方法を使って自分の限界を批判的に検討する過程として説明しました。絵画は「絵画であること」を捨てるのではなく、むしろ何が絵画を他の芸術から区別するのかを厳しく検証することで、その領域を確かなものにするという考えです。

モダニズム=自己批判

Greenbergがmodernismの中心に置いたのはself-criticismでした。通常、批判とは外部から対象を否定する行為に見えます。しかし彼のモデルでは、ある分野が自分自身の方法を使い、自分に何ができ、何ができないかを調べます。絵画が絵画を批判し、彫刻が彫刻を批判するという構造です。

そのためmodernismは芸術を破壊する運動ではありません。不要な慣習を取り除きながら、その芸術が成立する最小条件をより強く確認する過程になります。後にこの考えが「pure painting」「medium specificity」と結びつき、Greenbergian modernismの中心的イメージになります。

Kantをモデルにする

「Modernist Painting」でGreenbergは、このself-criticalな傾向のモデルとしてImmanuel Kantを挙げました。Kantが理性そのものの能力と限界を理性によって検討したように、modernist artも自分の媒体の手段を使って自分自身を問い直すと考えます。

もちろんKant哲学とGreenbergの美術理論をそのまま同一視することはできません。しかしこの比喩によって、近代絵画の変化を作家個人の趣味の連続ではなく、西洋文化におけるより大きな自己反省の歴史として位置づけることが可能になりました。個々の作品の違いを、一つの歴史的な運動として説明する強力な枠組みです。

なぜ「平面性」が重要なのか

Greenbergによれば、絵画が他の芸術と共有しないもっとも根本的な条件の一つがflatnessです。伝統的な絵画は、平らなキャンバスの上に奥行きがあるような錯覚を作ってきました。modernist paintingは、その錯覚を完全に放棄するのではなく、像を見ると同時に「これは平らな面に描かれている」と分かる状態を強くします。

Manetの平坦な人物、Cézanneの矩形画面への構成、Cubismの浅い空間、Mondrianの格子、Pollockのall-overな線、Color Fieldの広がりを、この平面の自覚が強まる歴史として接続できます。この説明の明快さが、20世紀美術史教育にも大きな影響を与えました。

完全な平面を求めたわけではない

Greenbergのflatness論はしばしば「絵画から奥行きを完全に消せ」という命令のように要約されますが、本人の議論はそこまで単純ではありません。「Modernist Painting」では、modern paintingが目指すflatnessは絶対的な平面にはなり得ず、キャンバスに最初の線を置いた瞬間にすでに何らかの視覚的な奥行きが生まれると説明しています。

彼が排除しようとしたのは、鑑賞者が身体ごと入り込めるかのような彫刻的なillusionです。一方、眼だけで感じる浅いoptical illusionは絵画に残る。この区別を無視すると、Greenbergが単に「平らであればあるほど良い」と考えていたように誤解されます。

Medium specificityという考え

Greenberg自身の文章を後からまとめる際によく使われる言葉がmedium specificityです。各媒体が、自分だけが持つ条件を明確にすることで独自性を保つという考えです。Paintingなら平面性とopticality、sculptureなら三次元空間というように、芸術間の境界が重要になります。

この考えは非常に強い分析道具でした。なぜ絵画が写真のような写実を目標にし続けなくてもよいのか、なぜ抽象が絵画史上の重要な問題になったのかを説明できます。しかし同時に、1960年代以降の多くの作品は、この境界を守るのではなく意図的に破ります。そのためmedium specificityの強さが、そのまま限界にもなっていきました。

記述なのか、規範なのか

Greenbergの議論は、読者や作家からしばしば「絵画はこう進むべきだ」という規範として受け取られました。実際、彼が特定の作家を強く支持し、別の動向へ厳しい評価を下したことは、その印象をさらに強くしました。一方Greenberg自身は、1978年に「Modernist Painting」へ付したpostscriptで、自分はmodern artがどう生じたかを説明しようとしたのであり、その方向を作家へ命令していたのではないと釈明しています。

この区別は重要ですが、完全に解決するわけではありません。批評家が「歴史はこの方向へ進んできた」と説明し、その方向に合う作家を高く評価すれば、記述は実際には強い規範として機能します。Greenbergの影響力を考えるとき、本人の意図と、その文章が美術界で実際に果たした役割を分けて見る必要があります。

1961年『Art and Culture』

1961年、Greenbergは主要な批評をまとめた『Art and Culture: Critical Essays』を出版しました。1939年の「Avant-Garde and Kitsch」から同時代美術の評論までを一冊にまとめたことで、個別の雑誌記事として書かれてきた判断が、一つのmodernism論として広く読まれるようになります。

この出版は、Greenbergが単なる週刊・月刊レビューの書き手から、近代美術全体を説明する批評家として制度化される重要な段階でした。大学、美術館、若い批評家がその文章を参照し、Greenbergianという言葉で一つの批評方法を呼べるほど、その考えが明確な輪郭を持ち始めます。

1962年「After Abstract Expressionism」

1962年、Greenbergは「After Abstract Expressionism」を発表し、Abstract Expressionismの成果を認めながら、その後の絵画がどこへ進めるかを考えました。University of Chicago Press刊Collected Essaysの目次でも、この文章は1962年の重要論文として位置づけられています。

ここで問題になっていたのは、Pollockやde Kooningの身振りを次世代がそのまま繰り返すことではありません。革新的だった表現が一つの様式として定着すると、それ自体が慣習になります。Greenbergは新しい絵画が、その慣習化した「painterly」な身振りからさらに別の明確さへ進むことを期待しました。

1964年《Post-Painterly Abstraction》

1964年、GreenbergはLos Angeles County Museum of Artで《Post-Painterly Abstraction》を組織しました。Smithsonian Librariesの展覧会カタログ記録によれば、展覧会はLos Angelesで4月23日から6月7日まで開催された後、Walker Art Center、Art Gallery of Torontoへ巡回しました。カタログ冒頭にはGreenberg自身による同名の文章が掲載されています。

「Post-Painterly」という名称が示すのは、Pollockやde Kooningの価値を否定することではなく、その後に身振り的な筆触や厚い絵具を一つの慣習として繰り返す傾向から距離を取ることでした。より開かれた色面、明瞭な輪郭、薄い絵具、支持体の広がりを持つ抽象絵画を、新しい共通傾向として提示しました。

批評家が展覧会で歴史を可視化する

文章で「新しい方向がある」と書くことと、美術館で複数の作品を同じ空間へ並べることは違います。《Post-Painterly Abstraction》では、Greenbergが選んだ作家を実際に並べることで、一つの傾向が観客の眼に見える形になります。展覧会タイトル自体が、その作品群を見るためのフレームになります。

ここにキュレーションの大きな力があります。作家たち自身が同じグループを名乗っていなくても、批評家が作品間の共通点を見つけ、名称を与え、展覧会へまとめれば、美術史上の一つの流れとして認識されます。Greenbergは文章だけでなく、展覧会によって自分の歴史観を可視化しました。

Frankenthaler、Louis、Nolandをどう位置づけたか

Greenbergが高く評価したFrankenthaler、Morris Louis、Kenneth Nolandらは、いずれも薄い色、広い未塗装または色面化した支持体、より明瞭な構造を持つ作品へ進みました。Louisの公式研究資料とHirshhorn Museumは、1953年のFrankenthalerスタジオ訪問を、LouisとNolandがstain paintingを発展させる重要な契機として扱っています。

しかし三者を「Greenbergが作ったColor Field painter」とまとめるのは適切ではありません。それぞれの制作には異なる問題がありました。Greenbergの役割は、それらを近代絵画がよりopticalでflatな方向へ進む一つの歴史として読み、同時代の観客へ強く提示したことにあります。

若い批評家へ広がる影響

Smithsonian Archives of American Artは、1960年代にGreenbergの見方がMichael FriedやRosalind Kraussら若い批評家へ強い影響を与えたと記録しています。Greenbergは一人の著名批評家にとどまらず、作品の形式を厳密に記述し、過去と現在を歴史的連続の中で比較する一つの批評方法を次世代へ伝えました。

この方法には大きな魅力がありました。作品に社会問題や作家の伝記を何でも結びつけるのではなく、実際に目の前にある形、色、素材、構造から論じる。何を根拠に評価しているのかを明確にしようとする態度は、その後Greenbergを批判する批評家にとっても重要な出発点になります。

Michael Fried — Greenbergを継承しながら展開する

Michael FriedはGreenbergのmodernismを継承した代表的な若い批評家の一人です。1967年6月の『Artforum』に発表した「Art and Objecthood」では、Donald JuddやRobert MorrisらのMinimalismを「literalist art」と呼び、作品が観客の身体と展示空間に依存し、時間の中で経験されることを「theatricality」として批判しました。University of Chicago Pressも、この論文をmodernist artとMinimalismの対立を明確にしたFriedの中心的文章として位置づけています。

ここでFriedはGreenbergを否定するのではなく、むしろmodernist paintingとsculptureの自律性を別の言葉で守ろうとしています。Greenbergの影響は1960年代半ばに消えたのではなく、若い批評家によってさらに理論化されていました。同時に、その強い防衛姿勢が必要になったこと自体、Minimalismなど別の芸術観が無視できない規模で現れていた証拠でもあります。

1960年代半ば — Minimalismとの衝突

Minimalismでは、作品を絵画や伝統的彫刻の内部関係だけで見るのではなく、物体が実空間にどう置かれ、観客がどの距離から見て、歩くにつれてどう変化するかが重要になります。これはmediumの内部を純化するGreenberg的な歴史とは大きく異なる方向です。

絵画が平面性を明確にし、彫刻が自分の媒体固有性を明確にするというより、作品は「ただそこにある物体」に近づき、展示室と鑑賞者を含む関係へ広がります。Greenbergのmodernismが作品内部の自律性を強く重視したのに対し、Minimalismは作品と外部環境の境界そのものを問題にしました。

RauschenbergとJohnsが説明しにくい理由

RauschenbergのCombinesには絵具、新聞、写真、布、鏡、寝具、剥製などが同時に入り、painting / sculpture / photographyという媒体区分を一作品の内部で混ぜます。Johnsの《Flag》は物理的には平面性を強調しながら、国家の記号、新聞、言語という外部の意味を積極的に持ち込みます。

こうした作品は、Greenbergの基準から単純に「平面性が不足している」と言えば済むものではありません。そもそも彼らが問うているのが、mediumを純化することではなく、絵画と外部世界の境界だからです。同時代美術の中心的問題が変われば、以前有効だった批評基準もすべての作品には適用できなくなります。

Pop Artが持ち込んだ外部世界

Pop Artでは、Greenbergが1939年にkitschやmass cultureとして区別しようとした広告、漫画、商品、映画スター、新聞写真が、Fine Artの中心へ入ってきます。WarholはCampbell’sやMarilynを、Lichtensteinは漫画を、Rosenquistは広告断片を使いました。ここでは大衆文化を避けることでavant-gardeの自律性を守るというモデルが反転します。

しかもPopの作品は、単に大衆文化へ迎合したとは言い切れません。広告の複製性、商品と美術市場、写真と作者性、コピーとオリジナルといった問題を、美術の内部から複雑に扱っています。Greenbergが「外部」として分けた領域を作品内部へ入れることで、新しい批評の課題を作りました。

媒体の境界そのものが作品になる

1960年代には、RauschenbergのCombine、OldenburgのStoreとSoft Sculpture、Happening、Minimalism、Conceptual Artなど、既存のmedium分類を横断する作品が増えます。「これはpaintingかsculptureか」と判断できないことが失敗なのではなく、その判断不能性そのものが作品の目的になる場合があります。

この状況では、各媒体が自分の固有条件を明確にするというGreenbergの歴史モデルは、多くの作品を「本道から外れたもの」として扱うことになります。逆に新しい批評家たちは、なぜそれらが意図的に境界を越えるのかを説明する別の基準を探し始めました。

1968年 Leo Steinberg「Other Criteria」

その象徴的な例がLeo Steinbergです。Harvard Graduate School of DesignとUniversity of Chicago Pressの資料によれば、Steinbergは1968年にMoMAで「Other Criteria」と題する講演を行い、後に1972年の同名著書へ収録しました。その題名自体が、既存のmodernist formalismとは異なる「別の評価基準」が必要だという主張を示しています。

Steinbergはmodernismを単一のflatnessへの歴史として見ることに疑問を示し、特にRauschenbergの作品を理解するために「flatbed picture plane」という概念を提示しました。Greenbergと同じくpicture planeを論じながら、結論はまったく違う方向へ進みます。

Flatbed picture plane

Steinbergがflatbedと呼んだのは、自然を正面から見る人間の視野に対応した「窓」のような画面ではなく、机、床、印刷機のベッド、掲示板のように、情報や物が置かれたり貼られたりする受容面です。RauschenbergのCombinesでは、新聞、写真、物体、絵具が一つの表面へ集積し、自然風景の上下関係とは別の論理で配置されます。

この議論は、Greenbergのflatnessを単純に否定するのではありません。同じ「平面」であっても、その平面を何として理解するかを変えています。Greenbergの平面はpainting固有の視覚条件へ向かいますが、Steinbergのflatbedは外部から来る情報を受け取るプラットフォームになります。

なぜ「他の基準」が必要になったのか

作品が変われば、それを評価する言葉も変える必要があります。Rauschenbergを「pure paintingとして十分にflatか」という基準だけで見ると、Combineがなぜ新聞や物体を必要としたのかが理解できません。Minimalismを「sculptureとして内部構成が優れているか」だけで見ると、展示空間と鑑賞者の身体の問題が抜け落ちます。

Steinbergの「Other Criteria」は、Greenberg個人を倒すための一回的な論争というより、1960年代に作品の側が要求した批評方法の変化を象徴しています。美術が新しい領域へ進むと、以前の評価基準をそのまま適用するのではなく、作品が何を問題にしているかに応じて基準そのものを更新しなければならないという考えです。

一つの本流では説明できない美術へ

1960年代末には、Color Field、Hard-Edge、Pop、Minimalism、Conceptual Art、Performance、Land Artなど、互いに異なる制作が同時に進みます。一つの方向が前の方向を置き換えるのではなく、複数の問題が並行して存在する状況が明確になります。

Greenbergの歴史観は「modern paintingの本流」を選ぶことで非常に強い説明力を持ちました。しかしpluralな状況では、その選択自体が批評家の価値判断として見えるようになります。どの作品が歴史の中心で、どれが周辺なのか。Greenbergが自然な歴史として提示した序列そのものが、次の世代の批評対象になっていきました。

1970年頃 — 影響力が消えたのではなく、独占できなくなる

Greenbergの「失墜」を、1965年や1970年に突然誰も彼を読まなくなった出来事として考えるのは正確ではありません。Smithsonian Archives of American Artは、彼が1960年代を通して若い批評家へ影響を与え、その後も執筆、講演、作家への助言を続けた一方、postmodernist theoryや別のmodern art movementsへの反発によって次第に信用を失ったと説明しています。

より正確に言えば、1950年代にはGreenbergのモデルが「最新の優れた美術を説明するもっとも強い枠組み」の一つだったのに対し、1960年代末には、それと競合する複数の歴史観が存在するようになりました。権威がゼロになったのではなく、批評空間を一つの方向で支配することが難しくなったのです。

Rosalind Krauss — 内部からの離反

Rosalind KraussはHarvard在学中にMichael Friedを通してGreenbergと接触し、初期の批評ではGreenbergian modernismから大きな影響を受けました。Smithsonianも彼女を1960年代にGreenbergの見方を受け継いだ若い批評家の一人として挙げています。しかし1970年代初頭にはその歴史観から距離を取り、別の理論的枠組みへ進みます。

この離反が重要なのは、Greenbergへの批判が最初から外部の敵だけによって行われたわけではないことです。彼の方法で作品を見る訓練を受けた批評家が、その方法では説明できない作品や問題に直面し、内部から別の批評を作っていきました。Greenbergian modernismの限界は、その強さを十分知っていた世代によっても検討されます。

後日談:David Smith作品改変をめぐる1974年の論争

本記事の主な時代範囲より後になりますが、Greenbergの権威を考えるうえで1974年のDavid Smith作品をめぐる論争は無視できません。Oxford University Research Archiveの保存研究によれば、Smithの死後に遺産管理執行人となっていたGreenbergは、白く塗られていた彫刻5点の塗装を除去させました。Greenbergは白を劣化した一時的primerと判断し、Smithの意図により近い状態へ戻したと考えていました。

Rosalind Kraussは1974年の『Art in America』でこの変更を公に批判し、作者の死後に批評家が自分の美的判断を作品へ介入させることの問題を提起しました。後の保存研究は、当時Greenbergの判断を支持した批評家も存在したこと、Smithの最終意図自体が単純ではないことも示しています。それでもこの論争はGreenbergの評判を大きく傷つけ、彼は1979年にSmith estateの執行人を辞任しました。

「失墜」と単純化しない

このためGreenbergの歴史を「1940年代に正しくPollockを発見し、1960年代に新しい美術を理解できなくなり、1970年代に失墜した」と一行でまとめるのは不十分です。彼の批評は1960年代にもColor FieldやAnthony Caroなどをめぐって強い影響を持ち、Michael Friedらを通して理論的にも発展しました。

一方、Rauschenberg、Johns、Pop、Minimalism、Conceptual Artなどをmodernist paintingの本流という尺度だけで測ることは次第に難しくなりました。さらにSmith estateをめぐる問題では、批評家の「自分には作品の本質が分かる」という権威そのものが倫理的に問われます。したがって「失墜」より、批評の中心性が相対化され、権威の根拠まで再検討されたと考える方が正確です。

それでもGreenbergを読む理由

現在Greenbergの価値観をそのまま採用する必要はありません。しかし、ManetからAbstract Expressionism、Color Fieldまでをmedium、flatness、self-criticismという少数の概念で接続した論理の強さは、美術史を考えるうえで今も重要です。何がそのモデルで鮮明になり、何が見えなくなるのかを比較できるからです。

さらに彼の批評は、「作品を見るとは評価することでもある」という難しい問題を避けませんでした。すべての作品を同じように尊重して並べるのではなく、どれが重要かを判断し、その根拠を歴史の中で説明しようとしました。その判断が偏りや排除を生んだことも含め、批評という仕事の力と危険性を非常に明確に示す人物です。

美術史は作品だけでは作られない

Greenbergの記事をART HISTORYへ入れる最大の理由はここにあります。Pollockが絵を描き、Frankenthalerがstainを発明し、LouisがVeilsを作っただけで、現在の美術史の並びが自動的に完成したわけではありません。批評家が書き、画廊が展示し、美術館が収蔵し、展覧会が作家をまとめ、別の批評家がそれを批判する。その過程で「Abstract Expressionism」「Color Field」「Post-Painterly Abstraction」の意味が形成されていきます。

後にMoMAの《The Forever Now》やMuseum Brandhorstの《Painting 2.0》を見る際にも、この視点は重要です。展覧会はすでに存在する歴史を中立的に表示するだけではなく、現在の作品をどの過去と結びつけるかを選び、新しい歴史像を提示します。Greenbergはその力が特に強く見えた時代の代表例です。

1939–1970年に何が変わったのか

1939年、Greenbergは大量文化と政治的宣伝の時代にavant-gardeがなぜ自律性を必要とするのかを論じました。1940年代にはNew Yorkの新しい画家を実際に批評し、Pollockを早期から高く評価します。1950年代にはAmerican paintingをヨーロッパmodernismの連続として整理し、Frankenthaler、Louis、Nolandらをつなぐ人的・批評的ネットワークにも関わりました。1960年の「Modernist Painting」ではself-criticism、medium、flatnessという形で理論を最も明快に定式化し、1964年には《Post-Painterly Abstraction》によってその歴史観を展覧会として可視化します。

ところが同じ1960年代に、作品の側がmediumの境界を越え始めます。Rauschenberg、Johns、Pop、Minimalism、Conceptual Artは、Greenbergのモデルを単純に否定した一つの統一運動ではありません。しかし、それぞれ異なる方向から「絵画や彫刻は自分の媒体へ純化して進む」という一本の歴史では説明できない問題を作りました。1970年頃までにGreenbergの批評は消えたのではなく、「唯一の有力な地図」であることを失い、複数の批評基準の一つとして相対化されていきます。

次の時代へ — Frank Stellaと絵画の反復

Greenbergのmodernismと1960年代の新しい美術の境界を考えるうえで、次に重要なのがFrank Stellaです。1958–59年のBlack Paintingsは、ほとんど同じ幅の黒いstripeをキャンバスの形に従って反復し、gestureや中心構図を大幅に減らしました。一方Stellaは後にshaped canvasへ進み、Donald JuddやMichael Friedの議論とも異なる形で、paintingとobjectの境界へ接近します。

次の記事では、1958–1966|フランク・ステラ — Black Paintings、反復、シェイプト・キャンバスとして、1959年MoMA《Sixteen Americans》、Black Paintings、Benjamin Moore series、Aluminum Paintings、Copper Paintings、そしてIrregular Polygonまでを追います。ここからColor Fieldとは別の経路で、Minimalismと1960年代後半の絵画へつながる線を見ていきます。

参考資料・出典

本ページは、Greenberg本人の同時代テキスト、雑誌アーカイブ、美術館・研究機関・大学出版局が公開する資料、後年の保存研究を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。Greenbergの理論を現在の美術史の確定的な基準として採用するのではなく、その主張と、後に生じた批判・別の批評基準を区別して記述しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY