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Art History

1989–2000

グローバル化する現代美術

Magiciens de la Terre、ハバナ・ビエンナーレ、展覧会地図の再編

1989年から2000年にかけて、現代美術の世界地図は大きく組み替えられました。パリやニューヨーク、ロンドンだけを中心として20世紀後半の美術を説明することが難しくなり、ハバナ、イスタンブール、ダカール、光州、ヨハネスブルグなど、異なる歴史を持つ都市が国際的な現代美術の議論を組織する場所になります。アジア、アフリカ、ラテンアメリカの作家が欧米の美術館へ「加わった」というだけではありません。誰が作家を選ぶのか、誰が世界を代表できるのか、国籍で作品を整理できるのか、美術史の中心はどこにあるのかという制度上の前提そのものが問われました。

この変化を象徴するのが1989年です。パリでは《Magiciens de la Terre》、ロンドンでは《The Other Story: Afro-Asian Artists in Post-War Britain》、ハバナでは第3回Bienal de La Habanaが開催されました。三つの展覧会はいずれも、それまでの西欧美術中心の国際性に疑問を投げかけましたが、その方法は同じではありません。欧米の大美術館が世界へ視野を広げる方法、植民地支配後のイギリス美術史を内部から書き換える方法、グローバル・サウスの地域同士を直接接続する方法が、同じ年に並行して現れたのです。

1990年代半ばには世界各地でビエンナーレが増え、作品だけでなく都市、歴史、移動、翻訳、制度そのものが展覧会の主題になります。一方、国際化が進めば自動的に平等になるわけではありません。世界を紹介するキュレーターの権力、資金や渡航の格差、「地域らしさ」を求める新しい固定観念、美術市場による選別も同時に強まりました。本記事では、この矛盾を含んだ変化を、1989年の三つの展覧会から1990年代末の《Cities on the Move》《Global Conceptualism》まで年代順に追います。

CONTENTS

  1. 1989年を転換点として見る
  2. グローバル化は一つの様式ではない
  3. それ以前にも国際美術展は存在していた
  4. 冷戦終結と世界秩序の変化
  5. ポストコロニアルな視点
  6. 1989年《Magiciens de la Terre》
  7. 100人を50対50で構成する
  8. 異なる地域の作品を「同じ現在」に置く
  9. 誰が世界を選ぶのか
  10. 画期性と問題点を同時に見る
  11. Rasheed Araeenによる批判
  12. 「本物らしさ」が作る新しい固定観念
  13. 1989年《The Other Story》
  14. 近代美術の外ではなく内部から書き換える
  15. 四つの章で語り直された戦後美術
  16. 《The Other Story》にも限界はあった
  17. 1989年 第3回ハバナ・ビエンナーレ
  18. 西欧美術界を中心に置かない国際展
  19. 国別パビリオンを離れる
  20. 都市全体を展覧会の場にする
  21. ハバナの実践を理想化しない
  22. パリ、ロンドン、ハバナは同じ答えではない
  23. 1990年代、ビエンナーレが増えていく
  24. Istanbul Biennial — ヨーロッパとアジアの交差点
  25. 1995年《ORIENT/ATION》
  26. Dak’Art — アフリカから現代アフリカ美術を組織する
  27. 1966年のダカールから続く文化政策
  28. 1995年 第1回光州ビエンナーレ
  29. 光州民主化運動の記憶と国際展
  30. 「境界を越える」という理念と分類の矛盾
  31. 1995年 Johannesburg Biennale
  32. 1997年《Trade Routes: History and Geography》
  33. Okwui Enwezorとキュレーションの転換
  34. 交易路として世界を見る
  35. 重要なビエンナーレが続かなかったという事実
  36. キュレーターが展覧会の作者に近づく
  37. キュレーターの権力も批判対象になる
  38. 作家を国籍の代表にしない
  39. ディアスポラという位置
  40. 1990年代後半、アジアの現代美術が国際展の中心へ
  41. 1998年《Inside Out: New Chinese Art》
  42. 「中国美術」を国境の外まで考える
  43. 1997年から《Cities on the Move》
  44. 移動する展覧会が毎回形を変える
  45. 都市化を現代美術の条件として見る
  46. 1999年《Global Conceptualism》
  47. 現代の地図だけでなく過去の美術史も変わる
  48. 「遅れている地域」という考え方を崩す
  49. 市場も世界化する
  50. 作品より先にインフラの差がある
  51. 翻訳が作品の一部になる
  52. 美術館のコレクションも問い直される
  53. 「多様な作家を入れる」だけでは終わらない
  54. グローバル化は平等化ではない
  55. 世界が広がるほど、分類の問題も増える
  56. 「Contemporary」という言葉の意味が変わる
  57. 1989–2000年に何が変わったのか
  58. 2000年代へ — グローバルな制度はさらに拡大する
  59. 次の時代へ — Relational Aestheticsと1990年代の参加型美術
  60. 参考資料・出典

1989年を転換点として見る

1989年は、現代美術の「世界地図」が大きく組み替えられた年としてしばしば語られます。ただし、それは西欧美術の内部で一つの様式が終わり、代わりに「グローバル・アート」という新しい様式が始まったという意味ではありません。同じ年にパリ、ロンドン、ハバナで開かれた複数の展覧会が、それまで国際美術の中心とされてきた場所、作品を選ぶ制度、近代美術史の書き方そのものを別々の方向から問い直したことが重要です。

パリの《Magiciens de la Terre》は西洋と非西洋の作家を同じ現代美術展に並べようとし、ロンドンの《The Other Story》は戦後イギリス美術史から見えにくくされてきたアフリカ、アジア、カリブ系の作家を近代美術の内部へ戻そうとしました。同じ頃、ハバナではラテンアメリカ、カリブ、アフリカ、アジアの作家が、西欧美術界を中心に置かない別の国際展の仕組みを発展させていました。三つは似て見えても、問題の立て方も制度的位置も異なります。

グローバル化は一つの様式ではない

「グローバル化する現代美術」と言っても、そこに共通の画風はありません。絵画、写真、映像、インスタレーション、彫刻、工芸的な技法、建築、都市への介入、社会的な共同制作まで、形式はむしろ拡散していきます。共通するのは作品の外観ではなく、誰が現代美術の同時代性に参加できるのかという条件が変化したことです。

それまで国際展に出る機会が少なかった地域の作家が新たに可視化される一方、欧米の美術館やキュレーターが「世界」を選別する権力も強く意識されるようになります。つまりグローバル化は、参加地域が増えたという数量的な変化だけではなく、選ぶ側と選ばれる側、中心と周縁、翻訳と誤読をめぐる政治の問題でもありました。

それ以前にも国際美術展は存在していた

1989年以前に美術が国際的でなかったわけではありません。ヴェネツィア・ビエンナーレは1895年、サンパウロ・ビエンナーレは1951年に始まり、documentaも1955年以降、戦後美術を国際的に紹介してきました。作家の移住や留学、国際展への参加も早くから行われています。

しかし、これらの国際性は必ずしも地理的に対称ではありませんでした。欧米の美術館、批評誌、市場、コレクションが美術史上の価値を判断する中心となり、アフリカ、アジア、ラテンアメリカなどの作品は民族誌、民芸、地域文化として扱われる一方、「同時代の現代美術」として紹介されにくい場合がありました。1990年代に起きたのは国際交流の開始ではなく、その国際性の構造を組み替えようとする動きです。

冷戦終結と世界秩序の変化

1989年前後には政治的な世界秩序も大きく変化しました。東欧で社会主義体制が揺らぎ、ベルリンの壁が崩壊し、1991年にはソ連が解体します。南アフリカではアパルトヘイト体制の解体が進み、1994年に初の全人種参加選挙が実施されました。一方、1989年の中国では天安門事件が起きています。

こうした変化を「自由な世界が一つになった」と単純化することはできません。国境を越える資本と情報が増える一方で、移動できる人とできない人の差、植民地支配の歴史、経済格差、民族や宗教をめぐる対立は残ります。1990年代の現代美術が扱ったのは、まさにその矛盾を含んだ世界でした。

ポストコロニアルな視点

この時期の美術を理解するうえで「ポストコロニアル」という言葉が重要になります。これは植民地主義が完全に終わった後の時代という単純な意味ではありません。政治的独立後も残る権力関係、文化的な序列、言語、教育、博物館、美術史、他者を表象する仕組みを検討するための視点です。

美術の領域では、「非西洋美術をもっと展示すれば解決する」という話ではありません。誰が「非西洋」という分類を作ったのか、誰が作品を選び、どう説明し、どの文脈で見せるのかが問われます。同じ作品でも、地域文化の代表例として展示されるのと、同時代の作家による個別の実践として展示されるのでは意味が変わります。

1989年《Magiciens de la Terre》

1989年5月18日から8月14日まで、パリのCentre Georges PompidouとGrande Halle de la Villetteで《Magiciens de la Terre》が開催されました。中心となったキュレーターはJean-Hubert Martinで、Centre Pompidouの公式記録では100人の作家を、西洋化された国々から50人、それ以外の地域から50人という構成で紹介したとされています。

展覧会の意図は、欧米の現代美術と「その他の世界」を別々に扱うのではなく、同じ時代に生み出されている実践として一つの展覧会へ置くことでした。この試みは、その後の国際展を考えるうえで避けて通れない参照点になりました。

100人を50対50で構成する

50対50という構成は、当時の大規模美術館の国際展として極めて強い意思表示でした。展覧会にはJohn Baldessari、Daniel Buren、On Kawara、Anselm Kiefer、Louise Bourgeoisらとともに、Frédéric Bruly Bouabré、Seni Camara、Bodys Isek Kingelez、Esther Mahlangu、Huang Yong Ping、José Bediaなど、多様な地域と制作背景を持つ作家が並びました。

重要なのは、これらを民族誌博物館の資料としてではなく、1989年の現代美術展の中へ置いたことです。しかし、この「平等」を実現するために最初から世界を「西洋」と「非西洋」に二分したこと自体が、後に強い批判の対象になります。

異なる地域の作品を「同じ現在」に置く

近代美術史では、地域によって異なる時間軸が暗黙に設定されることがありました。パリやニューヨークの新しい表現は「前衛」「現代」とされる一方、他地域の制作は「伝統」「土着」「工芸」として、過去に属するように扱われることがあります。

《Magiciens de la Terre》が試みたのは、この時間差を取り払うことでした。儀礼や共同体と結びつく制作であっても、1980年代に生きる制作者が作るものとして現在形で提示する。この点は重要でしたが、同時に、その作品を西欧美術館の白い展示空間へ移すことで本来の社会的・宗教的文脈を失わせてしまうのではないかという問題も生じました。

誰が世界を選ぶのか

世界中の作品を一つの展覧会に集めるとき、必ず選択が行われます。どの国へ調査に行くのか、誰を現地の案内役にするのか、何を「重要な制作」とみなすのか。その判断をパリの美術館とキュレーターが握っている以上、展覧会は既存の中心/周縁関係から完全に自由ではありません。

この問題は以後の国際展でますます重要になります。世界を代表する展覧会は、世界そのものではありません。それは特定の制度と人物が作った一つの地図です。1990年代のキュレーションは、この「地図を作る権力」を自覚するようになります。

画期性と問題点を同時に見る

《Magiciens de la Terre》を「世界美術を開いた英雄的展覧会」とだけ評価するのも、「植民地主義的だった」とだけ切り捨てるのも十分ではありません。西欧美術館が同時代の非西洋圏の作家を大規模に紹介し、既存の美術史の視野を広げたことは事実です。同時に、その選び方や展示方法には、異文化を「純粋」「精神的」「土着的」と見る眼差しが残っているという批判が起きました。

この両義性こそが重要です。1990年代以降の国際展は、《Magiciens de la Terre》が開いた可能性と、そこで露呈した問題の両方を引き継ぎました。

Rasheed Araeenによる批判

作家・批評家のRasheed Araeenは、《Magiciens de la Terre》に参加しながら、その枠組みを厳しく批判しました。Smithsonian Librariesに記録されている論考《Our Bauhaus, Others’ Mudhouse》では、第三世界の作家を選ぶ際に「真正な伝統」や土着性が重視される一方、非西洋圏で近代美術や都市的な現代表現に取り組んできた作家が見えにくくなる矛盾を指摘しています。

つまり問題は、非西洋圏を展示したかどうかだけではありません。「西洋=近代」「その他=伝統」という役割分担を、善意の国際展が別の形で再生産してしまう可能性があるのです。

「本物らしさ」が作る新しい固定観念

国際的な美術界で地域的な多様性が求められるようになると、作家には逆説的な圧力も生まれます。ある地域の作家が国際展へ参加するとき、「その国らしさ」「民族的な記号」「伝統的な素材」を期待される場合があります。しかし作家自身は都市生活、テレビ、消費社会、抽象絵画、コンセプチュアル・アートなど、世界中の複数の文化に接続しているかもしれません。

そのため1990年代のグローバル化は、地域性を消すことでも、地域性を強調することでも解決しません。作家を国の代表記号にしないことと、その人が生きてきた歴史的・社会的条件を無視しないことを同時に考える必要が出てきます。

1989年《The Other Story》

同じ1989年11月29日、ロンドンのHayward GalleryではRasheed Araeen企画の《The Other Story: Afro-Asian Artists in Post-War Britain》が始まりました。Southbank Centreの記録によれば、戦後イギリスで活動してきたアフリカ、アジア、カリブ系の作家24人を取り上げた展覧会です。

この展覧会が《Magiciens de la Terre》と大きく異なるのは、「遠い地域の未知の美術」をロンドンへ持ち込んだのではないことです。対象となった作家たちはすでにイギリス社会と美術界の内部で長く活動していました。問題は、彼らが近代・戦後イギリス美術史の正史に十分書き込まれてこなかったことでした。

近代美術の外ではなく内部から書き換える

Araeenが問うたのは、非西洋の文化を新しく発見することではなく、イギリスの近代美術自体が誰によって作られてきたのかという問題でした。展覧会にはFrank Bowling、Sonia Boyce、Mona Hatoum、Lubaina Himid、Keith Piper、F.N. Souza、David Medallaらが含まれ、抽象、絵画、写真、インスタレーション、政治的実践など多様な作品が並びました。

移民やディアスポラの作家を「民族的な別枠」へ分離するのではなく、モダニズムや戦後美術の内部に位置づけ直すこと。これは美術館の展示だけでなく、美術史の文章そのものを変える要求でした。

四つの章で語り直された戦後美術

《The Other Story》は「In the Citadel of Modernism」「Taking the Bull by the Horns」「Confronting the System」「Recovering Cultural Metaphors」という四つの章で構成されました。これは単に出身地域別に作家を並べる方式ではありません。

誰がモダニズムの内部で活動し、誰が制度と対立し、誰が文化的記憶を再構成したのかという歴史的な関係から作品を読み直しました。地域名だけでは説明できない個別の制作史を示そうとした点で、国際展の別のモデルを提示しています。

《The Other Story》にも限界はあった

この展覧会も完全な解答ではありません。Hayward Galleryの資料は、24人の参加作家のうち女性が4人だけだったことが批判されたと記録しています。人種的な排除を問い直す展覧会であっても、ジェンダーの不均衡を免れるわけではありません。

一つの周縁化を可視化すると、別の周縁化が見えてくる。1990年代以降の展覧会は、人種、ジェンダー、階級、セクシュアリティ、国籍を単独で扱うのではなく、それらが交差する条件を考える方向へ進んでいきます。

1989年 第3回ハバナ・ビエンナーレ

パリやロンドンとは別の位置から国際美術展を再編したのが、1989年の第3回ハバナ・ビエンナーレです。ハバナ・ビエンナーレは1984年にラテンアメリカとカリブ海地域を中心として始まり、1986年の第2回からアフリカ、アジア、中東へ対象を広げました。

第3回は《Tradición y Contemporaneidad(伝統と同時代性)》を掲げ、1989年10月末から12月にかけてハバナ各所で開催されました。Afterallは、この回が現代美術の世界的な領域を拡張し、ビエンナーレという形式そのものを再定義した重要な展覧会だったと位置づけています。

西欧美術界を中心に置かない国際展

ハバナの重要性は、欧米の美術館が「世界から作品を集めた」こととは異なります。運営主体であるCentro Wifredo Lamは、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの作家同士が直接出会い、それぞれの地域に共通する問題を議論する場を作ろうとしました。

1989年のカタログ序文でLlilian Llanes Godoyは、工業化された国々の美術制度やメディアが第三世界の現代美術を周縁化してきたことを問題にし、ハバナをそれらの地域の美術が相互に知識を共有する場にしようと述べています。ここでは「中心に認めてもらう」ことだけが目的ではありません。

国別パビリオンを離れる

第3回ハバナ・ビエンナーレでは、国家ごとに競う国際展とは異なる方向が模索されました。後年の研究では、国別パビリオンや賞を中心とする構造から距離を取り、複数のテーマ、展示、討論、ワークショップを組み合わせた点が重要視されています。

国家を代表する「一国一作家」という考え方では、国内の多様性や移動する作家を捉えにくくなります。国名ではなく、伝統と現代、都市、政治、社会、文化交流といった問題の関係から作品を組み立てる方式は、後の国際展に大きな影響を与えました。

都市全体を展覧会の場にする

第3回ハバナ・ビエンナーレは一つの美術館建築だけで完結しませんでした。Centro Wifredo Lamや美術館に加え、旧市街の複数会場、街路でのワークショップなどが組み込まれました。Afterallの記録には、Old Havanaの路上で行われた版画ワークショップの写真も残っています。

展覧会を見るために一つの建物へ入るのではなく、都市を移動しながら複数の作品や活動に接する。この形式は1990年代以降のビエンナーレで一般化していきます。都市そのものが展示装置になっていきました。

ハバナの実践を理想化しない

一方、ハバナ・ビエンナーレを「西洋に対抗する完全に自由な南の展覧会」と理想化することもできません。キューバは社会主義国家であり、文化制度と国家政策の関係、国内作家と当局の緊張、経済的制約といった固有の条件がありました。

重要なのは、欧米中心主義への批判があるからといって、その外部が自動的に権力から自由になるわけではないということです。国際美術の地図は複数の権力関係が重なる場として見る必要があります。

パリ、ロンドン、ハバナは同じ答えではない

1989年の三つの重要な展覧会を一つの物語にまとめすぎないことが大切です。《Magiciens de la Terre》はフランスの大規模美術館が世界各地へ視野を広げる試み、《The Other Story》はイギリス美術史内部の排除を可視化する試み、第3回ハバナ・ビエンナーレはグローバル・サウス内部の国際的な接続を作る試みでした。

どれも「世界の美術」を扱いましたが、誰が語るのか、どこから語るのかが異なります。この差異を保ったまま比較することが、1990年代のグローバル化を理解する鍵になります。

1990年代、ビエンナーレが増えていく

1990年代には、ヴェネツィアやサンパウロだけではなく、世界各地の都市で現代美術の国際展が新設・拡張されました。イスタンブール、ダカール、光州、ヨハネスブルグなどが、それぞれ異なる歴史と目的を持ちながら国際的な美術ネットワークへ入っていきます。

この現象はしばしば「ビエンナーレ化」と呼ばれます。美術館の常設コレクションではなく、一定期間だけ都市に出現する大規模展覧会が、新しい作家や地域を国際美術界へ接続する重要な装置になりました。

Istanbul Biennial — ヨーロッパとアジアの交差点

Istanbul Biennialはİstanbul Foundation for Culture and Arts(İKSV)によって1987年に開始されました。公式記録によれば、1987年と1989年の最初の二回はBeral Madraが総合調整を担当し、1992年の第3回以降、単独キュレーターによる概念的な構成へと移行していきます。

国家別パビリオンではなく、キュレーターがテーマを設定して国際的な作家を招く方式を早い段階から採用した点が重要です。イスタンブールという都市の歴史的・地理的位置そのものが、東西という単純な二分法を問い直す場所になりました。

1995年《ORIENT/ATION》

1995年の第4回Istanbul BiennialはRené Blockのもと、《ORIENT/ATION–The Vision of Art in a Paradoxical World》を掲げました。公式の作家一覧にはMona Hatoum、Ghada Amer、Shirin Neshat、William Kentridge、Kcho、Montien Boonma、Anish Kapoor、Nam June Paik、Rachel Whitereadなど、多様な地域を背景に持つ作家が並んでいます。

ここでも重要なのは国籍の数ではありません。移住、宗教、政治、都市、歴史的記憶など、単一の国家文化では説明できない実践が同じ展覧会へ集まっていることです。

Dak’Art — アフリカから現代アフリカ美術を組織する

セネガルのDak’Artも、1990年代の国際美術地図を考えるうえで重要です。セネガル文化省の記録によれば、1989年に制度化され、1990年は文学、1992年に視覚芸術の回が行われ、1996年から現代アフリカ美術を中心とするビエンナーレとして明確化されました。

欧米の美術館が「アフリカ美術」を選ぶのではなく、アフリカ大陸内部の制度が作家、批評家、キュレーター、観客を結びつけるプラットフォームを作ること。その意味でDak’Artは、展覧会の地理だけでなく、誰が評価の回路を組織するのかを変える試みでした。

1966年のダカールから続く文化政策

Dak’Artは突然生まれたものではありません。セネガル文化省は、その背景として1966年にLéopold Sédar Senghor政権下のダカールで開催されたWorld Festival of Black Artsなど、独立後のアフリカにおける文化的な国際交流の歴史を挙げています。

したがって1990年代の「グローバル化」を欧米の美術界が始めたと考えることはできません。アフリカ、アジア、ラテンアメリカには、それ以前から独自の国際交流、汎アフリカ主義、第三世界主義、文化政策の歴史がありました。

1995年 第1回光州ビエンナーレ

1995年9月20日から11月20日まで、韓国で第1回Gwangju Biennaleが開催されました。公式記録では49か国から87人の作家が参加し、主題は《Beyond the Borders(境界を越えて)》でした。

西欧・東欧、北米、南米、アジア、中東・アフリカ、韓国・オセアニアという地域別の構成も採られ、世界の現代美術を大きな地理的視野から見せようとしました。アジアで大規模な国際現代美術展が制度化されていく象徴的な出来事です。

光州民主化運動の記憶と国際展

光州ビエンナーレは単なる都市の観光イベントとして始まったわけではありません。財団の公式資料は、1980年の5・18光州民主化運動と市民蜂起の記憶を背景に、1995年に創設されたと説明しています。

第1回では民主化運動の犠牲者とその精神を扱う特別展も組まれました。国際的な現代美術と地域固有の政治的記憶を結びつけることで、「世界へ開くこと」と「土地の歴史を語ること」が同時に試みられています。

「境界を越える」という理念と分類の矛盾

《Beyond the Borders》は国家、民族、イデオロギー、宗教、人種などの境界を越えることを掲げました。しかし実際の展示には地域別の区分も残っています。ここには1990年代の国際展が抱えた典型的な矛盾があります。

世界を公平に紹介しようとすると、まず地域を分類する必要が生じます。しかし分類すれば、「アジア」「アフリカ」「ヨーロッパ」が一枚岩であるかのように見える危険があります。国際展は境界をなくそうとしながら、同時に境界を作り直す装置でもあります。

1995年 Johannesburg Biennale

同じ1995年、南アフリカでは第1回Johannesburg Biennale《Africus》が開催されました。これはアパルトヘイト終結後の新しい南アフリカが、長い文化的孤立から国際的な美術交流へ再接続しようとした時期と重なります。

国際展を開催することは、新しい国家像を示す文化政策でもありました。しかしその後の展開は、単なる国家PRには収まりません。第2回ではOkwui Enwezorが芸術監督となり、国別代表制そのものを問い直す構成へ進みます。

1997年《Trade Routes: History and Geography》

1997年の第2回Johannesburg Biennaleは《Trade Routes: History and Geography》と題され、Okwui Enwezorが芸術監督を務めました。Felix Gonzalez-Torres Foundationに残る当時の公式資料によれば、この回では国別パビリオンを設けず、Hou Hanru、Kellie Jones、Yu Yeon Kim、Gerardo Mosquera、Colin Richards、Octavio Zayaという国際的なキュレーターと協働して複数の展覧会を構成しました。

MoMAの後年の資料では160人の作家、63か国が参加したと記録されています。ここで「世界」は国旗を並べる方式ではなく、歴史的な交易、移動、植民地主義、地理、都市の関係として捉え直されました。

Okwui Enwezorとキュレーションの転換

Enwezorの重要性は、アフリカの作家を国際展へ増やしたことだけではありません。展覧会そのものを、複数の地域の歴史を接続する批評的な装置として扱いました。後にdocumenta 11へつながる方法ですが、その重要な試みが1997年のJohannesburgにすでに現れています。

一人の中心的キュレーターが「世界を代表する作家一覧」を作るのではなく、複数のキュレーターが異なる地域や視点から同じ主題へ関わる。こうした分散型の構成は、グローバル展の権力を完全に解消するものではありませんが、単一の中心から世界を見るモデルを揺さぶりました。

交易路として世界を見る

《Trade Routes》という題名は、地理を固定した国境の一覧としてではなく、人、物、資本、言語、宗教、イメージが移動してきた経路として見ることを示しています。植民地支配も交易の歴史と切り離せず、現代のグローバル経済も過去の移動経路の上に築かれています。

この視点では、作家の国籍だけを見ても足りません。どこで生まれ、どこへ移住し、どの言語圏で学び、どの制度を通じて作品が流通したのかが作品の背景になります。

重要なビエンナーレが続かなかったという事実

Johannesburg Biennaleは1997年の第2回を最後に継続しませんでした。大規模国際展が増える時代であっても、すべての都市が同じ資金力や制度基盤を持つわけではありません。

この事実は、グローバル化を成功物語として描くことへの注意を促します。国際展を開催するには輸送、保険、渡航、会場、出版、通訳、広報など大きな資源が必要です。「世界へ開く」こと自体が経済的に不均等な条件の上にあります。

キュレーターが展覧会の作者に近づく

1990年代にはキュレーターの役割も変わります。作品を集めて並べる管理者ではなく、主題を設定し、異なる地域や歴史を結び、展覧会全体で一つの議論を作る人物として注目されるようになります。

ハバナ、イスタンブール、ヨハネスブルグなどで、国別代表制からテーマ型の国際展へ移ると、キュレーターの判断はさらに大きな意味を持ちます。誰を選び、誰を外し、どの作品を隣に置くかによって、「世界の現代美術」の見え方が変わるからです。

キュレーターの権力も批判対象になる

キュレーターの役割が強くなるほど、新しい問題も生まれます。一つの展覧会の理論へ作品を従属させてしまわないか、地域固有の歴史を短い解説へ圧縮しないか、国際展を巡回する一部の作家だけが「世界代表」のようにならないかという問題です。

1990年代のグローバル展は、中心を解体する一方で、新しい中心を作る危険も抱えていました。巨大ビエンナーレのキュレーター、欧米の美術館、国際ギャラリー、財団、雑誌が、新しい可視性の回路を作っていきます。

作家を国籍の代表にしない

国際展では長く「フランス代表」「日本代表」のような国家単位の紹介が行われてきました。しかし移民、亡命、留学、複数拠点で活動する作家が増えると、その方式では実態を捉えにくくなります。

Mona Hatoum、Shirin Neshat、Huang Yong Ping、Rirkrit Tiravanijaなど、1990年代に国際的な展覧会を横断していく作家の制作は、単一の国民文化だけで説明できません。移動そのもの、異なる社会の間で生じる距離、翻訳、違和感が作品の重要な条件になります。

ディアスポラという位置

この時期には「どこから来たか」だけでなく、「どこに住み、複数の場所とどのような関係を持っているか」が重要になります。植民地支配、労働移民、戦争、教育、政治的亡命などによって、多くの作家が複数の文化圏をまたいで生活してきました。

ディアスポラの作家は二つの文化の中間にいる「半分の存在」ではありません。複数の場所を同時に見る位置から、国家文化が一枚岩ではないことを示します。《The Other Story》が戦後イギリス美術の内部を問い直したことも、この問題とつながります。

1990年代後半、アジアの現代美術が国際展の中心へ

1990年代後半には、中国、韓国、日本、東南アジアなどの現代美術が国際的な大規模展で急速に可視化されます。ただし「アジア美術」という名称も非常に広く、歴史、政治体制、宗教、経済状況の異なる地域を一つにまとめる危険があります。

そのため重要な展覧会では、地域文化を一つの特徴で説明するのではなく、急速な都市化、社会主義と市場経済、移住、新しいメディア、建築、消費文化など、変化する社会状況と作品の関係を扱うようになります。

1998年《Inside Out: New Chinese Art》

1998年、Asia Society GalleriesとP.S.1 Contemporary Art Centerなどで《Inside Out: New Chinese Art》が開催されました。MoMAの記録では、中国本土、香港、台湾、そして1980年代末以降に国外へ移った中国系作家を含み、1985年から1998年までの80点以上の作品を紹介した展覧会です。

中国という国家の内部だけに現代美術を限定せず、「Chinese world」の複数の社会と移動する作家を扱った点が重要でした。油彩だけでなく、インスタレーション、パフォーマンス、映像など、新しい形式も広く紹介されました。

「中国美術」を国境の外まで考える

《Inside Out》のカタログには「transnational modernity」という表現が使われています。香港返還、台湾の政治変化、中国本土の改革開放、国外移住など、同じ「中国」という言葉の中に複数の政治的・文化的条件が存在するからです。

この視点は、地域美術を国籍で整理する従来の方法から一歩進んでいます。現代美術の地図が国家地図と一致しないことが、1990年代にますます明確になりました。

1997年から《Cities on the Move》

Hou HanruとHans Ulrich Obristが企画した《Cities on the Move》は、1997年にウィーンのSecessionで始まり、その後Bordeaux、New York、London、Helsinki、Bangkokなどへ展開しました。MoMA PS1は、この展覧会をアジア都市の急速な近代化、グローバル化、新技術、人口増加、経済危機を扱う国際プロジェクトとして紹介しています。

ここでは「アジアらしい伝統」を集めるのではなく、都市が変化する速度そのものが主題になります。美術だけでなく建築、都市計画、映像、デザインを交差させ、現代都市の状況を複数の分野から捉えました。

移動する展覧会が毎回形を変える

《Cities on the Move》は、一つの完成した展覧会をそのまま各都市へ輸送する方式ではありませんでした。開催地ごとに内容や空間構成が変化し、都市との関係から展覧会そのものが更新されました。

この方法は、グローバル展の重要な問題への一つの回答です。世界中で同じ展示を再現するのではなく、その土地の空間、観客、都市状況に合わせて展覧会を作り替える。作品だけでなく展覧会自体が移動と翻訳を経験します。

都市化を現代美術の条件として見る

1990年代のアジアでは、巨大都市の拡張、再開発、人口移動、通信技術、消費文化が急速に進みました。作家は伝統と西洋化の二択ではなく、高層建築、交通、広告、仮設住宅、再開発、インターネットなど、都市の変化の中で制作します。

《Cities on the Move》は、アジアを「古い文化の保存場所」と見る眼差しを反転させました。むしろ未来的で過剰な速度を持つ都市圏として見せることで、西洋を近代の中心、アジアを伝統の側に置く時間軸を崩します。

1999年《Global Conceptualism》

1999年、Queens Museum of Artでは《Global Conceptualism: Points of Origin, 1950s–1980s》が開催されました。この展覧会が重要なのは、1990年代の新しい作家を紹介するのではなく、過去のコンセプチュアル・アートの歴史そのものを世界的な視野から書き直そうとしたことです。

Queens Museumの公式記録にはアフリカ、アジア、東欧、西欧、ラテンアメリカ、北米、旧ソ連、オーストラリア・ニュージーランドなど各地域の作家が並びます。展覧会は「コンセプチュアル・アートが欧米で発明され、その後世界へ広がった」という単線的な歴史観を問い、各地域の政治的・社会的条件から独自に生まれた概念的実践を並置しました。

現代の地図だけでなく過去の美術史も変わる

グローバル化によって変わったのは、1990年代の現役作家の名簿だけではありません。新しい地域の作品を見ることで、「なぜこれまでこの作家は美術史に書かれていなかったのか」という問いが生まれます。

《The Other Story》や《Global Conceptualism》はその典型です。既存の正史へ新しい作家を追加するだけではなく、モダニズムやコンセプチュアル・アートそのものが複数の場所で異なる条件から形成されていた可能性を示しました。美術史は中心から周辺へ影響が伝わる一方向の図では説明しにくくなります。

「遅れている地域」という考え方を崩す

従来の近代化モデルでは、欧米が先に新しい様式を生み、それ以外の地域が後から追随するという時間差が想定されることがありました。しかしグローバルな美術史研究が進むと、似た問題意識が別々の地域で同時期に生まれていたことや、情報が複雑な経路で往復していたことが見えてきます。

同じ形式が使われていても、その意味は地域によって異なります。言語、検閲、独裁、植民地支配、民主化運動、急速な都市化など、それぞれの条件が作品に別の役割を与えるからです。

市場も世界化する

国際展が増えると、作家の作品は美術館だけでなくギャラリー、コレクター、アートフェア、オークションを通じて国境を越えて流通するようになります。ビエンナーレで発見された作家が国際ギャラリーに参加し、別の国際展へ招かれるという回路も強まります。

しかし文化的な可視性と経済的な利益は同じではありません。ある地域が「新しい市場」として注目されることで、作家が短期間に消費される危険もあります。グローバル化した美術界では、美術史的評価と市場の拡張が接近しながらも一致しない状態が続きます。

作品より先にインフラの差がある

国際展へ参加するには作品制作だけでは足りません。パスポートやビザ、航空運賃、輸送会社、保険、翻訳者、カタログ制作、インターネットや郵便、現地のギャラリーや美術館など、多数のインフラが必要です。

そのため「才能があれば世界中から同じように発見される」という状態にはなりません。どの都市に美術学校や展示空間があり、誰が海外へ移動でき、どの言語で情報が流通するのかが、作家の可視性を左右します。グローバル化はこの不均衡を消すのではなく、新しい形で可視化しました。

翻訳が作品の一部になる

複数の言語圏を横断する展覧会では、作品名、壁文、カタログ、インタビューを翻訳する必要があります。しかし翻訳は単純な置き換えではありません。ある社会では明白な歴史的事件や宗教的記号が、別の社会では説明なしに理解されない場合があります。

国際展は作品を移動させるだけでなく、意味を別の文化へ移動させる場です。何を説明し、何を説明しないか、どの言葉を原語のまま残すかという判断も、作品の受容を変えます。

美術館のコレクションも問い直される

国際展で世界各地の作家が可視化されると、美術館の常設コレクションとの落差が明確になります。企画展では多様な地域を紹介していても、収蔵品の中心が欧米の男性作家に偏っているなら、美術館の歴史叙述は変わっていないことになります。

1990年代以降、美術館にとって「グローバル」は一時的な展覧会テーマではなく、収集方針、研究、教育、職員構成、展示史を長期的に見直す課題になります。

「多様な作家を入れる」だけでは終わらない

グローバル化を単純な包摂の物語として理解すると、「これまで外されていた地域の作家を既存の美術館へ入れればよい」という結論になりがちです。しかし《The Other Story》やハバナ・ビエンナーレが示したのは、既存の中心へ参加することだけが目的ではないということでした。

何をモダニズムと呼ぶのか、何を現代美術と呼ぶのか、どの地域の制度が価値判断を行うのか。その分類と権威の構造自体を変える必要があります。

グローバル化は平等化ではない

1990年代に国際展が増えたからといって、美術界が地理的に平等になったわけではありません。主要市場、資金、出版社、メディア、コレクションの多くは依然として限られた都市へ集中していました。

また、国際展が地域の複雑さを理解する前に「次に注目すべき国」を探す装置になることもあります。新しい中心と周縁が別の形で作られる可能性は常に残りました。

世界が広がるほど、分類の問題も増える

現代美術の地図が広がること自体は大きな変化でした。しかし対象が広がるほど、キュレーターや美術館は作品を理解するための分類を必要とします。「アフリカ美術」「アジア美術」「ラテンアメリカ美術」という呼び名は便利ですが、内部の差異を隠すことがあります。

一方で、地域名をすべて消してしまえば、植民地主義や人種差別、国家政策など具体的な歴史条件まで見えなくなります。1990年代以降の課題は、地域差を認識しながら、それを固定的な本質として扱わないことでした。

「現代」という言葉の意味が変わる

「現代美術」は単に現在作られている美術という意味だけではありません。1990年代以降、それは複数の地域が同じ時間を共有しながら、それぞれ異なる歴史を持つ状態をどう扱うかという概念になっていきます。

西洋の新しい様式を世界が順番に受け取るモデルではなく、異なる場所から同時に作品、議論、展覧会が発生する。その複数性こそが、現在の現代美術を特徴づける条件になりました。

1989–2000年に何が変わったのか

1989年、《Magiciens de la Terre》は西洋と非西洋を同じ現代美術展に置こうとし、その大胆さと同時に、誰が「非西洋」を選ぶのかという問題を露呈させました。《The Other Story》は、アフリカ、アジア、カリブ系の作家が戦後イギリス美術の外部にいたのではなく、正史から見えにくくされてきたことを示しました。第3回ハバナ・ビエンナーレは、欧米を中心に置かず、グローバル・サウスの地域同士が接続する国際展のモデルを提示しました。

1990年代半ばにはIstanbul、Dak’Art、Gwangju、Johannesburgなど、異なる歴史を持つ都市が独自の国際展を育てます。1997年《Trade Routes》は国別パビリオンを離れて複数のキュレーターによる構成を行い、《Cities on the Move》は急速に変化するアジア都市を移動型の展覧会として扱いました。1999年《Global Conceptualism》は、現代の作家選びだけでなく、20世紀美術史そのものを複数の起点から書き直そうとしました。

この十年で変わったのは「世界各地の作家が有名になった」ことだけではありません。どこを中心として美術史を書くのか、国籍で作家を整理できるのか、キュレーターは何を代表できるのか、美術館は誰を収蔵してきたのかという制度全体の問いが、現代美術の中心へ入ってきました。

2000年代へ — グローバルな制度はさらに拡大する

2000年代に入ると、この動きはさらに大きくなります。国際ビエンナーレの数は増え、Okwui Enwezorによるdocumenta 11のように、展覧会そのものを複数都市の議論と結びつける試みも登場します。同時に、グローバル美術市場も拡大し、新しい美術館、アートフェア、コレクターが各地域で形成されます。

しかし「世界中の美術が一つの市場と制度へ統合された」という理解では不十分です。中心と周縁、資本、移動、言語、植民地史をめぐる不均衡は残り続けます。グローバル化は問題を解決したのではなく、問題を世界規模で可視化したのです。

次の時代へ — Relational Aestheticsと1990年代の参加型美術

国際展が世界各地へ広がった同じ1990年代、作品そのものの形も変化していました。固定された物体を鑑賞する代わりに、食事、会話、共同作業、一時的な場、人と人の関係そのものを作品として扱う実践が注目されます。

次の記事では、1990–2002|Relational Aestheticsと参加型美術 — Rirkrit Tiravanija、Pierre Huyghe、Liam Gillick、Nicolas Bourriaudとして、1990年代に「作品を見る」ことから「状況へ参加する」ことへ何が変わったのか、そしてその考え方が受けた批判までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、美術館、ビエンナーレ主催組織、政府文化機関、大学・研究機関、展覧会アーカイブ等を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。「グローバル化」を、西欧美術が一方向に世界へ拡大した過程としてではなく、各地域で以前から存在した国際的な文化活動、植民地支配後の歴史、移民・ディアスポラ、ビエンナーレ制度、キュレーション、美術市場が相互に作用した変化として扱っています。また《Magiciens de la Terre》については、後世の画期的評価と同時代から続く批判の双方を扱い、ハバナ、ダカール、光州、ヨハネスブルグ等を単なる「周辺地域の追随」として位置づけないよう留意しています。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY