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Art History

1988–1997

Young British Artists(YBAs)— Freeze、Goldsmiths、Saatchi、Sensation

1980年代末から1990年代のイギリス美術を語るとき、Young British Artists、略してYBAsという名称は避けて通れません。Damien Hirst、Sarah Lucas、Gary Hume、Rachel Whiteread、Tracey Emin、Gillian Wearing、Jake & Dinos Chapman、Michael Landy、Fiona Rae、Marc Quinn、Chris Ofiliなど、多くの作家がこの呼称のもとで語られてきました。しかし彼らは同じ様式を共有した正式な芸術運動でも、一定の綱領を持つ集団でもありません。出身校も制作方法も異なり、絵画、彫刻、写真、映像、インスタレーション、日用品、動物、身体、文字など、用いた手段は極めて多様でした。

YBAを歴史的に理解するには、作品の見た目よりも、その作品がどのように発表され、誰によって見いだされ、どのように流通したのかを見る必要があります。1988年、Goldsmiths Collegeの学生だったDamien Hirstが、ロンドンのDocklandsにある使われていない建物で企画した《Freeze》は、その象徴的な出発点になりました。学生たちは既存の美術館や商業ギャラリーに招かれるのを待つのではなく、自分たちで会場を探し、資金を集め、展示を組み、カタログを制作し、美術関係者を招きました。この自主企画の姿勢は、その後の倉庫展や作家主導の展示文化へつながっていきます。

一方で、YBAの成功を「若い作家たちが自力で既成制度を突破した物語」とだけ捉えることもできません。Goldsmithsの教育環境、Michael Craig-MartinやJon Thompsonらの指導、空き倉庫が利用できた都市状況、新しいギャラリー、Turner Prize、Charles Saatchiの収集と展示、新聞やテレビによる報道、1997年Royal Academy of Artsの《Sensation》など、複数の制度と経済条件が彼らの可視性を高めました。YBAとは作品様式の名称というより、1990年代のロンドンで「若い作家が作品を作り、展示を組み、市場とメディアを利用しながら国際的な現代美術へ接続していく仕組み」が急速に形成された現象として見る方が実態に近いのです。

CONTENTS

  1. Young British Artistsとは何を指すのか
  2. 正式な集団ではない
  3. YBA以前にも英国現代美術は存在していた
  4. Goldsmithsという環境
  5. Jon Thompsonと専攻横断型の教育
  6. Michael Craig-Martinと相互批評
  7. 絵画・彫刻の境界を固定しない
  8. 1988年《Freeze》
  9. 16人の学生と若手作家
  10. Docklandsの空き建物
  11. 学生展を「プロの展覧会」に見せる
  12. 展覧会を人と制度を接続する装置にする
  13. 1990年前後の倉庫展
  14. 《Modern Medicine》と《Gambler》
  15. 《East Country Yard Show》と《Market》
  16. 作家が企画者になる
  17. 不況と空き物件という都市条件
  18. Charles Saatchiの影響
  19. 1992年からの《Young British Artists》展
  20. YBAという名称が作ったまとまり
  21. Damien Hirst — 生、死、展示装置
  22. 1991年《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living》
  23. ガラスケースと科学展示の形式
  24. 1993年《Mother and Child (Divided)》
  25. 死を説明するのではなく、目前に置く
  26. Rachel Whiteread — 空間の内側を固体にする
  27. 1990年《Ghost》
  28. 1993年《House》
  29. 私的空間が公共の論争になる
  30. 1993年Turner Prize
  31. Sarah Lucas — 日用品、身体、性別表象
  32. 1994年《Au Naturel》
  33. セルフポートレートと「見る側」の反転
  34. Gary Hume — YBAの中の絵画
  35. 《Door Paintings》
  36. Fiona Rae — 抽象絵画もYBAの一部だった
  37. YBAは「物体とショック」だけではない
  38. Michael Landy — 消費社会と商品の循環
  39. Gillian Wearing — 他者の声を作品に入れる
  40. 1992–93年《Signs that say what you want them to say…》
  41. 作者がすべてを決めない作品
  42. Tracey Emin — 私生活と公共圏
  43. 自伝的な作品を「告白」だけで読まない
  44. 1995年《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》
  45. 女性作家とYBAのジェンダー
  46. Jake & Dinos Chapman — 暴力、複製、グロテスク
  47. Marc Quinn — 身体を素材にする
  48. Chris Ofili — 装飾、黒人表象、絵画
  49. 同じYBAでも作品の問題は異なる
  50. 「ショック・アート」という説明の限界
  51. 新聞・テレビと現代美術
  52. 作家自身がメディア上の人物になる
  53. Turner Prizeと公共的な注目
  54. 市場と批評を切り離せない
  55. Saatchiは「発見者」だったのか
  56. 誰がYBAに含まれるのか
  57. 同時代の英国美術をYBAだけで代表させない
  58. 1997年《Sensation》
  59. Royal Academy of Artsへ入る
  60. 42作家という広がり
  61. 一人のコレクターの所蔵品が世代像を作る
  62. Marcus Harvey《Myra》をめぐる論争
  63. Eminのテントが大規模展へ入る
  64. 周縁から中心へ、という単純な物語ではない
  65. 1988–1997年に何が変わったのか
  66. YBA以後に残ったもの
  67. 次の時代へ — グローバル化する現代美術
  68. 参考資料・出典

Young British Artistsとは何を指すのか

Young British Artistsは、1980年代末から1990年代にイギリスで台頭した若い作家たちをまとめて呼ぶ名称です。TateやNational Galleries of Scotlandは、この言葉を、1988年《Freeze》を一つの起点として登場した緩やかな世代的まとまりに対して用いています。作品の特徴としては、既製品や日用品、工業素材、写真、映像、動物、身体、文字などを幅広く用いること、素材や制作方法に対して自由であること、自分たちで展覧会を組織する積極性などが挙げられてきました。

ただし「YBA様式」というものが存在するわけではありません。Hirstのホルマリン漬けの動物、Whitereadの鋳造彫刻、Lucasの日用品による身体表現、Humeの光沢塗料による絵画、Wearingの写真、Eminの刺繍やインスタレーションは外観上ほとんど共通していません。したがってYBAは、作品の見た目を分類する語というより、世代、教育、展示、流通、メディア、コレクションが複雑に重なって成立した歴史的な呼称として理解する必要があります。

正式な集団ではない

YBAsは、Surrealismのように宣言文を掲げた運動でも、Group Materialのように特定のメンバーが共同活動を続けた集団でもありません。初期の《Freeze》には一定の参加者がいましたが、その後「YBA」と呼ばれる範囲は広がり、Goldsmiths出身者だけでなく、Rachel Whiteread、Tracey Emin、Jake & Dinos Chapman、Marc Quinn、Chris Ofili、Jenny Savilleなど異なる教育背景を持つ作家も同じ枠組みで紹介されるようになります。

つまり、YBAの歴史では「誰が最初のメンバーだったか」と「1990年代半ばに誰がYBAと呼ばれたか」を分けて考える必要があります。後者は展覧会、批評、コレクター、新聞などによって次第に拡張された文化的なカテゴリーでした。

YBA以前にも英国現代美術は存在していた

YBAが登場したことで、しばしば「停滞していたイギリス美術が突然復活した」という物語が語られます。しかし1980年代にはTony Cragg、Richard Deacon、Anish Kapoor、Julian Opie、Gilbert & George、Helen Chadwick、Lubaina Himidらがすでに国内外で活動しており、New British SculptureやBlack British Art Movementなど複数の動向が存在していました。

YBAの重要性は、それ以前の英国美術を無効にしたことではありません。むしろ、若い作家が作品制作だけでなく展示、宣伝、販売、報道まで含めて自分たちの活動を設計し、それが国際的な市場と大衆メディアにまで接続した規模と速度にあります。

Goldsmithsという環境

初期YBAを考えるうえでGoldsmiths Collegeは重要です。Damien Hirst、Sarah Lucas、Gary Hume、Michael Landy、Fiona Rae、Angus Fairhurst、Mat Collishaw、Ian Davenportら多くの作家がこの時期にGoldsmithsで学びました。大学自身も、1990年代にYBAと呼ばれる多くの作家がここから登場したことを、同校の美術教育史の重要な出来事として位置づけています。

しかし「Goldsmithsに通えばYBAになった」という単純な因果関係ではありません。重要なのは、同校の教育が絵画、彫刻、写真といった専攻を厳格に分離せず、異なる制作方法の学生が互いの作品を批評する仕組みを持っていた点です。

Jon Thompsonと専攻横断型の教育

Goldsmithsで美術学科を率いたJon Thompsonは、媒体別の専門化を緩め、学生が複数の手段を行き来できる教育環境を整えました。大学の記録では、異なる学年の学生を同じスタジオ環境に置くことも、従来とは異なる教育体験を生み出したと説明されています。

この仕組みでは、学生は「自分は画家だから絵画だけを考える」という位置に留まりにくくなります。写真や映像、彫刻、インスタレーションに接しながら、なぜ自分が特定の媒体を選ぶのかを説明しなければなりません。後のYBAに共通して見られる、題材に応じて手段を変える柔軟さは、この環境と無関係ではありません。

Michael Craig-Martinと相互批評

Michael Craig-MartinもGoldsmithsの重要な教師でした。彼は後年、学生同士を意図的に混ぜ、互いの作品を詳しく見せることで、競争と対話が生まれたと振り返っています。Sarah Lucasが強い作品を作ればGary Humeが刺激を受ける、といった相互作用が、個々の作家の判断力を鍛えたという説明です。

ここで重要なのは、教師が特定の様式を教え込んだのではなく、学生が自分の作品について言葉で説明し、他者の作品に判断を返す文化が形成されたことです。作品制作と批評、展示の判断が分離していませんでした。

絵画・彫刻の境界を固定しない

Fiona RaeはGoldsmithsについて、媒体を最初から一つに決めるのではなく、さまざまな方法を試すことが重要だったと振り返っています。絵画を作る学生の隣に映像を作る学生がいることで、媒体の選択自体が意識化される環境でした。

この点は、後にYBAが一つの視覚様式を持たなかった理由の一つでもあります。絵画を続けたHumeやRaeと、動物を用いたHirst、日用品を組み替えたLucas、参加型写真を作ったWearingが同じ世代として語られるのは、媒体ではなく制作態度と発表環境の側に共通点があったからです。

1988年《Freeze》

1988年、《Freeze》はDamien Hirstの企画によってロンドンDocklandsの使われていないPort of London Authority関連施設で開催されました。Hirstは当時Goldsmithsの学生で、同級生や在学生、卒業生の作品を集めて展覧会を組織しました。この展覧会は後からYBAの「始まり」として神話化されていきます。

重要なのは、展示された作品がすべて後世の代表作だったからではありません。《Freeze》が象徴的なのは、学生が既存制度からの招待を待たず、自ら展覧会を作り、それを美術界へ向けて提示したことです。作品だけでなく、展示を成立させる行為そのものが世代の特徴として記憶されました。

16人の学生と若手作家

《Freeze》には16人が参加したとされ、Steven Adamson、Angela Bulloch、Mat Collishaw、Ian Davenport、Angus Fairhurst、Anya Gallaccio、Damien Hirst、Gary Hume、Michael Landy、Abigail Lane、Sarah Lucas、Lala Meredith-Vula、Richard Patterson、Simon Patterson、Stephen Park、Fiona Raeらが含まれていました。

後に全員が同じ程度に「YBAの代表作家」として扱われたわけではありません。この事実だけでも、《Freeze》参加者と後世のYBAというカテゴリーが完全には一致しないことが分かります。歴史的な出来事としての《Freeze》と、1990年代に形成された「YBA世代像」は分けて考える必要があります。

Docklandsの空き建物

《Freeze》の会場が通常の美術館や商業ギャラリーではなかったことは重要です。1980年代末のLondon Docklandsは大規模な再開発が進む一方、旧港湾施設や産業施設が転用可能な状態で残っていました。Goldsmithsも以前からSurrey Docks周辺の使われていない施設を学生用空間として利用していました。

こうした場所は単なる「貧しい若手が仕方なく使った代替会場」ではありません。広い工業空間は、大きな作品やインスタレーションを従来の小さな画廊とは違うスケールで見せることを可能にしました。ロンドンの都市変化と若い作家の展示文化が重なったのです。

学生展を「プロの展覧会」に見せる

《Freeze》では、会場を整え、カタログを作り、展示を美術館や商業ギャラリーに近い水準で見せることが意識されました。若い作家の自主企画でありながら、「学園祭的な学生展」に見せないことが重要でした。

この姿勢は、作品制作と発表方法を別々に考えない態度につながります。展示照明、壁面、作品間の距離、印刷物、招待客といった要素も作品が評価される条件の一部になります。YBAはこの点で、作家が制作だけに専念し、展示は別の専門家に任せるという従来型の役割分担をずらしました。

展覧会を人と制度を接続する装置にする

《Freeze》にはCharles Saatchiをはじめ、美術館関係者やコレクター、ギャラリストが訪れたことが記録されています。ここで展覧会は、完成作品を見せる場所であると同時に、若い作家と既存の美術制度を接続する場として機能しました。

「作品が優れていれば誰かが自然に発見してくれる」という発想ではなく、誰に見てもらうかまでを企画の一部とする姿勢がありました。これは後にYBAが「企業家的」「自己宣伝に積極的」と評される理由の一つです。

1990年前後の倉庫展

《Freeze》の後、ロンドンでは使われていない倉庫や工場、商業施設を利用した自主企画展が続きました。1990年前後は、作家自身が大きな空間を確保して一時的な展覧会を組織する文化が目立つようになります。

この動きは一つのグループだけによって統制されていたわけではありません。複数の若い作家や企画者が、それぞれ別の空間で展示を行いました。後から見ると一つの「YBA現象」に見えますが、実際には多くの独立した企画が併走していました。

《Modern Medicine》と《Gambler》

1990年、Hirst、Carl Freedman、Billee Sellmanらは、Bermondseyの旧ビスケット工場を利用したBuilding Oneで《Modern Medicine》や《Gambler》を企画しました。美術館でも大学でもない産業空間を展覧会場へ変える方法が、《Freeze》以後さらに拡大します。

これらの展覧会では、広大な空間自体が作品のスケールや配置に影響しました。若い作家が自分たちで会場を得ることは、既存ギャラリーから排除された結果であると同時に、既存ギャラリーでは実現しにくい展示形式を獲得することでもありました。

《East Country Yard Show》と《Market》

同じ1990年には、Henry BondとSarah Lucasが企画した《East Country Yard Show》、Michael Landyが企画した《Market》なども開催されました。これらは、特定の一人の作家の個展を中心にするのではなく、若い作家が互いの作品を選び、配置し、観客を呼び込む場を自分たちで作る流れを示しています。

後に商業ギャラリーへ所属した作家も多い一方、この初期段階では「展示する場所そのものを作る」ことが制作活動の一部でした。作品と展覧会の境界が近づいていきます。

作家が企画者になる

YBA世代では、artist-curatorという役割が目立つようになります。これは作家が美術館の専門職としてのキュレーターを単純に代替したという意味ではありません。自分の作品を見せる環境を自分で設計し、同世代の作品を並べ、ある場面を可視化する役割を担ったということです。

この方法は、後のartist-run spaceや短期的なプロジェクト型展示にもつながっていきます。展覧会は完成作品を収容する容器ではなく、誰と誰を並べ、どの観客へ届けるかを決める能動的な形式になります。

不況と空き物件という都市条件

1990年代初頭のイギリスは景気後退を経験し、ロンドンには使われなくなった商業施設や工業施設が存在していました。Goldsmithsに関する研究でも、不況が倉庫文化と若い作家の展示活動の条件の一つになったことが指摘されています。

ただし、空き物件があれば自動的に新しい美術が生まれるわけではありません。安価あるいは一時利用可能な空間と、それを展覧会として組織する作家側の能力が結びついたことが重要です。都市経済の変化が、新しい展示形式の物理的な条件を作りました。

Charles Saatchiの影響

Charles Saatchiは1985年にロンドンでSaatchi Galleryを開き、当初はDonald Judd、Brice Marden、Cy Twombly、Andy Warholなどアメリカ美術を含む作品を大規模に展示していました。1987年にはJeff Koonsらを紹介する《New York Art Now》も開催しており、若い英国作家にとって、同時代のアメリカ美術を大きな空間で見る場所でもありました。

そのSaatchiが1990年代に英国の若い作家を大量に収集し、展示するようになったことは大きな転換でした。彼は作品を購入するだけでなく、自身のギャラリーでまとまった形で公開し、個々の作家を一つの「世代」として見せる役割を果たしました。

1992年からの《Young British Artists》展

Saatchi Galleryは1992年から《Young British Artists》と題する展覧会シリーズを開催しました。同ギャラリーの公式年表は、このシリーズが「YBA」という名称をこの世代へ定着させる大きな契機になったと説明しています。Damien Hirst、Rachel Whiteread、Gavin Turk、Jenny Savilleなどがより広い観客へ紹介されました。

ここで《Freeze》の学生仲間という範囲を超えたことが重要です。「Young British Artists」という名称は、特定の学校の同窓生から、イギリスで活動する新世代の作家を包む市場的・批評的な枠組みへ変化していきました。

YBAという名称が作ったまとまり

名称は単にすでに存在する集団へ付けられるだけではありません。「YBA」と呼ばれることで、外観の異なる作品が同じ世代の動向として理解され、展覧会や記事でまとめて紹介されやすくなりました。

同時に、その名称は選別も行います。誰をYBAに含め、誰を含めないのかによって「1990年代英国美術」の見え方が変わります。YBAは便利な歴史用語である一方、それ自体が美術市場とメディアによって作られた枠組みでもあります。

Damien Hirst — 生、死、展示装置

Damien HirstはYBAを代表する作家として最も広く知られていますが、彼の重要性は「動物を使って観客を驚かせた」ことだけではありません。医薬品棚、ガラスケース、標本、病院や研究施設を思わせる構造を使いながら、生と死、治療と信仰、身体と物体の境界を扱いました。

作品はしばしば極めて明快な外観を持ちます。何が置かれているのかは一目で分かる一方、それを「理解した」と感じるほど意味は単純ではありません。死んだ動物を見ていることと、死そのものを理解できることの間に距離があります。

1991年《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living》

《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living》(1991)は、サメをガラスと鋼鉄の水槽の中へホルムアルデヒド溶液で保存した作品です。Charles Saatchiの支援によって制作され、1990年代初頭のHirstを象徴する作品になりました。

題名は「生きている人間の心には死を完全には想像できない」という逆説を示します。目の前には確実に死んだ生物が存在しています。しかしその巨大な身体が泳いでいるような姿勢で保存されることで、死体でありながら完全な静物にも見えません。

ガラスケースと科学展示の形式

Hirstの水槽は、動物そのものだけでなく、それを囲むガラスと金属の構造が重要です。自然史博物館、研究施設、病理標本、Minimal Artの立方体など、複数の視覚形式が重なります。

観客は作品へ触れられず、透明な壁越しに観察します。見る行為は科学的な観察に似ていますが、作品は科学的知識を与えるわけではありません。透明で整然とした展示装置が、むしろ死の不可解さを強調します。

1993年《Mother and Child (Divided)》

《Mother and Child (Divided)》(1993)では、牛と子牛の身体が縦方向に切断され、それぞれガラスケースの中に保存されました。作品は1993年Venice Biennaleにも出品され、1995年にHirstがTurner Prizeを受賞した際にも重要な作品として扱われました。

身体を「中まで見える」状態にしても、生命の意味が分かるわけではありません。解剖学的な可視性と存在の理解は一致しない。そのずれが作品の中心にあります。

死を説明するのではなく、目前に置く

Hirstの作品では、死が象徴や絵画的表現を通して間接的に示されるのではなく、実際の動物の身体として提示されます。しかしこれは死を「現実そのもの」として見せればよいという単純な写実主義ではありません。

死体は厳密な展示装置へ収められ、美術館の照明の中に置かれ、作品名を与えられます。生物学的事実が文化的な展示物へ変換される過程まで含めて作品になっています。

Rachel Whiteread — 空間の内側を固体にする

Rachel WhitereadはHirstと同じGoldsmiths出身ではありませんが、1990年代前半からYBAを代表する作家として扱われました。彼女の主要な方法は、椅子、部屋、家などの「空洞」を鋳造し、通常は目に見えない内部空間を固体へ変えることです。

そのため作品は日用品や建築をそのまま再現しているようでありながら、実際には物体そのものではなく、物体に囲まれていた空間の形です。存在していたものと消えたもの、記憶と物質の関係が反転します。

1990年《Ghost》

《Ghost》(1990)は、北ロンドンのVictorian houseの居間内部を石膏で鋳造した作品です。National Gallery of Artは、約9フィートの高さを持つこの作品について、暖炉や巾木など部屋の内側にあった形が外へ向かって反転して現れる構造を説明しています。

通常、人は部屋の「中」に入ります。しかし《Ghost》ではその内部空間が固体になっているため、観客は中へ入れません。かつて人が生活していた空間が、巨大な彫刻として閉じられます。

1993年《House》

《House》(1993)は、East LondonのGrove Roadに最後まで残っていたVictorian terrace houseの内部をコンクリートで鋳造した大規模作品です。Artangelとの協働によって制作され、1993年10月に完成し、1994年1月に解体されました。

住宅の壁そのものを残したのではなく、室内にコンクリートを吹き付けた後、外側の建物を取り除くことで、家の「内部の空気」にあたる部分だけを巨大な固体として残しました。日常的な住宅が、記憶、都市再開発、喪失を背負う記念碑のような存在へ変わります。

私的空間が公共の論争になる

《House》は作品として評価されるだけでなく、地域住民、新聞、自治体、国会議員を巻き込む論争になりました。Artangelの記録によれば、多くの観客が現地を訪れ、保存を求める声と撤去を求める声が激しく衝突しました。

ここで重要なのは、彫刻が美術館の内部に保護されていなかったことです。住宅政策や地域の再開発と直接接触する場所に作品が置かれたため、「良い彫刻か」という評価と「この場所に残すべきか」という公共的判断が重なりました。

1993年Turner Prize

Whitereadは《House》を制作した1993年にTurner Prizeを受賞し、女性として初の受賞者となりました。同じ時期に《House》の解体も決定されており、制度的評価と公共空間での拒絶が同時進行する象徴的な出来事となりました。

この矛盾は、1990年代の英国現代美術が一つの価値基準で動いていなかったことを示します。美術館、批評家、コレクター、地域社会、新聞が、同じ作品を異なる基準で評価していました。

Sarah Lucas — 日用品、身体、性別表象

Sarah Lucasは家具、食べ物、煙草、衣類、新聞写真など、ごく身近な物を使いながら身体と性を扱いました。彼女の作品では、性的な形が露骨に見える一方、しばしば粗雑さ、笑い、居心地の悪さが同時に存在します。

Hammer MuseumやNew Museumは、Lucasが日常用品を身体の代用品へ変換し、ジェンダー、性、権力、社会的規範を揺さぶってきたと説明しています。高価な美術材料ではなく、安価で身近な物を使うことも作品の態度と結びついています。

1994年《Au Naturel》

《Au Naturel》(1994)は、マットレスの上にメロン、オレンジ、キュウリ、バケツなどを置き、男女の身体や性器を連想させる配置を作った作品です。素材は極めて日常的ですが、身体の表現として見ると突然生々しくなります。

ここでは裸体を写実的に彫刻する必要がありません。物体同士の位置関係だけで「身体」が立ち上がります。同時に、その身体は理想化されたヌードではなく、簡略化され、滑稽で、商品と日用品の集合として現れます。

セルフポートレートと「見る側」の反転

Lucasは1990年代にセルフポートレートも継続的に制作しました。例えば《Self-portrait with Fried Eggs》(1996)では、自分の胸の位置に目玉焼きを置き、カメラへ正面から向き合います。

女性身体を消費する視線を批判するだけでなく、その視線の仕組みを自分の姿を使って反転させます。観客は「女性を見る側」の安全な位置に留まれず、こちらを見返す作家の姿と向き合うことになります。

Gary Hume — YBAの中の絵画

Gary Humeは、YBAを「インスタレーションや既製品中心の世代」と考える見方を修正する重要な作家です。彼は家庭用の光沢塗料を使った平滑な絵画によって1990年代初頭に注目されました。

British Councilは、Humeが病院のドアを単純化した《Door Paintings》によって知られるようになったと説明しています。題材は制度的で無機質な扉ですが、画面は色面と輪郭へ整理され、絵画として強い人工的な表面を持ちます。

《Door Paintings》

《Door Paintings》は実在の病院用ドアの形態を参照しながら、家庭用光沢塗料によって描かれました。ドアは通常、通過するための物体ですが、絵画になると閉じた平面として観客の前に立ちます。

Minimal Artを思わせる簡潔さと、病院という具体的な社会空間の記憶が同居します。Humeの作品は、YBAが必ずしもセンセーショナルな物体だけを求めていたわけではなく、絵画の表面や反復も重要な問題だったことを示します。

Fiona Rae — 抽象絵画もYBAの一部だった

Fiona Raeも《Freeze》に参加したGoldsmiths出身の作家で、抽象絵画を制作しました。彼女の1990年前後の作品には、滴り、擦れ、厚塗り、空白など異なる絵画的処理が同一画面に混在します。

Raeの存在は、YBAという名称から特定の内容や材料を推測できないことを示しています。Hirstの動物、Lucasの家具、Whitereadの鋳造と並行して、抽象絵画も同じ世代の重要な選択肢でした。

YBAは「物体とショック」だけではない

1990年代の報道では、動物、性、死、身体といった刺激の強い作品が目立ちました。その結果、YBA全体が「絵画を捨てた若者たち」であるかのように説明されることがあります。

しかしGary Hume、Fiona Rae、Jenny Saville、Chris Ofiliなど、絵画を中心に活動した作家も重要です。YBAの特徴は絵画か非絵画かではなく、媒体の序列を前提にせず、作品ごとに異なる形式を選べる環境があった点にあります。

Michael Landy — 消費社会と商品の循環

Michael Landyも《Freeze》参加者の一人で、1990年代には商品、労働、廃棄、消費社会を扱う作品を制作しました。後の《Break Down》(2001)では自分の所有物をすべて分類し破壊する大規模プロジェクトへ至りますが、その関心は1990年代初頭から続いていました。

YBAが市場によって成功した世代である一方、その内部には消費や商品化そのものを扱う作品も存在しました。市場参加と市場批判は完全に別の立場ではなく、同じ作家の活動の中で緊張関係を持ち得ます。

Gillian Wearing — 他者の声を作品に入れる

Gillian Wearingは写真や映像を通して、日常生活の中で人がどのように自分を表現するかを扱いました。彼女の作品は、作家自身の強いイメージを押し出すHirstやEminとは別の方向から、YBA世代の多様性を示します。

Wearingは見知らぬ人々へ声を与える方法を取り入れますが、それを単純な「社会調査」にはしません。写真を撮る作家と撮られる人の関係、写真がその人を代表できるのかという問題が作品になります。

1992–93年《Signs that say what you want them to say…》

《Signs that say what you want them to say and not Signs that say what someone else wants you to say》(1992–93)では、Wearingは街で出会った人々に、その時考えていることを紙へ書いてもらい、その紙を持った姿を撮影しました。

写真だけを見れば、人物の職業や階級、感情を外見から推測したくなります。しかし本人が書いた文章が加わると、その予想が崩れることがあります。写真が人間を一瞬で分類してしまう働きそのものが可視化されます。

作者がすべてを決めない作品

Wearingの作品では、画面に現れる言葉を作家だけが決めているわけではありません。参加者自身が書き、作家はその状況を設定して撮影します。

作者性が完全に消えるわけではありませんが、作品の意味が一人の作家の内面だけから生まれる構造ではなくなります。1990年代に広がる参加型作品や社会的な制作の一つの重要な前段階として見ることもできます。

Tracey Emin — 私生活と公共圏

Tracey Eminは《Freeze》の参加者ではなく、Goldsmiths出身でもありません。それでも1990年代半ば以降、YBAを象徴する作家の一人になりました。この事実は、YBAが最初の学生集団を超えて拡張された名称であることをよく示します。

Eminは手紙、刺繍、映像、ドローイング、テント、ベッドなどを通して、自分自身の身体、恋愛、性、家族、記憶、痛みを作品化しました。私的経験を公共の展示空間へ持ち込むこと自体が作品の形式になります。

自伝的な作品を「告白」だけで読まない

Eminの作品はしばしば「告白的」と呼ばれますが、単に秘密を暴露しているわけではありません。個人的な経験をどの媒体へ変換し、どの言葉を選び、何を観客へ見せるかという編集が行われています。

自伝は生の経験そのものではなく、展示のために構成された表現です。1990年代の文化では、作家本人の人生と作品がメディア上で強く重ねられましたが、その関係を作品の外側のゴシップだけへ還元すると、形式的な判断が見えなくなります。

1995年《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》

《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》(1995)は、小型テントの内部に、Eminが人生の中で同じベッドや寝床を共有した人々の名前を縫い付けた作品です。題名から性的関係だけを想像しやすい一方、家族や友人なども含まれ、「sleep with」という表現の意味を広げています。

柔らかい布、手縫いの名前、テントという一時的な居場所が、記憶と人間関係のアーカイブになります。1997年《Sensation》で広い観客に知られるようになり、Eminの初期代表作の一つとなりました。

女性作家とYBAのジェンダー

YBAはしばしばHirstを中心とした男性作家の物語として語られますが、Sarah Lucas、Rachel Whiteread、Fiona Rae、Gillian Wearing、Tracey Emin、Anya Gallaccio、Abigail Lane、Jenny Savilleなど、多くの女性作家が重要な位置を占めていました。

ただし「女性も活躍した」という事実だけでジェンダーの問題が消えるわけではありません。LucasやEminは女性身体や性の表象に直接介入し、Savilleは巨大な身体像によって理想化された裸体表現を揺さぶりました。女性作家が可視化されることと、作品がどのように女性性を扱うかは別の問題として考える必要があります。

Jake & Dinos Chapman — 暴力、複製、グロテスク

Jake & Dinos Chapmanは、人体の変形、暴力、性的な不安、戦争表象を扱う彫刻やインスタレーションで知られます。彼らは《Freeze》の参加者ではありませんが、1990年代半ばにはYBAの代表的な作家として広く扱われました。

作品にはGoya《The Disasters of War》への参照など、美術史上のイメージを現代の立体表現へ移す方法も見られます。単なる「悪趣味」や衝撃ではなく、残酷なイメージがどのように歴史化され、鑑賞されるのかを問い直す側面があります。

Marc Quinn — 身体を素材にする

Marc Quinnの《Self》(1991)は、作家自身の血液を用いて頭部を鋳造し、冷却装置によって保存する作品です。身体を写すのではなく、身体から採取した物質そのものが肖像になります。

この作品はHirstの保存された動物とも比較されますが、問題は異なります。《Self》では作者自身の身体が素材の供給源であり、生命維持に不可欠な血液が冷凍された彫刻として外部化されます。肖像、医学、生物学、自己保存が一つの作品に重なります。

Chris Ofili — 装飾、黒人表象、絵画

Chris Ofiliは1990年代初頭から、色彩、装飾、ポピュラー文化、黒人表象、宗教的イメージを複雑に組み合わせた絵画を制作しました。絵具だけでなく、ラメや樹脂、象の糞など異質な素材を画面へ導入したことでも知られます。

Ofiliの存在は、YBAを白人作家中心の「ロンドンの悪ガキ文化」に還元できないことを示します。彼の作品では黒人の身体や文化的ステレオタイプ、美術史的な聖像表現が絵画の装飾性と結びつきます。後に1998年Turner Prizeを受賞しますが、1997年《Sensation》の時点ですでにYBA世代を代表する作家の一人として国際的に紹介されていました。

同じYBAでも作品の問題は異なる

Hirstは死と展示制度、Whitereadは空間と記憶、Lucasは性別表象、Humeは絵画表面、Wearingは他者の声、Eminは自伝と公共性、Ofiliは黒人表象と絵画、Landyは消費社会を扱います。それぞれの制作を「YBAだから」で説明することはできません。

YBAという言葉は、美術史上の地図を作るためには便利です。しかし作品を理解する段階では、一度そのラベルを外し、各作家が何をどの形式で問題にしているのかを見る必要があります。

「ショック・アート」という説明の限界

YBAは「shock art」として語られることが多く、確かに死体、性、血液、暴力的なイメージ、日用品など、従来の美術館で見慣れなかったものが注目を集めました。しかし衝撃性だけを共通項にすると、Whitereadの静かな鋳造作品やHumeの絵画、Wearingの写真などが説明できません。

また、観客を驚かせること自体はDada、Surrealism、Performance Artなど20世紀美術に繰り返し存在しました。YBAの特徴は「初めてショックを使ったこと」ではなく、1990年代の大衆メディア、広告、コレクター、市場と結びつくことで、その衝撃が非常に広い社会的可視性を得た点にあります。

新聞・テレビと現代美術

1990年代のイギリスでは、現代美術が一般紙やタブロイド紙、テレビで頻繁に扱われるようになりました。作品そのものがニュースになり、「これは芸術なのか」という議論が美術専門誌の外へ広がります。

否定的な報道も、結果として作品名や作家名を社会へ流通させました。反発がそのまま評価を意味するわけではありませんが、現代美術が大衆文化の話題になる仕組みが形成されたことはYBA現象の重要な側面です。

作家自身がメディア上の人物になる

YBAでは、作品だけでなく作家本人の発言、服装、生活、交友関係まで報道されることが増えました。HirstやEminは特に、一般の新聞読者やテレビ視聴者にも知られる人物になります。

ここで作家の「作者像」自体が作品の受容に影響します。19世紀以来の「天才芸術家」という神話とは別に、1990年代には現代美術家がポップスターやファッション関係者に近い可視性を持つ場面が生まれました。

Turner Prizeと公共的な注目

Turner Prizeはこの世代の可視化に大きな役割を果たしました。Rachel Whitereadは1993年、Damien Hirstは1995年に受賞し、Gary Humeは1996年に最終候補となりました。1997年にはGillian Wearingが受賞します。

この賞は単なる業界内部の評価ではなく、候補作品が広く報道され、毎年「現代美術とは何か」をめぐる論争を発生させる公共的な装置になりました。YBAの作品は賞制度を通じて一般社会へ繰り返し提示されます。

市場と批評を切り離せない

YBAの歴史では、美術市場を避けて語ることができません。若い作家の作品を早期に購入するコレクター、新しいギャラリー、展覧会を取材する新聞、国際展へ作家を送る制度が相互に作用しました。

ただし「市場が作家を有名にしたから作品の価値は市場だけで決まった」と結論づけるのも単純です。市場による支援が制作規模を拡大した一方、作品が美術館へ収蔵され、後世の研究対象になる過程では、批評、保存、教育、展覧会史など別の制度も関与しています。

Saatchiは「発見者」だったのか

Charles SaatchiはYBAの歴史で非常に大きな役割を持ちましたが、彼一人が無名の作家を発見して突然スターにしたという物語も正確ではありません。《Freeze》以前からGoldsmithsには活発な教育環境があり、その後も作家主導の展覧会、ギャラリー、批評家、キュレーターが並行して活動していました。

Saatchiの重要性は、作品を大量に購入し、広い展示空間でまとめて見せ、その集合を「若い英国美術」として可視化した点にあります。彼はネットワークの一部でありながら、その規模の大きさによって世代像を強く形成しました。

誰がYBAに含まれるのか

YBAの名簿は資料によって異なります。《Freeze》参加者を中心にする場合もあれば、1997年《Sensation》参加者を広くYBAと呼ぶ場合もあります。さらに1990年代英国で活動した同世代作家でも、YBAという枠組みを積極的に使わない作家もいます。

そのため「YBAは何人いたのか」と固定するより、どの展覧会や批評がどの作家を同じ世代として見せたのかを確認する方が有効です。カテゴリーは自然に存在したのではなく、展示と記述によって作られました。

同時代の英国美術をYBAだけで代表させない

YBAが1990年代英国美術の国際的なイメージを強く支配したため、同時代に存在した別の流れが見えにくくなることがあります。1989年Hayward Galleryの《The Other Story》がアフリカ、アジア、カリブ系の英国作家を可視化したように、英国美術はYBAだけで構成されていたわけではありません。

またLubaina HimidやSonia BoyceらBlack British Artの作家は、1980年代から人種、帝国、制度的排除を扱っていました。1990年代の新しさを語るとき、それ以前の実践を消して「すべてがYBAから始まった」としないことが重要です。

1997年《Sensation》

1997年9月18日から12月28日まで、Royal Academy of Artsで《Sensation: Young British Artists from the Saatchi Collection》が開催されました。Charles Saatchiのコレクションから若い英国作家の作品を大規模に集めた展覧会で、YBA現象が一般社会へ最も強く可視化された出来事の一つです。

Royal Academy自身も後年、この展覧会が大きな観客と論争を呼び、新世代の英国作家へ広範な注目を集めたと振り返っています。学生主導の《Freeze》から約9年後、若手の自主企画として始まった流れが、英国を代表する歴史的な美術機関の展覧会へ入ったことになります。

Royal Academy of Artsへ入る

《Sensation》の会場がRoyal Academy of Artsだったことには象徴的な意味があります。Royal Academyは18世紀以来の長い歴史を持つ美術制度です。そこへ、動物、血液、性的イメージ、日用品、写真などを使う若手作家の作品が大量に入ったことで、旧来の制度と新世代の対立という構図がメディアにとって非常に分かりやすくなりました。

しかし実際には、美術制度がYBAを拒絶したのではなく、すでに内部へ取り込み始めていたことを示す展覧会でもあります。反制度的に見える作品と制度は、単純な敵対関係にはありませんでした。

42作家という広がり

《Sensation》は42人の作家を紹介しました。出品者にはDamien Hirst、Sarah Lucas、Fiona Rae、Gary Hume、Rachel Whiteread、Tracey Emin、Jake & Dinos Chapman、Chris Ofili、Jenny Saville、Marcus Harvey、Ron Mueckなどが含まれました。

この人数を見れば、《Freeze》の16人と1997年の「Young British Artists」が同一ではないことは明らかです。YBAは9年間のうちに、特定の学生仲間から、幅広い若手英国作家を示すブランドのような言葉へ変化していました。

一人のコレクターの所蔵品が世代像を作る

《Sensation》は国立美術館の収蔵品を集めた展覧会ではなく、Saatchi Collectionをもとに構成されました。つまり、ある個人コレクターの購入判断が「1990年代の若い英国美術」の代表像として大規模に公開されたことになります。

これは展覧会史上重要な点です。どの作家が選ばれ、どの作品が繰り返し展示されるかによって、世代についての歴史的記憶が形成されます。コレクションは作品の保管庫であるだけでなく、美術史的な物語を作る装置にもなります。

Marcus Harvey《Myra》をめぐる論争

《Sensation》で特に激しい反発を受けた作品の一つがMarcus Harveyの《Myra》でした。1960年代のMoors murdersで知られるMyra Hindleyの警察写真をもとにした巨大な肖像で、子どもの手形を反復して画面を構成していました。

犯罪被害者の記憶、報道写真、美術館での展示、表現の自由が衝突し、作品は会場で攻撃される事件も起こしました。この論争は、YBAをめぐる「ショック」の問題が、単なる観客への刺激ではなく、現実の暴力を誰がどのように表象するかという倫理問題にも及んでいたことを示します。

Eminのテントが大規模展へ入る

Tracey Eminの《Everyone I Have Ever Slept With 1963–1995》も《Sensation》に出品されました。個人的な記憶を布と名前によって構成した親密な作品が、巨大な話題性を持つ展覧会の一部になります。

ここにはYBAの逆説があります。私的で小さな経験を扱う作品が、大規模なメディア現象へ組み込まれる。作品が本来持つ親密さと、展覧会による大衆的なイメージが必ずしも一致しません。

周縁から中心へ、という単純な物語ではない

《Freeze》を周縁、《Sensation》を中心と考え、「反抗的な若者が制度を征服した」とまとめると分かりやすい一方、実際の歴史はもっと複雑です。《Freeze》の時点ですでにスポンサーや美術関係者との接触があり、1990年代初頭には商業ギャラリーやコレクターが関与していました。

またRoyal Academyに入った後も、すべての作品が制度へ従順になったわけではありません。YBAの歴史は制度の外から中へ一直線に進んだのではなく、自主企画と商業市場、反発と承認、批評と宣伝が最初から絡み合っていました。

1988–1997年に何が変わったのか

1988年《Freeze》が示したのは、若い作家が既存ギャラリーからの招待を待たず、自分たちで場所、資金、展示、印刷物、観客を組織できるという可能性でした。1990年前後の倉庫展はその方法を広げ、作家は作品の作者であるだけでなく、展示を設計する主体にもなります。

1992年からSaatchi Galleryが《Young British Artists》という名称で若い作家を継続的に見せると、異なる実践が一つの世代として可視化されます。Hirstの死と保存、Whitereadの空間と記憶、Lucasの性別表象、HumeとRaeの絵画、Wearingの参加型写真、Eminの自伝的作品は、それぞれ異なる問題を扱いながら、同じ文化的現象の中で流通しました。

1997年《Sensation》では、この世代像がRoyal Academy of Artsという歴史的制度へ移され、大規模な観客とメディアの前に提示されました。YBAが変えたのは、作品の材料だけではありません。若い作家がどこで展示し、誰と組み、誰に見せ、どのように報道され、どのように市場へ入るかという「現代美術の見える仕組み」そのものが変化しました。

YBA以後に残ったもの

YBA以後、作家主導の展示、短期的なプロジェクト空間、廃工場や商業施設の転用、若手作家とコレクターの直接的な接続、現代美術家のメディア化は珍しいものではなくなりました。すべてがYBAの発明だったわけではありませんが、1990年代ロンドンでそれらが一つの成功モデルとして非常に強く可視化されたことは確かです。

同時に、YBAの成功は「目立つこと」「市場で売れること」「メディアに取り上げられること」と美術的評価が混同される危険も生みました。そのため現在YBAを振り返る際には、当時の熱狂そのものと、個々の作品がその後どのように美術史へ残ったのかを分けて検討する必要があります。

次の時代へ — グローバル化する現代美術

YBAは1990年代のロンドンを国際的な現代美術の重要拠点として可視化しましたが、同じ時期、美術の中心はロンドンやニューヨークだけで説明できなくなっていきました。1989年《Magiciens de la Terre》をめぐる議論、Havana、Istanbul、Johannesburgなど各地のビエンナーレ、ポストコロニアルな批評、移民やディアスポラを扱う作家の増加によって、「誰が現代美術の世界地図を作るのか」という問題が前景化します。

次の記事では、1989–2000|グローバル化する現代美術 — Magiciens de la Terre、ビエンナーレ、ポストコロニアルな視点として、欧米中心の美術史がどのように問い直され、国際展の急増が作品の制作と流通をどのように変えたのかを追います。

参考資料・出典

本ページは、美術館、大学、研究機関、作家・展覧会アーカイブ等を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。Young British Artistsを統一された様式や正式な集団として扱わず、《Freeze》参加者と、1990年代に「YBA」と呼ばれるようになったより広い作家群を区別しています。また、YBAの成功をCharles Saatchi一人による「発見」や、衝撃的な作品だけによって説明せず、Goldsmithsの教育、自主企画展、都市空間、Turner Prize、商業ギャラリー、コレクション、新聞・テレビなど複数の条件が相互に作用した歴史として整理しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY