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Art History

1912–1917

ロシア・アヴァンギャルド

光線主義、キューボ・フューチュリズム、シュプレマティスム

1910年代のロシアでは、美術の変化が非常に速い速度で進みました。

一人の画家が、数年のうちに具象、キュビスム、未来派的な運動表現、そして完全な非具象へ移る。

画家が詩人と本を作る。

絵画が舞台装置や衣装へ広がる。

西ヨーロッパから入ってきた新しい美術をそのまま模倣するのではなく、ロシアの民衆版画、宗教画、看板、子どもの絵などと結びつける。

こうした複数の実験が、モスクワとサンクトペテルブルク/ペトログラードを中心に同時に進みました。

後に「ロシア・アヴァンギャルド」と総称されるこの時代には、ネオ・プリミティヴィズム、光線主義、キューボ・フューチュリズム、シュプレマティスム、そして構成主義へつながる物質的な実験が、短い期間に次々と現れます。

しかし、それらを一つの一直線の発展として考えるのは正確ではありません。

ナタリア・ゴンチャロワとミハイル・ラリオーノフ。

カジミール・マレーヴィチ。

リュボーフィ・ポポーワ。

オリガ・ロザノワ。

ウラジーミル・タトリン。

それぞれの作家は、同じ時代に異なる答えを出していました。

ロシアの前衛は西欧美術のコピーではない

20世紀初頭のロシアの画家たちは、パリやイタリアの最新美術を積極的に知っていました。

セザンヌ。

マティス。

ピカソとブラック。

イタリア未来派。

モスクワのコレクターや展覧会を通して、あるいは実際にパリへ滞在することによって、西ヨーロッパの新しい絵画がロシアへ流れ込んでいました。

しかしロシア・アヴァンギャルドを、「パリで生まれた新様式をロシア人が受け取った」とだけ説明することはできません。

MoMAはロシア・アヴァンギャルドの展覧会資料で、ゴンチャロワとラリオーノフらがキュビスムや未来派など西ヨーロッパの新しい美術と、ロシア固有の歴史、民俗、宗教的・大衆的な造形を組み合わせようとしたことを強調しています。

西欧の新しさと、ローカルな文化。

都市の近代性と、農村的なイメージ。

機械と、イコン。

印刷物と、手書き文字。

一見矛盾する要素が同じ作品の中で出会います。

その混合こそが、ロシアの前衛を独自のものにしました。

ネオ・プリミティヴィズム — 民衆芸術を近代美術へ

1912年以前から重要だったのが、ラリオーノフとゴンチャロワらによるネオ・プリミティヴィズムです。

彼らが参照したのは、西洋アカデミズムの滑らかな写実だけではありません。

ロシアの民衆版画「ルボーク」。

宗教的なイコン。

商店の看板。

民芸。

子どもの絵。

MoMAのロシア・アヴァンギャルド研究は、ネオ・プリミティヴィズムが太い輪郭、大きな色面、平面的な構成を用い、ルネサンス以来の一点透視図法を拒否したことを説明しています。

ここで重要なのは、「素朴な絵を真似した」ことではありません。

何を高度な美術とみなすのか、という価値基準を変えようとしたことです。

西洋美術のアカデミックな写実だけを唯一の基準にしない。

ロシアにすでに存在していた別の視覚文化を、近代美術を作るための材料として使う。

この考えは、その後の光線主義やシュプレマティスムにもつながる重要な背景になります。

ゴンチャロワ — 複数の様式を横断する

ナタリア・ゴンチャロワ(Natalia Goncharova, 1881–1962)は、1910年代のロシア前衛を理解するうえで非常に重要な存在です。

彼女の作品を一つの様式に固定することはできません。

農民生活。

宗教的イメージ。

ネオ・プリミティヴィズム。

キュビスム。

未来派。

光線主義。

版画。

書籍。

舞台・衣装デザイン。

MoMAによれば、1913年にモスクワで開かれたゴンチャロワの大規模個展には、絵画、素描、版画、舞台、テキスタイル、ファッションに関係する作品など800点以上が並びました。

これは、当時の前衛作家にとって「画家」という職業が、キャンバスだけに限定されていなかったことを示しています。

複数のメディアを移動しながら、一つの時代の視覚文化を作る。

ロシア・アヴァンギャルドでは、その横断性が非常に早くから現れていました。

画家と詩人が一冊の本を作る

ロシア前衛では、画家と詩人の協働も重要でした。

1912年の『世界逆さま(Mirskontsa / Worldbackwards)』は、その代表例です。

詩人アレクセイ・クルチョーヌィフとヴェリミール・フレーブニコフのテキストに、ゴンチャロワ、ラリオーノフ、ウラジーミル・タトリンらが参加しました。

MoMA所蔵版では、石版による手書き文字、挿絵、ゴム印、コラージュされた表紙などが一冊の中に共存しています。

通常の印刷本では、文字は同じ書体で整然と並びます。

しかし前衛書籍では、手書き文字そのものが絵になります。

文章を読むことと、ページを見ることが分離しません。

詩人たちは意味の通じる日常言語そのものにも疑問を持ち、「ザーウミ」と呼ばれる超意味的・超理性的な言語実験へ進みました。

絵画が対象の再現から離れていたのと同時に、詩も既存の意味や文法から離れようとしていました。

ロシアの抽象は、絵画だけの問題ではありません。

光線主義 — 物体ではなく「光」を描く

1912年から1913年頃、ラリオーノフとゴンチャロワは「光線主義(Rayonism / Rayism)」と呼ばれる方向を展開します。

MoMAは光線主義を、キュビスム、未来派、オルフィスムなどと関係するロシア前衛の抽象的な動きとして位置づけています。

光線主義では、物体そのものを描くことが中心ではありません。

物体に当たり、反射し、交差する光の「光線」を描く。

その結果、画面には斜めに走る多数の線と色面が現れます。

木や人物が出発点であっても、完成した作品では元の対象がほとんど分からないことがあります。

ここには興味深い転換があります。

世界を構成する「物」を描くのではなく、物と物の間を移動する光を描く。

対象より関係を描く。

光線主義は、ロシアで成立した最初期の非具象的な絵画言語の一つになりました。

ラリオーノフ《赤の支配》

ミハイル・ラリオーノフ(Mikhail Larionov, 1881–1964)の《光線主義的構成:赤の支配》は、1912–13年頃の作品です。

MoMAの作品記録では、制作年を1912–13年とし、作品上には1911年の日付が記されています。

画面には赤、黄、青、緑などの鋭い線と面が交錯しています。

具体的な物体を探そうとしても、安定した輪郭はほとんどありません。

線は一つの対象を囲うのではなく、画面を横断します。

色面は前景と背景を明確に分けません。

見る側は「これは何の絵か」ではなく、線と色の衝突そのものを見ることになります。

この点で、光線主義はカンディンスキーやクプカの抽象とは違う経路から、対象を必要としない絵画へ接近していました。

ゴンチャロワ《光線主義、青緑の森》

ゴンチャロワの《光線主義、青緑の森》は1913年頃に制作された作品です。

MoMAによれば、画面を横切る青、緑、白、黒の鋭い線は、森を思わせながら、同時に光線やエネルギーの束としても見えます。

完全に自然から離れたわけではありません。

題名には「森」が残っています。

しかし森は、一本一本の樹木として描かれません。

森で起きる光の交錯だけを取り出したような画面になります。

具象から抽象へ移るとき、対象を少しずつ単純化する方法だけがあるのではありません。

対象そのものではなく、対象を成立させる現象へ焦点を移す。

光線主義は、その別の方法を示しています。

キューボ・フューチュリズム — 形と運動を組み合わせる

1912年から1915年頃のロシアでは、「キューボ・フューチュリズム」と呼ばれる作品が多く現れます。

名前が示すように、フランスのキュビスムとイタリア未来派を組み合わせるような傾向です。

キュビスムからは、対象を複数の面へ分解する方法。

未来派からは、斜線、反復、力線などによって運動や速度を作る方法。

しかしロシアの作家たちは、そこに強い色彩、キリル文字、民衆芸術、看板などを組み込みました。

MoMAのポポーワ研究は、キューボ・フューチュリズムを単なる輸入様式ではなく、キュビスムの形態問題と未来派の運動・色彩問題をロシアの画家たちが独自に統合した現象として説明しています。

その代表的な作家が、マレーヴィチとポポーワです。

マレーヴィチ — 農民像からキューボ・フューチュリズムへ

カジミール・マレーヴィチ(Kazimir Malevich, 1879–1935)は、最初から《黒の正方形》を描いていたわけではありません。

初期には印象派的な風景も描き、その後、農民を主題とする単純化された人物像、ネオ・プリミティヴィズムへ進みました。

1912–13年頃の《バケツを持つ女:動的配置》では、農婦の身体が金属的な円筒や円錐のような形へ分解されています。

1913年の《サモワール》では、日用品の形が複数の幾何学的な面に変換されています。

MoMAが所蔵するこれらの作品を見ると、マレーヴィチがシュプレマティスムへ一気に飛躍したのではなく、具象的な対象を壊し、再構成する過程を経たことが分かります。

キュビスム。

未来派。

ロシアの農民イメージ。

異なる要素を混ぜながら、対象をどこまで解体できるかを試していました。

ポポーワ — パリとモスクワを接続する

リュボーフィ・ポポーワ(Liubov Popova, 1889–1924)は、ロシアの前衛の国際性をよく示す画家です。

ポポーワは1912–13年にパリへ滞在し、アカデミー・ド・ラ・パレットで学びました。

MoMAによれば、そこでキュビスムと未来派の新しい視覚言語に直接接し、その後の作品に大きな影響を受けます。

1914年には再び西ヨーロッパへ旅行し、イタリアでも未来派の作品や文化に接しました。

しかしポポーワの作品は、フランスやイタリアの作品の再現にはなりません。

強い色彩。

キリル文字。

物質感。

浅い空間に密集する複数の面。

それらを使いながら、独自のキューボ・フューチュリズムを作りました。

《染物屋の品々》— キュビスムと未来派を組み替える

ポポーワの1914年《染物屋の品々(Objects from a Dyer’s Shop)》には、布、糸、手袋、新聞などが描かれています。

しかし、それらを静物として自然に読むことは簡単ではありません。

形は細かく分解され、斜めの線が画面を横断し、明るい青、ピンク、オレンジ、黄色などが密集します。

MoMAはこの作品について、静物、文字、新聞といったキュビスム的な要素と、未来派的な力線や動きが一つの構成の中に統合されていると説明しています。

特に興味深いのは色です。

分析的キュビスムのピカソとブラックでは、色彩は茶や灰色へ抑えられていました。

ポポーワでは、形が同じように分解されていても色彩は強い。

MoMAの研究は、この色彩にロシア民衆芸術やイコンとの関係も指摘しています。

同じキュビスムを出発点にしても、地域と作家が変わればまったく別の絵画になります。

1913年《太陽の征服》— 絵画、詩、音楽、舞台

1913年12月、サンクトペテルブルクで未来派オペラ《太陽の征服(Victory Over the Sun)》が上演されました。

これはロシア前衛の複数分野が交差した象徴的な出来事です。

アレクセイ・クルチョーヌィフが台本を書き、ミハイル・マチューシンが音楽を担当し、マレーヴィチが舞台美術と衣装を担当しました。ヴェリミール・フレーブニコフも企画に関係しています。

MoMAには1913年の《太陽の征服》の出版物が所蔵され、マレーヴィチによる表紙図案などが残されています。

舞台では、論理的な物語や自然な言葉、伝統的な衣装や舞台空間が意図的に崩されました。

人物は幾何学的な衣装を着る。

言葉は意味が崩れる。

太陽という自然秩序の象徴が「征服」される。

絵画だけではなく、言語、音楽、身体、空間をまとめて作り直す。

後のマレーヴィチの非具象へ向かう重要な実験の場になりました。

マレーヴィチの「アロジズム」— 意味を壊す

1913年から1915年頃のマレーヴィチには、キューボ・フューチュリズムからシュプレマティスムへ移る間の奇妙な作品があります。

画面に人物、道具、文字、幾何学形など、互いに論理的な関係を持たない要素を組み合わせる作品です。

これらはしばしば「アロジカル(非論理的)」な作品と呼ばれます。

対象を正確に再現しないだけではありません。

「絵に描かれたもの同士には意味のある関係があるはずだ」という前提まで壊します。

MoMAのポポーワ研究によれば、1915年の「トラムウェイV」展でマレーヴィチはこうした作品を「アロジカル」なものとして示し、内容は作者自身にも不明であるという趣旨の表示を付けました。

対象の形を壊す。

次に、対象同士の意味の関係も壊す。

その先で、対象そのものを消す。

シュプレマティスムへの移行は、形だけでなく意味を取り除く過程でもありました。

1915年「トラムウェイV」展 — 抽象直前の衝突

1915年3月、ペトログラードで「トラムウェイV:第一回未来派絵画展」が開催されました。

ポポーワ、マレーヴィチ、タトリンらが参加します。

MoMAの研究は、この展覧会をロシア前衛の重要な転換点として位置づけています。

タトリンは、絵画の表面から実際の空間へ飛び出す抽象的なレリーフを展示しました。

ポポーワはキューボ・フューチュリズムの作品を発表します。

マレーヴィチは、具象的な対象を残しながら論理的な意味を崩した作品を展示しました。

三人とも「抽象」へ近づいていました。

しかし方法は違います。

マレーヴィチは色と形へ。

タトリンは物質と実空間へ。

ポポーワは構築された画面へ。

その違いは、同じ年の末にさらに明確になります。

1915年「0.10」展 — 二つの新しい方向

1915年12月、ペトログラードで「最後の未来派絵画展 0.10」が開催されました。

この展覧会は、20世紀美術の大きな転換点の一つです。

マレーヴィチは、白い背景に正方形、長方形、円などの幾何学形を置いた新しい作品群を初めて公にまとめて展示しました。

彼はこの方法を「シュプレマティスム」と呼びます。

MoMAによれば、マレーヴィチはこの展覧会で、外界の対象の再現を放棄し、白い背景上に浮かぶ幾何学形による新しい抽象絵画を発表しました。

同じ展覧会では、タトリンも「カウンター・レリーフ」と呼ばれる立体作品を展示しました。

一人はキャンバスの上で対象を消し、純粋な色と形へ進む。

もう一人はキャンバスそのものから離れ、木、金属、ワイヤーなどの現実の材料と実空間へ進む。

同じロシア前衛の中から、二つの非常に異なる方向がはっきり現れました。

《黒の正方形》— 絵画を「ゼロ」へ

「0.10」展で最も象徴的な作品となったのが、マレーヴィチの《黒の正方形》です。

白い地の上に、一つの黒い四角形。

人物もない。

風景もない。

奥行きもない。

光源もない。

物語もない。

MoMAは、1915年の「0.10」展でマレーヴィチが、自然の形への参照を放棄し、色のついた幾何学形を白い背景へ置く新しい方法を公開したと説明しています。

マレーヴィチにとってこれは、対象をどんどん単純化した結果の「最後の物体」ではありません。

それまでの絵画が対象を表すという前提をいったんゼロに戻し、そこから別の絵画を始めるための出発点でした。

「何も描いていない」という欠如ではなく、対象を必要としない絵画を肯定する。

その意味で《黒の正方形》は、終点であると同時にスタート地点でした。

なぜ《黒の正方形》は部屋の角に置かれたのか

1915年の「0.10」展の写真を見ると、《黒の正方形》は通常の絵画の高さに掛けられていません。

二つの壁が接する高い角に置かれています。

ロシアの伝統的な正教会文化では、家庭内の部屋の角に宗教的なイコンを置く習慣がありました。

ロシア美術館も、1915年の《黒の正方形》が、イコンが置かれる場所を意識する位置に展示されたと説明しています。

ここには強い緊張があります。

マレーヴィチは、ロシアの伝統をただ捨てたわけではありません。

聖人や宗教物語が描かれる場所に、何も表象しない黒い四角を置く。

伝統的な形式を引用しながら、その中身を完全に変える。

西欧の抽象絵画とは異なる、ロシア固有の文化的背景がここに見えます。

シュプレマティスム — 対象を必要としない絵画

《黒の正方形》だけを見ると、シュプレマティスムは黒と白だけの極端なミニマルな絵画に見えます。

しかし「0.10」展でマレーヴィチが発表した作品群には、赤、青、黄などの色も使われています。

長方形。

正方形。

細長い帯。

十字。

MoMA所蔵の《飛行機が飛ぶ:シュプレマティスム構成》では、複数の色面が白い空間の中で異なる角度に置かれています。

題名には「飛行機」という言葉がありますが、飛行機の形が描かれているわけではありません。

色面の方向、重さ、距離、速度感の関係が画面を作ります。

マレーヴィチはこの新しい方法を、自然の形よりも絵画独自の感覚を優位に置くものとして「シュプレマティスム」と名づけました。

ここで抽象は、具象を単純化したものではなく、独立した絵画言語として宣言されます。

ポポーワ、ロザノワ — 非具象はマレーヴィチだけではない

ロシアの非具象をマレーヴィチ一人の物語として見ることもできません。

ポポーワは1916年頃から《絵画的建築(Painterly Architectonics)》と呼ばれるシリーズへ進みます。

MoMAによれば、そこでは赤、黒、白、灰色などの平面が互いに重なり、画面が「建築的」に組み立てられます。

ポポーワは1916–17年にはマレーヴィチ周辺のシュプレマティストたちとも活動しましたが、彼女の作品は単純なマレーヴィチの模倣ではありません。

平面が物質のような重さを持ち、互いに押し合い、支え合う。

後の構成主義へつながる「構築」の感覚が強くなっています。

オリガ・ロザノワ(Olga Rozanova, 1886–1918)も、キューボ・フューチュリズムを経て非具象へ進み、色彩そのものを強く押し出しました。

つまりシュプレマティスム前後のロシアでは、同じ幾何学的抽象でも、作家ごとに色、空間、物質の考え方が異なっていました。

マレーヴィチとタトリン — 色と形/物質と空間

1915年頃のロシア前衛を考えるとき、マレーヴィチとタトリンの違いは非常に重要です。

マレーヴィチは、絵画から対象を取り除き、色と幾何学形による非具象へ進みました。

タトリンは逆に、絵画の中で物質を表現するのではなく、実際の木、金属、ワイヤーなどを使い始めます。

木を描くのではなく、木そのものを使う。

金属の光沢を絵具で再現するのではなく、金属そのものを置く。

そして作品を壁面だけでなく、部屋の角や実際の空間へ広げる。

一方は「絵画を純化する」方向。

もう一方は「絵画から実物へ出る」方向。

どちらも対象の写実的な再現を拒否していますが、回答は正反対に近い。

この二つの方向が、1917年以降のロシア美術で非常に大きな意味を持つことになります。

1917年 — 美術と社会の関係が変わる

1917年、ロシアでは二度の革命を経て政治体制が大きく変化しました。

この出来事があったからロシア・アヴァンギャルドが突然生まれたわけではありません。

光線主義、キューボ・フューチュリズム、シュプレマティスム、タトリンのレリーフなど、主要な実験の多くは革命以前から始まっていました。

しかし1917年以降、美術家を取り巻く制度と、美術を社会の中で何のために使うのかという問題は大きく変化します。

作品を美術館や個人コレクターのために作るのか。

新しい社会のための教育、印刷、ポスター、建築、衣服、舞台、日用品を作るのか。

芸術家ごとの回答は同じではありませんでした。

マレーヴィチはシュプレマティスムを教育や建築的構想へ広げます。

ポポーワやタトリンらは、やがて物質、構造、実用、生産の問題へ大きく進んでいきます。

「新しい絵画を作る」という問題が、「新しい社会で芸術は何をするのか」という問題へ接続していきます。

1912–1917年に何が変わったのか

この短い5年間に、ロシア美術では非常に多くの前提が変わりました。

西欧の新様式を、ローカルな文化と組み替えたこと。

キュビスムや未来派と、ルボーク、イコン、看板、民俗的な造形が同じ画面へ入ります。

対象ではなく、光や運動そのものを描こうとしたこと。

光線主義とキューボ・フューチュリズムは、対象を安定した物体として扱わなくなりました。

絵画と言語、出版、舞台の境界を横断したこと。

画家と詩人が共同し、一冊の本や一つの舞台を総合的な実験の場にしました。

対象を完全に必要としない絵画を成立させたこと。

シュプレマティスムでは、幾何学形と色そのものが作品になります。

同時に、絵画の外へ出る方向も現れたこと。

タトリンは現実の物質と実空間を使い、後の構成主義への道を開きました。

重要なのは、ロシア・アヴァンギャルドが一つの「ロシア様式」を作ったわけではないことです。

同じ時代に、複数の答えが激しく競合しました。

その競合こそが、この時期の異常な密度を生み出しています。

次の時代へ — 構成主義へ

1917年以降、ロシア前衛の問題はさらに変化します。

タトリンが始めた物質と構造の研究。

ポポーワが追究した「建築的」な画面。

ロトチェンコ、ステパノワ、エクステルらによる幾何学的な構成。

それらは次第に、「絵画をどう革新するか」という問題を越えていきます。

作品を壁に掛けるだけでよいのか。

芸術家は日用品、印刷、衣服、舞台、建築、生産へ関わるべきではないか。

芸術と労働、芸術と産業の境界をどう考えるのか。

1920年代初頭、こうした問いから「構成主義(Constructivism)」が明確になります。

次の記事では年代を重ねながら、1915–1922|タトリンと構成主義 — 物質、構造、生産へを扱います。

《黒の正方形》が「絵画とは何か」をゼロから問い直したのに対して、構成主義はさらに、「そもそも芸術作品を作り続ける必要があるのか」というところまで進んでいきます。

参考資料・出典

本ページは、美術館・研究機関が公開する作品、作家、展覧会資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY